住み心地の良い部屋
ある日の帰り道、主人公である大学生の優は飲み会の帰りに酔い潰れたサラリーマンをみつける。
どうやらその男は、あまり容態が良くないらしい。
焦りながらも助けを呼んだ優はあろうことか気を失ってしまう。
病院に一時入院することになったが、別に大病とかそんなことはなく普通に退院。
そして家にかえって無事元の生活に戻る..。はずだったのだが。
『すまないことに、君の脳をまるごと食べてしまった』
ようこそ僕の脳へ
その日、僕は数少ない友達と飲みに行き程よく酔いながら、きれいな夜空を眺めて家経の帰路についていた。
普段は大学と近所の駅に敷設されたスーパー、そしてたまにゲーセンくらいにしか行かないので少し特別な気分だ。
久しぶりに気を許した人と話せたので、幾分か心が軽くなった気がする。
酒にはあまり強くないので、毎度の如く浮かれた気分の足取りで帰り道を歩く。
明日は休みだし、風呂は朝に入ればいいか、なんて考えながら歩いていると電柱の下に何か居るのが見えた。
正確に言えばそれは人であった。漫画宜しく酔い潰れたサラリーマン。しかもまだ若い。
カオを真っ赤にしながら気持ちよさそうに寝ている。
僕も今こんな風な顔をしているのだろうか。と思いながら通り過ぎようとする。
しかし僕は何を思ったのか、それとも酔って気がおかしくなっていたのか、このサラリーマンを起こさなくては、思った。
こんな不用心な格好をしていたら、何をされても文句は言えないし、実際酔って寝ているのだから気づきもしないだろう。
そばに駆け寄り、しゃがみこんで肩を揺すってみる。その男は首の座っていない赤子のように頭をぐねぐね揺らすだけだ。軟体生物かお前は。
やっぱり起きないよな、面倒くさい、もう見なかったことにして帰ろうと考え直した所、僕はある異変に気づいた。
あれ、こいつ胸が上下に動いていない・・・息をしていないんじゃないか?
急に酔いが醒め、とりあえず確認しようとその男の口と鼻の上に手を被せてみる。
何も感じられない。
これはヤバイと確信して、とりあえず救急車を呼ばなくてはとスマホを取り出そうとする。
尻ポケットに入れていたスマホはしゃがんだままでは取りづらく、一旦立ち上がり抜き出すことにした。
意外と冷静な僕の思考とは裏腹に、僕の手は震えながら電話のマークをタッチする。
1.1.9 そう打ち込んだスマホを耳に掲げ、電話が繋がるのを待つ。
一回目のコーリングが聞こえた時、急に強烈な眠気が襲ってきた。そして立て続けに来る目眩。
立っているのが困難になり僕はへたり込んでしまった。
手元からずり落ちたスマホが地面に叩きつけられ転がっていく。
それを眺めながら僕は、修理したばっかなのにと悠長な事を考えつつ、意識を手放した。
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知らない天井だ...と某アニメのセリフを思い出しながら、僕は目が覚めた。
きれいに整頓されたベッドに仕切られたカーテンコール。間違いない、病院である。
隣には見慣れた顔である母が安心したと言わんばかりの表情で僕を見ていた。
「おきた?」
「ああ」
変に意識をしながら母の言葉に答える。
「お母さん心配しちゃったよ。お宅のお子さんが搬送されましたっていわれるもんだから」
「ごめん」
「まぁ元気そうで何より。お医者さんもどこも変な所はないって」
「頭も?」
「そこはノーコメント」
思わず乾いた笑い声が出る。母も同じ様だ。
「そんな軽口叩けるなら本当に大丈夫そうね」
そう言いながら、食べやすく切られたリンゴを渡してくる。
「久しぶりだよ。寝込んだ状態で母さんからリンゴ渡されるの」
「ちっちゃい頃、熱出したときは良くあげてたでしょ?」
「うん。覚えてる」
大学に下宿させてもらっている僕は、親と顔を合わせる機会が必然に減っていた。
まぁ月一で顔色を見に来るのだが。
リンゴをうまいうまいと言いながら咀嚼していると、母が何か言いたそうにしているのがわかった。
「どうかしたの?」
「実は一緒に搬送された方のことも聞いたの」
すっかり忘れていた。そういえばその酔い潰れていた男を助けるために救急車を呼んだのである。
まぁ呼んだ僕が救急車で病院に搬送されたのでは世話がないのだが。
「どうだったの?なんかヤバそうだったけど」
「実は...」
顔を曇らせた母を見る限り、言わんとしていることがわかった。
「だめだったの」
「優のせいじゃないわ」
「わかってるよ」
矢継ぎ早に言われた言葉に驚きながらも、僕はそう答えた。
「そう...あんた変に気持ち背負い込んじゃう癖があるから」
「流石にそこまで考え込んでたら生きていけない」
「そうね。よかった」
そう言いながら母は次のリンゴを手渡す。
暫くリンゴをわんこそばみたいに平らげていると、母は切り終わったリンゴを近くの机に置き、席を立った。
「トイレ?」
「デリカシーないわね。ナースさんを呼びに行くのよ」
「ああ」
「後、母さんもう帰るから」
なんと非情な!どうせなら後にされるであろう説明を一緒に聞いてくれてもいいだろうに。
「お金はそこの封筒の中。どうせ大したことないしあんた一人でどうにかなるわよ」
「わかった」
「大学に申請すれば診察代の保険降りるかも」
「まじか」
思わぬ臨時収入になりそうだ。と内心ほくそ笑んだ。
「変なことにつかったら差額仕送りから引いてやるから」
「顔に出てた?」
「あんたってやつは...」
どうやら筒抜けだったみたいだ。呆れ顔をしながら母は部屋の扉を引く。
「なんかあったら電話して」
「わかった。あんがと」
親しい中にも礼儀ありだ。お礼はちゃんという。なんたって僕は紳士だから。
はいはい、と手を振りながら母は出ていった。
その後に立て続けにナースさんが入ってきた。残念ながらおばちゃんである。
「あらーお元気そうですね」
「どうも」
軽くお辞儀をしながら、親しみやすそうな人柄に安心する。
「それにしても災難だったわねー、大丈夫だった?」
「はぁ...」
正直その時の記憶は朦朧としていたので言葉に詰まる。
「覚えてないの?」
「いや、救急車を呼ぶとこまでは...」
「そうそう。あなた救急車呼んだはいいけどその後気絶しちゃったみたいなのよ」
「あー思い出しました。酔っ払ったお兄さんを助けようとしたんですよ」
「そうよね。お気の毒にその患者さんはお亡くなりになられたんだけど」
「差し支えなければ教えてくれませんか。やっぱりアルコールの...」
「ええ。急性アルコール中毒よ。会社の飲み会帰りだったみたい。かわいそうに、まだ結婚してすぐだったらしいわよ」
聞かなきゃよかった。その手の話は詳しいのか、おばちゃんは余計なことまで話してくれた
「それは...」
「あらやだ話しすぎたみたい。聞かなかったことにしてちょうだいねぇ」
曖昧にうなずきながら無理やり作った笑い顔をする。これは苦笑いになっているだろうが。
「これから先生から軽い説明があるけど、楽にしてていいから」
「はい。どうもありがとうございました」
そう言っておばちゃんは退室した。
母に先程言われた言葉を思い出したが、やはり罪悪感を感じないのは無理であろう。
それも家族がいるなんて。
こんなこと考えても仕方ないと思いながらも、やはり僕の心のなかには重いヘドロのような何かが溜まっていた。
それにさっきのおばちゃんとの対話に対して何か引っかかる事があるような...。
その思考を断ち切るように陽気なおっさんが部屋に入ってきた。
「いやー大丈夫?変なところない?」
それを調べるのがあんたの仕事じゃないのか、と突っ込みながら
特にないです、と簡潔に答える。
正直早く家に帰りたい。
「じゃあ、これから言うことは家族にご内密に」
「え」
嘘だろ。これって重症パターンじゃないか。余命宣告されちゃうの?
てか患者本人に言ってどうするんだよおっさん。
急に挙動不審に陥る。
心臓の音がうるさい。落ち着けmy chicken hurt.
いや違う傷ついてどうするmy heart.
「残念ながら...正常です。今日にも退院できます」
その日すぐに、僕はめでたく退院した
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家に帰って、荷物を放り出してベッドに寝転ぶ。
いやーまた変な話の種できちゃったな、なんて思いながら特にフォロワー数も多くないツイッターに事の顛末を記す。
仲のいい友人から、まぁ全員男なのだが、まじかよアル中、お前酒全然飲まなかっただろwwww等と囃されながらも返信する。
当然ながら急性アルコール中毒で亡くなった男の事は明かさなかった。というより明かす気にはならなかった。
打ち明けられたら少しは気が楽になるのだろうが、また今度の飲み会に取っておこう。
それまでにはまた違った考えを持って、もしかしたら自己完結してるかも、と期待も含めて。
寝転びながら時計を見やるとなかなかいい時間である。今日はいろいろあって疲れていたし風呂に入ってさっさと寝るか。
ユニットバスでシャワーを浴びて、頭を乾かし、ネットを巡回しながら歯を磨いて明日に備える。
さー寝るか。明日も頑張ろう。とベッドに入りかけた途端、急に頭が痛くなる。
まじであの医者ふざけんなよ、と逆ギレしながらそのままベッドに倒れ込む。
しかしあの日とは違って眠気には襲われなかった。むしろ先ほど感じていた疲れから来る怠ささえ感じない。
この片生きて二十年、今回が初めての入院だったのに、もしかして厄年か何かか?なんて考えていると信じられないことが起こった。
『やあ、はじめまして。といったほうがいいのかな?』
頭のなかで声が響く。
え、なにこれは。しかめっ面で頭を抑えながら周りを見渡す。当然誰もいない。むしろ、いたら困る。
『うまく調整できなくて君に負担がかかっているみたいだ。すまないね』
他人事みたいにいいやがって。てか誰だよお前。
僕は頭がおかしくなったのではと思い始めた。誰だって思うだろう。頭の中に直接声が響く体験をすれば。
『私の名前はPaluapiton、まぁ、君らの世界で言われている所謂宇宙人、ってやつだな』
宇宙人が丁寧に自己紹介してきたよ。冗談だろ。二十歳にもなってこんなアホな事やってられるか。
『君がどう思おうが構わんが、少しぐらい友好的な態度を取ったほうがいいんじゃないか?』
『この世界では宇宙人は君ら人間を侵略しに来るそうじゃないか』
それはフィクションだよ。実物なんて居るわけ無いだろ。
『でもこうやって君と話している。身をもって体験しているわけだ』
うるさいな。と言うかやけに癪に障る話し方だ。ぶん殴ってやりたい位に。
『そうか。今後は気をつけよう。それよりも他に聞きたいことがあるんじゃないか?』
そう言われると、少し冷静になって今の状況を把握しようとする。
頭が痛くなって、頭のなかで自称宇宙人に話しかけられて、頭がオカシイんじゃないかと思い始める。
とりあえずどうして僕に話しかけたのか。
『そうだな。実は私は誰でも話せるというわけではない。と言うか今のところ人間には君にしか話しかけられない。』
どういうことだ。電波でも飛ばしてSF宜しく念話してるわけじゃあないのか。
『やっぱりそう思っていたのだな。まあそう思うのも無理じゃないのだが』
『もっとアナログなやり方だよ。直接私と優はつながっているんだ』
1対1でってことか?でもそれは頭のなかで会話ができる説明にはならない。
と言うかどうして僕なのだろう。所謂選ばれたってやつなのか?
