悲しい愛

数年前、僕自身が体験し感じた事をそのまま小説にしました。登場人物は全員、仮名であり、場所を特定できる記述は避けています。

 しばらく音信不通だった友人から、自分のスマートフォンじゃなく職場の方にかかってきました。僕の仕事はとある飲食店の厨房です。その時、注文が立て込んでいましたが、なにせ連絡がなく何か良くない事でもあったんじゃないかと心配していた相手ですから、無視する事も出来ず、電話に出たホールスタッフから子機を受け取り、仕事の合間を見て事情を聞きますとスマートフォンを失ってしまったとの事です。この電話は友人の物を借り、以前、渡しておいた店の名刺を頼りに掛けてきたそうです。
 僕は彼の事をシゲちゃんと呼んでいました。三度の飯よりお酒と女遊びが大好きな細身の男です。僕は訳のわからないまま、連絡が途絶えていたシゲちゃんから電話がきて、安心しつつもスマートフォンを紛失したと聞いて、心の中にマッチの火程度の小さな怒りが灯りました。
 何故ならその紛失したというスマートフォンは僕の名義で携帯会社と契約し、月々の料金は僕の口座から引き落とされている、言わば僕がシゲちゃんに貸している僕のスマートフォンだったからです。
「いいよ、いいよ気にしないで」
しかし気の弱い僕はシゲちゃんに文句を言うことは出来ません。
「取り合えず一回会って話をしよう。次の休みはいつ?」
「水曜日、17時からでもいい?」
「夕方か、俺新しいスマホ見たいし、もっと早く会えない?」
 営業中、しかもけっこう忙しい時間ですし、しかも店の電話を使ってプライベートな約束を取り決めていますから、同僚の目が気になってきました。せめてもの救いは話の相手が男という事でした。私と話している相手が同姓という事は、最初に電話にでたホールスタッフがよく知っていますから、女性と会社の電話を使って話していると妙な噂が立ち、後ろ指を刺されはっきりと聞こえないヒソヒソと話す囁きが聞こえ、どんな顔をして出勤していいかわからなくなる事はないでしょう。
「ねえ、もう少し早く会えないかな?それから飲みに行くのはどうだい?」
「ごめんシゲちゃん、その日、病院に行かなければいけないんだ!」
 そう言うと受話器の向こう側の声が一旦途切れ「わかったよ。水曜、17時から、待ち合わせは”E”の前で」
 電話が終わり僕は静かに受話器を戻しました。病院に行くというのは嘘ではありません。2年程前から月に2~3回のペースで心療内科に通っていたのです。

 言った通り僕は昼前に病院へ行きました。心療内科の医師とほんの数分間話をして、処方された薬を、薬局で貰いました。朝と夜に飲む三種類の抗うつ剤と、寝る前に飲む睡眠薬です。これらの薬品にかれこれ2年はお世話になっているのですが、はたして改善に向かっているのか目に見えないのも、不安の材料となり、気力は乏しくて虚無感に苛まれているのに、焦りというエネルギーは体内に蓄積され過食衝動という形で放出されるのです。
 まるで綱渡りをしているような精神状態といいますか、病院へ行って薬を貰って帰ってくるほんの数時間の外出だけで、僕の精神を激しく消耗させるのです。
 家に着いた頃には正午を回っておりました。いつもは店員が複数人で食べるものと勘違いし、気を利かせて箸を2膳か3膳、袋に入れるほどコンビニの惣菜をバカのように大量に買い込み胃に押し込みますが、今日は珍しく虚無感が勝り薬だけもって自宅のアパートに帰り、ベッドに横になります。僕しかいないワンルームのアパート、ガサゴソと物音が聞こえベッドの中で顔だけを動かし音の正体を追いますと、テーブルの上にゴキブリが1匹、蠢いております。おそらく何日か前に食べてそのままにしておいたカップ麺の容器の中に、乾いてこべり着いたスープや麺の残りカスに誘われて出てきたのでしょう。それ以外にもテーブルの上に散乱したコンビニ弁当の容器や空のビールの缶など目に止まりましたが、今の自分にそれらを片付ける気力はなく、更に目眩と耳なりまでしてきたので、じっと目を閉じました。
 休みの日はとても好きです。今みたいに体調が悪くなってきても、目を閉じて布団の中でじっとしていればやりすごせるからです。太陽が少し西の方に移動するまで、布団の中でまどろんだ真似をして、夢と現の間を行ったり来たりしていると、だいぶ調子も良くなり、亀が動くように、のそのそとベッドから抜け出して床に散乱している、適当に服を着て家を出ました。おそらくお酒を飲むので電車でシゲちゃんとの待ち合わせ場所に向かいます。
 本当の事を言うと、今飲んでいる薬はアルコールとの相性は悪く、禁酒すべき状態にあるのでしょうが所帯も持っておらず、独り暮らしで恋人のいない僕にとって気をまぎらわせる物がアルコールしなか無いのです。そう言うと言い訳がましく聞こえるでしょうが、こういう病気は食欲にも異常が出て、食欲が減退するか異常に突出するかのどちらかなのです。インターネットで記事を読んだり、他人の話を聞いた限りの大抵の人は食欲が無くなるそうですが、僕の場合、後者で明らかに異常な過食反応が出ていたのです。食欲が増すというより、お腹が空いていようが、満たされていようが関係なく何でもいいから、食べ物とアルコールを口に放り込みたいという衝動が、猛牛の如く暴れるのです。腹に食べ物を詰め込めるだけ詰め込み、酔いが回ると平静を取り戻すと思いきや、食べ過ぎてしまい太ってしまう女々しい恐怖感からトイレで、さきほど貪った食べ物を全て吐きいてしまう。ある時なんか、近所の居酒屋で一人で生ビールを飲んで今したら、例の猛牛が頭の中で暴れだし、そんなに高くもない居酒屋で一人、5、6千円くらい飲み食いしそれだけじゃ飽きたらず、その足でラーメン屋に行き生ビールを2杯、唐揚げとラーメンを食べ腹一杯になってもまったく食欲は大人しくならず、チェーン店の牛丼屋でまた牛丼を食べ、次にコンビニのトイレで、指を口に突っ込んで嘔吐して、そのコンビニで缶ビール数本と弁当とプリンを買って、家に戻ってからまたそれらを胃に放り込みんでから、トイレに駆け込み嘔吐してから、睡眠薬を服用した所でようやく食欲が小さくなって平静を取り戻すのも束の間、食べ物を粗末にあつかった罪悪感がどっと押し寄せて、ベッドに潜り込んでメソメソと泣くのです。
