デジタルの皮膚
1
けたたましい電子音が、部屋中に鳴り響いた。
僕は目を開けられず、後ろ手で頭の上にある棚を探った。ガラガラと無駄な音を立てているうちに電子音は、じわりじわりと大きくなっていく。
「あー、ったく」
僕は重い体を無理矢理起こして、棚の方を向いた。スマートフォンは、触っていた場所からはるか端の方で音と共に振るえている。叩くように画面に触れると、部屋はやっと静かになった。薄暗い部屋に戻った静寂は、僕の瞼をまた重くする。
ダメだ、ここで目を閉じたら二度寝する。僕は瞼に力を込めて、ベッドから立ち上がった。部屋に充満する眠気を晴らすため、僕は力を込めてカーテンを開けた。
窓からもたらされた眩しい光から、ほのかに熱気が伝わってくる。今日も暑くなりそうだ。
「さぁ、着替えるか」
僕はスマホの隣にあった、5センチ四方の白い箱をつまみ上げた。見た目より重い箱を手の上に乗せ、上面のボタンを押す。
ブンという音と共に、空中に
――HELLO!
という文字が浮かび上がり、続いてLOADINGと表示される。
「最近はスキンを入れすぎて、立ち上がるのが遅いんだよな」
挑発するようにチラチラとアニメーションする文字を横目に、スマホのスケジュールアプリを立ち上げた。今日の予定の欄には、”ミクリと霧浜“と表示されている。
「今日は、ミクリの好みに合わせるか」
軽い電子音が鳴って、文字の代わりに3Dグラフィックの人間が浮かび上がる。僕はそれを指で左へとスライドさせた。カジュアル、セレブ、ストリート……。タイプの違うキャラクターが目まぐるしく流れていく。そして僕の指は、サマージャケットをメインとした夏エレガントと書かれたキャラクターで停まった。
「よし、これにしよう」
僕は、部屋着から無地の白Tシャツと綿パンに着替え、箱の角に付いていたチェーンをベルトホールへと掛ける。そして、もう一度、箱のボタンを強く押した。
――ENJOY!
僕の体を強い光が一瞬覆ったかと思うと、目の前の大きな鏡には、3Dグラフィックに映っていた大人の雰囲気漂うサマージャケットの男が佇んでいた。
「さて、朝ご飯でも食べてくるか」
鏡に映った男は、ぱくぱくと無機質に口を動かし、階段を降りていった。
*
リビングから、ふわりと味噌汁の匂いが漂ってきた。胃が声を上げて催促をするが、エレガントな見た目に味噌汁は似合わない。ここは厳重に抗議をしなければ。
「母さん、パンとかないの?」、
キッチンにいた母が一瞬驚いた顔をしたが、すぐにまな板の上に目を戻した。
「また、スキン? 誰かと思ったわよ」
小気味よい包丁の音がリビングに響く。どうやら僕に拒否権はないようだ。僕は諦めて、ダイニングテーブルのいつもの席に座った。
「母さんもスキンにすればいいのに。これがあれば洋服も買わなくてもいいし、ダイエットだってしなくていいしさ」
「お母さんもお友達に勧められているのよね。スキンで簡単にほっそり美人に変身できるわよって。でもね」
「でも?」
「それはもう自分じゃないだろ」
いつの間にかリビングにやってきた父が、僕の目の前の椅子に座りながら言った。片手には、タブレット端末。きっとニュースでも読んでいるのだろう。
「そうよねぇ。3Dホログラムだっけ? それを自分に周りに映し出すって、なんだかウソついているみたいに思えちゃって」
テーブルの上に二人分の白米と味噌汁が置かれる。続いて焼き鮭と胡瓜の漬け物。我が家の定番の朝ご飯だ。正直、今の時代には古風すぎる。スキンへの考えだってそうだ。こんなに便利だっていうのに、両親は未だにスキンを使う気はないらしい。僕は、スキンの批判を続ける両親から、テレビに映ったニュース番組へと目を移した。
――昨日午前十一時過ぎ、霧浜駅付近でスキンが映らなくなるという事件が発生しました。警察は何者かによる悪戯と見て捜査しており――
「お母さんのお友達も旅行に行こうとして遭ったみたいよ、この事件に」
「へぇ、どうなったの?」
僕は焼き鮭とご飯を口に頬張った。父は、もう興味が無いらしく、タブレット端末に目をやっている。
「なんか砂嵐みたいになって、何も映らなくなるらしいわよ。なかにはスキンを映す、えーと、なんだっけ?」
「スキンボックスね」
「そうそう、それが壊れたって人もいたみたい。お友達は大丈夫だったけど、変な姿になっちゃったから、旅行もキャンセルしたんだって」
「スキンを外して、そのまま旅行に行けばよかったんじゃないのか」
父がタブレット端末をテーブルにおいて、漬け物に箸を伸ばす。
「スキンを外して歩くなんて、恥ずかしくて無理だよ。笑われるって」
今やこの国のほとんどの人間がスキンを付けていると言っても過言ではない。今見ているテレビの中のキャスターですら、スーツ姿のスキンを付けて顔色ひとつ変えずにニュースを伝えている程だ。付けていないのは、時代についていけない年配者―うちの両親みたいな!―か、一部の職業に就いている人間ぐらいだろう。その中で、スキンを付けないで歩くなんて、時代についていけてない“ダサイ人間”だと、吹聴して回っているようなものだ。スキンなしに外を歩くだなんて、考えただけでも寒気がする。
「ふーん、そういうもんか。スキンってのは大変だな」
再び父はタブレットを持ち上げ、母はキッチンへと戻っていったので、僕はテレビへと視線を戻した。が、事件の報道は既に終了していて、不二山テクノとやらの盗難事件を、アナウンサーのスキンが神妙な顔で伝えているだけだった。
*
スマホでマンガを読んでいると、矢印と文字が書かれた小さなウィンドウが表示された。
――ミクリさんが近くに来ています
顔を上げると、白いワンピースの少女が恥ずかしそうにしながら、僕の方へと近づいてきていた。腰まであるストレートの黒髪に、ピンク色の大きなリボンをつけている。ミクリの好きな清楚系のスキンだ。
「今日のスキン、カッコイイね」
僕の目の前にやってきたミクリは、顔を紅潮させながらはにかんだ。どうやらスキンのチョイスは完璧だったようだ。よし、順調順調。
「そう言うミクリのも似合ってるよ。今日はタワーに行こう。ミクリ、行きたがってただろ?」
「本当? 嬉しいな」
ミクリのワンピースの裾が、膝をこすって楽しそうに揺れるのを見て、僕も嬉しくなった。
僕らは足早に待ち合わせしていた霧浜駅の外に出た。太陽を手で遮りながら、目の前にそびえるタワーの頂上を見上げる。
これが話題の霧浜タワーか。霧浜駅周辺は、数年前から再開発をしていて、ようやく最近すべの施設がオープンした。目玉がこの霧浜タワーで、高さはスカイツリーに劣るものの、周りに高層マンションがないことから、眺めが抜群なんだとか。夜遅くまで営業していて、ロマンチックな夜景を観ることができるらしい。僕もそれ狙いだ。ミクリにそれを見せればきっと……なんて、下心がむくむくと沸き上がる。
高台にある駅から眼下を見ると、小洒落たカフェやレストランが所狭しと並んでいる。ここが霧浜ストリートだ。ストリートに向かって二人で階段を降りていく。
「あのカフェ、ここが日本初出店らしいよ」
ミクリは、スマホを見ながら入口にあるカフェを指差した。駅側がガラス張りになっており、コーヒーカップの中にちょこんと入ったブタのイラストが大きく描かれている。ロゴか何かなのだろう。ミクリがしきりに可愛いとはしゃいでいる。
土曜のストリートは、道幅いっぱいに人が溢れ、ゆったりと流れていた。休日だからというのもあるが、スキンは早く歩くとうまく投影されない。スキンばかりの人波は、必然的に流れが遅くなるわけだ。が、一つだけ人並みを縫って歩く人影があった。
――女の子だ。
生え際が少し黒くなった金髪が、彼女の歩調に合わせて不規則に揺れている。細めのボーダーが見え隠れする、穴の空いたTシャツ。ダメージ加工を施したジーパンに、色あせた赤いスニーカー。
「スキンじゃないんだ」
歳は僕より少し上だろうか。彼女の周りのあちこちから嘲笑に近い声が聞こえる。が、彼女は気にも留めていない様子で、スキン達の間をすり抜けていった。
「ねぇ、早く行こうってば」
彼女が見えなくなって、いつもの駅前の雰囲気を取り戻したところで、僕はようやくミクリの声に気がついた。
「ごめんごめん。じゃあ、行こうか」
僕のスキンはミクリの方を向いたが、本当の僕の目は、雑踏の先を見つめていた。
2
「明日から夏休みに入るが、羽目を外さずに過ごすように。宿題も忘れるなよ」
担任のヤネセンが、いつもの馬鹿でかい声で注意をしていたが、もう遅い。教室は既に夏休みムードで、予定を確認する人、成績を見せ合う人、夏期講習を嘆く人たちの声で、お祭り騒ぎになっていた。ヤネセンはもう何度か大声を出したようだが、やがて諦めて教室から出て行った。きっと、僕以外誰も気づかなかっただろう。
「ねぇ、夏休みはいつ空いてる?」
