偽り

 ダークグレーの雲が低く垂れ込める。
 予報では雨だったはずなのに、なかなか降り出しはしない。右手にしっかりと掴んだ傘が、時々こつこつと地面に当たって跳ね返る。
 僕は大通りの幅広の歩道をじっと俯きながら歩いていた。たまに擦れ違う人に肩がぶつかった。舌打ちを浴びせられるたびに僕ははっと我に返り、すみません、の形に口だけを動かした。声は喉から出てきてくれなかった。
 赤信号に気づかずに交差点を渡りかけてしまうこともあった。「ちょっと、お兄さん!」たまたま目の前に交番があったから助かった。あ、すみません。目を合わせることもできず、もごもごと誤魔化すように呟いた。
 何だかそれで恥ずかしくなって、親切なお巡りさんに背を向けたくて、横断歩道の向こう側に目をやった。歩道の赤い信号の下で、三、四人の大人たちがぼうっと色の変わるのを待ち続けていた。その一人の姿を見て、はっと息が詰まった。けれど、すぐに人違いであることに気づいて、いつも通りの息をそうっと吐いた。
 その女の人は、椿によく似ていた。顔が似ているわけではない。髪型や背格好、それに服装のセンスが、何となく椿を思い出させるものだったのだ。僕は自分を笑い飛ばしてやりたくなった。結局、いつだってお前の頭の中には椿の事しか入ってないんじゃないか。道を歩いている時だって電車に乗っている時だって、夜に眠る前だってそうだ。
 信号が青に変わり、僕はその女の人と擦れ違う。彼女の香水は、確かにこんな匂いじゃなかった。
 
 それは三日前の事だった。
 事態はあまりにも唐突だった。
 もう外は暗くなり始めた夕方の六時、僕は椿と食事を摂っていた。国道沿いにある目立たないイタリア料理店だ。椿とは、もう付き合って三年になる。まだ若い僕にとって、それは決して短い時間ではない。
 その頃でもまだ、椿と過ごす時間は僕にとって紛れもなく最も幸福な時間の一つだった。本当に気の合う者とはいつでも心が通じ合うものなのだ、なんて本気で信じていたくらいだった。
 ねえ、話があるから聞いて。真剣な話。
 椿の声はいつものような調子ではなかった。その目は少しも温かくなんてなかった。気の回らない、鈍い僕ではあるけれど、そこにある気配がただならぬものであることくらいは直感的にわかった。自信に乏しく臆病な僕だったから、その言葉は心の中を不安でいっぱいにするには残酷すぎるほど十分だった。
 私、公也くんより好きな人ができた。だから、もう別れよう。
 僕の心のガチガチに固められた鎧を、その小さな声がいともたやすくぶち破ってしまった。心から真っ赤な血が流れ出る音が聞こえた。それは涙と呼べるほど美しいものではなかった。
 それでも、ひび割れにセメントを流し込むように僕は鎧を繕って、震えないよう精一杯頑張った声でそれに応えるしかなかった。
「わかった。君がそうしたいと思うなら、もちろんそうしよう」