 寂しい感情、汚い部屋で今にも落ちてきそうな天井をじっと見ていると、まるで世界の暗黒の最深部に閉じ込められたような、孤独感まで僕を襲い、死んだほうが楽なんじゃないかと、ふっと思うとこんな自分が情けなくなってきて、また更に悲しくなり薬が効いてくるまで涙を流す。まるで悲しみの上に悲しみを塗たくるような毎日、調子の良い日が月に数回あって、行動力や意欲を取り戻す時もありますが、そういった健全な気持ちに中身がないといいますか、どこか漠然としていて、まるで的がないのに矢を射っているようなものですから、すぐに疲弊して狼狽し、虚しさと悲しさがまたやってきて、僕をどうしようもない過食人間にするのです。
 そんな僕に、うつ病という姿の見えない敵と、戦う熱意と情熱を与えてくれたのがシゲちゃんでした。

 うつ病で弱っている僕は雑踏を抜けるだけでも一苦労。普段なんでもないストレスでも、今の僕にはとてつもない負担を掛けます。シゲちゃんとの待ち合わせ場所の”E”というのは某大型家電量販店で、この地方で最も大きな駅の側に在り、老若男女どころか最近は外国からの来日者も沢山おりますので、本当に様々な人種が行き交う駅構内をを通過しただけで、必要以上に神経を使い吐き気がしたの堪らずトイレに駆け込んでから、待ち合わせ場所に行きました。しかしシゲちゃんはまだ来てないようです。彼の姿が見えたのは待ち合わせの時間が2分ほど過ぎた頃でした。
 ただでさえ目立つ赤いシャツを着ているのに、真夏に長袖のシャツを身に付けているから余計に、浮き彫りたって見えます。隣を歩いているサラリーマンは半袖のカッターシャツなのに、暑そうに朝をハンカチで額に吹き出る汗を拭っているのに、シゲちゃんの浅黒い肌の上には汗一粒さえもなく、何故か狼狽した顔でトボトボとこっちに歩いてくるのが見えました。
 シゲちゃんは僕がいることに気づくと、足を動かす速度を上げて、僕の側に歩みより、僕の背中に手を回して抱きついてきたのです。
「どうしたの?シゲちゃん」
「マサト、会いたかった今まで辛くて死ぬかと思った」
「話を聞くから居酒屋に行こう」
「うん」
 近くの居酒屋に行きました。思えば今日、選んだ居酒屋はシゲちゃんと初めて飲んだ店でもあります。まだ早い時間でしたので、お客さんは僕達しかおらず、生ビールと刺身の盛り合わせとサラダと揚げ物を適当に注文しました。
 まず乾杯してから生ビールを喉の奥に流し込み「いったい何があったの?」と事情を尋ねます。
「バイトをクビになった!」
「え!?マジで!」
「まあ、なんと言うか、クビになりそうだったからこっちから辞めてやった」と顔はさっきと変わらず狼狽し、どこか頼りない表情のままでしたが、口調だけは語気を強めて言います。
 尤も、シゲちゃんのバイト先の経営者が酷く理不尽だとも聞いていましたし、他のバイトの方や従業員の人方から話を伺っても、皆さん口を揃えて”経営者は理不尽だ!”と言うので、シゲちゃんの一方的な被害者意識ではないのでしょう。
 シゲちゃんと出会ったのは2年半前の冬、彼のバイト先のバーに初めて行った時で、うつ病の症状が出始める半年前でした。確かその日は仕事が早く終わり、妻子のいない独身で一人で暮らしている身、しかも恋人もおりませんので、たとえ夜、飲みに行って朝に帰宅しても咎める人のいない、ある意味自由な身ですから今夜は朝に帰ってやろうと中身のない、意味不明な決意をして都心部へ遊びに行きました。
 数多、軒を連ねる飲み屋の中からある雑居ビルの三階にあるバーに、まるで吸い寄せられるように入っていきました。そこのバーカウンターの奥にいたのがシゲちゃんだったのです。
 彼と懇意になるのに時間はあまり必要でなかったと覚えており、まずバーカウンターに座っていた先客の方と、お酒を飲みながらしゃべっておりますと、その二人の間に入ってきたのがシゲちゃんで、僕と先客の方とおもしろがってシゲちゃんにビールを飲ませ、三人でかなり遅く閉店時間までバカ騒ぎをしました。ちなみにその先客の方とは縁が深くなかったのか、それ以来顔を合わせる事はなかったのですが、饒舌で話の上手いシゲちゃんに会うために足繁くそのバーに通うようになりました。
 シゲちゃんについているお客さんは僕だけじゃなく、他にも何人もいて店に貢献していたのも事実であり、お調子者で口達者でお客さんを楽しませ、気持ちよくお金を使わせるのが得意な、彼にとってバーカウンターに立つのはある意味、天性の才能と思っております。
 ある夜なんか遅めにシゲちゃんの店に行きますと既に席が埋まっている事がありました。仕方なく退店しようとしますと、シゲちゃんは僕の背中を捕まえて、倉庫からわざわざ椅子を一つ持ってきて、お客さんも席を積めてくれて僕の座るスペースを、作ってくれたのです。
