宇宙の果てに(仮題)前篇

宇宙の果てに(仮題)前篇

*プロローグ*

 埼玉県草加市は、かつては日光街道沿いの宿場町として栄え、各所に江戸時代の面影を残す。昭和三十年代後半に、近隣の私鉄が東京メトロ(当時は営団地下鉄)と繋がり、当時東洋最大とも言われたマンモス団地が出来上がった。その頃より爆発的に人口が増え続け、都心のベッドタウンとして今も人を集め続けている。
 昭和六十年代から駅前の再開発が進み、都市らしい顔を持つようになった。さらに平成に入り鉄道網が一層整備され、流入者は増加の一途をたどっている。

 平成××年十一月、草加市近郊の首都高八潮インターチェンジに隣接するラブホテルの客室で、一人の男が死んでいるのが見つかった。第一発見者は、三十五歳になる店の従業員だ。部屋は午後九時頃から使用され、翌日正午前に空室状態になったので、清掃をしようと部屋に入ったという。
 部屋は丁寧に片づけられ、マナーのいい客だと思ったそうだ。ところが、浴室に入ると男が浴槽に顔を沈めている。声をかけたが何の反応もない。肩を掴むと、静かに回転し、青白い顔が現れた。驚き慌てふためいて、警察に通報した。八潮署員が駆けつけ、男性がすでに死亡していることが確認された。男性の衣服も、身元を示す物は何も残っていない。
 男性とは別の何者かが、部屋代を精算機で支払い、彼の所持品を持ち去ったと見られる。同署では、男性が事件に巻き込まれた可能性が高いことから、身元の確認を進めた。司法解剖の結果、死因は、溺死である。死亡推定時刻は、前日午後十時から十一時頃。男が入って一、二時間足らずのことだ。体内からは、かなりの量のアルコールと、睡眠薬に用いられるベンゾジアゼピン系の成分が検出された。酔った上で睡眠薬を摂取し、浴室で溺死した可能性が高い。

*彩*

 十月二十六日水曜、外は朝十時だというのに薄暗く、秋の細く冷たい雨が昨日から降り続いている。川崎市のマンションから、窓下に見える多摩川は、土色に濁り、普段よりずっと水かさが増している。いつまでも眺めていると、飲み込まれてしまいそうな勢いだ。
 瑞月彩(みづき あや)は、煙草をくわえたまま、部屋の明かりをつけ、まだ起き抜けのパジャマ着のまま、部屋の座卓に置かれたノートパソコンを立ち上げた。アラスカの大きな夜空に広がるエメラルドグリーンのオーロラがデスクトップに映し出された。
 昨日、仕事中有線で聞いた女性シンガーの歌う"Across The Universe"が気になっている。それをもう一度聞きたくてYouTubeで探そうとしている。
 この曲は、もともとビートルズのもので好きな曲の一つだ。二十八歳という年齢では、周りの人からは意外に思われることも多かったが、ちょうど親がビートルズの世代である。彼らの歌を、車の中や掃除機の音と共に年がら年中聴かされた。物心がつく前から、知らず知らずの内に躰に刷り込まれていたのだと思う。
 原曲よりさらにゆっくりとした旋律。気だるい歌声。深く吸った息を吐き切る溜息のように、彼女は歌う。特に“Nothing's gonna change my world(何ものも私の世界を変えることはできない)”というフレーズは、他人に理解を求めることに絶望し、心を閉ざしてしまったかのように聞こえてくる。原曲にはない二番三番のメロディーラインの変化が、曲の単調さを補ってあまりある美しさだ。それが心地よく響き、気に入った。
 絶望することが、今を軽やかに生き抜くための最上のスキルのような気さえする。
 将来は、今の続きでしかない。シンデレラや白雪姫のように魔法使いや王子は現れない。相互に管理し合う社会で、核戦争やハルマゲドンも起こらない。自由を標榜しながら、貧富の格差は拡大する。弱者には、真の英雄も正義の味方もやってこない。正義や正論なんて信じない。アメリカにも、中国にも、北朝鮮にもそれぞれ自分たちの都合のいい正義がある。物事の善悪は、強者の価値観によって決まる。五億円の宝くじが当たろうと、お金の使い方を知らなければ、お金に振り回されるみじめな人生が待っているだけだ。
 彩の仕事に対して、時に男は優しい顔をして、こんなことを長く続けるもんじゃない。心身共にだめになってしまうから早く抜けろ、と言う。いずれも親しい友だちの振りをしながら近づいてきて、弄(もてあそ)ぶだけ弄んで、正義面をして去っていく。そんな言葉は、ただの自己満足で、言った本人だけがいい気持になる。言われた側では、弱い者いじめの暴力と変わらない。時々、反吐が出そうになる。
 夢は心の中にしまっておき、求めることも期待することも諦める。歌の雰囲気が、彩のそんな思いに触れたのかもしれない。
 原曲の歌詞をおぼろげに思い出しながら、彩は道端に捨てられた紙コップを想像していた。
――降りやまぬ雨が、紙コップを満たし、ついには溢れ出す。紙コップは、やがて風に煽られ、転がり、踏まれ、ぼろぼろになっていく。その姿は、今の私そのものかもしれない。雨は時に孤独や悲しみ、虚無感であり、欲望の残滓である。男たちが日々排出する、行き場のない白く濁った精液と同じだ。
 アクロス・ザ・ユニバースと、カタカナで曲名を打ち込み検索をかけると、原曲の他に、いくつものカバー曲が出てきた。その中に白黒の写真でヘッド フォンをかけた女性を見つけた。きっとこれに違いないとクリックすると、白黒の画面にそこだけカラーのガラス窓が現れ、確かに聞き覚えのある ギターのイントロが流れ始めた。
 続く、その後の凄まじい映像に思わず息を飲んだ。“SODA SHOP”と書かれた店のガラスが、突然、外から飛んできた長いベンチで激しく割られる。無数の男たちが、その割られた窓を乗り越えて入ってきて、店内のあらゆる物をめちゃくちゃに壊していく。その喧噪の中、店の片隅で、先ほどの写真の女性が不思議な笑みを浮かべ観る者に語りかけるように、一人我関せずと 歌っている。彼女の名前は、Fiona Apple。長い髪を伸ばした細身の女性だ。
 鏡が割られ、ソファーが投げ飛ばされ、カウンターの上に置かれた細々としたものが、バットで払いのけられていく……。
 彩は驚いた。ぼんやりとしたイメージが、映像として目の前にリアルなものとしてあったからだ。歌が醸し出すイメージは、受け取る者の想像でいかようにも膨らむ可能性を秘めている。彼女の歌とこの映像が、彩にはぴったりだった。
 今日は夕方からの出勤。クリニックに寄ってそのままお店に出るつもりだが、まだ十分のんびりしていられる。もう一度繰り返して聴いた。
"Across The Universe"は、「宇宙の果てに」と訳されている。
――確かに、私もこの地球上で繋がっているものなど何もないような気がする。
 躰はこの地球の上の小さな町の狭いアパートの一室にある。でも、心はここにはなく、宇宙の果てに置かれているようだった。
 二度聴いて満足し、お気に入りに追加した。YouTubeの上にいつものSNSを開いた。新しいメッセージや日記へのコメントは来ていない。友達の日記やつぶやきを一通り見てまわり、続きのアプリを開いた。
 彩は、実のところ、最近こんな調子で、ほとんど仕事以外は部屋にこもりっぱなしだ。自分でも引きこもりだと自覚していて、その罪悪感を払いのけるように、一層ゲームにのめり込んでいた。
 一度トイレに行き、りんごジュースを飲んだ。それからまたパソコンに向かう。伸びた前髪が垂れて鬱陶しく、手元にあったコンコルドを頭に突き刺し、ゲームを再開した。
 空腹に気づいて時計を見たのは、十二時半を過ぎた頃だ。このところ、あまり食欲がわかない。空腹感といっても、文字通りお腹が空っぽといった感じがするだけだ。そろそろ、シャワーを浴びて、出かける準備をする時刻だ。
――あぁ、行く気が出ない。腰が痛い。動く気になれない。もう一度、あの曲を聴いて、元気を出そう。
 曲を聴いているうちに、自分の馬鹿らしさに気づいた。この絶望的な歌でどんな元気が出るというのだ。可笑しくて、つい笑ってしまった。
「ナッシングズ・ゴーナ・チェンジ・マイワールド」と口ずさみ、クローゼットからバスタオルを取り出す。これから行くクリニックの待合室の窓ガラスにソファーを投げつけ、熱帯魚の水槽を金属バットで打ち砕く。受付カウンター奥のカルテを手当たり次第にばらまいて破り踏みにじる。そんな想像をしながら、ユニットバスに入っていった。

