うみかぜ
友だちが遅く帰った夜、そのお父さんは、心配して、外で帰りを待っていてくた。別の娘のお父さんは、彼女が失恋して、部屋で泣いているのを心配して、コーヒーを入れてくれた。わたしは、それを聞いて涙がとまらなかった。実の父親とは、こんなにも愛情深いものかと…
小さい頃、母親から聞かされた父親の話は、赤ん坊のわたしが眠る揺りかごを蹴飛ばしたり、冬のベランダで洗濯物を干している母に、鍵をかけて締め出したり…
ずっと後で知ったが、彼もまた父親から虐待を受けて育ったらしい。
今「父」と呼んでいる人は、酔えばベタベタ体を触り、自分の連れ子が、かなり酷い事をして懲役を受けたにも関わらず、その息子がいくつになっても問題を起こす度の無心に、甘い彼に意見や非難をされると、手も足も出し、物も飛んで来る。
結婚だけでも三度した母が大切だったものは、誰でもない自分だけだった。
わたしは、誰でもいいから人に愛されたくて、誰からも好かれたくて、いい子でいた。
父のように愛し、許し、諭し、育んでくれるような人に、大切に思われたい。
この人こそ、その人であると信じて、十八歳年上のその人に全てをかけて愛し、信じて、尽くすことができた。寝ても覚めてもその人のことを、思いながら、毎日が楽しかった。
だが、十年経つと、わたしより十、若い娘と半年以上も付き合いが続いていたことがわかった。
考えると吐きそうになる。結局わたしなど、誰からも愛されることなど無いのだ。親にさえ、愛されなかったのだから、当然なのだ。もう、生きていたく無い。
「ごめん下さい」
この辺りでは聞かない若い女性の声だ。南に開け放たれた玄関を、居間から廊下に首だけ出して目を細めて伺うと、
「突然で失礼とは存じますが、こちらでお手伝いとして置いて頂けませんでしょうか。」
その言葉を理解するのと、眩しさに目が慣れるのと同じくらい時間がかかった。返事とトランクスから出た脚のすね毛が恥ずかしいのに困っていると、
「凌霄花(のうぜんかづら)がとても美しくて…失礼しました。」
一礼して立ち去る。ぼくは慌て下駄をつっかけ追いかけていた。白い日傘を開こうとしていた彼女に、
「待って。あの、何か作って。」
言ってしまった自分に驚いた。
「父に了解もらわないとならないんだけど、とりあえずあるもので、何か作って。丁度ラーメンか何か作ろうと思ってたところなんだ。」
「わかりました。お邪魔します。」
家は祖父母が建てた古いものだが、海風に晒されてもびくともしない頑丈でモダンな造りだ。玄関を上がると真っ直ぐのびた廊下の右側がダイニング、その奥がキッチンになっている。階段下のパントリーを案内して、何を使っても構わないと言うと、
「お素麺はいかがですか。」
「いいですね。じゃあ、お湯を沸かしておきます。冷蔵庫も開けてみて。」
自分ではあまり使わない大鍋で湯を沸かす。
「薬味を採って来ていただけますか。」
と、竹で編んだ笊を渡された。低い生垣から庭が見渡せるので、脇で細ネギ、茗荷、紫蘇、生姜など細々と生えているのも見えたのか。と思いながら、廊下をはさんで西側の居間に脱ぎ捨てたジーンズを急いではいた。
薬味をそれぞれ採って、庭先の流し台で洗う間、非日常なのに不自然ではないこの状況を、ふわふわとスポンジの上でも歩いているような、夢をみているような感覚の中にいながら、あるいは新手の詐欺かとも思ったりしたが、到底詐欺など出来る要素が、彼女の風貌に欠片ほどもないから引き留めたのだと考えていた。
茹で上がった素麺を流水で洗い、水に冷やかした目の細かい笊をよく拭いて、それをひと箸ぶんずつ盛り付けて、薬味を刻んであしらった。花紫蘇が実に美しい。体感温度まで下がった気がする。煮浸しにしている茄子の飾り包丁は、早く火を通すためかとても細かく、箸も通りやすそうだ。中鉢に高く盛り付け針生姜。同じ出汁のアレンジで素麺のつゆも作ってボールに氷を張って冷やしてある。母が亡くなってから五年経つが、几帳面な父のおかげで、何がどこにあるか、ぼくにも一目でわかる。彼女にも使い勝手が良いのか、手際がよい。しばらくすると、胡瓜の千切りと金糸卵がガラスの皿に盛られた。ぼくはできた順にテーブルに並べて蕎麦猪口と、箸置きに、寿と書かれた包みの箸を向かえに置いて待った。
「お待たせしました。」
「ありがとう。一緒にいただきましょう。」
彼女を向かえに座らせ、手を合わせた。
「いただきます。」
取りやすく盛られた素麺と薬味をひと口すすって呑み込み、
「うまい。」
と言うと、彼女は安心したように、
「あぁ、よかった。」
と、つぶやいた。
「あなたも食べてください。」
「それでは遠慮無くいただきます。」
すすると、むせて大変見苦しいことになるのだと、恥ずかしそうに口にはこぶ。落語が好きなのに、気持ち良くすすれないのが悔しいのだそうだ。気管支が弱いのかもと相槌を打った。