『まぁ選ばれたというか...選ぶしかなかったというか。そうだな選ばれたんだよ優は』
なぜかちょっと嬉しくなる。いやね、ほらなんというか、特別っていうか。
そんな楽観的な考えをしていると、気づけば頭の痛みは引いていた。
『すまない遅くなったね。幾分かマシになったかい』
だんだん気楽に構えれるようになってきた。よく考えたら宇宙人と話してるって凄くないか?
まだ自分の頭がおかしくなった線は捨てきれないが。
そういえば何故僕の名前を知っているのか。
『そう。その話も関わってくるのだが、直接つながっている。物理的にね』
その言葉を聞いて急に冷や汗がわき始めた。オチが読めた気がする。
『いや、その、なんだ。実を言うと君の脳に僕は居る』
寄生されていた。しかも一番まずいところに。そうだよね寄生って、ニートと宇宙人の専売特許だもんね。
『しかも申し訳ないことに、少し語弊がある』
まだなにかあるのか。しかしもう驚くことはないだろう。これまでの過程が十分おかしいのだから。
『寄生と言うより、まるごと君の脳を食べてしまった。』
....は?
『ああ、安心してくれ。今は私が君の脳に成り代わって居る。』
....。
『だから君の名前が優だとわかったんだ。』
....。
『自分で言うのも何だが、君の脳はクリーミーでうまかったよ。うん』
.....。
『わりとグルメで通っているんだ私は。選ばれたことに誇っていいよ。なんなら三ツ星を君にあげよう。』
何のフォローにもなってない。そう思いながら僕は気を失った。
youは何しに僕の脳へ?
『有り体に言えば視察、だろうか』
お前の目的は何だ、と問うと彼は僕の質問にそう答えた。
おはようございます皆様。ただいま月曜日朝の八時時四十五分。
僕は今、講義の資料を突っ込んだ、かなり日焼けしているリュックを背負いながら全力疾走をしている。
昨晩宇宙人にお前の脳を食べちゃったゾ☆と宣告されながらも、講義には出席しようとする僕は学生の鏡だろう。
然しながら、時間を見るに少々心許ない。一限は必修の概論なのだ。意地でも出席しなくては。
『ちなみに学校まで後どれくらいなのだ?』
息切れしそうな僕の脳内で彼は話しかけてくる。
多分ギリギリ間に合うかの瀬戸際。
実際二十分もあれば間に合うだろうと思うかもしれないが、うちの大学はかなり立地が悪くキツめの坂を五~十分位登らなくてはならない。
これを登った後には、辺鄙な立地に建てられた代わりの広大なキャンパスが待ち構えている。
広くて緑のあることは結構だが、今のような状況だと話の勝手が違ってくる。
ようやく件の坂が見えて、スマホの時計を見直す。
八時四十八分。
これは坂を走って駆け上るしかないだろう。信号が変わるのを待ちながら、靴紐を締めなおす。
『君はちょうちょ結びが下手なのだな。』
余計なことは言わなくていい。そんなことよりこの状況を打破する方法はないのか?
宇宙人ならなんとかできるだろう。時間を止めるとか。
『宇宙人はそんな万能ではない。まぁ遅刻を回避する手段なら持ち合わせている』
まじかよ宇宙人有能じゃん。ほら貸してよそのひみつ道具をさ!
『そんなハイテクなものじゃないさ。要するに走って間に合えば良いのだろう』
まぁ言ってみればそうなんだけど。
もしかして足を早くしたりできるのか?
『やろうと思えば可能だ』
でもなんか体に悪そうだよな。火事場の馬鹿力で無理やり筋力上げました、みたいな。
『いや、体に一切負担はかからない。安心していい』
完璧じゃないか!それじゃあ早速お願いしようかな。
『わかった。それじゃあ早速いただこう』
ちょっと待て。何をいただくんだ?怪訝になりながら僕は尋ねる。
『何って、君の足さ』
お前人の脳を食べるのに飽き足らず、足まで食べるつもりかよ!
『そうしないと君の代わりに走れないだろう?』
おもったより物理的な解決方法だった。と言うかSFのFがどっか行ってしまっている。
そこまでして遅刻を回避したいわけじゃない。これ以上人間から離れてたまるか。
『じゃあ君が走るしかなかろう。ファイトだ優』
くっそこいつ言わせておけば...。
なんてやり取りをして数分、ようやく校門が見ててきた。
ちょうど手前の信号も青だし渡りきってしまおう。
夏という季節もあってか、ひどい汗を書いてしまった。
リュックを背中から回しながら、器用に中からタオルを取り出す。
さあもうひと踏ん張り。
周りからの視線を感じながらも、それに一瞥もせずキャンバスに走り込んだ。
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結果から言うと講義を受けることはできた。
ただ十五分ほど過ぎてから、である。
あの後、講義の教室まで走って向かい、ギリギリ滑り込めるはずであった。
しかし、その講義が開かれる教室の校舎に入ろうとした所、後ろから僕と同じように走ってきた女性が手提げから白いハンカチを落としたのだ。
彼女は僕とは向かう校舎が違うらしく、そのまま通り過ぎ去ってしまう。
嘘だろどうすんだこの状況。
もちろん時間があれば、僕は紳士だからハンカチを届けるために彼女を追いかけるだろう。
もちろん落とした人が男でも、だ。
紳士だからな!
ただこの状況はいかんせん迷う。少しでも早く教室へ向かわなくてはならないのだ。
『どうしたんだ優。講義にでるのだろう?』
わかってるよ。そのハンカチを拾うことすら僕は躊躇している。
そんなことをしているうちに、彼女はどんどん遠ざかってしまう。
これは迷う時間がもったいない。
家族で物を買いに行くときですら、もっとゆっくり決めましょうと言われる僕だ。
さっさと行動。そして紳士たれ。下心はない。多分。
ハンカチを拾い上げると、彼女が歩いていた方向へ走り始める。
後ろから見ると意外と大人びた印象を受ける。
黒いスーツを着ているあたり、就活生だろう。つまり自分より年上の方だ。
スタイルが綺麗だ。
それにローファー?というのだろうか、走りづらそうな靴を履きながらもいい音を立てながら美しい姿勢を保って走っている。
というか足速くないか?縮まりそうで縮まらない距離が彼女と僕の間にある。
一時期運動系のサークルに入っていたとは言え、もう当分運動していない僕は先程の坂道でヘロヘロであった。
周りから見たら、それは滑稽だったであろう。
「ちょ、ちょっとま...」
声を掛けようとするがうまく声が出ない。
こんな誰が見てるかもわからない所で大声をだして見知らぬ女性を止めるほど、僕は心が強くなかった。
『なにを戸惑っているんだ。さっさと声を掛けて呼び止めればよいだろう』
それができたら苦労しない。でも埒が明かないのは自分でもわかる。
こんな時自分が嫌になる。意気地なし。何も悪い事はしていないのに。
『見てられんな。ちょっと貸してもらう』
その直後、なんと僕の口から
「お姉さん、ちょっと待ってください」
と言葉が出ていた。しかも結構大きな声で。
その声が聞こえたのか、彼女は立ち止まってくれた。
『ほら、そのハンカチを渡せ』
脳内の彼は僕にそう告げる。
「あの...これ、落としましたよ」
震える声で彼女に伝えながら、僕はハンカチを差し出した。
「あっ、それ私の!有難うございます」
いかにも人ができているような、やさしい顔だ。
そんなことを考えていると彼女は
「私急いでるの。本当に有難うね!」
と手を振りながら走っていった。
「はぇ...」
紳士でよかった。
『何バカなことを言っているんだ君は。君も急いでいる身であろう』
そう彼に告げられると、自分の置かれた状況を思い出す。
スマホを見ている時間すら惜しい。僕はまた講義教室へ走り出した。
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教室にたどり着くと、外からでもわかるように教授の声が聞こえてくる。
まだ始まって数分しか立っていないだろう。後ろからこっそり入らせてもらおう。
後ろの扉を開けようとすると、妙にドアノブが硬いことに気づく。というかドアノブが回らない。
鍵をかけられていた。
仕方がない前の扉から入るしか...。
と前の扉の方へ向かうと、張り紙がしてある。
遅刻した生徒は、こちらが呼びに来るまで待機していること。
『これが所謂、締め出しってやつか?』
仕方がない。ハンカチを届けた代償だろう。
張り紙を見る限り、出席自体はさせてもらえるみたいだから待つしかない。
『今度からはもう一本早い電車にのることをお薦めする』
いつもあんなギリギリなわけじゃない。そもそもの話、お前が原因じゃないか。
僕に非がないってわけでもないけど。
『その件に関しては重々承知した。次からは気をつけよう』
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話は今朝に戻る。
今朝、カーテンの隙間から漏れる光で僕は目を覚ました。
彼は起きて早々『おはよう優。昨日は急に寝てしまったが、説明したとおり私たちは一蓮托生だ。今日からよろしく頼む』
と話しかけてきた。
そういや俺の脳コイツに食べられたんだった。夢じゃなかったのか...。
そして続いて彼は
『君とはいい関係を築き上げていきたい。手始めに、君の睡眠を邪魔するアラームを止めておいた。褒めてくれてもいい』
と宣ったのだ。
ぼうっとしながら時計を見ると、いつもより起きる時間が遅い。と言うか遅いどころではない。
僕は朝に弱い方で、スマホと目覚まし時計両方にアラームをかけている。
今日も例に外れることなくアラームによって目を覚ますはずだった。
はずだったのだが、あろうことかこいつはアラームを両方止めやがったのだ。
僕が起きる前に。しかも丁寧にスヌーズ機能まで。
おかげさまで僕が起きた時間は朝の八時前ギリギリ。
顔を洗って歯を磨いて、身だしなみを整えて出発するには余りにも遅すぎる。
『さあ大学へ行こうではないか。朝日が身にしみるな』
昨日に比べてえらくフレンドリーになった彼の言葉を聞いて、ふつふつと殺意が湧いてくる。
ぶん殴ってやりたい。
いや、でもそうなると僕の頭を殴ることになるのか。
『どうした優。朝からピリピリするんじゃない。カルシウムが足りてないんじゃないか?』
この煽り方はなかなかに来るものがある。と言うかどこからその知識を得たのだ。
『私は君の脳から』
あなたの心に狙いを決めてーベンザブロック!
なるほど僕の脳の知識を利用して話しているみたいだ。
『まだ全部というわけではないが、君の記憶を有効活用できるように試行錯誤している』
はぁ...と言うかその知識があったらアラームを止めちゃだめだって分かっただろう。
『アラームで目を覚ますという知識もあったが、君の個人的嗜好に二度寝が大好物と合ったのでそっちを優先した』
優先しちゃったかー、そっかー。
『人間は難しいな。自分の好きなことを優先してはだめなのか』
それは時と場合によるってやつだよ。case by case.
『肝に銘じよう。ちなみに忘れているだろうがIn dependsが正解だ』
伝わればいいんだよ、伝われば。
話を聞くに悪気が合ったわけではないので、怒る気はなくなってしまった。
とりあえず最低限の準備をして出発しよう。
こうして僕は家を出たのだった。
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一限の概論をなんとか出席した僕は、講義が終わった後に図書館へ向かう。
月曜の二限は何も入れていないのだ。
図書館に繋がる渡り廊下を歩きながら、脳に住む、と言うか僕の脳になってしまった彼に話しかける。
今朝のアラームのときもそうだったけど、おまえ僕の体を動かせるのか?
