天賽心中

 この書置を読む何処ぞの誰か……私は傍で斃っている茶のチョッキの男である。この部屋の惨状を見るにつけ、屹度大層吃驚したであろう……キミがつまらない官憲の連中で無いことを祈りつつ……此処に事実を記す。私娼の息子である私の作家気取りの下らない駄文と一蹴せず……是非とも目を通して欲しい……。
 私は父が嫌いであった。至極全うに見える奴の微笑みの裏では赤く爛れた醜い舌をデロリと垂らし、笑うあの男の姿を私は知っている。私と血縁の上での関係が存在しないことを良いことに……私を罵り、嬲り、然して玩んだ。私は自身の内で何物かへ対する熾烈を極めた感情が雨雲のようにどんよりと立ち込めて居ることを察しながら……父の仕打ちに耐え続けた。

 あの大震災で何もかも喪った私は帝都の新聞局の配達員として僅かな日給を頼りにその日暮しを送っていた。社員に支給される食事を……実に下賤な行動であるが……懐に仕舞って下宿へ持ち帰っていたのだ。当時の自身における日給十五銭はトンデモナク大きなものであって……私の境遇を憐れんだ社の連中のエゴイスティックな同情心のお陰で私生活には困ることは無かったのだ。他人とは単純である……などと考える私の元にあの男が善人の面を垂れ下げて、私と云う肉体の権限など端から存在せぬかの様に、私の人生を泥のついた奴の靴底で踏み躙りにやって来たのだ。奴は私の腕を掴み、一階の局の事務所へ飛び込むにつき何やら罵声とも怒声とも取れる大きな声で局長へ私の馘首を求めた。局長は私を憐愍に満ち満ちた瞳でこちらを一瞥し、最後の情けであろうか……就業予定であった今月末までの給与を封筒に、一言鍵はポストに入れておいてくれと吐き捨て……然して私は新聞局を後にしたのである。私は阿呆中の阿呆であった。新聞局の局員共の眼差しは奴等自身より下等な者を蔑み、憐れむ所以の物だと漸く理解したのだ。

 私はその男と詐りの親子の縁を結んだ。母を失い独りとなった私を迎えに遥々帝都浅草までやって来たのだと、それはそれは大層な口調で男は語った。奴は母の知己であると散々な理由を付随して語ってみせたが、私はその男の口から語らずとも知っていた。私の母は銘酒屋に抱えられた私娼であったから、別段吃驚するようなこともなかったのである。つまり自身にとっての母は明確であるものの、父は何処ぞの男か解らぬ。故に父になる男が眼前に現れた際、私は初めて出逢った血縁の男として僅かながらに胸を躍らせてしまったのであろう。そんな漠然とした希望も束の間、私は父という皮を被ったその男の本性……ヌルリとした……まるで蛞蝓が這う様な……奴の視線の所以を知ることとなるのである。

