僕が生きて行こうと思った訳は
そいつは葛餅が好きで、人懐こくて、可愛くて。
不条理な空の下、僕が生きて行こうと思った訳。
出だしは、好調だったと思うんだ。
田舎を飛び出して、都会の空の下、1LDKの部屋を借りて、格安のそこに居ついて、仕事も選ばず日雇いの体力勝負ばかりで、金は手に入る。
根性だけはあるから、アホな奴のメンチ切りも無視して、体躯を駆使しての実力勝負の世界で、僕は、そこそこイケていた。
日払い1万の仕事を週5日入って、後はネットゲームに興じたり、山に行ってただ歩いたり。
コーナンで買ったオレンジのレインコートも、それなりに気に入ってて、すれ違った女の子に「かっこいいよね」とか言われたりして。
でも、鬱っていうのは周期的に来て。
彼女もいないし、作る気もない。僕は精神疾患者だ。
月に一度通う病院で、「相変わらず、意志は変わりませんか」と先生に聞かれて、僕は「はい」と答えた。
僕は、30になったら、命を断とうと思っている。
それが発覚したのは、小学生の頃の作文からだった。
卒業式の日に読んだそれに、周りはざわざわして、母は泣いて、僕を力いっぱい打った。
先生が止めるまで、打ち続けた。
僕は「母さんは気に入らないことがあるといつも僕を叩きます」と作文を最後まで読み終え、白い目で見られる中、席に着いたのだ。
それから、病院に入ることになり、中学高校と母との仲はこじれたまま、たまに来る父にも冷たい対応をし続け、とうとう僕は見限られた。
「死にたがり」と言って僕を殴ったやつを、僕は当然のようにコンパスでめった刺しにして。
僕は札付きの悪だった。
僕は「それだけはしてはいけない」と先生と約束し、以来暴力だけは振るわない。自分がされたら嫌だからだ。
僕は、社会的にそれをしても許されるということを周囲に認めさせ、敬遠されて生きてきた。
だから仕事も必然、こういった内容になる。
家屋を壊し、機械的に運ぶ。
大量の木材を運んでいる最中、お爺さんが来て、その作業を見ていた。
その日の仕事は機械を運転するおじさんと僕一人で、僕は黙々と作業する中、見学する爺さんに注意も払わず、ただ、犬がいるな、と思った。
秋田犬の笑顔は、最高に可愛いと思う。
爺さんは僕らに昼飯を用意してくれ、冷えた麦茶をくれた。
「あんちゃん、あんちゃん」
爺さんが僕を呼び、僕は「?」と足を止めた。
「あんちゃんの噂、知っとるよ」
何を言うんだろう。
僕は、へらっと笑った。爺さんは、にこにこして僕を見て、「儂、もうすぐ死ぬんよ、癌で。後一か月。こいつのこと、頼みたいんじゃけど」本当に何を言うのだろう。
そして爺さんは「どうだろう、儂の家やる、財産も全部やるから、こいつと暮らしてくれんか」と言った。
機械を運転していたおじさんが「オレオレ、俺やりますよ!」と来たが、手で制して「ちょっと、興味あります」と言った。
爺さんは、話を聞くと、人を殺したことがあるらしい。
ひえーと逃げるおじさんをほっといて、僕は爺さんの話を聞いた。
「儂、妹がおったんじゃけど、妹な、目が見えんくて、ガキに階段から突き落とされたんよ、それで死んでしもうた。儂、どうしても許せんで、子殺し、してしもうた。だから、こいつ以外知り合いももうおらんのに、儂、死ぬんよ。だから、兄ちゃんになら、頼めるかと思ってな」
なるほど、と僕は、さっきから僕ににこにこ笑いかける秋田犬を見た。
「こいつ、ケン、言うんよ」
「まんまっすね」
僕と爺さんは、そうして契約した。
その後は爺さんの家で寝起きし、爺さんの作る朝ごはんを食べて出勤し、金を稼いで帰ってくるという生活を送った。
僕はその時、なぜか忘れていた。自分が30になったら死ぬということ。そして今は29だということ。誕生日はもうすぐそこだということ。
僕は気づき、カレンダーの丸の前で、むーっと唸り、ケンが散歩行こうとリードを咥えてきたのを見て、ま、いっかとその場を後にした。
一か月後、爺さんは順調に死んだ。
布団の中で、声も出さずに、眠るように。
最後の瞬間、「かは」という息の漏れる音を聞いた気がしたが、僕はそれもありか、と思い見に行かなかった。爺さんとは常々そういう約束をしていた。
さて、これから葬式だ。
ケンが爺さんの枕元を、一生懸命掘っている。
「そんなとこ、何もないよ」
そう言って引っ張っても止めない。
あ、こいつ悲しんでんだ、そう気づくとぞわっとして、僕は離れた。僕にそんな感情は一切なかった。ただ終わるべきものが終わったという感想のみ。
木魚の音が響く中、ケンは一生懸命僕の手から逃れようとし、爺さんが霊柩車で運ばれていくときは、「アオウ、ガフウ」と間抜けな雄叫びを上げた。
さてこうして、ケンと僕との奇妙な共同生活が始まった。
僕は死ぬわけにもいかなくなったので、とりあえずしようと思ったのは、母に謝るということだった。
電話して、「生きることになった、ごめん」と言うと、ギャーギャーと喚かれ、チンと黒電話を置いて、ぼーっとして庭先の梅の花を見た。モンキチョウが飛んでいる。