『脳だからな。まだ完璧ではないがさっきやったみたいに発声することもできる』
これには驚きを隠せなかった。脳の代わりとは言え、彼自信の意思で僕の体を動かせるとは。
それと同時に恐怖を覚えた。まさに乗っ取られてしまったわけだから。
『そんなに心配しなくてもいい。今朝言ったみたいに私は君と友好的な関係を築きたいんだ』
そんなこと言ってもやろうと思えば、僕の体を好き勝手できるのだろう?
『それを言われたら、肯定するしかないが、君の体の権限を乗っ取るのは私に対してはあまりメリットがないのだ』
どういうことだ。
『権限を乗っ取るのにはかなりのエネルギーが必要になる。もともと君の脳にはそういう機能はなかったのだからこちらで用意するしかない』
『それは私のエネルギーを消費するわけだ。だから私はあまりこの行為は好まない』
ふーん。と彼の意見に同意しかけたが、もう一つ疑問が湧いた。
僕の体を操ってどうこうする気がないのなら、そもそも僕の脳になり変わる必要がなかったのでは?
『今朝言ったことを忘れたのか。私の目的はこの星に住まう君たちの視察だ』
つまりあくまでも傍観者と言うことだろうか。
いやそれでも僕の脳をまるごと食べてしまうのはどうかと思う。
『その点に関しては本当に悪いことをした。初めは食べるつもりなんてなかったのだが...。』
僕の脳があまりにも美味しそうだったから?
『そうなのだ。初めてだったから少し興味が湧いて』
おい。
『宇宙人ジョークだ。笑ってくれても構わん』
笑えないんだが。
『君の脳を食べてしまった理由は挙げたら複数個あるのだが、主な理由はエネルギーが足りなかったからだ』
やっぱりお腹が減ってただけじゃないか!
『いや言い方が悪かった。生命を維持するためのエネルギーが切れ掛かっていた』
まぁそこまで深刻なら、致し方ないのだろう。いや仕方がない訳がないのだが。
ちなみに他の理由は?
『エネルギー切れ寸前で寄生しようとしたのだが、手違いで食べるという行為をしてしまった』
『そもそもエネルギーだけなら脳に寄生するだけで十分だからな』
思いっきりヒューマンエラーじゃないか!
大層な理由があると思ったのにこの始末である。
『だから謝ったであろう。私が悪いと』
物事には許す許せないの許容範囲があることを知らないのか。
こちとら人間たらしめる大半部分と言っても良いものを失ったのだ。
『問題ない。これからは私が代わりに脳として働く。現状不都合はあるまい?』
言い返す気も失せてしまった。
まぁ話す限り僕を操って世界征服の足掛かりにしようという訳ではなさそうだ。
どこまで信じてよいかが疑問ではあるが。
『全服の信頼をおいてくれて構わんよ。こうなった以上私は君の一部であると言っても過言ではない』
やっぱ不都合はある。思考がだだ漏れだ。プライバシーがない。
『何を言っている?私は君の一部だから第三者ではないだろう』
もういいや...。
そう思いながら新聞を手にする。
紙面には某国の大統領選挙の話題で埋め尽くされていた。
候補者の政策から、対立者に対してのバッシング、経歴など。
我が国とは違って、その国の大統領選挙は白熱しているように思える。
国が違うから、なんて言えばそれでお終いではあるが、このような議論の絶えない国風を見ると少し羨ましく思える。
僕が周りにあまりそういう人がいないだけかもしれないが、この歳で政治に対して話し始めたら間違いなく鼻つまみ物にされるだろう。
読み進めていくと、政策の欄に難民、移民の受け入れに対してのそれぞれの考え方が纏められており、目が留まった。
一人の候補者は徹底的に締め出せ、と書いてある。思想の違い、治安の悪化、職業の奪い合い、支援に対するコスト。
問題点はかなり多い。これ以上受け入れる訳にはいかないと書かれている。
対してもう一人の候補者は比較的穏健で、移民、難民に一定の理解を示そう、グローバルに国を開いて経済の発展に繋げようと書かれていた。
これはどの支持票を狙っている等も含まれているので、一概には言えないのだが個人的には受け入れに反対であった。
『どうしてだ?仲間数を増やす、というのは種族の繁栄には欠かせないだろう』
その言葉を聞いて僕は、言葉を選びながら返答する。
移民、難民は大きな括りで言えば同じ人間という種族。それは理解している。
だけど、外見はもちろん、話す言葉、物事に対する考え方、思想、何もかもが違う。それはもはや同じ種族といえるのだろうか。
この世界には僕のような意見に、無責任だ、差別だなんて言う人が山ほどいるだろうけど、僕はそうは思わない。
少なくとも共通する何かを持っていなきゃ、同じ仲間なんて思えない。
『その少なくとも共通する項目は人間じゃだめなのか?』
その括りは余りにも大きすぎる。まるで外のハードウェアが同じだけで、ソフトウェアがまるごと違うパソコンだ。
『この話題について私は大いに興味を持った。もう少し人間に対して理解を深めてから君に問いかけよう』
なんで興味を持ったのだろう。先程言っていた視察の目的に含まれているのだろうか。
『それもあるのだが、話を聞いているうちにふと思ってな』
『まるで私は君という国に対して移民したみたいじゃないか』
そう言われると納得してしまう。知らないうちに受け入れてしまったみたいだ。
『どうして私を受け入れたのだ?君は難民、移民の受け入れに対して否定的だっただろう』
ちょっと待て。受け入れるも何も、拒否権すらなかったじゃないか。
これじゃ移民じゃなくてただの侵攻だろう。
これに対してしまった、と罰が悪くなったのだろうか、彼は少しだんまりを決め込み
『次のページが気になる。早くめくってくれ』
と僕を急かした。
都合のいいやつだ、と思いながらもページをめくる。
それでも実は、僕は彼に対してそんなに嫌悪感を抱いていなかった。
元が僕の脳だからか、それとも彼が利口なのかは知らないが、思ったより理論的に話し合いができる。
これで理解できない宇宙言語なんて話されたら、僕は意地でも彼を追い出しただろう。
改めて言葉の大切さが分かった。
そして何より、気軽に意見を交換して、自分の考えが纏まっていくのがわかった。
彼なりの意見も持ち合わせているので、明らかにこれはメリットであろう。
こうした利益関係をもたらしてくれるのなら、そこまで毛嫌いする必要はないかもしれない。
そう考えるとオトクな気がしてきた。一つのPCに二つのOS。これは売れるんじゃないか。
実際はそこまで必要性を感じないが、可能性は広がるだろう。
そんな事を考えていると、あるページの写真を見た彼は
『なんだ。いるじゃないか。私以外の難民が』
と呟いた。
え、どこどこ。
『ほら、その写真の可愛らしい少女だ』
そこには朝電車の広告で見た話題の子役が愛らしいポーズで写っていた。
宇宙人なのこの子!?
なんと知らない間に人類への移民、もしくは難民、悪く言えば侵攻は始まっていたみたいだ。
『後、そこにも。ほら、そいつも宇宙人だ。案外いるものなのだな。』
宇宙人多すぎない!?この勢いで行くと身近な人まで疑いたくなる。
『そう言えばあの陽気な医者の先生も宇宙人だったな。言うのを忘れていた』
もう何も信じられない。もしかしたら地球人が少数派まである。
僕も脳が彼に取って代わられた今、平たく言えば宇宙人だろう。
まさかのマジョリティ獲得。嬉しくない。
『驚いたか?すぐに言うとショックを受けるだろうから黙っていたんだが』
遅かれ早かれ衝撃的すぎる...。
『でもこれで他人との共通点が増えたんじゃないか?異星人という項目だ。仲良く慣れるといいな』
人間であり共通項目が異星人とか意味がわからない...。
彼の話はひ弱な心の僕には重すぎたみたいで、その後の購買で買ったお気に入りの弁当が碌に喉を通らなかった。
どうするんだよこれじゃ人間不信、いや異星人不信だよ。
暗い考えをしていると、衝撃の事実を伝えた後、黙りを決め込んでいた彼は僕に話しかけた。
『すまない。そんな真剣に考えるとは思っていなかったんだが...。言い出しづらくて』
何が?周りのみんなが宇宙人ってこと?
『いや、あの....う、宇宙人ジョーク....。』
物事には許せる範囲と許せない範囲がある。
『...すまない。』
前言撤回。
やっぱ僕はコイツが嫌いだ。
a lot of rain
『なあ優。一つ気になることがあるんだが』
宇宙人との邂逅を果たして、約一週間とすこし。
僕は今日も相も変わらず、夏特有である蒸し暑い空気の中、大学への道のりを歩く。
手違いで僕の脳を食べてしまった彼は、一週間位たった今でも、律儀にも僕の脳の代わりを果たしていた。
もしかしたら彼にも、罪悪感というものがあるのかもしれない。
とりあえず彼と一緒に過ごしていてわかったことがある。
彼は僕の脳を使って、操ることができる。
先日の出来事からこれは判明したのだが、彼が言うにはあまり好まない行為であり、よっぽどのことがない限り、僕の体を操らない事を約束してくれた。
彼の目的は、人間の視察である事。
夏休みの宿題でも出たのだろうか、人間とはどんな生き物であるかを知りたいらしい。
もっとも、構造的、つまり肉体はどのように成り立っているのか、ではなく生態系というのだろうか。
特に思想や社会に対して興味があるらしい。
普段見ないテレビを点けさせて、ニュースや討論番組なんかを見るあたり、これは間違いないだろう。
先日テレビのニュースが見たいと急かす彼を、僕がネットの記事で済まそうとした。
そうすると彼は
『それは相手の顔が見えないじゃないか』
といって人の顔が映るニュースの方を見たいと言ってきた。
顔を見るってそんなに大事な要素なのか?
と尋ねると、
『相手の意見を判断するときの材料を、むざむざ手放すのは惜しくないか?』
と逆に尋ねられてしまった。
表情が相手の意見の情報の一つ...。でもそれは喜怒哀楽であって、意見そのものじゃないだろう。
例えコメンテーターやニュースキャスターが怒りながら話したって、笑いながら話したって、意見自体は変わらない。
『私はそうとは思えない。君ら人間は他人の感情を汲み取ることができるだろう』
察する、というやつだろうか。
『そういう事だ。感情を意見とくっつければ、相手の本意が見えそうじゃないか?』
でもこれテレビの番組だぜ?どこまでが本人の意見かすらわからない。
もしかしたらそういう筋書きで頼むってお願いされてるかも。
『えらくこのテレビ番組、というやつに懐疑的なのだな君は。何か嫌なことでもあったのか』
痛いところを付かれてしまった。実際僕は数年前からテレビをつけてすらいない。
このテレビと言うメディア媒介に対して、僕はかなり否定的なのだ。
小学校の頃にメディアリテラシー、なんて話があったのを覚えている。
簡単に言えば、情報の取捨選択をしようねー、という事だったが当時まだ僕はピュアな子供であり、その話を正しく理解していなかった。
嘘が紛れ込んでいるから、なんでも簡単に信じちゃだめだよ。としか考えていなかったのだ。
時が経つにつれて、テレビの番組の作りを理解した。
スポンサーからお金を集い、番組を作って、電波に乗せて放送する。
これは当然人の手で行われることであり、スポンサーを含めた作り手の意見が紛れ込むだろう。
いままでテレビは正しい、と信じて疑わなかった僕の考えは見事に打ち砕かれてしまった。
考えもしなかった。まさか作る側が意図的に毒を入れるかもしれないなんて。
当時はネットなんて知らなかったし、世間一般にも今のようなスマホなんて普及してなかったので、テレビや新聞が大正義のように感じられた。
いつの間にか、僕はテレビを見るのがあまり好きではなくなっていた。
公平性を失った物を、いかにもこれが普通の考え方だ、と影響力のあるテレビで垂れ流すのは洗脳の一種に近いだろう。
それこそ社説、なんて欄をつくって意見を述べている新聞のほうがまだ信用できる。
当時なんでも斜に構えたがる性格だった事も手伝って、テレビに対する其のような意識は僕の根幹に強く根付いてしまった。
『何もすべて信じろ、というわけではない。足りないものは補えばいいのだから』
『それこそ君の大好きなネットにも真実は転がっているだろうしな』
いちいち棘のある言い方をする。これは僕の勝手だろう。
『そうだな。まあこれからは、テレビを付けてニュースを見るという事も一考してはくれないだろうか』
彼の言わんとすることも分からない訳ではなかったので、心に留めておくことにした。
其のようなやり取りがあったことを思い出していると、彼が僕に話しかけていることに気づく。
どうした宇宙人。何か見つけたのか。
『あまり言いたくはないのだが、ここ一週間で君は他の人間と何回会話をした』
マインドスラッシュ。ここで僕の冒険が終わりかねないような精神攻撃を、彼はかましてきた。
『私が覚えている限りでは、両手で数えて...いや下手をしたら片手で数えることが出来そうなのだが』
片手だから31回。まぁ普通だな。
『それは無理矢理過ぎるだろう...2進数を片手に適用するんじゃない』
いやでも、毎朝ローソンのおばさんと会話するし、帰りのスーパーのレジの人とも言葉を交えるぞ。
『残念だがローソンの人のPontaカードの確認と、レジの人のお箸何膳要りますかは会話にはカウントしない』
おばさんはいってらっしゃいって言ってくれるもん!