 感激しながら話を聞きますと、シゲちゃんの高校時代の同級生が集まったとの事。僕という全然関係のない異分子を、同窓会のような席に招き入れてくれて、その夜は大いに盛り上がり、二日酔いなど気にしない勢いで、皆でテキーラをショットグラスで一気飲みしたり、店が閉店した後はカラオケに行き、朝まで宴を続けたのです。僕は友達は片手で数えられるくらいしかいないのに、シゲちゃんは大勢の友人に囲まれしかも彼女までいて、退屈を知らないような生活をしているようでした。ある種のカリスマ性と言いますか、人を引き付ける天性の魅力を持っているのでしょう。僕もその魅力に引き寄せられた人間の一人なのです。暖かくなる頃には、プライベートでも二人で飲むようになりました。
 しかし懇意になると色々疑問と言いますか、その煌めくような人間性に綻びが見はじめたのです。
 その疑問をある日、シゲちゃんの店に立ち寄った時に尋ねました。まず、上記のように多大に店に貢献しているのに、何故かシゲちゃんは社員ではなくアルバイトに留まっていて、それをシゲちゃんに聞くと、経営者が理不尽だから社員になると何かと大変だから嫌だとの事、実際、他の従業員の方からも”給料が指定の日通りに支払われない”、”社員は飲み会強制参加”、”よくわからない、遠方で行われるセミナーに無理矢理連れていかれる”等の話は聞いておりました。なら、転職するべきではと腹の内では思いつつ、口には出せません。次に連絡が異様に遅い時がある点で、LINEでやり取りしていましたが、返信が早いときはすぐに返事が来るのですが、遅い時は返信が2、3日遅れるというのは決して珍しくなく、僕はあまり既読無視とか既読が付かないとか、そいう事にあまり物を言いたくない性分ですが、少し気になったので質問しますと、Wi-Fiが繋がっている所じゃないとネットに接続出来ないとの事でWi-Fiスポットが置いてある店なら、返信が早いのです。シゲちゃんは携帯会社と契約が切れたスマートフォンを使っていたのです。なんでも保険証、免許証等の身分証明書を持ってなくて新規契約が出来ないとシゲちゃんは説明しました。
「スマホどころか、病院にも行けないよ!」
 なんてシゲちゃん笑って言います。
 はあ、シゲちゃんにもこんな短所があるんだと思っていますとシゲちゃんは「マサト君の名前で、スマホを作ってくれない?」と言ってきました。頼まれ事を断れない性分の僕は、ほぼ条件反射で「いいよ!」と言って承諾してしまいます。
「マジで!?やった、マサト君はいい人だ!」
 いい人、なんて甘美な響きでしょう。僕が最も欲していたいい人という称号を、シゲちゃんは与えてくれたのです。それに気を良くした僕は、次の週、携帯ショップにシゲちゃんのスマホを選びにいきました。スマホを決めて、書類に自分の名前と住所を書いて、支払い先のシゲちゃんの口座番号を尋ねますと「ああ、俺、銀行口座を持ってないんだよ」と言ったのです。
 流石におかしいと思いました。よくよく考えれば知り合って半年も経っていないし、バーテンダーを名乗っていますが、20代半ばにして学生でもなくただのフリーターです。印鑑を押すのを躊躇いました。本当に契約を結んでいいのかと、しかし折角、いい人の称号を手に入れたのに嫌な人と言われるのは、なんとしても回避したかったのです。僕は自分の口座番号を書いて印鑑を押し、二台になったスマホを手にいれると、すぐにシゲちゃんに渡しました。
「ありがとうマサト君、よし今度、お礼に旅行に連れていってあげるよ。なんなら女の子も2、3人連れてくるから。お金は大丈夫、全部俺が払うって、本気だせば月に40万は稼げるからさ!」
 結局シゲちゃんは本気を出しませんでした。
 それから3か月後に体調と情緒がおかしくなり、さらに3か月後、心療内科でうつ病と診断されたのです。

 セロトニンの欠乏、僕の脳内で起きている現象です。簡単に説明しますとセロトニンという脳内物質は精神を安定させる効果があるのですが。それが異常を起こして大変少なくなっているのが僕の頭の中の状態でして、心のバランスが取れない。これが所謂うつ病という病気です。たしかに抗うつ剤は効果がありますが、頭がぼんやりとして余計に気持ち悪くなる時があります。
 しかしアルコールは違います。なによりも即効性がありすぐに楽になれるのです。中途半端に脳が機能障害を起こしているのなら、いっそのこと、アルコールで思いっきり脳を麻痺させてやれば、昨日の後悔、今日の虚しさ、明日の不安を全て忘れることが出来て、例え心から笑えなくても、表面上はテンションが高くなれるのです。
 しかしその気楽さは一時的なもので、結局根本的な解決にはならず、ただ無理矢理お酒の力で、感覚を遮断しているだけです。
 喉を焼いて、肝臓を酷使させて心だけでなく身体まで腐らせるより、薬を服用して医者の言うことを大人しく聞いていた方が遥かに健全なのです。しかしこの身体中の隅から隅まで渦巻いている”どうしようもなさ”を簡単に払拭するのは、やっぱりアルコールが簡単なのです。
ドロドロになるまで酔っ払えば、嫌でも眠れます。決して身体に良いとは言えないけれど、法を犯しているわけではないし、酒乱の気もありませんから、他人を罵倒したり殴り付けたりしませんから、僕を咎める道理はないのです。
 シゲちゃんも僕と同じなのでしょう。友人に囲まれ恋人もいるシゲちゃん。しかし彼もまた僕と同じような暗い影を、その背中に宿していたのです。類は友を呼ぶという言葉があるように、お互い闇の深い者同士が引き寄せあったのでしょう。
 以前から知っていました。やはり残してしまった痕は消えません。シゲちゃんも酔って油断したのか、長袖の下に隠していた、その浅黒い肌の腕に刻まれた白い数本の筋、そう自傷の痕を覗かせていたのです。それに気づかずシゲちゃんは、生ビールを飲みながら笑っております。
 シゲちゃんもその饒舌で雄弁の裏で悲しみ苦しんでいたのです。僕達二人は傷口を舐め合っている惨めな犬なのでしょう。
