二つの日記
――むかしむかし、とても美しくてやさしい娘がいました。
――でも悲しいことに、娘のお母さんは早くになくなってしまいました。
〈六月二十一日〉
鉛色の雲はどこか見えないところに行ってしまって、水溜りの残るアスファルトはきらきらと輝いていた。ぐずついていた天気が明けた開放感に、美駒(みく)はスキップしだしそうな軽やかな足取りで歩く。鼻歌で『マジョルカの夜』のメロディーを口ずさみながら。
体育館に着くと、そこにはすでに何人かの男女が集っていた。美駒はその中に友達を見つけて、明るく話しかける。
「やっほ。掃除当番で遅くなっちゃった」
談笑していた三人が振り返り、その内の一人、堀江優がぎこちない笑顔を浮かべた。ピンク色のボールを片手に持っている。
「やっほー。早く着替えてこないと、始まっちゃうよ」
「うん。急いで着替えてくる」
三人に小さく手を振って、小走りで更衣室へ駆け込む。出てこようとした何人かとぶつかりそうになって、慌てて避けた。
美駒は新体操部に入っている。部活動で新体操ができる高校は多くない。新体操がやりたくて必死でこの高校に入ったのだ、きっと。そんな人たちでここは溢れている。
急いで、と優には言っておきながら、美駒は人のいないロッカーの前で少しぼうっとしていた。レオタードを表情のない顔で見つめる。何か違和感が消えない、と美駒は思った。確かにここに存在するもの、それを裏付ける積み重ねがどうも見えてこない。
いやいやと、首を横に振る。考えすぎだ。ちゃんとこうして楽しい毎日を過ごしている。忙しさにもやもやした感情は紛らわせてしまおう。
着替えを終えて更衣室を出ると、すでに柔軟体操が始まっていた。美駒は顧問の先生に頭を下げてから、列の端っこに加わった。
「一緒に帰ろ」
いつものように優たちに言うと、優はびっくりしたように目を瞠り、そのあとで笑みを作った。「うん、帰ろ。アシビー寄ってく?」
「またぁ? 優、ほんとあそこのドーナツ好きだよね」カナヤンこと金谷川が、からかうように笑う。アシビーとは、おしゃれな内装のカフェで、自家製のドーナツを売りにしていた。たしかにおいしいうえに、カロリーも抑え目だから女子には嬉しい。
「いいじゃん、私も好きだよ」
賛同の意を示したのは、ミヤこと小宮山。名前に「小」が入っているけど、背はこの中で一番高い。
「ま、いいけどさ」
しょうがないなぁ、という風をカナヤンは作っているが、もとより反対なわけではない。じゃあ、決まりだね、という声が誰からともなく上がる。
アシビーは空いていた。さびれた住宅街に溶け込むようにぽつんと建っているからか、知る人ぞ知る店になっていた。指定席になりつつある奥の四人掛けのテーブル席で、他愛のない話を笑いながらする。
ドーナツをもったいぶるようにちびちび食べた。アイスコーヒーの氷はほとんど溶けてしまって、薄くなっていた。それでも渇いたのどを癒してくれた。
「あーあ、笑った笑った」美駒は腹を抱えて、背もたれに倒れこんだ。
「美駒、笑いすぎよ」
「夏休みさ――」美駒は三人に等しく笑いかける。「どっか小旅行に行きたいね。鎌倉とか箱根とかでもいいし」
すると、それまでの生温い雰囲気が一瞬、凍りついた。あれ、私、今変なこと言ったかな、と内心で不安になると、また元の柔らかな空気に戻った。
「いいね、それ。行こうよ。泊まろうよ」
「私、鎌倉も箱根も行ったことあるから、観光案内できるよ」
「でも、泊まるとお金かかるんじゃない? 調布とかにしようよ」
えー、なんで調布ー? いつでもいけるよ、そんなとこー。え、知らないの? 調布に温泉あるんだよ。え、そうなの? でも、夏に温泉はないでしょ。あ、そっか。じゃあ、調布は冬だね――……。
笑い声は絶えなかったが、少し遠くなっていく感覚がした。一緒になって笑っていても、頭の片隅は静かに冷めていた。美駒は違和感に囚われていた。それは消えなかった。背を向けたつもりになっても、背後からの視線に耐えられなくなって振り向くと、まだそこにいた。
