新・遠野物語

2011年3月11日。
この日、東北地方は一度死んだ。
そう言えば、反発する人もたくさんいるであろうが、どこからどうみても息の音を止められたとしか言いようがなかった。

しかし、僕はその後気づかねばならなかった。
それでも戦う人間がいるという事を。
僕は知らねばならなかった。
何故彼らが戦うのかを。

自然災害という途方もなく大きい物に立ち向かっていく勇姿はまさに人間の美しさであると思わざるを得なかった。
「伝えねばならぬ。」
そういう使命感を僕に持たせるくらいその勇姿は震えるほど美しかった。

2011年3月11日

2011年3月11日

その日、僕は中学の卒業式を迎えていた。正直に言うと、自分の通っていた中学校があまり好きでなく、友達も多い方ではなかった。そして、決して社交的な性格をしていたというわけでもない。どちらかといえば、性格は悪く、排他的で他を信じぬ根暗な人間であった。校長先生が卒業の送辞を読み上げている間、僕は地獄のような三年間からようやく解放されるという喜びと高ぶり、何よりも解放感があった。
このような調子であるからか、卒業式が終わった後、クラスメイト同士がひしと抱き合う中、僕はすぐに帰宅の路についた。三年間で着古した学ランを早く脱ぎ捨てたいという思いがまず真っ先にあったのだ。そして、真新しい高校のブレザーに身を包み、あらたな生活を始めるのだという決心があった。僕は変わるのだ。失った三年間をこれから取り戻そうと思っていた。
ここまでかなり後ろ向きに書いたが、僕の中学校生活がかなりの絶望感に包まれていたかと言うと、今思えばそうでもない。多い方ではないとはいえ、しっかりと信用できる友人ならいたし、先輩からはなぜか好かれ、後輩からはなぜか慕われる人間だった。排他的であるとはいえ、一度自分の懐の中に入ってきた者に対しては格別の優しさと尊敬、情を以って接していた。しかし、そういった肯定的な部分は莫大な否定的な部分によって覆い被せられていた。だから、総合得点的に見れば、僕の中学生活は「絶望の三年間」であったと言える。

だがしかし、それも終わった。
学ランを脱ぎ捨て、部屋着に着替えると既に心機一転した気分になっていた。今日という日をどれだけ渇望していたか。
しかし、余韻に浸るのも辞めにした。僕にはせねばならぬ事があった。進学する高校の課題があった。数学と英語の薄っぺらい問題集が課題として郵送されてきていたのだ。残りの春休みを楽しむためにも、僕はそれに取り組む事にした。
問題が二、三問解き終わるであろうとしたその時であった。

「ドスン」
という音と共に二階にある自室が揺れた。一瞬何が起こったか分からなかったが、それが地震であると気づくのに時間はかからなかった。それどころか、中学生の時に習った初期微動やら主要動やらといったような単語を思い出すほどの冷静さがあった。
階下の台所に行って自分の母親のところにいった。
「地震だな。」
そう言ってテレビをつけた。地震速報のテロップがどの番組でも放送されていた。
「へぇ、すごく大きな地震だったんだなぁ。」
震源地が東北地方と知るや、どこ吹く風といった素振りになったのを覚えている。近畿圏内から出たことの無いこの少年にとって東北地方なんていうところは田舎という漠然なイメージしかなく、まさに京から遠く離れた地・・・『遠野』であった。
すぐに課題を再開しようと二階に上がった。夕餉までの一時間半ほどで英語のワークを全て終わらせた。薄っぺらいワークであったこと然り、内容といえば、受験問題に比べるとかなり簡単だったからだ。
次に僕が東北の現状を知った時はその夕餉の時間だった。いつも通り、なにかテレビを見ようと電源を点けた。しかし、チャンネルを繰っても繰っても地震の事ばかりで、いつもこの時間にしている番組は存在していなかった。不謹慎な事であるが、僕は「仕方なく」地震のニュースを見続けていた。画面の右下に出ている津波注意報のテロップには黄色と赤色の帯が日本列島をクルリと囲んでいた。まさに、日本全域が厳戒態勢にあると言った感じだ。
ここにおいても未だ「どこ吹く風」という状態であった。確かに、テレビに映し出されている津波や火災の映像は本物であろう。実際それによって人が死んでいるのも確かであろう。衝撃的であるのはまったくの事実だ。
(しかし、現実味がない。)
不謹慎であるので、決して言動には出さなかった。しかし、この実感というのはおそらく僕だけの物ではない。関西に住んでいる人間の中で同一の感想を持った人は少なくないだろうと思う。
(実際に現地に行けばどうにか思うのであろうが・・・。)
僕は決して冷酷というわけではない。できる事であれば、現地に行ってみたいとも思う。しかし、一介の中学生がこんな大きな災害に立ち向かってどうなるのだという半ば諦めの心もあった。それに、そこまでをする義理がなかった。東北地方という場所は未だ僕の「懐」には存在していなかった。前述の通り、基本的に排他的である人間であるからか、自ら好んで何かを「懐」に入れようとする行動は起こさなかった。いつもいつの間にか大切な物や友人は自分の「懐」の中にのらりくらりと侵入してきていて、掛け替えのない物に変貌していた。
だから、この時の自分というのはまさか東北へ行ってボランティアをするなんて事は考えてもいなかった。
確かに、気の毒だと思う。こうやっていとも簡単に何千人もの命が屠られていくのは理不尽だとも思う。そして、悲しい事であるとも思う。しかし、それらの感情は僕を突き動かすには至らなかった。僕は知っていた。このような感情がなんの意味も成さぬ事を。

被災者に祈りをささげる事が何になろうか。
本当に必要な時、神様というのはそこにはいないのだ。
被災者を気の毒に思う事が何に成ろうか。
そんな物は偽善でしかない。

本当に人が人を想う時、まず行動をするものであると思う。
2011年3月11日。
僕の思ったことといえばこれだけだ。 
それから再び「東北地方」の名を意識するのは一年半ほどの歳月を要する事になる。しかしながら、中学を卒業したばかりの僕がさほど興味のない未曾有の震災に示した初めてのこの思いは今に至るまで僕の生き方と行動の元になっている感は否めないのである。

遠野へ

遠野へ

自分と東北との繋がりとは何だろう。
今でこそ、数えきれないほどのそれは存在している。しかし、その当時の僕はどうかといえば、首を傾げる物がある。高校二年生の夏当時、僕と東北になんの繋がりが存在しているのであろうか。まったくと言って良い程皆無である。
そんな自分が宮城県石巻市に行くことになった。理由は簡単で、友人が行くからそれに付いて行こうといったような感じだ。その友人の名前は永尾俊晴といった。当時の僕にとってはただの同じ部活仲間であり、同じボランティア委員会の人間であるといったような認識しかなかった。彼に対する印象といえば、誰にでも優しく、聖人君子とはこういう人間の事であるのだなという印象を受けるほどだった。しかし、僕と永尾が特別仲が良いかと思うとそうでもなかったような気もする。同じボランティア委員会として彼と共に東北の地を踏む事は一種の義務的な使命感があったし、日本人なら一度くらい訪れたって良いだろうという自己啓発的な思いもあった。
その時、震災からすでに一年半が経とうとしていたが、その間、このような思いで被災地に(しかもボランティアという口実で)足を踏み入れた人間はいないだろうと思う。それほどまでに、僕の決心は緩い物であったし、それを堅い物にしろと言われても、東北は未だ僕にとっては遠野その物であるのだ。

余談にはなるが、このエッセイでは自分の思っていた事を素直に書き記そうと思っている。だからこそ、一部不謹慎な記述に至る時もあるが、ご了承願いたく思っている。もちろん、取り繕おうと思えば言動や記述などいくらでも綺麗にできる。しかし、僕はそれをしたくないのだ。素直な記述であればこそ、素直に伝わるという物である事は僕が最も理解しているところであるからだ。