 私は高等学校を卒業し、新聞記者となった。父は私の帝国大学への進学を望んでいたが、わざわざ面倒な試験を突破し、入学した先に見える未来へ希望を見出せなかったことをツラツラと告げると奴はジロリと私を睨み、自由にしろと吐き棄てたのみであった。屹度私の頸元から垣間見える青痣がその奴らしからぬ言動の所以で……その理由は奴が一番知っているから、それ以上余計な言及を行わなかったのだろう。扉を潜り、私は廊下へ一歩を踏み出すと途端、身体の何処ぞに溜まっていた冷や汗が一気に溢れ出したことを察した。背筋をつつと伝う汗が酷く心地悪く、同時にあの男へ対して私自身が強く意識をしてしまっている……愍然たる己の姿……。あの男に支配され、自身の理解の範疇を超えたその部分までもあの男は私を蹂躙し尽くしている……。刹那、悪寒が身体中を襲い、私は両腕を抱き締めた。耳の奥で獣の唸る様な、奴の低い声が響く。私は堪らなくその場から駆け出したくなり、鞄を抱え裏口から外へ飛び出したのだ。
 父が私を引き取り……私が尋常科を卒業する頃合い迄だろうか、楡原という青年が書生として居候をしていた。彼は予科に通う一学生であり、勉学に勤しむ最中作家を目指していた。地獄のような毎日を何とか乗り越えることが出来たのもこの楡原青年のお陰であるから、彼には死しても尚報謝し切れぬ。然うして楡原青年はと云うと……賭博で荒稼ぎをし、その日暮らしを送る博打打ちとなったのだ。まるで以前の面影は無くなり、新聞社に入社したての頃同僚に半ば無理矢理連れて行かれた賭場で偶然の再会を果たしたのだ。其れも彼は只の博打打ちではなく……胴元……ソレモいかさま師……。私の肩を叩いた楡原青年は相も変わらず死人のように青白い肌と鼈甲模様の丸縁眼鏡に、撚れた藍の書生服でカラカラ笑いながら『もしかして…』とさも親しげに話し掛けて来たのである。当の私はあの書生がまさか賭場の胴元であるなど想像もつかなく、目を白黒させながら返答に困っていたものだ。結局同僚は一杯食わされたどころかほぼほぼ全部楡原青年のイカサマの格好の的にされ、手持ちが無くなった辺りで青年とまた違う種類の蒼白の顔で夜闇に消えて行き、ヨウヤク私は青年が青年である様を目視したのである。多少警戒する私に楡原青年は生憎弟同然であった少年になけなしの金を賭けさせる趣味は無い……と数年前と同じ調子で笑ってみせた。彼は賭場のメインホール左奥に位置する扉の向こう側へ私を導き、赤い天鶩絨のやけに豪勢なソファーへ私を座らせるとその数分後、片手に深い緑がかった鉄色のジンのボトルを引っ提げて正面の安楽椅子へドサリと腰を降ろした。

「ドウダイ、近頃は」

 彼はジンを煽り、含んだ笑みを浮かべながら私へそう問うた。彼は呆けているように見え、人の根幹まで見据えている節があるから……屹度あの男の事は知っている筈であったのに……。私は賽子を操る楡原青年の指先を見つめながら……酒に酔った振りをしつつワイシャツの腕を肘まで捲り上げた。
 サテ、話を戻すとしよう……。この途轍もないほどの悪寒から私は身も心も逃れたくなり、夜半男が溢れかえる銀座のカフェーに雪崩れ込んだのだ。その店に入るなりアールデコ調の派手な着物を纏った女が色香を漂わせ、私の腕に指を這わせる。周囲の男を見渡せば幾つか見覚えのある禿げ頭が並んでおり、所詮男はこういうものだと落胆したことを記憶している。私の懐には女一人連れ出すことの出来るぐらいの金は入っていたから、何とかしてこの不愉快極まりない感覚を拭い去るため……とふとそんな考えが脳裏を過るも、またもあの男の笑みが浮かび、挙句の予想がいとも簡単についたことを私は悟った。こういう店は女へチップを払えば抜け出すことが出来るのだったナ……と思いつつ懐へ手を伸ばしたその時、アレ、と拍子抜けした声が前方から降り注いだ。声の主は楡原青年、その人である。視線を挙げれば彼の傍には何やら女給らしからぬ少女が一人……。私は青年へ助けと共に訝しさを含んだ眼差しを向けると、私に腕を絡めていた女は名残惜しそうに別の客の元へ消えて行った。女に絡まれたことによって私の腕に巻いていた包帯がハラリと解け……その後は云わずもがな、昨日出来たばかりの青痣が青年とその少女の目前へと曝されることになったのである。

「サテハテ……階段から転げ落ち……顔に怪我一つ無いトナ…ハハ……嘘をつけ……」

 楡原青年はまるで書生をしていたあの頃と同じ手付きで私の包帯を巻き直した。横で不安そうに此方の様子を伺う少女と一度視線が錯綜したのだ。そんな私に気が付いたのか、青年は少女を手招きしてこちらへ寄越す。他の女給に比べ、控えめな紅の着物に身を包んだその少女は伏目がちに、ポカンとする私へご丁寧に礼をして見せた。ニヤニヤと笑む楡原青年は口を開く。

「美鶴子サン……綺麗な黒髪と睫毛だろう」

 私は貴方が贔屓にしている女給ですか、と問うた。賭場の胴元である彼が金に困窮していることは先ず無く、贔屓の女給が一人や二人居ても私は今更驚かない。だが、青年は私の想像に相反して笑い出す。ボクのような金稼ぎをしている人間がコンナ店に客として通うと思うかね。要するに自分はこの店を裏で支えている、とのことである。そうして美鶴子と呼ばれた少女はこの店で特定の客のみ相手をしている女給だと云う。何せ彼女は私より九つほど歳が離れているらしく……其れも女学校を中退した身のようだ。夫は……と野暮なことを聞く余裕もなく、私はその少女の眼差しに何やら意味深長なものを感じていた。勿論その時の私に違和感の正体が掴める筈も無く……楡原青年の語るトンデモナイ事実にまるで度肝を抜かれるのであった。

