彼と私の恋の在り方

彼と私の恋の在り方

 出逢いがない。今のご時世、よく聞く言葉。そういう私だって、出逢いが全くない。彼氏がいたのは、もう遡れば学生の頃で。年上の素敵な男性がいるかもしれないと夢見た就職先も、そこそこいいなと思う人はすでに結婚していたりする。何度かいいなと思った人に出逢ったけれど、友達止まりだったりする。ドラマや映画みたいな、突然やってくる出逢いなんてのは、妄想のまた妄想で。1つ仕事を片付けるたびにデスクで大きく溜息をつく。
「溜息つくと、早く年取るらしいよ」
 背後から係長の声がした。係長はとても人の良い人で、そのせいか、仕事を頼まれることは多いものの、今以上の役職には上がれそうにない性格。またそれを表している幸の薄そうな顔立ちは、社内でも有名な上司。でもとてもお世話になっている人だ。
「肝に銘じておきまーす」
 そう答えると、私は次の仕事の書類を開いてパソコンを覗いた。そんな毎日だ。もうかれこれ何年も。そしてたぶん、これから何年も続くんだ。
 金銭的に余裕の出てきた私ぐらいの年齢のOLには、彼氏がいなくても楽しみはそれなりにある。ちょっとしたブランドのバッグや時計を買う事もあれば、たまに有休を取ってプチ旅行に行ってみたり。友達との月一のリッチな食事も数カ月待ちの店にかなり足を運んでいる。流行りのスーパーフードを買ってみたり、健康にも気をつかっている。ネイルやヨガ教室の予約もスケジュールに書き込んである。ある意味リア充ってやつでしょ、これは。インスタだってフォロワー数が増えつつあるしね。

 腕時計をちらっと見た。少し遅れていた電車が到着して乗り込む。朝は決まって同じ顔ぶれと一緒になるけれど、帰りの電車は知らない人だらけだ。電車が走り出して、いつもの景色が見えた。今日はまだ夕焼けが薄らと残る時刻に電車の中にいる。東京の中心から離れていく電車からの景色は見慣れたものだ。ビルの窓に反射する夕陽が眩しくて、そしてその赤丹色にせつなくなった。
 今日の夕食は買って帰ろう。最寄駅の1つ手前で降りた。こっちの駅の方がおしゃれなお店が多い。家賃と相談すると、この駅の周辺のマンションは借りれなくて、1つ先の駅から徒歩7分ほどのマンションに住んでいる。お店を見ながら1駅歩くのはそれほど苦じゃない。ベーカリーで明日の朝食用のパンを買った。まだ焼き立てだったのでパンを入れた紙の袋を開けたまま、いい香りを連れて歩いた。テイクアウトのお店はいくつかあって、いろんな種類のスープを扱う店、ここにしようと決めて店先を覗いた時だった。誰かにぶつかって私は大きく転んだ。
「痛っ!」
 とっさに手をついたものの、大きく尻もちをついた。
「ごめん、悪い」
 声をかけられて、ぶつかったんじゃなくてぶつかられたんだ、と気付いた。そして目の前に転がるパンにも気が付いた。
「え?えええーーー!明日のパンが、ちょっと待って」
 転がったパンを拾うと私はぶつかった人を追いかけた。走って逃げるなんてどういうこと?
「待ってって言ってるでしょ!パン、弁償してよ!」
 必死で走るけれど、強打したお尻は痛いし、後ろ姿を見失いそうになる。
「ちょっと!そこの黒いパーカーの男!待ってってば!」
 そこそこ人の多い夕方の街、私の声に反応して振り向く人もけっこういる。それに気付いてちょっと恥ずかしくなってきた。片手にパンを持って走ってる自分、かっこ悪・・・。「ちょっと・・・」走るのをやめて、とぼとぼと歩くだけになり、声も小さくなっていく私のもとに、少しして黒いパーカーの男は走って戻って来た。
「頼むから静かにしてよ」
「あ、ちょっと!逃げるからでしょ?ぶつかっといて。パン、どうしてくれるの?買ったばかりなのに、もう食べられないじゃない」
「弁償するからさ」
 若い声だった。フードを被っているから顔は見えなくて、たぶん結構背は高いんだろうけど、少しかがんで周囲の目を気にしてる。その姿を見て、私もますます周囲の目が気になってきた。
「じゃあ、弁償してよ」
 さっきまでの勢いをなくした少し小さな声でそう言うと、黒いパーカーの男に腕を掴まれた。
「ちょっとここじゃまずいんで、すぐそこの路地まで来て」
 へ?手を掴まれて小走りに走り出す。すぐそこの路地?何?何なの?そんなとこ連れてって何するつもり?
「ちょっと、手離してよ」
 なんていう言葉は無視で、さっさと進んでいく。「ちょっと!」手を振り払おうとして、体制を崩した。転げそうになるのを、パーカーの男はグッと手に力を入れて腕を引っ張って支えた。
「頼むからあんまり目立つようなことしないでくれよ」
 控えめな声でそう言いながら、ちらっと私を見たパーカーの男の顔が少しだけ見えて、懐かしい感じがした。なんだろう。知ってる・・・?この人。手を掴まれたまま少し歩いて、人通りの静かな路地に入った。
「ごめん、悪かったね、ちょっと追いかけられてて」
「何か悪い事でもしたの?」
「まさか」
 私の腕を掴んでいた手を離すと、今まで被っていたフードをスッと脱いだ。
「え・・・」
「ごめんね、パン、代金払うから買い直してもらえる?」
「あの・・・嘘ぉ。いや、違う」
「何が?」
「小里倉莉斗に似てるって、言われません?」
「あぁ、まぁ」
「やっぱり?すごく似てる、びっくり」
「間違えられるっていうか、間違ってないっていうか?」
 話していると、自転車が1台走ってきて、また目の前のその人はフードを被った。自転車を避けようと道の端に寄った時に思わず声が出た。
「痛っ」
「どした?」
「さっき、転げそうになった時ちょっと痛いと思ったんだよね」
 道沿いの家の壁に手を付いて右足の足首に手をやった。やっぱりだ、痛い。
「そんな高いヒール履くからでしょ」
「はぁ?あなたが急に手を引っ張って走るからでしょ?」
「仕方ないだろ、弁償しろとか言うから」
「そっちが逃げるからじゃない!」
「うるさいなあ・・・」
 うるさいなぁって!何この人!
「パン買ってくるからここで待っててよ」
「え?」
「それじゃ買いに戻れないでしょ?それ駅前の店のだろ?何パン?何個?」
「か・・・買ってくるとか言ってそのまま逃げる気でしょ?」
「逃げないよ、そこで待っててよ」
 私の手にした紙袋をそっと覗きこむと「美味そうな匂い」と言って私に微笑んだ。そしてフードを深く被ると、周りを気にするように走って行ってしまった。
 ・・・待っていていいんだろうか。騙されてんじゃない?これ。逃げられたんじゃない?転げて食べられなくなったパンを手にして、なんだか一気に気が抜けてしまった。足も痛むし、もう、どうでもいいや。今日はツイてない日だ。誰か誘ってご飯でも食べて帰ればよかった。歩こうにも足が痛くて、少し休んでから帰ろうと思ってさっきまで手を付いていた家の壁に持たれて立った。ここら辺ってあんまり来る事ないな。大きな家ばっかりだ。もたれている壁の家も大きな洋館で、向かいの家は古い日本家屋だ。路地はそれほど広くない。さっき自転車が通った時にも思った、かろうじて車は通れるけれどすれ違うのは無理な幅。民家が立ち並ぶ中、少し先には高いマンションがいくつか見える。駅から都会に戻るほうに行くとこんなに高級な家が建ち並んでいて、反対の私の住む駅の方に向かうと、ワンルームの学生向けマンションなんかが増える地味な区域になる。いつか結婚してこういうとこに住みたいな。結婚どころか恋人もいないけど。
「あぁ、もう、帰ろう」
 痛む足をかばいながら、ゆっくりと、もと来た道を歩き始めた。この狭い路地を出ようかとした時に、さっきの黒いパーカーの人が路地に向かって曲がって来た。
「あ・・・」
 手には、さっき立ち寄ったベーカリーの袋。同じ大きさのものをふたつ。
「お待たせ、これ、あなたの分。自分のも買っちゃった」
 手渡された紙袋は、さっきと同じように袋が開いたままでいい香りがする。食べられなくなった私の手にあるパンの紙袋を優しく取り上げると、代わりに新しいそれを私に差し出した。黒いパーカーの人は大きく息をする、肩が上下に揺れている。誰が見ても走って買ってきたというのがわかる。
「・・・ありがとう」
「どういたしまして、俺が悪いんだし」
「自分の分は、何買ったの?」
「同じやつ」
「同じやつ?」
「うん、あんたの好み、気になって」
 そう言いながら、フードの中から笑顔を見せた。
「あ、向こうにタクシー待たせてるから、乗って帰って」
「え?」
「足、捻挫してるっぽいでしょ?ほら、早く」
 そっと私の体に手を回して彼は歩き出そうとした。
「いいよ、大丈夫だよ」
「そんなわけにいかないよ。大丈夫、お金は俺が払うから」
「そういう問題じゃなくて。ていうか、それもなんだけど。なんで?」
「何がなんで?」
「なんでそこまでしてくれるの?」
「ちょっと気に入ったから、あんたのこと」
「え?」
「ほら、行くよ」
 そっと腰に回した手にグッと力を入れられた。あ・・・歩きやすい。すごくしっかりと支えてくれて。「ちょっと気に入ったから」という言葉が頭に残って、顔を見ることもできなかった。何も話すことなく、少しずつ歩いて、路地を抜けたところに止まっているタクシーまで連れて行ってくれた。一駅歩くつもりだったけど、このままじゃ歩けないし。甘えて私はタクシーに乗った。
「今日は悪かったね」
 後部座席に座ると、黒いパーカーの彼が顔を覗き込んで私に声かけた。
「いえ、こちらこそごめんない、いろいろと」
「ううん、足、ちゃんと見てもらってね」
「わかりました、ありがとうございます」
「俺、莉斗、あなたは?」
「町田です、町田羽菜」
「また逢えたらいいね、じゃあね」
 最後に、フードをちらっと脱いで微笑んだ。それから「お願いします」と運転手に声をかけて、彼はタクシーのドアを閉めた。
 ・・・りと。莉斗?やっぱり小里倉莉斗?その笑顔、どう見ても小里倉莉斗だ。
「ちょ・・・」
 走り出したタクシーの窓から顔を見ようとしたけれど、手を振るとスッとまたフードを被ってしまった。そっくりだったもん。よく考えると顔だけじゃなく、声も。人気の音楽ユニット「sepal」のボーカル、小里倉莉斗。体を後ろに向けてリアガラスから姿を探そうとするけれど、運転手に「危ないのできちんと座っていてください」と怒られた。ちゃんと、顔を見せてもらえばよかった。名前、莉斗って言ってた。
「間違えられるっていうか、間違ってないっていうか?」
 会話の中でそんなことを言ってたな、なんて思い出したけれど、もうタクシーは家の近くまで走っていた。そんなはずないよね。あんなところに居るはずないもん、「sepal」の莉斗が。
「すみません、その信号を左に曲がって下さい」
 タクシーが見慣れた景色に近づいてくる。少し走るとマンションが見えた。
「あのグレーのマンションの前で止めてください」
 伝えた場所でタクシーは止まると、静かにドアが開いた。
「いくらですか?」
「あぁ、お金もう貰ってますよ」
「え?」
「優しい彼氏だね」
「お金もうって、うそ・・・さっきの?」
「でもちょっと貰いすぎて申し訳ないからお釣り、返しといてください」
「え?」
 運転手が、ごそごそと準備をしてまた振り返る。
「釣りは要らないって言われたけど、さすがに3万も預かって800円だけじゃ、貰っとくにも気が引けるよ。もっと遠くまで行くのかと思った」
「3万?」
 たしかに表示されているのは800円。だって、1駅程度の距離だし。3万円も渡すってどういうこと?運転手から渡されたお釣りを受け取るしかなく、それを手にしてタクシーを降りた。
「どうすんの?これ」
 手にしたお金を見てぼーっと思う。貰うわけにいかないよね。やっぱ返しに行ったほうがいいよね。まだあのあたりにいるよね?歩こうとするけれど、右足に痛みが走った。
「だめだ、一旦、これは預かろう」
 バッグにお金をしまうと、ひとまず家に帰ろうと決めた。なんとか歩いてマンションに入る、ゆっくりと家まで戻った。すっかり暗くなってしまった、ドアを開けて部屋に灯りをともす。何より足首の痛みがひどくて、湿布を探してみるけどやっぱりそんなものはない。そんないろいろ常備してないよ。今からでも病院、行くしかないかな。頭の中がどうも片付かない。持ち帰ったタクシー代のお釣りも、あの人が小里倉莉斗なのかどうかも。融通の利かないこの足にもイライラした。
 病院にはそのまますぐ向かった。よくよく考えると、タクシーでそのまま病院へ行けばよかった。時間外で料金は多くかかるし、全くついてない。診断結果は捻挫だった。よく見ると少し足首が腫れていた。テーピングで固定してもらって、痛み止めも貰って来た。明日仕事に行けば休みなので、明日だけでもなんとか痛みを乗り越えられればいいや。明日は痛み止めを飲んで1日持ち堪えよう。精算を済ませて帰ろうと思ったら、急におなかが空いてることに気付いた。結局パンしか買えてないや。近くのコンビニでお弁当を買って、家に着いたらもう9時前だった。何やってんだろうって情けなくなってくる。だけど部屋の灯りをつけると、目に入った。あの、パンの紙袋。いつも買ってるのに、特別な感じがする。テーブルにお弁当を置くと、代わりにその紙袋を手に取った。
「あれ?」
 珍しい。ショップカードが入ってるなんて。レジのところに置いてあるカードだ。ご自由にお持ち帰りください、ってやつ。手に取ると何気に裏返してみた。
「え?」
 もう一度表を見る。クロワッサンの可愛いイラストと店名のロゴ。店の住所や電話番号が印刷されている。そして裏返してみる。無地の、何も書かれていないはずのそこに書かれた手書きのそれは、「莉斗」という名前と、LINEのIDだった。
「どうしたらいいの?これ。でもお金返すには連絡するしかないよね」
 考えて考えて、すっかり冷めてしまったお弁当を少し食べて、でも何もできないまま、その日は終わってしまった。