――そこでお父さんが二度目の結婚をしたので、娘には新しいお母さんができました。
――新しいお母さんは娘を気に入らず、いつも意地悪をしていたのでした。
〈七月三日〉
今日は久しぶりに家族が勢揃いする。普段は、美駒の父、啓祐は自動車会社に勤めていて、出張で家を空けることが多いし、受験生である二つ上の義姉、麻里也と一つ下の義弟、誠は塾通いで、なかなか揃うことがない。
寄り道をせずに真っ直ぐ家に帰ると、義母、純子が夕食の仕込みをしていた。
「ただいま」
背中に向けて声をかけると、純子は振り向かずに「おかえり。シャワー浴びてらっしゃい。汗かいてるでしょ」と、返した。
「はーい」
美駒は素直に従うことにした。部屋に戻って、着替えを抱えて浴室に向かった。
髪を拭きながら部屋に戻ると、リビングの方から明るい声が飛び交っている気配がした。どうやら、みんな帰ってきたらしい。肩にかかる髪を丁寧に乾かしつつ、その声に耳を澄ます。ちゃんと勉強してるか。私はしてるわよ、誠はどうだか知らないけど。ああ? おれだってしてるっつの。そうよ、誠はがんばってるわ。もう、お母さんは甘いのよ。
お父さんと、お義母さん。お義姉ちゃんと、義弟。
この家の中で美駒と血が繋がっているのは、啓祐だけだ。血の繋がっている母親は美駒の小さい頃に亡くなり、そのあと啓祐は、二人の子持ちだった純子と再婚した。
美駒はそれでも家族なのだから、仲良く過ごしたいと思っていた。なのに、血の繋がっていない三人のよそよそしさは未だになくならない。きっと、時間が解決してくれるだろうと、美駒は信じている。
机の上にある写真立てに目をやる。今は亡き、美駒の母が映っている。小さい頃だったから、もう記憶の中ではその面影すらない。それは悲しいことだし、寂しいことだ。でもそれは、だからといってどうしようもないことだ。
リビングに行くと、やはりみんなが揃っていた。夕食の準備もできているようだ。
「おかえり、お父さん」
真っ先に声をかけると、啓祐が笑顔で頷いた。
「ただいま」
「ご飯にしましょう」
純子の一言で、五人はそれぞれの席についた。
なかなか会えない啓祐に、子どもたち三人が積もる話を次々に披露しているうちに、あっという間に時間は過ぎた。啓祐はそれらの話を真剣な顔で聞き、時折り笑みを浮かべた。
全員が食べ終わったタイミングで、「麻里也、冷蔵庫からプリン持ってきてくれる? 人数分」と、純子が言った。
「えー、私がー?」
「いいよ、私が持ってくる」即座に、美駒が立ち上がった。
麻里也はきょとん、とした顔をして、「……ありがとう」と呟いた。
冷蔵庫から高そうな焼きプリンを五つとって、テーブルまで運んだ。一人ひとりの前に置くとき、麻里也が再び「ありがとう」をぼそりと言った。
その隣で、誠がニヤニヤ笑っている。見咎めた麻里也が噛みついた。
「何よ、何かおかしいことでもあった?」
険を含んだ声の調子に、美駒は驚いた。
「別に」誠は相変わらずニヤニヤとしている。「姉ちゃん、びびってんの?」
「誠っ」麻里也は今にも立ち上がりそうだったけど、すぐに冷静さを取り戻した。「――やめなさい」
「へーい」
啓祐も純子も何も言わなかった。美駒は不思議だったけど、深く考えないことにした。プリンのおいしさに意を注いでいた。
――娘の目の前に、妖精のおばあさんが現れました。
――妖精が魔法の杖を一振りすると、みすぼらしい服は、たちまち輝くような純白の美しいドレスに変わりました。
〈七月十三日〉
珍しく家で一人だった。学校も休みだし、部活もない。外はどしゃ降りで、出かけるのも億劫だった。
部屋の掃除でもしよう、そう思い立ち、掃除機を取りに行くことにした。家の中をぼんやりしながらさまよい、美駒はふと気づいた。――あれ、掃除機がどこに仕舞われているのか知らない。いくらいつも純子が掃除しているからといって、さすがに場所がわからないのはおかしくないか。
