僕が映画館を救う話
一
一台のショベルカーと,数人の作業員の人が働いて,大好きな映画館が建っていた場所を片付けていく様子を,僕は館長だったキクチさんと,看板猫のマリと,そしてパパと一緒に見ていた。ガレキだらけで,埃っぽく,エンジン音や怒鳴り声,そしてショベルカーが動くたびに,ダンプカーの背中にガラガラと落とされていく音が聞こえた。作業は順調に進んでいって,後ろの駐車場の壁と,もっと向こうの高層マンションの二,三階と,今日の天気がよく見える。映画館が建っていた場所の広さも。引っ越しが多かった僕は,だから引っ越しの準備を終えたときを思い出さずにいられなかった。意外と狭いと思わないわけにはいかない,あの瞬間。カーテンがない部屋の窓の素っ気なさ,変な角度で陽が入ってきて,床の色を変える。出ていけ,言われているわけでもないのに,建物が,建物らしさを取り戻すあの瞬間は,慣れない気持ちでいっぱいになる。寂しいのはもちろん,懐かしさも感じる。だって,それは最初に引っ越してきた時の様子そのものだから,起きた出来事をたくさん思い出す。時計を寝かせて,どこに掛けようかを相談しながら,ガムテープを開けて,本を取り出す。ロボットを取り出す。掃除機を持って現れたママに急かされて,部屋から出て行った最初の夕方は,テレビから流れるいつもの番組が,観ていて何倍も楽しかった。ご飯も美味しかった。多分眠れなかった,かな?はっきりと覚えていないから,反対に,ぐっすりと眠れたのかもしれない。最初の一日の終わり。
でも,好きだった映画館の終わりは,明るいうちに始まって,あと数日で終わる。そういう予定になっている。キクチさんとパパが教えてくれた。公示されているところでは,そうなっているね,と。マリは僕に抱っこされて,大人しくしていた。さすが,看板猫に選ばれたマリだと思った。マリは何をされても拒まないし,映画館の中を歩き回っても,悪さをしないで,可愛がられる。けれど,キクチさんは困ったように笑って,僕に教えてくれた。解体の前に,映画館の中にあった自動販売機とかを運び出した時,そこにはたくさんの小銭があった。お客さんが落としたというには,あまりに多い枚数だったので,キクチさんは冗談でマリを叱った。そうしたら,マリは初めて家出をした。その期間は一日だけだったけど,キクチさんは心配で仕方なかったという。夕方過ぎに,映画館の前で待っていたキクチさんは,わざとらしく目の前を通ったマリに謝って,小銭を一枚だけ差し出した。そっぽを向いたマリは,それでもシッポで嬉しさを隠せなかった。マリはお金が好きだったのだと,キクチさんは初めて知った。僕もパパも,初めて知った。マリはキクチさんが拾った猫だ。だから,マリはマリで,映画館に留まった理由があったんだね,とキクチさんは言った。僕は驚き,パパは楽しそうに笑った。マリは知らないという顔をしていた。風に吹かれて,お腹のあたりの毛が気持ちよさそうだった。
僕のパパとママが出会った場所が,キクチさんの映画館だった。観に行ったのは,フランスのロマンス映画だった。と,パパは言うのだけれど,ママはローマを舞台にした,アメリカの映画だったと言って,怒った。映画史に残る古典の復刻上映,というところで,二人の記憶は一緒になる。キクチさんの選ぶものが,二人の趣味に合っていたんだ,と言う。そんなキクチさんも,映画館がきっかけで,亡くなった奥さんと出会っていた。映画館で働いていたキクチさんは,映画館前の喫茶店でウェイターをしていた奥さんが好きになった。毎日,会いに行った。初デートは映画館じゃなくて,出来たばかりの遊園地だったけど,八回目のデートで映画を観に行った。ホラーだった。キクチさんの奥さんは,その帰りにキクチさんの気持ちに返事をした。だからキクチさんは,批評家から評判が悪いその映画を嫌いになれなくて,その監督の新作を必ず公開したら,偶然にも,その監督に会えて,写真も撮った。僕もその写真を見せてもらったことがある。すごくカッコよくて,俳優さんになればいいと思った。キクチさんも本人にそう言った。そうすると,その監督さんは,
「よく言われる。だけどね,ボクは映画を撮るのが好きなんだ!」
と誇らしげに答えたから,もう何にも言えなくなったよ,とキクチさんは懐かしそうに笑った。その監督さんは,二本のヒット作品を残して,今も現役で頑張っているんだという。今もメールをやり取りしている,キクチさんが僕にそう教えてくれた。僕はホラーが好きじゃないから,まだ一本も観れていない。ちょっと,残念だなと思った。