 次の日の朝は、腫れは落ち着いていたものの、やはり歩くと痛みが残る。昨日のパンを食べて痛み止めを飲んだ。紙袋をじっと見つめては昨日の事を思い出す。けれど、どうすることもできなかったショップカードのIDはそのまま。それを私は手帳に挟んで家を出た。
「町田先輩?おはようございます、どうしたんですか?」
「あー、桑原おはよう」
 桑原は同じ仕事を担当している直接の後輩で、年齢は5つ下。まだ可愛い20代。ハイウエストのスカート穿いて、今どきの子って感じの印象だけど仕事は出来る子で、姉妹みたいに仲良くしてる。職場の入っているビルのエレベーターの手前で声をかけられ、そのまま一緒に乗り込んだ。
「ヒール履いてないなんて珍しいですよね」
「うん、足捻挫して」
「嘘ぉ、痛むんですか?」
「ちょとね・・・」
 話しながら事務所に入った。まだ誰も来ていない。隣同士のデスクにお互い座ると、桑原は椅子を寄せて来て笑顔で言った。
「今日は私がコピーとか動く仕事するんで、町田先輩はゆっくり座って仕事してください」
 両手を広げるようなアクション。動きが大袈裟なのが桑原の特徴。でもなんか女の子っぽくて可愛いんだ。
「ありがと、助かる」
 この子にだったら、相談してもいいかな。昨日のこと。
「ねぇ、桑原」
「なんですか?」
「桑原だったら、いきなり知らない男の人からLINEのID貰ったら、連絡してみる?」
「いきなりですか?」
「いきなり、って言っても、ちょっと喋ったりはしてるの。ぶつかってね、転げちゃって、それでまぁ、いろいろあって、そこからの、IDなんだけど」
「あぁ、その足の原因はそれですか?」
「まぁ」
「ぶつかって、大丈夫ですか?って助けられて。LINE交換しませんか?って、恋が始まりそうな出会いがあったんですね?」
「ちょ・・・っと違うかな。LINEも交換じゃなくて一方的に渡されただけで」
「てことは向こうは脈ありってことじゃないですか。町田先輩はどうなんですか?イケメンでした?」
「えーーー?イケメン、かなあ、そうだなあ」
 よく分かんない人だったけど。パンを買ってきてくれて、タクシーも呼んでくれて、料金も先に払ってくれてるってよく考えるとスマートな人だよね。莉斗・・・本人なのかもよく分からないけれど。
「私だったら取りあえずお礼ぐらいは入れておくかな。その後面倒くさそうだったらブロックすればいいんだし」
 か・・・簡単に言う。そりゃそうなんだけど。お金も返さなきゃいけないから、相談するも何も連絡は入れてみなきゃいけないんだってことは自分でもわかってるんだ。ただ、勇気が一押し、足りなくて。
「あ、じゃあ、私が代わりに連絡してみましょうか?」
「え?あ、いい。いいよ。自分でするから」
「そうですか?また進展、教えてくださいね」
「う・・・ん、ありがとね」
 進展も何も。お金返すだけだから。でも、うん、ちゃんと連絡しなきゃね。その日、仕事が終わってからあのIDに連絡を入れた。
 [昨日はご迷惑をおかけしました。パンを買っていただいた町田です。ありがとうございました。お渡ししたいものがあって、もう一度お逢いする事できますか?]
 とにかく手短に、事務的な文章で済ませた。何度も確認するけれど、なかなか既読にはならなくて。そのうち、スマートフォンを確認するのも面倒くさくなってきた。悪戯だったんだ、あのIDは、きっと。お金どうしようかとは思うけど、もういいや。画面を見ながら溜息をつくと、わざと仕事をしながら居残っていた職場を後にした。外はすっかり暗くなって、いつもはあまり履かないフラットシューズでゆっくりと歩いた。電車に乗って、昨日の駅を通り過ぎる。賑やかな駅前を過ぎた頃、電話が鳴った。LINEの電話だった。表示は、Rito。莉斗?どうしよう。もう、駅に着くからいいかな。そのまま電話に出た。
「もしもし?」
「あ、莉斗です。ごめん、LINE今見た。羽菜ちゃんでしょ?足、大丈夫?」
「大丈夫です」
 周りを気にしながら小声で話す。
「え?ごめん、聞こえない」
「ちょ・・・と待って」
 少しして、電車が最寄駅に着いた。私は痛む足をかばいながら急いで電車を降りた。1番近いベンチに腰かけて、もう一度電話の向こうに声をかける。
「電車に乗っていて。もう降りたから。聞こえます?」
「うん、ごめん、タイミング悪かったね」
「いえ、もう最寄駅だから、大丈夫です」
「足大丈夫?」
「はい、昨日はごめんなさい」
「謝んないでよ、ぶつかったのは俺なんだし。あ、渡したいものって何?」
「あぁ、昨日、タクシー代払ってくれてたみたいで。ありがとうございました。でも家がすぐ近くだったからあんなにかからなくて。お返ししたいんだけど」
「そうなの?近くだったんだ?よく分かんないから、あれくらいあれば大丈夫かなと思って。」
「・・・大丈夫かな・・・・って。そういう額じゃないよ、あれ」
「は?」
「知らない人のためにそんなお金の使い方するなんて駄目だよ」
「なんで?怒んないでよ。知ってる人でしょ?昨日会って、話をして、名前もお互い知っていて、同じパンを食べた。あ、美味かった、あれ。そんで、今電話で話してる。それって、知ってる人でしょ。俺たち知り合いだよね」
 不思議な人だ。知ってる人でしょ、と言われて、違うとも思わなかった。改札口へ向かって駅を出て行く人を見送りながら、ベンチに腰かけていた。人がだんだん居なくなる。少し静かになったホームに、スマートフォンから聴こえてくるクスクスって笑い声が優しかった。
「聞いてる?羽菜」
 急に、私のこと名前呼びしてるってことに気付いて、変に意識してしまった。耳元に響くクスクスって笑い声が益々くすぐったい。
「羽菜?また聞こえなくなった?」
「ううん・・・大丈夫、聞こえてる」
「で、また逢うんでしょ?」
「え?」
「もう一度逢えますか?って言って来たのは羽菜のほうだけど?」
「あ、だってそれはお金を・・・」
「うん、よかった、多めに運転手に渡しといて」
「え・・・?」
「逢う口実できたじゃん。どうする?今からだったら時間あるけど」
「今から?」
「迎えに行こうか?」
「あ、でも言ってもらったら何処かまで行くから」
「だってもう最寄駅なんでしょ?それに足、かなり悪そうだったじゃん、昨日」
「でも・・・」
「いいよ、俺から逢いに行くから」
 場所を伝えて、電話を切った。そのまま少し、ベンチに座っていた。画面が暗くなったスマートフォンを手にしたまま。少しして、次の電車が到着すると、たくさんの人がホームへ降りてきた。サラリーマンや学生や、帰路に着く人たち。私の目の前を、改札口に向かって歩いていく。どうしてだろう、こんなにも心臓がドキドキするのは。どうしてだろう、早く逢いたいって思うのは。
 ゆっくりと改札口を出て、それからまた少し待った。手にしたスマートフォンに振動が伝わり、画面を見ると「着いたよ」とLINEが表示された。駅前のコンビニを曲がったところに車を停めて乗って待ってると追加のメッセージが届く。駅前にはコンビニが1つしかなく、目印で話してあったのだ。コンビニを曲がると黒い車が1台。車内は暗くてよくわからないけれど、運転席に人がいるのはわかる。これかな・・・。気にしながら近づくと、運転席のドアが開いた。中から男性が出てきた。黒いキャップに銀縁の丸いデザインの眼鏡。そして男性はその眼鏡を少しずらしてにっこり笑った。そこから見える瞳はこの間の彼だった。
「お疲れ」
 軽く手を上げて言うと、車のドアを閉めた。
「こんばんは」
「あれ?小さいね、今日」
「え?」
「それかぁ、ヒール無いから、今日の靴」
 私の足元を指さした。
「とりあえず乗って」
 私の背中に手を添えてゆっくりと助手席のほうに向かう。そして助手席のドアを開けてくれた。
「あ・・・りがとう。お邪魔、します」
 誰かの車に乗るってのは、その人の家に遊びに行くみたいに、少し緊張する。どんな感じなのかなと内装をそっと見渡してみたり、そこでしか感じない香りがあったり。助手席に座ると、座り心地のいいシートの感触に、車に詳しくないけれど高級車なんだろうなってわかる。
「閉めるよ」
 私が座ったのを確認すると彼はドアを閉めて足早に運転席に戻ってドアを開けた。自分も車に乗り込む。ふーん・・・紳士的なんだ、こういうとこ。
「ちょっと移動してもいい?」
「あ、うん」
「時間大丈夫?」
「うん、大丈夫」
 シートベルトをすると、エンジンのスタートボタンを押した。慌てて私もシートベルトをした。何処に行くんだろう。ちらっと見た横顔は、鼻筋が通ってきれいだった。
「病院行った?」
「うん、昨日、あの後」
「そう、先生なんて?」
「捻挫だって」
「そっか、ほんとにごめんね」
「ううん、そんな謝んないで」
「なんか・・・昨日と勢いが違うね」
「勢い?」
「昨日はすごい剣幕でパン代弁償しろー!ってさ」
「ごめんなさい、ほんとそれ今思うとカッコ悪くて恥ずかしい」
「ううん、そっちこそ謝んなよ。足怪我さして、パンも台無しにしたの俺のほうだからさ」
「ううん、ほんとに私もごめんなさい」
 そんなやりとりをしている間に、車は大通りに出ていた。赤信号で車を停めると、今までずっと前を見て運転していた彼が、私の顔を覗き込んでクスクス笑った。
「謝んの終わりにしよう、きりがないよ」
「ほんとだね」
「飯食った?」
「ううん、まだ」
「なんか食いに行かない?」
「・・・うん、いいの?」
「そっちこそ、いいの?」
「うん、私は」
「気になってるフレンチの店あるんだけど、そこでもいい?」
「いいよ、なんでも」
「嫌いなもんとかある?」
「だいたいは、大丈夫」
「OK、じゃあ決まり」
 元気に笑顔でそう言うと、彼は少しスピードを上げて大通りをそのまま進んでいった。夜の街、店の灯りや反対車線の車のライト、いろんな光がきれいに流れていく。こういうの、ほんとにどれくらいぶりだろう。電車から見える夜の街の光の流れ方と違って、キラキラした感じがする。また赤信号で止まると、彼は左手をすっと伸ばしてリモコンで、何か操作をした。聞いたことある洋楽が流れだす。誰の曲だっけ。気になったけど、聞かないでやめた。信号が青になると、また気持ちよさそうに彼は運転を始めたから。そこは、とても居心地のいい場所だった。
 車はオシャレな建物の地下駐車場へと入って行った。こんなとこ初めて来る。車を停めると、エレベーターに乗った。止まった階は、ドアが開くとすでにそこがレストランだった。入口で店員が1人すでに待っていて、メインの入り口であるそこではない別のドアへ案内された。中は廊下になっていて、個室がいくつかあった。そのうちの1つに入る。なんか、ついて来てよかったんだろうか。明るさをひかえた落ち着いたその部屋はアンティークな装飾でとてもお洒落だった。あまり大きくない窓があって、東京の夜景が見える。そんなに高いビルじゃなかったのに、とてもきれいで、思わず声が出た。
「うわぁ、きれい」
「よかった、友達がすごくいい店だって教えてくれて、1度来てみたかったんだ」
「うん、すごいね、お友達、こんなお店知ってるなんて」
「まぁ座ろうよ」
「うん・・・」
 4人掛けのテーブル。向かい合わせに座った。少ししてさっきの店員が戻って来た。水の入ったグラスをテーブルに置く。これもとてもきれいなガラスのグラスだった。
「今日はご予約ありがとうございました。お食事のほうお決まりですか?」
「そうだなぁ、どうする?羽菜」
「え?あ、どうしようかな。何でもいいよ、お任せしてもいいかな?」
 びっくりした。また急に名前で呼ばれて。さっき、電話でも名前呼びだった。誰にでもそんな感じなのかな。
「うん、でも俺、車だからお酒飲めないんだよね。羽菜だけでも飲む?」
「ううん、私もいい」
「そ?じゃぁ、このコースのにしようかな・・・あ、やっぱこっちにしようかな」
 メニューを店員のほうに向けていくつか指さしながら話している。そのやりとりをただ見ていた。そして注文が決まると、店員が部屋から出て行った。
「予約・・・入れてあったの?私じゃなくて誰か他の人と約束あったんじゃ?」
 気になったので、聞いてみた。そしたら彼は被っていたキャップを取ると、隣の椅子に置いた。少しぺちゃんこになった髪を、両手でくしゃくしゃとほぐすと、今度は眼鏡を外した。
「ほんと、丁寧に挨拶してくれんのはいいんだけど、こっそり予約してたのにバレちゃうよね、あぁやって言われると」
「へ?」
 またクスクスと笑う。そんな彼を見ていると、1番聞きたいことが声に出た。
「ねえ、やっぱり、小里倉莉斗だよね?sepalの」
「知ってるんだ?sepal」
「知らない人なんていないよ」
「そうなんだ、すごいな」
 そう答えるけれど、「すごいな」の言葉にはあまり感情が乗っていない。手元の眼鏡のアームを折りたたみながら、少し下を向いた。それからきちんと私の目を見て言った。
「そうだよ、小里倉莉斗。sepalの」
 一気に目の前の人がとても遠い人みたいに感じてくる。表情がスッと変わったからだ。sepalの莉斗だ・・・。だけどまた柔らかい表情をして私に言った。
「そんな顔しないでよ」
「え?」
 小さくため息をつくと、彼の表情はますます柔らかく変わる。不思議だった。
「そうそう、昨日のパン食ったよ、今朝。美味いね、あそこのやつ。いつもあれ買うの?」
「うん、たまにだけど」
「自分の分も買ってよかった」
「あ、あのショップカードびっくりした。名前とLINEのID書いてあったやつ。いつの間に入れたの?」
「あぁ、あれね。見つけてくれてよかった」
「いつもあんな風にナンパしてんの?」
「失礼だな、ナンパなんてしないよ」
「あれ?そうなんだ?今日のここのお店の予約も、じゃぁなんでしてたんだろう?おかしいなあ」
 とぼけながら言うと、彼は軽く天を仰いだ。
「あぁ、もう。全部バレてんのな?」
「冗談じゃなくてほんとに?」
「昨日パン買いに行って、袋に入れてもらってる時にあのカードがレジのところに置いてあるのが目に入って。なんか、残したいなって思ったんだ。俺のこと気づいてほしいなって思った。それで店員にペン借りて、裏がたまたま無地だったから、そこにID書いた。気づいて連絡くれたらいいなって思って。タクシー代もそう。どんなに遠くても3万もかからないよね。運転手もびっくりしてた。これから行く場所が遠くても近くても、釣りは全部貰ってくれていいからって頼んで。ここの店の予約も、羽菜に逢えるってわかってすぐに電話入れた」
「なんで?」
「俺昨日言わなかったっけ?」
「何を?」
「気に入ったって、あんたのこと」
 ドキッとした。真っすぐな視線で頬杖をふとついて、彼が私を見ていた。
「名前すぐ覚えた。町田羽菜」
「え・・・だって私・・・普通のOLで。女優さんとかモデルとかみたく細くてきれいじゃないし」
「なんだよそれ。羽菜って好きな人のこと、そういうの基準で決めんの?」
「違うけど」
「この人好きだなって思うのって一瞬じゃない?」
 そう言った彼の声が、好きだなって思った。さっき、駅のホームのベンチで座って待っていた時みたいに、心臓がドキドキする。少し赤みを帯びた照明のせいかな、にっこり微笑むその表情も好きだなって思った。口角の上がった唇も、はっきりとした二重の瞳も、きれいな長い指も、好きだなって思った。
「羽菜?」
「うん・・・そうだね」
 彼は、ふふ・・・と笑う。
「今、俺のこと好きだなって思った?」
「なんで・・・」
「好きだなって思ったでしょ?一瞬で」
「・・・まぁ、ちょっとだけ思った」
「じゃぁ、相思相愛じゃない、俺たち」
 テーブルを挟んで座っていてよかったって思った。そうじゃなかったら、この心音はすぐ届いてしまうんじゃないかってくらいドキドキしていた。個室のドアは、その後すぐにノックされた。店員がドアを開けると、料理が運ばれてくる。
「美味そう、食べよう」
「うん、あ、待って、先にこれ」
 私は隣の椅子に置いたバッグから封筒を取り出した。昨日のタクシー代。
「いいのに、って言いたいけどあんたの性格上受け取ったほうがよさそうだね、それ」
「当たり前じゃない、はい」
 封筒を手渡すと、彼はそれを軽く振った。
「あれ?」
 そして中を見た。
「3万入ってるじゃん、小銭の音しないと思って」
「いいの、タクシー代は自分で払うから」
「いいよ」
「いいの、弁償してって言ったのはパンだけだから」
 少しキョトンとした表情を見せたと思うと、手を口元にあてて彼は大きく笑った。
「ほんと、面白い。そういうとこ好き」
「面白いって・・・」
「じゃあこれ、ここの店の代金に回すね」
「え?ううん、ちゃんとここのお店もお金・・・」
「今日はおごらせてよ。誘ったの俺だし。俺も一応男だからさ」
 封筒をテーブルの端に置くと、ナイフとフォークを手にして料理を食べ始めた。
「うんま!これ超美味いよ」
「ほんと?」
 まだ、逢うのが2回目だなんて思えない。懐かしい感じがした。そう、昨日もそう思ったんだっけ。テレビで見ている顔だからかな。よく聴いている声だからかな。ううん、違う。そういうんじゃない。話していると古くから知っている友人みたいで、どうでもいいくだらない話をいっぱいした。たくさん笑わせてくれる。そして自分も人懐っこい笑顔で笑う。この人、こんな笑い方するんだ。
 店を出ると、そのまま車で送ってくれた。駅でいいと言ったけれど、私が捻挫したことをえらく気にしていた。昨日タクシーに降ろしてもらったのと同じ場所、マンションの前。車を停めると彼はやっぱり素早く車を降りて私のいる助手席のドアを開けてくれた。こういうのが一々くすぐったい。
「今日はありがとね、付き合ってくれて」
「ううん、こちらこそ、ご馳走様でした」
 店を出る時すでに、彼は素早く眼鏡をかけてキャップを被っていた。その眼鏡を少しずらしてまた瞳を覗かせるように私を見る。
「ワイン飲めなかったの残念だった、今度は飲みに行こうよ。お酒大丈夫?」
「うん」
「いける口?」
「まぁ、そこそこ」
「OK、酒飲むってなると車乗れないから迎えには来てあげられないけど」
「そんなの全然、お店教えてくれたら行くから」
「約束ね」
「うん」
「あとさぁ」
「うん」
「次逢った時、その時も羽菜が俺のこと好きだと思ってくれてたら、次はキスしてもいい?」
「え?」
「今日はやめとく。キスしたいけど」
「何冗談言ってんの?」
 照れたけどごまかした。自分自身の気持ちもごまかした。今すぐキスしたかったけど、ごまかすようにそう言って、彼の胸元を軽くポンッと叩いた。
「明日からレコーディングなんだ、落ち着いたら電話するよ」
「うん」
「それまでに羽菜の足治るといいな」
「あぁ、うん。ありがとう。」
「そしたらまたヒールの靴履いて来てよ。今度はちゃんとエスコートするからさ。似合ってた、昨日の服も靴も。すごい仕事できる女性みたいで、きれいだけどカッコよかった」
「ほんと?・・・ありがと」
「じゃあね、また」
 私の頭にちょこんと手を乗せると、彼は運転席に回って車に乗り込んだ。助手席の窓を開けると運転席から顔を覗かせて手を振った。私も手を振り返した。そしてそのまま、静かに車は発進した。私は彼の車が見えなくなるまでそこに立っていた。もう彼は帰ってしまって居ないのに、まだドキドキしていた。車を運転する莉斗は、大通りに出て赤信号で止まると胸に手を当てていた。さっき羽菜が触れた胸元。ちょうど心臓の場所。ドキドキと鼓動が高ぶっていた。恋を、してしまったんだろうか。私は。俺は。



