湖上がゆれた日
公園の奥にある柵を乗り越えれば湖が手に届く所にある。腰を屈めて手を伸ばしたら水を掬いあげることができる。その湖は、水道水とは決して違うものであるということに胸を張り、威風堂々と巨体を公園の先に横たわらせている。
家の玄関をくぐると、公園はすぐ見える場所にある。柳の木が気だるげに葉を垂らしていて、あまり活気はない。住人がそんなものだから、客としても気合い一つ入れようとは思えない。それでも、その無気力さが気に入られるのか、学校帰りに、仕事帰りに、または散歩で人が集まってくるのだから不思議だ。
公園は、家から出ずに窓から見ることもできる。
朝、目を覚まして起き出した時にカーテンをすこし横にずらしたら、犬を連れてたり、鞄を持ってたりする人が柳の葉にもてなされている。休みの日なんかは、足音や話し声が雀の鳴き声をかき消してしまうぐらいに人が居る。昼間は日光浴に犬猫が来たり、年配者が来たり。夜は月光浴にカップルが来たり、詩人が来たり。
もちろん、雨の日も変わらない。やはり沢山の人が出入りする。曇りの日も、雪の日も、地震や火事が起きた時も、きっと誰かが来る。
好かれているのかもしれないし、嫌われていないだけかもしれない。ただ、誰がいつ来ても、顔を垂れた柳が面倒くさそうにしながら迎えるのだ。
柳が寒さに揺れだしたのが、ちょうど秋の十五夜を跨いだ頃になる。暦を数えることをせずに肌で冬の足が近いことを知ったのかもしれない。いつもは力を抜いてふらふらしてる柳の葉に、あまり似つかない緊張のようなものが見てとれた。湖から風が吹いてくると、身体を震わせて、冬は苦手なのだと呟くようだった。
私がこの地に引っ越して来たのは、夏休みが終わろうとしていた時だ。愛着のあった町に、両手で足りるほどの友情を残して、やって来た。
生活に追われる間は気にならなかったことが、寒さに呼び起こされる。柳が寒さを訴えだした時には、私は欠けてしまった感情をさすりながら「寒いなあ」と声を揃えていた。
私は気まぐれに湖の傍らで水を掬った。夏は泳げそうなほどだったはずなのに、手の平で揺れる水面は氷を持った時のような鋭い冷たさで、いよいよ寒さが増したように感じた。
学校からの帰宅途中、家にはまだ帰っていない。下ろしたての制服に渇いた草が張りついているのがわかる。座り込んでいる。
ゆっくりと波立つ湖。どこからともなく波紋が生まれては消え、水面が揺れる。視界の隅で、湖上から鳥が飛び立つ。新しい波紋が生まれる様子を想像し、水面と同じように私は揺らいだ。
──帰りたい。
誰にも言えなかった言葉が、湖の表面をまた波立たせた。
些細な変化だと言えば、そうなのかもしれない。起きる時間が早くなった。通学路が風景ごと変わった。学校は教室の配置が入れ替わった。顔ぶれが見慣れない人達になった。町を、遠くに感じられるようになった。
大きな道を外れた脇道を抜けていった時、そこがどこに繋がっているのか分からない。どこに誰の家があって、何の店があるのか分からない。踏み入れることが出来なかった。
曲がり角を越せば、そこは知らない場所で、好奇心よりも恐怖心の方が優に勝った。
家も外見が違った。玄関の前に立って、ふいに、本当にこれが私の家だろうかと疑わしくなる。玄関扉を開けて中に入ると、やはり違うことを知ってしまう。私にあてがわれた部屋も、異国の一室だった。
帰りたかった。どこでもいい、私が安心できる場所へ。
駅までの道のり、何度も迷った。適当な当たりをつけて歩くだけではどうにもならず、看板や道端に設置されている地図を見ながらなんとかたどり着く。私の知っている駅とはまったく規模が違い、見つけた時は茫然自失になってしまった。
券売機の前まで着いたら、今度はどこまでの乗車券を買えば良いのかわからない。後ろに人が並んでいる。お金を入れても、指は動かない。心臓が早鐘を鳴らし続けて、とうとう耐えられなくなった。駆け出していた。
バスターミナルにまで来た。疲れたわけでもないのに息が上がった。
ちょうど、一台のバスが乗車扉を閉じようとしている所だった。
「お客さん、乗るんですか?」
スピーカーを通した声が響く。驚いて反応出来なかった。黙ったままでいると、アラーム音と共に扉が閉まり、バスは私を置いて発進した。