*和夫*

 河田和夫の住む2LDKのアパートは、埼玉県草加市内の、実家に近い新築の洒落た建物だ。都内の大学を卒業し、市内の不動産会社に就職した。昨年二十七歳で勤め先の若いアルバイト社員と結婚し、実家を出た。
 仕事は、持ち前の声の大きさ、粘りと押しの強さが功を奏して順調だった。その分、客のクレームも多く、上司にはしばしば叱責されたが、さして気にしていない。中学時代の苦々しい学校生活と比べると、今は、順風満帆の申し分のない生活だった。
 彼には双子の弟がいた。彼らの両親がこの地に戸建てを購入し移り住んだのは、平成元年、再開発の終盤で、二人がまだ四歳の頃である。西口を進んだ神社近くの静かな住宅街に居を構えた。
 ところで、弟の方はまだ独身で、駅の東側にある実家に住み、新宿でレストランのコックをしている。二人は、高校の時から学校が分かれ、以降それぞれの生き方は少しずつ離れていった。互いに距離を保ちながら、それぞれの持ち前の良さを生かすことに繋がったようだ。

 十月二十六日水曜、和夫は朝十一時過ぎに布団から起き出した。妻は出産のため、今月始めから実家に里帰りしている。一人暮らしの経験のない彼にとって、この機会は貴重だった。後にも先にもこうした機会は早々訪れないだろう。それをいいことに彼の部屋は凄まじい状態になっている。
 窓の閉め切った部屋は、男の汗とごみのまざった異臭が漂う。敷きっ放しの布団の周りは、洗濯していない下着やシャツ、新聞や漫画、エロ雑誌とティッシュの山で、足の踏み場もなかった。リビングのテーブルには、昨夜遅くまでDVDを観ていたそのままに、溢れ出しそうな灰皿、チューハイや発泡酒の空き缶、菓子袋、醤油が乾燥してこびりついた皿、箸が散乱していた。床も、カップ麺や弁当や総菜の空ケースなどのごみで溢れていた。和夫は、それらをよけながら、シャワーを浴びに浴室に向かった。誰もやかましく言う者がいない自由気ままさを、この時ばかりと堪能していたのである。妻がこの惨状を知る由もない。
 先週金曜に第一子が産まれた。その日は、会社を早退して出産に立ち会った。今日は、これから妻子の入院している病院に見舞に寄る予定だった。
 和夫の楽しみは、ぐうたら三昧の気ままさだけではなかった。不動産屋は、水曜日が定休日である。その平日休みを利用して、里帰りした妻と子供のもとを訪れるが、その帰りがけに都心の風俗に通う癖がついていた。秋口から仕事が立て込み、おかげで今月の給料は思った以上にあった。今日は、渋谷辺りで楽しもうと企んでいたところだ。 昨日の内に部屋のパソコンで、気に入った店のホームページから案内と割引券を印刷しておいた。
 和夫はシャワーを終えて出てくると、丁寧に髭を剃り、歯磨きも口臭を気にして二回行った。仕事で大事な時に使うスーツを着込み、短い髪にワックスを塗りつけ、若者らしくナチュラルなイメージを出そうと奮闘していた。