セーラー服の赤いスカーフをヒラヒラさせながら、ミクリがやってきた。もちろん、スキンだ。うちの高校は、制服がなく、スキンで登校できる。正直、それが志望の一番の動機だ。先のことなんて考えて高校を選んでいるやつなんているのだろうか。今が楽しければいい。スキンで手軽にかっこよくなって、友達と遊ぶ――できれば、可愛い彼女も!――。それが僕にとっては全てだ。ちなみに今日の僕は、サイケな蛍光グリーンのパーカーでDJ風にきめている。
「まだ日程が決まってない予定があるんだ。それが決まったら連絡するよ」
ミクリは元気よく頷いて、メッセージ送ってねとだけ言って友達の方へと行った。
実は予定なんてない。あるのは、やってみたいという衝動だけ。だから、少しの間予定を入れたくはなかった。とはいえ無駄足になって、ミクリへの埋め合わせはすぐにやってくる可能性も大いにある。まずは、今日からやってみよう。盛り上がる教室を、僕はそっと後にした。多分、誰も気づかなかったと思う。
霧浜駅に降り立つと、ジリジリと午後の強い陽射しが照りつけた。スキンはTシャツに短パンと涼しそうだが、現実の暑さに効果はない。僕は、影になっている駅の券売機の端に陣取って、眼下のメインストリートを眺めていた。ゆらゆらと立ち登る陽炎。いつも以上にのろのろと歩くスキン達。そこには、先日見たような颯爽と歩く人影はない。それでも僕はそこを動かなかった。動けなかったのかもしれない。
――あの子をもう一度見たい。それが僕の衝動だった。
「帰るか」
諦められたのは、辺りが暗くなってからようやくだった。駅の明かりが青白くストリートの石畳を照らす。これくらいは覚悟していたことだ。僕は、足取り軽く改札へ入っていった。
何も言わずに玄関を開けたが、すぐさま母がやってきた。
「あら、遅かったじゃないの」
僕はうんとだけ言って、成績表を渡した。ダイニングからは揚げ物の匂いがする。
すぐにご飯よという声が背中から聞こえたが、僕はそのままダイニングを素通りして、二階の自分の部屋へと戻った。
ベッドに思いっきり寝転がって目を閉じる。颯爽と電子の皮膚たちの間を抜けていく、少し色黒の生身の肌。なぜかそれが脳裏にくっきりと焼き付いていた。ちらりと見えた顔には、そばかすもあったっけ。
何で僕はこんなにあの子に固執しているのだろう。スキンを付けていないなんて、今どきダサイはずなのに。
遠くから母の声がする。また明日駅に行ってみよう。僕は起き上がって、一階へと降りていった。
*
それから二日。朝食を食べてすぐに霧浜駅に行き、ストリートを日が暮れるまで眺めていた。が、彼女は一向に現れなかった。
そして今日。彼女を初めて見た、ちょうど一週間後の今日なら彼女に会えるかもしれない。そんな淡い期待で早く目覚めた僕は、薄手のカーディガンにクロップドパンツのカジュアルスキンを付けて、いつもより早く駅へと向かった。
まだ熱くない駅の券売機の隅から、メインストリートを見下ろす。今日は土曜日だから、朝早いのにかなり人が多い。見る限り、ほとんどの人はスキンを付けていて、生身の人間は、大抵お年寄りだ。僕は、いつもとさほど変わらない光景に深いため息をついたが、今更家に帰る気はさらさらなかった。
そうしているうちに、太陽が高くなり、ジリジリとアスファルトを焼き始めた。今年は猛暑になりそうだと、テレビで言ってたな。カフェや雑貨店がオープンし、ストリートには徐々に人が増え始めていた。日陰の中にいても、気温が上がっては、あまり意味がない。僕は、足元に置いていたリュックからペットボトルを出し、ミネラルウォーターをがぶり、またがぶりと飲んだ。少しだけ乾いた体が潤った気がする。
「何やってるんだろうな」
口をぬぐった後に、そんな言葉が自然と漏れた。見つかるか分からない女の子捜しとは、我ながら滑稽だ。スキンの裏で自嘲気味に笑う。
と、改札の奥から、たくさんの足音が響いてきた。僕は思わず、メインストリートから目を離し、駅を出る人たちへと向けた。
そこには、金髪のポニーテールが細かく揺れていた。彼女だ。僕は慌ててリュックを背負うと、ストリートへ向かった。既に金の尻尾は、雑踏の中へと消え去ろうとしている。
僕は、彼女に気付かれないよう、少し離れたところから彼女の後を追いかけた。ちらりと横目で、スマホの時間を見る。先週ミクリと待ち合わせした十時を少し過ぎたところ。彼女は、毎週この時間にここを通るということだろうか。画面から顔を戻すと、雑踏には追っていたはずの彼女の姿はどこにもなかった。
「早すぎだろ……」
僕はその場にうずくまって頭を抱えた。せっかく彼女を見つけたというのに。
ただ、ふと思う。僕は彼女を追いかけて一体何をしようとしていたのか。声を掛けてデートにでも誘うつもりだろうか。それとも、なぜスキンを付けないのかと問い詰めるつもりだろうか。答えは、浮かばない。でも、彼女を追わずにはいられなかった。スキンを持たない彼女を。
「キャー!」
雑踏に悲鳴が響き渡った。僕が顔を上げると、周りのスキンの様子がおかしい。スキンにノイズが入り、次々に壊れたテレビのように砂嵐を映し出した。そして血のように赤黒い文字がゆっくりと浮かび上がった。
――スキンキエロ
一瞬で周りの砂嵐たちはパニックとなった。スキンを解除して逃げ出すスウェット姿の中年女性、子供の名前を連呼する母親と思しき者、ただただ立ち尽くす者も多くない。
ふと、背中に視線を感じて振り返った。ガラス張りのカフェの中から、数人の客が僕を見ていた。ガラスに映り込んだ僕も、例外なく砂嵐に文字が書かれていた。一番近いカウンターに座っていた女性客が、驚いて席から立ち上がった。ガラスに映っていた文字がどろりと溶けて、僕全体を真っ赤に染め上げたからだ。
僕は長いことベッドに寝転がって、天井を眺めていた。傍らのテレビでは、今日の事件を大々的に報じていた。スキンボックスの仕組みに詳しいという、白髪のコメンテーターが話し出す。
――霧浜ストリートにいた一部の人間だけが被害を受けたということと、現場から離れれば、スキンが使用できたことなどから、ごく短い距離で効果があるハッキング装置を使ったと思われますね。実害も少ないですし、悪質なイタズラの可能性が高いと思います。
確かに僕のスキンボックスは壊れていないし、霧浜駅前で再起動したら、いつも通りにスキンを映していた。ただ、イタズラと呼ぶには、あまりに大がかりでおぞましいものだった。
スキンに対する憎悪。それも激しいほどの。
僕は、あの血文字を思い出して、ぶるりと肩を振わせた。本当にイタズラですむのだろうか。一体犯人はどうしてあんなことをするのだろうか。疑問ばかりがぐるぐると回る。
テレビでは、レポーターが事件を目撃したという、ひょろ長い男にインタビューしていたが、階下から僕を呼ぶ声が聞こえたので、僕は慌ててテレビの電源を切った。
*
事件から二日。僕は、まだ彼女を探していた。メインストリートは例の事件以降、人通りがめっきり少なくなっていた。一面ガラス張りのカフェの中で、店員が暇そうにぷらぷらと歩いているのが見える。
前回の尾行がバレていたとは思えないが、念の為スキンを変えることにした。今回はYシャツを着たシックなスキンだ。
十時ジャスト。
誰よりも早く改札を抜ける彼女がいた。すっきりと通った鼻筋が一瞬で僕の前を過ぎ去っていく。
僕は暴れ回る喜びを押し込めつつ、改札を出る人の流れに乗って彼女を追いかけた。今度こそ、見失うもんか。ストリートに人混みはないものの、合間を縫って進む彼女を追うのは、なかなかに骨が折れる。先日、見失った場所を越える。よし、とりあえず一歩前進だ。歩行者が徐々に少なくなってきたので、距離を取りつつ、バレないようにっと。
もう少しでメインストリートを抜け切るあたりで、急に彼女が立ち止まった。僕も慌てて立ち止まり、近くにあった雑貨屋で見たくもないクマのぬいぐるみを見るふりをして、様子を探る。老女が彼女に何かを話しかけているようだ。彼女は笑顔で、右を指差している。どうやら道を聞かれたらしい。
老女が丁寧にお辞儀をして指差した方へ向くと、彼女は歩き出した。僕も慌てて手に持っていたメモ帳を置いて追いかける。彼女の足はぐんぐんと速くなって、一気にメインストリートから住宅街へと入っていく。僕はとにかく追いつこうと躍起になっていた。が、日頃の運動不足がたたってか、足がどんどん重くなっている。
そんなことを気にしていたから、忘れていたんだ。彼女に気づかれないように細心の注意を払うことを。
彼女は足を止め、くるりと僕の方に向いた。金髪のポニーテールがふわりと回る。額に浮いていた汗が、そばかすがついた鼻筋を通ってゆっくりと紅潮した頬へと落ちていく。ぷっくりとした唇は、化粧だろうか。赤く彩られていて、僕はごくりと唾を飲んだ。二重まぶたにおおきな薄茶色の瞳。そこには嫌悪の色が浮かんでいた
「ねぇ、君。この間もつけてきてたよね?」
――なぜ?