再び安堵する。そして、バスに乗って私が知らない場所に行こうとする人達を見送った。
今は何時ぐらいになるのだろう。学校を出てからずいぶんと経っている。部活にも入っていない私だ。早く家に帰らないと母や父が、妹が心配するかもしれない。
帰りたいと思うのに、足はどちらにも向かない。
情けなくなってきた。泣きそうになった。惨めだった。こうやって私が立ち止まっている時にも、周りに居る人は足を止めずに歩いていく。それは真っすぐに続く一本道で、もう通り過ぎた所には誰も戻って来ない。私だけが取り残されてしまう。
「……帰ろう」
明日も学校がある。迷っている暇なんてない。
出られないのだ。例え、籠の蓋が開いていたとしても、外の世界には出られない。足に錘がついているわけでも、羽ばたけないわけでもないのに、私は飛ぶことなんて出来ない。籠の中に居ながら、外に憧れるだけしか出来ない。
うつむいた視線に影が見える。私のようで、私とは違うような気もする。私が一歩を踏みだすと、影も追いかけてきた。街路樹が落とす枯れ葉を避けながら、覚束ない足取りで歩きはじめる。見慣れない道を。
来た道をもどるだけのはずなのに、目につくものに既視感を覚えることはない。目新しさに喜びはない。ただ疎外感だけが広がる。新調された制服が、歩くたびに重さを増していく。
翌日、学校が終わると、また公園に居た。ここだけは私を置いていかないという根拠のない依り所に浮かされていた。
すり抜けていく風に促されて、私は木にもたれかかり空を見上げる。空を知る。広すぎて嫌になる。それが全てだ。
埋めて欲しいと思う。公園を見守る柳のように、物言わぬ像となって、動かず、そこから見える景色だけを眺め朽ちてゆきたい。知らなければいけないことなんて要らない。全部、捨ててしまいたい。
そこまで思うほど、学校に居るのは苦痛だった。
十月も半ばになり、今、学校では十一月に行われる文化祭を控えている。クラスメートだけでなく、学校総揚げで盛りあがりをみせている。地域的にも熱がこもっている行事であるということを担任がしきりに強調していた。クラスの皆は手を取り合って出し物の準備に取りかかっている。クラスメートは私にも声を掛けて一緒にやろうと手を引く。私は頷くことも首を振ることも出来ないまま、引きずられる。
一緒にやりたくないわけじゃない。けれど、そこには壁がある。水蒸気が氷に変わってしまうような鏡の壁。冷めた目の私が、引きずられていく私を見ている。
上手く笑えているだろうかと不安になる。それは、意識して作られたものなのだと私だけしか知らない。皆と一緒に作業をしている自分が、本当に溶け込めているのか知るすべがない。
受け入れるということは、同化しなければならないということだ。きっと私は居なくなる。私は私で居られなくなる。作られた私はこの町での私だ。取って代わられた時、やっとすべての違和感がなくなるかもしれない。言い聞かせ、頷く。目を閉じる。なにも見えなくなる。そして、唯一の答えはそこにあるのだと思うと、たまらなく悲しくなった。
家に居ても気分は晴れない。私の周囲だけ、薄暗いままだ。
「お姉ちゃん」
五つ下の妹は、上手く舌が回らない。舌足らずな声が自室に行こうとしていた私を呼び止める。甘えるような声音が、癪にさわる。脳天気な顔が苛々させる。なにが楽しくて、へらへらと笑っているのか。
「……なに?」
まだ十にも満たない子だから、傷悴している私の様子に気がつくほどの思慮が足らないのは仕方ないことかもしれない。冷静な部分の私はまだ残っていた。
疑問の返答に、小さな手が差し出された。妹の手にはカラフルな小物が散らばっていた。おはじきやビー玉、ビーズ、統一感がないそれらは、めまぐるしい光彩を放っている。妹は満面だと思える笑みで言う。
「きれいでしょ」
意味を理解出来ない言葉だった。
途端に泣かしてやりたいと思った。
私は妹の手を強く払う。妹の笑みが凍りつく。妹の手に乗せられていたはずのきれいなものは廊下に叩きつけられていた。
部屋に行き、扉を閉める。
じっとしていると、やがて泣き声が聴こえてきた。子供らしくない、むせび泣く声だった。いつも大声で泣きわめく妹は、喉に息を詰まらせているようにしていた。爽快さなど得られなかった。