 すでに2日、莉斗はレコーディングスタジオにこもっていた。今日で3日目。食事もスタッフが準備してくれるテイクアウト品で済ませ、部屋に戻るのはシャワーを浴びて着替えを済ませるためだけ。濡れた髪を簡単にドライヤーで乾かすと、キャップを手にした。鏡を見ながらそれを被る。あんまり寝てないからか、自分でも疲れているのがわかる顔だった。マナーモードにしたまんまのスマートフォンを見てみるけれど、羽菜からは何も入っていなかった。小さくため息をつくと、部屋を出た。手直ししたい歌詞があって、ずっといろいろフレーズを考えている。スタジオの外のソファで目を閉じて言葉を巡らせる。でもまた、声をかけられて合間で歌入れが始まるから、イメージがどこかへ飛んで行ってしまう。そんなことの繰り返しだった。自分から、ある曲の歌詞を変更したいって言いだしたのに。
「莉斗、俺の歌入れ、もう歌詞待ちの1曲だけなんだけど」
「ごめん、もうちょっと待って」
 メンバーの龍河が俺を押しのけるようにしてソファの隣に座る。そして俺の被っているキャップを取って自分で被った。俺と龍河がツインボーカルなんだ、sepalは。
「何に迷ってんの?なんかイメージ合わないって聞いたけど。莉斗が歌詞でそんな悩むって珍しいね」
「うーん、もうちょっとせつない感じにしたいんだ」
「せつない・・・かぁ。最近ないなぁ、そういうの。莉斗は?」
「俺は・・・あるよ。すごいせつない」
「まじ?彼女できた?」
「まだ彼女じゃないよ」
「まだ、ってことはいけそうなんだ?」
「わかんない」
 髪をくしゅくしゅと両手でかき上げて、俺はソファから立ち上がった。全部終わったら電話入れるって決めたんだ、羽菜に。



「町田先輩」
 桑原に声をかけられて、立ち止まった。別の課に資料を持って行こうと思っていた時だった。廊下の端に寄って、桑原が小さな声で話しかけてくる。
「どうなりました?」
「何が?」
「LINE IDのイケメンです」
「あぁ・・・ちょ、ここで話すようなことじゃないでしょ?」
 忘れてた、この子に相談したんだった。
「まだパンプス履かずに仕事来てるし、その足が治る頃には恋人になってたりして」
「もぉ、別に何もないよ」
「そうなんですか?残念」