話を戻そう。
早速不謹慎な記述になってしまう事を前述する。
果たして、震災が起こるまで宮城県石巻市という地名を知っている人が関西人の中で何人いたであろうか。僕は後にボランティアの世界に入り込んでいくことになるのであるが、そこにいるボランティア人達に「宮城県石巻市に行ってきた。」と言えば、すぐに理解してくれる。しかし、彼らが震災前から宮城県石巻市の場所を知っていたかと言うと、決してそうではないと思う。
「宮城県といえば仙台。」というのは関西人のみならず、全国の人が共通してもっているイメージであろう。それは関西においても、「関西といえば大阪」という連想を浮かべられるが如くである。
「宮城県第二の都市はどこでしょう。」という質問を2011年3月11日以前にしても「石巻市」とすんなり答える事の出来る人間は殆どいないであろうと思う。それほどまでに、石巻市は知名度が低かった。それは今回の震災で被災したほかの都市でも同じような事が言えるであろう。それがなぜか今、ボランティア人界隈では知っていて当然の都市名になった。「被災地といえば・・・」という不謹慎な連想ゲームの選択肢の一つとして当てはめられるようになった。
皮肉にも、石巻市は被災し、どの都市よりも甚大な被害を受けたからこそ日本中で有名になった。『人が死ねば死ぬほど話題になる』というのはマスコミ界では当たり前の話である。どのような世界でも大体は数字の大きい物が優先される。人の命は皆平等で重いも軽いもないという倫理観を現代日本人は教育で培っているのに関わらず、どうしても見るニュースといえば人が多く死んだ方に視線が移りがちになるのだ。

関西人の平均的な認識がこれであるのに、当時の僕が石巻市という仙台にくらべたらよっぽど小さい都市を知るはずがなかった。それどころか、宮城県の名物が牛タンである事も東北に行くと決まってから知った話である。
僕なんかよりもよっぽど行きたいと思っている人間や将来有望な若者を差し置いて遠野に出かけるのだ。もっとも、震災から一年半経った今、東北に行きたいという若者が多いかどうかも定かではない。

同行者は永尾の父を初め、矢野陸斗という同じボランティア委員会の会員、そして永尾だった。全ての進行及び保護は永尾の父が一任してくれることになった。さすがの僕でもこれには感謝の意を思った。他人の子を預かるなど、かなりの決心が必要であるのにも関わらず、いとも簡単に引き受けてくれたみたいだった。永尾の父は震災後から今に至るまで、ずっと現地に寄り添って復興活動を行ってきた「できる大人」であった。その人生の大先輩とも言える人が『他人の子を預かる』というリスクを背負ってまで僕らに見せたい物とは何なのであろうか。そして、見せたいというその思いはどこから噴き出て来るものなのであるのか、甚だ疑問であった。しかし、その疑問は後に解決される。一年後、僕が同じような行動を取っていたのはまた後述する事にしよう。

ここまで、何の決心もなく、自堕落なまま東北に行くような素振りの僕であるが、直前になるとやはり意識が変わった。前日の夜、僕は2011年3月11日の時を思い出した。テレビで目の当たりにした絶望と悲しみ。それらは自分には一切関係はなかった。しかし、当事者はといえば溜まった物ではなかっただろう。家族を失う悲しみ、財産を奪われる憤り、そして故郷を奪われる実感。理解する事はできずとも、汲むことくらいはできるであろうかと密かにこの研修旅行に対しての目標を打ち立てた物であった。

遠野道中

僕は乗物酔いをよくするタイプだ。それにも関わらず、夜行バスという交通手段の選択をしたのは一重に高校生であるがため、お金がなかったからだ。一番チープな夜行バスを選択し、もちろん四列シートである。それはもうかなり辛い物であった。ちなみに、この時僕は初めて夜行バスに乗った。これは人の乗るものではないなぁと思いつつ、現在でもそのチープさから交通手段としてよく選択してしまう。
なぜ、夜行バスがこれほどまでに辛いのか、理由がある。まず、第一に足を思うように伸ばせない。これは睡眠をとるうえではかなり死活問題であろう。足を延ばせないという事はイコール身体がガチガチに強張った状態で寝るという事だから、疲れが取れるはずはない。第二に前述の通り、僕は乗物酔いをする。仙台に至るまで何本ものリポビタンDを干したわけだが、焼け石に水も良い所である。
梅田にて、夜行バスに乗り込み、約十二時間かけて仙台に到着する。十二時間といえば、丸々半日である。3時間以上乗物に連続して乗ったことのない僕にとっては途方もなく長い時間であるように思えた。
夜行バスの性質の悪い所はこれだけではなかった。僕がもっとも鬱陶しかったのは、サービスエリアに着くたびに常夜灯を点けられる事だ。常夜灯といえば聞こえがいいが、結構明るく、眠りの妨げになる。無論、深夜3時にトイレに行きたくなる人もいるであろうし、そういう人達が足元を確認するためには必要であろう。しかし、眠りの浅い僕は常夜灯の光だけで目が覚めてしまう。結局、総睡眠時間は五時間程になってしまった。無論、仙台についた時はすっかりと憔悴しきっていた。
先に新幹線で仙台まで来ていた永尾の父親はやつれた僕らの顔をみて一笑した。そして、気遣ってくれたのか、コンビニに行ってご飯を買う事を勧めてくれた。そこでも数本のリポビタンDを買った。気休めも良い所である。

仙台と石巻の距離感というのを想像できるであろうか。実は、この頃、仙台から石巻に繋がる仙石線は津波被害のため、運行が中止となっていた。そのため、唯一の公共機関はバスくらいしかなかった。しかし、僕らにとって運が良いのは永尾の父が同行者としていてくれたことだった。バスなんかよりも数百倍居心地の良いマイカーでの移動となった。その日運転席に座るのは「日高見の国」という石巻の特産物を加工する企業の社長である古藤野さんという人物であった。生まれも育ちも石巻という感じで、その喋り方は訛りがかなりあった。たまに聞き取れなかったりもしたが、とても気さくな方だった。
「関西からねぇ。」
古藤野さんは高校二年生という若者が石巻に来ている事に嬉しそうであった。これは僕らにはよく分からない心境であろうと思う。どうも、大人が来るよりも若い世代の人に来てもらった方が嬉しいみたいなのだ。僕らは今回、大したボランティアをするというわけではない。ただ、今の東北の現状を目で確かめに来たのだ。邪魔だと言われても文句を言えない状態にある。それにも関わらず、古藤野さんは隙あらば、「若い子が来てくれるのは嬉しい」としきりに言った。
余談になるが、その後、僕は数十回にわたって石巻に訪れる事になるのであるが、現地の人々にこの言葉を言われなかった事はないというくらいよく聞く言葉になった。

仙台と石巻まで、時間として約一時間半。すでに体力を削り取られていたため、車の中では必要最小限の事しか喋らなかった。いや、喋られなかったと言う方が妥当かと思う。それほどまでに疲れていたのだ。
仙台から少し走らせると、建物が見る見るうちに消えていき、道路の周辺には何もなくなっていた。更地に雑草が生えているだけで、何もなかった。動いていない重機がたまにあったりしたが、本当にそれだけである。少しだけ不安を覚えたのを今でも覚えている。
向かった場所は石巻市において最も被害を被った南浜という地域だ。ここは、一面住宅地や工業地域であったらしい。しかし、今はその面影などはない。僕らはそこで車を止めて南浜の地を踏んだ。
東北とは言え、真夏はやはり暑い。風も生ぬるく、決して心地良い物ではなかった。それに加えて疲れのせいか、一瞬くらりとする時もあった。
「ここはたくさん家があったんだ。」
古藤野さんはそう言うが、正直信じられない。ここに家があっただなんて誰が信じるであろうか。遮蔽物がないため、風は容赦なく僕の長い髪の毛を吹き乱す。そして爛々と光る太陽は雑草たちに光合成をするように促した。
(まるで何百年も前からこんな感じだったんだろう。)
そう錯覚するほど、本当に何もなかった。震災の起こる前の南浜を知らない僕にとって、何もなく、風が吹き、太陽が照りつけるこの光景こそ自然であるような気がした。
しかし、その錯覚は徐々に間違いであると気づく事になる。
雑草の生い茂る中をかき分けて足元に目をやった。するとそこには家の基盤がいくつもいくつもあった。上の構造物だけ津波によって流され、基盤だけが残ったのであろう。ある家では、鉄筋コンクリート製のブロック塀が残っている家もあった。コンクリートは一部剥がれ落ち、錆びた鉄筋を露出させていた。その鉄筋はぐにゃりとひしゃげており、津波の威力を物語っていた。
(本当にここには人が住んでいた。)
足元に落ちている壊れたゲーム機、割れた茶碗、脚の折れた椅子。それらは人間の営みを僕に伝えるには十分すぎるほどの説得力を有していた。流れ落ちる汗は暑さのためなのか、得体の知れない事との出会いによる恐怖なのか・・・。

