レモン入りの紅茶
紅茶を三杯飲んでから家を出た。
キミが買い置きしていた海外の高級紅茶のティーバッグであるが、高級と高級でない紅茶の違いなど紅茶を年に一度か二度しか飲まない僕にはわかるはずもなく、水を飲むように喉の渇きを潤す目的でアイスティーにして飲んだのだが、抽出時間が短すぎたのか氷で埋めたら薄まってしまった紅茶は水と変わりないと思った。水の方が美味いとすら思った。そもそも紅茶を三杯もおかわりしている場合ではなかった。
外に出ると、今日は花売りの女の子たちが一斉に花を売る日だった。ふだんは一日一人の女の子が一台のリアカーを牽いて花を売り歩いているのだが、その女の子たちが一堂に会して皆で花を売り歩く日が年に二日あり、今日がそのうちの一日であった。
女の子たちは皆一様に白いレースのベールを被っている。濃紺のワンピースは足首まで長く、白い襟があるだけのシンプルな作りは教会にいるシスターのそれを想わせる。売り物の花が色鮮やかに映えるようにと配慮された制服なのだと、キミが言っていた。本来ならばキミも、他の女の子たちと花を積んだリアカーを牽いて街を練り歩く日なのだが、そのキミはといえば「紅茶に浮かべるレモンを買いに行く」と部屋を出たまま三日も戻らない。レモンなんて歩いて七分のところのスーパーマーケットに売っているだろうに、キミのことだからレモンの産地までレモンを買いに行った可能性が大いにある。何せ二か月前は、お友だちに手作りのパウンドケーキを持っていくためにパウンドケーキに入れるブランデーを買いに行くと部屋を出て、一週間も帰らなかった。キミは大人で花売りの仕事をしながら一人で暮らしていて、僕はまだ大学生で学費も生活費も両親に工面してもらって生きている。海外ブランドの香水のような瓶に入ったブランデーは、大層高価なものだそうだった。あなたが大人になったら一緒に飲みましょうと、キミは笑っていた。パウンドケーキに入れたブランデーの量は、大さじ一杯程度であった。
がらがらと音を立ててリアカーを牽きながら、花はいりませんか、きれいなお花ですよ、と穏やかな声で花を売る女の子たちを横目に、僕は大きくも小さくもない街をあてもなく歩いた。
街は花の香りで溢れていた。
花売りの女の子たちというのはずいぶん大勢いるものだと思いながら、キミの住んでいるアパートの部屋から歩いて七分のところのスーパーマーケットを覗き、そこから更に歩いて十五分のところにある少し高級な食材が売られているスーパーマーケットを覗き、商店街の八百屋さんや農家の人たちがやっている市場も見たが、どこにもキミの姿はなかったし、どこにでもレモンは売られていた。一つでも売られていたし、三つから五つが袋にまとめられて売られてもいた。野菜売り場の中でもひときわ目を惹く、というほど際立ってもいなかったし、かといって他の野菜に囲まれて埋没しているというほど、地味な存在でもなかった。僕は最後に見た市場で一つから売られているレモンを二つ買った。今日は外で大々的に花を売っているせいか、市場の片隅にある生花コーナーにはお客さんがひとりもいなかった。
帰り道でも花を売り歩く女の子たちの行列とすれ違ったのだが、女の子たちは皆疲れている素振りを見せずに微笑みを浮かべていた。花を乗せたリアカーが軽いものとは、到底思えない。花を買い求めるお客さん(総じて女性が多い)の要望に応じつつ、彩りやバランスを考慮して花束を作る女の子たちの手際の良さも、素人目に見ても感心するものがあった。
こういうことをやっているのか、キミも。
僕は女の子たちの制服である白いレースのベールに濃紺のワンピースを着てリアカーを牽くキミの姿を、花を売っている見知らぬ女の子に重ねて見ていることに気づいた時、あちらこちらから立ち上る花の香りを振り切るように全速力で走っていた。
花の香りはどこまでも纏わりついてきた。
ビニール袋の中で擦れ合うレモンからも、爽やかで酸っぱい匂いが放たれていた。
キミのからだからはいつも、花の香りがした。
合鍵で玄関を開けて僕は、家主のいない部屋に再び舞い戻った。紅茶とは言い難い飲み物を飲んだ後の空のグラスが、銀色のティースプーンが、角砂糖の小瓶が、テーブルの上に出したままであった。
買ってきたレモンの一つを薄く輪切りにし、改めてティーカップに紅茶を淹れる。
琥珀色の海に、黄色い浮き輪をそっと浮かべる。
紅茶の味はよくわからない。美味いか不味いかも、高価か安価かも。
僕はティースプーンでレモンを沈めて、レモン入りの紅茶をひとくち啜った。
砂糖を入れ忘れた、と思ったときは紅茶独特の渋みとレモンの酸味があいまみえ、僕の口に一瞬で広まって、無性にキミに逢いたいと思った。
僅かに開いていた窓の隙間から柔らかな風にのって、花の香りが流れこんでくる。
レモン入りの紅茶