 字面は乱れていないだろうか。イヤ、乱文であってもキミなら読むことが適うと信じている。然うして私はその美鶴子という少女と私通を繰り返した。敢えて……その事実を奴へ垣間見せながら……。勿論そんな出来事を知った父は激昂し、私をモノスゴイ剣幕で問い詰め、常以上に酷く私を殴打し……煙草を押し付け……然うしてその後も私自身よく耐えた、と思う程の凌辱を受け……一連の流れは終わった。身体中に走る激痛を堪えつつ、私は目前にある父の革靴に頬擦りをする。今まで経験したことの無い嫌悪、鼻につく靴墨の匂い、紺のタイ……灰色に歪んだ左目の視界……。情が内包される、たった此れだけでこうも変わるのだと……今迄の暴力、私という存在を端から否定する行為とは全く裏腹の其れは、私にとって……イヤ、此処には記さぬ。筆舌し難き嫌悪と……官能的な哀愁……私は、自分自身の肉と精神が乖離し、フワフワ宙を行き来するその不可思議な心地にズブリズブリと沈むように身を委ねたのである。

 楡原青年はキミにとってドンナ男であっただろうか。はたまた、存じてはいないだろうか?私にとって彼は只の居候の書生……とは云い得ぬ、何か特別な情を抱いていたように思う。其れは思慕だとか、恋情とか……クダラヌ単語で言い表せるものでは無い。仮にキミが彼と何らかの関係を持っていたとして、私はそれに対して異を唱えることもしない。彼は木偶のようになった私を介抱しながらソット耳打ちをした。この凡てに幕を下げる、彼が私へ施す最後の術を。楡原という一人の青年と私がアカの他人となる、最後の手段……。背広の上着のポケットに小瓶を忍ばせ……暁闇の如く暗くなった左目の視界が愛おしくなった私……楡原青年の薄い唇が紡ぐ言葉……。やはり彼は凡てを、何もかも凡てを知っていたのだ。あの男、父の凡て……私の母の生い立ち……然うして私が父より下されていた数々の行為の何もかもを……。

 小瓶の中身が気になったことであろう。マア味見をするなり好きにするが良い。何せ私は最後の手段であったソレを利用せず幕を閉じたのだから。今更になって包み隠す必要も無いので記載しておくが、アレはシアン化カリウムだ。キミが阿呆であって、仮に小瓶の中身を舐めでもしていれば……屹度この文章を最後まで読むことは不可能だろうね。そんな時は別の人間が居ればその人間に手渡し、ドウニカ最後まで読み遂げてくれたまえ。キミが一人であれば……この一連の事件は只の凄惨な殺人劇として片付けられるであろう……。

 シアン化カリウムを服用させればドンナ屈強な体躯を持った男でもコロリと逝ってしまうだろうが……何故私がその小さな小瓶に頼らなかったのか、解るかい。この小瓶は私と楡原青年の謂わば最後の綱……彼と私の間を結ぶ一本の綱であるから……。初めて私は楡原青年の意図に反する行為を犯した。彼は私の内情を掬い取るように知っていたから、凡てが終結した後、私が彼を探して蠢く様を観察していたかったのであろう……。

 青年も父から下される暴力の被害者であった。だからこそ、こうして私に近付き……私を駒として奴への復讐を企てたのであろう。彼は父に左目を潰されていた。彼の目は開いているように見え、義眼である。右目も完璧に凡てが映る訳では無い。偶然視力が僅かに残った……と云う訳である。キミが馬鹿真っ直ぐな政府の犬でないことを祈りながら書いている訳だが……ソファーに腰を掛けて項垂れている書生姿の青年が居るだろう。両瞼を開けてみろ……瞳孔の大きさが違う筈だから……。