その瞬間がおそらく、宮城県石巻市が僕の懐に入ってきた瞬間であったと言えよう。

荒野

これほど静かな大地を僕はこれまで見たことがあっただろうか。広大な大地の中で動くものが自分ひとりかのような錯覚すら覚える。聞こえるのは風が吹き、雑草がざわめく音だけであった。たまに遥か向こうの製紙工場から人工音がなるばかりで、鳥の鳴く声すら聞こえなかった。
(ここに人が住んでいたのだろう。)
僕は自分に言い聞かせるようにそう思った。最早、そこには数刻前の自分などいなかった。かと言って、自分の中で何か変化が起きたわけでもなかった。人が死ねば悲しく、それに触れれば冷たい。そういう人間として当たり前に持っている感情や倫理観が爆発するように自分に膨れ上がったに過ぎない。だから被災者に対して同情をするような思いも湧かなかったし、あくまでも他人事であるという観念は今に至っても拭えてはいなかった。
だが、無償に空しくなったのだ。見渡すばかりの荒野は今日始めてこの大地を踏んだ僕には当たり前のようなことだと思えたし、かえってそれが自然だとも感じた。
(いや、しかし・・・。)
足元に散乱する人の営みの跡は僕に現実を突きつけていた。写真を撮る手も震えていた。当時から執筆を趣味で行ってきたため、語彙力には自信があった。しかし、この時の感情を説明せよと言われても、当時の自分はもちろん、今でも説明できるか自信がない。強いて言うなら、無力感と空虚が入り混じったような感情だった。

その後、僕らは再び車を数分走らせて日和山という高台に上った。この高台は南浜の平原を一望でき、水平線まで見渡せる絶景スポットだった。ただし、それはおそらく震災前の話なのであろう。今は震災の傷跡を残す南浜の荒野を見られるのみとなった。以前はここからたくさんの人間の営みが伺えただろう。南浜に住む人々のハイキングスポットにもなり得たに違いない。震災直後は津波の魔の手から逃れるための一時的な避難場所として使われ、テレビでも度々その光景が放送された。そして今はまさに震災の負の遺産と化している。
今、僕らが日和山から見下ろせるのはやはり雑草が生い茂る大地のみである。

災起荒野在(災起キテ荒野在リ)
地夏草木深(地ハ夏ニシテ草木深シ)

杜甫の「春望」を引用し、頭の中で詩を作った。この詩は決して当時の僕の心境を表したものではない。ただ、今、自分の眼前にあるこの光景を淡々と説明したに過ぎない。しかし、この時の衝撃こそ、自分の原点ともいえるかもしれない。

すっかり打ちひしがれて、心身ともに疲れ果てていた。それは同行していた永尾や矢野も同じようで、南浜から去る道中は言葉数が少なかった。食欲がまったくわかず、お昼ご飯を食べるのも難渋を示したほどであった。
その日、古藤野さんの経営する牡蠣の養殖場を拝見したり、名物である笹かまぼこを食べたりと、震災から復活しつつある産業を見て幾分力を得た気がした。そしてその夜は元気復興委員会という石巻の産業を担う経営者が集う集会へ参加することになっていた。
その日は集会後、牛タンBBQがあるということで、どちらかといえば僕らの真の目的はそちらに存在していた。
集会所は簡素なものだった。仮設住宅の商店街の中央に建てられた少し大きめの広場に経営者達は集った。正直、話の内容は難しく、ついていける内容ではなかった。それに、今日の疲れもあってか、うとうととしてしまう事もあった。しかし、石巻に住む彼らが決して震災や津波に負けていないということだけはよく理解することができた。
そして、メインのBBQが始まった。その日集会に集まった経営者はもちろんのこと、彼らの親族も参加をしていた。僕が人生で始めて参加する「飲み会」となった。そしてそれは盛況を極めた。被災の象徴ともいえる「石ノ森萬画館」(この当時、被災により閉館を余儀なくされていた。)が目の前にある中で、ある者は会話に花を開かせ、ある者は歌に興じ、またある者はただその場の雰囲気を楽しんだ。
僕ら三人は牛タンを食べつつ、震災を経験した人の話に耳を傾けた。ヤマサコウショウという企業の経営者である佐々木さんはまるで自慢話をするかのように震災体験を語ってくださった。
「オレは柱につかまっていたんだ。海水が胸の下あたりまできてなぁ。死ぬかと思って念仏を唱えたよ。」
東北訛りでそう言った。僕は彼の話の内容というより、話をするその姿勢に驚きを感じた。僕らに気を使ったのか、それとも元来そういう語りをする人なのかはわからないが、その話口調はただただ軽快そのものであった。
ここでビールを干し、笑いあう人々ももちろん被災者である。彼らにとって先の震災というのは決して古い記憶というわけではないだろう。傷口だって塞がりきっているはずはないのだ。だが、彼らは震災で受けた傷の痛さ、辛さ、苦しさよりも明日を生きる活力でいっぱいだったような気がした。
(これこそ、人間のあるべき姿なのかもしれない。)
そう思わざるを得なかった。
僕は今を輝く高校生であったし、その若さに対する自負もあった。しかし、この時ばかりは自分の若さ故の経験の無さを恨んだ。そして同時に、初老を向かえた被災者の皆様に元気をもらい、また、自分の中にあったモヤモヤを拭ってくれる要因ともなった。

その夜は非常に長かった。
牛タンの味が美味かったのは確かであると思う。しかし、それを覚えていないのは牛タンをしのぐ旨味がそこにあったからに相違ないと今となっては思う。

BBQの会合は終わろうとしていた。すでに夜も更け、木炭に灯った火が未だ煙を吐き続けていた。しかし、それもほどなく消えるであろう。古藤野さんを始めとして、大人たちは全員すっかり酔っぱらっていた。石巻中で灯りが灯っているのはここだけかと錯覚するくらい、広場より外は暗かった。
今回のBBQにはヤマサコウショウの代表佐々木さんの息子である、佐々木彰大君も来てくれていた。佐々木君は僕よりも一つ年下だ。ただ、視察旅行に来ただけの関西人を見て目を輝かせていた。
「来てくれるだけっていうので嬉しいんです。」
親父さんに負けず劣らずの訛ったイントネーションでそう言った。彼が僕に向ける目はかなり眩しかった。
「本当に何かをしに来たわけではないんだ。」
隣にいる永尾も矢野も口々にそういった謙遜の言葉を並べた。きっと佐々木君の目には『はるばる関西から来てくれた凄い人達』という感じに映っているのだろう。だけど、実際ここにいるのは『はるばる関西から来たのにも関わらず、無力感にショックを受けている関西人』であるのだ。
BBQをしている間、僕は関西に帰ったら何をしようかと考えていた。一体何に立ち向かえばいいのか、そしてこの被災地に住む人々のために何ができるのか。
考えても考えても自分の無力さに気づくばかりだった。
「なんで来てくれるだけで嬉しいんだ。」
僕は佐々木君に思わず尋ねた。
「震災から一年半以上経ってるのに、忘れられてないんだなって思えるからです。」
佐々木君はさほど考える事なく即答した。唖然とする僕を一瞥すると、話を続けた。
「震災が起こってから、テレビとかで色んな人に頑張れって応援されました。でも、それってどうしても自分個人に向けて言われてるっていう気はしなかったんですよね。自分が頑張れって言われてるはずなのに他人事みたいなんです。でも、こうして、実際会いに来てくれるのは僕にとってすごく実感のある『応援』なんです。」
そういった事を佐々木君は言った。僕は目から鱗が落ちるような思いでその話に耳を傾けていた。

