善行の報酬

その男は善良だった。
人を疑う事を知らず、騙されてもお金を取られても相手を悪いとも思わない。
助け合いの募金箱にはいつも財布の中にあるだけのお金を入れ、月に一度は献血。
心肺停止時の臓器提供意思カードは、常に首から下げていた。
人からの頼み事は断ったことなどなく、どんなにきつい事でも笑顔で応じていた。
そんな彼を友人たちは馬鹿正直な奴、と半ば蔑んでいた。
だがその男はそんなことは気にも介さず、日々善良に生きていた。

ある日、男の母親が倒れた。かなり重い病だった。
ただ、目の玉の飛び出るようなお金を出して手術をすれば、助かるらしい。
しかし日々を馬鹿正直に生きてきて、給料も全て募金するような生活をしてきたのだから、男にはお金がない。
毎日毎日男は悩んだ。そして、生まれて初めて友人たちに頼み事をした。お金を貸してほしい、と。
だが友人たちは冷たかった。いつもあれだけ寄付しているのだ。お金は有り余るほど持っているのだろう?我々が貸す道理はないよ。
彼らは、その男を友人とは思っていなかった。体の良い小間使いだと思っていたのだ。

結局お金を工面できないまま、男の母親は病気で日に日に弱っていった。
困り果てた男は、自分に生命保険をかけ、自殺しようとビルの屋上に来た。
いざ、とフェンスを乗り越えようとした時、男の肩を掴む手があった。
振り向くと、そこには小柄な老人がいた。あちこち汚れた服を引きずるように身にまとい、顔は伸び放題の髭と髪でほとんど覆われていた。

なぜ止める、私にはもうこうするしかないのだ。

事情は知らないが、お金が必要なのだろう?死ぬ覚悟があるなら、この鍵を持ってここに行きなさい。

老人は男に小さな鍵と、破いたメモに書かれた地図を差し出してきた。
男は訝しげにそれらを受け取った。顔を上げると、その老人はもういなかった。


男は藁にもすがる思いでその場所に行った。
そこには「銀行」という看板だけが掲げられた建物があった。
中に入るとカウンターがあり、スーツを着た行員が一人、いらっしゃいませと声をかけてきた。
勧められるまま、男は椅子に座る。どのような御用件ですか?と行員が言った。

ここに来れば助けてもらえる、と聞いてここに来たのだが、お金を貸してくれるのだろうか?あいにく担保となるような物を、私は何も持ってはいないのだが。

男はそう言い、老人からもらった鍵を取り出した。
行員は得心がいった顔になり、おいくら必要でしょうか?と言った。
男は驚きながらも、今必要となっている金額を言った。行員は頷くと、鍵を受け取ってから奥に入り、言われただけの金額を持ってきた。どうぞ、お持ちください、と
いくらなんでも話がうますぎる。どんなからくりがあるのだ?と男は尋ねた。
これは貸付金でございます。もちろん担保はこちらでお預かりしております、と行員は言った。
担保などないと言ったはずだが、行員はすでに預かっているという。訳の分からない男は、さらに行員に事情を問い詰めた。
だが行員は笑顔を絶やさず、こう言った。

その老人が詳しい事情をお話にならなかったのは、このお金さえあればお客様はまっとうな人生に戻れると思ったからでしょう。深入りしてはいけません。
2度とこの銀行を利用することがないよう、お祈りしております。

そういうと、男は銀行から追い出されてしまった。訳が分からず振り向くと、その銀行は影も形もなくなっていた。


何とも不思議な話だが、お金は実際手元にある。男は飛んで帰り、母親の手術をしてもらった。母親は何とか助かり、事なきを得た。
だが男の気は晴れなかった。友に裏切られ、善意は報われなかったのだ。男は荒んだ生活を送るようになっていた。会社も辞め、部屋に引きこもるようになった。
会社を辞めたのだから、当然収入はない。たちまち生活に困るようになった。母親は男の暴力に悩み、家を飛び出していた。頼る人もおらず、男は一人になってしまっていた。
電気もガスも止められ、明日食う物さえない男は、ふとあの銀行の事を思い出した。
あの大金は、どこから出てきたのだろう?担保と言っていたが、家に戻ってみても何ら変わりはなかった。ひょっとすると、自分の善意がお金になって、戻ってきたのかもしれない。
男はそう考え、再び銀行に行った。
あの時忽然と消えたはずなのに、件の銀行は再びその場所に建っていた。
男が入ると、同じ行員がいた。しかしその顔は露骨に迷惑な表情を浮かべていた。

お客様、二度と来てはいけませんと申し上げたはずでございます。なにゆえ、再び当行に来られたのでしょうか。

会社を辞めてしまい、食うのにも困ってしまった。もう一度お金を貸してほしい。

しかしお客様、当行の担保とは・・・。

良いのだ、分かっている。私が昔行ってきた、善行に対する報酬だろう?だから担保と言いつつお金をくれるのだ。ありがたいことだ。

お客様、少々勘違いを・・・。

さあ、早くお金を持って来てくれ。今日はそれで腹いっぱい食事をするのだ。

後悔なさいませんか?

そんなもの、するものか。さあ早くお金をくれ。

分かりました。それならば・・・。

行員は引き出しからあの鍵を取り出すと、奥から男が提示しただけの金額を持ってきた。
男はその金を持って悠々と出て行き、豪華な食事を心行くまで味わった。
海外旅行に出かけ、高級車を買い、思う存分美味を楽しむ。常軌を逸した浪費をし、借りたお金はあっという間に底をついてしまった。
しかし、男はすぐ銀行に向かい、また金を借りた。行員はもう何も言わなかった。ただため息を吐くだけだった。
男は湯水のごとくお金を使い、尽きればまたお金を借りる、その繰り返し。すっかり堕落した生活を送っていた。我が世の春は今来た、と言わんばかりの豪遊ぶりだった。

だが、そんな暮らしも長くは続かなかった。
男がいつものように高い酒を飲んで酔っ払い、横断歩道を渡っているところを、トラックに撥ねられてしまったのだ。
薄れゆく意識の中で、男は傍らに立っている行員を見た。
行員は、男にこう囁いた。

だから後悔すると申し上げたのです。我が銀行の担保、それはお客様の寿命です。お客様の寿命をこちらでいただく代わりに、相応のお金をお渡ししておりましたのに、
お客様は際限なくお金を借りてしまいました。今日、この時がお客様の寿命の尽きる時でございます。どうぞお怨みなさらぬよう。

男が最後に聞いた言葉が、それだった。男の意識は完全に閉じた・・・。


数日後、なぜか男は意識を取り戻した。意識はあるのだが、なぜか目が見えない。それに、指一本動かせない。しかもやたら熱い。何が何やら訳が分からずに男が混乱している中、あの行員の声が聞こえた。

おめでとうございます。お客様の臓器で命を長らえた方々がおられます。お客様の身体は死んでしまいましたが、臓器が他人の身体で生きている以上、当行ではお客様を生きているとみなします。
また寿命に余裕が出ました。さあ、おいくらお貸ししましょう?

しかし男は金額を言わなかった。なぜなら今の男は他人の心臓であり、腎臓であり、肝臓なのだから。

善行の報酬

善行の報酬

とある男の人生と結末。ブラックユーモアってこんな感じでしょうか?

  • 小説
  • 掌編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-07-03

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