私以外の誰かのために

 ゴミばっかりだからポリ袋に詰め込んで、まとめてゴミ収集車に放り込みたい。真っ黒な携帯の画面で前髪を整えながら、そんなことを考えた。それは衝動だった。この胸の内にわだかまるいらいらをどうにかしたくてしょうがない。
 現代国語の先生が俯きがちに教科書を読み上げている。ぼそぼそとした声だが、その声がかき消されることはないくらい教室は静まり返っている。大半は机に突っ伏していて、あとは内職していたり、漫画を読んだりしている。まじめに先生の話を聞いているのは、ごく少数。
 私は机の上に携帯だけ出して――教科書も筆記用具も持ってきていない――頬杖をついて、決して手元の教科書から顔を上げないおばさんの先生を睨みつけている。あんなでよく先生になれたものだし、あの歳まで先生を続けられているものだ。あれだったら、まだ私の方がまともに教えられるだろう。いらいらする。
 でも、あのおばさんが不甲斐ないことがいらいらの直接の原因ではない。それは、突っ伏している人がいることでも、こそこそと雑誌を回し読みしている人たちがいることでもない。これといって明らかな理由もなく、私はただいらいらしている。
 目の前の席を思いっきり蹴っ飛ばしたい。蹴っ飛ばしたら、きっとすっきりするだろう。そのときには、さすがにあのおばさんも顔を上げるのかな。上げたとしても、何も言えないとは思うけれど。
 終業を知らせるチャイムが鳴った。先生が終わりを告げるまでもなく、がたがたとあちこちから音がして、勝手に席を立っていく。今まで大人しく聞いてやってたんだから、もういいでしょ、と言うかのように「自然終了」を演出する。おばさんの先生は形だけでもちゃんとしようと一礼して、そそくさと教壇から下りていく。もはやお決まりになった一連の光景を眺めてから、私は「死ね」と呟く。誰にともなく。

 弁当箱と焼きそばパンの入った袋を片手に、屋上へ向かった。向かう途中でいつものように足を止め、箱を袋から出し、蓋を開けた。蓋の開いたそれを心持ち上げて、ゴミ箱の中を見つめた。ためらうことなく、中身をゴミ箱へと投げ入れる。たまご焼きとかウィンナーとか、白いご飯が見えた。鼻を突くのはいい匂いではなくて、なんとも形容の難しいいろんなものが混同した匂いで、ただただ、不快感を覚える。
 屋上に辿り着くと、すでに美波がフェンスにもたれかかって、煙草をふかしていた。「よっす」軽く片手を上げて、私を手招きする。
「早くない? 授業さぼってた?」私が笑いながら近づくと、美波は頷いた。「なんか朝からだるくてさ。妙子、よくじっとしてられるよね、あんな空気よどんでる中で」
「私は席から動くのがもはやだるくて」美波の隣に腰掛け、焼きそばパンを手に取った。私の、お昼ご飯。
「弁当、また中身捨てたの?」赤と白のチェック柄の布袋を指差して、美波はけたけたと笑う。
「捨てたよ。どうせこんなに食べれないし、おいしくないし」私はぶっきらぼうに答える。
「だからって、捨てなくてもいいのにさ。そのまま持って帰ればいいじゃん。私はそうしてるよ」
 私は四分の一くらいかじった焼きそばパンを袋に戻す。もう、食べる気がしなかった。代わりにポケットから煙草を取り出す。「なんか、持って帰って親と言い争いになるのも面倒くさいんだよね」
 自分が正しいと信じてやまない、腐った女。思い浮かべただけで吐き気がする。できるだけ、あの女とは言葉を交わしたくない、っていう私のスタンス。
「妙子ってほんと面倒くさがりだよね」美波は煙を吹き出す。「いつも気だるそう」
「省エネの時代だからね」
 私たちはつまらなさそうに笑い声をあげる。二人の笑い声が屋上の唯一の声として浮かび、それは目に見えるような乾いた感触を与える。
 空は誰のためでもなく澄んでいた。その青さはここにいる誰の心を満たすこともできずに、薄く、平べったく広がる。