 桑原に声をかけられたのが月曜日のことで。別に何もないよって言ったけれど、莉斗のことは頭から離れなかった。それから毎日気にかけてみるけれど、莉斗から電話が鳴ることもLINEが入ることもなかった。この足が治る頃・・・。落ち着いたら電話するって言われて。その頃に足も治ってるといいなって言われて。そしてかれこれ1週間。足は、痛みも腫れもなくなって、パンプスを履けるようになった。足は、治ったのかな、これ。でも電話なんてかかってこないよ。仕事から帰って簡単に食事を済ませた。1週間もあれば、莉斗を間接的に見かけることはあった。テレビのCMとか雑誌の表紙だとか。見ることはあったけれど、何故だか違う人みたいな感覚だった。
 またスマートフォンを手に取る。SNSの表示がひとつあっただけ。待っているわりには、こちらから連絡を取ろうとは思わなかった。莉斗と会った2日間は夢だったんじゃないかって思える。足の痛みが取れるにつれ、そう思うようになった。
「この土日はどうしようかなあ」
 仕事帰りに買ってきた雑誌をパラパラと捲って、小さく特集されている秋のプチ旅行のページを見る。1泊とかなら有りかな。ページを捲っていると、ふと手が止まった。莉斗だ・・・。1ページだけのインタビュー。撮影が終わったばかりだという映画についての内容だった。そういえば前に1度ドラマに出てるの見たかな。いろんな仕事してるんだ、この人。インタビューを読み終えると、何もなかったようにページを捲った。静かな部屋に音が鳴る。キッチン脇にあるリモコンが、浴槽のお湯はりを知らせた。少し前まで半袖を着ていたと思ったら急に寒くなって、セットしてあったのだ。ゆっくり湯船につかって、今日は早く寝よう。
 風呂を出るとすぐにお湯を沸かした。暖かいものが飲みたい気分だった。電気ケトルのスイッチを入れて、また洗面所に戻る。化粧水と乳液をたっぷりと。肌に贅沢させてる気分で、風呂上りのこれは大好き。目を瞑って頬に手をやっていると、何かが聞こえてきた。なんだろう、・・・鳴ってる?スマホ?リビングに戻ると、テーブルの上でスマートフォンが音楽を鳴らしていた。LINE電話だ。
 [Rito]
 画面の表示に胸がドキンとした。
「うそ・・・」
 ためらいながら、鳴りやまないスマートフォンを手に取って、画面をスライドさせる。
「もしもし?」
「あ、羽菜?莉斗だけど」
「うん、こんばんは」
「こんばんは」
 1週間ぶりの声だった。莉斗の声だった。
「今、いい?」
「うん、大丈夫」
「どこに、いる?今」
「もう家だけど」
「そっか。あのさ」
「・・・うん」
「逢えないかな、今すぐ」
「今すぐ?」
「うん、実はマンションの前に、居るんだけど」
「うそ?」
「嘘ついてどーすんだよ」
「え?ほんとに?うそ」
 電話の向こうから聞こえてくるクスクスって笑い声も、あの日と同じ。
「ほんとだって。ごめん、連絡なしで突然。だめ?逢えない?」
「逢えなくないけど、今?」
「何かしてた?」
「えっと・・・」
 完全なる素の状態でして・・・。すっぴんだし、寝るつもりの部屋着だし。どうしよう。
「あの、5分だけ待って?」
「5分?うん、わかった」
「すぐ降りるから」
「うん、じゃあ車に乗って待ってる」
「うん、じゃ、あとで」
 電話を切って呆然とする。電気ケトルのお湯はすでに沸いていた。そんなことどうでもいいや。頭に巻いたままだったタオルを慌てて外すと、外に出れる服装に着替えた。今からメイクするわけにもいかないし。目についた薄手のショールを手に取って、首に巻いた。ちょっと顔が隠れるように。鼻の当たりまで手で覆うようにして、スマートフォンと家の鍵だけを持って外に出た。マンションの少し斜め前の当たり、この間の車が停まっている。私に気付いた莉斗が車を降りた。
「ごめん、急に」
「ううん、いいよ」
 だけど、いいよって言う私の姿を見ると、莉斗は「ごめん」って突然謝った。そして着ていたジャケットを脱ぐと私の背中にかけた。
「え?」
「入って、ほら」
 私の背中を押して、助手席のドアを開けると私を座らせた。そしてすぐに自分も運転席に戻る。
「風呂入ってたんだ?」
「うん、出たとこ」
「だめじゃん、言ってよ」
「え?だって、今すぐって言うから」
「足の捻挫の次に、今度は風邪引かれるとか、困るじゃん」
 本当に困った顔をするから、可笑しくて私は笑った。莉斗が背中にかけてくれたジャケットは、男性物のしっかりした物で少し重みがあった。大きくて、私がすっぽり入ってしまう。助手席に座る私の顔をそっと覗き込んで、莉斗は体をこちらに近づけた。口元をずっとショールで隠している私の手に莉斗はそっと触れると言った。
「なんで顔見せてくんないの?」
「え?あ・・・すっぴん、だから」
「うそ?見たい」
「いやだよ」
「いいじゃん、見せてよ」
 私の手を掴むと、私の手ごと一緒にショールを顔からそっと離していく。じっと見つめられて、私も見つめるしかできなかった。何もない私の素顔に莉斗の手が触れると、何よりもドキドキした。莉斗の指先が髪に触れて、濡れたままの私の髪を指でそっと撫でる。
「だめだ、風邪ひいちゃう。髪から雫落ちてる。早く乾かさなきゃ」
「・・・うん」
「でも、その前にひとつだけ、いい?」
「・・・なに?」
「キス、してもいい?」
 私の頬にまた添えられた莉斗の手は、今度は大きく角度を変えて私を莉斗の方に向けさせる。すでにもう、お互いの鼻は触れていた。私の手は自然と、私の頬に添えられた莉斗の腕に触れていた。
「いいよ」
 私が言い終わるか終わらないか。もう私の唇には莉斗のキスが落とされていた。何度も角度を変えてキスをする。そして唇が離れると、莉斗は言った。
「いい香りがする、薔薇みたいな」
「あ、ローズの入浴剤使った、さっき」
「それだ」
 クスッと莉斗が笑う。鼻が触れたままで会話をすると、またキスをした。


 部屋に戻ると、髪をすぐに乾かした。スマートフォンを気にしながら。落ち着こうと思うけれど、まだドキドキがおさまらない。あの後すぐに莉斗は帰って行った。
「本当は連れ出したかったけど、風邪引かれると困るから」
 そう言ってキスだけ残して帰って行った。家に着いたら電話をくれることになっていて。そしたらいっぱい話そうって。10分もしないうちに、また着信が入った。
「もしもし?」
 さっきは電話にためらったけど、今度はすぐに出た。
「もしもし?髪ちゃんと乾かした?」
「うん、乾かした」
「ちゃんと湯冷めしないように暖かくしてる?」
「うん、大丈夫」
「そ。じゃあ、今から話す時間ある?」
「うん、大丈夫」
 ソファに座って、膝をかかえるようにした。
「今日は逢えてよかった、ごめんね、急に行って」
「ううん、いいよ。びっくりしたけど」
「レコーディングがやっと終わったんだ。1週間スタジオに缶詰で」
「そうだったんだ?1週間も?」
「そうなんだよ。でも終わるまでは電話しないって決めてて」
「そっか。そうだったんだ。お疲れさま」
「ありがとう。なんか嬉しいな」
「だって1週間もかかったんでしょ?」
「うん、がんばったよ」
「じゃあ、CD出来上がったら聴くね」
「持って来るよ、出来上がったら」
「いいよ、買うよ、ちゃんと」
「まぁ、任せるけどさ」
「うん。あ、ねぇ、早くない?家着くの」
「そう?」
「うん、近いの?うちから」
「近いよ」
「ほんと?どの辺?」
「この間、羽菜が足捻挫して、俺がパンを買い直しに行ってる間待っててもらった道あるでしょ?」
「うん」
「あそこ抜けた先のとこ」
「うそ?隣の駅なんだ?」
「そうだね」
「知らなかった、そんな近かったんだ?」
「うん、知らないこと、いっぱいあるね、お互い」
「うん」
「たくさん、聞いてもいい?」
「何を?」
「羽菜のこと、知りたい」

 莉斗は、初めて会うタイプの男性だ。積極的だけど、わざとらしさがなくてスマートだ。誰だってすぐ好きになっちゃうよ、そう思った。そう思ったら気になって、恋人はもういるんでしょう?なんて質問をした。だけど莉斗はNOと言った。sepalになってからは誰とも付き合ってないと言った。sepalは、大学生の頃からの友人である龍河と共同で音楽を作っていて、その延長線で出会ったパフォーマーと組んで5人で結成した。もともとモデルの仕事もしていた龍河に声がかかってラッキーにもデビューできたと莉斗は言った。だから自分は今、龍河に恩返しをするつもりで音楽を作っていると言った。詩も曲も、ほとんどが莉斗が作ったものだということも初めて知った。ファンなら知ってるんだろうけど。
「そんなsepalのレコーディングだったから、手を抜くことなんてできないんだ。もちろん仕事はなんでも手は抜かないけどさ。全然連絡できなかったんだけど、ほんとは毎日、早く羽菜に逢いたくて仕方なかった」
 莉斗は、芸能人だと話している時にふいに思い出す。仕事の話をしている時だ。だけど、その話を少しでも離れると、別人の莉斗になる。芸能人ではなく、ただの小里倉莉斗。
 初めて会った日も、どうして追いかけられてたの?と尋ねたら、ファンに見つかったと話した。だけど、あの日は友人夫妻に赤ちゃんが産まれて、産院に行った帰りだったと言った。たしかにあの駅のすぐ傍に人気の産院があって、莉斗の家からだと歩いて数分の距離だ。わざわざ車で行くこともない。そうやって普通に、友達の赤ちゃんを見に行った話をしている時、とても近しい人だと感じる。
「ねぇ、今日キスさせてくれたってことは、俺のこと好きなんだって思っていいの?」
 電話越しに、その質問にはすぐに答えられなかった。莉斗も、何も言わずに待っていた。少しずつ、時間が過ぎる。
「莉斗は、どうなの?私のこと」
「俺は羽菜のことが好きだよ」
「逢って間もないのに?」
「言ったでしょ?好きって思うのは一瞬なんだって」
「うん、私は・・・」
「うん」
「私は・・・莉斗が、好き」
 静かだった。好き、うん。好きだよ、莉斗のこと。自分で言った言葉をかみしめる。今莉斗は、電話の向こうでどうしているんだろう。莉斗も何も言わないから、どうしていいかわからなくて、私も黙ってしまった。でもね、その時間は全然嫌じゃなかった。
「やべぇ、超嬉しい」
 急に莉斗が話したと思うと、電話越しの声が大きくなる。
「どうしよう、俺マジで嬉しいんだけど。羽菜のこと好きんなってよかった」
「莉斗・・・」
「羽菜、また逢いたい」
「うん、逢いたい」

 偶然会って、こんな風に恋に落ちるなんて思わなかった。1週間前には、出逢いがないって言ってたのに。今の生活で十分リア充だなんて言ってたのに。私は突然、新しい恋を知ってしまった。


 電話は毎晩した。逢える時は逢った。莉斗のことをもっと好きになる速度はとても早くて、それは莉斗も同じだと感じられる毎日を過ごした。ただ、誰にもこの恋のことを話せないのが辛かった。

「町田先輩、聞いてください。気になってた人がいたんですけど、今度デートすることになったんです」
「ほんとに?よかったね」
「はい。先輩はどうなんですか?あれから、進展、ありました?」
「あー・・・私は特に、ないかな」
「そうですか。あ、それでー、デートなんですけど。何着て行こうか悩んでてー」
 桑原が恋愛モードになっていてよかった。って思った。いろいろ聞かれても答えられないし。ただ、桑原の恋の話を聞いているのはちょっと寂しいな。自分も話したいことたくさんあるのに。

