ある観察


余計な手間を省くためにも,以後,『彼ら』と呼称することを前提にして,先ずは彼らを特徴づける行動の話から始めたい。
ある週の初め,を思い浮かべて欲しい。その上で,彼らの個体である『彼』が,荷台を押して,ある住宅街の路地を進んでいたとする。荷台は空(から)の状態である。これを人の行動として見た場合,彼はその進んだ路地の先にある目的地において,その荷台で運べる物を受け取って,ここを再度通るのだろう,と推測できる。またそのときに,彼が荷台を空のままにして,戻って来たとしても,我々はこう考えられる。受け取ろうとした荷物が予想と違って大きく,または重かったために,受け取りを完了出来なかったか,目的地にて,荷物を渡すはずの相手が不在だったか,あるいは追い返されたか,はたまた諍いでも起きたか,あるいは,などなど,その理由を説明できるだろう。荷台をわざわざ持ち出して,それを折り畳みもせずに,凸凹のアスファルトの上をガラガラと音を立てて進むのは,そうするだけの必要性と意味があると考えるからである。彼が制服を着て,帽子を被って,なかなかに屈強な肉体をしていれば,その業務性だって窺える。社会的に意味のあるものに着目して,思考は進められる。しかし,このことは彼らには直ちに当てはまらない。
観察した結果から行う推測ではあるが,彼らは隠れるのが大好きである。穴蔵や,立ち並ぶ大木の背後,生い茂った草っ原の中などを覗き込めば,彼らは大体そこにいる。見つかると,すぐに逃げる。この傾向は,彼らの間で交わされる行為にも見てとれる。ある特定の場面においては,これが顕著である。かかる場面における彼らの行為は,表面的に分かりやすい意味を幾重にも置く。しかし,それらをそのままに解釈することは,彼らの意図を逃す間違いを犯すになる。彼らの意図はそこにはない。その裏(とおそらく彼らが設定し,そう解釈することを相手に大いに期待する)に込めたものが,おそらく彼らの真意である。その読み解きを相手に求める。おそらくは,その相手がうんざりし,または問われたくないと思い悩んでしまうまで,彼らはそれを繰り返す。さきの荷台の例でいえば,例えば,彼らの意図は,荷台で物を運ぶことにはない。その行動は,荷台とアスファルトの共同作業として,その音を立てることによりもたらされる,不快なメッセージの伝達を意図していたりする。我々の間における表現を用いれば,要は嫌がらせである。もちろん,彼らの行動がそうである,とは言わない。あくまで,我々の間でいえばの話である。話を戻すと,彼らはこの意味の多重行動(以下,単に『多重行動』と記す)ともいうべき方法を,特定の場面における適切なソリューションとして採用している。記録から分かることだが,彼らが団体としての事項に関する行動をとる時,彼らは多重行動をとる。そして,彼らが団体に関する事項は,彼らの集会において決定されるから(彼らの集会に関しては,後述する),彼らが多重行動をとる『特定の場面』とは,彼らの集会後であるといえる。また,おそらく団体に関する事項として決定される内容は,彼ら団体の存続可能性と必ず関係がある訳ではない。なぜなら,彼らの集会は,危機的状況の有無に関わりなく,突発的に始まったりするからである。つまり,我々の社会においても見られることだが,とある悪ふざけを皆でするとき等,俗っぽいこともここに含まれている可能性があり,彼らの間では,その内容云々というよりは,団体に関する決定事項という形式が大事ということになる。実際,そういう時の彼らの行動の中には,我々から見ても,とても控えめに言って,迷惑をかけるとか,不快を与えるといった,ロクでもない意味しか見出せないことが少なくない。しかしながら,繰り返すが,これは我々から見て,ということである。彼らからすれば,別の意味を持っていることは十分にある。我々の尺度を,そのまま彼らに適用してはならない。観察の基本である。再び話を戻そう。今度は,悪ふざけを例にとる。団体に関する事項としてこれを行うとき,彼らは悪ふざけと直ちに分かるやり方は,決して採用しない。二重,三重と表面的な意味を塗り込めていき,悪ふざけをしているということを,他者から分かりにくくしなければならない。悪ふざけは,一見して悪ふざけであると了解できるところに,その俗っぽい面白さがあるのだろうが,彼らの間では違う。特定の場面においては,必ず二重以上の意味をもったパターンを採用する。そこに拘りがある。まるで儀式のようである。悪ふざけの意図を知られなくてもいいのか,という疑問は,だから当然に抱いてしまう。この点に関して,おそらく彼らの答えはこうであろう。知られなくても構わない。なぜなら,彼らは常に一方的な発信行為を行うことを,コミュニケーションの手段と捉えていると考えられるからである。
