二度目の決心
初めての体験、二度目の決心。
「今、変な音しなかった?」
「そうか?わからなかったけど」
「ねぇ、怖い。だから、ぎゅってして」
大学生の僕は今、人生で初めての体験をしている。ここは僕の下宿先、年季の入った六畳一間の大部分を占めるベッドの上だ。一目惚れをした女の子と、枕を共有している。
僕は緊張から冷えた腕で彼女に抱きついた。
「なんだか後ろから抱きつかれると安心するの」
「それならよかった。でもこっちが少しドキドキする」
「ふふ。女の子に免疫なさすぎだよ」
そうだ。僕は女性にこんなに近づいたことがなかった。恋人イコール野球という人生を歩み、青春はすべてグラウンドにある。大学生になったら彼女を作ろうと思ってはいたものの、事の運び方すらわからず既に四年生になっていた。
「ね、恋バナしよっ」
「うん、いいよ」
「じゃあ質問。今まで彼女、何人いた?」
「それがさ、ひとりだけしかいない」
こういう話が一番戸惑う。大学生は付き合った人数で人を測ろうとするが、僕には恋愛については話題すら持ち合わせていない。そこで僕は入学直後に「高校の頃に彼女がいたと話す」というルールを作っていた。嘘をつくからには卒業まで突き通さなければならないので、僕は空想恋人の名前や容姿、出会いや続いた年数などを暗記している。
「意外だね!こんなにイケメンなのに」
「どうもどうも。そしたら質問。彼氏はいたことある?」
ちょっと失礼な表現だったかなと思いつつ、自分としては踏み込んだ質問をした。
「いたよ。けど私もひとりだけ、しかも1ヶ月だけ」
「一ヶ月か、何があったんだ」
「まあ、色々と、ね」
「そっか」
「好きな人はいる?」
立て続けに質問が飛んでくる。
「いるよ」
「えっ、そうなんだ」
「うん」
彼女の横顔が少し寂しげに見えた。
「どんな人なの?気になるな」
僕は一度目を閉じた。想いを伝えるなら、ここしかない。
そっと横目で確認した時計は午前二時を指している。静寂の中、僕は決心した。
「好きな人は、実は、ここにいる。好きな人に今、抱きついてる」
「えっ?うんっと?」
「だから、そういうこと」
「もう一回言って。私さ、鈍いから」
静かすぎる部屋の中で、僕の心臓は大きな音をたてている。抱きしめていた身体はくるりと反転し、髪の甘い匂いを漂わせながら僕たちは向かい合わせになった。
「あのさ、好きな人がいるんだ。一目惚れ。それはな、すっごく可愛くて、明るくてさ。それで、今、その人は僕の目の前にいる人なんだよ。だからな、僕と付き合ってほしい」
暗い部屋の中でも、彼女の顔が赤くなっているのがわかった。
「うん。ありがとう。こちらこそ、です」
僕は彼女をもう一度抱き寄せた。絶対離してなるものか、そう思ったとき、僕は意識が遠のいた。
なんだろう。目の前が妙に明るい。僕は腕でぎゅっと抱きしめようとしたが、空振った。せっかくいいところだったのに。横になったまま片手でカーテンを開き、辺りを見渡した。見慣れた寝室にはベッドが並んでおり、壁掛け時計は十時半を示している。
「あっ、二限に遅れる」
僕は飛び起きて部屋を出た。同時に独特の感覚が僕を襲った。
「おはよー!また寝ぼけてる?今日は日曜日ですよーっ」
僕の脳はようやく目覚めた。
そうか。夢だ。僕はこの人の夢を見ていたんだ。僕の初めての彼女。この人だ。五年前のあの日、六畳一間のアパートの夜にすべてが始まったんだ。
「あっ。今日は日曜か。もうちょっと寝てこようかな」
踵を返し寝室に戻った。
夢はあの日を忠実に再現していた。抱きしめたときの体温、静けさの中で脈打つ心臓、こちらを向いてくれたときの髪の匂い、そして決心。大学を卒業してから五年経ち、忘れかけていた記憶を夢として再び体験したのだ。
僕は心の奥から幸せを感じた。
そっと戸棚を開き、隠しておいた手のひらサイズの箱を確認した。
深く息を吸い、深く息をはいた。目を閉じた。
そして僕は決心した。
二度目の決心