人を信じると書く
信人とは、人を信じると書く。
信人は、人を信じると書く。目下それを感ぜざるを得ない毎日だ。
小田信人は、Uターン組で、この田舎に帰って来た。
都会で暮らしていくには、財布が寒すぎて。
嫁と子供を連れて、軽に乗って山道を行くとき、夕日が見えて、思わず拝むとさっと沈んでしまい、「お日様お願い聞きたくないって」と笑うと息子の日々人が泣いた。
祖母の暮らしていた家で、家賃を叔父に払って暮らす。
初めはとまどいもあったし、この地特有の嫌味も言われた。
しかし日々は安穏に過ぎていく。
日々人を抱く菜緒が、「ここはいいところだね」と言って故郷を褒めてくれた時は嬉しかった。
あんなに嫌っていた故郷に、好きな人と住めて、好きな時に会える。
前の単身赴任の生活からは考えられない。
そう思うと、今回生活を送るにあたって色々と便宜を図ってくれた人々の恩義が身に染みる。
昔こそいじめられっ子だったが、体はでかくなり、体力勝負の仕事にも耐えられる自分に自信が付き、信人は今回の帰省に安心したところが多くあった。
だからかもしれない。菜緒が日々人の背が順調に伸びている、と告げた時、何故だか涙が滲んだ。泣きながらお好み焼きを食べる信人を、「どうしてー?」と日々人がのぞき込んだ。
さて、仕事のことだが、目下検討中の土地の売買はなかなか難しく、かなりの優良物件だというのに細々として続かない。
しかしかなりの有力者が「700万出すから売ってくれ」と申し出たりと、やはり土地の条件は良い。
何度も除草し、手入れを入れて、何度も話が上がったのだが、あまり振るわない。
昼に家に戻りながら、「今日もこの後は無い」と菜緒に告げ、部屋にて吉報を待つ。
自ら動いて仕事を取りに走る。その姿を、菜緒は何も言わず見ていた。
ある日、菜緒が近くまで車で来て、オーバーオールを着て長靴を履いて出てきたので、ぎょっとして「どうした」と言うと、「私、畑するんだ」と菜緒が言う。
なんでもいつも野菜を届けてくれる農家さんで、働き手が足りないらしい。
「応援してね」
そう言う菜緒に、信人は何とも言えず頼りがいを感じた。
さて、菜緒は土地開拓と聞き、それなりに覚悟していたが、やはり荒れた土地には気後れした。
「あんじょう頑張っておくれやす」
そう言われ、鍬を持たされる。
苦労して耕し終えると、まだ明日もある。
うへー。
鍬に顎を付いて休んでいると、「やっぱりお嬢さんには、無理でしたか」と笑われ、むっとして頑張った。
その日は半分ほど終え、「なかなかやりはるね」と言われてお茶を頂いた。
帰りに餅を頂き、村の子と遊んでいた日々人を連れて帰ると、どろどろの菜緒を見て信人が「おかえり」と、雑誌を読んでいた手を止めて驚いた顔をして、次に「まだ行くの?」と笑った。
「あったりまえだのクラッカー」
菜緒はそう言って、土地開拓に通い続けた。
日々人はトンボを取ったり、カエルに初めて触ったり、滝を見たりして、田舎に徐々に染まっていった。
いつか父が見た光景。
日々人には未知なる世界だった。
ある時期、洪水が来た。
やはり堤防の作業を進めていなかった田舎は、盆地だったため水に沈んだ。
「何度も訴えてきたのに、行政は何をしていた!」
そう詰めかけるお年寄りが多く、国から金が出ないんだとも公に言えず、信人たちはただただ土を運び、給料ももらわなかった。地元の中学生と、一緒に働く日々は楽しく、「ほら、おまけ」と言って土を荷車に積んでは、運ばせているとその学生が「もうおまけいらへーん」と唸った。信人たちは笑った。
「あんたの旦那さん、えらい目に遭うてるみたいやね」
菜緒は農家さんにそう心配され、その日も野菜を多めに頂き、日々人を呼んで車で帰った。
日々人が増水した滝を不思議そうに眺めていたのが印象的だった。
来年こそは、と信人たちは思っている。
この地域皆の願いだ。
来年こそは、堤防をどうにかしてくれ。
もう家や家族を流されるのはたくさんだ。何度金を積んでも、これじゃ追いつかない。何度俺達は駄目になればいい?
国に要求する。俺達にも、生きる権利はあるのだ。
こんな僻地でも、生きている文化はあるのだ。
だから汚職だなんだと騒いでいる国に要求する。どうか、誠実な仕事をしてくれ。
俺達の言葉を聞いてくれ。
願いは、それだけだ。
今日も焼かれたお好み焼きに、野菜が多く入っている。
「頂きまーす」
信人と菜緒と日々人が箸を合わせる。この空間すら、守れないかもしれない。
明日は我が身と、信人と菜緒は考えた。
どうか、俺達の言葉を聞いてくれ。
人を信じる機会を与えてくれ。
誠実な人一人、いてくれれば十分だ。
人を信じると書く
今の現状です。遊んでる場合じゃないよ。