エンジェル・レイン

 午後六時。東京は夕方と夜の境を越えた。
 人は夜を支配したと思い込んでいる。しかし心の中では今も闇を恐れ、太陽が沈むと過剰に饒舌になったり、大胆になったりする。二十歳のとき私はそのことを学んだ。以来、夜の間は心のおもてに柔らかい拒絶のスクリーンを貼って過ごすようになった。
 もう傷つきたいくないのなら自分のマンションに帰って、最新のロックシステム付きのドアを閉ざして朝を待てばいい。なのに私は、よりによって、彼と初めて会ったカフェ・バーにいた。
 一人が寂しいから思い出に浸りに酒を飲みに来るなんて、自分がひどく安っぽく思えた。他にどうしようもなかったのだ。店もバーテンダーもあの日と変わっていなかった。ただ、彼を真似て飲むようになったマルガリータは、今の私には苦く、滲みた。
 窓ガラスを流れていく雨の滴を眺めていると、不意に視界の端に、白いはためきを感じた。
――天使……。
 翼に見えたそれは、ウインドブレイカーのフードだった。デニムのショートから伸びる脚に、パステルカラーのスニーカー。彼女はカウンターに進んで、コーヒーを注文した。
 私もあんな風に見えていたのだろうか。彼女はコーヒーを受け取ると、私の二つ隣のスツールに腰かけた。両手でカップを覆うように持つ仕草が、彼女をいっそう幼く見せていた。
 ぶしつけに彼女をずっと観察していたことに不意に気づいて、私はまた窓の外に目をやった。
 雨が降り続いていた。滴は、ガラスに写る彼女の頬を涙のように伝っていた。私は酔っていて、夜の灯りとガラスが、私をなぐさめようと天使の似姿を見せてくれているのだと思っていた。いくらか酔いが醒めた頃、ようやく私は、彼女が本当に泣いていることに気づいた。
 声をかけると、彼女はうつむいたまま少し頷いた。
「すみません。悲しいことがあって」
 思いを抑え込むように、彼女は無理に笑おうとしていた。
「そうなんだ」
 励ましの言葉がいくつも、私の唇で音を持たずに消えていく。彼女を、幼い、と評したことを私は後悔していた。
「雨、やまないね」
 彼女も窓の外を見た。
「こういう日は空で天使が泣いているんだって……言っていました」
 彼女の声が、また震えた。
 私は席を詰めて、彼女と並んだ。
 そして、二人で、いつまでも窓を伝う滴を眺めた。

エンジェル・レイン

エンジェル・レイン

雨の夜、私は天使に出会った

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-07

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