 その日は飲みに行こうって誘われていた。外で食事をする時は一緒に行くことはない。初めてフレンチに連れてってくれた、あの最初の食事だけだった。いつも直接お店で待ち合わせた。何度か行ったお店の奥の部屋に案内されると、そこには莉斗だけではなく、龍河もいた。
「お疲れ」
 軽く手を挙げて私に笑顔を見せると、莉斗は私の傍に寄ってきた。すでにふたりは軽く飲んでいたみたいだ、飲みかけのグラスと少しの料理があった。
「龍河、彼女が町田羽菜さん。で、羽菜、こいつが、知ってると思うけど龍河」
「はじめまして」
 笑顔で微笑むその人は、sepalの龍河だった。
「え。うそ。ほんとに?sepalの龍河?」
「よろしく」
「よろしく・・・え、どうしよう。莉斗、龍河がいる」
 座っていた龍河は立ち上がるとそっと手を出した。握手だとわかっているけれど、躊躇していたら、龍河が私の手をすっと取った。
「どうしよう莉斗、握手しちゃった」
「は?なに?そのリアクション。俺と初めて逢った時と違くない?」
「だって、sepalだよ?龍河だよ?」
「あのね、俺もsepalなんだけど」
「そうだけど、龍河だよ?」
「なんだよ。羽菜って龍河ファンなの?」
「まぁまぁまぁ、ふたりとも夫婦喧嘩すんなって」
 龍河になだめられて、そんなやりとりは終わった。莉斗は、莉斗であって。普通に私の彼氏だけど、龍河は、ほんとうにテレビの向こうの人っていうイメージだったから。なんてこと言うと莉斗が怒りそうだから口にはしなかった。龍河はとても話しやすい人で、莉斗の仲のいい友人だというのがふたりの雰囲気でわかった。黒い髪でシャープな印象の莉斗と、茶色いふわっとした髪が印象の龍河。名前のイメージだと逆っぽいと話すとふたりは顔を見合わせて笑った。
「そうなんだよ、自分でも思う」
 龍河が自分の髪をいじりながら莉斗を見ると、莉斗は大きく頷く。
「1回逆にしようか?って話になったんだよね?」
「あぁ、あった、あった」
「ウィッグ被らせてもらったんだっけ?」
「そうそう、テレビの仕事ん時に、スタッフに頼んで用意してもらって。番組の中でやったんじゃなかったっけ?」
「そうだよ、ファンからこういうメール来てますって。羽菜と同じこと言われたんだよ」
「莉斗がまず茶髪のウィッグ被って。そしたらすっげーチャラいの」
「うるせえな、龍河も黒いの被ったけど、真面目か!みたいになってウケてたじゃん」
 それはとても楽しそうで。想像すると面白くて私も大笑いした。たくさん食べて飲んで、とても楽しかった。
「ごめん、俺ちょっとトイレ」
 莉斗が席を立って部屋を出ていく。あらためて龍河とふたりになると、seplaの龍河だ、と意識してしまう。伏し目がちに煙草をくわえて火をつける。そんな仕草が男性なのに艶っぽい。
「どうかした?」
「ううん」
「ねぇ、羽菜ちゃん」
「なに?」
「なんで莉斗と付き合ってんの?」
「え?」
「莉斗じゃなくて、俺にしない?」
「ええっ?」
 じっと見つめられた。柔らかい瞳が私を見つめて離さなかった。
「あの、私は莉斗が・・・」
「そっか、残念。冗談だから気にしないで」
 すっと視線を外すと、口から煙草の煙をふぅーっと吐き出した。
「莉斗はさ、羽菜ちゃんのことすげぇ好きだよ、たぶん」
 何かを思い出すかのように龍河は何処か遠くを見ながら話した。
「新しいアルバムが出るんだけど、俺たちの」
「うん、莉斗から聞いた」
「[花]って曲があるんだ、それ、最後の最後まであいつ何度も詩を書きなおしてた。今自分の中にあるせつない気持ちを全部詰め込みたいとか言って」
「せつない・・・?」
「羽菜ちゃんのことだよ」
「私?」
「もともと[花]はファン向けにって作り始めた曲だったんだけどね。あ、sepalって意味知ってる?」
「あ・・・知らない、ごめんなさい」
「いいよ。sepalって蕚のことを言うんだ。花の根元っていうの?なんて言ったらいいかな。花弁を全部取ったら出てくるグリーンの部分なんだけど。あ、朝顔の花が咲き終わってその後に種ができるでしょ?あの部分」
「なんとなく、わかります。でも、なんで、グループの名前がそんな部分なんですか?花じゃなくて根本のその・・・」
「蕚ね。これには意味があって。俺たちは音楽を聞いてくれたりパフォーマンスを見てくれる人を支える人間でありたいねっていうところから来ていて。そこに咲いてくれた花は、ファンのみんななんだ。そえで支えている俺たちが蕚、sepal。だから、俺たちにもファンクラブってあるんだけど、ファンクラブの名前は[Flower]っていうんだ」
「Flower、いいですね」
「でしょ?それで今回、[花]っていうファンに向けての曲を作ろうかってなってたんだけど、急遽それが、変わった」
「変わった・・・?」
「莉斗が羽菜ちゃんに出逢ってしまったから」
 龍河は、急に私のほうを見て、指をさした。
「莉斗の中で[花]は羽菜ちゃんになった」
「私?」
「同じ、ハナだからね。余計リンクしたんでしょ」
 莉斗からは聞いたことのない話だった。龍河は、手にしていた煙草をアッシュトレイに押し付けて火を消した。ドアがゆっくり開いて、ちょうど莉斗が帰って来た。
「そういうことだから、羽菜ちゃん、アルバム聴いてね」
「なに?なんの話してたの?」
「NEWアルバムの宣伝」
 莉斗と龍河が顔を見合わせた。龍河が子供っぽく笑う。
「あ、私そろそろ・・・」
「あぁ、じゃあ俺たちも行く?」
 莉斗が龍河に向けて言うと、龍河はすっと立ち上がった。
「んじゃ、俺先に出るわ、おふたりでしばしゆっくりどうぞ」
「なんだよ、龍河」
 ウインクしながら龍河は手にジャケットを掴んで部屋を出た。ドアが閉められて、一瞬静かになる。私もバッグを手にして、立ち上がろうとした。
「待って」
 莉斗が、それを止めた。
「少しだけ」
 ゆっくりと近づくと、莉斗は私を抱きしめた。優しく、でも強く。
「莉斗?どうかした?」
 ちょっと変だと思った。
「どうもしないよ」
 体を離して、そう言うと私を見つめて微笑んだ。ゆっくりとキスをして。もう1度莉斗は私を抱きしめた。
「明日から海外で逢えないからさ」
「うん、1週間だっけ」
「そう、行きたくないな」
「何言ってんの?海外なんて、いいじゃん」
「大事な仕事だからなぁ、前から決まってたし。じゃなかったら羽菜の居ないところに、わざわざ行かないよ」
「なに言ってんの」
「わかってるよ、ちょっと言ってみただけ」
「がんばってきてね」
「うん。・・・なぁ」
「なに?」
「やっぱり今日、泊まってったらだめ?」
「うちに?」
「うん」
「いいけど、明日の朝早いからって言ってたの莉斗じゃない?」
「うん、今から帰って。荷物まとめて。羽菜んち行って。明日羽菜んとこから直接東京駅ってのも有りかなってずっと考えてた」
「ずっと?」
「そ、頭ん中でシミュレーションしてた。諦め悪いの、俺」
 そう言って耳元でクスクス笑った。そしてもう1度軽くキスをした。
「決まり。やっぱり今夜は羽菜と一緒に居たい」
 その日は1度荷物を取りに帰った莉斗が私の家に来て一緒に過ごした。何度目かの一緒に迎える朝。莉斗が私の部屋にいつも置いて行ってくれる愛しさは、すでに溢れるくらいだった。部屋のどこを見ても、そこに莉斗の姿が見える。リビングのソファも、キッチンも、バスルームも。ふたりで寄り添って眠るベッドの上にも。



 莉斗が海外に旅立った日、仕事の帰りにsepalのNEWアルバムをCDショップで手に入れた。発売日は明日。少しでも早く聴きたくて、予約をしてあった。フラゲしたそれを手に、急いで家に帰る。アルバムタイトルは[Flower]。龍河が話していたファンのこと、なんだろうきっと。sepalのメンバー5人が並んで立つフォトに、色とりどりの花のフォトが加工されているジャケット写真。きれいだけど、少しせつなくなる色合い。早速CDをパソコンで流してみる。全部で11曲、順番に流れていく。ダンスが魅力なグループであるだけあって、体を音楽に任せたくなるようなリズムの曲が多い。そしてある曲で急に静かなミディアムテンポのピアノのメロディになった。
「花だ・・・」
 5曲目。莉斗が何度も歌詞を書きなおしたという[花]。私はすぐに歌詞カードを開いた。詩も曲も、莉斗。それは真っすぐなラブソングだった。今朝、莉斗を見送ったばかりなのに、もう逢いたくなる。好きなんて言葉は何処にも出てこないのに、何度も好きだと言われているみたいな優しい曲だった。
 全曲聞き終わっても、頭に残っているのは[花]のメロディだった。そして[Flower]のケースに、もう1枚ディスクが入っていることに気付いた。そうだ、初回限定盤ってのを買ったんだった。アルバムのリード曲のミュージックビデオとメイキングを収めたDVDがついていた。この曲は1度テレビで歌っているのを見た。深夜の番組に録画でだけど出演すると聞いて、起きて見ていた。莉斗と龍河が交互に歌う。パフォーマーの3人と合わせて5人で踊る部分は見ていてとても素敵だった。ミュージックビデオが終わるとメイキング映像が始まる。何度もダンスを合わせる5人のレッスン風景や、お道化たりふざけ合っている姿が映し出されていた。カメラに向かって話したり、ゲームに夢中になってカメラに気付いてない姿だったり。そして特に、莉斗と龍河はやっぱりその映像でも仲が良くて、ふたりが立っているだけで絵になる。ONとOFFの顔が散りばめられたメイキング。仕事をしている表情の莉斗と、私の目の前にいる時の莉斗が繋がった気がした。逢って間もない頃は、別人みたいに違和感を感じていたのに。莉斗が居ない間、CDもDVDも何度も再生した。

 1週間って、意外と長いんだな・・・。
 そんなLINEが届いた。莉斗から。まだ2日しか経っていない。だけど私も同じ気持ちだった。とても長く感じる。それでも逢いたいとか言えなかった。可愛くないんだ、私。仕事がんばってきてよって返信をした。もちろん、逢いたいと言ったところで逢えるわけではないんだし。1枚、添付されてきた写真は、オーストラリアのキレイな景色をバックに笑顔の莉斗だった。それをプリントアウトして、部屋に飾った。
「サングラス、外して撮ってくれればいいのに。顔がちゃんと見えないよ」
 写真に向かって愚痴ってみるけれど、でも笑顔になれた。
 1週間後に入ったLINEは、仕事中に見てしまって、ニヤケが止まらなかった。「着いたらそのまま羽菜んち行くから、22時は回ると思う」それを思い出してニヤついている私を見て、桑原が気味が悪いと笑った。係長からは、「最近、溜息が減ったね」と言われた。
 恋をするって、いろいろ変わるもんだなあって思う。前向きにがんばる気持ちは以前に増して強くなった。仕事も楽しい。今まで気にしなかったものに目が行く。莉斗が好きだと言っていた音楽や、ファッション、見る世界も広がった気がする。まだ行けてないけど、いつか一緒に映画とか舞台とか、美術館とか行きたいねって話をした。やりたいこといっぱいあるんだ、莉斗とは。