その言葉が何度も何度も僕の中を駆け巡った。スキンはこの間とは全く別物、いわば、”別人”だ。専用のアプリに登録しておかなければ、クラスメイトですら、近づいたって分かりはしない。無論、彼女の手にはスマホは握られていないし、そもそも僕が登録されているはずがない。
返事をしない僕に、彼女は眉をつり上げて近づいてきた。まずい、逃げなければ。せめて、何か言わなければ。そう思っているのに、口も足も僕の言うことをきこうとはしなかった。
「なんか言ったらどうなの?」
彼女は僕に詰め寄った。僕の口がますます動かなくなったのは、決して彼女の長い睫毛や、厚い下唇を見ていたからではない。この状況を打破する策を真剣に考えていたからだ。
が、良策が浮かぶことはなかった。急に僕の足がぷるぷると震え出したのだ。先ほどの無理がたたったらしい。僕は立っていられず、ぺたんと地面に尻餅をついた。
彼女は一瞬ビックリして、僕から遠のいたが、僕が動かないところを見てすぐに心配そうな顔で寄ってきた。僕は、すぐに立ち上がろうとした。だが、足はまるで鉄みたいに重くて動かないし、極度の緊張のせいか手も小刻みに震えて、支えにはならなかった。
そんな情けない僕を見ていた彼女が、ブッと吹き出した。
「なんでストーカー君の方が震えているのよ」
彼女は、口を手で押さえ、目には涙をいっぱい貯めている。僕の姿が笑いのツボにヒットしたらしい。最初はあっけに取られていたが、あまりにも彼女が笑うので、僕もつられて笑ってしまった。
「やばっ! ストーカー君、今何時?」
彼女ははっと思い出したように言った。
「十時三十二分だけど」
僕がスマホの時間を読み上げると、彼女は慌てた様子で元いた道へと駆け出していった。僕は尻餅をついたまま、一人取り残された。手を見つめると、震えはもう収まっていた。
3
土曜日、十時。そろそろだ。今日は、金髪のチャラ男風スキンにした。彼女の進行ルートは分かっているから、人の波に乗りながら、ゆっくりと行こう。彼女の真後ろを追わずに、ストリートの左右を移動しながら。僕は、今日の作戦を頭の中で何度もシミュレーションした。
いつも通り彼女が颯爽と改札から出てくる。まるで、競馬みたいだ。ゲートから飛び出した最強のサラブレッドを追う僕。彼女は、事件前の活気を取り戻した人混みを掻き分け、スイスイと移動していく。その堂々たる歩みは、スキンからの嘲笑すら観客からの声援にするように力強かった。僕はそれを目だけで追いながら、ふらふらとついていく。かったるそうに、やる気なさげに。もうすぐ住宅街だ。ここからが難しい。彼女はこのT字路を右に曲がる。この間は、ここでバレたんだよな。今日は、左に曲がって大回りしよう。彼女が右折するのを見届けて、僕は左へと折れる。
思っていた通り、この道は彼女の通っている道と平行に通っているようだ。横道からちらりと金色のしっぽが見える。良い感じだ。
だが、四つ目の曲がり角で彼女の姿が見えなくなった。僕は慌てて彼女が進んだはずの道へ出ると、壁からワッと何かが飛び出してきて、僕は腰を抜かした。
彼女だ。座り込んだ僕を見て、お腹を抱えて笑っている。
「ゴメン。まさかそんなに驚くと思わなくて」
彼女は謝りながらも、笑いが止まらないらしく、時々手で口を押さえていた。
「酷いな」
僕は、スキンの下のジーパンをはたきながら、立ち上がった。
「隣の通りを歩いてたのが見えたから、ついね」
彼女はわざとらしくぺろりと舌を出した。その姿に僕はどきりとする。だが……。
「”見えた”だって?」
再び目を丸くした僕に、彼女はイタズラっぽい笑顔を浮かべた。
「そう。ストーカー君がどんな姿をしてたって無駄よ。私には君が“見える”から。断っておくけど、超能力とかそういうのじゃないから」
「タネは明かしてくれないの?」
「そうだなぁ。じゃあ、見つからずに最後までついてこれたらね」
彼女は笑顔で手を振った。どうやら見つかってしまったので、ゲームオーバーらしい。次こそは。僕は彼女に手を振り、駅の方へ歩き出した。
それから何度彼女を追いかけただろう。どんなにスキンを変えても、どんなに気を配って追っても彼女に見つかってしまう。でも、だんだんそれが楽しくなってしまう自分がいた。どんなタネがあるのかは分からないが、どんな姿でも僕だと分かってくれる。それが単純に嬉しかった。多分、一番仲のいいミクリですら、アプリなしには見分けることが不可能だろう。僕は帰りの電車の中で、今日の彼女のことを考えていた。
今日の彼女は、アルファベットの入った赤いTシャツにデニムのショートパンツという夏らしい格好だった。僕はスキンでは珍しいTシャツとハーフパンツというスタイル。この地味な格好が功を奏したらしく、住宅地の大分奥の方で声を掛けられた。もう少しで彼女の目的地にたどり着くらしい。
暑かったでしょと彼女が僕にペットボトルを投げてよこした。僕は、その場では飲めなかった水をリュックから取り出した。もうあのときの冷たさはない。キャップを回して、一口含む。そんなはずはないのだが、なんだか甘いような気がした。
玄関を開けると、リビングから僕を呼ぶ声がした。リビングには、母がテレビに釘付けになっていた。
「また例の事件が、あのストリートで起こったみたいよ。しかもついさっき」
僕も、すぐに駆け寄ってテレビを見た。女性アナウンサーが慌てた様子で中継している。周りにはこの間のように砂嵐になったスキンや、スキンを解除して座り込む人々が映っていた。前回よりも被害者の数が多い。
――本日十一時十分頃、霧浜ストリートでスキンが一斉に砂嵐になるという事件が、また発生しました。たまたま撮影に来ていたカメラが事件の一部始終を捉えましたので、ご覧下さい。
映像が切り替わり、先ほどのアナウンサーがカフェの入口でリポートをする様子が流れ始めた。直後に、周りから悲鳴が上がる。一人、また一人とスキンが砂嵐になっていく。そして赤い字でスキンキエロの文字。まもなく、文字がどろりと溶けた。
だが、今回はそれだけでは終わらなかった。スキンの首が切られ、血が吹き出す映像が流されたのだ。悲鳴が幾つも重なる。その場から逃げだそうと、首を切られたスキンたちが走り出した。現場を大混乱だ。ただでさえショッキングな映像が、走り出すのだ。周りに居た生身の人でさえ、怖くなって走り出し、駅の改札には人だかりができていた。
「霧浜駅に行ってたんでしょ? 大丈夫だったの?」
「僕は少し前に電車に乗ったから」
いつも彼女とのゲームが終わるのが、大体十時半。そこから駅に向かったとしても、十一時前には電車に乗れる。
「何だか貴方に聞いていたより、ずっと気持ち悪い感じだったわね」
母はテレビを消し、奥のキッチンにひっこんだ。まな板の上には、千切りされたハムと胡瓜が乗っている。今日の昼食は、冷やし中華のようだ。僕は昼飯ができたら呼んでと言い残して、自分の部屋へと足早に向かった。
リュックを床に投げ、すぐさまテレビを付けた。どのチャンネルも事件の模様を速報で告げていたが、被害者の証言ばかりでで、映像が撮れたのは、先ほどチャンネルだけらしい。僕はすぐにチャンネルを変えてみたが、こちらでも映像は流れておらず、代わりに目撃者だという清掃員風のひょろ長い男が、皮肉そうな笑みと枯れ気味の声でインタビューを受けていた。
――みんな逃げまどって、大変だったんですよ。私は付けられないけど、スキンなんて付けるものじゃないですね。あんなに気持ち悪くなっちゃうんだからさ。
そうえいば、清掃員はスキンをつけられない職業のひとつだった。空港や駅など、安全面を考慮しなければならない場所によく出入りするためだ。時給はそこそこ高いのだが、人気はなく、特に僕たちの世代はまずやりたがらない。
画面がスタジオに戻ってきたところで、ようやく映像が流れ始めた。僕はテレビの録画ボタンを押して、映像を録画し始めた。
「あれ?」
僕は画面に張り付かんばかりに近づき。すぐに録画した映像を見返した。何度も。何度も。
「やっぱり、変だ」
スキンが砂嵐になる直前。アナウンサーの左側にあるガラス張りのカフェ。そこにいつもいるロゴのブタが、一瞬だけぐにゃりと歪んで笑っているように見えた。
4
今日、僕は駅にいない。ミクリやクラスメイトたちと海にやってきた。影一つ無い砂浜に、夏の陽射しが容赦なく降り注がれる。
「熱いね、キリノちゃん」
肩が出た白いワンピースのスキンをつけたミクリは、左手で自分の顔を扇いでいる。が、効果は薄いようで、持ってきた大きなパラソルの下でぐったりとしていた。目の前に広がる海にでも入ればいいものだが、海で遊んでいるのは家族連ればかりだ。
「本当よ。はぁ、水の中でもスキンがちゃんと表示されたら、海に入れるのにね」
隣で寝転がっている金髪ギャルのスキンをつけたキリノが、大きくため息をついた。ヒョウ柄のセクシーな水着から、こぼれんばかりの豊満バスト。前を通る男のほとんどが、彼女の一点に釘付けになっている。
スキンボックスは防水機能があるので海で壊れる心配はないが、スキン自体は水中では屈折してしまい、上手く表示できないのだ。クラスメイトの男子も、海には入らず、キリノたちとぐだぐだと喋っていた。なんだかんだで、楽しんでいるようだ。一方僕はというと、そんな彼らの姿を、ぼーっと眺めているだけだった。ミクリがしきりに、水が透き通っているよとか、夕日はきっとロマンチックだろうねとか話しかけてくる。なんだか、いい雰囲気だ。でも、全く身が入らない。以前の僕ならば飛び上がるくらいの嬉しい状況なのに。うまくやれば、ミクリとの関係が進展する可能性だってあるのに。僕は、うんうんと笑顔で頷きながら、手元にあるスマホに目をやる。
十時少し過ぎたころか。彼女は、メインストリートで風を切っているのだろうか。その姿を想像するだけで、今すぐあのストリートまで飛んで行きたくなる。
「あー、もう我慢できねぇ!」
一緒に来ていたクラスメイトの一人、ソウタだ。彼の筋肉質なスキンが消えて、筋肉の欠片もない細い海パン男が海の方へと奇声をあげながら駆け出して行った。
「ソウタったらダサすぎ! マジ幻滅したわ」