少しして、誰かが慌てて階段を昇って来る音が伝わった。扉につけていた背を引き剥がし、ベッドに倒れ込む。手の甲が痛む。うつ伏せたまま顔の前にまでもってくる。じわりと赤くなっていた。きれいなものが四散した時の音が思い返された。
しばらく経ってもノックはない。ドアノブが回されることもない。夜は当て所もなく深まりだす。
眠りに落ちたことに気づくこともなかった。朝の陽光が洩れ入り、目を覚ました。妙な姿勢で眠ってしまったからか、体が痛い。普段よりいくぶん重い頭を振りながら閉じがちな目を意識して開く。
ふいに手のことを思い出す。手の甲を上向かせると、跡はもう消えていた。
自室の扉を外側に開くと、右手に妹の部屋の扉が見える。閉じられている。まだ学校に行くには早過ぎる時間に、私は鞄を持って階段を降りた。
一階廊下ではリビングからニュースの無機質な声が聞こえていた。そのまま玄関に向かう途中、壁際に光を反射するものを見つける。硝子のようなもの。近づいて身を屈め、それがビー玉だとわかる。
昨日、妹が持っていたものだろう。ここまで転がり落ちて来たのか。
マーブル模様のビー玉は透き通ったものではなかったけれど、手にとって目を凝らした。球のなかでひしめき合う幾重の色。振ってみても、内包された色が変化することはない。
拾ったビー玉を制服スカートに放り込む。
「いってきます」
いつもより早い時間の空気の色は透き通ったままで、私を拒むことはしなかった。混ざりきってしまったのだろうか。違和感は消えているようだった。
八時前に学校へと着く。通学路で見かけた同じ制服の後ろ姿は、昇降口にまで着くとなくなっていた。たびたび、見えない場所から、思い出したように鳴る足音と笑い声が廊下を走り抜けていく中、私は、決められた教室に向かう。数人のクラスメートが、入口を抜けた私に気づく。おはよう、と、どちらからともなく声が行き交う。
八時をすこし過ぎた頃、私はぎこちなくクラスメートの応対をしていた。
「転校生の子いるー?」
私と話していた女の子が不思議そうに、入口扉を見やる。私には最初、転校生という言葉が誰のことを指しているのか分からなかった。
私の近くに居た子が「いるよー」と答える。
「あっ、おはよー」
私の姿を認めると、知らない子が私に向かって手を振った。私の席にまで近寄って来る。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
「うん、どうしたの」
「二日前かな。駅に行ったりした?」
「……え」
疑わしい視線でも向けてしまったかもしれない。戸惑った私に、女の子は言葉を続ける。
「私のお兄ちゃんがさ、駅に行ったとき、なんか挙動不審な女の子がいたっていうから」
あはは、と女の子は軽く笑いながら、
「あっ、ちがうちがう。挙動不審はあんま関係なくて……行った?」
「あ、うん。たぶん」
私が言うと、安心した顔を覗かせる。
「じゃあさ、お金、忘れちゃったとか」
「お金……? あ、そういえば」
確かめるように呟いて、券売機に入れたままだったことを思いだす。あの時は、それどころではなかった。
「はい、じゃあこれ。実は手つけちゃったから、まったく同じってわけじゃないけど」
「手?」
意味がわからずそのまま聞き返してしまったことに、私は一瞬で真っ赤になるような感覚に襲われた。
「昨日漫画の発売日だったから、ねえ?」
悪びれないふうに片手を立て謝りながら、千円札が差し出されていた。私は誤魔化すように笑いを作り、それを受け取る。
「ねえ、ちょっといい」
隣にいたクラスメートの子が、奇妙なやりとりをしている私達に声を掛ける。
「どうしてこの子だ、ってわかったの?」
私の肩に手を乗せながら、その子が言った。
「ああ、うん。組章があったからって」
それでは、誰かなんてわからない。首を傾げる私達に、
「お兄ちゃんが言うには『あの可愛いさはこの辺りじゃ絶対に見掛けない。反則気味だ。制服も新しかったし、転校生か。転校生は可愛い子って相場は決まってるからな』だって」
声音が似ているのかどうか分からなかったけれど、真似ようとした口調は可笑しかった。クラスメートの子は私の肩を叩きながら笑って、私は笑いを隠すように手で口を覆った。
「んっ」
取りなすように咳払いを一つして、目の前にいる子が再び口を開く。
