みなもの鏡界

泳げない陸上部の女の子に、泳ぎが得意な女の子が、夜の学校に忍び込んで泳ぎを教える話です。

1

 誰よりも早く走るのは得意だ。オリンピック選手には到底、及ばないだろうが同い年の人には誰にも、例え相手が男子でも負けない自信がある。けれでも自慢の健脚が本来の力を発揮できるのは、大地の上に限られた話で、そのアイデンティティーは水中ではふやけて頼りなくなってしまう。
 針が肌に突き刺さるような猛烈な真夏の日差しと、日本独特の蒸し暑さで、空気は重く不快指数は限界値を指しているのに、私にとってはプールの中より幾分心地は良い。
 他の生徒はクロール、平泳ぎ、背泳ぎ等、思い思いの泳法で水の中を進んでいくが、私だけがスタート地点で池の底に突き刺さった棒切れのように動けないでいる。
 水面に顔を付けるだけでも一苦労。水面の目前でそのまま、固まってしまう。外気より水温の方が、低い筈なのに嫌な脂汗が額から垂れて、半開きになった口の隙間から侵入して、舌に不快な味を残た。
「チリ後ろが渋滞してる!」
 言われて振り返ると飛び込み台の上で私を見下ろす女子生徒がいた。
「う、ううう………」
「獣みたいに唸っても駄目!」
 “見逃してください”と潤んだ目でアイコンタクトを送ったが、飛び込み台の上で仁王立ちしている女子生徒にはまったく通ず、目を細め蔑むような目で私をじっと睨む。
「シオネ、酷いよ!」
「………」
 普段、パッチリとした目を、キツネのように細めて“早くしろ!”という圧力をその眼力だけで加えられてしまった。
 仕方なく頭を水中に沈め、走りに特化した足でプールの壁を力の限り蹴ってプールに、意を決して飛び出した。必死に足を上下に動かす。兎に角、全身する為にがむしゃらに足を動かした。正直訳がわからない。怖くて目は開けられないし、どれくらいの速度で、どこまで進んだのか全く検討がつかない。
 目隠しをして全力疾走しているみたいだ。けれど、何てもいいから、25メートルプールなんて50メートルのトラックに、比べたらたったの半分じゃない。100メートルなら4分の1だ。そのくらいの距離、私は何度も走破してきた。
 私なら出来る!と思った瞬間、胸の奥から苦しさが一気の脳天までこみ上げ、思わず大量の水を飲みだ拍子に喉にひっかかて溺れそうになった。けど幸い泳いでいたレーンが、プールの一番端だったので、プールの壁にしがみ付き大きな咳をして、気管支に入った水を追い出す。そんな私の様子を見ていた体育教師は「仕方ない。チリは陸上で頑張ってるからな!見学してていいぞ」と私に言っきた。
 シオネは目を細めたまま溜息をついている。
 しかしショックだった。個人的に15メートルは泳いでいたと思っていたのに。