キリノが、吐き捨てるように言った。
「まぁまぁ、せっかく海に来たんだし、生身で泳いでもいいじゃん」
優男のスキンを付けたもう一人のクラスメイトのショウがなだめるが、キリノはつり目を余計につり上げて、ソウタがはしゃいでいる海に背を向けた。
「生身とかマジあり得ないよ。ねぇ、ミクリ」
「え」
急に話を振られて、ミクリは目を丸くしたが、少し俯いて
「えっと、好きな人なら許せるんじゃないかな」
それを聞いたキリノは、はいはいご馳走様と、僕の肩を叩いて海の家へと向かって行った。海の家には、同じようにスキンのせいで海に入れない人たちがごまんと集まっていた。皆一様に表情は暑そうだが、汗一つかいていないのが、少し不気味だ。
「どうしたの?」
ミクリが小首を傾げて、僕を見た。その愛らしい顔にも、汗ひとつ光っていなかった。
*
霧浜駅に着いたときは、すでに十時を十分程過ぎていた。完全に遅刻だ。前回の地点が目的地のすぐ近くだと言っていたから、ちょっとズルいが、今回は先回りして待ち伏せといこう。
僕は混雑しているメインストリートを避け、裏道を走って住宅地へと向かった。オフィスビルが多いこの裏道は、思っていたとおりに人通りが少ない。スキンは、走ると正常に投影されず、下手すると生身が完全に見えてしまうこともある。僕はそれがたまらなく嫌だった。
今同じ時に、メインストリートを颯爽と歩く彼女と、人目を気にしながら、裏道を走る自分。何だか情けなくなってくる。スキンでどんな自分にもなれる。でも、自分が本当に変わったわけじゃない。
――そんなの本当の自分じゃないだろ。
いつかの父の言葉が頭をよぎった。このゲームはいつか終わる。そのとき、スキンを付けた僕と、生身の彼女は仲良くなれるのだろうか。仮に仲良くなれたとして、僕はスキンなしで彼女と向き合えるのだろうか。
答えが出ないうちに、先日彼女に見つかった場所へと到着した。住宅地を平行して通っている道の先で彼女を待とう。荒い息を整えながら、スマホを見る。十時十五分。彼女は早歩きだが、ここまではまだ着てないだろう。ほっと胸をなで下ろす。
と、向こうの道から足音が聞こえてきた。かなりペースが速い。僕は壁からそっと覗くと、奥から走ってくる彼女が見えた。彼女は、青白く怯えた顔で、時折後ろを振り返っている。
「どうした?」
僕は隠れていたのも忘れて、壁から飛び出した。彼女は驚いて急ブレーキを掛けた。数歩後ずさった彼女の目には、明らかに怯えていた。どうやら僕だと分からないらしい。どうやって分かって貰えるんだろう。僕はどうしたらいいか分からず、右に左にとうろうろした。その様子を見た彼女は、ヘナヘナとその場に座り込んだ。
「なんだぁ。ストーカー君か」
よく分からないが、僕と認識して貰えたらしい。僕は慌てて、彼女に手を差し伸べた。彼女はありがとうと呟き、スキンの先にある僕の手を掴んだ。あったかくて少し湿っていて、ふんわりと柔らかい。握ると壊れてしまいそうで、僕は力を込めずに彼女が立ち上がる支えにだけなろうとした。
途端に僕の手がぼやけた。いや、僕のスキンがぼやけている。時折ざざっとノイズまで入る。また例の事件だろうか。僕は周りを見回したが、僕ら以外は誰も歩いていなかった。
「もう大丈夫だから」
彼女は、さっと手を引っ込めて立ち上がった。いつの間にか、スキンのノイズは消え去っていた。
「どうかした?」
僕は改めて彼女を見た。彼女の顔は未だに青白いままだ。自分の手を掴み、俯いたまま口を開いた。
「誰かに追われてる気がして。ってストーカー君にこんなこと言うのも変な話だね」
彼女はちょっと照れたように笑った。落ち着きを取り戻しているのか、徐々に顔に赤みが差していく。
「今日、僕は追いかけてないよ」
「分かってる。なんかおかしかったから」
「おかしい?」
「うん。後ろから誰かが追いかけている感じがした。でも、振り向いても誰も居ないの」
「それって幽霊……とか?」
僕が茶化して手をだらんと垂れて物まねをした。彼女はバカと呆れて笑った。その目にもう怯えはなくなっていた。
「気配はあるのに、見えないって感じ。そんなスキンってあったりするの?」
「いや、スキンは人の姿をしていないといけないんだ。法律で決まっている。ただ…」
「ただ?」
「透明になれるスキンがあるって噂があるんだ、都市伝説レベルでだけど」
「なぁんだ。それじゃあ、私の後ろにそんなスキンが歩いているわけないわね」
彼女は、肩をすくめて思い過ごしだったみたいと、ほっと胸を撫で下ろした。
――ステルススキン
もっぱらネットで噂されている、透明なスキンの名称。実際に透明になるわけではなく、周りの景色を投影することで消えたように見せる代物だ。軍事用に開発されているだの、さる秘密結社がすでに開発して暗躍しているだの、いろんな話が飛び交っている。が、どれも現実味のないものだった。
「あの、もしよかったら一緒に来てくれない? なんだか怖くて。ゴールが分かっちゃうのは悪いとは思うんだけどさ」
彼女がすまなそうにこちらを見ながら、小声で言った。僕は首を縦に激しく振った。彼女が頼ってくれるのが、単純に嬉しかった。
彼女はこっちと指差しながら、住宅地の奥へと進む。僕は彼女の隣を歩きながら、先日の海の話や霧浜ストリートのカフェの話などをしていた。
「そういえば、ちょっと前に例の事件にあったんだ」
「例の事件?」
そうか。彼女には興味ないかもしれない。スキンを持たない、生身の彼女には。
「周りのスキンたちが砂嵐になって、血みたいな文字でスキンキエロって出るんだ。すごい気持ち悪くてさ」
そうすると、先ほどまで明るそうな彼女の顔が急に曇った。僕から目線を外して、道の先へと目をやる。
「私、その事件を起こした人の気持ち、ちょっと分かる気がするな」
「え?」
「私もスキン嫌いだもの」
彼女の目線は再び僕へと戻る。仮想の皮を被った僕を、二つの潤んだ瞳がじっと見つめていた。彼女は何も言わなかったが、責められているような気がして、僕は周りへと視線をずらした。
周りには、古びた一軒家が立ち並ぶ。この地域に昔から住んでいるのだろうか。通りを通る人々は、みな生身の老人ばかりだ。少しずつ暑くなる空気の中を、カートをゆっくりと押しながら歩いている。スキンたちがごったがえす駅前とは、まったく別の異世界に来てしまったように思えた。
「ここが私の目的地」
彼女は平屋の民家の前で止まって僕の方を振り向いた。苔が生えて緑がかったブロック塀に、色あせた木製の看板が張り付けられている。
「洋裁教室?」
「そう。ミシンと布で洋服を作るの。今スキンでいいじゃん、って思ったでしょ」
僕は何も言えなかった。本当にそう思っていたから。彼女はそれを察したのか、にこりと笑った。寂しそうに。
「でもね、世の中スキンが持てない人がいるの。それは経済的な理由だったり、体質的な理由だったり様々だけどね。その人達には服が必要なの」
民家からは子供の声が聞こえた。見てみると、窓に子供たちが鈴なりになっていた。彼女は大きな声でちょっと待ってと言って、僕の方を向き直った。
「スキンのせいで、服をなくした人達に私は服を作る。これが私の秘密。本当はこれが知りたくて、私を追いかけてたんでしょ」
彼女はこれでゲームは終わりだねと笑って手を振った。僕も力なく手を振る。そして、彼女は扉を開け、暖かな声が響く向こう側へと吸い込まれていった。塗装が剥げかけた茶色の扉が、とてつもなく重い音を立てて閉じられた。
僕は自分のベッドにうつぶせに倒れこんだ。どうやって帰ってきたのか、思い出せない。ただ息苦しいほどの暑い空気と、妙に重たい自分の体だったのは覚えている。
テレビをつけると、また例の事件が流れていた。あの霧島ストリートの一件から沈黙しているらしい。専門家の見解やネットでの賛否の声などが特集されていたが、捜査に進展はないようだ。僕は、テレビを乱暴に消した。
――ゲームオーバー
ゴールまでたどり着いた。ゲームは終わったんだ。もう彼女を追うこともない。だが、僕の心には霧がかかっていた。もやもやと晴れない、濃い霧が。僕はゴロゴロとベッドを転げまわったが、それは振り払うどころか、より一層色濃くなっていった。
気晴らしに新しいスキンでも買って、ミクリ達と遊びにでもいこう。僕はスキンボックスのボタンを強く押した。小さな箱は、ぐしゅりと潰れた音だけして動かなくなった。
5
朝八時五十分。僕はスキンバンクと書かれた看板の前にいた。スキンは付けていない。メガネとマスクをつけ、部屋中引っ掻き回して出てきた、英字のTシャツとジーパンを着ている。道中は知り合いに合わないよう細心の注意を払ってきたから大丈夫なはずだ。
「いらっしゃいませ」
店に入ると、案内係と書かれた名札を付けた女性が、満面の笑みで近づいてきた。こんな格好で不審がられるかと思ったが、よく見ると周りに似たような格好をした人間ばかりだった。
「スキンの修理でよろしいですか?」
僕が頷くと、彼女は慣れた様子で修理カウンターへと案内してくれた。カウンターにいる男性スタッフの前にスキンボックスを出すと、パソコンから伸びているケーブルを繋いで、何やらチェックしているようだったが、すぐにお待ち下さいと言ってボックスを持ったまま、奥へと下がっていった。
僕は手持ちぶさたになって、周りを見やった。一つ向こうの席には、僕と同じようにボックスの修理にきたと思われるマスク男が、しきりに貧乏揺すりと舌打ちをしながら周囲をうかがっている。その向こうでは、つり目の女性がスタッフに向かって早く直せと悪態をついていた。
「お待たせいたしました」
先ほどの店員が戻ってきた。手には僕のボックスと白い箱があった。
「お客様のボックスは、内部の基板が破損しておりますので、お取り替えとなります。失礼ですが、最近スキンを落としたりといったことはございませんでしょうか。場合によっては、お客様責任でお取替え料金が発生してしまうのですが」
スキンボックスは、スマホと同じくらい高価だ。やっと両親を説得して買ってもらったのに。ただ、僕には破損する心当たりが……あった!