「ガラスの器のほうがよかったかな。」
「いいえ。どの器も素敵ですね。こちらも骨董品ですよね。」
「祖父母が使っていたくらいのことしか、僕にはわからないけど、父ならわかるよ。」
「笊の編みかたも、大きさも色々揃っていて、こちらなら、お手伝いさんなど、いりませんね。とても良く整理されていて驚きました。洗濯物が男性のものばかりで、お役に立てればと思ったのですが…、片付けが済んだらおいとまします。」
「父が几帳面なんだ。ぼく一人じゃあ、こうはいかない。」
麦茶を注ぎながら、
「この辺りの人じゃないよね。何かわけがあるの。」
たちまち彼女の顔がくもり、大きな瞳に見る見るうちに涙がたまり、それをこぼさぬように懸命に堪えている。
「犯罪や借金じゃないよね。夕方には帰るから、父に相談してみよう。きっと力になってくれるから。」
涙を隠しながら片付けを始めた彼女をキッチンに残して、仕事場にしてしまっている居間に戻り、原稿をファックスした。今は船や釣りの雑誌、専門誌に記事や文章、気象情報を載せてもらって何とか仕事をしている格好になってはいるが、実はぼくもここに逃げて来たようなものだ。
大学に入って、落研で一席きいてみようかと、迷い込んだのが演劇部の稽古場だった。薄暗く、埃っぽく、当時はまだ煙草を習慣にしている者もいて、場違いな所に来たと、すぐに出て行くつもりが、ほかの見学者とごっちゃにされて、練習風景を見るはめになってしまった。紫煙の漂う稽古場に、台本を片手に演出しているのは、凛とした声の持ち主の女性だった。舞台に立っても充分見映えがするだろうに、飾り気のない清潔な美しさが、艶やかな黒髪と後姿だけで伝わってくる。振り向いて欲しくて釘付けになっていた。田舎から出て来たばかりの子どもには、初めて見る洗練された女性だった。バブルに浮かれた輩とは違い、迎合しない価値観をもった二年先輩の佐伯昌美は、早くも大手外資系保険会社や、証券会社に幾つか内定をもらったという噂のある才女で、今回は後輩に頼まれての演出だったらしい。そんなことも知らずに、どさくさ紛れに大道具について、イヤというほど玄能で指をいためても、昌美の姿を探しながらの作業を楽しんでいたが、公演が終わると、昌美の姿を見ることもかなわなくなった。何も始まっていないのに失恋した思いで、大道具もキライではないのに、いつ辞めようかと鬱々としながら忘年会の季節となり、パシリのぼくは強制参加だった。飲む間もなく、先輩たちの要望に応えて、それこそ走り廻っていた。一息ついた頃昌美は現れた。そういう席に出るのは珍しいらしく、みんな驚きの歓迎だった。一人が酌をすると、それを飲み干した。ここぞとばかりに、男どもが群がり次々と酌を繰り返す。かなり強いのか、少しも乱れない。しかし、それが気に入らない女が一人いた。昌美と同期でいつも主役の、美人で華やかな長谷川裕美子だ。悪態をつきながらパシリのぼくを捕まえて離さない。したたか酔って絡む。言われるままに酌をするしかない。誰かが言うのが聞こえた。
「今夜の餌食は塚本か。」
餌食は有難いが、泥酔の状態にただただ閉口するばかりだ。二次会が終わる頃には潰れていた。先輩たちは素知らぬ顔で、次の店の相談やら帰る者までいた。
「塚本君。長谷川さんを背負えるかしら。一緒に送るわ。」
その場にいた者が皆、かたまった。二次会まで付き合ったことすらない昌美が部員を送ると言うのだから。
ぼくは言われたまま裕美子を背負い昌美の後について、タクシーに乗り込んだ。大学にほど近い、この辺りに多い学生向けのアパートで、地方出身者は、大体借りている。
昌美は裕美子のバッグから鍵を取り出し、先に上がり、灯りをつけてくれた。二人でコートを脱がして、裕美子をベッドに横たえると、流行りの服で、体の線を強調している上に乱れて、目のやり場に困って布団を掛けた。昌美が灯りを消した。女性の寝姿を見たりして、横面をはたかれたようで、気まずかった。カーテン越しにも街灯がもれるので、部屋の中も見えて来た。部屋を出ようとドアに向かうと、さっきまで裕美子を背負っていた背中に、昌美の掌を感じた。それがぼくの胸に回り、背中に顔を埋めて、ため息が漏れる。先刻、昌美に名前を呼ばれて、彼女に認識されていた、という喜びで舞い上がるのを、抑えるのにいっぱいで、タクシーから降ろすまで、裕美子の存在を忘れていたほどた。もう何が起きているのか、考えが及ばない。ただ立ち尽くすだけだった。昌美が、風を纏うレースのように髪をなびかせて、ぼくの前に回り唇を合わせて来た。いつもその姿を目で追って、目が合うと慌て目をそらしていたその瞳は、今は瞼に覆われている。どうしていいのかわからないまま、昌美を抱きしめてみる。裕美子のベッドの脇で何も出来ないぼくは、昌美に全てを任せて、声を上げないでいるだけで精一杯だった。