荷台を押す,は我々に近付けた例であるから,彼らが本当に荷台を押して,路地を歩くということはない。ただ,道は歩く。木にも登る。さて,彼らの集会の後,彼らのうちの一個体が,途中の低木を見つめて歩いていた場面に目撃したことがある。ここで特筆すべきは,その仕草も,二重以上の構造を意識して行われるということである。すなわち,彼は真正面しか見ていないという振りを終始続ける。顔を前に向け,前進を続け,何も見ていないという表現をする。端から見れば,いたって自然な様子である。だが,彼らの本命は,あくまで途中の低木である。低木にいるはずの他の個体である。だから彼らは,あるいは音を立てる。低木の枝に登っている他の個体に向けて,「ねえ,気付いて」,いや,「気付け!」と怒鳴らんばかりに,力強く彼らの身体を叩く。たまに来た道を少し戻りして,また力強く身体を叩き,また少し戻って,ということを繰り返す。ここにおいて,その意図はあからさまになるのだから,明らかな矛盾挙動である。けれど,これが彼らのコミニュケーションの手段である。そこに込められたメッセージまでは分からないが(繰り返しになるが,我々の尺度を当然に用いてはいけない),しかし相手がそれを理解し,理解した意味に対する返信を行えば,コミュニケーションは成立する。けれど,ここで大事なことは,他の個体はそれに反応しないということである。むしろ,その他の個体も,別の方法をもって,身体を叩き,音を鳴らす彼に対して,一方的な何かを行う。一方的,というのはおかしい,という指摘は理解できる。ここでいう彼の反応は,その返信と解釈するのが,状況に沿って素直であると考えられるからである。しかし,ここで私が一方的と記すのにも理由がある。そして,説得力はこちらの方があると考える。なぜなら,彼は明後日の方向を見ながら,先の行動をとる。複数の協力者を得て調べてみると予想どおり,その明後日の方向には別の個体が必ずいた。そしてその個体も,『彼ら』と同じことを始めた。恐らく,それを聞いた,他の『彼ら』も同じことをしているのだろう。手が足りず,残念なことに,その連鎖反応の時間的・場所的限界までは把握できていない。だが少なくとも,低木の『彼』を狙った最初の個体は,すぐに別の方向を向いて,やはり同じ行動をとった。したがって,その可能性はある。距離の違いはあれ,それは,意図してするあくびのような,出ないはずのくしゃみ,せき込みであるような動作であり,頬を掻く,額を撫でる等の,我々の間でも行われる,自然な素ぶりを装ったような行動である。または幼子のように成体が低く叫ぶ,などの彼らの間でのみ,特別の意味を持つであろう行動である。それらは返礼ではない。応じた,といえるやり取りがない。彼らは彼らが満足するまで,彼らの行動を繰り返す。接触した彼らのとる行動は,常に一方的に終わるのが特徴なのである。
また,その再現回数も,子供のごっこ遊びの比ではない。それに疲れ果て,あるいはそれ以外には何も出来なくなるまで,それを行う。そして,回数という点にも意味がある。なぜなら,行動は,行動する主体において必ず意味を持つ。彼らの特徴的な行為が,実質的には,相手が不在の状況においてコミュニケーションを行う場合と同じであったとしても,である。言祝ぎに込められた喜びや愛しみ,または罵詈雑言に塗り込めた敵意,悪意は,行為者自身が予めそれを内面に用意していなくても,必ず行為により喚起される。行為の意味が分かる以上,行為者は行為のもたらすものから逃れられない。『人を呪わば穴二つ』は,だから,そうしようとする本人を抜きして語ることは出来ないはずである。本人がそれを理解し,それをあるものとして実感し,そして,それを体現することは,すべてに先んじて起きる。行為者が『それ』にならなければならない。ある意味,表現のもたらす力である。そして,このことは,おそらく彼らにおいても同じである。その頻度が,端的にこの点を指摘する。そこに込められた具体的な意味内容を正確かつ詳細に記すには,まだまだ観察が足りない。ただひとつ言えるのは,一方的なコミュニケーションを重ねていくうちに,彼らは思い込むという傾向を強くするという点である。極端な例をあげれば,彼らは観察する私をも,彼らの一部と見做したと解さざるを得ない行動を見せたことがある。まったく異なる私に,である。その個体は,私が手を挙げたりして反応をした途端,しかし戸惑ったかのような狼狽ぶりを見せて,やはり逃げ去ってしまった。我に返った,とでもいえる反応であったが,そうなるまでの様子には,その兆しはなかった。視界に入るもののすべてが,『彼ら』に見えているかのようであった。そういう印象を与えた。なぜ,彼らはそうなるのか。私が考えるところでは,その背景に,次に記す集団としての彼らのあり方と,彼ら個体との関係性が与える影響が存在する。
彼らは基本的には個体として行動するが,集団を形成することもできる。集団を形成する理由は,我々の場合と変わらないように見える。集団としての彼らを観察していると,彼らの集団内部においては,リーダーが存在しない。というよりは,そういう役割がない。彼らも個体としての差異はあるはずなのだが,しかし,彼らの意識の上では,彼らはおそらく,すべて平等な存在である。そういう意味では,実に民主主義的であると言っていい。そして,彼らは団体としての意思決定(に見えるもの)を,その規模の大小はありながら,集会にあたるものにおいて行う。そういう意味で,彼らは社会的意識を有しているといえる。集会の日程のようなものも,一応決まっているように見える。ただ,前述したように,突発的なものであって,大規模な集会も多々行われていることから,彼らの間においても,日程というものが重視されている訳でないのかもしれない。
