未練

記憶を見送れば

 茜色の長い坂を上がるとバス停があった。夕焼けの雲が影を作り泥をタイヤに着けたバスが発車する。乗客の頭は見えなかった。
 1946年8月9日。葉の露から球が垂れ落ちた。重さに耐え切れなかったのだろう。落ちた雫は腹が千切れそうに鳴き続ける蝉の大群の中に消えていく、幹共々と共鳴していた。砂を巻き上げる風はバスを待つ一人の少女の髪の毛を巻き上げる。と、恥知らずな風がオデコをひらりと一本の毛を揺らした。そうした時、その少女の隣に汗を頬に溜めた坊主の少年が息を口から吐いて並んだ。少年は走ってきたらしくズボンの裾に跳ねた泥水が染み込んでいる。その少年の疲れた顔を見て少女は白い歯を見せ笑った。黄色いバスが二人の前にゆっくりと停まった。二人は手を取り合って入っていった。
 1956年4月4日。薄い桃色の花弁が小川を形成し流れる様にして舞っている。黄色いバスが停車した。黒いゴムタイヤは桜で化粧し照れている。それを隠す様にドアがスゥと開いて黒い頭髪の若い男性が優しい笑みを浮かべてバスを降りる。続いてその後ろから白いワンピースの女性が降りた。その女性の腕の中にはおしろいを塗った初雪の赤子が抱かれいた。男性は遠くの方向に手を指し、二人は幸せそうに歩いて行った。
 1964年9月18日。快晴は海で日差しは熱で青葉は生き生きと、テントウムシは踊り、カブトムシは武者になり、モンシロチョウは泳ぐ。眉が隠れる程に深い麦わら帽子を被る幼い少年は、首に虫かごを掛け、右手にピカピカの虫網を小さい手で持っている。少年は傍に座っている父の上着を掴み飛んでいるアゲハ蝶に舌を出す。前歯が抜けた口の中を見て、父の横にいた母は笑う。膝の上にはバスケットが置いてありサンドイッチの頭がこっちに視線を送っていた。黄色いバスが三人の前に薄い日よけを作って停車した。勢いよく少年はバスに駆け込みその後を父と母は続いて入った。
 1970年6月21日。無色の雨が叫び声を上げて地面を突きさす。灰色の広葉樹に何度も水滴の足跡を作っては消す。突如、灰は巻き散って網膜に白夜が映り、雷鳴の轟が残響を鳴らした。傘も差さず、髪の毛と白いシャツの制服に重い水を飲ました少年が息を乱雑に吐いて拳を丸め庇を支えるコンクリートの柱に打ち付けている。捲れた皮は鈍い音で叩かれ鉄の匂いを土と混じった。頬からは塩を溶かした粒が雨と共に流れ、流しても流しきれない。少年の震える肩に静かに手を置いた。少し白髪が混じった父親が噛み締めて顎を動かす。それは洗う声で疲れた骨に安らぎを与えた。だが少年はその大きな手を振り払った。緑色のバスが停車した。暖色のライトは雫の線を反射してぼんやりと二人の前に浮かぶ。若い脚は水を切って冷たい霧の先に消えていった。
 1974年2月28日。肌と骨髄が凍る。心も凍った。綿が澄んだ空気の抵抗を受けて、ゆらり、ゆらり青年の活力ある頭髪に触って湿った。夜空を見上げると賢人がなぞった星屑が幾千、輝いて雪と遊んでいる。赤いマフラーを首に巻いていた。左手には表面が乾いたボストンバッグをしっかりと、確固たる意志を秘めて握っている。緑色のバスが足元を照らし光を放ちながら進んでくる、青年は手を上げて合図する。バスはきしんだ音を立てて停車した。開いたドアから見たことのない光が青年の身体を包み、青年は足を踏み込んだ。鉄のドアは振り向くことを待たずに閉まった。バスは黒い煙を撒き散らした後、白髪の男が苦しそうに走り寄って来た。小さくなっていく窓から漏れた黄色い光を見て、涙を流し膝をついた。男の目の前には赤いマフラーが主人を無くしてそこにあった。
 1974年11月1日。無垢で冷たい風が男の身体を舐めまわした。緑色のバスは待ち人を吐き出さない。
 1978年10月16日。焼ける紅葉は花火のように広がり一瞬にしてアスファルトの上に横たわった。緑色のバスはイチョウを踏んで停車した。待ち人の声はない。
 1983年9月18日。入道雲が気持ちよく膨らむ。暑い日差しに誘われて今日もまた蝉やカブトムシ、モンシロチョウが生き生きと姿を見せた。と、白髪の男の隣に若い母親とその娘が座る。娘の手にはふつくしい向日葵があった。無邪気に鈴の音で鳴らす声はケラケラ響いた。緑色のバスはあの日と似て同じ場所に停車した。待ち人は今日も居なかった。
 1988年5月19日。梅雨はまだ先々だと言うのに好奇心旺盛な水滴たちはアスファルトに弾む。彼らは雲から兄弟を呼んだ。今日は静かだ。誰もいない。緑色のバスは通り過ぎて行った。
 1988年5月20日。水に溜まった黒い油を勢いよく踏みつけ、飛び降りた。心痛な表情をした青年であった。緑色のバスは息をひそめていた。
 1990年8月9日。全てが目を覚まして合唱する。葉と葉の間から生きた光線を放ってそれは蜂が浴びる。青年は髪の毛を掛け上げてポリポリと額を掻く、その傍に眼鏡を掛けた白髪交じりの父が歩く。そしてその青年の隣には若い女性が愉しそうに笑っている。三人とも各自両手に荷物を持ち、一歩一歩に期待と思いを見せ合っていた。青年は手を指して山の山の奥に向ける。何かの言葉を通づった様であった。白いバスが停まる。三人は道を振り向き思いに更けた。そして中に入った。バスは動き出す。どんどん、見えなくなる、見えなくなる……
 1999年7月3日。茜色の長い坂を上がるとバス停があった。しかし、バスが停車する事はもう二度とない。
  幾人も見送り、出迎えたが非常に良いものであった。けれどもこの風景がもう見れないのは未練である。

未練

未練

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-05

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