 *彩*

 彩は、駅前のビル三階にある整形外科のクリニックに着いた。雨を払って、傘をビニール袋にしまう。滴が袋の底に見る見る溜まっていく。午後の診察が始まっている。診察券と保険証を受付に出して待合室のソファーに腰掛けた。
 今日は雨でそれほど混んではいない。待合室は窓が広く明るくて、落ち着いた雰囲気だ。雨で濡れた人通りの少ない商店街が眼下に見えた。窓際にアジアンタムの鉢がいくつも並んでいる。彩も花をつけることのないこの小さな緑の草が好きだった。自分でも買ってみたが、上手く育てることができていない。温度や日当たり具合、土の湿り気など注意した。しかし、葉が少しずつ黄色くなっていき、やがて腐ったような茶色く縮れていった。ふさふさしていた葉っぱの山が、今はすかすかになっている。水をやり過ぎて根腐れしてしまったようだ。ここでは上手に育てている。いつ見ても青ガエルの背のように瑞々しい葉っぱを、鉢いっぱいに広げている。
――まさか、イミテーションじゃないよね。
 確かにイミテーションではない。ところが良く観ると、前回来た時と少し葉のつき方が異なっている。場所を移動したようでもなさそうだ。どれも本数や盛り上がり具合など微妙に違っている。彩は、業者が定期的に取り換えにくるのではないかといぶかった。これまで感心してきて損した気分になった。
 入り口の脇にある水槽に目をやった。グッピーやネオンテトラなど小さな熱帯魚が泳ぐ大きな水槽は、水が澄んで、色鮮やかだ。魚たちには、この水槽の中の小さな世界が全てなのだろう。外に別の世界があることを知らない。閉ざされた平穏な世界だ。
 四、五歳くらいの女の子が白いハイヒールを履いた母親と診察室から出てきた。
 女の子は左ひざに、しっかりと大きな絆創膏が貼られている。会計で呼ばれ、母親が立ち上がった。しばらくその場でやり取りが続いている。耳をそばだてると、何やら支払いの件で揉めているようだ。母親が診療代を払いたくないと言っている。どうやら幼稚園で、男の子に突き倒されて怪我したようだ。診療代をその男の子の親か、園に払ってもらいたいらしい。クリニックとしては、事故・事件となると請求先も変わり、健康保険が適応されないこともあるらしく、結局この日は払わないでよいことになった。
 面倒な話だと、彩は思った。小学生の頃、同じように男の子にいじめられて突き飛ばされたりした。多少の怪我は保健室ですませ、病院に行くことや事故とか騒ぐことは一度もなかった。
 診察室から、彩の名前が呼ばれた。
 診てくれる先生は、縁なしの細い眼鏡に、髪は真中で分けて横に垂らしている。細身で肩幅が広く、ストライプのボタンダウンがよく似合う。ひげも眉も、いつもきれいに剃られていて、清潔感がある。しかし、後頭部が彩のアジアンタムのように透けている。ボタンダウンの中にTシャツを着ているところが垢抜けない。それでも、人付き合いは得意そうだ。ただ、妙に大きい鷲鼻が気になる。こういう鼻の大きな男は、一見まじめそうに見えて、実はすけべでねちっこい性格だったりする。
 昔、つき合っていた彼が同じような鷲鼻をしていたのを思い出しながら、先生のいきり立ったペニスを想像した。
 机に置かれたパソコンのカルテを見ながら、訊ねてきた。
「腰の具合はいかがですか?」
「相変わらずです」
 彼女も、パソコンを覗き込みながら応えた。
 期待しなければ、時はスムーズに流れる。ほんの短い問診で、いつもの薬が処方された。痛み止めの飲み薬に筋弛緩剤。それと湿布はかぶれるので、 塗り薬を。頓服用に座薬も出ている。初診の時にレントゲンを撮ってもらったが、骨や椎間板に異常はなく、神経痛の類だろうということだった。
 彩は地元の高校を卒業し、東京で理容師の専門学校に入り、そのまま東京で仕事に就いた。その時に家を出て一人暮らしを始めた。息苦しい家をできるだけ早く出たかったのもある。店は、雑誌にも取り上げらたことのある自由ヶ丘にあるヘアーサロンに二年勤めた。しかし、掃除、顔そりとシャンプーだけのアシスタント止まりだった。自分には敷居が高かったという思いもあって、チェーン店に移ったが、そこでも相変わらずアシスタントから抜けることはできなかった。しだいに手はぼろぼろに荒れ、長時間の立ち仕事で、チェーン店に勤めて一年が過ぎた頃から腰痛が始まり、この医者にかかるようになった。シャンプーを同じ姿勢で繰り返し続けていると、そのまま腰が固まってしまうような痛みから、電流が走るような痛みへと変わっていった。これ以上無理だと悟り、二件目の理容室も辞めた。その後も、腰痛は残った。
 彼氏は、最初の店の美容師だった。当時、彼だけが自分に優しくしてくれた。店を閉めた後、カットの練習をしていると、遅くまでつきあってくれて、手を取って鋏の使い方を教えてくれた。食事に誘われ、慰めたり励まされたりした。当時は、彼の優しさだけが自分の救いだったと思う。セックスはいつも、彩の部屋だった。愛撫に時間をかけた優しいセックスだった。しかし、彼のペニスをねだっても、すぐには入れてくれずに、気がおかしくなりそうなほど焦らされたものだ。
 セックスを重ねたある日、生理が遅れていることに気づき、妊娠したことを知った。嬉しさ半分、不安半分。彼に告げると、まだ子供を育てる自信がないと、おろすよう頭を下げられ、病院を紹介された。妊娠して日が浅かったこともあって、三時間ほどで病院を出ることができた。その間、彼はずっと待合室で待っていて、費用、たぶん十万くらいを、全額彼が払ってくれた。その時は、それが彼の愛だと思った。
 その後すぐ、彼は店を辞めた。噂では独立したらしい。しだいに連絡が取れなくなり、新しい店の場所ははぐらかして教えてくれなかった。気がついたら、携帯は繋がらくなっていた。結局、自分なんてやっぱり、それだけの女なんだと、その時、悟った。
 でも、躰は無性にセックスを求め、男友達を誘っては、やりまくった。誰でもよかった。そういう躰に、彼に調教されたのだろう。でも、もともと自分は、根っから厭らしい女なんだと思う。

 処方箋を受け取り、外の薬局で薬をもらう。午後二時半。渋谷のお店には四時に入ればいい。電車に乗れば、店まで三十分とかからないから、ゆっくり食事できそうだ。薬局の斜め向かいにあるコーヒーショップに入った。
 秋の長雨は、しんみりと心まで寒くなる。温かいカプチーノとエビのサンドを注文し、入り口近くのカウンター席に座った。カプチーノはまだ熱そう。味気のないエビサンドを一口かじり、スマホを開く。先ほどのアプリの続きだ。

 *和夫*

 家を出ると、外は、あいにくの雨だった。こんな日は、男が溢れかわいい女の子の取り合いになる。舌打ちして、傘を広げた。商店街を抜け、垢抜けない地元の風俗店を横目に見ながら、駅に着く。ハンバーガショップに立ち寄り、食事をとった。妻の実家は、草加市よりさらに北に行った越谷市にある。といっても電車に乗ってしまえば十七分という近さだ。病院は、そこからバスで三十ほどのところにある。なお、越谷駅から渋谷までは、直通で一時間ほどかかる。和夫には、目当ての渋谷とは逆方向への十七分を長く感じた。
 町の小さな病院には、年老いた女医がいる。自分が生まれた病院で産みたいという妻のたっての望みだった。受付を過ぎ、妻のいる部屋に入り、周りに挨拶をした。妻のベッドはカーテンで仕切られている。彼女の呼ぶ声が聞こえたので中に入ると、ちょうど授乳をしているところだった。
 生後五日目。和夫は出産時に立ち会ったが、その時より断然“ヒト”らしくなった気がした。母親に抱かれ、しっかりと寝巻をつかんでおっぱいを飲んでいる。乳も最初は少ししか出なかったが、徐々に出始めるようになったことを教えてくれた。妻も、子供の成長とともに母親になっていくのを感じた。
「もう、目は見えるのか?」
「先生の話じゃ、出産直後から見えているらしいわよ」
 彼女の産後の回復は順調のようで、笑顔を見せて答えてくれた。
「ねぇ、明後日の金曜日に、予定通り退院だって。迎え、大丈夫だよね?」
 週末は出産休暇ということで、あけてあること、すでにベビーシートも車に取り付けてあることも話した。妻は、退院後三週間ほどを実家で過ごし、一カ月後のお宮参りをした足で、自宅に帰る予定である。
「ねぇ、お宮参りの予約とってくれた?」
 そう訊かれて、和夫を慌てた。
「えっと、どこの神社でやるんだっけ。越谷でいいんだっけ?」
「どこって、ちがうわ。この子の地元の氏神でやるものよ。あなたの実家からすぐの稲田神社じゃないの?」
 和夫としては、できればそこは避けたかった。嫌な思い出がある。神主に顔を覚えられている可能性もある。と言っても小学校の頃の話だが。それでも、彼女には言えなかった。 とりあえず電話で確認を取る、と約束した。
「自宅の方は、どう?」
 妻は、痛いところをついてくる。和夫は、息が詰まりそうになった。
「ちょっと散らかり始めているけど、帰る前には片づけておくから……」
「あれぇ、何だか自信なさそうよ。まさか凄いことになっているとか?」
「ま、まさか、……」普段の歯切れの良い大きな声が出なかった。妻は嘘の痕跡を見つけようとするかのように眼を細くして、まだこっちを見ていたが、しだいに笑い出した。
「ちゃんと頼むね、パパ。ところで、今日はお洒落だね。どこか出かけるの?」
「ああ、大学時代の友人に東京で出産祝いをしてもらうんだ。と言っても、それを口実にしたいつもの飲み会だろうけど」
「ふーん」半信半疑なような声だった。
 その時、赤ん坊が飲んだ乳を少し吐いた。妻はすかさず乳をふき取り、彼を肩に乗せて背中を叩く。すると、小さなゲップが一つ出た。妻が赤ん坊に集中している間に、ぼそっと、「当時の担任の先生も来るんだ」と付け加えた。
子どもを抱きながら、「ほどほどにね」と妻は応えた。どうやら誤魔化せたようだった。
 その後、病院の様子やおばあちゃん先生の話などを聞かされたが、半分上の空で返事をしている。遅くとも二時にはここを出たいと、部屋の入口の上にある時計を何度も見ていた。時間が近づくと、金曜の正午に迎えに来ることを約束して、予定通りに和夫は病院を後にした。気持ちは晴れやかで、雨もさほど気にならなかった。

