文字通り


本当も嘘もない,魔法のような,私たちの世界だから。
毎朝,私より早く起きる彼は,晴れの日に限って,ベランダに立って,外をぼーっと眺めるのを日課にしていた。高層階の東向きの間取りだから,気持ちがいい。彼より遅く起きて来る私は,そんな彼の姿を部屋に見つけてから,朝が始まる。気分が良ければ,そのまま彼にも抱きつく。数センチも変わらない背丈だから,私は肩ごしに彼の景色を見つける。始業開始から何機目かの飛行機だって,じゃれ合っているような鳥たちだって,そして,走り出した車の短い列だって,前を向いて,進んでいる。日差しが当たって,みんなが歩いている。私が何かを言うと,彼が返すことはいつも同じだ。私も同じように返す。彼の細いシルエットにしがみつきながら,しばらくして,彼か私のどちらかが話し始める。
「今日はどうする?」
家で食べるか,外で食べるかという意味の提案だから,私なら,その日の思い付きで答える。彼も同じだけど,彼の方が具体的。それから二人は,ちょっと離れて,向き合ってから,お互いのことを確認する。秘密の確認だ。最初の頃に感じていた恥ずかしさも,すっかり落ち着いて,安心しきっている。彼も私も話し合う。お腹が空くまで話し合う。痛くもない腹を,お互いに探り合うみたい。そのすべてを箇条書きのように記すなら,時間はもう少しかかるかもしれない。


飼い猫のリーがいる。私が大好きなオス猫で,彼の良きライバルである。彼が先に出勤して,私がその後に本格的な準備を整えるまで,リーは私の部屋でうずくまり,余裕の態度をとる。机の上に,私が作った作業用のスペースは,リーのサイズにピッタリだったのだから,私が意図して用意したみたいな場所になっている。彼曰く,私とリーの密会場所である。私から言わせれば,リーは我が家の飼い猫なんだから,私たちに例えていえば,そこは彼の大好きなソファーみたいなところで,私がよくいるパソコンの前である。それに,彼と過ごすときでも,リーはだいたい私の傍を離れないのだから,私とリーが密会をする必要がない。もふもふした毛を感じさせて,リーが私に構うことを,そして,私が必ずそれに応えることを嫉妬する,彼が悪い。それもいつもなら可愛いで済ませられるけど,昨日の八つ当たりみたいな感じはヒドい。おかげで,今朝は最悪の気分で目が覚めて,寝癖はあるし,直すのに時間はかかったし,化粧のりは悪いし,お気に入りのアクセを失くすしで,良いことがない。ため息が出そうになる。でも,リーがそれを許さない。リーは,そういう意味で私に厳しい。着替えを覗いたりしないのに,ため息のような,気持ちの解消をしようとすると,リーはお気に入りのそこからひょいっと着地して,床を走って,私の前に立つ。じっと見上げる。そこで鳴いたりしてくれないリーは,ある意味で優しくないし,別の意味で,オスらしく優しい。シャツをくしゃくしゃにして抱きしめたくなるし,この日は抱きしめちゃったけど,リーは嫌がる素振りをひとつも見せなかった。リーは私の味方だ。私はリーの鼻に,私の鼻をくっつけた。顔を頬に引き寄せたとき,ヒゲがちくちくした。そこでリーが鳴いた。耳もとで,私は救われる気がした。それがいっ時のことでも,私は満足だった。私は立ち上がって,仕度をすべて終えてから,颯爽と家を出た。出ることが出来た。リーはやっぱり,玄関先まで私を見送ってくれた。ひとりの時間を,費やしてくれた。