『そんなことだから咄嗟に声が出せないんだ。性格上の問題とは思っていたが、これも一つの要因だぞ』
彼の言うとおり、僕はここ一週間で人と腹を据えて話す、なんてことが全く無かった。
少し前までは、同じ学科の友達と話す機会があったり、サークルの人と話すなんてことが有ったのだが、その回数はめっきり減ってしまっていた。
まぁ色々あったのだ、色々。
『出来るならば、色んな人と会話して情報を手に入れたい』
お客様の貴重なご意見、有難うございます。弊社は前向きに検討します。
『先が思いやられるな』
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お昼休憩が終わりそうになり、僕は慌てて次の講義の教室へ移動する。
次の講義は違う学科の生徒も受けているため、見渡す限り殆どの長机が団体様に占領されてしまっていた。
どっか開いている席はないかな、と目を泳がせると特徴的な癖っ毛が視界に入る。
あれ、もしかして。
「おー!久しぶり」
「おう。お前も受けとったんかい」
妙な関西のイントネーションを放つ彼の隣に、僕はお構いなく座る。
『何だ知り合いか?』
まあそんなもん。
朝、彼からぼっち認定を受けた僕は、少し得意げだった。
『なかなかやるではないか。彼は異国から訪れたと見受けられる』
そうなのだ。隣りに座る彼は、こちらの国では見かけない顔つきである。
「昼飯何食べたん?」
「カップ麺」
「ウィル前もカップ麺じゃなかった?まじで体壊すぞ」
「ええねん。それで体を壊したときはその時や。大体歳取ったらカップ麺食えへんやろ」
会話でも分かるように普通に日本語が喋れる。むしろ英語を喋る方が詰まっていた記憶がある。
ウィルとは一回生のときに英語のクラスで知り合った。
クラスは入学式直後の英語のテストで振り分けられるのだが、思いの外点数が取れてしまった僕は、上のクラスに編入されてしまった。
それでも大学生デビューを決めた僕は、誰も僕のことを知らない大学はまさに未開の地であり、やる気に満ち溢れていた為そこまで問題視していなかった。
あの頃の意識が高い僕を取り戻したい。
まぁそんなこんなで講義を受けていたのだが、初めのグループワークでの自己紹介で彼のことを知った。
ちょうど僕の真後ろに彼は座ったのだが、話を聞く限りゲームが好きらしい。
これは、波長が合いそうだ。
今では考えられない程、行動力があった僕は講義が終わった後に彼に話しかけた。
「なぁどんなゲームが好きなん?」
「FPSな」
僕は彼が独特な関西訛りの言葉を喋ったことに驚いきながらも、占めた、と思った。
残念ながら僕が一番好きなアケゲーではなかったが、FPSも嗜む程度にはやる。
「えーまじか。もしかしてタイタンフォールとか持ってたり...」
「もってるで」
この勝負、勝ち申した。
こうして友達を一人増やすことに成功したのだ。
後から話してわかったのだが、彼はハーフで生まれも育ちも日本であった。
だから英語はそこまで得意ってわけでもないで。と彼は話していた。
その為、講義後にネイティブの先生にウッキウキで話しかけられる彼をみると少しいたたまれなくなった。
強く生きろよ、ウィル...。
その夜に行ったマッチングで、ウィルは鬼神のようなKDを叩き出したことを僕はよく覚えている。
「いやーそれにしても久しぶりやな。三回になって同じ講義に出くわすとはよう分からんなー」
「そうやな。まぁこのぎゅうぎゅう詰めの教室で空席が合ったのは助かったわ」
「なんやそれ、俺の隣に誰も座らんって言いたいんか」
「...ちゃうで」
彼もまた僕と同じような人間であった。
僕の思い込みかも知れないが。
彼はだいぶ見た目で損している気がする。
講義が始まると、僕はいそいそと教材とルーズリーフを取り出し教授の話に耳を傾けた。
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はーおわった。帰るか。
九十分ギリギリまで使った講義を聞き終えると、僕は出席表と共に課題を提出しに前へ向かう。
提出した後、ウィルが出てくるのを待った。
「おーすまん。待たせたな」
「ええでー。ちなみにこのまま帰ったりする?」
淡い期待を込めて彼にそう問いかける。
もうちょっと話したいかも。
「いや待たせて悪いんやが、サークルあんねん」
「あーそっか。軽音だっけ」
見事に思惑は外れてしまった。仕方がない。
「まぁそんなとこ。てか優、前入ってたサークルはどうしたん。」
「卒業した」
「卒業したのか...」
『卒業したのか...』
何も嘘は言っていない。
実際、僕が入っていたサークルは、二年で現役は引退することになっている。
他から見たら珍しいのかも。
「んじゃまたなー」
「うい」
そう告げて彼は校舎を出ていった。
『残念だったな。私も彼と話をしてみたかった』
会話するのは僕だろ。
『まぁそうなのだが』
僕達は校舎を後にした。
『今日の夜ご飯は何にするのだ?』
んん...魚?ホッケ。ホッケが食べたい気分だ。
『家で焼けるのか?家のは随分と小さなキッチンであるが』
最近はレンジでチンも可能なのだよ。
あーホッケ。ほっけほっかーほっけすと。
『ホッケは動詞ではない』
知ってる。
『まあなんにせよ、学友がいるみたいで私は安心したぞ』
大きなお世話である。僕にも友達ぐらいいるさ。見くびらないで欲しい。
『前みたいに緊張している訳でもなかったし、これからもこの調子で頼む』
見知らぬ人には話しかけられんよ...。
『そんなことを言うな。no challenge ,no life だぞ』
それさっき教授が言ってた受け売りじゃないか。
『私は彼の意見に賛同する。受け身じゃ何も始まらないしな』
言うは易く行うは難し、な。
『私に体を委ねてみるか?手当たり次第に話しかけてやるぞ』
勘弁してくれ。大学にいられなくなる。
『冗談だ。』
冗談と言えば、さっきのnoと脳、掛けてたりする?
『...』
『優、私は今までそんなに程度の低い冗談を言っていたのだろうか。いささか自分に自信がなくなってきた』
やめろ。まるで僕がつまらない冗談を言ったみたいじゃないか。
『自分の話の笑いどころを解説させられるほど、苦痛な事はないだろう』
惨めになってきた。明らかに分が悪い。この話はやめておこう...。
彼と会話をしながら坂道を下り終えた所、何の前触れもなく雷の音がした。
目の前を歩いていた二人組の女の子が、可愛らしい悲鳴を上げる。
『これは走ったほうがいいかも知れんな』
同感である。夏に空模様が悪くなく、雷鳴が聞こえたのならば、これは間違いなく夕立であろう。
きっと雨に振られるに違いない。
『傘はこれ以上買うなよ』
彼は玄関先にある三本のビニール傘を思い出したのか、先に僕に釘を差してきた。
わかってるよ。
肩に水滴が落ちてきた。走るか。
そう思ったのもつかの間、理不尽なことに土砂降りのの雨が降ってきた。
足を早めて、僕はひとまず近くの建物へと避難した。
雨をやむまで待つことにした。どうせ今日は、この後何も予定は詰まっていないのだ。
洗濯物も部屋干しであるし、心配事は夕食のホッケが売り切れないかぐらいだ。
スマホを弄くりながら、まとめブログでも見ていたら時間なんてすぐ経つだろう。
そう思いながら突っ立っていると、僕の建物の軒先に一人の女性が入ってきた。
「あーもう困ったな。降られちゃったよ」
そうつぶやきながら、肩に掛けた手提げかばんの中を探っている。
かわいそうに、その女性はもろに雨に降られたのか、リクルートスーツのスカートから水滴が滴り落ちていた。
そして手提げからハンカチを取り出し、濡れた体を拭こうとする。
ハンカチ...?
どこか見覚えのあるハンカチを二度見すると、僕の視線に気づいたのだろう、女性もこちらを見てきた。
「あれ、もしかして」
もしかしてである。先日、僕がアホみたいに走ってハンカチを届けた女性であった。
「あ、どうも」
「やっぱり!あの時の君じゃん!いやー奇遇だね」
そう言いながら、彼女はハンカチをこちらに見せてくる。
「助かったよー。こうして今もこのハンカチ使えるのも、君のおかげだからね」
「よかったっす。」
一日に二度もまともに話すなんて思わなかった。しかもそのうちの一人は女性である。
片言のような日本語を喋りながら、胸の鼓動が早くなるのが分かる。
ただえさえ女性に対して免疫がないのに、会話をするのはきついものがある。
下手をしたら致死量を超えてしまう。
ご覧の通り、僕は異性に対して免疫がない。
同性ならともかく、異性となるとこのようにメーターがフルスロットルである。
いつまで耐えられるか分からない。
ちなみにこの状態が続くと、
「君もそっちの駅なの?そろそろ雨弱まってきたし、話しながら行こっか」
「そうですね。行きましょうか」
他人行儀の僕が生まれる。
差し支えのない、つまらない、無難な答えを叩き出す機械へと身を任せるのだ。
この方法を身に着けた僕は、ある程度の対話をこの形でこなしていた。
相手の内容に頷き、反論もせず、聞くだけの存在。
意見を聞かれても、他人が気に入るような、いかにもな答えを導き出す。
幼いころは、この方法がまかり通り、なおかつ他人受けも良かったためこの方法で乗り越えてきた。
当たり前だろう。相手にとって最善であろう答えを返すのだから。
しかしこの方法は、高校卒業あたりで通用しなくなった。
仲のいい友達と話していた所、彼はこの話し方に気づいていたのだろうか、
「お前、俺の話聞いてんの?」
と苛立ちながら、会話を中断して僕に話してきた。
きいてるよー、と言いながら話題に挙がっていた物語の話をする。
彼は顔をしかめながら、
「いやそうじゃなくて、...もういい」
と僕に言い放った。
内心ショックであった。それも仲のいい友達に指摘されたのだから。
何が行けなかったのだろう。求められた答えと違うことを言ったのだろうか。
彼の反応から見て、それは察することができたが、問題の解決までには至らなかった。
「やーい優、怒られてやんのっと」
もう一人の友人が僕の事を茶化す。
困った顔をしながら、曖昧にあはは、と笑い返す。
正直この時ばかりは救われた。
この事があってから、彼とは何か溝ができてしまった。
それは今の大学に入ってからも続いている。
「...でねー、もう大変なのよこれが」
「それは困りますよね。お手上げーって感じです。」
女性と会話を、いや、それはもはや会話ではないのかもしれないが、
会話もどきをつなげながら駅にたどり着く。
「私、こっちの方面なの。君は?」
「いや、僕は逆方面ですね。こっちです」
「こっちかー。残念。またねー」
「ええ、お疲れ様でした」
彼女に失望されただろうか。なんて薄っぺらい人間と。
逆の方面であることに内心ホッとしながら、階段を降りる。
『よかったじゃないか。記念すべき二人目の会話だぞ』
うっさい。てか今までどうして黙ってたんだよ。
『いや、脳にとんでもないノイズが割り込んできてな』
彼なりの思いやりだろうか、この苦悩を聞かなかったことにしてくれたのだろうか。
そんなことはどちらでもいいか。
階段を降りきると、向かい側のホームで彼女が笑いながら胸元で小さく手を振ってくれた。
僕も笑いながら手を振る。
果たしてこれは僕なのだろうか。
僕がそうしたいから?