 すごく当たり前な事だけど夏は暑い。しかし走りこめば、全身を駆け巡る血液は溶岩の如く熱くなり、夏の熱気を簡単に上回る。
 張り詰めた集中力は、限界まで引き伸ばされた弓の弦。甲高いホイッスルの音ともにトラックに飛び出す。
 25メートルなんて距離をあっと言う間に通り過ぎる。ものの数十秒で100メートルのトラックを走りきった。
「すごいチリちゃん!記録更新したよ!」
「本当に!?」
 同年代の女子陸上部のツバサがタイマーを持ってニコニコ笑いながらやってくる。
「去年は県大会でまでしか行けなかったもんね!今年はもっといけるんじゃない!?」
「あっ!」
「どうしたのチリちゃん?」
 新記録が表示されたタイマーの数字が、視界に入る前に違うものが目に止まった。
「ごめん、ちょっと待ってて!」
 部活動をしている他の生徒に邪魔にならないように、気をつけながらグラウンドの端に向かっていき、グランドと駐輪場を隔てるフェンスに、もたれ掛かっているシオネの前にやって来た。
「どうしたのシオネ?こんな所で、そうそうシオネも部活とかやればいいのに!」
「興味がないわ!」
「泳ぐの得意だよね。水泳部とかむいてるんじゃない?」
「得意と言っても人並み程度よ。それよりチリに話があるの」
「そうなの?」
「このままでいいの?」
 シオネがそう言うと、風が彼女の肩のところで切り揃えられた、髪を優しくなびかせた。
「何が?」
「泳げないままでも」
「私、水は駄目だけど………」
「誰よりも早い脚があるから大丈夫って言うんでしょう泳げる泳げないとか、そういう問題じゃない!」
「………シオネ、過去に囚われちゃいけないってわかってる」
 そうわかっている。トラウマを、自分を乗り越えなくちゃいけないって、しかしそれを克服するには一歩を踏み出す勇気と覚悟がいるが、私にはその2つの要素を持っていなかった。
「チリ………」
 そっとシオネは私の手を取る。
「別に一人でなんとかしろって言ってるんじゃない。一緒に特訓しましょう」
「と、特訓!?な、何をするのかな?」
「夜のプールに忍び込むのよ」
「えー、それって校則違反通り越して違法行為なんじゃ………」
「あの、チリちゃん」
 振り返るとタイマーを持ったツバサがいた。
「ごめん、シオネ。部活戻るね」
「今夜、迎えにいくから」
「う、うん」
 我ながら曖昧な返答をして部活に戻る。
「チリちゃん、誰と話してたの?」
「小学校からの友達。シオネっていうの!」
「………ふーん」
 バットにボールが当たった、小気味いい音が耳に届く。見上げると、朱色に染まりつつある、夕暮れ前の空に向かってボールが昇っている最中だった。
「仲良いんだね」
「うん!」

 押しに弱い私は結局シオネと共に夜、学校のフェンスを乗り越えてプールに侵入した。自分が通っている学校とはいえ、夜に忍び込む行為はやはり不法侵入になるのかならないのか、一介の女子高生の私が、法律に通じてる筈もなく、何とも判別つかないのだけど、ばれたら両親と教師に大目玉を食らう事は、間違いないと思っている。
 泥棒みたいな真似をして、プールサイドから静かな風に揺らされた、水面を眺める。周囲に人工的な照明はなくプールに満々と張られた水は宵闇と同化し、真っ黒に染まっていて、鏡のように夜空の満月を映し出した水面は、そのもう1つの月を弄ぶように揺らめかせていた。
「なんだか雰囲気あるねシオネ」
「なにが?」
「幽霊が出そう」
「肝試しに来たんじゃない!」
 シオネは語調を強くして言うと、着ていた服を脱ぎ捨てる。下着の代わりに競泳水着を身に着けていた。
 身体にぴったりとフィットする競泳水着では、厚手の衣類とは違い、運動不足や不摂生による贅肉を誤魔化しきれない。