「この前、キャバクラで飲んでてさ。帰りのタクシーで落としちゃったみたいなんだよね。スマホは使えないようにしておいたから、悪用される事はないから安心して!いやね、俺の友達が200万円手に入れてさ!その、お金で毎晩、飲んでいたんだよ。むこうがキャバクラ行こうって誘ってくるからさ、俺もキャバクラは嫌いじゃないし、友達の誘いは断れないからね!色々な店に行ったね。1週間くらい経ったらいう訳さ、この金で店でもやろうって言ってきたから、聞いたんだよ!あといくら残ってるのって、そうしたら50万っていうのさ、それだけのはした金でなにが出来るのさって!」
 アルコールが回ってきたのか、シゲちゃんはペラペラと話します。
「そのお金はどこから出たの?宝くじでも当てたの?」
「いや、違うんだよ。ちょっと危ないお金みたいなんだよ。大きな声でいないけど」
 色々言いたいことはあります。そもそも連日キャバクラで遊んだ挙げ句、僕の名義で契約したスマホを紛失して、思い返せば同情を誘うような狼狽した態度は見せつつも謝罪の言葉は今だ聞いていません。それに怪しいお金なた使わないように、諭してやるのが本当の友達なんじゃないでしょうか、しかし”いい人”の称号が惜しい僕はだんだん温くなってきた美味しくない生ビールを飲んでから「そうだったの」なんてどうでもいい事を言ってこの場を取り繕います。正論を言えない自分が段々嫌になってきてビールを2リットル以上飲んだのに、全然酔う事が出来ません。
「この後、そいつが働いている居酒屋に行こう。すぐそこだから」
 シゲちゃんの提案に同意して、また暫く飲んでいますと「やっぱりキャバクラに行こう!」と自分から言い出した提案を変えてきました。
「え、友達のところは?」
「いやさ、あいつ音信不通なんだよね」
 2転、3転するシゲちゃんの話に、訳がわからなくなりました。それに犯罪の臭いを感じずにはいられません。
「もしかしたら、行きつけの店に何処にいったか手がかりがあるかもしれないからさ」
 なんて言いますが、キャバクラで遊びたいだけという魂胆は見えております。しかし一週間連続でキャバクラに通って150万円も使って、まだ遊び足りないのでしょうか、でも僕はキャバクラというジャンルの店があまり好きではないのです。性に合わないと言いますか、決して偏見でキーボードを打っているのではなく、以前、会社の先輩に連れていかれた時の、素直な感想を言っているのです。キャバクラで遊ぶ事についてここで何か書く気はないのです。ただ言える事は良いと思うか悪いと思うか個人の自由です。僕はたまたま後者の人間だっただけですから。
 シゲちゃんは現在無職なので財布の中で冷たい風が吹いているのは、中身を見なくてもわかります。故に今日の飲みは僕が支払う訳で、僕が首を縦に振らないとシゲちゃんはキャバクラにいけなませんから、益々舌の回りが良くというか、必死になってきました。
「マサト君は女の子と話すのが苦手みたいだからさ、いい経験になると思うんだよ!確かに慣れない事だから、最初は怖いかもしれない、辛いかもしれない。それは俺もよくわかる!けどね人間、痛いところを通らないと成長できないんだよ!なあ、いいだろうもし気に入った子がいたら、デートの話を取り付けてあげよう。絶対楽しいって!」
 絶対楽しめないのは僕の性質上よくわかっておりますので、首を横に振りました。
「じゃあ、ガールズバーに行こう!そこもそいつ(200万円の友達)とよく行ったんだよ!もしかしたら手掛かりがあるかもしれない。俺はあいつの事が心配なんだ!友達だからね!それにキャバクラよりも安いし、お酒を飲ませる必要もない!女の子の質は若干、落ちるけど地味で大人しい子が多いよ。大学生のアルバイトが多いね!お高く止まっていないというか、何回か通えばデートにも誘えるんじゃないかな!?なあ、行きたくなっただろう!女の子を誘う練習だと思えば、かなり安いと思うよ。緊張してるの?大丈夫、俺がリードするから、」
 別にあまり期待はしていません。それにやたらと女の子と口説く練習のような事を、強調してきますが、うつ病で辛いから大人しくしているだけで、気になる女の子に声を掛けれないほど弱くありません。
「なあ、ガールズバーくらい良いだろう!」
 よっぽど女の子がいる店で飲みたいようです。彼女がいいるんだからその子を呼んで、お酌してもらえば良いじゃないか、と思いましたが、僕はいい人なので喉よりこっちに出しません。
 結局、ガールズバーは承諾して、店を引き上げてタクシーに乗ってガールズバーに向かいます。その途中、タクシーの中で「やっぱりヘルスに行かないか?」と言ってきましたが拒否しました。

 目的の店がまだ開店一時間前だったので近くの、雑居ビルの地下にある適当な居酒屋に入りました。多くの飲食店がひしめき合い、お互いがお互いを潰し合っているような地区でして、同じような建物と似たような店は何軒もありまして、もう一度、同じ店に行けと言われても目的を達成する自信はありません。
 店内な簡単な仕切りでテーブルを囲った、漫画喫茶のような個室になっており、人目を気にせず仲間内で宴を楽しめる造りになっていますが、頭より上の天井付近は筒抜けになっていますので、基本会話は筒抜けで実際、隣から若い女性数名の話し声は聞こえてきます。
 料理の内容もクオリティーは決して高くなかったように記憶しております。特にカプレーゼなんか、モッツァレラチーズを使わずクリームチーズをトマトの輪切りに挟んで皿にのせたような代物でして、シゲちゃんはそのカプレーゼ擬きを一口食べて、怪訝な顔をしながら「不味い!」と言い、僕もそのカプレーゼの美味しくないのは強く印象に残っております。
 仕切りの向こう側の顔も知らない女性客の話し声が段々大きくなってきました。いい感じにお酒が回り、盛り上がってきたのでしょうが、話の内容は客がどうの、だとか書き記すのを躊躇うような卑猥なものでして、聞き耳を立てていた、僕もシゲちゃんもすぐに風俗嬢だと察しがつき、シゲちゃんはニヤリと笑って「話しかけてこようか」と言いましたが、僕自身、恥ずかしい話なのですが風俗関係の女性と関わって痛い思いをしたことがあるのです。
 僕はうつ病が発覚する前ですけど恋をしていました。シゲちゃんの同僚の女の子です。実はシゲちゃんの店に通っていたのは、シゲちゃんと話す事も目的でしたが、その子、まあ仮に恵子としておきましょうか。外見は細身で髪に特別手を加えているわけでもない黒髪で、肩の所で切り揃えられたショートカットでした。良く言えば清楚で地味な女の子と言いますか、僕はそういったいささか古風な女性がタイプでして、尚且つ漫画や文学の趣味が奇妙なほど良く一致し、とても話が弾み僕はすぐに恋に落ちました。まだうつ病を発症しておらず元気も気力もありましたから、思いきって連絡先を聞くと、すんなりと教えてくれて、調子に乗って食事に誘いますと、これもあっさり受け入れてくれて、まさに心が天に昇るような思いでした。
 それから日付と店を決めて、心待にしていた当日”違う会社の面接が入ったから今日は無理です”と連絡がありました。心のなかで枝のような物が折れるような、派手で鋭利な音が聞こえました。それでも諦めきれない僕は、違う日に約束を取り付けましたがやはり直前で断りの連絡が入り、明らかに恵子は僕に気が無いのは今思うと明白なのですが、まさに恋は盲目の状態ですので、断れれば断られる程、彼女への思いは膨張していき四六時中、恵子の事を考えて、心の中をガン細胞のような恋心が占拠して、耐えられなくなった僕は堪らずシゲちゃんにすがる思いで電話で相談すると「よしわかった。俺に任せろ、マサト君には恩義があるから、取り合えず3人で飲む機会を作る!」と勇ましく言ってくれて、恋心に苛まれた僕にとって、まさに地獄に仏をみたような心持ちでしたが、暫くすると、ついにプライベートで飲みに行こうとシゲちゃんに誘われ、そこには恵子がいるもんだと期待しながら、待ち合わせ場所に向かいますとシゲちゃんしかいませんでした。店に入りまず最初に恵子の話をしますと、急に困った顔をして「あの子ねえ、やめた方がいいよ」なんて、先日の話とはまったく真逆の事をいうのです。
「実は俺、あの子から告白された事があるんだよ。でも俺、恵子は妹みたいにしか見えないからさ断ったら、付き合ってくれないと死んでやる!って喚き散らして大変だったんだ。病んでるっていうか、メンヘラだよ。マサト君とは釣り合わない!」
 どうして二人は最初期待させるような素振りを見せて、あとから突き落とすような仕打ちをするのでしょうか。駄目なら最初から駄目って言ってくれた方が遥かに誠意があります。誰だって傷つくなら浅い内に治した方がいいはずです。第一なんでスマホの契約が出来ない。銀行口座も、保険証も、車も、そもそも免許証も、ちゃんとした職にもついておらず、お酒ばかり飲んで、肌の血色は悪く、女遊びばかり、挙げ句のはてに自傷の痕がある男がもてて、ちゃんとした会社に勤めて、安定した収入もあり、お酒は飲むが嗜む程度、女遊びも博打もしない、ましてや借金もなく、貯金もあり、各種身分証明書も揃っている僕がはじかれるのか、もしかして僕には魅力というレベルではなく、DNAになにか欠損がありそれを敏感に感じ取った女性が、僕の子種を欲しがらないのではという、訳のわからない結論に至り、それからです。うつ病の症状が出たのはまず最初に不眠症が出たのです。
 男として、いいえ、最早、人として気力を失っていそんなある日、それはちょうど春先で、まだまだ寒い時分、たまたま調子のいい日に、気晴らしに一人で外に出た時、いつもと違うバーに入りました。バーテンダーが全員、饒舌という事はなく寡黙なマスターを前にして、一人でチビチビとスコッチで唇を濡らしておりますと、彼女が2か3席僕から空けてを座ったのです。
 長い髪は金色に染まりカールが掛かり、白いコートにデニムのスカートにストッキング、耳たぶはピアスが飾られております。まあ、所謂ギャルと言いますか、恵子とは真逆の人間というのは一目で判断でき、恵子と比べるあたり、まだ恵子の事を諦め切れていなかったのでしょう。
「ねえ、仕事疲れたよ。ご飯食べたい。あ、やっぱり、お酒。カンパリオレンジ頂戴、マスターも今度、家の店に来てよ。サービスしてあげる」
「僕には奥さんと子供がりるからね。家庭を崩壊させる訳にはいかない」
「ええ、いいじゃん!」
 マスターの顔が綻んび仲良さげに世間話をしている所をみると、彼女はこの店の常連という事が伺えます。そんな二人のやり取りを流し目しつつ、別世界の出来事のように思えて、黙ってスコッチを飲んでおりますと、彼女の方から「お兄さんも一緒に飲もうよ」と声を掛けてきたのです。
 その女性、名前は菜奈と言い、素朴な女性を好む僕にとって菜奈はタイプではなかったですが、女性の方から声をかけられたのも初めてで、悪い気はせず拒む理由もないので、空いている席を詰めて隣に座り二人で杯を交わしておりますと、閉店の時間となり、一緒に店を出ました。
「ラーメンが食べたい」と言ういうので、近くのラーメン屋に入り、最初に生ビールで二回目の乾杯し、ラーメン二杯と餃子と唐揚げを一人前づつ頼み、食事をしておりますと、菜奈は素性を話始めたのです。
 年齢は24歳で恋人はおらず、昼は事務、夜は風俗店で働いていると言いました。