「実は例の事件に巻き込まれたんです。それの影響じゃないかと」
「あの事件でございますか……」
店員は、そう言って黙ってしまった。そしてカウンターの奥から歩いてきた、太めで中年の男を呼んで耳打ちをした。それを聞いた男も驚いたようだったが、すぐにこちらに笑顔でやってきた。近づいてくると、少し引きつっているのが分かる。
「お客様、大変申し訳ございません。別の担当者が対応いたしますので、奥でお待ちいただけませんでしょうか」
胸に名札には店長の小島とある。小島は僕を連れて、奥の”STAFF ONLY”と書かれたドアを開けた。
――まずかったのかもしれない。
僕は今更ながら事件の話をしたことを後悔した。でも、もう遅い。僕は、捕まった犯人のような気持ちでドアの中へと入っていった。
パーティションで細かく区切られたスタッフルームを横目に、廊下の突き当たりにあるドアまで案内された。店長が扉を開けると、きつい煙草の香りが流れてきた。目の前には革張りのソファが2脚。ガラスのテーブルを挟んで両脇に置かれていた。奥のソファには、黒いスーツ姿の男が一人。僕が入ってくると、火のついたタバコをテーブルにあったガラスの灰皿に押しつけて立ち上がった。S字に曲げられたタバコが、ぽとりと灰皿の中に倒れて無数に積もった煙草の山に積まれた。
スーツの男は背は高く、がっしりとしていた。メガネから放たれる鋭い視線は、まっすぐに僕へと突き刺さる。店長は、お茶をお持ちしますと言ってそそくさと部屋から出て行った。
「こちらへおかけ下さい」
男は向かい側のソファへと誘う。僕は一礼して座った。ソファは思ったよりもふわりとしていて、この男がいなければ、眠ってしまいそうだ。
「お引き留めして申し訳ありません。私は警視庁のサイバー犯罪対策課の井上と申します」
スーツの内ポケットから取り出した手帳を僕に向かって見せる。手帳には、金メッキのバッジと今と同じく仏頂面した井上の写真があった。
「店長に無理言って、ここに居座らせてもらってます。貴方のように事件に遭われた方がくる可能性が高いですから」
井上は警察手帳をしまって、代わりにメモ帳を取り出した。
「事件について何でもいいので、お聞かせ願いますか。何分情報が少ないもので」
僕は、井上に促されるまま淡々とあの日のことを話した。井上は頷いてはいたが、メモは時々取る程度だった。きっと他の人から何度も聞いた話だったのだろう。何の実りもない。井上の顔にそう書かれている気がした。何かないだろうか。何か。
「あの、本当に何でもいいんですか」
「ええ、小さなことでもかまいません」
「実は最近起こった事件の映像で、変なものを見つけたんです」
僕はスマホで動画共有サイトを開いた。今一番話題になっている事件だから、テレビ中継の映像がアップされているはずだ。検索ワードを入れると、瞬く間に大量の中継動画がヒットした。そのうち、一番画質の良さそうなやつを開いて、例の部分まで進めた。
「ここです。なんだか歪んでないですか」
「確かに。ちょっとお借りしてもいいですか」
井上は、何度も何度も繰り返して歪みを観ていた。が、急に顔を画面を近づてけて食い入るように見た後、画面を指差した。
「この歪みに影がありますね」
井上が見せてきた画面では、歪みは消えかかっているが、代わりにくっきりと人型の影が映っていた。周りに映らない人影。はっきりとここに人がいることを示していた。
「幽霊に影はない」
井上はぽつりと呟いたあと、ご協力感謝しますとだけ言って、お辞儀をした。僕は、今分かったばかりの新事実について話をしたかったが、井上は、急いでどこかに電話をかけようとしていたので、一礼してドアを開けた。その音に反応して、一番近い部屋から店長が飛び出してきた。
「長い時間ご協力いただきありがとうございました」
引きつった笑顔で深々とお辞儀をする手には、白い紙袋があった。
「こちらはお取り替えのボックスになります。破損の原因は、お客様にないということになりますので、お取替え料金は発生致しません。ただ、破損したボックスに関しましては、証拠として警察が預かることになっておりますので、何卒ご了承下さい」
店長は、歯切れ悪く、最後の方は聞き取れないほどの声で言った。スキンボックスは、自分好みにカスタマイズしている人も多い。それが戻ってこないとなると、怒る人も多いのではないだろうか。それくらい、今の生活にスキンは浸透している。僕が問題ないですと言ったので、
店長は引きつらない笑顔でありがとうございますと、頭を下げた。
「スキンを付けていかれるなら、こちらの部屋をお使いください」
そう言って、店長がスタンバイしていた小さな部屋に通された。もちろん、僕もこのまま外に出る気など、さらさらない。ありがたく部屋を使わせてもらおう。
通された部屋は、先ほどの応接室とは違い、薄汚れたクリーム色の壁に囲まれていた。窓もなく、折りたたみの机と椅子が無造作に置かれていた。僕は机の上に紙袋を置いて、手前の椅子を引き、どっかりと腰を下ろした。首を後ろに倒し、壁よりはいくらか白い天井をぼーっと眺めていた。
乗っ取られたスキン。見えない人影。目的が見えずに繰り返される事件。
いくら考えても、単語がぐるぐると回るだけで、さっぱり見えてこなかった。どうやら僕は探偵には向いていないようだ。
僕は起き上がり、当初の目的のスキンボックスをいじり始めた。ブゥンという音と共に起動する。ほんの数時間離れていただけなのに、何日も経っているような気持ちがした。少し疲れたから思いっきり派手なスキンで出かけるのも悪くない。スキンをいくつか眺めながら迷っていると、壁の向こうからボソボソと声が聞こえてきた。薄いパーティションで区切られているだけなので、耳を近づけると、とぎれとぎれに会話が聞こえてくる。こっちは井上がいる応接室だ。僕が部屋を出る前にしていた電話はまだ続いていたようだ。
――はい……の事件とかん……が
よく聞こえない。僕はスキンボックスを机の上に置いて、パーティションに耳をくっつけた。これではっきりと聞こえるはずだ。
次の瞬間、井上の声は予想以上にクリアに聞こえた。僕は、すぐに耳を離し、適当なスキンを選んで駆け出していた。
――犯人は盗まれたステルススキンを使っている可能性があります。
もうすぐ霧島駅に着く。電車のディズプレイには十時十分到着と表示されている。その時間なら、彼女はもう洋裁教室のすぐ近くまで行っているはずだ。僕は車窓をじれったく流れる景色に、落ち着くことができなかった。見えない追跡者は、彼女の気のせいかもしれない。気のせいではなかったとしても、この間だけかもしれない。今日は来ないかもしれない。そんなことをいくら考えても、僕の鼓動は収まってくれなかった。
電車のドアが開くと共に、僕は一直線で改札へと向かう。スキンも歪み、人に何度も当たって舌打ちされるが、そんなこと知ったことではない。改札を出ると、メインストリートなど見向きもせずに、裏道へと走って行く。天気がよかったせいなのか、裏道はいつもよりも人がいた。ぶれた僕の姿を見てクスクスと笑う声が聞こえたが、それも一瞬のうちに通り過ぎていく。よほど、僕の息づかいの方が大きい。ここからならもう人混みはないはずだ。僕は脇道からいつもの道へと入っていった。小柄な人影が見える。
彼女だ。
彼女は左手を宙に浮かせたまま、怯えた顔をしてその手を見つめている。手とは逆の方向に体を向けて動こうとするが、左手は宙を浮いたままピクリとも動こうとしなかった。それどころか、彼女の体は徐々に左手の方向へと引きずられていく。彼女の手の向こう側には、いないはずの人影が映っていた。僕は、スピードを上げて頭から影へと突っ込んでいった。一瞬だけ彼女の泣き顔が見えた気がした。
次の瞬間。見えない壁にぶつかって、僕は吹っ飛んだ。アスファルトに背中を思いっきり打ちつける。痛い。心底痛い。僕が背中を押さえてうずくまっていると、彼女の声が聞こえた。
「大丈夫?」
涙でぐしゃぐしゃの彼女が、僕を覗き込んでいた。化粧が落ちたのか、目の下が黒くにじんでいて、まるでハロウィンのお化けみたいだ。不覚にも吹き出して、背中に激痛が走る。
「今救急車呼ぶね」
彼女がそういって携帯――ガラケー!――で、電話しようとしていると、僕らの上に影が落ちた。目の前には、真っ青な夏空と大きな入道雲が見えていのに、視界はとても暗かった。
僕は激痛を抑えながら、震える彼女の前に出た。口の中に、鉄の味がじわりと広がる。背中、腕、あらゆるところが悲鳴を上げているが、それでも僕は彼女の前に出なければならなかった。
空ががぐにゃりと歪むと、僕は、襟首を捕まれて空中へと浮いていた。彼女の泣きわめく声が辺りに響いていた。
「ジャマだ」
歪みからかすれた声が聞こえた。それは幽霊でもなんでもない、生きた男の声だった。僕の襟元に力が入る。より高く持ち上げようとしているらしい。僕は体を揺すって抵抗を試みたが、まったく効果がなかった。
「動くな」