もしも自分に、被災地のため、もしくは被災地に住む人のためにできる事があるとするならば、自慢のこの健脚と行動力を以って現地を訪問する事だろう。この事を自分よりも年下の男の子に教えられるとは思ってもいなかった。

BBQの会合は関西から来た僕ら三人と佐々木君の『これからの復興に向けて』を一人ずつ言葉にして表してお開きとなった。会合の締めが大人たちではなく、僕たち若者に託されるという事は、これからの被災地復興が若者の手に委ねられるであろうという事と、そうでなければならないという大人達の思いがあったのであろう。
僕が話す出番がやってきた。話すことはさっき決めていた。正直、高校二年生である自分がどれほど力を振り絞ったところで、震災という地球のくしゃみのような現象に立ち向かえられるはずがない。また、被災者の気持ちなど分かるはずもない。だけど僕には自慢できる唯一の武器があった。それは、関西という場所からきた馬鹿な少年にはとっておきの武器であった。
「僕は、皆様の輝きを関西に帰って伝えたいと思います。」
僕の武器、それは「お喋り」である。僕は人と会話をするのが得意だ。多趣味である事と読書をよくする事が相まって、言葉の引き出しも多いというのは自他共に認める力である。今、僕は「宮城県石巻市を訪れた」という新たな引出しを得た。この引出しの中身がいつ活用されるかは分からない。それはもしかすると明日かもしれないし、これから何十年先かもしれない。
それでも、僕は絶望を経て、未だ立ち上がり輝き続けるこの人達の事を伝えたい。これが人間の本当の輝きであるのだ。人間は逆境の中でこそ、強く根を張り、両手一杯に日光を浴びようとする物なのだ。
(ああ、忘れていた。それが人間なのだ。)
絶望の中学生活を思い出した。逆境の中だからこそ、生徒会執行部に挑戦した。クラスで誰一人していないギターと歌に挑戦した。逆境の中だからこそ、強く生きようとしていた。なんとなく、今自分の眼前で酔っぱらっているこの人々達が自分と重なった。
被災地に来てからすっかり弱り切っていた僕の心は再び芯を持って復活した。皮肉な事にその復活は被災地にいる人々によってそうなったのである。

以下は余談になる。
「あの光が何に見える・・・。」
酔っぱらった古藤野さんはいつもの様子とはとても違った。すっかり饒舌になり、文字通り出来上がっていた。古藤野さんは旧北上川から中瀬を挟み、対岸にポツリポツリと見える灯りを指差しながらそう言った。灯りは弱く、小さい物だった。人が住んでいるのか、或いは工事関係者の仮住まいなのかわからなかったが、ともかく寂れた印象を持った。おそらく酔った勢いで言った言葉であろうが、僕らはその質問に対して真剣に考えた。
「あれが人間の光なんだ。」
正直に言うと、その時は苦笑を浮かべるばかりで何一つ理解できなかったし、古藤野さん自身、特に深い意味もなくそう言ったのであろう。しかし、筆者は今になってこの言葉の真意が分かった気がした。
(多分、そこまで深い意味はなかったんだろうと思うけど。)
そう思いながらも、今まであの言葉の意味を探し求めてきたのは初老を過ぎたよっぱらいの言葉に得体の知れない力強さと説得力を感じたからであろう。

筆者はその日、神戸市の摩耶山にいた。都会に密着している自然豊かなハイキングコースとして老人夫婦にこよなく愛される山なのだ。僕はよく山登りを趣味として興じる。その日は懐中電灯片手に登山をした。山の中腹付近にある展望台で一休みをしようとした。展望台からは神戸の港町が一望できる。
自分は生まれてきていないが、ここら一帯は阪神淡路大震災によって壊滅的な被害を受けた場所である。その時はそれこそ、灯りなどはなかったであろう。だれが復興を信じられたであろう。しかし、今は日本でも屈指の夜景を誇る眠らない町と化している。
その美しさに見とれた時、僕はふと古藤野さんの話を思い出した。ようやく、あの時の言葉が理解できたような気がした。

逆境に負けず、復興を信じる人間の輝きがこうして電気の光として還元されている。阪神淡路大震災でできたのだ。今回できないはずはない。今はまだ暗い夜道でも、いつかかならず明るく町を照らしてくれるだろう。
その町を照らす光を作るのは、元をたどれば人間の輝きなのである。

訪問後

被災地の訪問は一瞬にして終わった。学んだことや知ったこと、感じたことが多すぎて未だに整理がつかなかった。帰りの夜行バスでもうまく寝付くことができず、ただ悶々と整理をしようとしていた。
BBQの会合で宣言した事をやらねばならなかったが、具体的に何をしていいのかはまったく決まっていなかった。後の話ではあるが、何をすれば良いのか気づくのには大分長い歳月がかかった。そして、復興ボランティアに従事していく上での大きな軸、そして悩みの種にもなった。
実は、被災地訪問からさらに一年間、僕は復興ボランティアをする事はなかった。もちろんいつも頭の片隅にはあった。だが、それよりも部活が忙しくてそれどころではなかった。永尾も同じ部活であり、同じ気持ちであった。二人の間ではその事を本格的に考えるのは部活を引退してからだという暗黙の了解があった。
一年が経ち、晴れて引退する事ができた。実は、その間、本当に何もしていなかったと言うわけではない。僕と永尾、矢野が高校生という身でありながら私費で被災地を訪問した事は教師会で瞬く間に広まった。結果、感心を覚えた先生達は今回の訪問と体験を学校の礼拝(ミッションスクールであったので礼拝の時間があった。)で話してほしいと僕らに依頼したのだ。それが訪問から一ヶ月ほど経った時であり、ある意味でこれが僕の最初にした復興ボランティア活動だった。そしてそれを高等部部長先生(他校でいう校長先生)である石森部長が聞きにきていた。それに対してよっぽど感銘をうけたらしく、僕ら宛に手紙を書いて出してくれた。
手紙の内容を要約するとこうであった。
まずは、僕らに対する賞賛の言葉が述べられていた。さすがに照れ臭く、そこまで褒めるような事ではないと謙遜するくらいだった。そして、次に昨年、生徒の活動として被災地訪問を計画したが、諸事情があり断念した事への無念さが書かれていた。しかし、そこに突如自主的に決断をし、実行した事に対する敬意が書かれてあった。以上は僕らに対する感謝の念がこめられていたが、締めくくりにあたる部分は石森部長独自の持つ復興観を赤裸々に綴ってくれていた。僕にとってとても衝撃的な文章であったので、引用したいと思う。

最後のお祈りにもありましたように、大切なことは、「心の中に、この人たちの事をおぼえておく」ということに同じ思いを持ちます。東北の各地が復興するのは、阪神大震災の時よりもっと長期化することは、おそらく間違いないでしょう。津波の被害だけでなく福島県の原発の処理など、難問は山積みしています。しかし、未来を創っていく君たちがこの礼拝で語った思いを持ち続ける限り、そしてその思いをみんなで共有する限り、いつの日か「復興した」と心の中から手を取り合って言える日が来ると信じます。

以上が石森部長の手紙であった。
僕は今日の今日まで、そして明日からもあの日、石巻で感じたこと、出会った人々の事を忘れる事はなかった。

これは僕にとっても嬉しい事であるが、僕らの被災地訪問から次の年の夏、学校が悲願していた被災地訪問を生徒の活動の一環として実施する事ができた。聖書の授業を担当していた松隈先生は僕にこう言ってくれた。
「正直、吉田君達が去年行ってなかったら、今もなかっただろうね。」
BBQの会合で宣言した事が実行できている事に僕はすごく嬉しさを感じた。しかし、僕はここで満足してはならないという思いがあった。学校のみならず、もっと広い範囲で宮城県石巻市の事を伝えたいと思っていた。そして、その思いは僕を学校の外でもボランティアをするという決断に誘った。
永尾と僕はこうして「高校生ボランティア団体WITH」という団体に入った。この瞬間というのは今になって思うが、僕の中にある「復興ボランティア」という観念が複雑化した瞬間であったと思う。
それが良い事なのか悪い事なのかはわからない。WITHに入ってから二年ほど、学生団体としてのボランティア活動の従事する事になるのであるが、あの礼拝の時のような達成感を味わえることはついにできなかった事だけは前述しておこう。
もしも、この時、WITHに加入していなければ・・・という事をこのエッセイを執筆しながら考えているのだが、今になってはどうする事もできないし、後悔しているわけでも決してなかった。

しかし、学生ボランティア団体の蓋を開けてみれば、そこは「多様な価値観」の皮を被った蛙共の暮らす井の中であり、とてもではないが僕の性に合った物ではなかった。

ボランティア団体へ

僕が高校生ボランティア団体WITHに入った動機というのは、学校から外に出て、さらに広い世界においてボランティアがしたいという思いからであるが、そのきっかけというのは永尾からの誘いであった。永尾は僕より先にWITHに入り、僕に入るよう勧めた。この頃になると、僕が永尾に抱く信頼感というものは確固たるものとなっていたし、永尾からの誘いを無碍に断るわけにはいかず、その団体に加入した。これより以後、永尾とは運命共同体のように何をするにも一緒に行動するようになった。
ともかく、僕は初めて学生団体というものに加入することになった。先の項にも書いたとおり、この決断というのは良くも悪くも転機になった。これより先、僕の東北復興ボランティア活動は加速していくが、同時に中身のない要領も質も悪いものであったと酷評する他ないと思う。ただし、後悔しているかといえばそうではなく、これらの活動のおかげで出会えた人々もいたし、学べたこともあった。若さゆえにしていい失敗をここで犯したと思うし、やって良かったと思う。

話がそれてしまった。
僕も永尾もHPでこの団体の活動理念や経歴を調べていた。HPを見るに学生だけでしているボランティア団体でありながら五年以上続いており、その活動経歴についても申し分がなかった。しかし、そのHPが詐欺であるとまでは言わないものの、実際の現状は凄惨たるものであった。あんな立派にHPに書いていて恥ずかしくないのかというような感じであった。
まず、経理がなっていない。お金に対して無頓着なのは貧乏人の僕にとってはあり得ないことだった。それこそ、針の穴に紐を通すが如く気にしていいところであるのにも関わらず、会費の収集も滞っているのがほとんどであった。現在、僕や永尾が何をするにしてもまず第一にお金のことから考え出すのは一重にこの団体のお金に対する適当さがそうさせたと言わざるを得ない。実際、後にWITHですることになるイベントの経理管理は僕と永尾が担当することになった。
そして次に、ミーティングの内容の低さである。別に自分が高レベルであると自嘲しているわけではない。自分はどちらかといえば馬鹿という種族の部類に入る。しかし、そんな僕でさえもこのミーティングの可笑しさについては笑うしかなかった。発言をする人も一定であり、発言をする人でさえ、誰かの意見を否定する割には対案を出さない。僕は効率の悪いことを非常に忌避していたので、これにはイラつきを禁じえなかった。
計画性の無さも目立った。どうやら僕らがこの団体を入るだいぶ前から東北訪問を企画していたらしいが、それは計画半ばでほぼ頓挫しかけていたのが現状であった。
ここまで問題の詰まっていた団体であったのにも関わらず、僕がこの団体でやっていこうと思った理由は親友である永尾がここでやっていきたいという決意を示したからだ。永尾がやるならば付いて行こうという思いがあったのだ。

そうして問題が山積みのまま僕はWITHに入った。まずしたのはWITHのメンバーを補填することだった。問題がたくさんあるこの団体を立て直すには、僕とぎゃおの力では到底敵わない。せめて、もう一人有能且つ積極的な人材が欲しかった。そうして、僕が誘ったのは南口あゆみという一つ年下の後輩であった。この女の子は僕の中学生の時の後輩であり、兼ねてから東北ボランティアに興味を持ってくれていた。誘うと、一瞬で興味を持ってくれ、瞬く間にWITHに加入した。
人材の補填が終わってから、僕と永尾、そして南口は企画段階で頓挫していた「東北訪問」企画を再興させた。この企画は実行に移されることになったが、既存メンバーで参加の意思を表したのはゆりりんと呼ばれる高校一年生の女の子だけであった。
「ずっと行きたかったんです。」
後に諸問題でWITHへの参加ができなくなってしまう彼女であったが、計画が頓挫していたこの計画を僕らが加入するまで保持し続けていたのは彼女に他ならない。この時の熱意だけは流石に感服と尊敬の意を抱いたものだった。

さて、訪問スケジュールは九月と決まった。今のところ、この四人の訪問メンバーの内、東北に訪問したことがあるのは僕と永尾だけであった。頼みの綱は当然僕ら二人となる。ここでふと、重大なことに気がついた。よくよく考えてみれば、学生だけで東北に訪問するのは今回が初めてであるということを。
訪問中は失敗の連続であった。そして、帰ったときは疲労困憊の極みだった。だから、十数回に渡る僕の石巻訪問の中で初訪問の次に印象に残る訪問となってしまった。今でも永尾とはあの時の失敗を思い出しては笑いあうものであった。
しかし、この時の訪問もまた、僕にとって重大な転機となった。この訪問で出会った『いしのまきカフェ「 」(かぎかっこ)』は僕のボランティア人生のみならず、それを含めた僕の人生観を変えてくれるきっかけになり得た。

そして同時に僕が学生ボランティアをやめる遠縁にもなったことを先に明示しておきたい。

三度目の訪問

これが僕の三度目の訪問となった。関西国際空港から二時間半ほどで仙台空港に到着する。ピーチという格安の飛行機に乗ったが、値段が安いほかにはいい所など一つもないほど劣悪な飛行機であった。それでも、片道わずか7,000円ほどで飛んでくれるのだから文句は言えない。

今回の訪問の最大の目玉はやはりなんといっても、『いしのまきカフェ「 」』との交流及び業務体験である。この団体について説明をしなければならない。
以下、この団体のことをカギカッコと略すことを先に明記し、説明したい。カギカッコとは震災後、NPO団体によって、石巻市に高校生中心となって運営するカフェが作られたことが事の起因である。カギカッコは現在でも石巻市役所の一階にて市民に親しみある喫茶店を営んでいる。ちなみに、責任などは大元であるNPO団体が負うのであろうが、カフェのメニューや店頭販売物にいたるまで、すべて高校生考案によって成されている。まさに高校生の自立を促す先進的なシステムである。
今回、どこの馬の骨かもわからぬ僕らの交流要請に対して積極的なレスポンスをしてくれたのももちろんカギカッコの高校生なのだ。