 それから話はほとんど続かなかった。僕の悪かった部分を責め立てられることもなかったし、新しくできた好きな人について何か説明されることもなかった。僕は、固く閉ざされた鎧の中で、ただ心の傷口が塞がるのを静かに待っていた。
 僕は椿に言葉をぶつける勇気を持たなかった。もはや何の言い訳もすまい、逃れることもしまい、と夢中で唱え続けるだけだった。ただただ僕が足りなかっただけだ。僕では彼女に届かなかっただけだ。椿はこれから幸せになる。それ以上に望むべき結果というものが、果たして僕にあるだろうか?
 店から見て、僕と椿の家の方向は真反対だった。立ち止まることもなく、さようならも言わずに、じゃあ、とだけ告げて彼女は僕から去っていった。彼女の足音というものを、その時初めて聞いた気がした。僕の方はといえば、声も出せずただそこに突っ立っていただけだ。
 僕はその時のことを思い出すと、自分が嫌で仕方なくなってしまう。記憶ごと存在を消してしまいたいくらいだ。もっと気の利いたことを言えばよかった。言いたいことなんて、今ならいくらでも思いつく。でももう今となっては、それらの気持ちはもう届きようがないのだ。「君がそうしたいと思うなら、もちろんそうしよう」。僕が贈った唯一の言葉は、僕の言いたかった気持ちをきっと一割も伝えてくれてはいない。
 でも、椿なら、僕の気持ちをちゃんとわかってくれただろうか。いや、そんなものは僕の思い上がりだったんだよな、そもそも。まったく、僕はどこまでも馬鹿々々しいな。
 とにかく、もう一度でも会って話せたらいいのに。僕の嫌いな女々しい僕がひょっこり顔を出す。
 その時、俯いていた僕が何かにぶつかりそうになる。慌てて歩みを止めると目の前にあったのはポストだった。もしもこれに衝突して僕が反射的に謝ろうものなら本当に恥ずかしいところだった。きまり悪く、再び僕は俯き加減で歩き出す。
 ふと、視界の端に何かが落ちているのが認められた。真っ赤なポストの足元にあるそれは、どうやら封筒らしい。細い字ながら住所も宛名も完璧で、切手までちゃんと貼ってある。これの差出人は、ここまで来て出すのをやめてしまったのだろうか。だからといって、ここに封筒を捨てるなんてことがあるだろうか。あるいは、何かの手違いがあって、ポストに入り損ねてしまったのか。そんな運命の悪戯があり得るのか?
 それからずっと歩きながら、頭の中では考えるともなく封筒のことを思いつづけていた。何かが妙に僕の神経にひっかかる。でも、その正体が何だかは、もちろん僕にはわからない。別に宛名や筆跡に見覚えがあったわけでもない。
 そこで、右手に持った傘が何かにぶつかって後ろに弾かれようとする。危ないところで僕はしっかりとそれを掴む。擦れ違うカップルの男の傘にぶつかったのだ。そうわかると僕は咄嗟に謝ろうとするが、彼らは僕のことなんて少しも気にかけてはいなかった。相手との話に夢中で、ぶつかったことにすら気づいていないようだ。
 ふと、手元の傘を見て僕は気づく。今から雨が降るのだとしたら、あの封筒はどうなるのだろう。誰かに宛てられた、僕の知らない差出人の要件は、雨に濡れてどろどろのしわくちゃになってしまう。何だか僕には、そのことがどうしても許せなかった。もしこの封筒の中にあるものが、伝えられるべき言葉をのせた手紙だったとしたら。
 自分でも何者かわからない感情に支配されて、僕はその場で回れ右をした。少し早歩きになってポストのあるところに向かう。そうして、同じ体勢で落ちたままの封筒を拾い上げ、数十秒間じっくり見つめてやったあと、汚れを手で払ってポストに投函してしまった。差出人の名前を見ることもしなかった。当然中身はわからないから、とりあえずポストに向かって両手を合わせておいた。
 さて、と思って僕は再び歩き出す。余計なことをしたかな、と思いながらも、もう俯いて歩く必要はなくなってしまった気がした。どのみち切手まで貼られた封筒だ。わざと出されなかったのだとしても、出されたことが罪にもなるまい。まるで理屈が通っていなかったが、そのことがかえって僕には心地いいように思えた。
 すぐにタイミングよく雨が降り始めた。僕はちゃんと傘を差す。遠くの空を見上げると、雲の隙間から日の光が燦々と注いでいた。この天気は晴れなのか雨降りなのかとちょっと考えて、これはどっちも正解だろう、と一人で納得することにした。
 椿がこんな僕を見たらどう思うかな。この期に及んでまたそんなことを考えて、僕はもう一度苦笑する。

偽り

優しさはきっと都合がよくて傲慢なものだ、というメモから出発しました。それでいいとも思います。

偽り

3,134字。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-09

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