 部屋で待っているとチャイムが鳴った。莉斗だ。ロックを解除すると、ドアが開いて、「ただいまー」と笑顔で言った。そして入るなりキャリーケースを玄関に置き、私を抱きしめた。
「おかえり」
「ただいま」
 莉斗の香りだ。安心する。短くキスをすると、莉斗は私の顔をじっと見た。
「羽菜の顔見てると安心する」
「そう?」
 うん、私も。そう思いながら、今度は私からキスをした。
「はい、おみやげ」
「なに?」
「コアラのぬいぐるみ」
「まじで?なんでぬいぐるみ?」
「可愛かったから」
 ビニールの袋を渡されて、見るとたしかにぬいぐるみだ。可愛い。
「でももう1つあるよ」
「え?なに?」
「はい、これ」
 小さな紙袋だった。中には書籍くらいのサイズ箱。きれいに包装されていて、赤いリボンが付いていた。
「開けていい?」
「うん」
 包装紙を解くと真っ白の箱にお店の名前が入っていた。箱の蓋をそっと開けた。箱の左側に香水の瓶があった。右側にまた小さな、指触りのいい素材の箱が入っている。そのふたつの間、ちょうど箱の真ん中の部分にHANAと書かれている。
「いろいろ見てたら見つけたんだ。普通外国ではFlowerって表記されるんだろうけど、これはあえて、日本語でHANAって書かれてて。店員に聞いたら、日本をイメージしてあるからなんだってさ。いくつかの花の香りから調合して作った香水と、こっちが・・・」
 言いながら、莉斗は右側に入っている小さい箱を取り出した。そして開いて見せた。
「指輪、可愛い」
「薔薇のモチーフなんだって。でも刺々しくなくて優しいなって思ったら羽菜に似合いそうだって思ったんだ」
 箱から指輪を莉斗は取り出した。そっと私の左手を取ると、薬指に指輪をはめた。
「ぴったり・・・」
「まじで?俺サイズわかんないから、合わなかったらこっちでサイズ直すしかないかなって思ってたんだけど」
「ううん、ぴったりだよ、ありがとう、莉斗」
「ちょっと自分でもびっくりだ、よかった合って」
 莉斗は、指輪に触れたあと、私の指に自分の指を絡めた。
「めちゃくちゃ逢いたかった」
「うん、私も」
 その後何度もキスをした。部屋に入って、ゆっくりお酒を飲んで。莉斗の話をたくさん聴いた。
「ねぇ、なんでこれ飾ってんの?」
 莉斗が写真を指差す。LINEで送ってくれたオーストラリアの写真。
「だってこれしかないんだもん、莉斗の写ってる写真」
「そう言えば、写真ないね。向こう行ってる間、羽菜の顔見れなくてさ。なんで行く前に写真撮らなかったんだろうって後悔した。頼んでも羽菜送ってくんないし」
「だってわざわざ自撮りすんの恥ずかしいじゃん」
「すごく欲しかったのに、写真」
「そんなこと言ったって・・・」
「今撮ろうよ、一緒に」
「え?急に言われても」
「大丈夫だよ、メイクもちゃんとしてるじゃん」
「そういう問題じゃないよ」
「いいよ、可愛いよ、ほら」
 莉斗はスマートフォンを手に取って、すでにカメラモードにしていた。私の肩に手を回すと頬をピタッとくっつける。カメラをこちらに向けて「笑って!」と大きく笑顔で言った。一緒に撮った初めての写真は莉斗が帰ったあと、プリントアウトして同じように部屋に飾った。

 ある日テレビを見ていてびっくりした。映画の予告編だった。[この秋あなたに贈る純愛ラブストーリー]。ナレーションと共に莉斗の泣いている表情が大きく映し出される。莉斗の映画・・・前に雑誌でインタビューされてたやつかな。
「あぁ、そうそう、去年の暮れに撮影したやつだ。やっと公開。先月完成披露試写会とかやったんだけど、前評判はよかったんだよ」
 電話の向こうで莉斗は私の質問に答えた。
「そっか、去年って、逢う前だもんね、知らなかった」
「俺も撮ったけどいつ公開するんだ?ってずっと思ってたくらいだもん、これ。少し前からやっとインタビューとか受けるようになって」
「そうなんだ?来週の土曜日からだよね、見に行こうかな」
「ほんと?だったら取っとくよ、初日舞台挨拶やるから、その回のやつ」
「え?そういうのって貴重なチケットなんじゃないの?いいよ、ファンの人の分取っちゃうみたいで嫌だもん」
「羽菜は俺のファンじゃないの?」
「そういうことじゃないじゃん?」
「ふーん、sepalだと、羽菜は龍河のファンなんだっけ」
 実は、龍河に初めて逢った時の私の反応を未だに根に持ってるんだ、莉斗は。
「また莉斗のヤキモチ始まった」
「ヤキモチじゃねえよ」
「ふーん、いいけど。ほんとにそれ頼んでいいの?チケット」
「あぁ、いいよ。1枚くらいならなんとかなると思う」
「ちょっと、見てみたいんだ。莉斗が仕事してるとこ」
「なんで?」
「なんか、好きだから」
 あ、照れた。間違いなく莉斗は今電話の向こうで照れてる。少し黙ったりする時はたいていそう。少しずつ、声とか笑い方とかで莉斗の表情が電話越しにも見えるようになってきた。
「普段の俺と、仕事してる俺、どっちが好き?」
「え?どっちも」
「どっちか決めなきゃいけないとしたら、どっち?」
 甘えるのはだいたい莉斗のほう。見た目だとそんな風に見えないのに。ギャップってやつなのかな、きゅんってする。ドキドキさせるくせに、でも安心も私にくれる。
「どっち、っていうより。莉斗全部」
 あ、また黙った。
「なぁ、羽菜」
「なに?」
「そういうこと言うとさ、今すぐ逢いに行きたくなるし、俺自身のテンションがこんな夜中なのに上がり切って眠れなくなるからやめてくんない?」
 想像すると笑いがこみ上げて、思い切り笑った。
「笑う?そこで?マジ今から逢いに行くぞ」
「どうぞ?」
 可笑しくって可笑しくって、笑えば笑うほど莉斗が本気で子供みたいに拗ねてるのがわかる。本当に愛おしいんだ、この人が。

 大学時代の友人からLINEが入った。
「来週の水曜と木曜有休取れる?前に行こうって言ってた秋保温泉行かない?」
 春に、桜の季節に行こうって話になったんだけどホテルの予約が取れずに行きそびれた場所。紅葉には少し早いけど、その分少しリーズナブルみたいと続けて連絡が入った。大学時代の友人とは3人でよく旅行に行っている。仕事の休みがだいたい合わなくて、みんな有休を取って旅行に行く。それぞれ有休消化にもなるってことで。
「行って来たら?」
「でも、そしたらちょっと逢えない日続くじゃん」
「2日だけでしょ?」
「私の旅行はね?でも金曜は莉斗が番宣でテレビ出るって言ってたから」
「あぁ、そうだった」
「映画の公開日かな、そしたら逢えるのって」
「舞台挨拶ね」
 チケットは莉斗があの後準備してくれて、今日届けてくれた。今私の手元にある。ファンの人には申し訳ないけれど、私も莉斗のファンの1人だから。特別なことをしてもらっているのはわかっているけど、初めて莉斗の映画を見るんだから、と甘えさせてもらった。
「どうしようかなあ」
「友達との旅行なんて、行ける時に行っとく方がいいよ。いつかみんな結婚したり子供できたりして、行けなくなったりするんだから」
「なんか、お母さんみたいだね、莉斗」
「せめて父親にしてくれるかな、性別変わってるし」
 たしかに、ずっと一緒に行ってるから行きたいかな、旅行には。冗談を言いながら、莉斗は私の髪をそっと撫でる。
「いい?行って来ても」
「いいよ、帰ってきたら写真見せてね。いっぱい撮って来てよ」
「うん、わかった」

 旅行の日はいいお天気だった。久しぶりに会うふたりとはすぐに会話が弾む。向かい合わせに座ると電車に揺られて外の景色を楽しんだ。仙台に着くとまず仙台市天文台に行き、遅めの昼食の後で磊々峡へ向かった。
「すごい、いい景色だね」
「あ、あれじゃない?覗橋のハート」
 磊々峡の石にできたハートの形のくぼみ。そこに水が張っていて空の青を反射させていた。
「可愛い」
 3人揃ってハートに向けてスマートフォンを向ける。本来なら、恋人と訪れるのがいい場所なんだけど。彼氏のいない私たち3人は、春先、ここのハートを写真に撮って待受けにしたら彼氏ができるんじゃないかなんて話をしていた。
「あ、ねぇ、あのハートをバックに写真撮れないかな」
「角度的に難しくない?」
 友人に試行錯誤してもらいながら、なんとか隅っこに私が写っているハートの写真を撮った。ふたりが景色の写真なんかを撮っている間にこっそり莉斗にLINEで送った。
 [ありがとう、可愛いね]と返信が帰って来て思わず嬉しくなる。[あんまりLINEばっかやってると彼氏できたこと友達にバレちゃうよ?]その後に送られてきた文章にドキッとした。そうだった、内緒なんだ、莉斗とのことは。[わかってるよ、じゃあまたね]返信を入れると、私はふたりのところに戻った。
 自然の中をゆっくり歩くのも久しぶりだった。温泉に浸かって、美味しい食事もいただいた。遅くまで3人で話して、その日は眠りについた。
 次の日はまた少し観光をして帰る予定で、頼んであった朝食を食べると部屋に戻って帰る支度をする。友人が何気に付けてみていたテレビに、私は思わず反応した。
「人気グループsepalのリードボーカルを務めている小里倉莉斗さんに熱愛スクープです」
 莉斗に熱愛?「えー、マジで?」と友人も手を止めて画面を見ていた。
「明後日より公開の映画で共演している、モデルのRiinaさんとの熱愛がスポーツ紙で報道されました。おふたりは過去にもドラマで共演されてますよね」
 ワイドショーの司会の女性が莉斗とRiinaのそれぞれの写真を写した画面を指さしながら話している。
「当日の舞台挨拶はおふたりが揃って壇上に立たれる予定で、これは話題になりそうですね」
 嘘だ。莉斗がRiinaと付き合ってるとか、ぜったい嘘だ。
「でもさぁ、お似合いだよね、悔しいけど」
「Riinaかぁ、かっこいい美人って感じなのに笑うと可愛いんだよねー」
「わかる。女ならあんな風に生まれたかったって思う」
 ふたりがテレビを見ながらそんな風に話していた。だけどそんな会話を聞いていると、テレビの報道が嘘だと思う自信がなくなっていく。Riinaみたいに、私はきれいじゃないし可愛くない。今すぐに莉斗の声が聴きたかった。連絡を取りたかった。けれど、しなかった。莉斗とのことを知られてはいけないからという気持ちと、本当のことを聞くのが怖いからという気持ち。その後、いくつか観光施設を巡ったけれど、ほとんど何も覚えていない。
 家に帰ってからも連絡を取る勇気はなかった。莉斗からも、何もなかった。そのまま朝を迎えて、6時台の早いテレビ番組から莉斗は出演していた。今日は映画の宣伝のためにテレビジャック。
「明日から公開になります、ぜひ劇場まで足を運んでいただけると嬉しいです」
 仕事をしている顔だった。当たり前だよね、それが莉斗の仕事なんだから。
「噂のRiinaさんのことは聞いても大丈夫ですか?」
 深く聞き込んでいく司会者に、莉斗は、「なんか大騒ぎされてますけど、そこそこ古い友人です。仲は良いですよ」と返していた。仲はいいんだ?そうなんだ。時間を確認してテレビの電源を消すと、私は仕事に向かった。