 シオネの身体に、はみ出た脂肪もないし腕と脚部はしまっているし、背骨は凜として伸びている。
 女子陸上部の私が見ても、綺麗で運動部に所属していないのを疑うくらい無駄がない。思わず見とれていたら、シオネは何も言わず、身体を波紋さえも起こさせないくらいに、静かに水へと委ね、プールの真ん中へ泳いでいく。
「まずはここまで来てみようか」
「えー………」
「あからさまに嫌な顔をしないで!」
 渋々、私も服を脱ぎ、下に着ていた競泳水着を空気に晒してから、ツインテールに結った二本の髪を、わざとゆっくり団子状にまとめる。
 その最中、シオネは私にチクチクと針でさすような、鋭い視線を送っているように感じたが極力、目を合わせないように努めた。尤もいつまでもそんな牛歩戦術が、何時までも通用する筈もなく、二本のおさげをまとめたところで、入水する時が来る。
 水面に爪先を着けたところから、脳天まで一気に鳥肌が走る。 
 真っ黒なプール。底は消失し地獄の底まで、続いているんじゃないか。暗い水中には腹を空かしたピラニアやワニが潜んでいるんじゃないか。様々な猜疑心が脳裏を過ぎる。しかしプールの真ん中で堂々と立ち、私をじっと見つめるシオネの存在が、私の空想を徹底的に否定する。
 それでも水中が闇に閉ざされている分、余計に怖い。なんとか膝まで沈めたがそれ以上進めない。何度もトラックでスタートダッシュを決めてきた私の脚が、何の役にもたたなく感じる。私の脚は木偶の棒なんかじゃないのに、水に触れただけで弱々しくなってしまう。
「チリ」
 名前を呼ばれていつの間にか閉じていた、目を開けると、シオネがすぐ前にいた。
「ごめん、シオネ。折角私のために時間を作ってくれたのに臆病で」
 シオネは首を横に振り「自分の臆病さを素直に、認める事の出来る人間を、私は信用する」と言った。
「ふえ?」なんて私は間の抜けた事を言うとシオネは私の手を優しく握る。
「私と一緒なら水に入れる?」
「う、うん」
 曖昧な返答で自信はなかったけど、不思議さと表現すべきか、なんとも形容するのが難しい、シオネの魔力は私の恐怖心と猜疑心を、奪っていく。
 シオネは私を水中へと誘い、エスコートするように手を握ったままプールの隅にそって歩いた。
「水嫌いはあの日から?」
「………………………うん」
 あの日とは、私とシオネがまだ小学生の頃、私が池に落ちて溺れた事件だ。それ以来、プール等の大量の水に対して強い恐れを抱くようになってしまった。
 八年前のあの日、高校生になった今でも鮮明に思い出せる。 梅雨で雨が降っていた。学校からの帰り道、途中にある溜池で通り過ぎた時、水面で何かボロキレのような物が動いていて、近くに寄ってそれを観察するとヌートリアが泳いでいたが、当時の私はヌートリアという大きなネズミの存在を知らず、以前、両親に連れて行ってもらった水族館で見た、ビーバーが近所で住んでいたんだと思い、喜んで池の傍まで行って、水面を滑るように移動するヌートリアを池に沿って追いかけていたら、雨で濡れた草に足を滑らして池に落ちてしまった。
 池の中は深くて足が着かず、もがいても悪戯に体力を消耗するだけで、もう、溺れる力さえも徐々に失いつつあった時、何者かに引っ張られた。
 全身から血の気が引いていき、何故か思考は氷のように硬直して“ああ、私はこれから死ぬんだ”と冷静に考えていていたら。その意識さえもなくなり、気付いたら病院のベッドの上に寝かされていた。どうやって助かったのかは、全く覚えていない。
「あの時は運よく助かったけど」
「運よく!?」
 シオネは語気を荒げていったので驚いてしまう。
「え、どうしたのシオネ?」
「少し休憩しましょう」
 シオネと共にプールから上がった。