それからぼくらは、お互いの部屋を行ったり来たりの同棲生活が始まった。
四年後、ぼくも何とか、小さな出版社に就職すると、いきなり生活が不規則になり、会えない日が増えた。そんなことも関係ないように昌美は確実にスキルを上げて、それから二年で海外支社に行ってしまった。優秀な昌美は、まるでぼくのことなんか眼中に無かったのか、ただ扱い易かったのか、何の約束もないまま、終わった。いや、始まってもいなかったのか…。
昌美には先が読めていたのかもしれない。だから必要以上の期待をしない。きっと誰に対しても…。
ただ寂しい。振り向けば居るはずの感覚が、バランスを失い、右側が空スカスカ寒い。漠然とした将来を夢見ていたぼくは、虚しさと惨めを砂のように噛み締めた。純朴な田舎者が、憧れの人と同じ時間を六年以上も過ごせただけでも奇跡だった。
あんなにも大勢の人が忙しくひしめき合って生活している所で、自分が片隅にいたことすら嘘のようだ。五年前に母が亡くなったのをきっかけに、実家に戻ってからは、たまに出版社に出向く度に、もうここでは暮らしていけそうにないことを、思い知らされる。みんな仕事をして、人間らしく生活しているのを、ただひたすら感心するのみである。帰り道、地元に近づいて行くうちに空や山、海や風が見えてくると安心する。
すだれの隙間から空が青く見える。濡れ縁から放り出して曲げた膝と、枕にして頭の後ろに組んだ指が痛んで起き上がった。軒先の風鈴は風にじらされ、鳴らずに身をよじらせるばかりだ。
腰ほどの生け垣の向こうで、若い女性が打ち水をしている。こちらも夢ではなかった。
「乾いた地面が水を吸って、お日様のため息を吐くみたいな、心地いい匂いがします。」
「布団を干した時の匂いにも似てるね。」
他愛ない会話が母を思い出させて、なんだか鼻の奥がつんと痛い。
庭に面した部屋は、外廊下が濡れ縁となり、繋がっている。玄関に面した、すぐ左手の応接間に移り、サイドボードから取り出したミルで豆を挽く。ギアを閉め直したばかりの歯車は、豆を噛む手応えと、空間まで砕いてしまうような乾いた音がする。サイフォンを出し、アルコールランプに火をつけた。しばらくすると湯があがる。すぐには落とさず、挽かれた豆が躍るのを眺める。香りが立ち込める。ランプの火を外すと澄んだ褐色の液体が、鎖を伝ってサーバーに、スーっと引き込まれて落ちる。カップに注ぎ、彼女にもすすめた。
「サイフォンで落としていただくなんて、贅沢ですね。とってもいい香りです。いただきます。」
「いつもは、ドリップなんだけどね。」
「手で挽くと濁りがなくて、綺麗なコーヒーになりますね。」
「雑味がないよね。」
「まだコーヒーがどんなものかも知らないのに、デパートで、ミルの色や形の古めかしいのが気になって、ずっと眺めていたら、母も欲しくなったのか、サイフォンとデミタスカップも買ってくれました。ふちがコーヒー色のサンドベージュのカップとお皿には、コーヒー色の、遠目にはわからないほどの細かいふがはいって、カップの中はクリーム色、丸っこくてシンプルで…。 もっと可愛いカップもあるのに変な子だと、小学五年生のわたしの地味な好みを不思議がっていました。」
彼女の甘い声は首筋をくすぐるようで、むずむずしている自分が恥ずかしくなり、オーディオをいじる。祖父や、父のレコード、最近のCD など、多彩なコレクションから、バッハの、邪魔にならないサラバンドを選んだ。コーヒーの香りにチェンバロが溶け込む。
程無く父が帰って来た。玄関で見慣れない白いサンダルと日傘を不思議そうに眺めている。
「お客さんかい。」
と、こちらを向いた。暫く固まって彼女をみつめて、
「こちらのお嬢さんは。」
と、聞いた。
「家でお手伝いさんをしたいそうなんだ。名前は…」
彼女はソファーからすっと立ち上がり、深々と頭をさげてから言った。
「お留守中に、突然上がり込んでしまいまして、申し訳ございませんでした。水越さやか、と申します。こちらには必要ないかと、おいとまするところでした。」
「いや、お父さん。どうも訳がありそうなんですが、ぼくでは、らちがあかないのです。」
慌ててぼくも立ち上がり、すがるように言った。
祖父が亡くなると、建築事務所を人に任せて、漁業権を買って、仲間と気の向いた時に釣りに出ている父の影響で、ぼくも海や、気象に興味をもったのだ。海軍上がりの祖父の躾で、父は何でもできて几帳面だが、さらに海の男のおおらかさが勝る。憧れの快男児だ。
「何もない所だし、なぜここに寄ったのかな。」
父は、彼女がこれといった荷物もないのを、それとなく見ながら聞いた。
「凌霄花がとても美しかったので…」
「慎一朗には、どれが凌霄花かわからんだろう。千草が聞いたら喜んだな。」