 風俗店で働いている事に驚き「本当に!?」と聞きますと、菜奈はスマホで働いている店のサイトの自分のプロフィールを見せてくれました。源氏名は”ユユ”と言い、年齢も19歳になっていました。写真の方が実物より綺麗に写っていましたが、目の前にいる菜奈も僕は十分、魅力的に見えました。
「マサト君は一体何人の女を泣かせてきたの?」
「いいや、いつも僕が泣かされてばかりだよ」
「本当に!?実は私のタイプなの、カラオケだとEXILEとか歌う?」
「流行りの流行りの歌とはあまり知らないんだ」
 僕はいつもカラオケで初音ミクを歌いますが、なんとなく恥ずかしかったし、菜奈は知らなさそうなので伏せておきました。
 その時、菜奈は男らしいとか、イケメンとかやたらと僕を誉めてきたのです。まさにカラカラに乾いた砂漠に雨が降り潤っていくような思いでした。ラーメン屋を出た後はラブホテルに泊まり、勿論”行為”に及び、お互い裸になりベッドに寄り添うように横になりました。
 ヘソにもピアスがぶら下がって、キスをした時に舌にもピアスがあることに気がつきました。下腹部には蝶のタトゥーが刻まれ、食欲旺盛のわりには柔肌にはアバラ骨が浮き出ており、脂肪分が少なくスレンダーというより、栄養が行き届いていないようにも見えました。
 そう、彼女もまた僕と同じような悲しみを抱えていたのです。やはり類は友を呼ぶ、同じ影がお互いを、その奇妙な引力で寄せ付け合うのでしょう。
 男に騙され借金を背負わされ、更にはその男の子を身ごもり堕胎し、その費用と借金を返済するため、風俗店で働く事を余儀なくされた事。そしてそのショックで過食反応と拒食反応を繰り返している事。時々、言い知れぬ不安に襲われ死にたくなり、心療内科とカウンセリングに通っている事。そう菜奈は僕と同じだったのです。
 僕はたった一回、この夜に出会った女性を救ってやらなければという、強い義務感が沸々わき出てきて優しく菜奈を抱き締めると、彼女はそれに答えてくれて僕の背中に手を回し、強く僕を抱き寄せて来て、もう一回”行為”をして眠りました。その晩は久しぶりに薬を服用しなくてもぐっすり眠れ、うつ病が治ったような気もしたのです。
 少なくても僕は菜奈を幸せにしようと本気で考えていました。しかしお互いが病み、陰と陰が寄り添った所で、余計に影が濃くなるだけです。実際、この新たな恋も続かなかったのです。
 菜奈は大変な浪費家だったのです。出会って暫くすると誕生日だったので、勿論、誕生日プレゼントをあげる事になりましたが、菜奈の事はあまり把握しておらず、趣味もわかりませんから二人で街に行き好きな物を買ってあげる事になり、要求された物がショッキングピンクのバッグとそれに付ける猫の飾り、合計30万円。更に親指くらいはあるであろう真珠を惜しげもなく使った、ネックレス5万円。計35万円の支払いをカード分割でなんとか支払い、大変覚悟のいる買い物だったのですが「こんな我が儘言うのは誕生日だけ」と言い、デートの度にプレゼントした品々を身に付けてくる菜奈を見るだけでも、清水の舞台から飛び降りる思いをしただけの価値はあると感じましたが、大変なのはこれからでした。
 借金返済に当てるお金がどうしても足りないからと言う菜奈に現金20万円を渡し、それでも足りないというので天井まで貯まった500円貯金、約10万円を紙幣にして渡し、それでもまだお金が足りないと言う上に、元気を出すためと、高級料理店に連れていって欲しいとせがまれ、我が儘は誕生日だけという言葉に関係なく、デートの度に高い衣類を要求され買い与えました。
 菜奈の為、二人の幸せの為と己に言い聞かせ、要求に全部答えていたら、付き合った3ヶ月で汗水垂らし、うつ病になってまでも働いてきた貯金は、あっと言う間に無くなりました。
 サービス業の身としてGWはがっつり仕事だったので、繁忙期が終わってからデートに行こうという約束をしておりましたし、来月支払われるボーナスも菜奈の借金返済の為に使ってあげると、言っていたのに「今度はいくらくれるの?」と電話の向こうで、さも僕がお金を渡すのが親が我が子に、食事を与えるのと同じくらい、当たり前の事のように言ってきたのです。
 はたして僕は菜奈と援助交際をしているでしょうか、僕にそんなつもりはありません。ただ菜奈と楽しく過ごしたいだけなのに、好きな女性とのデートが楽しみな筈なのに、どこか気分は重たくて「今月は難しい」と言いました。実際、彼女にお金を渡す事はすでに難しい状況にあったのです。
「ふうん、じゃあ、マサト君とは会えない。私、仕事いくね!」
「僕も病気だし、君の気持ちはよくわかる。辛いかもしれないけど一緒に頑張ろう」と言いました。因みに菜奈には僕の心の病気の事は伝えてあります。
「辛い、苦しい、病気のせいにして本当は甲斐性がないだけでしょう。男らしくない!なんて女々しいの!もう会いたくない!」
 ああ、僕のしていた事はなんだったんでしょうか、僕は何の為、誰の為に苦心して、うつ病になるほど働いて作ったお金を散財してまで、高いブランドの衣類を買い、お金を渡した。その結果、甲斐性がない、女々しいと言われ、受話器の向こうから菜奈のすすり泣く声が聞こえてきます。
 菜奈の不幸、騙されて作った借金、堕胎、過食と拒食、不安と絶望、今まで信じてきたけど、もはや僕の同情を誘うための詭弁だったんじゃいかとう疑いの念、否、それすらも通り越しもはや菜奈の事なんてどうでもよくなって「じゃあ、別れよう。さよなら」とだけ告げて電話を切ったとき、僕は背負っていた重荷を下ろした、妙な安堵感を覚えたのです。
 しかしその一ヶ月ご菜奈からLINEが送られてきました。ブロックすれば良かったのですが、LINEの機能を理解していなく、ただ菜奈の登録を抹消していただけなので、連絡は入ります。
”久しぶり、元気してる?”