 プールサイドに座っていると、身体から染み出た水分が、アスファルトに伝わって、染みが徐々に広がっていく。
 肩を並べ体育座りをしているシオネに、目を向けるとある一点を見つめていた。その視線の先にあったのは、水面に映る満月。そこに飛び込んだら、ウサギが餅をつく幻想的な、月面世界にいけるんじゃないか、地球人はお月見をしながらお餅を食べるけど、月のウサギは地球を眺めながら、何をするんだろう。やっぱり私達みたいに、お餅を食べるのだろか、だって一生懸命お餅をこしらえているんだから、そんな空想を描きたてるほど、水面が反射する月光は金色に輝き美しい。
「ねえ、チリ。本当は泳げるんじゃない?」
「え!?そんな訳無いじゃん!本当に怖くて」
 シオネは立ち上がりプールに背を向ける。
「あの日、誰がチリを引っ張ったのか覚えていないのね」
 シオネは身を倒し、背中から夜と同化した水の中に、消えていった。
「シオネ!?」 
 彼女の名前を呼ぶが返事はない。シオネの意図は私にはわからないが、その内顔を出すだろう。プールサイドに座り様子を伺う事にした。
 一分待ったがシオネは現れない。
 シオネは泳ぎが上手だ。少し不安になるがきっとドッキリみたいなものだろう。更に一分待つ、また更に一分、それでもシオネは漆黒の水中に身を隠したままで、ただ不安が膨らんでいく………さらに一分、流石におかしいんじゃないか、もしかしてプールの底に頭をぶつけて気絶しているとか、シオネに限ってそんな事は………でも、意を決してプールの中に入る。
「シオネ、どこ?」
 夜と同化した水の中で、シオネの姿を捉えるのは難しかった。思い切って頭を沈め目を見開くがぼやけて何が何だか判別つかず、人間の目は水には適さないんだと初めて知る。
 すぐに呼吸が続かなくなってきた。水から顔を出し、出来る限り沢山空気を肺に取り込みもう一度潜った時、突如何者かに足を引っ張られ驚き、折角吸った酸素を殆ど吐き出してしまう。
 あの日と同じだった。
 そこに潜んでいたのか、それとも獲物を求めて巡回していたのかわからないが、私が溺れて水を必死にかき混ぜる音に反応してやってくる。
 魔物だ。そいつは気配を消して近づき鮮やかに私を闇の奥へと引っ張っていく。
 なんで雨の日に池に行ったのか、なんでヌートリアを見つけたのか………でもあの日、私は本当に一人で池に行ったのだろうか。池の水は仄暗くて生ぬるい、そして幼い命を、容赦なく奪う冷たさも持ち合わせていた。から体力と命を奪っていく、状況があの日と酷似していたから事故を思い出す。 それは水中で吐き出し、口から出た泡の数を数えられるくらい鮮明で強烈で、曖昧と忘却のベールで覆われていた記憶がまざまざと目の前に蘇った。
 確かに私は何者かに引っ張られた。それは恐怖による幻とかそういう物ではなく、確かに私は引っ張られた。
 記憶の奥底で六等星のように輝きは目には止まらない輝きだけど、それでもそこには確かに存在していた事実。
 そうあの日、私を引っ張ったのはシオネだった。
 足を掴む手を振り払い水から顔を出すと、同時にシオネも水中から現れた。私は呼吸が激しく乱れているのに、シオネは全然息が上がっておらず、初めてシオネの事を不気味だと思った。
「水なんて大した事ないでしょう」
 呼吸が整わず肩で息をしているので返答が出来ない。
「思い出した?」
 何とか首を立てに振って肯定する。
「はあ、はあ、はあ、シオネが、はあ、はあ、助けてくれた!」 
 溺れた上、水に酸素を奪われていく中、私はシオネが助けるため上に引っ張ってくれたのに、パニックになり冷静な思考を失っていた為、魔物が池の底に連れて行こうとされたと記憶が改ざんされていた。本当は身体を張って、私を助けてくれた恩人の存在を、何年も忘れてしまって申し訳ない気持ちが湧き上がってくる。
「シオネ、ごめんね。本当に………忘れてしまってて」
「いいのよ。それよりチリ、泣かないで」
「泣いてないよ」
 嘘だった。震えた心は涙腺を刺激し瞳から涙を溢れさせる。
「チリ、トラウマなんて思い込みでしょう。過ぎた事とか、苦い思いとか、そういうのを出来ない言い訳にしたらいけないと思う」
「うん」
 水から出てプールサイドに肩を並べて座りながら、足を水面に着けてみるけど、さっきみたいに鳥肌がたったりとかはせず、それほど恐怖の対象とは思えなかった。尤も泳ぐ事はまだ出来ないけど。
「でもなんで私、シオネに助けられたのに忘れてたんだろう。何かに襲われたと勘違いしてたし」
「………」
 シオネは返事はせずじっと水面に写る月を見つめている。
「ありがとう、シオネ」
 静かに立ち上がるシオネ。風が吹きはじめた、夏の風にしては二人の間を抜ける風は、異様に冷たくて濡れた身体から効率よく体温を奪っていく。今の季節を疑いたくなるほど温度が低いが、昼夜とわず鳴り響く蝉の命を懸けた合唱が、正確な暦を訴えている。
 シオネの目は潤んでいた。長時間、水に潜っていたからじゃないことは、長い付き合いの私にはわかる。シオネは思った事はあまり積極的に口にはしないが、表情は比較的、素直な反応を示す。そう、シオネは瞳に悲しみを宿しているのだ。
「もう行かないと」
「そうだね、帰ろうか」
 私も立ち上がる。
「違う………私だけ行くの」
「えっ!?」
「ごめんね、チリ。トラウマとか偉そうな事言ったけど、本当は単なる私の我が我が儘だったの。でも、チリに忘れられるのだけは………本当に嫌だった」
「ちょっとどうしたの?シオネらしくないよ。いつもみたいにクールにさ。あ!もしかしてシオネ流の冗談とか?」
「冗談じゃない、本気よ!」
 シオネは突然、ぎゅっと私を抱きしめた。シオネの体温と競泳水着により強調された身体の凹凸と突起が直に伝わってくる。驚いたが不思議と不快ではなかった。
 耳元にあるシオネの口から、こんなにも近くなのにか細い嗚咽が漏れているのがわかる。
「シオネ、泣いてる?」
 シオネは答えなかった。けれど今はこうしてシオネの抱擁に委ねたほうが良い、そんな気がしてならない。
「チリもしかして気付いてる?」
「何が?」
「惚けてるの?」
「???」
「本当に鈍いんだから」
「酷いな、大らかって言ってよ」
「ただの脳筋じゃない」
「えへへ」
「私、ずっとチリの側にいちゃいけない。じゃないとチリが前に進めないから」
「どういう意味かな?」
「私はもう死んでるのよ」
「え!?」
「あの時にね」
 その言葉の意味を理解する前にシオネの身体は私から離れた。
「よくわかってないようだけど、それならそれでいい。じゃあねチリ。先にあっちに行って美味しい食べ物屋さんでも探しておくから。私の分も精一杯生きてね」
「待って!」
 離れて行くシオネに手を伸ばしとめようとしたが、既にシオネの姿はどこにもなかった。最初からいなかったかのように………否、八年前のあの日から自分しかいなかったんだと、私はようやく理解した。