 *彩*

 渋谷行の電車に乗ると、混雑していて座る席はなく、ドア付近の手すりにつかまった。躰を寄りかからせ、窓越しに外の景色が見えるこの場所が好きだった。窓をつたい、雨が斜めに流れ、幾筋もの線を引く。それを見ながら、ぼんやりと小学校の頃に自分がいじめられた頃のことを思い出していた。
 男の子に砂利の上で跪かされ、頭を鷲掴みにされ、膝小僧をすりむいた。立ち上がると、傷口から血がつーっと流れ、靴下を赤く染めていたような気がする。
 彩の実家は、埼玉県草加市の戸建ての家が立ち並ぶ新興住宅地にある。安い物件を求めて都内からやってきた者が大半だ。彩の家もそのうちの一つだ。昼間男たちは都内へと仕事に戻り、若い者も都内で学びや遊びの場を求めて出ていく。閑静な街は広くてきれいだったが、彩はごみごみとした雑踏のある今の都心の方が落ち着いた。雑踏の中に身を潜め、ほっと息がつける雰囲気が好きだった。小学二年まで川崎に住んでいたせいもある。草加市の人工的に整備された乾いた雰囲気に自分を根づかせることができず、自分の故郷という感覚を持つことができなかった。
 結果的に彩には、学校という枠の中にも自分の居場所を作ることを強くは求めなかった。勉強ができたというわけでもない。また、何か部活に熱中したこともなく、いわゆる帰宅部に属していた。
 いじめられたのは、小学校の頃だ。彩をいじめたのは、もっぱら体格のいい双子の男の子たちだ。二人はほとんど見分けがつかないくらいそっくりだった。スカートめくり、突き飛ばし、消しゴムのかすを頭からかぶせられるなどは、しょっちゅうのこと。引き延ばした輪ゴムをぶつけられ、腕や太もももにみみず腫れを作った。
 彩には二歳離れた兄がいた。彼は、頭もよく母に似て目が二重で小さい頃から器量良しだった。今は、大きな商社に勤め、結婚し子にも恵まれ、東京に暮らしている。それに比べ、彩は勉強もできなければ、器量も良くない。彩は兄との比較の中で生きてきたような感じでいる。両親の良いところを全部引き継いだのが兄なら、彩は悪いところの全部を受け継いだのかもしれない。親や親戚達の目は兄ばかりに注がれ、かわいがられ、期待を一身に背負った。それに対し、自分は誰からも見向きもされてこなかったのだろう。彩はそう思っている。
『お兄ちゃんに比べて、どうしてお前はそんなにできないの?』
 幾度となく、そう訊かされてきたから、いじめられるのは、自分がダメだからだと信じていた。だから、親にも相談できなかった。

 電車が渋谷駅についた。思い出に耽っていたため、ドアが開いたとたん後ろから押し出されて、躓きそうになった。
――別に、どうでもいい思い出だ。
人の波に飲まれて、踏みつぶされても惜しくはなかった。

 *和夫*

 三時過ぎに渋谷に着いた和夫は、まず、ハチ公前の目の前にある交差点を渡ったところにある薬局に寄った。混んだ店内を押しのけて進み、お気に入りの「魔界王」というドリンク剤を購入し、その場ですぐに飲んで、空き瓶を店のゴミ箱に捨てた。
 109前へ渡り、道玄坂を上った。平日の午後だというのに、街は二十代前半の若者で溢れかえっている。家と職場を地元に置いた和夫にとって、都会の雑踏が持つエネルギッシュな雰囲気は、憧憬のようにきらめいていた。街に流れる今の音楽や、店頭に飾られた最新の商品、若者のファションは、たくさんの光の粒子が飛び跳ね、闇の中で踊る花火のようだった。和夫は、一層気持ちを鼓舞されながら、自分の内から湧き上がる欲望の高まりに集中することができた。
 少し歩くと右にしぶや百軒店という赤い文字でのアーチがある。これをくぐると風俗店やホテル、飲食店が乱立する界隈だ。すぐに右側に道頓堀劇場が、ここに入った者の目を引く。道頓堀劇場は、昔からここにあるストリップ劇場だ。都内の大学に通っていた和夫は、当時、学割を使って何度か入ったことがある。今日出演のモデルのように可愛らしい女の子の大きなポスターが出ていた。立ち止まって観ていると、股間が熱くなり、気持ちが荒ぶるのを感じ、いそいそとそこを後にした。
 しばらくホテルを物色するため付近を歩いたのち、ユニークな看板を見つけた。野菜を擬人化したマスコットがロックバンドを組んでいる。そこ、ホテル・カリフラワーに決めた。少し高めだが、女のコの気に入りそうなホテルだと思った。ロビーに入り、部屋をパネル板で選択し、受付で三時間の休憩料金を支払う。部屋は、野菜をモチーフにしたポップ調のデザインで統一され、大きな液晶ビジョンが置かれている。新しさとゆったりとした広さがあった。
 和夫はにんじん色のソファーに腰掛けると、煙草に火をつけた。次にポケットから店の案内を取りだし、携帯から電話をかける。まず、ホテル名を言って、夜這いコース七十分、二十代から三十代の女の子と希望を伝えた。妻がまだ二十二歳という若さからか、時々自分より年上の女性に興味を覚える。指名はあるかと訊かれた。
「今日、久美子さん、います?」
 と、ホームページの写真で気に入った女性を指名するが、今日は休みとのこと。もう一人名前をあげたが、その女性はすでに出ていた。四時から小柄で童顔の二十四歳の若妻、朋美さんが出勤するという。和夫は、若妻という言葉に惹かれて、その場で彼女に決めた。部屋番号と携帯番号を伝え、折り返しの電話を待った。急ぐ気持ちを抑えようと二本目の煙草をくわえた。すぐに店から連絡があり、これから五分ほどでこちらに着くとのこと。
 和夫は、慌てて煙草をもみ消し、換気扇を回して、洗面所で歯磨き始めた。

