ある高校での文化祭
ある高校での文化祭
文化祭に思うこと
夏休み中のある日、学校に行こうと電車に乗ると、向かい側の席に牧高の女子生徒二人が座っていた。足下には段ボール箱に入ったジャガーミシンが置かれていた。おそらく文化祭で使う衣装を学校で縫うために家から持って行くのだと察しが付いた。その女生徒は牧野駅から学校まで自転車の前カゴにミシンを乗せてふらつきながら学校に到着した。夏休みのこんなに早い時期から文化祭の準備のために、あんなにも重いミシンを家から持ってくるその熱心な気持ちに圧倒された。
三年生は夏休み中から既に劇の練習に入っていた。朝学校に来るともう発声練習を始めていた。中庭や駐車場のあちこちから発声練習の声が聞こえてくるのは、生徒の文化レベルの高さを証明している。これは誇りに思っていい。三年の補充授業が始まると三年生は完全に文化祭一色になっていた。朝早くから夜遅くまで熱心に練習は続いた。監督の声が飛ぶ。
「はい、それでは台本の○○から始めます。照明さん、OKですか」
「はーい」
「音響さん、OKですか」「はーい」
「役者さん、OKですか」「はーい」
「それでは、演出さん、お願いします」
こうやって、監督を務め、劇を成功に導いた生徒は人間として大きく成長する。演出をやった生徒も役者をやった生徒も人間として一回りも二回りも成長する。音響をやった生徒も、照明をやった生徒も、衣装や道具を作った生徒も、看板を作った生徒も、クラス全員で一つのものを作り上げる体験、劇が終わってみんなで手に手を取り、抱き合って泣く、――そういう充実した体験を積むことによって人間として成長する。これは英語や数学の勉強では得られない人間としての教育の場である。学校はそういう人間の教育のために、沢山の授業時間を割いてこれに充てるのである。偏に生徒の人間的な成長のためである。
そして、これを教え伝えて来たのは、上の学年から下の学年へ、生徒自身が先輩の素晴らしい姿を目の当たりに見て、自分たちもああなりたいと心の底から思って実践したことによってである。それはまさに伝統であり、いわば先輩から後輩に受け継がれる血である。牧野高校三年生は、自らの身体を痛め、汗を流し、声を絞り出して、この血を受け継いだのである。牧野高校の伝統であり、血そのものなのだ。
何度も投げ出したいと思いながらもそれに耐え、最後まで全力を尽くした三年生、多くの感動と涙を与えてくれた三年生、クラスの皆で一つのものを成し遂げた三年生、自分たちの怠惰に打ち勝ち、獲得した連帯感と達成感とともに美しく輝く牧高三年生、――僕はそんな牧高三年生を讃える。
ある高校での文化祭