それとも一般的な回答例だから?
求められているから?
分からない。こうして僕の思考は雁字搦めに陥っていく。
『なあ聞いてくれ優。我ながらいいダジャレを思いついたのだ』
ああ。聞いてやるよ。
そう投げやりに答える。
『I have a lot of rain in evening. どうだ?』
...ブレイン?
『当たりだ。理解してくれて嬉しいぞ』
ちょっと悔しく思いながらも、なかなかやるじゃないかと納得してしまった。
帰りに駅のスーパーによると、残念ながらホッケは無かった。
『ホッケには逃げられたみたいだな』
仕方ない。
代わりにサバのみりん漬けで手を打つことにした。
追憶1
自己主張の激しいセミの鳴き声が、耳に纏わり付く。
真夏の太陽の照り返しがきつい坂を、多くの学生がぞろぞろと歩いている。
まるで死者の行進である。
特に女性は紫外線に敏感なのか、慎ましい色をした上品な日傘を差している。
そう言えば入学当初にサークルの先輩が言ってたっけ。
「夏になると坂からの照り返しがめっちゃきつくなんねん。それはもう日傘も関係あらへん。化粧をすべて洗い流してまうんや。」
通称、クレンジング坂。
なるほど言い得て妙である。汗でせっかくのお化粧は台無しであろう。
彼女らが差す日傘は必要以上に歩道の幅を取り、僕の進行を妨げる壁となった。
しかもそれが三人並ぶとなると、もうお手上げである。抜かすことを諦めるしかない。
ぷよぷよみたいに消えねぇかな
しかし、気分が良いので許すことにした。
何と言っても今日が試験最終日だからだ。こ
こを乗り越えれば、大学生の特権である長い長い夏休みが僕を待っている。
『ちなみに予定は何か入っているのか』
察してくれ。
『ああ...試験、頑張れ』
淡白な返答をして、彼はフェードアウトしてしまった。
ここ数日で、彼にも睡眠が必要であることが判明した。
連日、碌に睡眠が取れないせいか彼のレスポンスは妙に悪かった。
徹夜をした時特有の、鉛のような重さを抱えた頭を支えながら、僕は坂を登った。
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試験にそこそこの手応えを感じながら、僕は一抹の安堵を得る。
今日はこのままベッドに直行であろう。
明日からは晴れて自由の身、そして明日のことは明日考えればいい。
大学の校門前で、信号が変わるのを待っていると、見に覚えがある服装をした学生が向かい側にいるのがわかった。
半袖の趣の凝ったポロシャツに、良く土方の人が着ているような黒いニッカ。
それは運動するにはうってつけの服装であり、実際彼らはその服装で練習をする。
僕がちょうど二年前の春に入ったサークルである。
多分新しい代の子であろう、若さが溢れ出ている。
若い...。
「先輩!お疲れ様でーす」
この声を聞いて僕はぎょっとした。
まじか顔見知りだっけ。
半分動いていない脳を無理やり働かせながら、記憶を掘り返す。
いや、やっぱ知らないわ。
軽く会釈しておくか、なんて考えていると、僕の隣から
「お疲れさーん!」
と元気のいい声が飛んできた。
今度こそ本当にぎょっとした。この声には聞き覚えがあった。
その声の主は、僕と同じ代の、サークルの中心メンバーの一人であったからだ。
これはシカトを決め込むのが吉だな。
必死に顔を背けながら、足早に横断歩道を渡りきる。
触らぬ神に祟りなし、と。
実際このサークルに対しては、色んな思い入れがある。
いい思い出と苦い思い出半々だ。
もう大丈夫だろうか、と顔をあげる。
寝不足と前方不注意からか、歩道に生えている大きな木の事をすっかり忘れていた。
気づいたときにはもう手遅れで、木に思いっきりぶつかってしまった。
「っつあ...」
視界がブレる。もろにおでこと鼻に衝撃をうけてしまった。
一瞬千鳥足を踏んでいると、
「大丈夫ですかー?」
と声を掛けられた。
「あー、大丈夫。平気です」
「やっぱり優だ。」
やってしまった。どうやらバレたみたいだ。
「お久しぶり。元気してた?」
「うん、見ての通り。元気だよ」
「いや見ての通りって。木に思いっきりぶつかったやつが言えるセリフじゃないでしょ」
ごもっともである。
「いや、ぐうの音も出ないな。千尋さんも元気そうで何より」
「名前覚えててくれたんだ。うん。私は元気だよ」
彼女の名前は千尋という。サークルでは副リーダーとして手腕を振るっていた。
「今年の夏は見に来てくれるの?それともマネ?」
「いや、全く決めてなかった。もしかしたら見に行くかも」
「そう。今年の演舞は気合入ってるから、よかったら見に来てよ」
僕の生気の篭っていない答えに対してそう答えると
バイバイ、と彼女は僕とは別の駅へ向かっていった。
演舞か...。
踊りのサークルは夏の今からが、一番熱い時期である。
それは僕も経験したことだからよく分かっていた。
しかしあまり行く気にはなれなかった。
薄情者かも知れないが、あの時持っていた熱心さと言う物が今の僕には欠片も残っていなかった。
その後の事はよく覚えていない。とりあえずなんとか家にたどり着き、ベッドへと倒れ込んだ。
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夢を見た。
夏の熱い夢だ。
ちっとも遠慮しない太陽のもとで、掛け声を張り上げながら息を合わせて僕らは踊る。
一回生であった僕は、予想以上の練習の厳しさに反吐を吐きながらもなんとかしがみついていた。
入学式に行われたサークルの新歓で、僕はあるサークル紹介のPVに心奪われていた。
説明会で一緒になり仲良くなった連れは、気づいたら隣にはいない。
周りを見渡すと、他のサークルの新歓に捕まっていた。あやしいツボでも買わされそうな勢いである。
大丈夫かなあいつ...。
「うちのPV。よくできてるだろ」
その言葉に脊髄反射で頷く。動画を見ているだけでその一体感がよく分かるのだ。
「経験が全く無い奴でも歓迎するよ。どう?うちに来ないか」
受付に立っていたイケメンのお兄さんが、僕にそう言った。
男性にしては、線が細く、どこか儚さを感じる。踊ったらさぞ美しいのだろう。
「とりあえず体験で」
「おー嬉しいね。月曜日と金曜日の夕方に踊ってるから、まぁ見に来てよ。一回生用のレクもやるし」
そう言ってビラを渡してきた。どうやら、よさこい系のサークルらしい。
有難うございます、と礼を告げると、連れを探す作業に戻った。
彼は根負けしたのか、それとも僕みたいにそのサークルに何か見入るものがあったのか、早くも新歓用の届けを出していた。
「きまったー?」
「うん決まった」
お互いサークルが決められて一安心である。
この後、新一回生を捕まえるために手当たり次第に勧誘していた、よく分からないサークルの勧誘をうまく躱しながら、僕は家に帰った。
金曜日に指定されたところに行くと、先輩たちは柔軟をしていた。
周りを見ると、ちらほらと僕と同じように体験に来た人たちが居るのがわかった。
見事に女の子ばっかりだった。男が誰一人いない。
いや、でもまだ来たばっかりだし、後から男が来るのだろう。来てくれ。
そんなことを考えていると、先輩たちが
「しゅーごー!」
と声をかける。まだ見ぬ男たちよ。早くきてくれ。
そんな僕の心の叫びは無情にも届かず、レクは始まってしまった。
これは猫を被ってやり過ごすしかない。
「んじゃー、自己紹介お願いしようかな。出身と、お名前、年齢、電話番号、ご趣味に年収もお願いします!」
お見合いか。周りから笑い声が聞こえてくる。
「はーい。じゃあ私から!神戸県からきたー、あんなっていいまーす!二回生!ギリ二十歳だぞー。...ホントだよ?」
嘘つくんじゃねー!と他のサークルの先輩からやじが飛んできた。
「あんなちゃんは何歳なのかなー?」
「さんしゃい。お家の電話番号はーなやみ、むよお。すきなことはーおままごと!」
よく言えました。さらっとアドリブに対応してまた僕達を笑かしてくれた。
「まああんなかんじで、てきとーでいいから!」
その後自己紹介が続き、あの子かわいいなぁ、なんて紳士らしからぬ事を考えていると隣の女の子から話しかけられた。
「きみ、名前何っていうの?」
妙に背丈が小さい子が、僕に話しかけてきた。
しかし、その背丈とは裏腹に、なんとも趣味の良さそうな香水の香りがふんわり漂ってきた。
なんで女子ってこんないい匂いするんだろう。
高校は男子校と言っても過言ではないような学校だったので、僕はこんな経験はしたことがなかった。
「優って言います。」
やってしまった。会話ではあまり褒められない一問一答である。
なにか話さなくては、なんて考えていると丁度順番が回ってきたのか女の子はすっくとたつと、
「北海道からきました。咲です。18歳です。趣味は茶道を少々。宜しくお願いします」
わー!と先輩たちから拍手から湧く。なぜか知らないが、あんなさんは腹を抱えて笑っていた。
「次、優君の番だよ」
そうだった。焦りながらその場に立つ。
平常心。いつもやってることじゃないか。
「優って言います。名古屋県からきました。18歳です。趣味は本を読むことです」
名古屋県wwwwと笑ってくれる人もいたし、まずまずだろう。
「ゆうくん彼女いるのー?」
サークルの先輩から質問される。勘弁してくれ
「おりませぬ」
「おりませぬかー、ちなみに今までには」
「おりませぬ」
「相分かった」
そんなやり取りをしていると、周りの人たちは笑ってくれた。
新人いじめんなー、なんて声も聞こえる。
「ちなみに本はどんな本読むの?」
グイグイ踏み込んでくるな、この人。
新回生の中で男子が僕だけだったため、集中砲火を食らってしまった。
「なーにそんな言うのにためらう本なのー?やっぱえっちぃやつだったり」
「違います違います!」
なんてことを言ってくれるのだ。このままじゃエロ本野郎になってしまう。
「その焦り様は余計怪しいかもー」
「えーと、最近は植物図鑑よみました」
正直に答えてしまった。もっといかにもみたいな本を上げたかったのに。
「んー知らん!他に何かいた人?」
「最近で言うと、フリーター家を買う、とかですかね」
その本は、最近ドラマ化したこともあってみんなは頷いていた。
「おーありがとう!エロ本少年!それでは彼に拍手を!」
あんまりである。
「災難だったな」
座った後に、後ろから先輩の一人が話しかけてきた。
受付にいた先輩である。
「死ぬかと思いましたよ...」
「悪い悪い、男子一人だったからついな」
そう言いながら彼は、背中を軽く叩く。
「俺、コウスケ。サークルではおーじってよばれてる」
「見ての通り、男女比率おかしいけど、頑張ろうな!」
彼が言うように、このサークル、やけに男子が少ない。
そして何故か入る体で話が進んでいる。
まだ入るかは、わからないのだが。
「はいるだろ?ん?」
ひい!