 家には帰りたくないなと思いながら家に帰った。LINEで、仕事が終わったら逢いに行くと莉斗から連絡が入っていた。逢いたいのに、逢いたくなかった。ひとりで軽く食事を済ませて、何をするでもなくぼーっと、莉斗が来るのを待っていた。少し遅い時間に、チャイムは鳴った。何度もため息が出る。早く出なきゃ。ロックを解除する、そしたらいつものように莉斗はドアを開けた。
「こんばんは」
 時間を気にしてか、小さめの声で莉斗は言った。そして私は微笑んで返した。それしかできなかった。何かが怖かった。ふたりの間にある空気みたいなものが、どこかクリアじゃないんだ。「どうぞ」と、声をかけて私はリビングに戻った。
「ビールでいい?」
 莉斗の顔を見ることもなく、キッチンに行こうとした。
「いいよ」
 そう言って莉斗は私の腕を掴んだ。
「なんか、怒ってんでしょう?」
「怒ってないよ」
「報道のこと?」
 莉斗の言葉は、真っすぐだった。何も答えられなくて、涙が流れ出た。
「羽菜?Riinaとは何もないから」
 私の両腕を掴んで、莉斗は優しくそう言った。だけど涙は止まらなかった。抱きしめようとしてくれたけど、私はその手を払ってしまった。
「羽菜?」
「ごめん・・・」
 莉斗はそれ以上私に触れることはなく、ソファにゆっくりと座った。
「話は、聞いてくれる?」
 私は、何も言えずに向かいに座った。ティッシュを手に取って涙を拭う。それでも止まりはしなかった。
「まず、Riinaとは本当に何もないよ」
 莉斗は私をじっと見つめて続ける。
「二十歳過ぎの頃からRiinaのことは知ってる。龍河がもともとモデルをやっていて、そこからの繋がりで友達ではある。今でも何人かで飯食いに行くときにRiinaが居ることもあるよ。でも、これは絶対誰にも言わないでほしいんだけど、Riinaにはちゃんと他に彼氏がいるから。俺にも羽菜がいるでしょ?」
「じゃあなんで、熱愛って・・・」
「なんでだろうな。映画一緒に出てて、相手役だった。話題作ろうとしてんのか俺もよくわかんない。もう10年も友達やってんのに。龍河とならわかるよ、あいつらふたりで飯とか言ってるしさ。俺は本当にRiinaとは何もないから、信じてよ。テレビとか新聞とか、あぁいうの、勝手に嘘も本当みたいに書いて騒ぎ立てるだけだから」
 莉斗の言葉を聞くたびに、信じるとか信じないとか、何が本当で嘘で、とか。そういうんじゃないって思った。どれだけ私が莉斗のことを好きになっていたのかが苦しいくらい重く押し寄せて。涙はまた止まらなくなった。莉斗を見つめると、やっと私に触れてくれた。頬に触れて何度も涙を拭ってくれるけれど、全く止まらない。思い切り莉斗は私を抱きしめて、私も莉斗の背に腕を回した。泣き止むまでずっと、そのままだった。
「羽菜?俺と付き合うの、しんどい?」
 私はすぐに首を振った。
「付き合うの、やめる?」
 私はずっと首を振った。
「いや・・・」
「羽菜?」
「ずっと一緒にいる」
「うん、そうだね。ごめんね」
 莉斗は、とてもとても優しかった。抱きしめながら、ずっと背中をさすってくれる。私は子供みたいにいっぱい泣いて、ぐちゃぐちゃだった。
「顔洗ってくる・・・」
 洗面所で自分のひどい顔を見てまた溜息が出た。メイクはもう落としてしまおう。すっきり顔を洗ってタオルで雫を拭いながらリビングに戻った。莉斗の手には写真立てがあった。私が飾っている、ふたりで撮った写真を見ていた。私が戻って来たのに気づくと、それを元の場所に置いた。
「おいで・・・」
 言葉と共に差し出された手に招かれて、私は莉斗の隣に座った。座るなり胸に抱きしめられていた。
「旅行、楽しかった?」
「うん・・・」
「ほんとに?」
「半分だけ」
「半分?」
「帰る日に、莉斗のワイドショーで見ちゃったから」
「ごめん」
「ううん」
「送ってくれたハートの写真可愛いね、あれ何?」
「大きな石があってね、そこに自然にできた窪みなんだって。ハートの形してるから恋人の聖地って言われてるんだ」
「へえ、そういう可愛い場所(とこ)行くんだ?」
「行くよ。何にだってすがりたいもん」
「何をすがるの?」
「いつまでも莉斗と恋していられますようにって」
 そろそろと髪を撫でてくれていた莉斗の指が首筋をすっと包んだ。
「そんなのにすがらなくてもいつまでも恋してるよ、俺たちは」
 莉斗の顔を見ようと顔を上げると、莉斗も私を覗き込んでいた。そのまま、唇がふさがれた。
「明日は、来なくていいよ」
「え?」
「舞台挨拶。Riinaもいるから、メディアに何言われるかわからない。見たくないでしょ?だから、いいよ」
「でも・・・」
「どうするかは羽菜が決めて?」

 不安とかはなくなっていた。大丈夫。次の日、私は映画の初日舞台挨拶に行くことにした。
 劇場には、テレビや雑誌のカメラが山のように入っていた。壇上にキャストや監督が並んで、盛大な拍手と歓声。圧倒的に多いのが莉斗のファンだった。その中で、莉斗は最初にこう言った。
「わたし、小里倉莉斗とRiinaとの報道でご迷惑をおかけしてます。ファンのみんなにも、はっきりとお伝えしておきます。Riinaはもう10年にもなる友人です。大切な友人です。でもお付き合いはしていません」
 隣に立つRiinaも、それを聞いて頷いていた。会場は少しずつ静かになる。
「俺には今、とても好きな人がいます」
 莉斗がそう言った途端、会場が大きくざわついた。
「それは、あなたかもしれない」
 莉斗が会場を流すように指さすと、今度は黄色い声が飛び交う。
「残念ながら、Riinaではありません。ごめんRiina」
 そう言うと、Riinaの方を向いて一礼した。Riinaはそれに答えるように指で丸を作り、OKと言って見せた。
「この件に関してはこれで終わりにしてください。貴重なお時間使ってすみませんでした。今からは映画の話をさせてください」
 そして、司会とのしばしのトークが始まった。途中、何度か莉斗がこっちを見ているのが分かった。ふっと笑顔を見せてから視線を逸らす。そしてまた、こちらを見る。莉斗は、とてもいい表情をしていた。
 舞台挨拶が終わって、映画の上映が始まった。映画は、とてもせつないラブストーリーだった。見入っていると、途中Riinaとのキスシーンがあった。とてもとても深いキスだった。どうしてだろう、あんなに気持ちは落ち着いていたのに。私は・・・映画の途中で、席を立った。

 劇場を出て、必死で走っていた。駅へと続く歩道橋で、やっとゆっくり歩いて立ち止まる。息がかなり切れていた。スマートフォンを取り出して電話をかける。ずっと聞こえる呼び出し音。出てくれるはずはない。さっきまで舞台挨拶していて。この後の回もまた違う劇場の壇上に立つ予定のはず。出ないとわかっている電話の呼び出し音を、ただずっと聞いていた。
「・・・もしもし?」
「え?」
「どした?」
「なんで?」
「何がなんで?」
「だって仕事中だよね?」
「ですよ」
「電話・・・」
「あんなにずっと鳴らされてたら、いくらマナーモードにしてても周りから気を使われたよ。出たら?って」
「ごめん・・・」
「来てくれたんだね、すぐ見つけられた。ありがとね。で?どしたの?まだ、映画やってるよね?」
「ごめん、最後まで見れなかった」
「なんで?」
「今日逢える?」
「は?質問の答えになってないけど。たぶん、遅くでよかったら行ける」
「待ってるよ」
「うん、わかった」
「ごめんね、切るね」
「ほい」
 電話を切って、少しその場で立っていた。今日は土曜日だから、たくさんの人が通り過ぎる。ここからは映画館の入っているビルがよく見えて、大きく貼られた莉斗とRiinaの映画のポスターが見える。何をしてるんだろう、私は。逢いたいなんて無理言って。でも逢いたくてたまらなかった。
 莉斗がやってきたのは23時を過ぎた頃だった。玄関でいきなりワインのボトルを見せられた。
「sepalのパフォーマーの3人がお祝いにってくれたんだ、映画公開の」
 それはとても高級なワインだった。
「一緒に飲もうと思って。あとね、チーズとかいろいろ買って・・・」
 莉斗が話している途中で私は莉斗に抱きついた。
「羽菜?」
「逢いたかった」
「うん」
 ワインとスーパーの袋を持つ手で、ちょんっと私を抱きしめると、莉斗は私の背中を押してリビングへ移動した。荷物をすべてテーブルに置くと、キッチンに入っていく。
「ワイングラスとお皿借りるね」
「うん」
「で?今日はどうしました?」
「あ、昼間はごめんなさい」
「いいよ、ノープロブレム」
「舞台挨拶、ちゃんと聞いた。はっきり言ってくれて嬉しかった」
「うん、また後が怖いけどね」
「なに?」
「Riinaのことはあれで大丈夫だと思うけど、俺には今好きな人がいるんで」
 そう言うと、私をじっと見つめた。
「いろいろまた書かれるかな」
「ごめん」
「なんで羽菜が謝んの」
 テーブルにワイングラスを並べて、莉斗はワインの栓を抜いた。きれいな色のワインがグラスに注がれる。
「羽菜もお祝いしてくれる?」
 ワイングラスのひとつを差し出されて、私はそれを受け取った。
「あ、なんで映画の途中で電話かけてきたの?気になってたんだけど」
「あー、あの・・・途中で抜けちゃった」
「なんで?」
「えっと。見るのがつらくて・・・」
「何を?そんな苦手なタイプの映画だった?なんで?」
「キス・・・してたから」
「キス?」
「Riinaと」
「は?仕事だし」
「仕事だけど、わかってるんだけど。すごく長くて、なんか、いやらしいやつ」
「はぁ?」
 莉斗は呆れた顔をして、それから思いっきり笑った。
「なんだ、妬いてんだ?」
「違うもん」
「ふーん、じゃぁ、する?キス」
「そういうんじゃないもん」
「いやらしいやつがいいの?」
「違うって」
 一度私に手渡したワイングラスをそっと取ると、莉斗はテーブルに置いた。そしてゆっくりと近づいてくる。
「キスしたい」
 床に座り込んだ私に覆いかぶさるように距離を詰めて、莉斗は私に短いキスをした。
「どうする?もっとする?」
「いいって言ってるじゃん」
「そ?もっとしたいんだ?」
「いいよ・・・違うから」
 その後のキスはとても長くて深いキスだった。角度を変えて何度も唇が触れた。それだけで満たされていく。体が熱くなる。唇が離れると、耳元で莉斗は言った。
「仕事とは違うキスだから、今のは」
 そして体を起こすと優しく微笑んだ。
「ワイン飲んだら、後で羽菜の全身にキスさせて?」



 莉斗と付き合って、もう2か月が経った。朝会社に着くと、どうやら先に桑原が来ているようだった。席にバッグが置いてある。少ししたら部屋に桑原が戻って来た。
「おはようございます」
「おはよう、早いね」
「ちょっと、眠れなくて」
 確かに少し具合の悪そうな顔をしていた。
「眠れないから朝1番で会社来ちゃいました。守衛の人が早すぎて不審者だとか言って開けてくれなくて、面倒くさかったんですよ」
「そんな早く来るからじゃん、何かあったの?」
 コーヒーメーカーのスイッチを入れる桑原の準備を手伝いながら声をかけた。
「付き合おうってなってた人がいたんですけど、ダメになっちゃったんです」
「なんで?」
「他にも気になる人がいて、そっちと付き合うことにした、って。どう思います?キープだったんですよ、私」
「え?そうなの?大丈夫?」
「大丈夫じゃないです」
 頭を撫でてやると、桑原は目を瞑って大きくため息をついた。
「もう、男なんていらない。仕事がんばろうと思います、今日からは」
 まぁ、これもいつものこと。そんなこと言ってまたすぐに合コンに行っちゃうんだ、この子は。若くていいなあって思うけど。
「うん、仕事がんばろーね」
「先輩、これからもよろしくお願いします。だから辞めないでくださいね」
「なんで辞める話になるの?辞めないよ」
「ほんとですか?だって最近彼氏できたっぽいなって思ってて、結婚とかすることになって先輩会社辞めちゃったら、私ここでがんばれない」
「彼氏?」
「見てたらわかりますよ。いいなぁ、先輩は仕事もできてカッコよくて」
 バレてた、んだ?そんなに判りやすい行動してたかな、私。
「カッコよくなんてないよー、私は。彼氏って、私の何か見た?」
「何かって?」
「確信持てるような何か」
「そういうんじゃないですけど、いろんな面で満たされてるの、わかります」
「そんなことないよ」
「あーーーーー!いいなぁ!」
 桑原が大きく叫んだら、係長が入っていた。
「何がいいんだ?」
「あ、おはようございます」
 ふたり揃って挨拶をした。今日も、いつもと同じ朝だ。