話を戻すとしよう。
今回の訪問でしたことは最大の被災地となった南浜の視察、石巻2.0という復興団体への取材、そしてカギカッコとの交流である。その他にも、さまざまなことをしたが、ここでは割愛させていただきたいと思う。
南浜視察ははずせないプランである。やはり、まずこれを見ないことには始まらないという僕と永尾の共通する思いがあった。予想通り、南口さんもゆりりんも初めて僕がこの大地を見たときと同じような表情になった。南浜には「がんばろう石巻」と書かれた看板が存在する。この看板は震災直後に建てられたもので、震災復興のモニュメントとして輝いていた。実はすべて私費で作られたものらしく、訪問をするたびにソーラーパネルが設置されたり、震災を伝えるためのデジタルブースなどが追加されたりしていた。このように、凄惨たる荒野で市民にとっては希望の場所になり、よそ者にとっては鎮魂の意を捧げるにはよい場所となった。無論、僕らもゆっくりと手を合わし、黙祷をした。
南浜を見た彼女たちはやはり無言となった。僕と永尾はさすがに三回目ということもあり、それほどのショックは受けなかったが、一年前行った時とまったくなにも変わっていないという事に言いようのないやるせなさを感じたのは否めなかった。
「すごいですね。」
一見無味無感な感想を南口さんは言った。しかし、その気持ちはよくわかる。頭の整理がつかなくて、感想が上手く言葉にできないのだ。僕は何も言うことなくうなずいた。
南浜視察の後は石巻2.0に向かった。このNPO団体はこの当時から、そして今も石巻の復興を担う第一人者と言っても過言ではない。その業務たるや様々な分野に触手を伸ばし、特に若者に対しての教育に力を入れていた。
ちなみに今回の訪問ではそんな石巻2.0が管轄するボランティアチーム向けの簡易宿泊施設に泊まらせていただいた。作りや設備はかなり簡素なものの、宿泊費はかなり安く、これは学生である僕らにとってかなり嬉しかった。
業務の説明を聞くにつれてなんだか僕はとても嬉しくなった。去年の八月に訪問した際に見た人間の輝きをもう一度垣間見たような気がしたのだ。
元気復興委員会の人々が立ち直そうという思いであふれていたのに対し、こちらでは生まれ変わろう、若しくはさらに良くしていこうという希望に溢れていた。それはきっと、石巻2.0の役員さん達が比較的若い世代であることに起因するのであろう。

さて、次の日はいよいよ目玉イベントであるカギカッコとの交流である。今回はオリンピックフェスタという市民体育大会のようなイベントで業務体験をすることになっている。
「はじめまして。」
代表してそう挨拶するのはしろーと呼ばれるカギカッコでは希少な男性メンバーの一人である。彼は現役引退後もしばしOBとして店の手伝いをしていた。その他、こんちゃん、あーね、りくたろと言ったような個性的な高校生メンバーが集った。学生間交流は前回学校で東北訪問をした際、東北学院高校としたことがあるが、このような場での密着した交流は初めてであった。
さすがにゆりりんは緊張した顔面であったが、僕はためらう事なく積極的に話しかけた。不思議な事に、目の前にいるのが被災者の少年少女である感覚はなかった。なんてことはない。僕と同じような高校生ではないか。
オリンピックフェスタではオリンピアの方々も参加していて、盛況を極めた。カギカッコ自慢のカラフルな飲み物は飛ぶように売れ、呼び込みをしている僕ら関西人が来ていることも知らず知らずのうちに市民の間で知れ渡った。
業務がひと段落すると、僕と永尾、そしてしろーはピンチヒッターとしてオリンピックフェスタの競技種目に参加することになった。大縄跳びや玉ころがしなどは若さに任せた力によってかなり優秀な成績を残した。
その際、お年の召した女性が僕らに向けてこう言った。
「君らのような若い世代が笑顔でいてくれると心配いらないねぇ。」
その女性にとっては他愛のない言葉であったのだろうが、この言葉は僕の心に深く刻み込まれるようになった。そして、その言葉の重さを本能的に感じ取った。
僕らは飛行機の時間があるので途中で抜けなければならなかった。
「よっさん(僕のあだ名である。)達もう帰っちゃうの!?」
名残惜しそうな声であった。僕もせっかく仲良くなった人と別れるのは悲しかった。しかし、また会うことを約束して大手を振って場を去ったものだ。

帰る際、オリンピックフェスタで起こったことを僕は今でも鮮明に覚えている。
なんと、石巻の市民が拍手で僕らを追い出してくれたのだ。別れに感傷的になっている僕は思わず涙しそうになった。おそらく、『関西に来たボランティア人』に対して拍手をしているのではないと直感した。きっと、僕ら一人一人に対して「また来いよ。」という思いで拍手をしてくれたのだろうと思った。

以下は余談である。
もちろん、今になってもカギカッコのメンバーとは関西と宮城を隔ててつながっている。その始まりはもちろん、今回カギカッコを訪問しようと言った永尾の提案によるものであるが、今でも繋がっているという奇跡的な原因というのはりくたろの別れを惜しむ声と石巻市民の拍手があった事に他ならない気がしている。

辞める。

三度目の東北訪問から、ようやくWITHは東北支援ボランティアに向けて腰を上げていくことになる。永尾がもし、WITHに入らなかったらWITHはどうなっていたかを考えると、おそらく潰れていたんじゃないかなと思わざるを得ない。WITHではまったく無役職であった永尾であるが、僕の信頼と尊敬はむしろ彼だけにあり、彼だけが僕の頼りであった。この時、彼がどれだけ自分を尊敬してくれているのかは分からなかったが、それは今後の行動で示せば良いと思っていた。

ともかく、WITHは今年度、東北復興チャリティーフェスティバルを独自に開催することになった。簡単には言っているが、決して簡単なことではなかった。それを一番に危惧していたのは永尾である。チャリティーフェスティバルを開くにあたり、WITHはまったくの無名である。大人の後ろ盾なしに高校生だけでこんな大層なイベントを作り上げるのはさすがに無理があるんじゃないかと思ったのだ。これを意見したのは永尾であった。一見消極的に見える意見であるが、決してそうではない。永尾は自分達の代は他団体のイベントに乗っかることによって名前を広めていき、チャリティーフェスティバルなんていう大きなイベントは後の代にたくそうという意図もあった。
だけど、僕を含めて、WITHのメンバーはやりたいという気持ちが多数派だった。これでは永尾は自分の案を引っ込めざるを得ない。
しかし、永尾の危惧は的中することになる。文字に起こすのも面倒になるほど、辛い三ヶ月が僕を襲った。僕は兵庫県から余った予算30万円をもらってくる役割を受け持った。その30万円を以って開催費にしようとしたのだ。結果としては、30万円を確かにいただくことができた。しかし、その手続きは複雑を極め、領収書などの書類収集に非協力的、もしくは頼りにならないメンバーのために、ストレスがどんどんと溜まった。

しかし、三ヶ月という短い期間での準備をする中、良いこともあった。それは何よりも石巻に訪問する機会が増えたことだった。三ヶ月の間に三度僕は石巻を訪問した。その度にカギカッコのメンバーと会い、食事などを通して楽しんだものだった。結果として、僕は彼らとの絆をさらに深めることとなった。

「大学生になってもボランティアは続けよう。」
今、辛いはずなのに、そう思うようになった。

最終的に、チャリティーフェスティバルは主観的に見て失敗に終わった。メンバーが「開催できた」という本来、チャリティーフェスティバルを開催する意義や意図も忘れた下らない達成感に浸っていた。そして、日々が流れ、その興奮と感動も冷え切った中、僕は未だに領収書整理といった事後処理をしていた。それを終えた時、僕はすでに大学生になって二週間を過ぎていた。他のメンバーはもう大学でサークルや部活といったような新しいことを始めている。兵庫県庁にて、書類整理がなっていないと役員の方に怒られている中、彼らは宮城県石巻市のことを忘れて、新しい活動をしていた。
確かな怒りと虚しさが僕を襲ったのだ。
それは仕方のないことだ。大学生になれば、新しいこともしたくなるだろう。でも、僕にとってその事実はただ虚しさそのものだった。

ボランティアとはこれほどまでに無責任なのか。
そう思った。

東北という震災を味噌に、ただ、自分の青春を輝かせたい烏合の衆と共にしていたことを考えると、吐き気がした。WITHのメンバー一人一人は決して嫌いではなかった。しかし、全体を見ると僕は生まれ変わったら絶対に入りたくない団体だと思ってしまった。

東北訪問の際、あんなに石巻にいる学生たちと共に笑い合っていた。それさえも、自分の青春の味噌の一部だと言うのであろうか。もし、そうじゃないと言ったとしても、僕は信じない。こんなの、本当の友情じゃない。

おそらく、この時から、僕はボランティアと友情というものを無理やりくっつけようとしていた。そうであるべきだとこの時は思っていた。しかし、その理想は絶対に叶うものではなかった。そもそもボランティアというのは阪神淡路大震災を起点にした一種のブーム的なものであり、そのブームが去れば被災地は忘れ去られるのみであるのだ。
ボランティアとは短く、儚い関係であるのだ。それを長く、熱い友情なんていうものと組み合わせようものなら絶対に矛盾が生じる事になる。

そういう、矛盾が生まれる思想を持つ人間に社会奉仕活動など向いていない。本当にボランティアができる人間というのは、そういった割り切りができる人間だと思う。また、僕が二年間で出会ったボランティア人というのはそういう人ばかりであった。

どちらが正しいかは自明の理であった。だがしかし、僕はそういった人間が大嫌いであった。吐き気がするほどに大嫌いであった。自分が正しくないなんていうことは分かっていたが。

結局、そういう嫌いな人間ばかりのボランティア界に僕の居場所などなかった。僕は大学二年生の夏、完全にボランティアを辞めた。
理由は上記のとおりであるが、付随する理由はいくつかあった。その中でも、大きかったのは石巻市にいる仲間との関係だった。

「被災者って思われたくないんだよね。」
カギカッコのメンバーであるしろーは会う度にそう言った。この言葉は裏を返せば僕を「ボランティアをしている人」と認識していることに繋がる。
なんとなく、これが悲しかったし、いやだった。僕はカギカッコにいるみんなの性格や個性に惚れている。それをボランティアだとか、被災者だとかというワードのバリアが阻害していると感じた。
それを感じたとき、僕がしろーを始めとする石巻の仲間たちに誠意を示すには、ボランティアを辞める事しかないと思った。もちろん、そんな事をしなくてもカギカッコの仲間達は僕を友人と認識してくれたであろう。だけど、それに甘えるのは僕の信義が許さなかったし、僕の中で収まりがつかなかった。

ボランティアを辞め、結果としてやはり、石巻という土地とは疎遠になってしまった。以後、一年間の間、石巻は再び僕にとって「遠野」になってしまった。だけど、交友関係はと言うと、まったくの別だった。むしろ、ゲームなんかを通じてさらに友達が増えたほどだった。

それでも、石巻に訪問しなくなった事を思うと、少しだけさびしくなった。訪問しようとなると、お金も時間も必要となってくる。残念なことに、ボランティアを辞めて一年間は僕もWITHの元メンバーと同じような境遇になっていたと結論付けざるを得ない。ただ、彼らと違うことは連絡を取っていたり、相談に乗ったり乗られたりしていたりするのみだった。

しかし、なぜだか分からないが、石巻に訪問しなくなった一年間は時がとても早く過ぎているように感じたのだ。

再び石巻へ

2016年2月。ふと、思いついたかのように石巻に行きたくなった。石巻にいる仲間達に会いたくなった。ボランティアをやめてからというものの、一年間石巻を訪れなかった僕であるが、何を思ったのかは分からない。

Facebookで行く旨を東北の仲間達に伝えた。すると、Facebookのコメント欄が見る間に湧いたのだ。僕は驚愕を覚えた。そして同時に感動も覚えた。関西に住む何も無い少年が行くというだけなのに、ここまで歓迎してくれるのかと。
宿だって石巻の友人であるぺーちゃんという男の子が自分の部屋を提供してくれた。これによってお金の無い僕は節約して東北に訪問する事ができたのである。ぺーちゃんとその一家には感謝の念を今でも覚えている。

「絶対会おう!」
一番強く反応してくれたのはみのりんと呼ばれる高校生の女の子だった。様々な悩みを持ち、それでも強く生きようとする女の子だ。悩みができる度に僕に相談をしてくれていた。おそらく、みのりんの中には僕に対する感謝の念があるのであろうが、僕はそんな恩義を感じて欲しくはなかった。友達なんだから悩みがあるなら聞くし、自分にできる事はする。それをしただけに過ぎない。
そう思った時、僕は改めて「ボランティアには向いてないなぁ。」と自嘲した。訪問したその年の春、熊本地震が起きるのであるが、残念な事に僕は一切興味を示さなかった。確かに、気の毒とは思うがそれ止まりであった。まさに、中学生の時、東北に押し寄せる津波をTVで見たような感じと同じだった。普通、ボランティア人たるもの、一度どこかで自然災害が起こるやそこに群がる物のはずである。こういう時に群がらず、熱くならない僕は絶対にボランティア人ではないと思った。

ノープランで行った訪問は仙台旅行から始まった。大事な学校の会議をすっぽかして僕に仙台を案内してくれたのは、あのBBQの夜、誓いを交わしあった佐々木君であった。あの夜と変わらない純粋な目で僕を見つめ、再会を喜ばれた。
「変わらないな。」
僕は心底気に入った後輩に対して肩を強めに叩くクセがあった。僕はそれを佐々木君にした。佐々木君は嬉しそうに笑っていた。
残念ながら、佐々木君とは昼過ぎ頃くらいに別れる事になったが、おそらくまたすぐ会えるだろうという予感はあった。なんだかんだ言って、佐々木君は僕にとって最も昔から繋がっている石巻の友人だ。

その後、仙台と石巻を繋ぐバスに乗った。一年ぶりに乗り込んだバスはなんとなく懐かしい感じがした。バスに乗り込んでからTwitterに石巻に向かってる事をつぶやいた。すると、すぐにリプライが飛んできた。あっかちゃんと呼ばれるカギカッコ出身の女の子だった。
「よっさん、もしかして同じバスに乗ってるかも。」
僕は笑わざるを得なかった。あっかちゃんとは会う予定はなかった。巡り合せと言うべき偶然が起こったのだ。確かに、自分の席から五席ほど前に座っているあの女の子はあっかちゃんだった。
バスに降りてから、二言、三言、偶然の再会を喜び合った。そして、カギカッコに行くことを彼女に言うと、少しだけ羨ましそうな顔をされた。
あっかちゃんと別れた後、僕はすぐにまた歩き出した。これから寄らないといけないところがあった。やっぺすさんの所である。このママさん団体にもかなりお世話になった。その恩義もあって、今回正式にお礼を言いに行きたいのだ。
「よく来たねぇ。」
少しなまり口調で僕に話しかけてくれた。やっぺすさんの事務所の中には数人スタッフがいて、知らない人もいた。丁寧に僕の事を紹介してくれた。僕が関西から来たと知るや、とても嬉しそうな顔をしてくれた。
「コーヒーいるかい?」
僕はこくりとうなずくと、すぐに温かいコーヒーが紙コップに注がれた。コーヒーの温かさが二月の石巻の寒さで冷え切った体に沁みる。
「元気してたかい。」
そう尋ねられて僕は何度もうなずいた。一年ぶりにお会いしたやっぺすさんの方々はあの日と変わらず、僕と接してくれている事がとても嬉しかった。
「この時期に石巻に来てくれるのは嬉しいねぇ。」
そう言われて僕はどきりとした。この言葉は裏を返すと、最近石巻にボランティアの人々が来ていないという事だ。日本中のボランティア人達が石巻やここで起きた地震の事、そして今尚戦う人々を忘れているという事だ。
もしも、「それは違う。」と言って反論するボランティア人はいるかもしれない。でもそれはあくまでも主観的な論拠である。でも、こうして石巻市民の皆さんがただ、「来ている」だけのボランティア人でもなんでもない学生に対して「嬉しい」と表現するのは、それほど人が来ていないという事だ。

僕は静かに拳を握りしめ、怒りを表現した。

それは決して怠惰で愚かで・・・そして衆愚的なボランティア人に対してではなかった。いや、それもあったかもしれないが、むしろこの時の怒りの矛先は自分自身だった。
自分も一年間この地を踏まなかった事に対する後悔と憤りがあった。結局は僕もこの震災とこの地、そしてそこに住む友を学生活動の味噌としか考えていなかったのであろうか。
そんな卑怯な人間であるのにも関わらず、こんなに温かく接してもらっていいのであろうか。手の中にあるコーヒーがかえって痛かった。
僕はただ、誰にそう念じるでもなく、「ごめんなさい」という単語だけが胸の内で反響した。

僕と遠野

僕は仲間というものをすごく大事にする。それは先の項でも説明したが、自分の懐の中に入っているものをとにかく愛する傾向にある。それは逆を言えば、懐より外の物に対してはえらく無関心で冷酷であるといえるかもしれない。
しかし、ともあれ石巻とそこに住む友人は僕の懐内にあった。しかし、ボランティアを辞めてからというもの、連絡こそ取りさえするものの、積極的な会いに行かなかったのは僕の怠慢というほか無い。

そして、今日、僕は実に一年ぶりに彼ら彼女らに会う。なんと、僕のために何人もの仲間たちが集まってくれ、そして僕のためにカラオケパーティーを開催してくれた。カラオケは僕の好きなことであった。
積もる話はあった。しかし、とりあえず会う一人一人と抱き合うように再会を喜ぶのを先にした。みんながみんな僕に対して暖かく接してくれたのには思わず目頭が熱くなる思いがしたものだった。ボランティアを辞めてからというものの、一年間以上この地を踏もうとしなかった僕をまだ仲間であるとか、友達であるというのを認めてくれている。たった数分の会話の中で僕は「許された。」と深い安堵感を覚えた。

特に宿を提供してくれたぺーちゃんやみのりんと呼ばれる女子高生には深い感謝の念を抱かざるを得ない。ペーちゃんは僕が石巻に訪問する三日間、ずっと僕に付き添ってくれた。ぺーちゃんとは今回の訪問が初対面であるのに関わらずだ。
そして、みのりんは既に僕との再会を果たしているのにも関わらず、最終日、僕が帰らなければならないとき、わざわざ片道30分の時間を要してお見送りをしてくれたのだ。

帰りのバスに揺られる中、少しだけ僕は寂しい思いがした。もっともっと話をしたかった、一年間会いにこなかったことを謝りたかった。しかし、そんなことよりもむしろ、石巻に住む友人たちの暖かさに胸がいっぱいになった。

遠野は古くから中央の政治権力を忌み嫌い、ある意味で隔離した土地であった。そのため、中央政府からは遠い野、「遠野」と呼ばれたり、蛮族が住む土地とされ、「蝦夷」と呼ばれていた時もあった。そのためか、東北は古くから外から来る者に対しての不快感が強く、また、自分たちのことを外に発信する能力も疎かったと言われる。しかし、一旦「内輪」に入ると、格別な愛情を持って接してくれる。

何かの本で読んだ知識を今、自分がはっきりと感じ取っていた。
僕はここでハッとした。

(なるほど、東北と僕は似ている。)
それに気づいたとき、僕は思わず苦笑した。僕と東北という土地、そこに住む人々の風潮というのは僕の生き方やスタンスにそっくりだった。懐に入れば暖かくするのはまさに僕の事ではないか。

(オレは東北を愛している・・・。)
それはボランティアをやっていた人間らしからぬ言葉であった。

「また石巻に帰ってきていいんだよ。」
関西国際空港に降り立ったとき、みのりんが送ってきたLINEが届いた。
(帰るか・・・。)
きっと彼女にとって僕は関西弁を喋る石巻市民なのであろう。そして、それを認める自分がいた。次の訪問を既に決心していた。

懐の外にあるはずの東北・・・宮城県石巻市と僕がめぐり合ったのは偶然ではなく、似たもの同士が引き合った結果である。
そんな抽象的な結論がやけに具体性と真実味を帯びていた。

蒼天の荒野に花よ咲け

2016年12月。再び僕は宮城県石巻市を訪れた。
莫逆の友である永尾、そして愛する恋人である角菜摘と共にこの遠野にまた一つ足跡を付けた。

やっぺすさん、フリースクールに人々、カギカッコの友人、宮城県庁の役人さんなどなど・・・。あらゆる人と再会を果たし、また、新たな出会いも多数あった。その中でまず感じた事は、
「まだ彼らにとっては戦いの途中である。」
という当たり前の事実であった。

僕がこのエッセイを通じて最終的に伝えたい事は何か。それを考えた時、今となってはこれであると思う。日本中の人に知ってほしい。関わらなくたっていい。無関心だっていい。ただそういう事もあるのだと知ってほしい。あの未曾有の震災・・・理不尽な震災・・・暴虐な神の悪戯は東北に住む強い強い人々にとっては未だ過去の物ではない。今もなお、戦いの真っただ中にあるのだ。

宮城県庁の3.11プレフォーラムイベントに参加した際、鈴木さんという方が被災者の手記を朗読をしながら涙を流していた。僕もその朗読を聞いて感動を覚えていた。しかし、辺りを見回すと自分の感動がいかに浅いものであるのかという事に気づいてしまう。文章や単語では表現できぬ表情を宮城県庁の人々、そして被災地に直接関わった人々はしていた。生まれて初めて日本語が不自由だと思ったのはこの瞬間だった。

東北は今でもなお、あの震災と戦っている。
傷ついた戦士達が焚火を囲んで戦死者を追悼する・・・。もしも、彼らの表情を説明するのであれば、その表現が一番的を射ていると思う。


さて、僕にとってこの訪問で大きかったのは彼女の存在であった。彼女の角にとって、東北は何も関係がない。彼女にとって、彼氏の友人が多数いるという程度の認識でしかないだろう。しかし、僕が行くという事でついてきてくれた。人と馴れあうのが苦手である彼女にとって、東北訪問は結構な負荷になったであろうが、最終的に彼女は「また行きたい。」という事を言ってくれた。それを聞いた時僕は思わず自分事のように嬉しくなったのだ。

東北に訪れる人が少なくなっている中、彼女のような存在が今後よそ者としての機能を果たしてくれるのだろうと直感的に思った。余談にはなるが、授業中、石巻の話が出てくると、すぐに僕に報告してくれるようになったのも嬉しかった。彼女はよっぽど石巻が気に入ったのだろう。



ある日、僕は一人で近所の山に登った。
自然と触れ合うのが趣味の僕にとってそれは茶飯事だった。山の頂上から見下ろす町並み・・・。僕の住む街をなぜか知るはずもない2011年3月11日より前の石巻の街と重ねあわせた。
(これが一瞬でなくなったのだ。)
そう思った時、胸がちくりとしたのだ。そしてなぜか小学生の時ならった歌が僕の脳内で再生し、自分の口から流れるように外に出た。


例えば君が傷ついて くじけそうになった時は
必ず僕がそばにいて 支えて上げるよその肩を


僕はその歌詞の「僕」になるべきなのだ。
懐の中が妙に温かい気がした。

新・遠野物語

そしてまたあの荒野に光っが灯る事を祈って。

新・遠野物語

2011年3月11日。 未曾有の震災が日本を襲った。 当時中学生だった筆者はその時、関西にいて、東北が無に帰す様子をテレビにて知った。 それから筆者はボランティアという体験を通じて古代、遠野と呼ばれた東北(宮城県石巻市)に触れていくことになる。

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 2011年3月11日
  2. 遠野へ
  3. 遠野道中
  4. 荒野
  5. 訪問後
  6. ボランティア団体へ
  7. 三度目の訪問
  8. 辞める。
  9. 再び石巻へ
  10. 僕と遠野
  11. 蒼天の荒野に花よ咲け