ふいに声がした方を向くと、井上が銃を構えていた。何でここに? 疑問が浮かぶのと同時に、僕はアスファルトへと叩き落とされた。井上の待てという声と、僕を心配する彼女の声がごちゃまぜになりながら小さくなって、僕は暗闇へと落ちていった。
*
「全治一週間の打撲ですね。入院はありませんが、三日間は安静にするようにしてください」
そんな声が耳に入ってきて、僕は目が覚めた。汚れ一つ無い真っ白な天井に、消毒液のつんとする匂い。体には、不自然なほど白いタオルケットがかけられている。
「気がついた?」
ベッドの脇にいた彼女が、潤んでくる目を必死にごまかしながら、笑顔を向けてきた。
「君が無事でよかったよ」
僕も笑おうとした。が、痛みのためにすぐに歪んでしまう。
「あなた、カノジョを助けるために怪我したんですって? やるじゃない」
彼女の向かい側から、ニヤニヤした母が話しかけてきた。居たのか。っていうか……
「カノジョじゃないから! たまたま知り合いなだけで」
さすがに彼女を追いかけていたとは言えない。僕がそれ以上言えないでいるのを、母は照れ隠しと受け取ったのか、ますますニヤけている。今日だけは家に帰りたくない。
周りを囲むカーテンの奥で引き戸が開く音がして、井上が目の前にやってきた。
「意識が戻って早々悪いんだが、状況を聞かせてくれないか」
先ほど会ったときよりも、厳しい視線を向けている。これは事情を説明するしかないか。分かりましたと言うと、井上は丁寧だが強い口調で、彼女と僕以外を退席するように促した。皆が廊下に出て行くなか、母だけはこちらを向いて楽しそうに笑った。本当に帰りたくない。
「さて、どういうことかな」
井上は、内ポケットから取り出したペンで、サイドテーブルをリズムよく小突く。
「私が電話をしていたとき、君は急に部屋を出て走り出したよな。おかしいと思って追いかけてきたら……君が宙に浮いてた」
自分の目が信じられないと言うように、ため息を一つつく。
「君は何を知っている?」
「僕もあのときは何も知らなかったんです。井上さんの電話を盗み聞きするまでは。それに関しては謝ります。でも、聞いてよかったと思っています。彼女を守れたから」
「彼女が狙われていたのか? 失礼ですが、お名前は?」
井上が彼女を見た。今度は私の番とばかりに、彼女は椅子から立ち上がった。
「上条ソラといいます。数日前から私、つけられている気配がしてたんです。でも、後ろを向いても誰もいなくて。で、彼に相談したんです」
「僕も正直気のせいではないかと思っていました。でも、あの電話でステルススキンが盗まれたって話を聞いたら、彼女が心配になって」
「なるほど。それで駆け出していったと」
井上の眉の角度が少しだけ下がった。僕はほっと胸をなで下ろすと、痛みで顔をゆがめた。心配するソラを手で制し、僕は井上に話しかける。
「それにしてもステルススキンが実際にあったなんて。教えてください、どうしてそれがこんなところに?」
僕の質問に、井上は押し黙った。が、やがて観念したように呟きだした。
「不二山テクノが盗難にあったというニュースを知っているか。そこで盗まれたのが、ステルススキンだ。機密レベルが高い国家プロジェクトなので、報道には伏せてもらっている。犯人は未だ逃走中だ」
「そしてそいつが、スキンハッキング事件の犯人でもあると」
「多分な。はっきりしたことは、犯人はスキンをハッキングし、彼女を追いかけることを目的にステルススキンを盗んだ可能性が高いってことだ。理由はまったく検討がつかないがね」
井上がちらりとソラに目をやる。今度はソラが黙る番だった。
「少しだけ時間を下さい。あまり話したくない話なので」
「心当たりがあるんだな。君は襲われている。黙っていても、いいことはないぞ」
「分かってます。でも」
ソラは、僕と井上を交互に見た。その瞳に迷いは感じられない。
「少しだけ待って下さい」
井上はわざとらしく大きなため息をついて、部屋から出て行った。
*
夏休みも中盤を迎えつつあったが、僕の夏は今から始まるのかもしれない。
責任を感じたのか、病院でソラが連絡先を交換してくれ、今日ご飯に誘ってくれたのだ。僕は、そのメール――メッセージアプリがないのでEメール――を見て、思わずスマホを天井へと放り投げた。勢いのついたスマホは、僕の寝転がっているベッドではなく、床へと落ちて大きな音を立てた。その音を聞いた母が上がってくる音が聞こえたので、僕は慌ててそっけない返事を打って送信した。
6
霧浜駅の改札前で三十分。僕は、ひたすらスマホをいじっていた。スキンはクールで大人っぽいやつを選んだので、表情はないに等しい。だが、なかの僕はというと、クールとはかけ離れた状態だった。後ろからぽんと肩を叩かれたときは、落ち着かない心臓が、ついに口から逃げ出したと思ったほどだ。
「待たせてごめんね」
今日のソラは、赤とピンクのボーダー柄のタンクトップが、薄いTシャツから透けて見える。フィットしたTシャツに浮かぶ体の線や、ジーンズスカートからちらちら見える太ももなど、決して見てはいない。
道行くスキンたちはジロジロと彼女を見ながら鼻で笑っていた。昔の僕なら、この空気に耐えられなかっただろう。そして、スキンのない彼女にも。
「ううん、さっき来たばかりだから。これ、あげるよ。いつかのお返し」
僕は、リュックからペットボトルを取り出して渡す。先ほど買ったばかりだから、まだ冷たいはずだ。彼女は、ありがとうと答えて、一口だけ水を飲んだ。水が喉を通る小気味良い音が聞こえた。
「その服、かわいいね」
自然と口に出た言葉。ソラはビックリして固まっている。言った僕も驚いた。なぜこんなこと言えたんだろう。彼女は、少し俯いてありがとうと呟いて、一人で歩き出した。僕も急に恥ずかしくなって、それ以上口を開かずに彼女の後をついていった。
ソラの後をついていくと、お世辞にも綺麗とは言えないビルへと辿り着いた。ビル自体は打ちっ放しの薄汚れたコンクリートでできていて、一階だけ煤けた木の板が壁に貼られていた。白いペンキの名残がある壁には、「カフェ イオ」とかろうじて読める看板がぶら下がっている。
「ここは、ランチのメニューが一つしかないんだけど、とっても美味しいから! 騙されたと思って食べてみてよ」
ソラがメッキのはがれた扉の取っ手を引くと、さび付いた音が鳴った。
「いらっしゃい」
店内から、しわがれた心地よい声が聞こえた。ほどよい冷房の風にも誘われて、僕はソラが招くカフェの中へ入っていく。目の前の飴色になったカウンターの中には、クリーム色のニットベストを着た老人が一人、ニコニコしながらグラスを磨いていた。
「ソラちゃん、久しぶりだね」
老人は、目尻の皺をより深くしながら、彼女を招き入れた。僕も一緒についてカウンターの席へと座る。
「二つでいい?」
ソラは、お願いしますと頷いた。右の部屋に顔を突っ込んで何か言うと、老女の声では~いと返事がきた。どうやら、奥は厨房のようだ。
老人がカウンターに戻ってくると、ソラは奥の老女―マスターの奥さんだそうだ―の話をし始めた。僕は盛り上がる話に耳を傾けながら、マスターの磨くグラスを覗き込んでいた。
規則的に左右に動かされるグラスが、パノラマのように店内を映し出す。そこに時折、ちらちらと大きな白い丸が浮かび上がった。僕は気になって、丸のあった店内の右奥を確認してみる。テーブル席が並ぶ、その一角に一際大きな男がこちらに背を向けて座っていた。僕の視線に気付いたソラが、同じ方向を見る。
「あれ、大田さん来てたんだ」
ソラは小声でそういうと、椅子を降りてそろりそろりと忍び足で近づいた。そしてワッと大きい声をかけると、丸まっていた男はつぶれたガマガエルのような声を出してのけぞった。顔体のように丸い輪郭、小さな目と妙に高い鼻。まるで雪だるまのようだ。爆笑するソラを尻目に、男はひっきりなしに流れ出る汗を小さすぎるハンカチで拭きとっていた。本当に溶けてしまうんじゃないだろうか。
やっと笑いが止まった彼女は、雪だるまに手招きをして、一緒にカウンターへとやってきた。
「大田さんっていうの。ここの常連さんだよ」
大田と呼ばれた男は、僕を頭からつま先までゆっくりと見た。僕が会釈をすると、特に返しもせずにソラの隣に座った。
「その人、彼氏?」
大田が片側の口角を上げながら言うと、ソラは真っ赤になって違うよと答えた。
「だよね。ソラちゃんがそんなウソっぱちの皮を被ったやつなんか好きになるわけないよな」
大田が、今度は僕の方を向いてにやりと笑う。当然このブクブクに太った男がスキンなど付けてはいない。俺にもまだチャンスがあるなと、大田は体を大きく揺らしながら笑った。これがいつものやりとりらしく、ソラははいはいと流した。
「彼女欲しいよ~、マスタ~」
厚ぼったいほほ肉を持ち上げて、甘ったるい声を出す大田に、僕はいらだちを覚えた。スキンでもつければ、彼女くらいできるだろ。僕は、水を一口飲んで荒めにコップを置いた。すると、笑い声が停まった。ソラの方を見ると、奥に居る大田が鋭い視線を向けてきた。