「しっかり渡したからね。じゃあまたねっ」
照れを隠すように早口でまくし立て、そそくさと身を翻す。私の方にしてもそれは一緒だというのに。
その子が教室から出てしまわないうちに呼びかける。
「ありがとう、って、伝えておいて!」
すると、すこしだけ振り返って、
「りょーかいっ」
教室から出ていった。
私は一枚の羽のような千円札を握り、ポケットに押し込んだ。硬いものに触れる感触があった。すぐに思い当たる。それは、今朝拾った、ビー玉だ。
授業中、なにを考えていたのか分からなくなることが何度かあった。漠然としたイメージが、左右に抜けていくようだった。たまに、ビー玉を手のひらで持て余しながら、時間が過ぎ去るのを受け入れていた。驚くほど進みは早く、手が擦り切れてしまうんじゃないかというぐらいに長い時間、ビー玉を弄んでいた事実に気づく。
放課後を迎えて、やっと私は目が覚めたのかもしれない。夢に浮かされたような時間は、ホームルーム終了の合図と共に終わった。
柳の根元に行きたいとは思えなかった。湖に指を浸して思考を閉ざす時間も、惜しくはなかった。
持ち主のもとに、返さないといけない。そして、やらなければいけないこともある。普通に歩いていたつもりが、いつの間にか、早足から小走りになっていた。なにがそうさせたのか、私は知らない。
朝と同じように、扉はやはり閉じられている。中を窺い知ることは出来ない。私は扉を叩いた。
すぐに、扉は開け放たれる。
「お姉ちゃん……?」
「これ、落ちてたよ」
「ん?」
妹の手を取って、ビー玉を握らせる。鮮やかなマーブルが小さな手に収まった。
目を伏した。目を合わせるなど出来るはずがない。きっと、今なら、鏡を前にしても同じ行動を取る。
「きのうは、ごめんね」
返答が戻ってくるまでには時間があった。今日一日、学校で過ごした数時間よりもよほど長かった。沈黙は想像に拍車をかけ、私は心と連れ立って沼に沈んでいくようだった。
しかし、そうはならなかった。妹の手が私の腕を引っ張り、部屋に引き入れる。
「んー、と」
私はベッドに座らせられていた。妹はなにかを思案しながら机を探り、やがて袋のような物を手に取った。中からは、見覚えのある光彩が放たれている。虹を袋に詰め込んだら、こうなるのだろうと思った。
「これ、お姉ちゃんにあげるから」
昨日の続きを告げるというように、言われた。
「だから、元気だしてね」
私は何と言えば良いのだろう。罪悪感はとうとう、感謝する気持ちに押し流されているようだった。
「……うん」
嘆くよりも先に、やることがある。私は、妹が差し出したきれいなもの達を受け取った。
「私、がんばるから。がんばるからね」
葉衣を無くした木々が往く道に据えられている。もともと無かったというわけじゃないことは、私が知っている。公園の柳も、また何ヶ月か経てば、誰かを迎える為、頭を垂らすに違いなかった。
公園の奥にある柵を越えると、湖が広がっている。鳥の姿は見えない。
湖の先から吹きつけてくる風に、思わず身震いする。寒さは芯にまで届くようでしばらくの間、震えが止まることはなかった。もうさすがに限界だと思い、私は畔から離れた。
冬を刻み始めても公園に訪れる人は当然のように変わらない。それぞれ何かを求めてやって来ているのだろう。やはり、何が起きても、いずれまた人はここに訪れる。私は窓から公園を眺める。道々が柳に囲まれ、その先には湖がある。永遠の風景というものを知らない私にとって、それはまさしく永遠の風景だった。
受け入れるということは、共存することでも良いのかもしれない。混じり合った色をすべて残そうとする、マーブル模様のビー玉みたいに。
窓縁でころころとビー玉を転がしてみる。落ちないように、できるだけ真っ直ぐ。当の本人は平静でも観ている私はハラハラする。右に、左に。
一瞬、マーブル模様が揺らいだような気がした。ビー玉の中が揺れたのか、それとも、ビー玉に映った湖が揺れたのか。再び見直してみても、どうにもわからない。いつか、わかる日は来るだろうか。
ビー玉をポケットに入れた。綺麗なままの鞄を手に取った。制服はまだ新しさが抜けないけれど、通した袖はお気に入りの服より馴染んだ。
私は、扉を外に向けて開いた。
――fin――
湖上がゆれた日