 次の日、部活の朝練があるから、基本的に早起きだけど、今日はそれよりも、っと早くスマホのアラームをセットして、目を覚ました。
「珍しいわね。チリ」とお母さんは言うに、挨拶をして、朝食を食べて、制服に着替えて、準備をすませていつもより早く家を出た。
 私にとってなんら変わりない一日の始まり、しかし今日、私の足が向く方向は間逆で、学校とは反対方向、と言っても向かった先は三軒隣の家で、サラリーマンの家主に専業もしくは昼間パートをしているその奥さん、そして小中高生の子供がいて、祖父母は離れて住んでいる。家族構成が容易に想像できてしまうくらい普通の一般的な住宅街の家。その家のチャイムを押すと、出てきたのは細身の中年女性だった。
「チリちゃんじゃない。どうしたのこんな早くに」
「あの、シオネにお線香をどうしても上げたくて」
「えっ!?」
 一瞬、目を大きくし明らかに驚く女性。そうシオネお母さんだ。彼女は驚いていたが、納得したのか表情を柔らかく、快く私をを家に上げ仏間に通す。遺影に写っているのは小学生くらいの幼い少女。無邪気に笑う幼いシオネに線香を捧げて、静かに手を合わせる。
 本来、シオネの時間は八年前で止まる筈だった。それがなんの因果なのだろう。神の悪戯か、はたまたシオネ自身の意思だったのかわからない。しかし彼女の意識だけは私と共に成長し、一緒に遊び、学び、私の側に留まり続けていた。
 それも昨晩で終わった。じっと黙り合掌を続ける。それはシオネと決別し、新たな気持ちで一歩踏み出す為の決意の表明であり、初めてシオネに行う弔いでもある。
 仏間に線香の香りが充満し始めたとき、私の合掌が解かれずっと傍らで見守っていたシオネの母が「シオネ、今何をしてる?」と尋ねてきた。
「旅立ったみたいです」
「そう………ようやく」
「ごめんなさい。私の身代わりに」
「いいのよ。誰も悪くないんだから。でも、親の私にさよならくらい言ってほしかったな」と一筋の涙を流しながら言った。
 シオネの家を後にする際、シオネの母は「またいつでも来て、あの子の話聞かせてね」と言ってくれた。
 頭上の空は青く、遠くの空には入道雲。ちょっと歩いただけで額に汗が滲むくらい気温は高いのに、脇腹あたりに隙間風が通り抜けていくかのように冷たい。
 早く家を出たが、通学時間はいつもと同じになる。しかし昨日までと大きく違うのはシオネがいない事。たった一人の通学路、そしてこれからもずっと………シオネはもう遠くへ行ったのだから。
 涙も出ないし悲しくもないのに、心臓が潰されそうなほど切ない。

みなもの鏡界

みなもの鏡界

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-14

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