 家に帰って、あることを思った。前に莉斗が買って来てくれた指輪、つけようかな。彼氏ができたことすら誰にも言えなかった。だけど桑原にはもうバレてるんだから、相手が誰だかわからなければ差支えはない。職場にだったら付けて行っても大丈夫かも。時々ケースから出して指にはめて、でもまたケースに戻していた、薔薇のモチーフの指輪。指にはめて見ていると、LINEが入った。
 [今電話大丈夫?]、莉斗からだった。大丈夫だと返信を入れると、電話が鳴った。
「羽菜?ごめん、とうぶん逢えなくなった」
「どしたの?仕事?」
「いや、違う。バレた」
「なにが?」
「俺が羽菜んちに行ってるとこ、つけられてた」
「え?」
「いつかわかんないんだけど、マンションに入ってくとこ、写真撮られてたみたい。幸い一人だったから羽菜は写ってないけど、次の日までマンションから出てこなかったって記事になってる。一晩マンションの前で張ってたんだと思う」
「うそ・・・」
「わざと車使わずにいつもジョギング兼ねて走って行ってたんだけど、それも逆にまずかったのかな」
「どうしよう?どうしたらいいの?」
「とりあえず逢うのはちょっとやめるよ」
「うん・・・」
「電話はするから」
「うん」
「羽菜も気をつけて?若い女の子とことん張られると思うから。一般人でも容赦なく」
「えー?怖いよ」
「普通にしてれば大丈夫だよ。こんな時だけこんなこと言うのもあれなんだけど、友達とご飯とか行ってきなよ。最近ずっと俺に合わせてもらってたから」
「うん、ありがと。わかった、莉斗も気をつけてね」
「うん、ほんとごめん」
「ううん、大丈夫」
 まだ仕事があるからと莉斗が電話を終わらすと、目に映った指輪が物悲しく見えた。これ、まだ出番ないみたい。そっと指から外すと、私はまた、ケースにしまった。

 大丈夫。それはそれで、秘めた恋みたいでいいじゃない。誰にも言えないんじゃなくて、言わない恋なんだもん。
 次の日は桑原を誘って夕食を食べに行った。他の日も友達を誘って人気のイタリアンバーに行った。休みの日は予約をしてあったエステとネイルでゆっくりする。ひとりの頃に戻ったみたいな毎日だけど、夜には必ず莉斗から電話が入った。
 ある日、友達と待ち合わせていたレストランの入り口で時間をつぶしていた。早く着き過ぎてまだ席に案内してもらえない状況だった。「羽菜ちゃん?」小さく声をかけられた。名前を、思わず叫びそうになったけど言わずに堪えた。龍河だった。
「びっくりした、ひとり?」
「待ち合わせです、友達と」
「そっか、あ、ちょっとおいで」
「え?」
 隣の店の裏口だった。そっと入ると店員が会釈する。その店の個室のドアを開けると、そこにRiinaがいた。
「遅かったじゃん、あれ?誰?その人」
 Riinaが私を見て言った。
「羽菜ちゃん」
「羽菜ちゃん?莉斗の?」
「そう」
「うわぁ、初めまして。Riinaって言います。莉斗から羽菜ちゃんのことよく聞いてます」
 え?私の知らないところで話が進んでる。なんで?Riinaが私を知ってるの?莉斗からよく聞いてる?なんで?
「はじめまして・・・」
 恐縮だ、すっごいきれいだった、Riinaさん。私よりもずっと背が高くて、細くって、黒髪がとてもきれいで。
「ごめん、びっくりさせて。モデルの時の仲間で飲むことになってて。羽菜ちゃん見かけたらRiinaにどうしても合わせたくなって。俺も羽菜ちゃんとは久しぶりなのに」
「いえ、びっくりしましたけど、嬉しいです」
「私も逢えて嬉しい。羽菜ちゃんってめちゃくちゃ可愛いんだね」
「え?そんな」
 Riinaはぎゅーっと私を抱きしめてくる。
「いいなぁ、莉斗に大事にされてそうな印象ある、よかったらこれから仲良くして」
「そんな、こちらこそ」
「でもあれでしょ?今逢えてないんでしょ?莉斗と」
「あぁ、はい」
「落ち着いたらみんなで飲みに行こうよ」
「Riinaいいねぇ、俺も混ぜてよ」
「もちろん」
 龍河とRiinaがそこにいるだけですごいのに、後からまたドアが開いて見たことのあるモデルの男性が1人、入って来た。
「あの、龍河さん、私これで」
「そっか、待ち合わせてるんだっけ?」
「うん」
 私はそっと店を出ることにした。帰る時にRiinaが手を振ってくれて嬉しかった。友達と待ち合わせていた店に戻ると、やっと席の準備ができたとのことで店の中に入った。
 次の日だ、映画を見に行ったのは。もう上映している劇場も減った、莉斗とRiinaの出ている映画。遅めの時間帯に1枠だけの上映。もうあと数日で終了するかって頃だった。席を買って中に入ると、それでもまばらに人が座っていた。あの日最後まで見れなかった映画、あらためて、最後まで見たいと思った。Riinaに実際に逢って、特にそう思った。それはとても心に沁みる映画だった。キスシーンも嫌じゃなかった。涙が止まらなかったけど、笑顔になれる、そんな作品だった。

 街がクリスマスモードに変わっていく。夜の街には今まで以上にネオンが増えた。莉斗と街を歩いたのは、初めて逢ったあの日だけ。莉斗の、所謂朝帰りの報道も半月が経って落ち着いていた。逢いたいな。思うけれど莉斗とは全く逢ってはいなかった。sepalはツアーが始まって、東京に戻ってもまたすぐ地方に行っていた。私も変わらない日々だった。コートを着ていても、家に帰ると芯まで冷えている。家の中も、ずいぶん長く、莉斗の姿を残していない。
「あのさ、俺、公表しようかと思ってんだけど」
 寝る前の、いつもの電話。莉斗があることを言い出した。
「何を公表すんの?」
「羽菜と付き合ってること」
「なんで?」
「もう、全然逢えないのとか耐えらんないよ、俺」
「でもそれは仕方ないじゃない。別の場所で逢うのも、危険が大きいんだし」
「それで羽菜は平気?」
「そんなこと言わないでよ、平気なわけないじゃん。莉斗がそんなこと言ったら、寂しくてもがんばってるのにがんばれなくなるよ」
「ほらやっぱり無理させてるだろ?」
 莉斗はとても低い落ち着いたトーンで一言そう言った。
「まだ1度も俺たちちゃんとデートしたことないよね」
「うん、それは仕方ないから」
「仕方ない、ばっかだな」
「でも、ちゃんとこうやって話せてるし」
 自分に言い聞かせるように言った。なのに莉斗はせっかくのそれを遮るように言う。
「じゃあ、羽菜の顔を見て、キスをして、触れたくて、抱きしめたい気持ちはどうしたらいいんだよ」
 言葉を聞いて、莉斗の笑顔が思い出せなかった。前に見た莉斗の出ていた映画の、莉斗の泣くシーンを思い出した。恋人を失って泣いているシーン。
「私は、ずっと居るよ?莉斗の傍に」
「実際、離れてるじゃん」
「なによ、ガキ」
「ガキ?」
 さっきまで泣きそうだったのに、私には今涙はなかった。莉斗をどうにかしたかった。
「今じゃないと思う、公表するの」
「なんで?」
「莉斗は、sepalの莉斗なんだよ」
「わかってるよ」
「だったら、今じゃないよ。ファンが、今まで以上にあなたを受け止めてくれるくらい、もっと活躍してからじゃなきゃダメな気がする」
「もっとって何を?」
「歌でもダンスでも、映画やドラマや、今やってる全ての仕事で何も言わせないくらいみんなを魅了してからじゃないとだめだよ」
「でもそれをがんばるために羽菜と逢いたいんだ、わかる?」
「わかるけど、ちゃんと時間が経てば逢えるよ」
「いいの?羽菜はそれで」
「いいよ」
「いつになるかわからないよ?魅了すどころか、すぐに芸能界からいなくなるかもしれない」
「だったら、それはそれでいいよ。どっちにしたって、何年先でも、隣にいるのは私だから」
「言うね」
「うん」
「寂しいとか辛いとか、言わない?」
「莉斗こそ、寂しいからやっぱりもう付き合うの辞めるとか、子供っぽいこと言いだしたりしない?」
「馬鹿にすんなよ、言わないよそんなの。俺も、隣は羽菜しかいないから」
「うん」
「しんどいよ?俺の彼女は」
「知ってるよ。それでも莉斗がいいの」
「すげぇ覚悟だな」
「そうだよ。私そういう性格だもん、しんどいよ?私の彼氏になると」
「わかったよ、受けて立つよ。だから金輪際、俺のことガキとか言うなよ」
「わかった、もう言わない。ごめん」
「ううん、俺もごめん。公表するの、やめるわ」
「うん」
「やっぱり羽菜を好きになってよかった」
「なんで?」
「ちゃんと、ふたり一緒で考えてくれるから。ありがとな、羽菜」
 ふたり一緒で。そんなの思ったことなかった。だって私本当は、自分勝手で、いつでも逢いたいって思ってる。でも、そうだね。
「莉斗が芸能人でよかったって思う」
「なんで?大変じゃん」
「ううん、だからだよ、ふたり一緒で考えられるの」
「そう?」
「そうじゃなかったら、何で逢えないの?って。何で今すぐ来てくれないの?っていっぱい我儘言ってたと思う」
「今言ったね、それが本心だったの?」
「本心ではあるけど、だからどうってことでもない感じ。莉斗がそれで仕事がんばれるんなら、その分いつかいっぱい逢えると思うから」

 後になって、莉斗から言われた。この日、莉斗は電話を切ったあと泣いたんだ。私を想って、いっぱい泣いたんだって。仕事に一生懸命な毎日で、売れることに必死になって、好きになった人も今までにいたけど、恋なんてせずに過ごしてきたって。だけど、私と出逢って、恋をしたいって想ってくれた。だから初めて逢ったあの日、ぶつかったあの後で、1度は去ったけれど私の所に戻って来たって。転んで大丈夫だったんだろうかって気持ちと、どこか、きちんと逢ってみたいって思ったのと。そして私を一瞬で好きになったんだって、言った。それを聴いて、今度は私が泣いた。
 [幸せの涙はどれだけ流しても心を潤してくれる]。私の大好きな言葉。[花]の歌詞に出てくる言葉。私たちは、恋をして、相手を想っていっぱい泣いた。莉斗は、この歌詞をかき上げた時すでに、私たちの未来をわかっていたんだ。


 Riinaとは、すごく親しい中になった。
「また逢いたいって言ってるらしいよ、Riinaが。LINE、Riinaに教えてもいい?」
「ほんとに?嬉しい。全然おっけー」
 Riinaはよく連絡をくれて、相談に乗りあったり、ふたりで旅行にも行ったりした。莉斗と私の間に龍河とRiinaが入ってくれて、渡したいものを預かってくれたりもした。とても不便な付き合いかただけど、そのちょっとした時間差が楽しみでもあった。
「そんなに逢わなくて本当にいいの?なんなら何処か逢える場所探すよ?私」
 Riinaはよくふたりのことを気にしてくれた。
「大丈夫、遠距離恋愛だと思えばね。それに私はいつでも、テレビとか雑誌とか、探せば莉斗を見つけられるから」
「そうだろうけど、あ、だからか、たまに飲みに行くと莉斗が変なテンションの時あるんだよね。莉斗からすると、羽菜を見る機会なんてゼロなわけなんだし」
「うん、たまに言われる。俺が結果的に1番辛い位置にいる気がするって」
 でもそんな時、私はいっぱい、好きを届けるんだ。言葉でいっぱい。
「そんなこんなでね、今日は莉斗に動画録って来てって頼まれてるんだけど」
「動画?嫌だよ、動画なんて」
「一緒に遊んでるとこ録ったのとかでいいんだって、たまにスマホで録るけど気にしないで」
「気になるよ、そんなの」
 ふたりでカフェでお茶しながら。たまにRiinaに気付いた女の子がファンだって言って握手求めて来たりするんだ。そんな姿を私は見ながらお茶を飲む。そしたらRiinaがスマホでいろいろ録り始めるから、照れくさいけど私は笑顔でカメラを見るんだ。好きだよ、って言いながら。

 そして、莉斗と逢えたのは年が明けてからだった。Riinaの結婚式だった。電撃結婚と報道された。だけど私たちは知ってる、Riinaはもう彼と4年も付き合ってること。結婚式に出席すると、莉斗も来ていた。チャペルの列席者の中、さりげなく隣同士で座った。
「久しぶり、羽菜」
「うん、久しぶり」
 式の間、こっそりと椅子の下で手を繋いだ。
「いつか俺たちも結婚するから」
 耳元でこっそりと莉斗が言った。莉斗の顔を見ると、優しく微笑んでいた。
「神様の前なんだから、これは神聖なるプロポーズです」
 莉斗にそう言われて、小さく頷きながら私は笑顔を見せた。いつかそうなる日を想って。

彼と私の恋の在り方

彼と私の恋の在り方

或る日突然私に訪れた恋は、人気アーティストとの、誰にも話せない秘密の恋でした。

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-13

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