母は戦争で身寄りをなくし、実の娘のように可愛がった祖母と、いつもふたりで庭に花を植えたり、手入れをして楽しんでいた。
「死にそうな顔をして歩いているさやかさんを、千草と母さんが呼び寄せたのかもしれんな。まあ、好きなだけ居るといい。」
その言葉が、さやかのこらえていた涙の塞きを切った。実際父は、さやかが死を見つめていたことを察してしまった。
「わたしたちの子ども時分には、いつ爆弾が落ちて来るかわからなくて、死と背中合わせの毎日だったから、お若いかたが、命を粗末にするのは辛いんだ。時間が癒してくれることもあるかもしれない。少し待ってみなさい。親戚の家に遊びに来たつもりで、のんびりしなさい。」
さやかは、肩を震わせ、身をよじり、吐くほど泣いて気を失った。
「あれほど泣けば、頭痛もひどいだろうから、薬を用意して、お前にできるだけの思いやりをつくしてみなさい。気まずいはずだが、お前もわたしに遠慮しないように。そのつもりでわたしが帰るまで引き留めたのだろうから。」
父が粥を作ってくれたのを、目覚めたさやかに食べさせて、鎮痛剤を一粒だけわたした。
申し訳ないと、また泣くのを、なだめるこちらも辛かった。薬が効いたのか、また泣きながら眠った。
やっと、風鈴が鳴った。
翌朝、父がさやかに風呂をすすめた。ぼくは母の浴衣を用意した。父と並んで台所に立つなんて、照れ臭くて、普段ならできないが、久しぶりに手伝う。
泣きはらした目が、さやかを幼くみせる。紺地に白の百合の浴衣に、博多の半幅帯を貝ノ口に結んで、自分の物のように着たさやかを、父が誉めた。
「若いのに着物が着られるなんて、嬉しいね。千草や母の着物が沢山あるから、どれでも着てみるといい。慎一朗、後で見せてあげなさい。」
後でわかったことだが、さやかは二歳になると、父親の暴力から逃れる為、東京で母親と二人暮らしをしていた。夜の仕事から酔って帰った母親の着物を、どう教えられたのかも覚えていないが、畳んでいたのだそうだ。下町の銭湯で一番風呂に入った後、無理矢理五時には寝かされ、母親は店に出かける。夜中に目が覚めると母親を呼んで泣き叫び、二階建て長屋のアパートの玄関を開けて見ると、小さな街灯が屋根屋根の瓦を頼りなく照らしていたその向こうから、幽かに流行り歌が聞こえてくる。そちらに向けて、ひとしきり泣き叫んで気がつくと、傍らに母親が寝ていた。さやかは、小さな指をその鼻の下にそっと寄せて息を確かめると、自分もまだ生きていられるのだと思ったそうだ。流行り歌の時期から計算しても、わずか三歳くらいの女の子の話だ。
母親の機嫌が悪いと、銭湯の洗い場で、横抱きにきつく抱えられたまま頭を洗われて、シャンプーがなくなり、指の間で髪が軋む音がするほどすすいだ後も、しつこいくらいに幾度もきつく髪を引っ張られ、痛いと言うとよけいに酷くされるので、早く済むように身をかたくして耐えた。
買い物について行くと、知らぬ間に母親は物陰に隠れ様子を伺い、さやかが気づき、探して泣き出すと、ケラケラと笑いながら出てきた。
よその赤ん坊を見ると抱き上げ、我慢するさやかが、耐えきれずやきもちを妬いて泣き出すまであやしてから、強かに叱りつけた。
隣近所のおばさんに、昨日のお裾分けのお礼の挨拶をさやかがすると、帰ってから、
「生意気だ。親に恥をかかせた。」
と、叩いて怒られた。
口より先に手が出るので、こどもの頃のさやかは、頭をかばう仕草が癖になっていた。
入園の時期を忘れられ、幼稚園には入れてもらえなかったので、いきなり入学すると、小学校の大きな校舎や大勢の子供、広い教室や体育館が怖くて、どこに行っても、いつも隅にばかりいた。
一年生の夏には、入学で調べたらしく、父親が追って来たが、世話になっていた勤め先の夫婦に、間に入ってもらい、引き取らせた。話し合いに使わせてもらった、そのお宅の階段の上から、隠れて覗いた、階下のテーブルの上に置かれた手の指に鋏まれた煙草が震えていたのが、さやかの唯一知る、父親の姿とは言えない、その一部だった。さやかはその夏、熱が下がらず、下痢を繰り返し、プールの授業に出られなかった為、未だに金槌なのだ。
その後父親は、逃げても転校先がわかる度、追って来たらしい。
五年生の夏、夕立に慌てて洗濯物を取り込み、母と二人で畳んでいるとき、仲の良い友達姉妹が羨ましい。自分もお姉さんが欲しい。と、話すと
「お兄ちゃんならいるよ。」
母親が何を言っているのかわからなかった。
「あんたにはお父さんが違うけど、お兄ちゃんが二人いるんだよ。男の子だから置いて来たんだよ。あんたも男だったら捨てて来たんだけど、女の子だったから仕方なく連れて来たんだよ。」
自分も捨てられたかもしれない。捨てられてしまったお兄ちゃんは、どんなに悲しいだろう。ただ泣くばかりだった。お兄ちゃんたちが可哀想だと…。