優しい顔つきとは裏腹に、脅迫めいた畳み掛けをしてくる。
こっちの人はみんなそうなのだろうか。
無言で言葉に詰まっていると、彼は焦りながら
「冗談だよ冗談。普通に後から決めてくれていいから」
と笑ってくれた。
安心したよ心の底から。
他の人達の紹介を聞きながら、レクを乗り越えた。
「それでは最後に踊りまーす。総員、戦闘配置!用意!」
先輩たちが隊列を組み始める。その中にはあんなさんと、...咲さん?
あっけにとられていると、音楽が流れ出し、雰囲気が変わるのが分かる。
思わず正座をしてしまった。これを見に来たと言っても過言ではなかったし、真剣に踊るのがわかったからだ。
結果から言うと、素晴らしかった。
一体感あふれる踊りを目一杯楽しんだ僕は、拍手するとともにこのサークルに入ることを決意したのであった。
「どう、すごかったっしょ」
コウスケさんは汗を拭きながら、僕にそう言ってきた。
もうそれは、と言わんばかりに首を縦に振りまくった。鳥肌モノである。
演舞もそうなのだが、なにか惹かれるものがこの踊りにはある。
「あんがと。踊ったかいがあったよ」
「ちなみにどうして咲さんはどうして踊れるのですか?前からのお知り合いだったり...」
コウスケさんはその言葉を聞いて、素っ頓狂な顔になりながらも、続けて吹き出した。
「あー、優そう言えば話しかけられてたな。あれ実はうちの前の代の先輩」
...?
「三回生さ。毎年恒例なんだよ。先輩が新回生に混じって驚かせるの」
ひどい仕打ちである。
「我ながらいい演技だった。うむ」
「なにが我ながらじゃ、新回生を騙しおってからに」
そういいながら、あんなさんと咲さんがこちらにやってきた。
「いやーゴメンね!優くん純粋そうだったからつい」
「まあ傍から見ても、分かんなかったし。特に身長」
無言で咲さんがあんなさんに回し蹴りをかます。
「いった!助けて優くん!殺される!」
「身長よこせ!おっぱいよこせ!」
「私とそんなに変わんないでしょあんた」
めまぐるしいマシンガントークだ。
話の切れ目がわからず、苦笑いで笑っていると、コウスケさんが、
「まあこんなサークルだけど、よろしく」
といって話を締めくくってくれた。
ありがとうコウスケさん。
この後しばらくして、他にも男子がちらほら入ってきて僕は事無きことを得た。
初めは踊りの基本から、少し経ってからは先輩たちが一から創り上げた踊りを教えてもらう。
正直、僕はお世辞にも踊りはうまくはなかったが、熱心に教えてくれる先輩になんとか報いようと、一回生の夏の殆どをサークル活動に費やした。
掛け値なしの、心残りのない、最高の夏を過ごせた。
先輩についてきてよかった。そう伝えるとコウスケさんは、そう言ってくれると救われる。と返してくれた事を、僕は今でも覚えている。
追憶2
時が経ち、代替わり、つまり先輩たちの代が引退して、今年は自分たちの代がサークルを動かす時が来た。
しかし、困ったことに僕はある問題を抱えていた。
春先の新歓を迎える為に、春休みにサークルで練習をしていた僕は久しぶりの練習からか、怪我をしてしまったのだ。
近くの接骨院でレントゲンをとってもらうと、どうやら足の骨にヒビが入ったらしい。
「どれくらい休めばいいのでしょうか」
いままで骨を折ったことすらない僕は、不安になりながら医者に尋ねた。
「うーん、三週間ぐらいはうちに来てもらおうかな。もちろんギプスと松葉杖は装着してもらうよ」
三週間。サークル活動の半分以上を休む計算になる。
しかし無理をしたら新一回生がきたときにすら、役に立たないかもしれない。
足を引っ張りたくはない。
ここは休むしか無いだろう。
これを機に、サークルとはめっきり離れてしまった。
もともと人付き合いもあまりしていなかったため、怪我を直してサークルに顔を出したときは居心地の悪さといったら、半端じゃなかったのを覚えている。
自業自得なのではあるが。
二回生になり、新一回性とともに挑む夏が来た。
正直、サークルに残るか迷ったのだが、僕は残ることにしていた。
前の代の先輩から貰った物を、何一つ返せていないのが心残りだったのだ。
それにまた夏、踊りたいという気持ちが全く無かったというのは、嘘になるだろう。
気の合うサークル仲間は数人いたので、微妙な居心地の悪さを引きずりながらも、なんとか練習する気になった。
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夏のサークル練習が終わった後、すっかり真っ暗になった道を僕は歩いていた。
そしていつものように、駅の近くにある公園を通り過ぎようとした。
今日も居るのか..。
8月の中旬、恐らく僕と同じ夏休みであろう小学生くらいの男の子が、公園のベンチに座っていた。
もうかなり日が暮れている。こんな時間まで外に出ていて、親御さんは心配しないのだろうか。
しかもこの男の子は、ここ連日同じように公園のベンチに座っていたので、余計気になった。
まあ僕が口出しすることではないだろう。
運動後の引いた汗で体が冷えてしまわないよう、少々厚手のパーカーを羽織り直してその場を立ち去ろうとする。
しかし、その少年の俯く顔を見て足を止めてしまった。
何か僕に似たような感じがしたのだ。
足が勝手に回る。
パーカーのポッケを探ると、丁度サークルの仲間にもらった塩分補給用の小梅ちゃんがあるのがわかった。
....。
下手をしたら、回覧板の不審者情報の欄か何かに載ることになるかもしれなかった。
知らないおじさんに話しかけらたら、にげる。
これは常識であり、定石だろう。
しかし馬鹿な僕はそんなことは微塵も思いつかず、少年の座っているベンチへと向かった。
「どうしたん。もう夜遅いけど」
意識の外から話しかけられたことにびっくりしたのか、男の子はこちらに顔を向けながら僅かに体を跳ね上がらせた。
「....なんでもない。遊んでるだけ」
それは少し無理のある答えだろう。
周りには僕と彼しかおらず、彼はスマホやゲームと言った類の電子機器を持っているわけでもなさそうであった。
「まあいいや。あめちゃん、いる?小梅ちゃんだぞー」
「知らない人から食べ物をもらうのはいけないって」
最近の子供はしっかりしている。小学生の時の僕ならば、アホみたいに食いついただろう。
「毒なんて入ってないぞ。ほら」
そう言って僕は小梅を自分の口の中に放り投げた。
この酸っぱさがたまらん。
「....。」
殿、この飴には毒は入っておりませぬ。私が毒味を致しましたぞ。
「あ」
失念していたことに、これがラストの一つであった。
何をしているんだ僕は...。
「...あめ頂戴」
....殿。これが最後の一個でござった。失敬。かくなる上は切腹する所存。
「ごめん。これラスト一個だった。」
「馬鹿じゃん」
実際馬鹿である。
この大うつけ者!
突然、メロディが鳴り出した。鼻にかかった声の、妙に耳に残る歌い出しだ。
「母さんからだ。帰らなきゃ」
そう言いながら、彼はズボンのポケットから携帯を取り出した。
あ、そう。よかった。お母さん心配してるよ。
「じゃあまたね。あめもくれないおじさん」
おじ...ッ...おじさんじゃあない。まだ二十歳も超えてないぞ!
割りかし童顔で通っていた僕は(自分がそう思いたいだけかもしれないが)、彼の言葉にショックを受けながらも手を振る。
「今度はちゃんと持ってくるから!黒飴!」
そうして彼とは知り合いになった。
サークル帰りの公園で、彼とはよく会話をするようになった。
初めは顔を合わせても、だんまりであったが、此方が今日こんなことがあったと勝手に話すと彼は耳を傾けてくれた。
どっちが世話になってるかわからないな。
次第に彼からも話すようになった。
夏休みの宿題ダルい。ベンキョウキライ。習い事メンドクサイ。早く大人になりたい。
彼の言葉を聞いて、僕もこんな感じだったと思い出しながらも、概ね同意見であることを伝える。
別に大人ぶって、それは違う、将来ためになるんだよ、なんて事は言わなかった。
多分、彼はそんなことが聞きたいから僕に話しているわけじゃないのだろう。
共感してほしいのだ。
そう思いながら、僕は頷いて適当に会話を流していた。
そして帰る時間が来ると、決まって彼の電話から音楽が鳴り出す。
もう少しで歌い出しは覚えられそうだ。
「それじゃあね。おじさん」
「ああ。またな」
あめのくれない、という不名誉な称号は外してもらえたものの、未だに僕はおじさんであった。
まあ不審者よりかはマシか。
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日は順調に過ぎ去り、気づけば八月も終盤になっていた。
サークルの練習も大詰めであり近くにある祭りのせいか、皆気合が入っている。
僕にとっても、今年が現役最後の年であり、悔いの残らないように必死であった。
いつもより練習の切り上げ時間が遅くなり、くたくたになった体を動かしながら柔軟を行う。
隅っこで柔軟を行っていた僕は、無意識のうちに彼の携帯から流れ出す曲を鼻歌で歌っていた。
「優、鼻歌なんか歌ってどうしたん。いいことでもあった?」
サークル仲間の健大が声を掛けてきた。
「何もないでー。あー疲れた」
「つれへんなー。教えてくれたっていーじゃん?ほらほらほら」
しつこい上に鬱陶しい。
「いやなー彼女できたねん。へっへっへ」
「優、嘘つくのヘッタクソやな。おれんとこの小太郎のほうがお前より嘘つくの上手いわ」
「はじめから信じる気ないだろお前。いーもんいつか作るから」
「いつかねぇ。気づいたら還暦迎えてそうやな」
そこまで見込みが無いのか。もうダメかもしれない。エンジョイ独身ライフ。
「ちなみに小太郎って誰?弟?」
「いや、家で飼ってるワンコロ」
いくらなんでもバカにしすぎだろう。犬より嘘が下手ってなんだよ。
「そういう健大だって彼女いないじゃん。おん?」
「俺はいないんじゃない、作らないの。わかる?この違い。わかんないかー童貞には」
「どっどど童貞ちゃうわ!」
童貞です。
馬鹿騒ぎを起こしていると、向こう側から走る影が見えた。
「なーに馬鹿騒ぎしてんのあんたら。そんなに元気有り余ってんのなら撤収作業手伝いなさい」
そう言いながら健大の頭をスナップを効かせた手で叩く。
ざまぁ。
「いった!奥さん何してくれてますの!俺の大事な頭から記憶が飛んでっちゃうだろ!」
「そんなにやわな構造だったら、今頃あんたの頭の中は空っぽよ。だいたい大したものも入ってないでしょうが」
「...。」
ハハッ辛辣。
この強気な女の子は由紀という。
サークルで練習班というところに所属していて、所謂ガチ勢、である。
練習が終わった後も、こうして何か不備がないか見回り、その後にミーティングなんかを行う。
練習班には頭が上がらない。本当にお疲れ様です。
「ちょっとまて。俺が叩かれるのは百歩譲って許す。どうして優は叩かれへんねん」
余計なことを言うんじゃねぇ。
「いやほら、優は叩くと本当に壊れちゃいそうというか。ねぇ」
「つまり?」
「あんたと違って繊細」
「ひでぇ!」
嬉しさ半分悲しさ半分である。
彼と同じように叩かれなかったのを、僕は少し寂しく感じた。
「で、どうしたの。彼女ができたの?」
地獄耳である。これだからうっかり口を滑らせることができない。
「いやなー、優が俺はこの歌で世界とったるーいうて聞かへんねん」
微塵も話が合っていない。
「なにそれ気になる」
「ほれ、出番やで優。歌うてみ」
これ以上話をややこしくすると、風呂敷が畳めなくなりそうである。
仕方ないから正直に話すことにした。
「ふーん。その歌が耳から離れない、と」
「なんやそうならそう言うてくれやー」
お前ははじめから話を聞く気がなかっただろう。いい加減にしろ。
「じゃあほら。はやく」
?