ここで観察の基本を犯し,我々の社会における直近の例を持ち出せば,民主主義の機能不全の問題は,したがって,彼らの中にも存在すると考えられる(あるいは意地悪く,そうなって欲しいと思ってしまう,といえるか)。だが,私が観察した限りで,彼らの集会がもめて終わることはない。あるいは,彼らの中ではもめているのかもしれないが(実際,どの集会は常にギャーギャーと騒いでいる声が尽きないのだが),最終的には何かが決まるようである。そして先述したように,集会の後,集団を離れた個体のうち,実に『彼ら』らしい特徴的な多重行動をとる者が現れる。彼らの間で何かが決まったのだと考えられる根拠の一つであるが,もっとも,それが命令のような,権威や罰則に基づく強制力を伴うものなのか,それとも,各個体が自主的に,集団の意思(と彼らが思うところのそれ)に従った結果なのかは窺い知れない。一方で,集会の後で集団を離れる個体の他,集団に緩やかに留まる個体を観察してみると,我々の間で通じる表現でいえば,その様子はハイになっているというか,(不適切であることを自覚しつつ,あえて用いるところの)エクスタシィに達しているような満足感を見て取れることが少なくない。まるで,騒いだことで生じた集団としての大きなうねりに積極的に巻き込まれることでしか得られない快感,というものがそこにあるかのようである。仮にそうだとするならば,さきに提起した疑問については,飛躍はあるが,しかしながら,的外れともいえない推測を行うことが出来る。すなわち,観察の結果として,リーダーなどの役割も持たず,個体全員が同等の価値を有し,最後の一体に至るまで,実に平等に扱われているように見えることが,彼らの間においても事実であるとして,なぜ彼らが物別れに終わることなく,集会を終え,その意思に皆が従い,あるいはこれに従うかのような行動をとる者まで現れるのか。集会後の,彼らの余韻に浸るような様子が少なからず散見されることをも考慮すれば,それはおそらく,端的には我々の社会において言うところの,ノリといえるもの,ではあるのだろう。しかしながら,それは大いなるノリである。誰かがリードして,それを決定するのではない。皆で生み,大きく育てたそれである。それはいつしか,集団の構成員たる彼らを包み込み,飲み込み,吐き出す。集会後の彼らは活き活きとしている。若返ったかのようである。そのために,集会後の彼らは,その堂々と,きびきびとした所作から,新たな別の個体群に見えて仕方ない。そして,その彼らは多重行動をとり始める。そうして,ある意味で,彼らは,彼ららしさを獲得していく。相関関係に付き纏う誤謬を恐れずに,彼らと彼らが生み出すノリとの間に立って,眺めてみれば,そこにまるで親子関係に似たものを見出せる。彼らは,彼らのノリを生む親であり,また,生まれた彼らのノリは,彼らを取り込んで,うねるような影響を与えて,新たなに生み落とすかのように,作り変える。エクスタシィのような,集会後において漂う雰囲気の達成感は,それを暗に指摘する。どちらも他方を生む親のようなものであり,どちらも他方によって,新たに生み落とされる子供のようなものである。切っても切れない。新しい『彼ら』は,この繰り返しからは逃れられない。結果としては秩序だった,見事な縛りとなるのだろう。この点が,彼らのあり方を,暴動などの一時的なものと同一に論じ切れないと考える根拠となる。かかる彼らの営みは,喩えれば,それは人為的なものを超えた,彼ら自身も制御できない,下手をすれば,それを生むために彼らのすべてを枯渇させられる可能性を十分に孕む,まるで遺伝子の乗り物という修辞で語られるような,そういう類のもののように思える。だから鎮圧,という言葉が実に似合わない。自滅,という表現なら,腑に落ちる怖さがある。
他の『彼ら』の目撃情報もある。それらの情報の信ぴょう性を検証後,『彼ら』の発見,その行動観察及び現在確認できている『彼ら』との比較,接触可能性等の検討を経てから,実際の『彼ら』同士の間のやり取りの有無等,その関係性を中心にして,今後の観察を行なっていくことになるだろう。
最後に,観察には,想像で補わざるを得ない部分が多分にある。それがもどかしく,また,面白くもある。この要約においては,これ以上に記すべき重要なものは見当たらない。改めて納得できたところもある。しかし,どこか残念に思うのも,正直な気持ちである。まるで,観察と,想像力の間にある隙間に立っているようである。しかしながら,魅力が生まれる,大切な場所というイメージを抱いてしまう。
なので,「その姿はどのようなものか」という点については,あなた方のそれに委ねたいと思う。

ある観察

ある観察

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted