さん さん さんかく
三角形が、みえる。
三角形が視界にぼやっと、浮かんでくることがある。
たとえば、ぼくの前の席に座っている友人Aの後頭部に三角形があって、それが彼の後頭部にはりついているのか、ただ浮かんでいるだけなのか、みているだけでは判別できないので、右手を伸ばして三角形にふれようとするのだが、ぼくの右手は三角形の頂点から底辺まで、すっ、と、すり抜けていく。友人は振り向かない。
つまり三角形は、友人の後頭部にはりついているのではなく、友人の後頭部から数センチ離れたところで浮いているということ。
三角形をさわったという感じは、なかった。
そもそも今まで三角形にふれたことがないので、やつのさわり心地など、知らないのだけど。
それから三角形がみえるようになった頃、海岸線を通るときにかならず、
「おいで」
という声が聞こえるようになった。町で唯一ある海岸線は、ぼくの通学路になっている。
おいで、という声の主を探そうと思ったことは、ない。
声は、海の方から聞こえるのであるが、砂浜に埋まっているでもなく、夏の大嵐で大破した海の家の跡地にひそんでいるでもなく、どうやら声は海の中から、波の音をかいぬって聞こえてくるようだった。
海の中では、お手上げである。
声の主がどんな顔をしているのか、だいたい顔というものがあるのか、それすらもわからないやつを探すのは容易ではない。息だって続かないし、秋になって海水はひゃっとなるくらい冷たくなった。
きょうも海岸線の道を歩いていると、
「おいで」
という声が聞こえた。
きょうは「おいで」という声が聞こえたと同時に、頭の中にぼわっと、例の三角形が浮かび上がった。
三角形のやつは、まわっていた。
くるくる、くるくる、風車みたいに、まわっていた。
三角形は正三角形なものだから、まわっても、まわっても、正三角形であった。
いつもとおんなじで黒い輪郭だけの、透明の正三角形だった。
ぼくは、回転をつづける三角形を頭の中に浮かべたまま、きのうのことを思い出していた。
きのう、ぼくのたったひとりの兄弟である兄が、兄ではなくなった。
姉になった。
おっぱいが、できていた。
そのとつぜん現れたおっぱいのあたりまで、髪が伸びていた。兄に逢うのは、二年ぶりだった。
透明な正三角形のむこうに、父に殴られている兄(姉)の姿がみえる。
父の右腕に母が、泣きながらすがっている。殴るのをやめさせようとしている。けれども母も、かわりはてた兄(姉)のことを、一切みようともしない。
実際の変化はふっくらと盛り上がった胸と、長く伸びた髪と、それから花柄のワンピースくらいで、お化粧をほどこした顔のパーツには明らかに兄時代の名残があり、口調は女の人を意識しているようだけど、声は聞き慣れた兄のそれであり、かわりはてた、と表すのは適確ではないかもしれないが、泣き叫んでいた母にとっては、かわりはてた、なんて表現では済まされないのかもしれないなと思った。
我が子が死んだ、とでも想わせるような悲鳴を、母は発していた。
「おいで」
と誰かが、ぼくの耳元でささやいた。
ぼくは弾かれたように周囲を見渡したが、海岸線の道には、ぼくしかいなかった。車も、走っていなかった。
でも、はっきりと聞こえた。
気持ちが悪いくらい、はっきりと、くっきりと、聞こえた。
かすかだが生温かい吐息も、感じた。
透明な正三角形は、きのうのできごとを背景に、先ほどよりも速く回転している。
まわっても、まわっても、正三角形は、正三角形であるし、父は怒り狂っているし、母は泣いているし、兄(姉)は女の人のように色づいたくちびるを噛みしめている。
ぼくはといえば、ただ、三人のかたわらに突っ立ていた。傍観していた。
家の中に突如舞いこんできたちいさな混沌と、その行方を、映画を観ている心持ちで、みていた。
三角形がみえるようになってから、ぼくは、まわりのできごとがすべて、架空の世界のできごとのようにみえるのだった。
かなしいできごとには、かわいそうになァと思う。
うれしいできごとには、よかったなァと思う。
思うのだけれど、どれもフィルター、のようなものがかかっていて、なんだか自分がいない世界のできごとのようだと感じるので、つまるところは映画やテレビを画面越しに観ている感覚に、映画やテレビを観ていないにもかかわらず、陥っているということである。
「おいで」
という声が、先ほどよりも少し離れたところから、聞こえた。
海の方だった。
海に入ったのだ、と思った。
さっきは一時的に陸地に上がってきたのだ。それから、海に戻った。
ぼくは声がした方を、みた。
じいっと、みた。
「おいで」
と、もう一度聞こえたとき、頭の中の三角形は消え、拳を振りかざす父の姿も、泣き崩れる母の姿も、兄(姉)が父の振りかざした拳に反射的に目をつむった姿も、消えていた。
かわりに海の中からみえない何かが、ぼくを手招いているような気がした。
たまご焼きのような厚さのねずみ色の雲が、海の上にあった。
さん さん さんかく