或る少年の黙思
(断らなければよかったな……)
〈少年〉は窓の外をじっと見つめた。
その先にはまだ若干の子供らしさが残る顔をくしゃくしゃにして笑う少年少女の姿がある。
(青春を謳歌する。って、ああいうことだろうな。)
いわゆる『年頃』の少年少女のほとんどは、ただ生きているだけで、見ている者が思わず目を細めてしまうような『活気』と『煌き』を身にまとうものだ。
(俺もいつか、ああなれるのだろうか)
〈少年〉はひとつ溜息をついた。
〈少年〉が彼のクラスメイトから学校祭でのクラス企画の準備係をやってほしいと頼まれたのは二週間ほど前のこと。
寒さがやわらぎ、うららかな日差しが地に降り注ぎ、花を散らした桜の樹はやわらかな若葉を風に揺らす。そんな日。
その爽やかな気候とは裏腹に〈少年〉の気分は陰鬱だった。
(準備係になること自体は嫌じゃない。)
〈少年〉は、言うなれば知る人ぞ知る真摯な優等生であった。
掃除のときには、たとえ他の生徒が全く動いていなくても、一人でただ黙々と、隅々まで磨き上げていく。
教師、先輩、来校者とすれ違えば、はきはきと笑顔で挨拶をする。
雑用を頼まれても嫌な顔一つせずに働くし、実際、〈少年〉はそう言った仕事を任されることを嬉しくも思っていた。
しかし、そんな真面目な生徒である以前に〈少年〉は悩みを抱えていた。特に、交友関係に関しては、彼の悩みは深刻だった。
もちろん、友人とは笑顔で言葉を交わし、悪ノリをしてはばか騒ぎするけれど、クラスメイトとも、同じ部活の仲間とも、男女分け隔てなく接するけれど。
簡単に言うと、そう。〈少年〉は『幸福恐怖症』だったのだ。
(いつから俺はこんな風になってしまったんだろう。)
突き抜けるような蒼い空を忌み嫌い、下を向くようになったのはいつからだろう。
吹きつけるそよ風が痛くて、体を縮こまらせるようになったのはいつからだろう。
こちらに向かって手を振る友達に、手を振り返すことを躊躇うようになったのは?
自分に笑顔が向けられるたび、眩暈がするようになったのは、一体、いつからだっただろう。
(世界はずっと変わらないのに、俺だけが歪んでしまったのだ)
飼っていた猫が車に轢かれた日、頭上に広がっていた空が毒々しい蒼色だったから。
小学生のころ鎌鼬に遭って、お気に入りの服と腕の皮膚が裂かれたから。
友達が自分に向けて手を振っているのだと思って振り返したら、その友達は自分を素通りして後ろの誰かに駆け寄っていったから。
親友だと思っていた少年が、陰で自分の悪口を言っているのを聞いてしまったから。
そんな、平和の裏に隠れた傷とか、痛みみたいなものが重なって、自分の幸福が信じられなくなってしまった。
『幸福』の陰に隠れて、こちらを見ては嘲笑う『不幸』が怖くて、痛みが恐くて。
(綱渡りのような『幸福』の危うさに、いつしか俺は押し潰されてしまったのだ。)
去年も企画の準備係として働いた〈少年〉は係員の楽しげな作業風景を知っていた。
「ごめん。俺、委員会の仕事が忙しくて。」
だから、結局そんなことを言って、〈少年〉はその話を断ってしまった。
〈少年〉の視線に気付いた一人の生徒が〈少年〉に向かって、笑顔で手を振った。
一瞬、〈少年〉の頭はぐらりと横に傾いたように見えた。が、すぐ戻り、一つ笑みを浮かべて〈少年〉は友人に手を振る。
(大丈夫。俺はまだ大丈夫。)
〈少年〉が窓辺から離れる。〈少年〉に向かって手を振った生徒も、すぐ元の仕事に戻った。
〈少年〉は幸福恐怖症であったが、幸福を恐れる以上に、幸福を欲してもいた。
みんなと同じように心の底から笑いたかった。みんなと一緒に心の底から泣きたかった。
『青春』の甘酸っぱさを、味わってみたかった。
(今からだって、参加することはできるだろう。)
係でなくても、準備を手伝うことはできるし、クラスメイト達もきっと、仕事のできる〈少年〉が手伝うことを喜んでくれるだろう。
(でも、それじゃ何も変わらない。俺の幸福恐怖症は治らない。)
結果を焦って〈少年〉は何度も傷ついてきた。
かつて味わったその痛みは今、〈少年〉の足枷となっている。
この地域も、そろそろ梅雨に入る。
雨の日のほの暗さや陰鬱さを消し飛ばすように、少年少女は爛々と笑うのだろう。
「俺は、まだ、大丈夫。」
ひとこと一言を噛みしめるようにゆっくりと呟いてから、〈少年〉は自らの荷物を持ち、教室を後にした。
先ほど感じた不快な眩暈も、背筋のうすら寒さも、今は消えている。
ただ瞼の裏に若い『生』の煌きが焼き付いて離れなかった。
或る少年の黙思
今年の五月ごろに書きました。今年はいつが梅雨なのかわからないような気候だったので、ちょっと不完全燃焼。