「君、今さ、彼女欲しいならスキン付ければいいだろって思ったでしょ」
僕はどきりとした。即座にそんなことないですよと言わんばかりに両手を振ったのだが、大田はふんと僕から目を離した。
「スイッチひとつで、スタイルのいいイケメンになれるしな。見た目がよければ、人は八割方好きになってくれるだろうさ」
気まずい沈黙が流れる。が、すぐに美味しそうな匂いがそれを掻き消してくれた。
右奥から老女がひょいと顔を出し、ナポリタンスパゲッティを3皿持ってきた。マスターがそれを受け取って、僕らの前に音も無く置いた。
大田は待ってましたと言わんばかりに、目の前に置かれたナポリタンをずるりと頬張った。一口で三分の一ぐらいは食べたのではないか。
ソラがどうぞとナポリタンを指したので、小声でいただきますといって口に入れた。
美味い。ケチャップは、自家製なのだろうか。市販のものより、トマトの味が濃い。具のソーセージ、ピーマン、タマネギがいいアクセントになっている。今まで食べたナポリタンに圧倒的大差を付けて一位に躍り出た。隣のソラも顔を綻ばせて食べている。
「だが、それはどこまでいっても偽物だ。スイッチを切った途端に、現実が一気に襲ってくる。
それが嫌で、化けの皮が手放せなくなる。誰にも本当の自分を見せられなくなる」
気がつけば、大田は紙ナフキンで赤くなった口をぐいぐいとぬぐっていた。目の前の皿には、ケチャップだけが残されていた
「俺はもうそういうのに疲れたの。”彼女が欲しいな”って言うのは、偽物の俺を好きな偽物の彼女じゃない。こんなデブでも愛してくれる本物の彼女が欲しいってこと」
大田はマスターにコーヒーを頼んだ。マスターは、にこりと頷いてコーヒー豆を出し、ミルで挽き始めた。
「分かったか? というわけで、こんな偽物野郎はやめて、俺とつきあおうよ、ソラちゃん」
「お断りします。ありのままの自分を愛してもらうっていうのは正論だけど、少しぐらいは努力も必要だと思うよ、大田さん」
ソラは、大田の出っ張った腹を見てクスクスと笑う。大田はソラちゃんのためならとダンベルを持ち上げるジェスチャーを見せるが、すぐにマスターに追加のパフェを注文している辺り、本気ではなさそうだ。
「僕も、好かれる努力は必要だと思うよ」
僕は彼女の言葉に頷いた。そうだ、この姿だって彼女に好きになってもらえるはずだ。彼女の好きなタイプのスキンを付けて、彼女の好きな話題を勉強して……。
すると、ずっと黙っていた笑みを浮かべていたマスターが、口を開いた。
「老婆心ながら申せば、相手に合わせるというのも努力かもしれませんが、自分に素直になるということも、実はとても努力が必要なんですよ。相手が言って欲しいことを言ったり、皆と同じ意見を言えば、嫌われることは少ないでしょう。しかし自分に素直になれば、ときに人に嫌われたり、笑われたりします」
街角でソラを笑うスキンたちが思い浮かんだ。彼女を知らない者が、ダサイからとただあざけり笑う姿を。
「相手の理想の存在になって好かれるより、自分を貫いていて好かれるほうが、本当の愛情だと私は勝手に思っているんですよ」
マスターは挽き終わった豆を、ドリッパーに入れて少しずつ少しずつ熱湯を注いだ。店内に、華やかなコーヒーの香りが広がる。苦いコーヒーから想像も付かない、甘い甘い香り。
「好きで貫いているわけじゃないけどね」
隣に居たソラは天井を見上げた。口元には笑みがあったが、目には寂しさが浮かんでいるように思えた。彼女はどれだけ努力してきたのだろうか。彼女はどれだけ嘲笑や嫌悪と戦ってきたのだろうか。この電子の皮をつけていないという、ただそれだけで。
「あとね、これはきれい事なんだけど」
今度は僕の方を向いた。目から寂しさは消えていない。
「付き合うって、ケンカしてもいいから、胸の内を素直に言える関係がいいと思うの。そうじゃなきゃ、相手を受け入れるどころか、知ることすらできないでしょ」
スキンが付いていないんじゃないかと思うくらい、彼女は真っ直ぐに僕を見つめていた。
「俺だったら、いつだって自分に素直なんだけどな~」
コーヒーより先に出てきたパフェをスプーンですくいつつ、アピールしてくる大田をソラが軽くかわす。
「どうぞ」
マスターが僕らの前にコーヒーを置いた。大田の前には、大ぶりなグレーのカップ。ソラの前には、抜けるような青色のカップ。そして僕の前には。
「うちには同じカップは一つもないんですよ。どれにも魅力があるんで一つに決められないんです」
マスターはことさら笑顔で真っ白な磁気のカップを置いた。何の変哲も無い白くて綺麗なだけのカップ。 中のコーヒーは美味しかったが、僕はすぐにでもこのカフェから出たかった。
大田とソラの話が盛り上がったため、カフェを出た時はもう日は傾いていた。僕はというと、苦いコーヒーを啜り、相槌を打つばかりだった。時折、大田が皮かぶり野郎―とんでもないあだ名だ―と呼んで話題を振るぐらいで、ソラとはほとんど会話できなかった。少しだけ仲良くなれるかと、僕の夏が今始まるのだと期待したが、とんだ肩透かしだった。それどころか、胸が鉛のように重い。
本当の自分なんて、醜いだけではないか。見た目がよく、相手に好かれる受け答えをすれば、相手は必ず好いてくれる。それを何故嫌われるリスクを負ってまで、自分をさらけ出すんだ。大田とソラを見ながら、答えの出ない疑問が巡る。
ダメだ。このままだと、気分はどんどん落ち込んでいくばかりだ。ここはひとつ、気になっていたことについて訪ねてみよう。
「ところでさ」
カフェを出て伸びをしていたソラが振り返った。夕日が、彼女の髪を赤みがかった山吹色に染め上げる。スキンと違って、そばかすや毛穴だってある。どう見たって、シミひとつないミクリの方が一般的には美人だろう。だが、何故か彼女の方がずっと綺麗に見えた。
「何?」
彼女は上目遣いで僕を見た。またスキンの奥を見られているのかもしれない。僕は、ふいと目を逸らした
「何でスキンつけてても、僕だって分かったんだ? 毎回変えていたのに」
個人的には、好きだからどんな姿だってわかるのと言って欲しいところだったが、ソラはくすくすと笑って僕の右肩あたりを指差した。
「君ってさ、歩くとき右肩が妙にあがってるんだよね。もしかしたら、いつも右側に荷物持ってるんじゃない?」
確かに、いつも右肩にショルダーバッグを持っている。まさか、そんなところで見分けているとは思わなかった。
「私スキン使わないし、スマホも持ってないから、そういう人の癖によく気が付くの。タネなんてそんなもんだよ」
ソラは、ビックリさせてごめんねと舌を出した。僕は怒ったフリをして、追いかけた。彼女は僕が追いつくか追いつかないかぐらいの微妙なスピードで、駅の方へと走っていった。
霧浜駅が見えてきた。もうすぐこの時間が終わってしまう。それを示すかのように、霧浜ストリートは赤紫に包まれていた。左隣には彼女。手の届くか届かないか、微妙な距離を保ちながら、並んで歩いている。
「型紙通りに布を切ってミシンで縫うと、服ができるってわけ」
ソラはしきりに服の話をしている。僕には、よくわからない話だが、彼女のキラキラした目を見られるだけでも嬉しく思えた。ただ、もう少し。もう少しだけ近づきたかった。
僕は意を決して、彼女が右手に素早く手を伸ばした。
バチッ!
彼女の手に触れた途端、ものすごい音が鳴って僕のスキンがグラグラと揺れた。音の大きさに驚いたのか、周りを歩いていた人々が止まる。まるで動画を静止したように、ぴたりと。そして、スローモーションのようにゆっくりと僕たちの方を見た。僕もソラの方を見た。彼女は僕の方を見ていた。青白く、怯えて、目を潤ませて。
次の瞬間、彼女は元いた方向へと駆け出した。群衆はざわざわと騒ぎ出したが、やがて自分に危害が及ばないと分かると、元へと戻っていった。
僕だけが取り残された。手のひらを見る。皺も、指の関節もない、のっぺりとしたたスキンの手のひら。先ほどあった揺らぎは、嘘のように引いて、握ったり、開いたりしてもいつも通り動いていた。
「キャーーーーーーーー」
人々がまた静止するような金切り声が響く。あたりを見ると、スキンが砂嵐になっている。そして赤い文字。
アイツだ。
僕は、すぐにソラの走っていった方向へと駆け出した。あの方向は多分洋裁教室だ。裏道に入って速度を上げる。
何ですぐに追わなかったのだろう。彼女は、僕に触れられたことに怯えていた。スキンの揺らぎに、その原因がある。その場で謝ればよかった。そしてちゃんと話せばよかった。後悔の言葉ばかりが、僕の頭によぎる。
目の前の歩道の信号が赤に変わった。無視したいところだが、交通量の多い道路のため、なかなか渡れない。僕はスマホを取り出して、逸る気持ちを抑えながら電話帳を開いた。
“上条ソラ”にタッチする。が、何度コールしても出ない。ダメだ。次にはここだ。今度はツーコールで出た。
――どうした。
井上のくぐもった低い声が聞こえる。
「アイツが出ました。霧浜ストリートです」
――彼女は一緒か?