 *彩*

 彩は、ハチ公前に出て傘を開き、スクランブル交差点で信号を待つ。薄暗い空に、駅前にいくつもある大型ビジョンが照り輝いていた。夜中に見るギラギラとした眩しさはなく、優しい明りとなって踊っている。
「この国を守り抜け!」
 街頭演説で、車の上から叫んでいる。どこかの政党の人だろうか。周りにいるのは黄色いレインコートを着た人たちが囲んでいる。サクラだろう。
「死後、人は裁きにあう」
 スピーカーからテープの声が流れる。聖書の言葉を書いた黒地に白文字の看板を、小学生くらいだろうか。薄汚れたビニールのレインコートを着たおかっぱの女の子が寒そうに抱きかかえている。その女子がふと顔を上げ、彩と目があった。彩は嫌なものを見た時のように、咄嗟に目を背けた。
 昨日、相談を受けた後輩の久美子さんのことを思い出した。後輩と言っても、年齢的には彼女が上だ。夫が失踪した後、家のローンのためやむなくこの業界に入ったという。彼女は仕事を辞めたいと話していた。
「男に弄(いじ)られるたびに、感覚や心がマヒしていくみたいなの。なんかもう何も感じられなくて、食べ物の味も分からなくなってきているの。こんなことで辞めちゃあ、意気地なしかな?」
 しかし逆に、彩はこのマヒしていく感覚が好きだった。無感覚の中で、誰ともわからぬ男に求められ、つかの間の男の性欲を満たす。男によって求める物は微妙に異なる。短い時間の中でそれを察知し、男がペニスを勃起させ、気持ちよく射精するのを見届ける時、それが彩にとっての、些細な存在意義のように感じていた。男の純朴な満足感、それ以上は煩わしく、それだけで十分な気がしていた。それが、彩が求めている、生きている証だった。
 大型ビジョンの映像とともにあちこちから流れてくる大音量の音楽がそれらの声に重なる。雑踏が言葉を意味から解き放ち、音が風のように漂う。このやかましい人混みの中にいると、自分の個としての意識が消え、存在が透明になっていくような気がした。
 店は、道玄坂を右に入った細い路地の一角にあるマンションの一室。何の看板も出ていない。彩は、四時五分前にドアを開けパンプスのまま入っていった。店の名は「素人若妻倶楽部」という。本番なしのデリヘルだ。渋谷では人妻専門はまだ少ない。彩はまだ結婚しているわけではないが、若い娘の店は二十歳が平均で、そこではすっかり浮いてしまう。年齢からするとこの店の方が客を取れた。この店は彩と同じ二十から三代のコを揃えている。素人が売りだが、実際は彩も含め、風俗の経験者が大半だった。久美子さんのような、純粋な素人は数少ない。辞めたいと思う気持ちがあるうちに、早く抜け出した方がいいと思う。
 知らない男たちが、大枚をはたいて自分を見て欲情しペニスを立てる。唇を求め、乳房をまさぐり、ヴァギナに吸いつく。素マタで射精を終えると、たいていの男たちは、「ありがとう」と言ってくれる。これまでの仕事では、そんな言葉をかけられたことはなかった。彩は、無感覚の中で、自分の居場所を見つけたような気がしていたのだ。
「おはよう。朋美さん」 
 事務所の和樹君が声をかけてくれた。源氏名は朋美。和樹君は気さくな青年だ。ロッカーに私物をしまう。名刺を取り出して鍵をかける。この時間にしてはめずらしく、女の子たちは出払っていた。このところの不景気で、需要に比して供給量が増していた。それでも、雨の日となると、それが逆転する。出会い系の女の子の出足が鈍り、痺れを切らしたそちらの男が風俗店に押し寄せてくる。忙しくなりそうだと思っていたところ、すでに夜這いコース七十分の客が待っているらしい。男から店の携帯とタイマー、オプション用のアイマスクとローター、専用のランジェリーを受け取り、鞄に忍ばせる。客が待つホテルの名前と部屋番号を聞き、ドアを開け、閉じたばかりの傘を開いた。今日の彩の服装は、それほど人妻らしくない。短く切ったジーンズに、胸の開いた白のブラウスと黒革のベストを合わせた。シャネルの銀のバングルがセレブっぽさを出せていると、自分では思っていた。
 ホテル・カリフラワー、402号室。七十年代をポップアレンジした最近できたばかりのラブリープレイスなホテルだ。ジャグジーの広い浴槽を備え、渋谷のラブホの中では中級クラスと言える。エレベータで上がり、ドアの前に立つ。朋美になりきり、背筋を伸ばしてチャイムを押した。少し間をおいて、ドアがゆっくりと開く。
「こんにちは。朋美です」と、笑顔で挨拶する。 