映画館で映画を観るのはもちろんだけど,僕は映画館の中で遊ぶのも好きだった。何度目かの引っ越しで,今のお家に住むようになってから,僕はパパとママに連れられて,キクチさんの映画館に遊びに行くようになった。僕は売店コーナーによく居たし,自動販売機の側のベンチの端っこに座りながら,マンガを読んでいたし,キクチさんの部屋で,ママの帰りを待っていた。キクチさんの映画館で働くアルバイトのお兄さんやお姉さんとは必ず仲良くなったし,時間の合間に遊んでもらったりした。お手伝いをして,半分の料金でアニメ映画を観させてもらったりした。ランドセルを背負って,映画館には入ってくる僕は,よく来る常連さんにも覚えてもらったりして,挨拶をしたりした。マリとは,最初から親友になった。マリの行くところをついて回って,映画館の秘密を知った。暗い所が多くて,ドキドキした。映画を観ているお客さんをこそこそ見るのは,変な気分になった。
僕が初めて好きになったコアラ姉ちゃんは,「あらら」と言うのが口ぐせのユリコ,ということでみんなにそう呼ばれていた。頬っぺたがプニプニしている,というのも理由になっているという噂だった。
コアラ姉ちゃんは面倒見が良くて,とびきり優しくて,そして物知りだった。コアラ姉ちゃんは俳優さんを目指していて,通っている大学の演劇部の副部長を務めていて,名脇役の座を射止めていた。声はとっても綺麗だった。キクチさんも,パパもママも,それを褒めていた。上映開始のアナウンスも,生でコアラ姉ちゃんが伝えていた。劇場内で,僕も聞いたことがある。あったかくて,嬉しかった。
僕が大切にしている宝物の中で,コアラ姉ちゃんに買ってもらった手の平サイズのサッカーボールと,コアラ姉ちゃんに抱き締めてもらった一枚は特別品だ。特に写真はプリントアウトしてもらったもので,いつも肩掛けリュックの前のポケットに入っている。そのことをメールで伝えると,「あらら」に続いて,笑顔をくれる。コアラ姉ちゃんは今,大学を卒業してから地元に戻って,銀行の窓口のお姉さんをしている。演技はそこで続けている。俳優さんも,まだ諦めていないと言う。
迷ったけど,僕はコアラ姉ちゃんに,キクチさんの映画館が無くなってしまうことを伝えたら,コアラ姉ちゃんはもう既に知っていて,キクチさんや僕の他にも,僕のパパやママもコアラ姉ちゃんにメッセージを送っていた。
「愛されている証拠だね。映画館も,私も。」
コアラ姉ちゃんはそうメッセージを打って,最後に色んな顔文字を続けて残した。泣き顔を探すのも苦労するぐらいの数だった。画面を見過ぎて,目がチカチカした。
コアラ姉ちゃんの後を継いで,みんなから次期アナウンスの座を期待されていた僕は,だからその夢を叶えることが出来なくなった。そのがっかりしや気持ちを,そのままキクチさんに伝えたら,こらっ!と,パパに頭を小突かれた。キクチさんは,いいよ,いいよと言ってくれた。僕は,キクチさんに謝った。それから,周りの音に負けないように,大きな声を出すようにして,僕はキクチさんに宣言した。
「僕が,また新しく映画館を造る。絶対。」
パパもキクチさんも,頭を撫でたり,背中をさすって,励ますように僕に接してくれた。けれど,僕が本気なのだということをしきりに伝えると,パパが僕に言った。
「なら,まずはお金持ちにならないといけないな。映画館を建てるには,土地が要るし,建物が要る。」
キクチさんも頷いて,僕に言ってくれた。
「そうだね。映画館を造ることは,映画を作る事とは全然違うものだからね。」
そういう二人は納得し合ってもいても,二人の言っていることは,僕にはピンとこなかった。こなかったけど,僕は意地になって,二人にまた宣言した。僕はお金持ちになる。それで,また映画館を造るんだ。
そうかそうか,と言っていたキクチさんが,「なるほど」と閃いたことを僕たちに言った。僕がそれだけのお金持ちになるまでの歩みを記録して,ドキュメンタリー映画にしてしまおう。昔ながらの映画館再建を夢みた若者の,ドラマチックな素晴らしい作品にするんだ。
それを聞いて,パパがさらに続けた。なら,私が一冊書きますよ。父親の視点からの解釈や,私自身の葛藤も含めて,家族の物語として出版したあとで,映画化するんです。ショービジネスとしては,そっちが良いでしょう。だから,どうせなるなら,とびきりのお金持ちになってもらわないとね。
そう言って,盛り上がる二人は,僕をおいてけぼりにして,とっても楽しそうに見えた。パパが撮影した動画に映っていた,いたずらをしているときの僕みたいだった。そして,僕の手の中のマリも鳴いた。僕は何かを言えなくても,二人の間に入って,僕の話を実現しようと思った。コアラ姉ちゃんも,再来月にはこっちに遊びに来る。
あとはママを待つだけだ。
僕が映画館を救う話