 僕は返信せずにいると、
”マサト君、うつがつらそうだったか、あえて私の方から離れてみたの、どう調子は良くなった?” 
 多額のお金を使わせておいて、たった一回、財布の紐を固く縛っただけで甲斐性なしだの、女々しいだの言っておいて、実はあなたの為の行動なのと言っておりますが、今月支払われたボーナスを狙っていると、何となくそんな気もしていましたし、暴言を吐いておいて謝るという事を知らない人を信用する気にもなれません。
”こっちはうつに2年も苦しめられてるんだから、簡単には治らない”
”なら海や山に行って元気だそう、お祭りにも行きたい。浴衣とか着て”
 どうせその水着や浴衣も僕に払わせる気なんでしょう。しかもお高い品を、そう腹の中で考えている、自分がいて、女の子に誘われて嬉しくないのは初めてでした。
”お金は?”
”厳しいよ。やっぱりマサト君に助けて欲しいな”
 お金をちらつかせると簡単に尻尾をみせる辺り甘いようです。それ以来、連絡は送っておりません。そういえば 僕は菜奈に「愛している」と言っても彼女は「私も」と言うだけで、ちゃんとしっかり、I love youに準じるような言葉は一切、菜奈の口から聞いておりません。菜奈は僕ではなく、僕の財布に恋をしていたのでしょう。でも初めて会った日、何故彼女から話しかけてきたのか、僕が思うに、そこに純粋で甘い思いはなく、ただ弱って寄生しやすかっただけなのでしょう。
 その一連の話をシゲちゃんにしたら、ヘラヘラ笑って「変な奴に騙されるなよ」と言うだけでした。


 
 先程のの居酒屋がある雑居ビルとこれまたよく似た建物の、今度は2階に上がってシゲちゃんが推奨するガールズバーに入りますが、出迎えたのは若い女の子ではなくどう見ても50歳は過ぎている年配の女性でした。髪はサラリと長く、細身の身体に紺色のタイトなスーツはよく似合っていて、営業スマイルでしたが満面の笑みで、僕たちを気持ちよく迎えてくれます。
「シゲちゃんいらっしゃい、今日、女の子が少ないけどいい?」
 おそらく経営者なのでしょう。
「いいよ!」
 シゲちゃんに続いて店に入りますと、まあよくある薄暗いラウンジでテーブル席では3人1組のサラリーマンの方々が、日頃のうっぷんを晴らすかのように騒いでいて、お客さんは少ないですが、バーカウンターの向こうに若い女の子が一人と、先程の年配の女性がいるだけでした。
 僕たちはその若い女の子のいる前、言わばこの店の特等席であるカウンター席に座りますと、その子ははにかんだ笑顔を見せるのです。
 僕達はそれぞれ生ビールを頼み、シゲちゃんはいつものお調子者っぷりを発揮して、女の子に話かけますが「はい」「そうですね」「そうなんですか」と答えるだけで、取りつく島をあたえず、注文されてた酒をただマニュアル通りにグラスに注いでいるだけでした。
 シゲちゃんは女の子から視線を僕に移し、先日、彼女以外2人の女の子、合計3人で某テーマパーク遊びにいった事を話したのです。
「二人ともびびちゃってさ!俺の腕を両方からぎゅって引っ張って来るのさ!おっぱいなんか当たっちゃって、両手に花ってまさにこの事だね!あんまり怖がるから、あのお化けさんもこんな暗いところでバイトなんて大変だね、なんて言ったら怯えながら笑ってるんだよ!泊ったのは安いホテルだったけど、片方の子が俺の部屋に来てさ。お!イケルかな!?と思ってたらやっぱりイケタね!」
 シゲちゃんはスマホを作った際、旅行に連れていってあげると約束しました。女の子を紹介するとも言いました。
 毎月ちゃんと使用料は払うと約束しましたが最初の3ヶ月ぶんしか返してもらってません。それなのに某テーマパーク、しかも泊まりで行けるお金はあるようです。
 しかも僕のスマホを紛失して、理由が連日キャバクラで酔っぱらったから。辛い、大変と訴えてきますが謝罪の言葉は一切ありません。
 何故、子供の頃か教えられてきた筈の、謝るという事をしないのでしょうか。シゲちゃんも菜奈も、謝罪をしないというのはこの二人の共通点のようです。
「ねえ、シゲちゃん」
「なに?」
「女の子紹介してよ」
 お金も要りません。旅行も別に行きたくありません。女の子を紹介してくれなくてもよかったのです。ただ、シゲちゃんの誠意が見たかったのです。
 今日、二人で飲んで話してみて、正直、新しいシゲちゃんの新しいスマホを作ろうかどうかというのは、迷っているのです。なんだかシゲちゃんからずっと良くない雰囲気というか、あまつさえ犯罪の臭いさえも漂ってきて、このまま付き合っていたら、自分が駄目なるんじゃないかそういう思いを、折角何かの縁で仲良くなった友達ですから払拭したいのです。か細くてもいいからシゲちゃんの誠意を僕は見たかったのです。そうでなと今夜の交わした杯は無意味な物になってしまうじゃないですか。
「ごめん、マサト君、本当は紹介できる女の子なんていないんだ」
 急に遠いところを見るシゲちゃんは悲しそうな顔をして「みんな、東日本大震災で死んじゃったんだ」