 午後の授業は睡眠時間に充てた。都合、四回目のチャイムを聞いてから、私は目を覚ました。両手を掲げて伸びをすると、体が軽くなっているような感じがした。トイレに行こうと立ち上がったが、立ちくらみがしてまた椅子に戻る。もう大丈夫だろうと再び立って、トイレに向かう。教室を出るタイミングで担任の先生が入ってきたけど、知らん振りをした。
 トイレの壁はピンク色のタイルで、この学校の内情とは裏腹に、綺麗に磨かれていた。私は一番奥の個室に入って、便器に向かってしゃがみ込む。なにかを吐き出したくてしょうがなかったけど、朝も昼もまともなものを受け取っていない胃からはなにも逆流してきそうにない。それで、目に見えるなにかを吐き出したいわけではないことに思い至る。だが、分かったところでなんの解決にもならない。
 便器の中の水に私の顔が薄く、ぼんやりと映っていた。どんな表情をしているのか鮮明に映してくれないけれど、鮮明でないだけに、絶望的にも楽観的にも見えた。
 大きく息を吐いて、いいかげん立ち上がった。――つと、また立ちくらみがする。目の前が滲んで、壁に倒れかかる。したたかに打った肩がじんわりと痛んだ。
 私は立ちくらみの感覚が嫌いではない。どうしようもないくらい私を無抵抗にして、いろいろなしがらみみたいなものから解き放ってくれる気がする。
 教室に戻ると、ホームルームがすでに終わっていた。室内の雰囲気は部活へと向かっている。これから始まる、自分の好きなことができる時間。私は机に引っ掛けてある鞄を取って、そんな雰囲気に唾を吐きかけたいと思いながら、それを肩にかける。すぐに教室を出た。
 許せない。許せない、なにかを。なにかは分からない。
 
 プールの水面に無数の水滴が落ちてくる。いつの間にかどんよりと曇ってしまった空から、それらは絶えることなく落ちてくる。雨だ。
 私は雨が好きだ。雨が降るとそれまでの世界が一変する。まるで夜の底へ沈みこませていくように、それは私を心地よくしてくれる。
 なんとなく、雨の気配に身を委ねたくなって、更衣室に行くことにした。たぶん、置きっ放しにしているスクール水着がまだあるはず。
 時間をずらして行ったから、更衣室には誰一人としていなかった。奥のロッカーを探ると、記憶の通りの位置にプールバックが残っていた。中から、水着を取り出す。制服を脱いで、たたみもしないでロッカーに放り込み、急いで着替えた。気持ちは高揚していた。なにもかもがもどかしかった。着替えると、校舎裏のプールへ向かった。肩に、雨のしずくが寄り添うように降りつける。
 プールの縁に立つと、水泳部だった頃を思い出した。いや、辞めたつもりはないから、正しくはまじめに通っていた頃を。といって、感傷に浸っているわけではない。たんに、記憶の作用としてあの頃を思い浮かべ、今の自分と重ねる。
 片足から水の中へ身を沈めていき、全身を浸からせると、冷たいと感じた。雨だから気温が下がっているのだろうか。でも、水の中の世界はなんていうか最高だった。今の私を一番満足させてくれるのは、この世界じゃないかな。その世界の空を見上げると、無数の水滴が打ちつけられていて、その規則正しい音に私は包まれる。
 しばらく泳いだ。泳ぐのは久しぶりだったけど、体はそう簡単に泳ぎ方を忘れるものではないと実感した。ただ、体力の衰えも否定できなかった。だからといって、生活を改善しようとか野暮な意志はどこからもやってこない。
 ふと、水面から顔だけ出していると、校舎の渡り廊下に佇む男の姿を見つけた。誰かと待ち合わせているのか、携帯をいじりながら、たまに周囲を見回している。――ウチの学年だったかな。名前が出てこないけど、ちょっと興味を持った。
 水面から音を立てないように出て(雨でかき消されるから、そうする必要はなかったけれど)、もう少しだけ近づいてみようと思った。プールサイドに上がって、四つん這いの格好で徐々に近寄った。彼は気づく様子はない。あと数歩のところまで辿り着いてしまい、私は声をかけるために立ち上がろうとした。
 そのとき、またあの立ちくらみに襲われた。このときは厄介だった。濡れていて足元が不安定だったし、内心の焦りからか、無駄な抵抗を試みようとしてしまった。
 意識がはっきりしたときには、私は彼に後ろから抱きつく格好になっていた。当然、彼の制服はびっしょり濡れてしまった。
「わ、誰? なに?」
 彼は突然の水着女の出現に、度肝を抜かれたようだった。その顔を抱きついたまま観察すると、目鼻立ちがすっきりしていて、あ、これはタイプだ、と一瞬で思った。
「私と付き合って」
「ええ?」
 もちろん、今の「ええ?」は名前も知らない彼が発したものだけど、私も「ええ?」って叫びたくなった。自分の言葉に自分で驚いていた。どうしてこのタイミングで、付き合って欲しいだなんて言うのだろう。
 だけど、現実に言葉にするとほんとうの気持ちのように思えた。私はほんとうに、この腕の中にいる彼を愛しているような気がした。なにより、私のタイプだし。
「お願い、私と付き合って」
 雨にかき消されないように、それでも、あまりうるさく響かないように、私はもう一度「付き合って」と口にした。