籍を入れずに一番長くパパと呼んでいた人も酒癖が悪く、その人からも逃げたり、戻ったりで、小学校は五校変わった。さやかが六年生になると、籍が抜けていないか確認の為、役所に行った母親は、偶然(⁉)、昔馴染みに会って、六年の終わり頃には、三度目の結婚をしてしまい、また転校した。義兄と義弟も一度にできてしまった。その時の転校では、姓が変わってしまい、持ち物を見た同級生に、残酷にも、なぜペンケースの苗字がちがうのか聞かれ、同じ名前の仲良しの友だちと持ち物をすべて交換したと、嘘をついてしまったそうだ。
転校する度、友達を失った。小さな初恋も消えた。いつも自分の居場所は無く、またいつ引っ越ししなこればならないのかいつも心配で、その浮遊感や不安は、未だに胃の奥に消化出来ない、しこりのように残っている。親から正しく愛情を受けたことがなく、一切誉められたことも無く、何かを始めると、
「お前なんかには無理だ。出来るわけない。」
と、否定ばかりされて来たので、いつも自信がなく、母の従属物でしかなかった。何故自分を産んだのか、母親を恨み、同じ失敗を繰り返し、深く考えることもせず、反省もしない彼女を尊敬出来なくなっていた。
さやかは、白黒はハッキリつけたい頑固な部分もあった為、不器用で、人と、どう付き合えばいいのかわからなくなり、大人になると、自分の意見を押したり、要求することは出来なくなっていた。
しかし、普段のさやかは、そんな苦労を微塵も感じさせない。
ぼくの父は、娘ができたように可愛がる。近所や友人には遠縁の娘を預かっていると言って、はばからなかった。何も持たないさやかに、せめて服や下着を買いに行こうと誘っても、さやかは断り、母たちの浴衣の下には、洗濯物を見ると、その着物用の下着を着けているようだ。
陽の高いうちは色の濃いもの、風呂上がりには白地の浴衣。古くこなれて張りのなくなった木綿や麻を寝巻きにして、まるで母があつらえたように着ている。
打ち水以外、敷地から出ないさやかを、父が買い出しに誘うと、浴衣のままのさやかに言った。
「小地谷紬を着て来なさい。」
しばらく待つと、柔らかく涼しげな小地谷に、あさぎ色の帯を文庫に絞めて、片方の垂れだけ長く流して着てみせた。父は嬉しそうに、よく似合うと誉めた。車に乗る前に、帯をクルリと前にまわして、潰れないようにするのも、父は面白がった。
小さな商店街やスーパーでは、慎之介さんが、噂の娘をやっと連れて来てくれたと、大騒ぎだったらしい。中には僕の嫁だと勘違いして若奥さんと声をかける者もいたらしいが、父はニコニコと終始ご機嫌で、多く買いそうになるのを、いたむといけないからと、さやかにとめられるのが、また楽しくて仕方なかったと教えてくれた。
台風が来た。養生のため雨戸を閉めていると、何か黒いものが飛び込んで来た。生まれて二、三ヶ月の痩せて汚い仔猫だった。父と二人だったら、野良のまま放っておいたかもしれない。
「君もわたしと同じだね。」
さやかが仔猫に、ぽつりと言った。
父が、名前を考えようと提案してくれた。くろすけ、しっぽが長いからシッポ、などの候補がでた。その時、スタン・ゲッツをかけていたから、スタン、ジョアン・ジルベルト、カルロス…結局、ジョアン・ジルベルトからジジと名前をもらった。
ぼくは引っ掻き傷だらけになって、仔猫を洗った。下顎から腹にかけてと、四肢の先が白。ビー玉のような目は翡翠色。
初めて、さやかと二人でペットショップに出かけた。台風の中、和装は珍しい、人目が気になるが、二人でいられる喜びもある。
仔猫用の餌、ミルク、トイレ、爪研ぎ、またたび、鈴の付いた首輪、ベッドに、枕代わりのぬいぐるみ。おもちゃも幾つか買った。
まだ細く頼り無い首だが、赤い首輪がよく似合った。
翌日病院に連れて行った。蚤と耳ダニの薬。予防注射は、検査結果を待ってからだった。一週間後、幸い病気も無かったので、四種混合の予防注射を打たれた。毎月通って、三ヶ月目に虚勢手術を受けた。
父と僕は罪悪感で、その晩の酒はいささか苦かった。
しかし、当のジジはいつもと変わらず、やんちゃに飛び回っている。
どこにでも登り、前肢を手のように器用に使い、何でもチョイチョイと落として見る。
「だめだ。」
と、声をかけると、こちらを見る。が、見ながらも、落とす。
さやかが、片付けながら済まなそうに謝るのを、首をかしげ、チョコンと塵取りの上に行儀よく座って見ているのが、何とも可笑しい。
父と顔を見合せて笑うなんて、何年振りだろう。
「人間の価値観なんて下らないと、教えてくれているのかもしれないな。」
妻を看取り、愛犬も逝き、自分の、そう遠くない死をみつめながら、責任がとれないと可哀想だからと、犬も飼えなかった父が、さやかの命を慰めるために、仔猫を飼い、日々を驚きと笑いで過ごしている。
さやかは、雀や蝶を追うジジを止めようとする。