「いえ。直前まで一緒にいたんですが。すみません」
信号が青に変わる。電話をしたまま、僕は人の間を縫って走り出した。
――そうか。多分犯人は彼女と君が離れるところを狙っていたんだと思う。まだ、君が家に帰っていなかっただけ状況はマシだ。俺がそっちに行くまでには、少しばかり時間が必要だ。だから、
息が切れてきた。足も重い。でも、僕は走る。もう後悔はしたくない。
――お前が彼女を探して守れ
僕はハイと言って、目的地を告げて電話を切った。裏道から、住宅街の中へと入る。周りには砂嵐になったスキンがふらふらと路肩に座り込んでいた。犯人も同じ方向に移動しているらしい。僕は、声にならない声をあげて住宅地を走って行った。
7
洋裁教室に到着した頃には、もう日はとっくに暮れていた。満月に近いらしく、やわらかな光が辺りを照らしていて、そこまで暗くはない。が、この明るさではステルススキンを付けた相手を見つけるのは難しいだろう。僕は慎重に教室のドアノブへと手をかけた。
丸いシリンダー錠のついたレトロなドアノブを回して引くと、ドアは何の抵抗もなく開いた。教室内は、外よりも遙かに暗い。僕は音のしないようにするりと入った。僕にこんなことができたとは驚きだ。
部屋の奥の方で話し声が聞こえる。どうやらこの教室は僕のいる大きな部屋の奥に、もう一つ部屋があるらしい。僕はしゃがんだまま、手探りで進んで行った。
「君のことは、山本から聞いたんだ。知ってるだろ?」
部屋を隔てる壁に耳を近づけると、男の声が聞こえた。この間と同じく、掠れきった声で皮肉っぽく喋っている。
「君のその能力の最初の犠牲者だよ。羨ましすぎる能力だ。もし俺にそれがあったなら、こんなに面倒くさいことをしなくてもよかったのにな」
「やっぱり、それが狙いだったのね」
「ぜひ君をうちのグループに迎え入れたくてね。君に拒否権はないよ」
男の不快な笑い声が闇に溶けていく。何か武器になるものはないだろうか。僕が部屋を見回すと、窓から漏れたわずかな光で太い棒のようなものが見えた。僕はそれを拾い上げる。そこそこの重量だが、堅さはあまりない。役に立つか分からないが、とりあえず持っていくことにしよう。
「やっとだよ。やっとスキンに一矢報いてやれる。子供の頃から今まで、ずっと俺をどん底に突き落としてきたスキンに。 うちのグループには、優秀な科学者もいるんだ。スキンをハッキングするやつを作ったのも彼でね。いずれは君の能力も解析して役立ててくれるはずだ」
だんだんと声が近くなってきた。右手の先には壁が切れていて、指をかけられるくぼみがあった。引き戸だ。少しだけ力をかけて押すと、するすると動いた。カギはかけていないようだ。
「さて」
男の声だけしていた部屋に、スマホのコール音が鳴った。
「余計な話をしてしまったね。うまくいって少々感傷的になってしまったかな。仲間を呼んでおさらばしよう」
男は電話を取り、何やら話しをし始めた。行くなら今だ。僕は、力強く引き戸を開けて彼女の方へと駆け寄った。部屋の隅に追いやられていたソラは僕を見て目をまん丸にしていた。
「ここへ来てナイト君の登場だね」
背後から声がした。振り返っても、あるのは無数に積まれた椅子と机だけだ。天窓が見えたが、登れるような高さではない。僕は先ほどの部屋で拾った棒を振り回した。どうやら当たっているようだが、気の抜けた音と共に男の笑い声が響くだけだった。
「おいおい。なまくらにも程があるだろ」
僕は何か大きな力で押され、ソラの隣の棚に背中を強く打ちつけた。上手く息ができない。咳き込む僕に、ソラが駆け寄った。顔には、うっすら涙が伝った跡が見える。
「残念だったね。見た目ばっかりよくて、何にもできないナイト君。自分の無力を呪うがいい」
僕の上に無情な台詞が振る。現実の僕はなんと無力なんだろう。ただ強く強く拳を握り、男の笑い声と体の痛みに耐えていた。すると、ソラが僕の上に覆い被さるような形になっていた。彼女の息が耳に掛る。
「女の子に守られているなんて、本当に情けないな」
声に加えて分厚い靴音がゆっくりゆっくりと近づいてくる。ソラは、空中を睨み付けた。
「おっと、反撃しようなんて思うなよ。まぁ、どうせ見えないんだけどな」
男の皮肉な笑いが右から左から聞こえる。反撃されないよう、部屋の中を動き回っているようだ。まるで部屋自体が犯人かのような錯覚を受ける。
そのとき、天窓から明るい月の光が降り注いだ。部屋の中が煌々と照らし出される。
「今よ!」
彼女は、自分のリュックからペットボトルを取り出して、なかの水を空中に豪快に撒いた。
「おいおい、そんな水じゃ壊れるわけないだろ」
男が馬鹿にしたように大笑いを始める。そう、こんな水では壊れないだろう、だが。
――奥の棚が水を撒いた所だけ、ぐにゃりと歪んだ。
僕はすかさず手に持っていた棒から、あるものを引き出して、歪みに向かって広げた。
布だ。彼女が耳打ちしてくれた。あの棒は、洋服を作るのに使う布を巻いてあるものだと。星柄の布が大きな山を作った。僕はすかさず、布ごと山を抱きかかえる。男は背中に大きな箱を背負っている。これがステルススキンの装置のようだ。
「ソラちゃん!」
作戦は成功だ。だが、激しく動く山は、そう長くは抑えてはいられない。作戦の最後は任せてと言っていた彼女は、硬直したまま青白い顔で手をぎゅっと握っている。
「ソラ!」
僕が名を呼ぶと、彼女はビクリとしてこちらを見た。
「多分私が触れば、その機械も壊れると思う」
捕まえている男は、布越しでしきりにやめろとかよせとか喚きながら、尚も激しく抵抗する。
「でも、怖くてできないの。ずっと昔、それでクラスメイトが虐められて」
彼女の手は震えていた。僕が手を握ったとき、彼女は恐れていたのだ。僕が同じ目に遭うのではないかと。
僕は手を伸ばして、彼女の手を掴んだ。僕の腰に付いていたボックスからバチッと火花が散り、スキンが歪む。僕は躊躇せず彼女をぐっと引き寄せた。そして、彼女の手を装置へと置いた。一際大きな火花が散り、僕のボックスと、男のボックスは、同時にプシュンと音を立てて動かなくなった。
遠くからパトカーのサイレンの音が近づいてくる。布を被ったまま、男は力ない笑いを上げながらバサリと座り込んだ。僕は恐る恐る手を放して、直ぐさまソラに駆け寄った。
「ソラ、君が羨ましい」
星柄の広がった布から、男の声がした。宇宙が喋っているみたいで、現実味がない。
「君の能力……ったら、俺をいじめ……つらをこてんぱ……してやれたのに」
サイレンの音が大きくなってきた。男の声がところどころかき消される。やがて、赤色灯が布一面を染め上げた。男は、何も喋らなくなった。
部屋のライトが付き、沢山の警官と共に井上が血相を変えて入ってきた。僕が犯人のいる場所を指差すと、井上は勢いよく布を剥いだ。中からはひょろ長くて顔色の悪い男が出てきた。テレビに出ていた清掃員の男だ。男はこちらを向いて皮肉っぽく笑うと、すぐに警官に引っぱられて部屋を出て行った。
「いつも怪我してばかりだな」
緊張が解けて、一気に痛みがぶり返した僕を見て、井上が笑った。そういえば、医者から全治一週間だと言われていたっけ。病院に行ったら、こっぴどく怒られそうだ。
ふと自分の手に目がいった。薬指にほくろが見える。間違いなく僕の指だ。現実の僕の。
「うわっ」
僕は思わず声を上げて立ち上がった。痛みが走るが、そんなことは気にしていられない。先ほどの一件でスキンがなくなっていたのを、忘れていた。目の前には、そんな僕を不思議そうに見つめるソラがいた。
「どうしたの? まだどこか痛い?」
彼女が心配そうにしているので、僕は顔を逸らして右腕で口元を隠した。
「いや、スキンがさ」
「あぁ、なんだ。そんなことか」
僕の左手がほんのりと温かくなった。見ると、彼女の手が僕の手を包んでいた。
「ありがとう」
顔が熱くなるのを感じて、右腕全体で顔を覆おうとした。が、ソラが右手を掴んで揺さぶった。
「ねぇ、いい加減ちゃんと顔見せてよ」
少しばかり抵抗したが、彼女が全く話そうとしないので、諦めて腕を下ろす。彼女は僕の顔をじっと見て、満足そうに笑った。
「想像してたよりも、ずっとかっこいいじゃん」
僕は再び顔を隠そうとしたが、すでに両手はソラに捕獲されていた。
「やっと”君”と知り合えた。ねぇ、自己紹介してよ! 私は上条ソラ。君の名前は?」
「僕は、僕の名前は……」
部屋の天窓からは、雲一つない夜空と月が見えた。月は少し欠けていたが、そこがまた美しいと思えた。
-終-
デジタルの皮膚