空の色は(ボツver)

エヴェ

 第三区画にある植物園では柔らかな草と足首までの小川が波立っている。私が学校をサボるときはいつも、リニアバスの駅を通り抜けて川縁の草の上に座るのが習慣となっていた。
 平日の朝、ここには大抵誰もいない。居たとして、犬と連れだったおじいさんやぺちゃくちゃうるさい主婦くらいのものだ。どちらも、私に関心は示さない。どちらとも、関わらない。
 ただ、今日はそんな景色の中に一人のイレギュラーを見つけた。
「絵、か」
 齢は同じくらいだろうか、やわらかな茶色の髪の少女が真剣な表情でカンバスに絵筆を走らせている。如何にも前時代的な光景は、だがしかしそれを模したこの空間には不思議としっくりきた。
 ぼんやり見つめていたら、ふと、目が合ってしまった。反射的に、首を軽く曲げる程度の会釈をする。風変わりな彼女は、それを見てクスクスと笑った。不思議と、不快な気分にはならない。
手招きされて、そろり、そろりと距離を詰める。空っぽのスクールバッグが一瞬だけ、名残惜しそうにその場に止まろうとした。
「あなたは、そこで何をしているの?」
 鈴のなるような声に、私は、一瞬咎められたような気がしてビクッと体を震わせた。勿論、気のせいに違いないのだろうが。
「学校に、行きたくないの。あそこには、何もない」
 親にも久しく言っていなかった言葉がすらりと出てきて、私は自分に動揺した。言ってしまったことを、少しだけ後悔する。
「そっか」
と言ったきり何も返してこない彼女も、それを追求しようという心づもりではなさそうである。暖かな風と沈黙が、とても心地よかった。
 彼女の絵筆は、迷わない。だが、その色は、どうも私の見ている景色とは違っていた。
「オレンジ色の……空?」
 あまりにも異質な、見たことのないその光景を訝る。私の呟きと同時に、彼女は筆をピタリと止めた。
「昔はね、あったの」
「オレンジの空が?」
 彼女はどこか、もっと遠くを見るような目で天井のディスプレイを降り仰いだ。
「もっと、もっとよ。世界が海に沈む前までは、オレンジ、赤、紫、うす緑や、黄色の空だってあった」
 私は首を捻りながら、色を一つ一つ浮かべて想像しようとした。それは実に不気味で、変な光景だった。私には分からなかった。
……それでも、彼女の中にはあるのだろう。語る目は輝いていた。
 再び動き出した筆先は、オレンジの風景の中に照らし出された女の子を描いた。その子はしっかりと、光の方を見つめていた。
「……いいな」
 思わず私が溢した感想に、彼女はキョトンとした。
「貴方には、ないの?」
 空が、とは言われなかった。私は、「ないよ」と言いかけた口をキュッと引き結ぶ。
 彼女は女の子の傍らに、スクールバッグを付け足した。驚いて伏せかけた顔を上げると、彼女はいたずらっ子のように笑った。
「じゃあ、あなたは自由だ」
 そのあっけらかんとした表情から思いがけない言葉が飛んできた事で、私はまた驚かされる。
「自由って……あなたこそ、こんなにも広い世界を描くのに」
 何処までも遠く遠く、この区画の屋根も、その上の海も、さらに上の地上だって見渡すような絵。ここには自由がある。
……だが、彼女に首を縦に振らせるには至らなかったようだ。
「この絵は、狭いよ」
 彼女は鳥の影を空の遠くに浮かべながら応えた。
「これは、私の夢だもの」
「……夢?」
「私の心の箱庭の中にしかないもの」
 その後ろ向きな言葉と裏腹に、彼女は清々しい笑顔を浮かべ続ける。思い付きでどんどんと描き足されていく建物たちは、空を切り取っていく。その中、女の子だけが顔に光を受けたまま前を向いていた。
「でも綺麗でしょう?」
 私はぎゅっと唇を噛んだ。ボコボコと沸騰して、纏まってすらいない気持ちの羅列だけが喉へと競り上がってくる。それを必死に押し留める為だった。
 この絵は美術品としては美しいのだ、確かに。ただ、この子はそんな事を訊いちゃいない。深い意味はなく、綺麗だねと返してほしいだけなのだ。