*朋美*

 そこに立っていたのは、河田……、河田和夫。二十八歳になったであろう、中学の時よりうんと貫禄をつけたあの双子の片割れだった。特におなかの周りには、たっぷりと肉がついていた。でも、すぐにわかった。忘れもしない、神社の裏に連れ込まれ、悪戯されそうになった五年生の時のことを。双子だったけど、あごの下の黒子で、ちゃんと見わけもついた。ドアを開けたスーツ姿のこの客は、河田和夫に間違いなかった。
 朋美は背筋に走る悪寒を感じた。きっと鳥肌も立っている。まだ、相手は気づいていないようだった。できるのなら、この場から逃げ出したい。
 そう思いながらも、いつまでも目を合わせたまま玄関に突っ立っている訳にもいかず、とりあえず玄関の鍵をかけ、パンプスを脱いで部屋に入った。
 普段はベッドに入るまで下ろさない丸めた髪を解いた。茶色に染めた髪が眉にかかり、顔を覆う。床に正座して深々と挨拶をし、うつむき気味に顔をあげ、チェンジするかどうか訊ねた。
「朋美さん、可愛いよ。ぼくのタイプ。そんな風に上目遣いで見つめられると、ドキドキしちゃうな」
 暗い印象に映るようにと思ったが、逆効果のようだった。
 事務所に、インコールを入れる旨を伝えて、玄関口に一度出た。携帯に口を寄せ、それを掌で覆うようにして小声で話した。
「もしもし、和樹君、ちょーやばいよ。今回だけは、お願いだからパスさせてくれない? 中学の同級生なんだ。誰か代わりによこしてよ」
 そう、事務所の男に泣きついたが、今は人がいないし、それよりそんなタイトルのAVがあるから見ておくといいと、あっさりといなされた。
 ため息をつく。この仕事を始めて一年になるが、こんなことは初めてだった。素敵な初恋の人との再会ならともかく、よりによって河田和夫とは。だからといって、同級生といっても憧れる人もいなかったし、彼ら以外に男子の顔は浮かばない。できれば一番忘れたい、とっくに捨てたつもりの過去だった。こんな形で逆襲されるとは……。頭はパニック状態で、ショート寸前だったが、しかたなく再度朋美になりきろうと決心し、部屋に戻った。
 まず、浴槽にお湯をため、コースの内容と時間について説明し、料金をもらった。髪を結び直し先に浴室に入る。シャワーで自分の体を流した後、男を招き入れる。体を密着させながら男の全身を洗う。股間に触れるとすでに硬直して上を向いている。彼を浴槽で温まらせている間に、先に出た。
 朋美は、夜這いコースの準備をした。ランジェリーに着替え、アイマスクをつけて、ベッドに入る。照明を怪しまれない程度に落として、ブロッコリーのクッションに顔をうずめた。思い出したように起き上がり、嫌々ローターを枕元のボードに置いた。
 夜這いコースというのは、女がアイマスクをして寝たふりをしているところを、入浴後の客が悪戯をしに忍び込んでくるという設定だ。女性がされるがままに、キスされ、下着を脱がされ、指や、ローターを使ってヴァギナを弄(いじく)られる。その後、目を覚まし欲情した女が、攻守交替で男性を攻める。最後は、フェラチオか素マタで男をいかせるという、なんとも都合のいいストーリーだった。客が払う料金は、七十分で二万円。一万五千円が女性の手元に残る。入浴が済み、あと五十分ほどの辛抱だと思った。
 和夫が浴室から出てきた。ベッドの後ろから這い上がってくるようにして、顔を近づける。鳥肌が立っていないか気になる。
 耳元で「朋美さん、髪がとっても素敵だよ。染めているの? さらさらだね」と甘ったるい声でささやかれる。そのまま、彼は髪に触れ、首筋にキスし、彩の唇を求めてきたので応じた。唇を尖らせたままの、へたくそなキスだと思った。
 ランジェリーを脱がされかけたが、寝ていたので彼は手こずり、肩を左右順番に浮かしてやった。彼はすぐに裸にした乳房を揉み始めた。次に乳首に吸いつくが、思わず「痛い」と声を上げてしまった。
――こんな乱暴でお粗末な愛撫……、これで、よく結婚できたわ。
 さっき見た、薬指に指輪をはめたごつい左手を思い出した。いつの間にか、同情にも似た気持ちが芽生えたが、すぐに打ち消した。
 枕元に手を伸ばしたようだった。ローターをつかんで、電源を入れた。ブーンというモーター音がしてくる。
「ここにあててほしい?」ローターが、ショーツの上をなぞった。気持ち悪かったが、とにかく、早く終わりたかったので、うん、と声に出した。
 彼はローターを固く閉じたヴァギナに強く押し当ててきた。痛くて思わず顔をゆがめた。
「朋美さん、肌が白くてきめ細かいね。出身はどこなの?」
 一瞬たじろぎそうになったが、お世辞の一環だろうと考え直し、川崎と答えた。
「きっと秋田の方だと思った」よく聞くお決まりの言葉を言いながら、ローターを押し付けたまま、反対の手だろうか、胸をきつく揉んだ。
 彼は、ローターを置いて、ショーツのゴムに手をかけた。小学五年生のあの瞬間とダブる。すぐにショーツはするするとはぎ取られた。抵抗するすべもなく、上も下も、全身をむき出しだった。弄られることが仕事だったが、今は、恐怖が襲う。今まで、一度だって、こんな怖い感覚はしたことがなかったのに。
 彼は、ローターを、乾いてきゅっと身構えるヴァギナに押し付けてきた。さらに力を入れて、ぐいぐいとねじ込んできた。強い痛みを感じ、体が震え、マスクの下で怯えていた。
「痛い」
 そう声を出して、体をそらした。
「朋美さん、こういうの初めてなの?」
 彼は、ローターを離し、薄気味悪い猫なで声で訊いてきた。
 それきり彼は黙って、ローターのスイッチを切ったり入れたりしている。嫌な雰囲気を察した。上半身を上げ、後ずさりした。
 沈黙したまま一分もたったろうか。いきなり、朋美はアイマスクをむしり取られ、彼は低い声で、こう言った。
「お前さ、嘘ついているだろう。二十四才だなんて真っ赤な嘘だ。二十八だろ。四歳もさばをよんでいる。出身も、草加だ。さっき、挨拶の時に垂らしていた前髪で気づいたんだ。お前さ、小学と中学校で一緒だった瑞月だろう。瑞月彩だったっけ。へぇ、風俗嬢してるんだ。河田だよ。覚えてるだろう」
――なんだ、ばれていたんだ。
 気持ちがすっと静まり、朋美から彩に戻った。
「この店ったら、嘘ばっかりだな。詐欺じゃん。金返して貰うかな」
 そう言ったかと思うと、彼は、彩の両足を掴んで、ぐいと高く持ち上げた。その拍子に彩は後頭部を枕元のボードにぶつけた。
 痛みで頭を押さえながら、言い返した。
「わかっているなら、お金返すからさ、おしまいにしようよ。暴力はやめてよね。さっきから全然濡れなくて、痛いばかりなんだ」
「おい、それが客に向かって言う言葉か? 馬鹿だな、そんなんで“はい”と、やめると思う? クラスの連中に、お前が風俗やっていることをばらしてもいい? 親にも知られていいのかな」
 にたっと笑っている。汚い奴だと思いながら黙っていると、続けて言った。
「黙っていてほしけりゃ、本番させろよ」
「冗談じゃないわ。本番行為は禁止されているの。脅して強要すれば、すぐに事務所の男たちが来るわ。そしたら河田君は豚箱行きよ」
 キルトで素早く身を隠した。
「詐欺師のくせして、よく言うぜ。まぁ、じゃあ、地元に帰ってしゃべっても構わないんだな。俺は、今も草加に住んでいるんだ。あの頃の同級生もけっこう残っているんだよ。お前の実家の場所も覚えている。お前の父ちゃんと母ちゃん、こんな娘を持って、情けなくて泣くぜ。それでいいんだな」
 和夫は、ローターのスイッチを入れたり切ったりしながら、薄笑いを浮かべていた。
 記憶の底に埋めたはずの過去が、海草のように足に絡みつき、亡者のように海の奥へと引きずり込む。自由な気分で浮かれていただけの自分に気づいた。
 黙って俯いていると、彩は突然、押し倒された。彼が上にまたがってきて、股間を彩の顔に持ってきた。
「しゃぶれよ。お前がめそめそするから、萎えたじゃないか」
 彼は、小さくなったペニスを押しつけてきた。
 体重がのしかかってきた。息が詰まりそうに苦しかったので、横に降りてもらった。いつも客にするように、彼のペニスを口にくわえた。どくんどくんと血が集まってきて、すぐに膨張していくのがわかった。
 このまま早く終われと、しごく手に力を入れた。
 すると、彼は、さっと後ろにすっと腰を下げ、ベッドから降りて後ろに回った。彩を覆っていたキルトが剥がされる。両足の膝を掴まれて、ぐっと足が開かれると、固く閉じたヴァギナに、彼のペニスが押しつけられた。
 「ゴムをつけて……」
 そう言うと、彼は鼻をふんと鳴らした。薄笑い浮かべたまま、ボードの上にあるホテルのゴムに手を伸ばした。薄っぺらいカバーを口で破り、中から薄いゴムを装着する。突き出たお腹の下に、いきり立った彼のペニスがあった。ゴムに着いたゼリーで何とか、彩の中におさまる。彼は、腰をせわしく前後に動かし、数分でいってしまった。何も感じなかった。涙も出なかった。彼は、息を切らしながら、上に重さなるようにのしかかり、唇に吸いついた。胸が苦しかったが、その重みすら、どうでもよかった。
 薄暗い部屋の中で、彼の荒い息だけが聞こえる。突然、十五分前の時間を告げるタイマーが鳴り出した。彼は起き上がり、自分の荷物のところに行く。彩がベッドの中でうずくまっていると、シャッター音と共に、フラッシュがたかれた。彼は携帯のカメラを向けていた。彩は慌ててキルトに包まる。
「証拠写真だよ。あと、お前の電番号を教えろ。でたらめだったら、即、この写真をプリントしてお前の実家の郵便箱に突っ込んでやるよ」
 彩は、とっさに携帯を奪おうと掴みかかったが、髪の毛を鷲掴みにされ、頭をベッドに押し付けられた。呻いていると、掴まれた頭を持ち上げられた。彼の顔が目の前にある。
「さっさと言えよ」
 言われるがままに、正直に答えざるをえなかった。彼はそれを携帯に打ち込み、ふんと鼻を鳴らし、ふいに髪を放した。落ちるようにして、ベッドに俯せになった。
「いつまでタイマー鳴らしてるんだよ。さっきからうるさいじゃん。お前は、時間だろ。帰っていいよ」、と彼は言い、ブロッコリーのクッションを床に叩きつけて笑った。
 彩は、タイマーを止め、服を着ようとした。ブラウスのボタンを留める指が、固まって思うように動かない。午前中家で見た白黒のPVを想い、“Nothing's gonna change my world”と心の中で唱えた。
 しかし、“私の世界”は、過去の断片の集まりに過ぎないのかもしれない。散り散りになった過去のかけらが笑い、踊っている。今という時間が過去に囚われ、未来は遠く宇宙の彼方に追いやられたようで、ひどく惨めな気分だ。
『そう、お前は変わらない。誰も、自分でさえも変えることなんてできやしない。昔からずっと厭らしい女だったんだ。だから、こんな目に合うんだ』
白黒の細身の女が笑いながら歌うのが聴こえたような気がした。

