ジキルとハイドだって、普通のにんげんだもの
にんげんというからだは、いくつかの人格の集合住宅である。なるほど。
私、この年になって初めて読みましたけど。イメージがちがう。予想していた展開よりも、はるかに人間でびっくりした。
二重人格者って、、、、うーん、それ賢くて自分は別だよって思っている人がやりがちなパターンじゃないっていうふうに感じてしまいました。
でも、この本のよさってそういうところなのだと思う。
私はみんなとは違うの、まっとうな人間ではないの。だけど、よくよく考えてみると私はそんなにいい人じゃないの。もう一人いるんだよ、、、それじゃそれを別々のにんげんにしたらどうなるんだろうって、、、さすが賢い人はちがう。さすがだ。
一般人の私だったら、同じ容姿で、違う人格とか能力とかの方がおもしろいなって思っちゃったけど、それってたぶんアニメと異空間があふれているから楽しく考えられちゃうのかなとも思う。まあ、この本はそんな楽しさなんて求めていないのだろうなと考えますが。
この本の魅力的なところって、やっぱりにんげんっていろんな人格が住んでる器みたいな言い方に私は、聞こえたところだな。
すごく興味深い。私的には、器も人格もみんな私、いろんなキャラも自分の一部っていう考え方だったけど、個人個人が独立していて、同じ器は共有しているのみって、改めておもしろくなった。
もっと変わっているのかなと思っていたけど、自分の悪の部分を切り離して個にしたいって、、、。はっちゃけたい気持ちもあるけど、善の自分を守りたいって、、、なんかすごいなって思っちゃった。えらいよね。いや、わがままなのか。でも、そういうところがにんげんなのだと、すごく感じた。生きていると、もうそんな葛藤なんてバカらしく思えてくる。学生の時はそんなことよく考えたけど、もう今は生きていることに必死なのだと感じている。もし、今あなたはなんで生きているのかとか誰かに聞かれたら、私は何も答えられないだろうし、好きなものを買いたいからとかかわいくなりたいからとか、そんなことしか言わないと思う。それくらい、普通になれたと、考えすぎるとしんどくなると気付いてしまったのだから。
物事を考えるときに、人の思考というものは完全には、一致しないものの、誰にも受け止めてもらえなかったことが理解しれもらえることはとてもうれしいと思う。だけど、自分にしか分からない優越感というものもまた、ほしい。私たちにんげんは、どこまでもどこまでも、異を求めて、遠ざけていくのだろうかな。おわり
ジキルとハイドだって、普通のにんげんだもの