あんたアホちゃうか。あんたかてアホやで。なんでしっとん。それならお笑いしよか。もうやってるで(2)
二 喪失
「大丈夫?」耳元で声がした。あたしは何時間も前から目を見開いていた。目に映るのは、白い天井と水色のカーテン。ただ、それは目に映っているだけで、あたしの心には何も響かない。
「びっくりしたわよ。突然、倒れるんだから」やさしく、心配した声だ。どこかで聞き覚えがある。そうだ。マネージャーだ。マネージャーの伊藤さんだ。それでも、あたしは声のする方には向かず、目を見開いたまま天井をずっと見つめている。伊藤さんの微笑んだ顔が突然目の前に現れた。まるで映画のワンシーンだ。
「本当に心配しているのよ」伊藤さんの顔が曇った。あたしは無表情のまま頷いた。ありがとうと言おうとしたが声は出ない。声を出そうとはしているのだけど喉に、舌に、歯の裏に、唇に引っかかって言葉が出ないのだ。引っかかった声はうなだれたまままた喉下へすごすごと戻っていく。もう一度、出ていくための打ち合わせをしているのかもしれない。
そう。打ち合わせだ。彼女とは何度も打ち合わせをした。彼女の家で。あたしの家で。地下鉄の中で。演芸場の近くのコンビニで。喫茶店の時もあった。演芸場のトイレもあった。もちろん、楽屋でも。これから始まる舞台の裾でも。それから、目で合図しながら、舞台の上でも。そう、本番中にも関わらず打ち合わせをした。これも、全て、お客さんを喜ばすため。いいや、違う。あたしはお客さんのためにお笑いをしていたわけじゃない。彼女と一緒にいるため、彼女を笑わすため、彼女とお笑いのコンビを組んだのだ。
二人の約束事は、どんなにお互いのことをボロクソに言ってもお互いに敬意を払うことだった。いや、敬意というよりも、愛すべきというか、愛情を持つというか、相手が自分であるという気持ちになることだった。まさに、一身同体。こんなことを言うと、すぐに、世間の人は、二人は同性愛者だったんだ、と下種の勘ぐりをする。ある意味では、同性愛、いや、人間愛、いたよ愛だ。いたよだから愛せた。
お互いが空気のような存在で、そこにいるのは当たり前の関係で、でも、空気だから、いないと互いが死んでしまう。そんな関係だ。だけど、人の心は難しい。どんなにそんな風に思っても、互いにストレスはたまる。あんちくしょうとか、このブスとか、もうお笑いのペアは解散だとか、口に出さないけれど、いや、口に出したこともあった。もちろん、直接、本人に対してではない。仕事が終わり、家に帰ると、喉から唇の裏にまで溜まった感情が吹き出した。何でそんなこと言うんだよ。いくら、長い付き合いだからといっても、許せることと、許せないことがあるぞ。バカヤロー。死んでしまえ。お前の母ちゃんでべそ、と白い壁に向かって叫んだ。枕を投げた。ちゃぶ台をひっくり返した。あたしは小学生、いや保育園児か。
たぶん、いたよだって同じだったろう。一見、青春ドラマの、青春のバカヤローのように聞こえるかもしれないが、当事者においては修羅場だ。シュラバンバ、シュラバンバ。踊っている場合か。ああ、一人で突っ込んだ。つい、面白いことを言わないと気が済まない。面白いことに頭が回ってしまう。可笑しい。でも、あたしがシュラバンバ、シュラバンバと踊っていたら、いたよはどんな突っ込みをしてくるのだろうか。半分は期待。半分は予想通り。でも、その予想通りの方が嬉しい時がある。
「あんた。学生時代、何かスポーツしてやってたんか?」
「この体型見たらわかるやろ」いないよが右腕の袖をまくり、力瘤を作った。
「すごい筋肉やなあ。ダムでも作りよったんかいな」いたよがいないよの力瘤を触る。
「何で、可愛い女子高校生がダム作らなあかんのや」いないよはいたよの手を跳ね除ける。
「女子高校生は客観的事実やから認めるけど、可愛いは否定させてもらうで」
「そんなん、いちいち否定せんでもええわ」
「それなら、引越しのアルバイトでもやってたんか」
「そうや。冷蔵庫やグランドピアノでも一人で運んどったわ。ええお金になったで。おかげで、お笑いの学校の申込金も払えて、よかったわ。何、言わすんのや。あんたが聞いてきたんは、スポーツやろ。ダムにしろ、引越しにしろ、スポーツとどういう関係があるんや」
