音とともに

 人々は様々な音の中で暮らしている。私の一日も音と共に始まり、音と共に過ぎて行く。季節によって前後するが、新聞配達の音とカラスの会話が夢うつつに聞こえると私の耳もそろそろナーバスになってくる。
夏休みとなれば早朝きまった時間に学童の体操がはじまる。ラジオの音量が高く、子供達の声がいくら賑やかでも苦にならない。それが数日後に大人だけになり、女性の高い話し声に男性の太い声が加わって、夏、冬、暑い日も、寒い日も続いていくと、怠け者の私にはその元気さが羨ましくもあり、まだ寝ている私には邪魔な音ともなる。感覚器官の反応が微妙に変化してくるのだ。
 同じ頃、家では妻が台所で生活の音を出し始める。まな板のトントントントンと言う音はリズミカルでまだいいとして、食器を落としてガチャンと割れた音はいただけない。次は掃除機がうなりだし、そのボディとヘッドを廊下や部屋の隅にぶつけながらガタガタと音を出す。最近は静かだと思ったら、コウルサイ私に気兼ねして妻はコードレス掃除機とフローリングペーパーモップを使っていた。それだけ気を使ってくれているのに、音がうるさいなどと妻に言うことはタブーだ。
私に合わせた遅めの朝食のあとはそろそろ好ましい音がやってくる。妻が剪定バサミで花を切る音は晴れた朝にはさわやかだ。コーヒー豆をひく音と電気ポットの沸く音は待ち遠しい。
「わたしのことを言っている様だけれど、あなたはどうなの」、と聞かれたらどうしよう。考えてみれば、妻の音は全部大事で必要なものばかりだ。健康を保つためにも、暮らしに潤いを持たせるためにも不可欠だ。これに対して、私は良い音を持ち合わせていない。オナラ、イビキ、クシャミのたぐい、それにクチャクチャ食べる音、面目ない物ばかりだ。褒めてくれる家族などいない。孫にマイナス五千点とかマイナス一万点を貰うだけだ。
 外から入ってくる音はどうか。緊急地震速報にはドキッとする。夜中の暴走族のエンジン音もうるさい。どちらも嫌いな音だ。テレビの音は場合による。ニュース、スポーツ、ドキュメンタリーは見るが、騒々しいキヤーピードタバタ番組は即座に消す。CD、ラジオで妻が音楽を楽しんでいる場合は「ウルサイ曲」か「シズカナ曲」かで参加を決める。大抵は静かな曲か、または軽快で心地よい曲が流れているのでチェアに座って聞くが、好みでない時は、私は音のない自室に引き下がる。
 妻と共通して好きな音が他にある。私が窓際のチェアでコーヒーを飲み始めると、どこで見ていたのか雀が1メートル近くまでやって来る。私と雀に催促された妻が屑菓子を撒いてやると「チュンチュン」「チュンチュン」と大喜び、孫のように可愛い。ころころ太った雀をみると、「ショパンの森」にいた痩せた小さな雀のことを想う。
もう一つは「ソレソレソレソレ、エイッエイッエイッエイッ」と元気のいい声である。掛け声は数回続く。近くの保育園の園児達がお祭りの練習をしているようだ。ぴったり調子が合っている。朝、母親に置いていかれるのを嫌がって玄関口で泣いていた子も一緒に気合を入れているだろう。保育園の先生は名指揮者だ。     
また、散歩の時間に列をなして歩いている園児達の話し声も可愛くてにっこりしてしまう。私は子供達の声を聞きながら、近年各地で保育園設置反対が起こるのは何故だろうかと考える。周囲に響く楽器の音のせいか? マナーの悪い駐車のせいか? 確かに、遠方からの通園で送り迎えの車が多くなり、道路が渋滞して私も車庫から出せない事が何回かあった。そうであっても、園児たちの元気な声が反対理由になるとは思いたくない。
 音はばかにならないものだ。私は同じ元気な声でも大人と子供とでは全然違って感じ取っている。私は孫たちが楽しそうに遊ぶ賑やかな音の中で暮らしてみたい。しかし、きょうのように妻と孫とママが三人連れ立ってデパートに出かけている間に音なしの家でくつろぐのも悪くない。
    2016/07/31

音とともに