*彩*

 近くに救急車の音が響き、目を覚ました。暗闇の中で時計を探す。夜八時半だ。救急車のサイレンは、しだいに遠くに消えていった。かわりに、羽田空港に離着陸する飛行機の低い音がうなっている。雨雲が川崎の街を覆う日は、飛行機の音が良く聞こえてくる。
 彩は、テーブルに肘をつき、顔を覆う。
 ホテルを出て事務所に戻り、そのまま早退させてもらった。事務所の和樹君は困ると言ったが、とても仕事を続けられる心境ではなかった。部屋に戻って、パソコンの電源を入れたが、それ以上、手が動かなかった。ぼんやり、デスクトップの画面を見ているうちに、うたた寝したようだ。
 喉もかわいたし、化粧も落とさなきゃならない。でも、体が動かすのが億劫だった。
「お前さ、小学と中学校で一緒だった、瑞月だろう。瑞月彩だったっけ。風俗嬢してるんだ」
 河田和夫の言葉が、今も波のように響いてくる。
――なぜ、風俗嬢なんてしているんだろう?
 この仕事に就いたのは、理容院を辞め生活に困った時だった。当時住んでいた小さなアパートの家賃を二か月分滞納し、大家から何度となく催促され、あやうく親に連絡されるところだった。コンビニで拾い読みをしていた雑誌に、コンパニオン募集の記事を見た。
『経験がなくても安心して働ける』と。日給で三万円が保証という高収入。面接に行くのに、交通費も出すというし、入店すれば、祝い金として現金で三万くれるという親切さだった。
 ここなら自分でもできそうだと、軽い気持ちで入った。実態が風俗だとわかり、裸になって知らない男と寝ることがわかっても、まぁそんなものかと、ほとんど抵抗なく受け入れられた。勤め始めてすぐに、滞納していた家賃はすぐに払い終えた。みすぼらしい部屋も出た。それでも稼いだ大金は、化粧品、ブランド物の服や装飾品に使ったが、それでも、男を満足させた分、みるみる通帳の残高は増えていった。通帳の数字が増えるのは、彩には誇らしかった。かつて、才能と美貌とで、親の愛をいっぱいに受けていた兄を見返すような気分だった。過去なんて、すっかり海の底に沈めた気でいた。ほんの昨日まで、過去にとらわれず、月の光を浴び、光と戯れ、水面を漂うように生きているつもりでいた。
 それがこのざまだ。意識に登ることさえなかった過去たちが、海の底から蘇り、亡者のように彩を海に引きずり込んでいくようだ。
 彩は、顔を覆っていた手で、頭をかきむしる。つむじの辺りに触れて、痛かった。ぷっくら膨らんでいる。頭をボードにぶつけた時にできたこぶだ。
――こぶなんかじゃなくて、もっと大けがして、死んじゃえばよかったのに。
 五年生のあの日、神社の裏で見た空の青と曼珠沙華の赤の鮮やかなコントラストが、ふと瞼に映った。
 秋の日の帰り道、空が藍色に染まる頃、神社の裏に連れ込まれて、河田兄弟の二人にパンツを脱がされ、悪戯されそうになったことがある。
 周囲をコンクリート塀に囲まれた小さな静かな空間。塀の脇に曼珠沙華、まだ青い柿の木にとまっている数羽のカラスが目に入った。一人に後ろから羽交い絞めにされ、もう一人がパンツに手をかける。腰を浮かせ相手の顔や胸を蹴って暴れたが、その抵抗の甲斐もなく、むしろ、パンツを脱がせやすくしてしまった。パンツをはぎ取られた彩は、後ろに手を組まされたまま、膝をつかされ、頭を掴まれて地面に押し付けられた。お尻を丸出しにしたまま頭を掴まれ手足を動かすことができず、何をされるかわからない恐怖に襲われた。ふと下駄の足音が聞こえたので、思い切り大声を出して助けを求めた。すると、それに気づいたのか、下駄の音が近づいてきた。一瞬、三人の動きが止まった。
「こら、お前ら、何をしとるか!」
 神社の神主が現れ、雷のような大きな叱り声が響いた。
 すると彼らは、彩のパンツを放り出し、慌ててランドセルを抱えて、神主の脇をすり抜け、外に飛び出していった。間一髪のところを助けられたはずだった。
 しかし、あの時は、自分も一緒に厭らしいことをしていたような気がして、パンツをつかむと、神主がとめるのを振り払い、逃げるようにして外に駆けていった。彩は、家の前に着いた時、擦りむいた両膝から血が流れ、靴下を赤く染めていたのに気づいた。玄関で、ハンカチで血をふき取り、靴下を脱いだ。母親に見つからないように一人でそっと、洗面所でハンカチと靴下を洗ったのを思い出した。
――そうだ、あいつに教えた番号、店の携帯だっけ。
 ふと、安堵のため息が出た。今は、ぐっすりと眠りたい。今日医者にもらった筋弛緩剤一シート分を口に含んだ。飲みかけたままに置かれていたグラスのワインで一気に飲み込んだ。