「ヒッコシーて、ニュースポーツがあって、短時間でどれだけ物を運べるか競争するんや」
「そんなん知らんわ。誰が考えたんや」
「あたしが今、考えたんや。おもろいやろ。筋力はつくし、お金も貰えて、一挙両得、両手に花、二兎追うものはカバを得るや」
「誰がカバや。もう逆立ちはせえへんで」
「スポーツの話に戻ろ」
「あんたが無理矢理、他の話に振ったんやで」
「ほんで、何のスポーツやっとんたんや」
「キャッチャーや」
「キャッチャー言うたら、ゴールの前で、蹴ってきたボールを素手で取るサッカーかいな」
「それはゴールキーパーや。知ってて、わざと間違えんといて」
「お客さんに喜んでもらうためや」
「そんなんでお客さんは喜ばんわ。キャッチャーやけど、野球やのうて、ソフトボールや。他にもやったで。さっき言うたサッカーのゴールキーパーに、ハンドボールのゴールキーパーに、ホッケーのゴールキーパーに、朝、遅刻した高校生を掴まえる校門キーパーや。家では、掃除・洗濯・買い物をこなすハウスキーパーや。鳥取県の境港市では、妖怪のぬり壁もやって、観光客をキープしたで」いないよが舞台の上で、両手両足を広げ、大の字の姿になる。
「すごいなあ。いないよちゃん。全国展開や。でも、キーパーばっかしやなあ」
「あたしもようわからんけど、大会前になったら、同級生たちが寄って来て、いないよちゃん、キーパーになってって頼みに来るんや。あたしは人の頼みごとを断れん性質なんで、全部受けっとったんや」
「ええ、性格やなあ。ほんでも、そんなにたくさんのスポーツのルールを覚えるだけでも大変やで」
「そうや。あたしも友だちにルール知らんのやけどええんかいなって聞いたんや。そしたら、友だちが、「いないよちゃん。ルールなんか知らでもええで。ゴールの前に立っとるだけでええから。ほっといてもボールがいないよちゃんの体に当たるから、壁の役割を果たすんのや。それでええんや。後はあたしたちに任しとき」って言うてくれたわ」
「それ誉められとんのか、貶されとんのか」
「それはわからんけど、頼りにされとんのには変わりはないやろ。その時に付いたあだ名が「壁」やから」
「「壁」かいな。その壁にボールが当たって「壁ドーン」かいな」いたよがいないよの右頬の横に開いた右手を押し出した。
「そうや。あたしに寄ってくるんは、かっこええ男やのうて、ボールばっかしや」
「まあ、何でも、寄ってくるということはええこっちゃ」
「もてとんとちゃうで。あたしを狙って来とんのや。時には、恐怖も感じたわ。殺されるんとちゃうかと思うたわ」
「そんな大げさな。壁でもやっぱり恐いんか」
「あだ名は「壁」やけど、あたしはか弱い乙女や。どうや。このピンクのスカートのフリルが似合うやろ」いないよがスカートの裾を持って、右に首をちょこんと傾ける。
「何、可愛娘ぶっとんのや。確かに、ピンクのカーテンを掛けたら、汚れた壁が見えんでええわ」
「それ、どういう意味や。それなら、いたよちゃん。あんたは学生時代何やっとんたんや?」
「あたしもソフトボールやけど、キャッチャーやのうて、ピッチャーや。エースや。しかも四番バッターで、キャップテンや」
「なんや。同じ女子高校生でもえらい違いやな。やっぱり、ボール投げる時は、コケコッコーって鳴くんかいな」
「あたしはニワトリか。なんでボール投げる時に、鳴かないかんのや」
「どうせ、高校の時も、鳥ガラ体やったんやろ。コケコッコーって鳴いたら、相手を威嚇できて、三振とれるやろ」
「鳴き声はコケおどしかいな」
「上手いこと言うなあ。座布団やのうて、あたしの三段腹あげるわ」
「そんなもん、いらんわ。腹壊してしまうわ」
「いたよちゃん。あんた、やっぱり、ソフトボールのピッチャーより、お笑いがむいとるで」
「いないよちゃんも、あたしの突っ込みのボールをちゃんと受け止めてよ」
「任しといて。この胸にどーんとぶつかってきなさい」
「それ、キャッチャーやのうて、お相撲さんやで」
「お後がよろしいようで」
あんたアホちゃうか。あんたかてアホやで。なんでしっとん。それならお笑いしよか。もうやってるで(2)