思いつくままに家のあちらこちらを探し回った。クローゼットを開けたりもした。
二階の奥にある物置を開けたとき、ようやく掃除機を見つけた。それと同時に、別のあるものに目がいった。数冊のノートが、ビニル紐でまとめられて放置されていた。ほこりを被って、それは忘れ去られた死の街みたいだった。
美駒は、そのノートに記された名前を見て驚愕する。――「菅野美駒」。自分の名前だ。
引きつけられるように手を伸ばし、一冊とって、中を開いてみた。
これは、何。
ページをめくっていくごとに周りの音が聞こえなくなり、美駒はただ文字だけを目で追った。
外でとびきり大きな音の雷が鳴った。その刹那、全てを思い出した。
「そうだ――そうだ、私は、私は――」
ノートを足元に落とし、美駒は力なくその場にへたり込んだ。
また、雷が鳴った。
――でも、私の魔法は十二時までしか続かないから、それを忘れないでね。
〈三月二十日〉
人は誰しも心に闇を抱えている、とはよく言うけれど、私が抱えている闇は常人のそれとは比べ物にならないだろう。美駒は噛み締めるように思った。
全ての始まりは、秋音が死んだことだった。秋音は美駒の本当の母親だ。啓祐の愛人だった秋音は彼との間に子をもうけ、たった一人で育てていた。しかし、美駒が五歳のときあっけなくこの世を去り、啓祐は仕方なくそれを引き取ることにした。
愛人がいたことを知った純子は秋音を憎み、その娘である美駒を憎んだ。自分の娘や息子たちと当然のように差別し、いじめ抜いた。甘いものもおもちゃも与えず、暴力と侮蔑の言葉だけを与えた。次第に、美駒の性格は内向きになった。啓祐はその頃から見て見ぬ振りをするかのように――現実から目を背けるように、出張を繰り返した。
新しく兄弟になった麻里也と誠も、美駒をいじめた。蔑むだけだった。哀れんだりしなかった。家の中に、美駒の味方は誰一人として存在しなかった。
それでも、美駒は春からの高校生活に光を見出していた。進学が決まっている高校には、新体操部があるのだ。新体操は小さい頃から続けていて、純子もそれは黙認していた。美駒にとって、たった一つの好きなことで、何よりの生きがいだった。
〈四月二十日〉
光なんてなかった。美駒は今日も部屋に閉じこもって、日記に思いの丈を書き連ねる。
せっかく新体操部に入ったというのに、内向きがちな性格が足を引っ張ってしまった。すぐに友達ができなかったどころか、学校でもいじめに遭った。特に、堀江優と金谷川、小宮山の三人が、執拗に美駒をいじめた。気がつけば、美駒はいつも何かに怯えるように生きていて、放課後、体育館に向かおうとする足は震えた。
切望して入ったその部活に、美駒は入学からひと月も経たないうちに行かなくなった。
――楽しい時間はあっという間に過ぎて、ハッと気がつくと十二時十五分前です。
〈五月二十九日〉
いじめは一向に収まる気配はなく、むしろエスカレートしていた。学校でも家でも、誰にも打ち明けられない苦しみを、美駒はただ内に抱え込むしかなかった。そしてそれは今にも破裂しそう。
そうだ、と美駒は思った。全てから解放されるたった一つの方法がある。全てを諦めて、何もかも捨てることだ。
そうだ、それしかない。
日記の最後のページに今日の決意を記して、学校へ何でもない一日と同じように登校した。空は、折しも雨だった。水滴がスカートの裾について、模様みたいだった。
学校に着いても教室には行かず、そのまま屋上に上がった。いつもなら怯える遠くからの喧騒も、このときは怖くなかった。もう解放されるから。
誰もいない屋上に足を踏み入れ、立ち止まらずに、余計なことを何も考えずに、フェンス際まで辿り着く。よじ登って、フェンスの向こう側へと降り立つ。足元には雨に降られる校庭と――体育館が見えた。
美駒は鉛色の雲に覆われた空を見上げた。それは遠くの方に目をやっても同じ鉛色で、晴れることのない心を映しているようだった。
冷たい風が、美駒の全身を吹き抜けた。
――おしまい。
二つの日記