 最近、屋上に美波が来なくなった。まあ、同じ学校にいるからどこかで出くわして、なんの問題もなく話してはいる。でも、美波は変わった、ような気がする。
 まず、煙草を吸わなくなった。煙草がないと私以上にいらいらしたのに、見る限りではまったく吸わなくなってしまった。私が目の前で吸っても、美波はポケットに手を伸ばさない。
 おかしい。
 それに、髪型を気にするようになった。いつも無造作におろしているだけだったのに、ヘアゴムで結わえるようになった。そういえば、化粧も少し薄くなった。
 休み時間、教室の窓から校庭を見下ろしていると、「妙子」と、隣に美波が現れた。髪をきちんと結わえている美波は、まるで別人みたいだった。
「いい天気だね」
 なんとも、能天気なことを言う。私はいい天気だからか、気分がすぐれなかった。雨が降って欲しい。すべてを遮断する音の世界に、身を置きたいのに。それでも、「そうだね」と、適当に相槌を打っておいた。
 私は晴れ渡った空なんか見ていなかった。校庭を無邪気に走り回る、寺内を目で追っていた。寺内は、この前私が濡れた体で抱きついた、彼だ。寺内はやはり同級生で、バレー部に所属していた。確かに、背が高かった。見ている限り、足も速そうだ。サッカーボールを追いかけて、校庭内を右に左に駆け抜ける。

 ――お願い、私と付き合って。
 私の突然の告白を受けて、寺内はまず「と、とりあえず放してくれる?」と言った。寺内から腕を外すと、彼は立って、私たちは向かい合った。そのとき、思ったよりも背が高いことを知った。
「あ、確か、高浜さんだよね……?」
 向こうは私を知っていた。私が無言で頷くと、「その、あんまりにも突然だから、気持ちの整理もつかないし……」
 ごたごた言わないで付き合え、と思った。気持ちの整理なんかつけなくていい、今すぐ私と付き合うと言え。
「少し、考える時間をくれないかな。ちゃんとした回答をするから」
 先延ばしにされ、私の心は人並みに傷ついた。
 それでも、素直に頷いておいた。「分かった、待ってる」
 