 今夜のこの席の意味をぶち壊した一言でした。
 うつ病と酔でバカになっている僕の頭でも、シゲちゃんの嘘はわかります。理由は具体的な地名は言えませんが、ただ単に被災地から物理的にかなり距離が開いて、僕たちが住んでいる地域で被災された方の話は聞いていないし、シゲちゃんが被災地の方にいたという話も聞いてません。生まれも育ちもこの街なのです。
 僕はこの作品に嘘は書いていません、体験した事、感じた事は全て素直に記述している事を、改めて宣言させていただくとともに、この地震の話、書くのを止めようか迷った事も同時に記載させていただきます。なにせ震災という大きな問題ですし、今だその傷は癒えておらず、僕のような半端な人間が扱っていいような事ではないと、十分理解していますが、僕は事実をありのまま、見聞きした事を書きたいのです。
 嘘つきは大災害さえも嘘の出汁に使うのです。
「マサト君、俺だって辛いんだ!友達皆死んじゃってさ」
 さっきまで話していた某テーマパークに行った女の子達は幽霊だと言うのですか。
「医者は薬をだすだけで、カウンセラーは話を聞くだけで何もしてはくれない。テレビを点ければ殺人事件に政治家の汚職、世の中は嫌な事ばかり、俺が辛いのはね世の中が間違っているからなんだ。だから俺はキャバクラに行くんだ!じゃないとテンションが上がらない!だからキャバクラに行こう!きっとマサト君の気も晴れる!」
 僕は首を横に振りました。やっぱり僕はキャバクラでお酒を飲むより、心療内科が処方してれる薬の方が、どんなに頭がぼーとして、虚脱感に苛まれても遥かに健全に思われます。
「嫌な世の中で、本当に生きづらい」
 自傷の痕を覗かせながら、生ビールを煽るシゲちゃんは言いました。
 僕、シゲちゃん、菜奈はきっと溺れているのです。シゲちゃんは酒と女に、菜奈はお金と物に、なら僕はきっと愛と人に溺れていたのです。
 NOと断れず言われるがまま、今日まで流されてきたのはきっと自尊心を大切にしてこなかったからじゃないでしょうか。本来自尊心がはいるべき心の核に虚栄心を詰め込んで、承認欲求が膨れ上がっていったのです。
 見下し利用していたのは、シゲちゃんや菜奈の方じゃなくて、僕だったのかもしれません。彼らを甲斐甲斐しく世話をして自分に依存させて、人の為という大義名分の裏には、承認欲求を満足させたいだけだったのです。
 なんという偽りの優しさ、なんて悲しい愛。生きる姿勢を間違えているから、うつ病なんていう病気になるのです。人のせい、世の中のせいにしていてもずっと死ぬまで苦しむだけです。その甘えを捨て、自己の行動に責任を持てなければ、幸せを噛み締める資格は与えられないのでしょう。働かずして収入が得られないのと同じように。

 生ビールをそれぞれ4杯づつ飲み、僕とシゲちゃんは店のオーナーに見送られ店を出ました。終始笑顔で、オーナーの丁寧な接客が今日の唯一の救いでした。余談ですが例の200万円の友達の情報がオーナーから入ります。シゲちゃんが彼の事をオーナーに尋ねると「一昨日かな。店にふらっと来た時ね。シゲちゃんと一緒じゃないから。一人で珍しいわね、どうしたの?って聞いたら。今から最終の新幹線でまる○○市に行くって言ってたわ」
「○○市かあ」
 シゲちゃんは困った顔をして言いました。
「あいつ、連絡取れなくなっちゃってさ、仕事場にもいないみたいだし、どうしたのかな」
 どうしたもこうしたも、シゲちゃんも一緒になって浪費していた、例の200万円が原因だと思います。
「本当に!?それは心配ね」
 オーナーは大きな皺をわざと顔に作って、本当に心配そうな顔をするのでした。
「あと、紹介するね。この人はマサト君。本当に”いい人”なんだ。今度、店に来たら良くしてやってちょうだい」
「よろくしく、お願いします」と言って、オーナーはまたあの、気持ちのいい営業スマイルを作って、握手を求めてきたので握り返しました。暫く話した後、オーナーに別れを告げてから、タクシーに乗るまで何人かのキャッチのお兄さんに声を掛けられ、フラフラとついて行きそうなシゲちゃんを引っ張って、タクシーに避難するように乗り込み、駅の近くに送ってもらいました。
 僕はシゲちゃんに会うことはないでしょう。そうやって決心したからです。そして同時に復讐してやろうと決意しました。
 その方法は、病気を治し、真っ当にそして健全で健康に生きて、シゲちゃんと菜奈よりも幸せになる事でした。お金はまあ、人生の授業料として払ったつもりでいますから、請求しません。酔っぱらってテンションの高いシゲちゃんは、タクシーに揺られながら何か喋っていましたが、もうこれ以上記憶にありません。

悲しい愛

悲しい愛

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-07

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