善ビジネス

ネペンテスという食虫植物は甘い香りで虫を誘って捕食するそうです。

 エス氏はクルマのトランクにつめるためにそれを引きずっていた。仕事で疲れていたせいか男を轢いてしまったのだ。トランクまでほんの数歩のところ、背後から声が聞こえた。

 「善を買いませんか」

 エス氏に悪寒が走った。
 「なにを言っているんだ。それより頼むからこの事は誰にも言わないでくれ」
 「ええ、もちろんです。それより善を買いませんか。きっとお役に立ちます」
 ここで冷たく追い返してしまえば機嫌を損ねて警察に突き出されるかもしれない。エス氏は聞くことにした。
「今は藁をも縋る思いだ。聞かせてくれ」

 セールスマンは白い玉を小さな箱から取り出し、手のひらに乗せた。
 「これは、善です。これをひとつお買い上げ頂ければひとつの罪を消し去ることができます」
 
「そうか。だけれども今は持ち合わせが無いのだ。すまないが買うことはできない」
 一刻も早くこの場を離れたいエス氏はこの会話を終わらせようとした。金が無いと言えば取引にはならないからだ。だがこのセールスマンは違った。
 「そうですか。ならば3日後の朝にあなたの家を訪ねます。その時お支払いください。それまでなにごともなければ善が罪を消してくれたということです」
 「わかった。ならそれを売ってくれ」
 それを聞いたセールスマンがエス氏の手のひらに白い玉を乗せた。それは瞬く間にして消えた。
 「消えてしまったぞ。これでは意味が無いじゃないか」
 「いいえ。今あなたが犯した罪はこれで消えました。この男はあなたではない誰かに轢かれたのです。安心してお帰りください」
 エス氏は死体を道路に置いて家に帰った。もちろんあのセールスマンの言う事を信じているわけではない。もう何をしても無意味に感じたのだ。せめて家で存分にくつろぐことにした。それから牢屋に入るのなら悔いは無い。
 3日目の朝。エス氏の家に警察が訪ねてくることはなかった。そのかわりあのセールスマンが来た。

 「代金を頂きに来ました。どうです、すばらしい商品でしょう」

 「ああ本当にすごい商品だ。まだ値段を聞いていなかったな。いくらかね」
 値段を聞いたエス氏は驚いた。
 「そんなに高価なものだったのか。だけど払えない金額ではない。ほら」
 「罪を消してくれるものなんてこの世にこれだけですからね。」
 そういってお金を受け取ったセールスマンは帰ろうとした。その時エス氏に頭に妙案が浮かんだ。
 「待ってくれ。その善とやらをもうひとつ売ってくれないか」
 セールスマンはにやりとした。
 「もちろんです。ではこちらをどうぞ」
 それを受け取り、金を渡した。


 エス氏はその夜、ここらへんで有名な富豪の家に忍び込んだ。善を買っておいて盗みに入る、そしてその罪は消える。その計画を考えついた時、自分は世界中で一番賢い男だと思った。
 現実はそうはいかない。使用人の女に見つかりその時、過って殺してしまったのだ。エス氏はセールスマンを呼び出し、事情を説明した。そして善をもうひとつ売るように頼んだ。セールスマンは玉を取り出した。
 「わかりました。では代金をお支払いください」
 エス氏は善を二つも買ったのでもう一円も払える金など無かった。
 「すまないが、それを買う金はもうないんだ」
 「ではお売りすることはできません」
 「頼むここで牢屋になんか入れられたら、いままで買った善が無駄になる。さあどうか」
 「わかりました。お売りしましょう」
 そう言ってエス氏の手のひらに白い玉を乗せた。瞬く間に玉は消えた。
 「ですが、このまま引き下がるわけにはいきません。私どものために働いてもらいます」
 「わかった。何をすればいいんだ。セールスか」
 「いえ。後ろに一歩下がってください。それが仕事です」
 エス氏はあまりにも簡単な内容におもわず笑った。

 「そんな事でいいのか。なんだ簡単じゃないか」

 気づくとエス氏は地に腹をつけていた。全身が痛く、とても起き上がれそうにもない。
 エス氏を轢いたであろう車から、ブルブルと震えながら女性が降りてきた。彼女にセールスマンが話しかけた。
 

「善を買いませんか」

善ビジネス

善ビジネス

人を轢いてしまったエス氏の前に不気味なセールスマンが・・・。なにやら善を売っているらしい。

  • 小説
  • 掌編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-11

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