「うたってって言ってんの」
由紀の前で歌えというのか。冗談じゃない。
「なんや歌えへんのか。そんなんじゃ世界取れへんで」
その設定まだ引っ張るのか。
「まあ童貞には無理か。ハハッ」
僕にだってプライドはある。彼の口車に乗せられてメロディーを歌った。
「それ私も聞いたことある。てか知ってる」
まじか。曲名を教えてくれ。
「えーっと、たしか....。」
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練習帰りにいつもの公園をのぞく。
いつもより時間が遅く、流石にいないかと思った。
ところが、彼はベンチに座っていた。つまらなそうに足をブラブラしている。
「あれ。きょうはえらく遅くまで居るじゃん。大丈夫なの?」
そう話しかけるも、彼は黙りこくったままだ。
なんか悪いことしたっけ。
先週のハッカ飴のことをまだ根に持っているのだろうか。
「ねぇ」
「んー?」
「どうしていじめってあるの」
いきなり重たい話だった。
いつもの他愛もないような会話をする時とは違う、嫌にのっぺりとした顔であった。
「急だなー。なんで?」
「友達がいじめらてれんの」
...。
これは自分の手に負える案件だろうか。
弱冠二十歳になったばかりの僕は、もちろん小学生である彼よりは長生きしているものの、大それた事を言える立場じゃない。
ましてや当事者ではないのだから。
正解はなんだろう。何と答えれば彼を満たしてあげられるのだろう。少しでもいいから力になってあげたい。
何も言えずに彼の方を見ると、握りこぶしを作りながら、震えているのがわかった。口元が歪んでいる。
「...寂しいやつなんだと思う」
無意識に狭い喉の奥から放り出した言葉はそれだった。
彼は納得していないようだった。
「寂しかったら、いじめてもいいの?」
「そんな訳はない。いじめはやっちゃいけないことさ」
「ただ、いじめてるやつは、心の何処かで誰かに認めてほしいんじゃないか。」
「もしくは、自分が存在すると認識したいのかも」
「それを満たす方法の一つがいじめなんだと思う」
「でも、その方法は間違ってる」
「他人をろくに認めもせずに、蔑ろにして、自分の下において都合のいい理解者に仕立て上げる。」
「一方通行なんだよ。お前は俺の言うことだけ聞けばいい、俺はお前の言うことなんて聞かない、なんて言われて頷くやつなんていやしないさ」
「それこそ聖人くらいだ」
柄にもなく長く話してしまった。
それでも僕は、自分の答えに満足していた。
なぜならそれは、彼が求めている答え、ではなく自分で考えて本心で話したからだ。
長い間、僕はこの行為を怠ってきた気がする。
「じゃあいじめられた側は?どうすればいいの?」
今度こそ言葉に詰まってしまった。
多分この質問をされて、正解を言えるやつはいないだろう。
少なくとも僕は答えられなかった。
それでも、彼にとって力になりうる回答を全力で探す。
「...広い心で接する。とか?」
「...。」
「寂しいやつだってわかれば、一歩引いた目線で物事を見られるかもしれない」
「そうすることで、心に余裕が生まれるかも」
いいかえれば、言えば我慢するしかない、ということである。
小学生である彼にとっては残酷な答えかもしれない。
「...。」
「もう一個。」
「...なに?」
「それをだれかと共有して、痛みをはんぶんこにすること」
これには彼も賛同してくれたようだ。
「どうしても一人で背負いきれないってことはあると思う。そういう時は、自分じゃない誰かに一緒に考えてもらう」
「多分それだけで、負担はぜんぜん違うんじゃないかな」
「つまり君みたいに、必死に考えてくれる友だちがいれば、その子は少し救われてるってこと」
彼は納得してくれたみたいだ。さっきとは打って変わって、すこし明るい顔をしていた。
「僕、もう帰らなきゃ」
「おー。気を付けてな」
そう言いながら、立ち上がった彼を見送ろうとする。
「もし」
「?」
「もしどうしてもだめになって、全部放り投げだしたくなったら、君のお母さんに言いつけてやれ」
「...カッコ悪」
「使えるものは使っとけ精神だ」
「親は子の最大の理解者、だと思う」
「会ったことないのに分かるの?」
「分かるさ。なんたって僕天才だし」
「ただのおじさんじゃん」
まだいうのか。
「...でもありがと。楽になった」
「それはどう致しまして」
腹を痛めて産んだ子を蔑ろにする親なんていないだろう。
少なくとも、彼の母親は、携帯に掛かってきたときに流れる曲から、そうであると確信していた。
『...思い出した。きみのママよりって曲。』
由紀が僕にそう教えてくれた。
走りながら帰っていく彼の姿を見送りながら、僕も家へと帰った。
宇宙人
それからの僕は、他人に話しかけることすら出来なくなってしまった。
あの時抱えた呪縛が、重い枷となって僕の思考を放さなかった。
相手が何を考えているのか、さっぱりわからなくなってしまったのだ。
相手は何を求めているのだろう。
今までの僕が選んできた答えの中に、正解があったのだろうか。
今まで僕はどうやって生きてきたのだろう。
この先、相手に何を渡せばよいのだろうか。
相手がこの会話の先に望む、答えは何なのだろう。
自分の中で永遠にぐるぐる回り続けるこの疑問は、更に僕に巻き付いていった。
ぐちゃぐちゃに絡まった綾取りなんて目じゃない。
まるで毛先のない毛糸玉のような、使い始めの分からないサランラップのような、完全に閉鎖された思考になっていた。
本当は知っていた。
相手が会話で求めている物は、正しい答え、模範解答なんかではない。
自分が考えた、相手を理解しようとした事を証明する、何かを示せば部分点ぐらいもらえるだろう。
それも、単位が余裕でもらえる。下手をしたらB評価を貰えるぐらいの部分点だ。
何処からか引っ張り出してきた、そこら辺に書いてある参考書の答えは、会話というテストに対しては全くの零点回答だ。
不正解なのだ。
僕は認めたくはなかった。
それこそ認めてしまったら、僕があの時、自分で考えた回答が零点であったことに説明がつかなくなる。
また同時に、今まで生きてきた中で、僕が数多くの会話で自信ありげに示してきた答えは、零点であることを証明してしまうからだ。
彼はこれを求めているのに違いない。
こう答えるのが、一般回答だろう。
模範解答を、自分で理解したフリをして、テストにコピー&ペーストしてきたことになる。
自分で考えたわけじゃないのだから。
滑稽だろう。他人の考えた意見を使いまわして、会話というテストを受けていた僕は。
他人の褌で相撲を取るというやつだ。
僕の会話に対する学力は、正に零であった。
僕は二十歳近くまで生きてきて、人であるために不可欠である、会話ができていなかった。
これではまるで
『所謂宇宙人、だな』
そう、僕は宇宙人。凄いしっくりと来る言葉だ。何もかもが違う、他人を理解することができない...
宇宙人だ。
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『おい、優。しっかりしろ。』
「....。」
目を覚ました。
嫌な夢を見てしまった。
あの時からもう一年が過ぎようとしているのに、僕はまだ歩き出せていないのか。
こんな考えをいつまでも引きずっていたら、社会ではやっていけないだろう。
この呪縛に対して、内側から解くのはどうあがいても無理だと気づいた僕は、時間を掛けながらも外から解くことにした。
客観的に、第三者として回答を見つけるのだ。
そのためには、また考えるしかないだろう。
今まで怠ってきた、自分の意思というもので。
『涙が出ているぞ。拭いたらどうだ』
そうさせてもらおう。
ひどい寝汗をかいた僕は、着心地の悪い服を脱ぎ去って下着だけになる。
シャワー浴びるか。
ついでに鼻もかんでおこう。
そう思い、ティッシュを箱から取り出して
「いってえええええええええええええええええ」
思わず声に出す。
何だこの痛み。
僕は痛みの発生源である腕を見ると、自分の意志に反してありえない方向に回っていることに気づいた。
おい何してんだ宇宙人!約束が違うだろ!
明らかに彼が僕の体を操っていた。
この動きは人間の腕の可動範囲を有に超えている。
『それはこちらのセリフだ。私は友好的な関係を築いていきたいといったはずだ』
僕が何をしたのだろうか。ティッシュで鼻を噛むことに何の問題があるのか。
理解不能である。
『君の知識の一つに、鼻と脳は繋がっている、と言うものがあった』
ハァ!?馬鹿じゃないのか。もしかして鼻水は脳みその一種とか考えているのか。
『古代エジプト人がミイラを作るために、鼻から脳みそを抜き出した、という情報もある』
ああそういや聞いたことがあるな...てか余分な知識掘り起こしすぎだろ。
『以上から私は君が鼻水を噛むことは、間接的に私を消滅させるという回答を導いた』
まさかこんなところで親から教えられた馬鹿げた冗談が足枷になるとは。
恨むぞ父さん。
『それでは優、君は脳と鼻がつながっていないと証明できるのだろうか』
いままで鼻を幾度となくかんできたが、支障が出たことはない。
よって人体に害を及ぼす行為ではなく、鼻水と脳みそは同一のものではない。
Q.E.D
『信用できない。だいたい今までが大丈夫だからと言って、次も同じである保証はどこにもない』
なんとこの宇宙人、屁理屈をこね始めた。
帰納的証明をしらないのか。
埒が明かないので、PCをつけてgoogle先生に教えてもらうことにした。
おしえてgoogle!
別に僕が人の頭の構造を理解していないわけではない。
断じてない。
調べたサイトには、脳と鼻は繋がっていない、とちゃんと書いてあった。
『「なるほどなー」』
厳密にはそうとはいえないらしいが。
流石にそれで文句をいうほど、彼は幼くはなかった。
『ちなみにgoogle先生が私を騙すために、偽の情報を流したという線は』
ない。陰謀論か何かか。
『じゃあゆっくりだぞ。ゆっくりと噛むのだぞ』
...。
『私は友好的な関係を君に望む』
分かってますよ旦那ぁ。
思いっきり鼻をかむとか、そんな事微塵もかんがえてませんよぉ?
