あいの海
深い海の底に、今宵の世界はあった。
ぷかりと浮かぶ月が、やけに遠く感じた。
辺りの音は、漆黒の海に吸い込まれてしまっていた。
不意に恐ろしくなって、逃げるように目を閉じた。
途端、浮かんだのは、貴方。
怯える私を、いつも包み込んでくれた貴方。
その姿に安堵し手を伸ばしても、
みるみる貴方は遠ざかっていって。
更に恐ろしくなって、目を開いた。
再び見えた世界は小さく揺らぎ、波にさらわれ消えた。
流れる文字列を指で追う度、
鼓動が深い海を震わせ、波を産む。
「もう、終わりにしよう。」
大きな波動が、世界を幾重にも広げていった。
同時に湧き上がった声は、溶けずに深海を漂う。
―嫌だ。
―離れないで、離さないで。
―最後まで支えさせて。
―唯一で最大の、我儘を聴いて……。
この声は、貴方には届かない。
只、私のこの海で彷徨うだけ。
又、逃げるように目を閉じた。
海の奥底へと身体が引きずり込まれていく。
このまま、暗闇と共に溶け合えたら……。
大きな力に抗いもせず、全てを委ねたい衝動に駆られた。
―貴方は、本当に身勝手な人ね。
ぽつりとひとつ、呟いた。
「誰も悪くない世界」が耐えきれなくて。
なにかを悪者に仕立てあげたくて。
貴方は、本当に身勝手だった。
私を身勝手に傷つけて、
私から身勝手に離れて、
私を身勝手に、愛してくれた。
そんな貴方の身勝手に、何度支えられただろう。
何度引き上げられ、何度照らされただろう。
……嗚呼、やっぱり。
全てを受け入れてくれた貴方を。
「初めて」をたくさんくれた貴方を。
幸せを教えてくれた貴方を。
愛してくれた、愛させてくれた、貴方を。
誰よりも、何よりも大切な、貴方を。
悪者になんて、できない……。
ゆっくりと、目を開いた。
ふと見上げると、月光に照らされた水面が、夜風に揺らめいていた。
美しく煌めくそれに、不思議と心が惹かれた。
あの美しい月光に、触れられるだろうか。
貴方の手を借りずとも、上っていけるだろうか。
……否、まだ。
小さくついたため息は、海に溶けて見えなくなった。
……今の私には、あの煌めきは美しすぎる。
でも。
きっと、いつか。
自分の力で進んでいけますように。
美しい煌めきに、この手を伸ばせますように。
その日を夢見て、静かに眠りについた。
藍色の深い深い海に、優しく守られながら。
あいの海
とある知り合いの話を、少し脚色を交えて書かせていただきました。
誰も何も悪くない。その事実を理解していても、やるせない気持ちに苛まれる。
そんな理不尽な世界、いつか受け入れることが出来るでしょうか。