ある日ジジは、何か小さな物を、くわえて来て見せた。それが逃げて、初めてトカゲだったことに気付いた彼女の悲鳴で、こちらが驚かされた。
父は、庭の木々や草花の世話をさやかに教えて手伝わせる。虫に苦労しながらも、茶花やぼくが雑草でひと括りにしてしまう草まで、名前を知っていたり、生けて見せたりもする。
ぼくが、こどもの頃のように、二階の茶室で時間があると茶を点てさせられているが、正座が苦手なようだ。興味は専ら器の方らしい。
魚を捌くのは、流石の食いしん坊だけあり、すぐに父の釣果を干物にしたり、昆布締めにするようになった。
ふとした時に、さやかは声を殺して泣くこともあったが、それも少なくなってきたと安心していた。
ただ気になるのは、月のものが、酷く辛いようで、痛みの為、吐いたり、貧血で倒れたり、着物を汚さないように、整理用品にも、気を使い、裾避けの内側にビニール袋を巻いているようだ。後から思うと、時々酷い咳をしたり、湯上がりにのぼせて倒れ込んでいたが、普段は元気なので、そんなものなのかとも思い、父とぼくでは、遠慮もあり、なかなかどうしたものか分からない。父が用心の為に、さやかを会社の従業員にして、保険に入れてくれたが、勧めても病院に行くことはなかった。
海の風は、仕舞い忘れた風鈴を強かに鳴らす。
海はうねりを隠して、沢山の白く小さく尖った波で覆われる。
桐の花が終わり、さやかの着物が合わせの紬に変わり、割烹着で冬支度を始めた頃、僕たちの留守中に、その人の訪問を受けた。
家の東側の駐車スペースに車を入れる音がしたので、さやかは反射的に玄関へ向かっていた。
むさ苦しい僕たちの友人の訪問には慣れていたが、その人は違っていた。
あねさんかぶりをほどきながら、顔を上げると、女性とこどもがいた。地味なスーツも、その人の美しさは隠しきれない。沈黙と言うほどの間もなく、
「慎一朗さんはご在宅どしょうか。」
「すぐに戻るかと存じますので、お上がりになってお待ちください。」
母子を応接間に通し、靴を揃えて、湯を沸かし、ジジを自分の部屋に閉じ込めた。
先に帰ったのは父だった。例の如く見なれない靴。それも母子と思われる二足だ。
さやかはいつものように出迎えた。
「お帰りなさいませ。お客様がお待ちです。只今お茶をお持ち致します。」
父は、さやかの様子を伺うと、動揺を隠し、何かを考えて答えを見付けようとしている彼女に、かける言葉がなかった。
さやかの方は、自分の気持ちが、ざわめくのが何故か解らなし、自分の立ち入る事ではないと思い込もうとしていた。
応接間に入った父に彼女は、すぐに立ち上がり、母子で頭を下げた。
「初めまして、佐伯昌美と申します。こちらは息子の涼介、じきに四歳になります。」
「慎一朗もすぐに戻ります。ここは何もない所で、話が長くなるようなら、早目に出前でも頼んで置きますが、いかがでしょう。」
「いいえ、長くはかかりませんので、お構い無く。」
そこへ、ぽくが帰った。
「さやかさん。お客様ですか。これ、お土産。ケーキです。」
「お帰りなさいませ。慎一朗様にお客様です。こちら、すぐに、紅茶とお持ち致します。」
「そうですか。誰だろう。」
友だちの奥さんが立ち寄ったのかと、のぞいてみた。
「まさか…、昌美さんですか。」
「お忙しい所、お邪魔して居ります。」
「お久しぶりです。ご結婚なさったんですね。おめでとうございます。息子さんですか。」
妙な動揺と共に父の横に座る。
さやかが、ケーキを出し、こどもの前には温めたミルクを置いた。
「単刀直入に申し上げます。わたしは、末期の癌で、転移もあり、長くありません。ほかに頼れる所も無く、こちらに参った次第です。どうか、この子をお願い出来ませんでしょうか。」
「父親は。」
「彼は父親を知りません。わたしは、この後ホスピスに入り、末期医療を受けて何ヵ月かで死にます。この子を育てて頂く費用は充分に用意があり、わたしの保険もありますので、ある程度の年齢になれば留学させて頂いて結構です。」
「父親は慎一朗ではないのですね。」
「お父さん、十五年振りに会った方です。」
慌てて大きな声を出し、男の子がびっくりした。しかし、台所に居るはずのさやかにも聞こえるように言ったのも確かだ。
「ならば、なぜ慎一朗に。」
「一人で生きて、一人で死んで逝くつもりでいました。この子を授かり、育ててみたいと思ってしまいました。両親も亡くなり、思い浮かんだのは、塚本さんだけでした。慎一朗さんは、実直で優しく、誰よりも信用できるかたです。こちらの都合ばかりで、申し訳ありません。」
「その子の父親は…。」
「生まれたことも、伝えて居りません。」
「涼介君も、三つとは言え、もう理解しているのだね。」
「わたしの勝手で、こうなってしまったこと、塚本さんのこと、この子なりに理解してくれています。ご迷惑は重々承知致して居りますが、どうかお願い申し上げます。」