 それでも、私は、そんな簡単な事を言いたくはなかった。
 夢だなんて。それを夢というだなんて、悲しすぎるじゃないか。
「やめて」
 気がついたときには私は、彼女の手を両手で掴んでいた。黒い飛沫が手を汚して、パッと細かいシミがシャツの袖につく。握り込まれた拳が、手の中でたじろぐ。
 本当に狼狽した様子で、少女は、膝にパレットを降ろした。
「……この空の色は、嫌い?」
 私は首を大きく横に振った。少女が手の中で筆の柄を強く掴んだのが分かる。
「それはまだ分からない、まだ少し……変に感じるけれど、」
「けれど?」
「きっと、空を切り取るのは、女の子にとって苦しいことだから」
 オレンジの空を半分以上は埋め尽くそうかというビル群。それを見つめている女の子の影に陰が落ちるのも時間の問題だろう。
 絵を改めて目にした少女は、固く閉じていた手をだらりと弛緩させて俯いた。
 さぁ、と乾いた風が、その前髪を除けて一瞬だけ瞳を見せる。その瞳は、しっかりと、オレンジを映している。
「でも、空ばかり広い絵なんて、つまらないって……」
 言われた、と。その言葉から逃げてほしくは……いや、『逃げたくは』無い。
「これは、貴方の絵だから」
 私は、なぜか空の上から描かれている鉛筆の下書き線を乱暴に指で拭った。
「急いで描かなくても、まだ、沢山時間はあるから」
 だって私は、見たのだ。空の色について語る彼女が、どこまでも広くて満ち足りた目をしているのを。それが許されないなんて筈はない。
「誰がなんと言おうと、私は、あの広いオレンジ色の空の絵の方が、好きだった」
 少女は弾かれたように顔を上げて、私を見た。私は、じっとその双眸の光を受け止めて、今度こそ首を縦に振った。
 ざあ、と一際強い風が吹き抜けた瞬間、塗ったばかりのはずのビル群がひび割れて端が剥がれ落ちた。
 一欠片、二枚(ひら)、細かく砕けて黒い絵の具が吹き飛ばすされていく。
 不思議と、空には一筋のひび割れすら無かった。
 目を擦って、彼女はパレットの蓋をパタンと閉じる。それを躊躇い無く傍らの鞄に仕舞うと、キャンバスを包み込むように抱き締めた。
 暫くのあいだそうしていた彼女は突如、ぽつりと呟いた。
「アンリ、貴方は、ちゃんと色を持っているのね」
 彼女は教えてもいない私の名前を呼んだ。なぜか、不思議だとは思わなかった。
 むしろかけられた言葉の方に、私はぎょっとした。
「……私は、何色に見えるの?」
 彼女はちょうど出会った時のように、無邪気に笑った。前よりも楽しそうだ。
「そうね、ガラス玉色、かな?」
「どういうこと?」
 彼女は席を立つと、大きく腕を広げて偽物の空を降り仰いだ。
「貴方はきっと、何色の空でも真っ直ぐに見つめることができるから」
 彼女が語った様々な空は、有るのだろうか。この口振りからすると本当に有るのかもしれない。
 想像するしかないそれはまだ少し不気味だったけれど……きっと、美しい。
「私、行かなくちゃ」
 時刻は七時四十五分。今からバスに乗れば、ギリギリ学校に間に合うのかもしれない。間に合わなかったとしても、それはそれで、いい。
 走り出してから、一瞬だけ足を止めて振り向く。誰もいない、いつもの植物公園の川べりが延々と続くばかりだった。
 私は彼女の姿が見えなくなっても、名残惜しいとは思わなかった。今なら、彼女の名前を呼んであげることさえできるのだから。
 再び顔を前に戻す。学校へと踏み出した一歩を、私は、きっと後悔しない。
「さよなら、『アンリ』」

空の色は(ボツver)

空の色は(ボツver)

大会に出そうとしていた作品なのですが、長くなりすぎてしまったためこのバージョンは没になりました。

  • 小説
  • 掌編
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