取り扱い説明書
心の取扱説明書。
自分の説明書を、持ち歩いている。
私の精神は脆弱で、動揺しやすくて、困っている。
今日も青信号に向かい歩いていたら、赤に変わってしまって、直前で方向転換して別の信号に向かったら、中学生に「だっせー」と笑われた。
こんなことを報告すると、笑ってくれる家族がいてくれるからいいが、一人になったらどうする気だ。
そう思うので、毎日ノートにその日あったことを書き、なんとか自分の取扱説明書を作った。
その一、笑われるのは常に吉と知れ。
私はよく地元の人に笑われるのだけど、笑うというのはいいことだ。大概笑い話で済むのだから、落ち込む必要はない。
その二、食べ物はついでの時以外買い物するな。
あれ買って来て、とお小遣いを渡された時以外に買うと、大抵損をする。「あ、こんなの食べるんだ」と店員にばれるのも嫌だ。そんな私は潔癖症。
その三、前から歩いてくる人に道を譲れ。
大概前から歩いてくる人に道を譲ると良いことがある。覚えておこう。
その四、その五と続くのだけど、一気に書くには多すぎる。
私はその日もノートを付け、ぱたんと閉じた。
次の日、図書館に行った。
本を返すついでに、新しい本を見る。
と。
「ねえ、君、いっつも一人だよね。遊び行かない?」
「は?」
なんだかインテリなのにはちゃめちゃそうな人たちに声を掛けられ、不良少女なのか天才少女なのかわからないリーダー格の女の子は見覚えがあって、その子は幼馴染の美香子ちゃんだった。
「お久しぶり」
そう言って笑う美香子ちゃんは、ピアスをした耳に高い位置で結わえた髪を揺らして立ち上がり、唐突に握手を求めて手を差し出してきた。
シェイクハンド。
どうしよう、こんなときの説明書はない。
私がおっかなびっくり手を握ると、美香子ちゃんは、「さ、行こ」と言って、私を伴って駅前のマクドに入り、ポテトを奢ってくれた。
「なんかさ、千佳、いっつも一人だから、気になってたんだよ」
美香子ちゃんがそう言って、おっすと他の人と手を合わせるのを見て、ああこの人には自分の取扱説明書なんていらないんだろうな、そう思った。
「千佳、おーい、千佳、これ何。この取扱説明書って」
美香子ちゃんが私のポケットから落ちたそれを拾い、振って見せた。
あ、と手を伸ばしたが、するりと取られる。
「何々、私の取扱説明書?」
美香子ちゃんはふんふんと読んで、次にあははははと笑った。
そしてそれに火をつけて、灰皿の上で燃やした。
「これからは、こんなの必要ないようにしてあげるよ」
そう言って美香子ちゃんが笑い、私を火の向こうから腕を組んで見つめた。猫みたいな目だった。
そうして、私と美香子ちゃんの短いようで長い月日は流れだした。
あるときは海に連れていかれ、あるときは山。あるときはライブハウス、あるときはビルの屋上。地下街、街。
美香子ちゃんは勉強も良く出来た。
「あたしあの大学行って、子供たちに教えるんだ」
そう言って美香子ちゃんがかっこよく煙草を吹かしながら立ち上がり、座っていた岩の上からある建物を煙草を結わえた指で指した。
「絶対、合格してやるんだ」
美香子ちゃんの家庭は複雑で、お父さんはいつも家におらず、お母さんはいつも汗水たらして働いていた。
幼い美香子ちゃんは泣き虫で、意地悪で、けちんぼで。
私はいつも虐められていた記憶しかない。母が「美香子ちゃん、駄目でしょう」と言って娘の私より美香子ちゃんを優先していたのが気に入らず、人形をある日はさみでめちゃくちゃにしたり、ペンで落書きしたのを覚えている。
それを初めて見てびっくりした顔をしたのは、誰でもない美香子ちゃんだったのだ。
それ以来、美香子ちゃんは家に来なくなった。
「ごめんね」
あの日のことを思い出して、私が謝ると、「立ち止まると、置いてくよー」と言って、美香子ちゃんがライトを持って目の前の草原を避けてざくざくと歩いて行った。
それ以来だ。美香子ちゃんが何気なく、私をそっと陰から守ってくれるようになったのは。
知らないようで知っていた。だから私は、自分の心を鎮めるために、取扱説明書を作ったのだ。
これ以上恨まないように、悲しくならないように。
美香子ちゃんは全部知ってたのかもしれない。知ってて、だから、守ってくれた。
「千佳」
美香子ちゃんが目の前に立って行った。
「これ、聞いてみ」
イヤフォンを渡され、二人で聞くと小さなころに戻ったような気がして、洋楽のもの悲しさをロックで歌う女性歌手の声と飛ばすギターに、私は釘付けになって。
以来、私は迷うと、ロックを聴くようにしている。
美香子ちゃんが教えてくれた、世界の教科書。感情の取扱説明書。
これがなかなか、効くんだな。
そんなことを思い、あの日の私を思い出しながら、眼下の橋を渡っていく学生たちを眺め、私は瓶のコーラを飲んだ。
女性リードボーカルが歌う。
もの悲しい歌を。明日へと渡る歌を。
取り扱い説明書
後で後悔することって、結構あるから。