 ちゃんとした回答とやらをしてくれたのは、それから一週間も経ってからだった。てっきり、もう無回答でやり過ごされるのかと思っていたから、呼び出されたときは意外に感じたし、本気で付き合ってくれるのかと期待した。
 校舎裏の、プールからは少し離れているその場所に行くと、寺内が立っていた。顔は改めて見てもタイプだし、背が高いのも男らしくて申し分ない。私は正面に立って、彼の口からどんな言葉が出てくるのか期待して待った。
「その、突然で、最初はなにがなんだかよく分からなかったけど、嬉しかったです」
 一気に、私の期待が冷めていくのが手に取るようにわかった。寺内は私と付き合うつもりなんかないのが、声の調子から窺える。だいいち、「嬉しい」なんてわざわざ言うときには、「ごめん」が続くのが定石だ。
「ごめん」予想したとおり、その三文字が紡ぎだされる。「でも、お付き合いはできません。おれに――」
「もういい」私は片手で、彼の言葉を遮った。「もういいよ」
 寺内は口を半ば開いて悩んでいるようだったが、やがて首をゆっくりと縦に動かして、もう一度「ごめん」と告げた。また、ごめん、か。目の前の男の股間を蹴ってやろうかと思ったけど、我慢した。頬をはたこうかと思ったけど、こらえた。
 ごめん、を最後に残して、彼は背中を向けて、私から遠ざかっていった。その後ろ姿は、まだ私になにかを思わせるのに充分なたくましさを備えていた。
 きっと今、自分の表情はそうとうふてくされているのだろう。無性にむかついた。彼にでもなく、かといって、自分にでもなく。心が、じわじわと悪性のものに侵食され、荒んでいく感触がした。

 ――えこ、妙子。
 美波の呼ぶ声で我に返る。眼下では、相変わらず寺内たち男子が走り回っている。
「美波」この際だから、訊いてみることにした。「最近、なんかあった?」
 美波は一瞬、顔を引きつらせた後、「なんで?」と問い返してきた。
「いや、なんとなく」
「うん――」美波の表情から笑みが消えてしまった。なにかに怯えているように、頬を硬く、引きつらせている。「私、さ」
「なに?」
「たぶん、好きな人ができた」
 いきなり打ち明けられる驚きは、こういうものなのだろう。私は息を飲んでしまい、上手く呼吸ができなくなり、一回、咳をした。一回だけでこらえたのは、せめてもの意地。でも、私の意地ってなんだろう。私はなにをがんばる必要があるのか。
 私、お金なくて、バイトしてんだけど、コンビニで。そこの先輩が、特別かっこいいわけじゃないんだけど、なんかいい人で、一緒にいると安心して。でも、先輩はもっとかわいい女の子というか、純粋な女の子がいいみたい。だから、私、ちょっと変わろうかなと思って。とりあえず、煙草やめたんだ。気付いてた? はは、バカみたいでしょ。笑えるよね。でも、好きなんだよね。
 それまで絶え間なく喋っていた美波が黙り込んだ。――私が、近くにあった机を思い切り蹴り飛ばしたからだ。けたたましい音とともに、机が視界の隅で倒れた。教室が一気に静まり返る。
「うるさい」腹が煮えくり返りそうだった。すべて吐き出したい。なにもかもぶち壊したい。「うるさい、うるさい」
 美波はこうなることを予想していたかのように、無表情で私をじっと見ていた。それがまた、憎たらしかった。
「うるせえんだよ、ごちゃごちゃと。それがなんだって言うの? どうでもいいことをべらべらと、くだらねえ」
 死ねよ、と言っていた。誰よりも理解し合えた美波に向かって。「死ねよ、むかつくから」
 ふざけんな、と絶叫して、私は別の机を蹴り飛ばした。さらに別の机を、両手でなぎ倒した。
 それでも、美波はなにも言わずに私を見ていた。
 その視線に耐えられなくなって、私はその場から走り出した。教室を出て、廊下を曲がるところで誰かとぶつかったけど、気にしなかった。私はとにかく走った。
 どこにいけばいいのだろう。私の居場所は、いったいどこだろう。屋上か、プールか、トイレの個室か。どこだったらいいのだろう。
 こんなあたしが向かうべき場所は、どこ?

私以外の誰かのために

私以外の誰かのために

この胸の内にわだかまるいらいらをどうにかしたくてしょうがない。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-10-13

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