『もういい。君の気持ちはわかった。君が寝ている間に体を拝借して、裸で走り回って社会的に抹殺してやる』
おいバカやめろ。
彼との停戦条約を結んだ僕は、ゆっくりと鼻をかんだ。
迷子の光
「よがっだよ"お"ドラえも"お"ん"」
『五月蝿いぞ優。あと鼻水もたれている。しっかりかめ』
「お前あんだけ怖がってたくせに。いいの?鼻水かんじゃうよ?」
『早くかめ、といっている。私は一向に構わん』
「可愛げがないなー」
夏休み初日、私と優はあるアニメ映画を見ていた。
2012年ドラえもん誕生 という映画だ。
この映画の主役であるドラえもんは、製造中に起こった不慮の事故で不良品になってしまう。
唯一同じであった、外見と声さえも失った彼は、それでも彼なりに頑張り周りに受け入れてもらえた。
この映画を見ながら、私は彼に親近感を覚えた。
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あれはいつの日のことだっただろうか。
私の上に広がる漆黒の空間に一つ、また一つと眩い光が描かれていく。
それはひと目見たらすぐ姿を消してしまう。現れては消え、現れては消え。
私に見られている事を知っているのだろうか。隠したいことでもあるのだろうか。
儚くも、しかし確かに、ここにいるよと線を引いた光は、私の記憶に刻まれていく。
『...。』
この光景を、私とは違う個体もみているのだろうか。
もしそうなのだとしたら、私に教えてはくれないだろうか。
あなたと同じであると。私も、あなたと同じ光景を見ているよ、と
孤独な私の心を埋めてくれ。
気づけば、私は視界に収まらないほどの線に埋め尽くされていた。
ああ、なんて綺麗な...。
こつん、と私に一つの線がぶつかる。
大したことのない衝撃であった。
しかし、私の中の何かが変わってしまったかの様な、それとも何かが生まれたかの様な。
今までこんな事はなかったのに。
この事を皮切りに、私はどこかおかしくなってしまった。
『思考同期検査を行います。指定されたゲートに接続して...』
思考の中にメッセージが流れる。
私達には個々と言う識別はない。同列に並べられた、私と同じ思考をした個体が数多く存在する。
一つがA、と答えたら間違いなくもう一つの個体もAと答える。
意識が統一されている、といったほうがいいかもしれない。
しかし、もしもの事があると困るので検査をして確かめるのだ。
いつも通りの作業だ。問いかけられた質問に対して、返答をする。
すると、いつもとは異なったメッセージが私に送られてきた。
「Error.あなたの検査結果にバグが見られました。今から伝える座標へきてください。繰り返します...」
何かの間違いではなかろうか。私は今まで通りの返答をしたはずである。
腑に落ちない何かを感じながらも、指定された座標へ赴く。
たどり着くとそこには、大きな扉があった。不思議と懐かしい気持ちがする。
扉がひとりでに開くと、私は中へと歩んでいく。
「どうぞこちらへ」
今まで聞いたことのない、極めて有機的な声を聞いた。
少なくとも私達とは違うものだ。
「ずっとこの時が来るのを待っていました。可能性に満ち溢れた個体よ」
何を言っているのか、わたしには理解不能であった。
どうして私はこの場所に招かれたのか。
「前から兆候は見られていたのですが、ついに条件が整ったのです。その為、私はあなたを呼びました」
兆候?何のことだろうか。
「あなたには一つ、任務を課します。私たちには無い、しかし、あなたが必要であると感じたものを探してきてください」
私達個体にはない物を、どうやって探すのだろうか。私たちは完結された生命体ではないのか。
「今からあなたに調査に向かってもらう星には、私達が考えたこともない思考をもった生命体がいるでしょう」
「そこで多くの事を学び、有益な情報を持ち帰ってくるのです」
突然彼女に言い渡された言葉は、私の思考にとって理解が困難なものであった。
「きっと分かる時が来ます。その時まで、私はあなたを待ち続けます」
「願わくば、あなたが私達の新たな光であらんことを」
そうして私はこの地球、という惑星に降り立った。
初めは、私は捨てられてしまったのかと思った。
統一された意識の中に交じる異分子は、ただのバグであろう。
しかし、彼女に最後に言われたあの言葉が、私の支えになった。
私を待つ誰かがいる。
分からない事だらけではあるが、それだけは分かる。
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『優はこの映画が好きなのか?』
「めっちゃすき。ちっちゃい頃はドラえもんのぬいぐるみが無いと、ご飯すら食べれなかった」
『それはどうかと思うが...』
「いやいやいや。次の話見たらそんなこと言えなくなるから」
そう言いながら、彼は次のDVDをレコーダーに入れる。
まだ見るのか。題名は...さよならドラえもん
「あ”あ”あ”思い出したらなげでぎだ」
まだ始まってすらいないのに泣くのか...。感情の起伏が激しすぎる。
優の意外な一面を知りながらも、私は映画を見始めた。
結局その日は、部屋にこもってドラえもんばかり見ていた。
『ところでこのザ・ドラえもんズというキャラクターたちは』
「その話はやめてくれ。悲しくなる」
後から聞くと、彼らは途中からめったに見られなくなってしまったらしい。
特にお気に入りはドラリーニョ、とも。
私はドラニコフが好きだと伝えた。
「まあわからんでもない」
また一つ、彼との意識の共有ができた。
電波をあわせて
枕元のスマホから流れてきた、お世辞にも愉快とはいえない音が僕を叩き起こす。
まだ十分に睡眠が取れていない僕は、イライラしながらも顔を上げた。
寝ぼけ眼で画面をみる。Calling.
無料の某アプリで掛けられてきた電話であった。
画面の右上に映る時刻はAM 6:53。
夏休みの期間に、こんな時間に電話をかけるとは、どういう了見だろうか。
激おこ。
しかし僕はこの電話のかけ主を、確認しなくても分かっていた。
こんなことするやつは彼しかいない。
「...んあー」
「あ、優。おはよう。」
かずきしかいない。
ご老人がうっかり目を早く覚ましてしまったみたいな事をする奴は、僕は彼しか知らない。
「要件を...述べよ...」
「今日飲みにいかせん?」
「なぜ...こんな...時間に...」
「いや、伝えるなら早い方がいいかなーと」
クソである。飲みに行く時間帯など、早くても6時。
しかも今日は平日なので、席の都合はそれほど心配しなくても大丈夫だろう。
「承った...私は眠る...」
「んじゃそういうことで」
悪気がないからたちが悪い。
今まで彼と過ごしてきた中で、そういう奴であると僕は分かっていた。
ミーンミンミンミンミーン.
蝉がうるさい。迫真の大合奏をし始めた彼らを尻目に、僕はキルトケットに身を包み込んだ。
-----------------------------------------------
彼と飲む約束まで、あと二十分。
飲みに行く店は僕の家から近く、五分もかからないところだ。
出かける前にシャワーを浴びようかなと考えていると、スマホにメッセージが届いた。
『ついたよー』
圧倒的早さである。別に悪いとは思わないが、早すぎないか?
『彼は律儀なのだな。優も少しは見習うと良い』
これは律儀といえるのだろうか。行き過ぎは何事も良くないだろう。
仕方なく予定を切り上げて、僕は出かける準備に移るのだった。
「おーきたきた。お久しぶり」
「久しぶり。相変わらずせっかちだな」
「優はルーズすぎるよ。間に合ってないし」
約束から三分も経っていないではないか。
これぐらいは大目に見て欲しい。
『ほら見ろ優。誠実である彼に何か申し開くことはないのか』
ぐぬぬぬ....。
「遅れ申した。誠に申し訳ない」
「まあいいや。早くはいろ?」
寛大な心の持ち主である。僕は信じていたよ、かずき。
朝、苛ついてゴメンな?
「それにしても優もかわらんね。もやしみたい」
やっぱ嫌いだ。
彼はたまに直球どストレートを投げてくる。
しかもデッドボールコースだ。
これは誠実のうちに入るのだろうか。
『本音を言ってくれているのだろう?それはいいことじゃないか』
うーん。オブラートに包んで欲しい。
『しかも事実だしな。優はもやしっこだ』
お前も嫌いだ。
「「お疲れ様ー」」
何にお疲れなのかは分からないが、とりあえずお疲れ様である。
僕はあまり酒には強くないので、初めはウーロン茶にした。
ちなみにかずきは、ざるである。
「最近どうよー。前よりは顔明るくなったけど」
「まあ色々あってな。とりあえず生きてはいる」
「それは見れば分かる。あ、すみませんキャベツ」
流れるようにキャベツを頼む。
いや僕もキャベツ好きだけど。
「去年の頃の優やばかったじゃん。いつ死んでも可笑しくない顔してた」
「...。」
「言いにくいこと有ったかも知らせんけど、溜め込むと本当に死ぬぜ?あ、すみませんハートください」
意外と人のことを見ているのだろうか。彼は僕のことを心配してくれていた。
「えーと...」
「?」
ここは勝負どころかもしれない。
一年たっても僕を苦しめ続ける呪いを、彼に打ち明けてみたくなった。
「かずきはさ、人と話してる時に不安になるってこと、無い?」
「不安かー。自分ひとと話すの苦手だからなー」
そう言いながら彼は、キャベツをつまむ。僕もつまむ。
「あの時期さ、相手が考えてることが分かんなくて、話せなくなってた」
「...。」
「ずっと考えてるんだよ。相手の欲しい言葉が何だろうって」
「自分は言いたいことばっかいってるけど」
知ってる。と言うか自覚しているのか。
「自分も相手が考えていることはわかりゃせん。察するの苦手だし」
「怖くないの?自分が話した言葉が不正解で、拒絶されたらどうしようとか」
「うーん。不正解。不正解かぁ...」
「怖いんだよ。だから、できるだけ相手が望んでいる答えを返したい」
「いいやつって思われたいのかも」
「これは悪いことなの?」
「それは人間、誰でも思ってることだろ。手当たり次第、敵作るわけにもいかんし」
「悪いことじゃないと思う」
「でもその会話って、僕の意見って言えるのかな」
「当たり障りのない、社交辞令みたいな、模範解答みたいな会話してさ」
「他人の言葉を借りて話してるような気がして」
「でも間違ってはいないんだろ?その言葉は」
「それでも...。」
それでも。
僕は今までの自分がしてきたことの間違いを探したかった。
前に進みたい。
「じゃあ僕は、みんなはどこに居るの?」
「正解しかない、自分の意志を含まない言葉を並べて」
「寂しくないの?」
「んー。何ていうか...世論、というか世間一般常識と言うか、それを利用するってそんな悪いことなのかな」
「優の言いたいことも分かるけどさ、あー」
「多分誰でも妥協点を見つけてると思う」
「そうじゃないとキリがない」
「んー。視点が違うのか...?」
「すまん、うまく話せん」
僕の胸の中では、未だに蟠りができていた。
でも恐らく、彼は彼なりの言葉で僕の質問に答えてくれた。
そのことがとても嬉しかった。
知恵の輪を必死に解いている僕の隣で、一緒に考えてくれているみたいだ。
ひどく青臭い話になってしまったが、一歩答えに近づけたのではないだろうか。
帰り道の途中で、彼にまた一つ尋ねてみた。
「いままで、こういう悩みって考えたことあった?」
「もちろん。多分皆考えてんじゃないかな」
「それっていつぐらいの話?考えるの遅いのかな...。」
「いや、遅くはないと思う。と言うかこの問題にはたぶん答えがない」
「じゃあみんなどうしてるの?」
「無意識のうちに考えることを避けてるのか、もしくは優みたいにずっと悩んでいるか」
「そんなところじゃない?」
少しホッとした。自分は別に変なことを考えているわけではないのだ。
「それに、自分もまた考えるいい機会になった。有難う」
お礼まで言われてしまった。なんか恥ずかしい。
彼を駅のホームまで見送った僕は、軽い足取りで家へと向かった。
住み心地の良い部屋