ケンはふんふん鳴きながら、爺さんを探している。
ぐーっと腹が鳴り、「とりあえず、ご飯」と焼きそばを買いに出かけた。
ケンを連れて、ガラガラと引き戸を開けると、着物を着た婆さんがしゃがみこんでいて、「どうかされましたか」と聞くと、「いやね、鼻緒が」と足元を押さえている。
そういうの、爺さんの部屋で見たな。
待っててください、と言って爺さんの遺産その一を開け、綺麗な草履を取り出して、「よかったら、これどうぞ、使う人もういないんで」と差し出すと、爺さんが後ろで「儂の妹の草履、何するんじゃー」と怒った気がした。
老婦人は喜んで、「ありがとう、ぴったりだわ」と言い、「あなた、お名前なんて言うの」と言うので、「林家恵三と言います」と言うと、あら、さんぺーです、ともう古いネタを言う寒いご婦人。
うふふ、と笑ったら、あははっと返って来た。うふふあははと笑い続ける。ケンが首を傾げた。
「これから、どちらまで」
着いて来るので、「いえ、焼きそばをちょっと」と言うと、「あら美味しそう」と言って、屋台に着くと一緒に買ったので、そのまま公園に入って一緒に座り、食べた。
「よかったら、こんなのあるけど」
そう言って、豪勢な弁当を差し出してくるので「頂きます」と合掌してむしゃむしゃと食べた。ケンにも卵焼きをやる。
「なんでこんなの持ってるんですか」
そう聞くと、「気に入らない人たちと、気の進まないお茶会に行くところだったのよ」と悪びれずに言う。
何が何だか気に入ったぞ、この人。
そう思いながら、お茶をグーッと飲み、ぷはっと息を着いた。公園の中、白梅と紅梅が交り咲く。
「なんか困ったことあったら、俺に行ってくださいね」
僕はそう言って、力だけはあるんで、と言い、その日は別れた。
彼女は梅子さんと言うらしい。またまんまだ。
「お前みたいな人多いね」
ケンに向かってそういうと、くうんとケンは目を潤ませた。
またある日のこと。
ぴんぽんとチャイムが鳴るので、出てみると梅子さんと真面目そうな、つまりは清楚な女性がいた。
年の頃32歳。
僕はなんだかめんどくさそうだ、と思い、どうぞ、と言うと「いえいえ、近くに来ただけだから」と言って「こちら、孫の小梅ちゃん。この子車持ってるから、これから乗せてもらうといいわ」と言い、本当にそれだけで帰って行った。
やはりなかなか、気に入った。
僕は小梅さんの名刺を見ながら、ホームページ制作事務所、儲けているんだろうかと思いながらそれを眺めた。ケンが小梅さんの匂いをふんふんと嗅いだ。香水の匂いがした。
あるとき、ホームセンターに行くと雨に降られた。
ケンと軒下で立っていると、小梅さんが現れ「あれ、恵三君、傘は?よかったら乗ってく?」と車のキーを見せた。
僕らは小さな軽に乗り込み、「ごめんねー、もうすぐ買い替える予定なんだけど」と言われ、「はあ」と体を縮めながら窮屈なのを我慢していた。ケンが窓の外を見つめている。
家に着くと、小梅さんに昆布茶を出し、「あー美味し」と小梅さんが足を伸ばす中、僕は葛餅を上手く皿に盛ろうと爪楊枝で奮闘していた。
「ねー恵三君」
小梅さんが口を開いた。
「はい」
僕が答えると、「私達、結婚しない?」と小梅さんが言った。
僕は振り返って、「それは出来かねます」と言った。
「なんで?」と小梅さん。
「僕は30になったら死ぬつもりでした。今それを思い出して実行する気になりました」と言うと、「そりゃどうもごめんね、でもなんで?」と言う。
僕は葛餅を綺麗に飾ることを諦め、山盛りにしてフォークで持って来て卓袱台に置いてから、「僕の父と母は、仮面夫婦でした。僕はずっと不幸でした。だからです」と言うと、ふーんと小梅さんは言い、「でも、私達ならうまくいくと思うよ、だって理由が、一緒にいたいから、とかでしょ」と言った。
僕は「僕家族作るの苦手なんですよ」と言うと、「私もですよ」と小梅さんが言った。
「未だにお婆ちゃん以外と、まともに話したこと、無かとですよ」
そこでケンが突如登場し、皿の上の葛餅を皆食べてしまった。
あああ、と言っていると、ふふ、あはは、と小梅さんが笑った。
僕も笑えてきて、うふふふ、あははははと笑いだした。
その晩は笑ってばかりいた。
こうしてもう一人、この家に住人が増えた。
爺さんの遺品その二とその参を開け、着物を取り出して梅子さんに着つけてもらった。
「あらあらお似合いねえ」
うんうん、と爺さんも頷いている気がする。
僕たちはケンを真ん中にして、家族写真を撮った。
これが10年前のこと。
今じゃすっかり爺さんになった、ケンが縁側で寝ている。
すぴーすぴーと寝息を立てる、その鼻先にモンキチョウが飛んでいる。
僕はそこに座り込み、一緒に庭を眺めた。
こうして僕は、生きることになった。
出来れば永遠に、長く、永く。
小梅さんが葛餅よーと言い、ケンががばっと反応した。
僕が生きて行こうと思った訳は。
僕が生きて行こうと思った訳は
何故か出来ました。