私に突きつけられた写真のどれも,スタジオの各箇所を切り取ったように撮影されたとしか思えないもので,撮影者本人が「これはアートである」と言い張られても,困ってしまうもののようにしか思えなかった。「だから何?」と反対に問い直したくなったし,また,「よかった,こんなものか」と安心することが出来たのは,こういう理由からだった。けれど,相手は違った。とても自信満々に,自身の主張と,その物証と言い張るすべての記録を片付ける事もしなかった。相手はたじろぐ気もない私を見て,さらに主張を続けた。
「あなたの言いたい事は分かりますよ。ええ,これらは私の主張を直接裏付ける光景を一枚たりとも残しちゃいない。それはこちらも認めます。しかしですね,これらの写真が撮られた状況を考えるとですね,また随分と違うんですよ。これらの写真は。」
トントンと,その表面を指先で叩かれた一枚は,スタジオの天井を捉えていた。そこに吊り下がっているライトは,こぞってこちらにを向いている。
「これらの写真はですね,二人っきりの撮影時に撮られたものなんです。ええ,あなたならお分かりのはずだ。あえてそういうシチュエーションで撮ることに意味がある,真に迫るためって言うんですかね。芸術的なことに疎いものですから,そういうのがウソかホントかも,判断できやしませんが。まあ,そういう状況で撮られたっていうのは本当です。これらの写真はね,被写体と二人っきりで撮られたものなんですよ。その全てがね。」
私の近くに広げられた数枚は,ブレにブレている。背景から引っ張られて,床にまで敷かれたような布地が,スタジオの床との境目を残すのに,写真はそこを誤魔化そうとしているように見える。本当に,そこに誰も写っていやしないのに。私がそこから視線を戻すと,相手は実にニヤッとした。それを見つけたと言わんばかりだった。相手は続けた。核心といえることだった。
「正式に採用された写真群の中からね,これらの写真は見つかったんですよ。提供者はお教えしません。情報源の秘匿は大事なことなんで。信頼が命の私たちなのです。まあ,その対象となる人からすれば,到底そう思えないかもしれませんが。それでね,正式に採用された写真には,もちろんあなたが写っていた。とても綺麗に,写っていた。購入させて頂きますよ。芸術に疎い私でも,あれは良い作品だと分かる。これは否定できません。それでね,」
そういう相手の言葉を,私は無視した。ここまでくれば,言いたいことはどうせひとつである。正式に採用された他の写真たちに対して,これらの写真には不自然なくらい,私が写っていない。写っている光景からすれば,むしろ写せなかったんだ,と。例えばですね,こう,接近でもしていれば,それは写すことは出来ませんね。当たり前です。なぜなら,カメラは常にあなたの背後にあるのだから。あなたの背後で,スタジオのあちらこちらを収めることしか,出来なかったのだから。
「ですからね,これはやっぱり,あなたたちの関係を示す証拠になるのですよ。あなたたちの内緒の関係をね。どうでしょう?私の言っていること,当たっていますか?」
相手が私を見つめている,それを感じながら,苦手なアルコールに代わって,頼んだ炭酸水を半分飲んだ。相変わらず味がしない。スッキリとした喉越しだけ,確かに私の中に残る。そうして,私は相手を見つめた。ひとつだけ,質問した。この相手と出会ってから,話を聞いて,私が最初から言いたかったことだ。
「なぜ,消していなかったのでしょうね。これらの写真。」
聞く相手は,すぐに何も言わない。だから,私と同じで,私の言わんとすることが,もう分かっているんだ。
「撮らなきゃいいし,残さなきゃいい。そうすれば絶対にバレない。だって,二人っきりの状況だったのでしょ?こられの写真が撮られた時って。なのに,なぜ,ここにこうして存在しているのかしら。まるで意図的じゃない?芸術的な意味なのかな,それとも,宣伝的な効果として,あなたのような人たちに,キャッチして欲しい,発信して欲しいからなのか,までは分からないけどね。」
ねえ,どうして?と,私はもう一度、相手に質問した。質問された相手は,まあね,という感じで口元の笑いを残し,私に答えをくれた。とても先回りしたものだった。でも,そうしたい気持ちがすごく理解できた。
「利用されたくはないですね,お互い。」
「ええ,そうですね。」
テーブルの上に広げた写真のすべてを片付けて,相手は先に席を立った。勘定はそれぞれに持つ,と私が言ったので,相手はその全額の支払いを諦めた。では,と言って,肩掛けショルダーを肩にかけた。少し歩き,でもすぐに振り返って,私に声をかけた。この相手とは二度と会うことは無かったから,これが最後の言葉だった。
「お幸せに。」
あなたも,と私は頷いた。返事がないのが,返事だった。


忙しくて疲れて早く眠ってしまって,目が覚めてしまったから,隣で寝ている彼に気を使いながら,画面をタッチして,私は今日の日記を打ち込んだ。それが終わってからは,イヤホンを取り出して,口ずさみたくなるぐらい,好きな音楽を聴き込んだ。
低血圧の彼は,洗面とかの支度を整えたあと,ベランダから,リビングの朝食を済ませたところで,やっと目が覚める。いつも私にそう明かす。私はそこで,「おはよう」なんて言う。彼の返事あり。
二人の遅い朝が,そこから始まる。

文字通り

文字通り

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-09

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