 仮に私が楡原青年の手駒となって死んだとしても悔いは無い……だが彼は私を生殺しにしようと企んだ。伊達にいかさま師ではない。人を騙す手腕に関してはドンナ人間をも凌いでしまうだろう。彼の目的は父を殺すことで終わりでは無く……私を苦しめることが目的であったのだ。私は父の酷い暴力から逃れる為、楡原青年へ縋り助けを求めた。当初の私はあくまで『父への報復』を望んでおり……コンナ可笑しな情は生まれていなかった。中途より私は如何に青年の指示通り父を追い詰めるか……如何に青年を微笑ませることが出来るか……そういった目的に変わっていたのだ。父がカフェーで美鶴子を贔屓にしていた情報を入手し、私に偶然邂逅した風を装ったのも青年であるし……美鶴子も無垢で純朴そうな面をしている裏でそれを知っていた。嗚呼、まるで忘れていたが美鶴子は私の異父兄妹である。何故その事実に気が付いたのか……キミは気になってタマラナイだろうね。マア、それは後述するとしよう。

 私は感覚がまるで麻痺してしまっていた。楡原青年という男に再会し……逆方向に神経の伝達が回り始めたのかも知れない。父の酷い行為も凡て青年の指示、望み通り。そうして私は……記述するのも憚られるが……父の暴力を次第に暴力と受け取ることが出来なくなっていた……。私もソロット視界が歪んで来た……ウウン……仮に最後まで筆を走らせることが出来ず仕舞いであればキミが望む結末でも付けてくれたまえ……トビキリ劇的なモノを頼む……キミがユーモア溢れた探偵か作家であることを願って……。

 私は其処に在るペーパーナイフを父の横腹に突き立て……その瞬間の奴の表情の滑稽なこと……。丁度其の時であろうか。背後に気配を感じ、振り返ればそこには口元に笑みを湛える楡原青年がこちらを見据えながら立っていた。馬鹿ダナァ……キミは。腹ナド刺した所で簡単に絶命でもすると思ったのかい……。絨毯に這い蹲る父は私の足首を掴み……懇願に満ちた瞳で……あろうことか、私へ命乞いをしたのだ。私はその刹那……己自身の大きな過ちに気が付いたのである。足元で私へ生を乞うその男の口振り。瞳の色。動作。

 虫唾が走った。唾棄すべきその行為……身体中がゾワゾワと粟立ち、私は再びペーパーナイフを……この辺りの描写は蛇足であろうか。私の生命も残り僅かであるから……。然うして楡原青年は至極忌々しそうに……私の足首を掴む父の腕を蹴り払うと、初めて彼は私へ対して感情を露わにした。

「ヨクモ殺してくれたな」

 彼は握っていたらしい賽子をバラバラと床へ落とし、ソファーへ腰を降ろす。天井を向いた賽子の面は凡て黒……。総黒の天賽。項垂れた青年は一つ大きく溜め息を吐き、懐を探る。見覚えのあるその小瓶の蓋を開け、彼は躊躇いも無く其れの中身を口の中へ抛り込んだ。言わずもがな……彼の死因はシアン化カリウムの摂取による服毒自殺。最期の最期まで楡原青年は己の事を何一つ吐露せず、私の懇願すら聞き入れず……死んでいったのである。此処で一つ謝らねばならぬことがある。シアン化カリウムはその瓶には入っていない。最後に嘘を吐いてしまい申し訳ないね……。その中身は只の睡眠薬。楡原青年が思い不眠症であることを良いことに……私が薬を入れ替えた。私は楡原青年が残した僅かなシアン化カリウムを舐め、これより恐らく一分以内に死に至る。

 これは父の虐待による精神の歪曲の結果の出来事でも、一人の人間が犯した殺人事件でも無い。私と楡原青年の長き心中劇である。そうそう、キミ。いや……美鶴子。お前も阿呆者だなァ。私が気付かないとでも思ったのか。馬鹿め。早く私へ打ち明ければ良かったのに……モタモタしているからこうなるのだ。マァ、良い。お前には私と楡原青年相応の苦しみを味わって貰わねばならぬ。サテ……先ずは楡原青年の懐の中を覗いてみろ。そうして再びこの書置を読め……いいか。必ずだ。屹度怖ろしい程の虫唾が走る筈だ。サァ、早く青年の懐を覗くのだ。

天賽心中

天賽心中

少年の自我と欲

  • 小説
  • 短編
  • ホラー
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-10-05

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