山犬のこと


 原田斗志見の二十三歳頃~二十七歳頃の日記のうちにあった、それ自身が「翳」と称する、山犬という少年に関することを、時系列にかかわりなく列挙した。

§◎§

(四月四日)
 山犬は腕よりも翳をよく伸ばすから、ともすればあまり人でいる気がないのやも分からない――――少年に扮すれど彼の肌は紙の色をしてどこか浮彫になるようで、髪もインキを溢しただけの単一な黒色でいるから、彼は人形でこそあれ人間ではないと、傍からもそう見えるに違いない。

§◎§

(九月二十七日)
 どうにも山犬は近頃よく外へ出たがる。広いばかりで僕しかいない家の中に多少飽きたものと思われる。
 外へ行かなければ彼はいつも居間のうちから、あるいは縁側のあたりから、外の静かな音を聞きつつ、指先を翳にほどいてまわりの小さな物をしばしば食っている。気が付くとそうだから、ただ僕が見る分には問題ないけれど、人にも見えぬそのさまは一種異様で、それこそ僕でも考えるところがある、「どうせ化けるなら人らしくしていたら」と言いかけたら、山犬は「何度目だ」と不機嫌になる。「腕しかつかえないんじゃ面倒だろう。これっぽっちしか伸びやしないんだから」と腕をいっぱいに前へ伸ばし、口を尖らせた。
 割合、この山犬はどこかしら子供じみている。以前試しに小遣いをやってみた時は、「何に使えばいい」と至極不思議そうに訊くから、駄菓子でも買ったらどうだと僕が言うと本当にそのとおり、全部を菓子屋で使い切って、「存外にうまい」などと満更でもなさそうに言うのである。僕はそれまでに彼に駄菓子屋で買えるようなものをやったことがなかった。それでたまにまた小銭をやると、山犬はその駄菓子屋へ、人のない時間を選んで行くようなのである。ドロップの缶を持ち帰ってきて、しばらくなくならないから良いなどと、彼にしては喜ぶ素振りさえ見せることもある。

 そういうふうで、彼は子供だ。それにも増してただ無知である。
 きっと僕のところに居るからだろう。
 
  §◎§
 
(三月十九日)
 時に山犬は、黙って外を見ていることがある。垣根があるのでそこまでしか見えないところから、垣根の向こうを夢想するらしく、そうした時だけ彼は己を翳とすることも忘れてか、茫洋とした暗い眼のうちに彼なりのなにかを滲ませて、そこだけどうにも人らしく安定している。まだ陽の落ちきらないうちに、使わない部屋の障子戸の、わずかに開いた隙間から、垣根に阻まれた家々と、空を見ている。あちらからは時折――近くの子どもたちが何事か喋りながら、家路を急いだり、遊びに出掛けにそこらを駆けていったりする声が、足音が、やわらかく日光の中に拡散していくのが見える。山犬は、いくら外へ出るとはいっても、まだ誰へ話しかけるとか、そういう気にはなれないらしく、子供らしくもああした、幸福を羨むのか――その身のある限り必ずついて回る、己の人ならぬことを疎ましく思うような素振りさえ見せることがある――――道一本隔てた隣家の、まだ中学にも上がらない娘が、拙く習い事のピアノを弾く音がして、今そこで山犬が、そちらのほうへ目を向けたところである。

§◎§

(十一月)
 外がよく冷えるようになって、それだから普段から冷たい山犬の肌も凍らんばかりに冷たいが、如何せん彼は冬になっても僕の貸してやったシャツ一枚で過ごそうとするから当たり前のことである。視覚から寒いので、今度何かまた別に服を買ってやろうと思った。よく考えると彼は僕からの借り物以外では、靴下の一足も持っていない。

 寒くなると動物が減る。山犬は少し前まで、冬眠の間際の鼠や栗鼠や、小さなものを見つけるたび捕まえて、腕にとける翳の口から食っていたようだが、近頃はそれも落ち着いたか、彼から獣の血腥さはわずかに失せて、時に僕には見えないものを、細い指から細く翳をほどき、捕って同じように食うようになったと見える。それはそれで異様な、とは思うけれども、彼はいつでも空腹のようだ、それで菓子をよくつまむし、菓子でなくとも食う。
 僕があまり良い顔をしないのを知ってか、彼はあまり僕の前では僕でも食えるものしか食わないけれど、それは彼なりの気遣いだろうということはわかる。そうした人間の食ばかりでは、山犬が満足を得ないこともわかる。

§◎§

(十月七日)
 山犬がその腕を大きくほどいて、庭先にいた鳩を呑むのを見た。翳のひろがりの、黒くやわらかな靄のようになった彼の腕の内側から、いくらか高く骨の折れる音がしたり、肉を圧し潰す水っぽい音がしたりして、その腕を山犬が身に戻したあとに、薄く微かながら血のにおいが、様子を見ていた僕のところまで漂い来るのである。
「そうまで腹が減るか」
 思わず声をかけると、山犬は僕のほうを見て、頷くのだか俯くのだかよくわからないが、そのきっぱりと血の気のない白い顔をわずかに伏せるような動きをした。
 別段、家だから隠す必要はないけれど――人の姿を取るからには人らしくしていたほうが、きっと良いと僕は思うが、けれども僕がまたそう言うと山犬は、「ならずっと外に出なけりゃ良いことだ」と目を背けてしまう。
 僕は彼がたびたび起こす羨望じみた目を覚えているから、「でも外へは出てみたいんだろう」と訊くと、山犬はすっかり黙り込んだ。

§◎§

(秋 十六日)
「形だけ寄せたんじゃ、それこそ烏の鵜の真似ってやつだぜ」
 折を見て僕は山犬にそんなことを言った。
 山犬は黙りこくっていた。

山犬のこと

山犬のこと

「翳踏むばかり」番外

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-06

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC-ND