昌美が頭を下げると、涼介も足の届かないソファーの上で、幼気に頭を下げて見せた。
「先ずは、父親に知らせるべきだと、ぼくは思います。」
「そうだな。先走り過ぎかもしれないな。」
昌美は、美しい眉を歪めた。
「家庭のある人なのです。」
「そんなことは関係ない。」
「全てが上手くいく家庭も、人生もありはしない。あなたの一存で、涼介君まで天涯孤独にしていい訳がない。」
「この子はわたしの宝です。生きた証です。慎一朗さん以外の人には、お任せしたくはありません。わたしはもう、二度とこの子に会うつもりはありません。モルヒネで理性を失った自分など誰にも見せられません。荷物や書類は後日送らせて頂きます。申し訳ありませんが、早いに越したことはありません。涼介。いい子で居るのですよ。」
呼びかけに、振り向きもせず昌美の車は走り去ってしまった。
いたいけな涼介に、かける言葉もない。しばらく男三人ソファーで、身動き一つとれずにいた。
「みなさん、お夕飯ですよ。」
涼介の小さな肩をそっと押して、とぼとぼと、ダイニングに向かう。
「おおっ。」
父の驚嘆。涼介を抱いて椅子に掛けさせると、やっと見えたのか、息を呑む様子がわかった。
テーブルいっぱいに並んだ料理は、オムライス、ホワイトシチュー、ハンバーグ。彩り豊かで、星やハートの人参、パプリカ。シャンパングラスにリボンを結び、涼介の前には、蜜柑を搾ったジュースが入っている。こうなると、みんなで乾杯だが、何にしようか、していいものか…
「ようこそ、涼介くん」
父がグラスを肩まで上げた。みんなそれに習った。
ジジは自分の食事が済むと、空いた椅子で顔を洗い始め、一通り終わると、グラスのリボンをちょいちょいした。
涼介はジジが気になって仕方ない。
「お豆腐が混じったハンバーグは、好きですか。」
さやかが涼介に聞く。
「はい。美味しいです。」
デザートようだが、それでも彼には少し大きなナイフとフォークをなかなか上手に使いながら答える。
「それはよかったです。お腹に余裕があれば、葡萄のゼリーがありますよ。」 「はい。」
緊張のせいなのか、三つの子の受け答えにしては、しっかりしている。さすが昌美の躾の賜とも思うが、少し可哀想な気もする。
食事の後でジジと遊んだ。一歩ずつ焦らず接していくしかないなどと、考える自分は既に昌美の策略にはまっているようだ。
さやかが涼介を風呂に入れる。
「今年は、目まぐるしい変化の年になったもんだ。」
父も、策略に甘んじたようだ。
「申し訳ありません。」
ぼくは、深く頭を下げた。
暫くすると昌美から、幼稚園の手続きの済んだ書類、戸籍謄本、何通かの委任状、預金通帳、印鑑、母子手帳、へその緒、予防接種の手帳、体調の見方、癖、好き嫌い、アルバムに日記。彼の荷物、服… 最後に開けた箱には、昌美が死んだ後で必要な書類、保険証券などが入っていた。葬儀は無く、葬祭会社と、関連の寺に任せてあるので、足労は無用とのことだ。恐らく何一つ抜かりはないのだろう。そして、束になった封筒は、四歳から三十歳までの誕生日の涼介宛に書かれた手紙だった。
あの昌美が、こんなにも愛情溢れる人だったのかと、母親の様々なありかたを知った。
さやかは、自分など捨てられた方が良かったと、泣いていたこともあったが…
父はさやかに頼んでくれた、
「こう言う事情になってしまったが、迷惑でなければ、私たちを助けてくれないだろうか。」
「ご存知の通りのそこつ者ですが、あらためて、宜しくお願い致します。」
何となく、ぼくは肩身の狭い思いがするのだがが、二人とも以前と少しも変わらずに接してくれる。
幼稚園の送り迎えはさやかの楽しみになった。
通い始めてしばらくすると、
「さやかはなぜお洋服きないの。」
友だちに聞かれたのか、車から降りてくる和装は、こどもの目にも珍しい。
涼介が尋ねた。
「お洋服もってないの。」
涼介は目を丸くして言った。
「ぼくが買ってあげる。」
さやかは、優しく涼介を抱いて、
「お着物が大好きだから、このままでいいのです。」
がっかりした涼介に、さやかは、
「涼介さんは、とてもお優しいのですね。そのお気持ちだけで、嬉しいですが、もしも、欲しいお洋服が見つかったら、そのときは涼介さんに買って頂きますね。」
涼介も気をよくした。
「お夕飯は、何にしますか。お買い物に、付き合って下さいね。」
さやかは涼介の薄いガラス細工の様なプライドを、とても大切にする。
クリスマスの飾りを、母が亡くなって、初めて飾った。ケーキやクッキーなど作るのを手伝いながら、ジジと遊びながら、時には、ぼくや父に手荒に扱われ、涼介は、少しずつ子どもらしくなってゆく。寝るときはいつも、ジジとさやかの間にいる。ジジは新入りを弟のように思っているようだ。そのせいなのか、ジジのいたずらが減った。