 *和夫*

 和夫が散らかった家に帰ったのは、夜十時過ぎだ。地元のスナックに寄って、店の女のコを相手に、カラオケで盛り上がり、ほとんど泥酔状態だった。今日の出来事は、和夫を特別に陽気にさせた。小学校の時、同級生の瑞月彩に悪戯をしようとして、神社の裏に誘い込み、ふいに出てきた神主に怒鳴られた。今日は、あいつとあの神主を見返したような晴れ晴れとした気分だった。あいつは、もともとスケベな女だったんだ。俺たちが悪い訳ではない。家に戻り、リビングのソファーに腰かけ、テーブルの上のごみごみした物をいっせいに払いのけた。きれいになったところで、足をテーブルに投げ出し、駅前のコンビニで買ってきた缶チューハイを開けて、一人祝杯をあげた。
 ふと、弟の幸夫の顔を思い出した。弟にもぜひとも話してやりたかった。幸夫もこの話を聞けば、きっと喜ぶだろうと思う。ポケットから携帯を取り出す。この時間なら、ちょうど仕事も終った頃だろう。
 案の定、幸夫は仕事を終えて、レストランを出るところだった。瑞月彩との再会とその顛末を、こと細かく電話で話すと、幸夫も乗ってきた。
「どうだい、俺が上機嫌なのがわかるだろう」
「和夫、やったっじゃん。俺もあいつの無様な顔を見たかったね」
「だろう。あいつは、中学に入ってから、俺たちがいじめられても知らん顔をして遠くで笑ってた。偉そうにな。ずっと、頭に来てたんだ」
「まったくだ。いつか仕返ししてやりたかったよ」
「そうそう、そうだと思って、あいつの裸の写真と、携帯番号をしっかり控えさせてもらったよ」
「おお、それ、シャメ頼むよ。しかしお前は、抜け目がないな。今度は俺も絡ませてくれよ。すかっとしたいぜ」
「そうだよな。高校で別れてから、何か一緒にやるってことなかったものな。よし、計画を練って、また連絡するわ。楽しみにしていてくれよ」
「おうおう、面白くなりそうだな。連絡を待ってるよ」
 二人は、意気投合し電話を切った。和夫は缶チューハイを飲みほすと、トイレを済ませ、そのまま寝室に行き、気持ちよく大いびきをかいて眠った。

 *彩*

 河田和夫から電話がかかってきたのは、あれから一週間たった水曜日の午後だった。
「瑞月だろ。この前教えてもらった携帯の番号、店のらしいな。また、すっかり騙さたよ。そうそう、同窓会をやるって言ったら、お前の母ちゃん、すぐに携帯の番号を教えてくれたよ」
 彩は携帯を切ったが、またすぐにかかってきた。
「いきなり切るなよ。この前は、乱暴して悪かったな。ところで、お前、しばらく実家に帰っていないだろ。電話もくれないって、母ちゃん、嘆いていたぞ。なぁ、同窓会やろうぜ。たまには、こっちに帰って来いよ」
 彼は、一人でしゃべっている。電話口でニヤついた顔が思い浮かぶ。無視して、電源をオフにして、布団を頭からかぶった。
 店には、和夫に会って以来、出ていなかった。体調が悪いといって、しばらく休みを貰っている。この一週間、カーテンを閉め切った部屋の中で、大半をベッドで過ごし、外には、食べ物と飲料、煙草を求めて近くのコンビニに行くらいだった。
 今の仕事は、限界だと思った。和夫を再会したことで、自分の惨めさを思い知らされた。忘れていたはずの恐怖に躰が震えた。これまで感覚を麻痺させて、男の欲望に奉仕することに疲れ切っていた自分に気づいた。単に、勃起したペニスに依存し、薄っぺらな自分の存在価値を頼って生きてきただけのような気がする。その仄かな幻影を失ってしまった今、自分にはほとんど何も残っていない。ただ、誰からも見向きもされない痩せたおかっぱ頭の幼い頃の自分が、心の中にじっと佇んでいるだけだった。自分でも可愛いとは思えない、内気で陰湿な少女。当時のアルバムを見ると、目を背けたくなる。しかし、そんな心の中の少女が、今は不思議と愛おしかった。
 再び、和夫がひたひたと自分の周りに近づいている。死肉に群がるハイエナのようだ。実際、自分自身、すでに腐乱しかけているような気がしていた。これ以上生きていることは無意味で、いっそ死んでしまった方がどんなにか楽だろうに、と思った。死んでしまえば、和夫はもう自分や家族に近づくこともあるまい。
 ふと、彩は汗ばんだ布団の中で息苦しさを覚え、顔を出して大きく深呼吸をした。するとまた、“Nothing's gonna change my world”というフレーズが蘇る。確かに自分の世界など、取るに足らないちっぽけな世界だったが、誰にも壊させはしない。そんな決意が、心の中に充ちてくるのを感じていた。

宇宙の果てに(仮題)前篇

宇宙の果てに(仮題)前篇

昨年の秋に書き始めて、しばらく中断していた物語です。以前投稿した作品と描写がだぶる箇所がありますが、こちらの方が自分にとってはオリジナルです。これまで、先が想い描けなかったのですが、徐々に主人公の心が動き出してきたので、一度前篇としてまとめ、次の展開に繋げたいと思っています。 ただ、後篇が出来上がる時点で、本前篇の構成や内容にも変化を及ぼすだろうと考えます。その際には、前篇後編分けずに、一つの物語として、再投稿し直したいと思っています。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-07-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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