昭和生まれの男の、どうってことない話 1

中学を卒業後、家を出た大江田は、都内の料亭で板前修行をしたのち今では小さいながらも自分の店を持てた。なぜこの職を選んだのか、といえば、早く家を出たかった、それだけの理由だった。
だから、どうしてもなりたい職ではなかった。
住み込みをして修行し15年働き一人前という厳しさだったが、大江田の家庭環境に比べたら天国だった。
今は大江田のように中卒で板前修行などゼロに近いほどないが、昭和の時代にはまだあった。
当時の同期も大江田同様忍耐強かったが、それでも厳しさに堪え兼ね次々と辞めてゆき気付けば大江田一人になった。良いか悪いかは別として、そういう厳しさが昭和にはあった。

黙々と働く大江田を気に入った板長が見合い話を持ってきて、流れるように話が進み結婚し息子も授かった。妻はおっとりとした性格で、大江田と違い健全な家庭で育った娘で、世の中には根っからの悪人など存在しないという考えの持ち主で、妻の両親も似た考えの善良な人だった。
だから一度も顔を出さない生きているのか死んでいるのか分からないような大江田の両親についても、色々と事情があるのだろう、と関与しなかったはずだったが、
思うところがあったのか突然妻が、

「あなたの家庭事情もあるでしょうけど、老後のこともあるから、一度ぐらいはご両親と話し合いをしてみて」
などと言いだした。
大江田はずんぐりとした体型からの出っ腹をさすり、
「うーん、そうだな。いつかな」と、のらりくらりとかわしていたが、息子が大きくなったら何て説明するの? と意見され渋々と承知したのだった。

大江田の実家はラブホテルで、今ではカップルズホテルというのか、営んでいる。そこに数日前に偽名で予約の電話を入れた。偽名で予約し会い、親が大江田を憶えていたら話し合おうという考えからだった。
電話の向こうで低いダミ声の母が、「うちはもう営業しておりませんが」と無愛想にいわれたが、
昔、彼女とそちらに泊まったことがあり、その彼女が亡くなり思い出に浸りたくなった、料金ははずみます、という気持ち悪いホラ話をすると承諾してくれた。未だに強欲な女だと大江田は苦笑した。

中央本線の駅を降りタクシーで山路を登ると林の間には積雪が僅かに残っているのが見えた。
木造二階建ての廃墟寸前のホテルに着いたのは、西陽が斜めにさす時間帯だった。



つづく

昭和生まれの男の、どうってことない話 1

昭和生まれの男の、どうってことない話 1

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-16

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