暮れは冷たい風が吹いたが、涼介は風邪もひかずに年を越した。さやかがひかせるわけもない。声の調子が変だと、花梨の蜂蜜漬けを潰して紅茶に入れて飲ませ、鼻をすすれば、焦げるまで焼いた葱の皮を剥いて、甘い部分だけをたっぷりと使ってポタージュにして飲ませる。いつの間にか、キッチンは二人が一番長く居る場所になった。
おせちのなますに、大根の太いのが混じったのは涼介のせいだ。
正月は穏やかな天気が続いた。父と岬で凧を上げて見せると、やりたがったので、凧糸を持たせた。風に持って行かれないよう手首に巻き付け、痛みも忘れて、首も疲れる程になっても、止めようとしなかった。独楽は手が小さいので、上手く行かず、悔しそうだったが、さやかが、酷く下手で、父も腹を抱えて笑うので、涼介が慰めていた。書き初めは、誰が何枚書いてもジジの作品になった。
如月の頃、昌美が亡くなったらしい。保険会社から、涼介宛に、保険金を定期保険にするように書類が届いた。ぼくは、委任状と、返信用の書類を返送したことを、父に告げた。父は黙って頷いた。梅がほころぶ夜だった。やはり、昌美はぼくにそっけなく、あの時と同じ、つかみようの無い悲しみが押し寄せた。独り散歩に出ると、マフラーを持って行かれそうな風を受けながら歩いた。
すっかり冷えきった体で戻ると、ラム酒を温めて、さやかが待っていてくれた。すぐに体は温まって、さやかを見ると、彼女の涙は琥珀色にそまり、静かに頬を伝い続けた。自分の死に方について、昌美の死に方について、女の悲しみを考えずには、居られないのだろう。
彼女の母親はどうしているのだろう。ふと思ったが、五つの時の冬のある日、幼稚園に行けなかったさやかが、初めて見る折紙を買って来て、細く切って輪を幾つも作り、色とりどりに繋げて飾り付ける間、さやかがいくらやりたがっても、そこに居ないかのように無視され、のりにすら触らせてもらえなかった。見映えが悪くなるのを嫌ったせいだ。その番遅くなって、母親は、見たこともない男を連れて帰って来た。ケーキのみやげを貰って、それがクリスマスと言うものなのだと、大分後で解った。と聞いたのを、思い出した。子どもを育てる資格もない人だ。
二月の終わりの風の強い晩、突然父が、思い出した。祖母のひな飾りを出した。古いが大切にされてきたのがよくわかるひとつひとつを、初めて見るふたりは、大切に飾り、楽しんだ。父は、さやかに
「母のお雛様だった。千草が嫁に来て、彼女も大切にしてきた。さやかさんにも大切にしてもらいたい。」
母も、さやかも、これが初めて自分で飾れるお雛様だった。涙するさやかに、母の面影を重ねて見ているのだろうか。
ジジはそんな様子をぼくと、眺めて、いたずらはしなかった。そして、四日にしまわれるまで、雛壇の前で、眠り猫よろしく、番を引き受けていた。
三月十五日。涼介の誕生日。父は鯛をさばき、さやかはケーキを作り、ぼくは当たっても痛くない、野球のセットとスケッチブックを買って来た。ジジとボールで遊ぶ涼介に、昌美の手紙を見せなければならない。失礼だが、先に読ませてもらった。
美しい縦書きの手紙は、四歳の彼には読めない漢字も含まれて、彼女の厳しさが偲ばれる。
「涼介、昌美さんからの手紙があるけど、自分で読むかい。」
彼は頷いて自分の部屋に行き、長い時間をかけてそれを読んだ。そこには、幼稚園で、お友達を大切にしなさい、関わるすべての人に感謝しなさい、母は多分もう死んでいるが、いつも空から涼介のことを見ているので、恥ずかしくない行いを心掛けなさい。と言う内容だ。彼は多分、理解出来るまで、繰り返し読み返して行く。そして三十歳には、ぼくには解らなかった昌美という人の答えを、そこに見出してくれるはずだ。
桜が散る頃、さやかの出血と、貧血、咳も酷くなり、ある日、腰が痛くて起き上がれなくなってしまった。嫌がるのを無理に総合病院に連れて行く為に、洋服を買いに行く。恥ずかしいので、涼介を連れて買い物に出かけた。涼介は、さやかのことを、シンデレラか何かと思っているのか、レースや、フリルのワンピースを選ぶので、
「病院で先生に診てもらうために、簡単な服じゃなきゃいけないんだよ。」
と、説明すると、
「さやかも、死んじゃうの…」
泣き出した。
「治してもらうために行くだけだから、大丈夫。治ったら、涼介の選んだ服でお祝いしよう。」
「ん。」
涙を拭いながら納得してくれた。
ヘモグロビンの数値が、足りなく、男性なら死んでいると言うことで、即入院。しばらく血液を増やしてから、原因である子宮筋腫を子宮ごと、帝王切開で摘出する。卵巣は残す。と言うことだ。
多くの女性が、女性であるがゆえに、様々な病に悩まされる。だが、それが自分の身近な人となると、どう接していいものか…。
病室のドアを、引くのを躊躇っていたら、涼介が
「さやかー」
と、飛び込んでいた。で た。
うみかぜ