お月様みたいな人
いつでも軽薄だった、あの人。
ひらり、と身をひるがえして、すたこらさっさと逃げ出した。
私にはいじめられっ子のお姉ちゃんがいる。
その人はどのくらい虐められていたかと言うと、まず保育園で虐められ、幼稚園ではぶられ、小学校ではぼっちで、中学校から本格的に無視。高校はフェードアウトして、通信制に通った。友達は一人もおらず、その時々で付き合う人を変えては軽薄に笑うので、あまり信用されていなかった。
私もお姉ちゃんが酷い人なのだと聞いていたから、「何したの?」と聞いてみたら、「何にもしないんだけどねえ、ただ単に、弱っちいからだと思うよ」とそのお姉ちゃんはやっぱり軽薄に笑った。
ある日、私が帰っていたら、向こうからお姉ちゃん。
あ、と手を振ったら、お姉ちゃん、こちらに気づいて手を振って、そして後ろを向いて走り出した。
え、と思っていると、「新山ー!」と言ってなんか怖い女の人が自転車でお姉ちゃんを追いかけて行った。
お姉ちゃんは、新山夜乃と言う。夜乃と書いて、ヤノだ。
お姉ちゃんは自己中すぎて虐められたんじゃないかな、と思うと言ったら、「それ絶対他の人の前で言わないでね」とお姉ちゃんはははっと笑った。そしてアイスを奢ってくれたのだ。
その人はお姉ちゃんに追いつき、「久しぶりじゃん!」と抱き着くように首を絞めていた。
夜乃お姉ちゃんは「会いたくなかったようう」と言ってギブギブ、と腕を叩いている。
その人は、お姉ちゃんの元友達で、お姉ちゃんが学年が変わったときにさらりと裏切った人だ。女の子同士ならしょうがないと思うのだけど、お姉ちゃんは軽薄なので、「だってあの子強烈なんだもん」とちゅーっと野菜ジュースを飲んでいた。
夜乃お姉ちゃんは基本自己中だ。自分からそう言ってるので、何とも思わない。
だって私だってそういうところあるし。
「誰だって自分が一番なんだよ」
お姉ちゃんは私に裏切るときは、慎重にね、と世渡りのすべを教えながら、ゲームセンターで400円奢ってくれた。
ユーフォーキャッチャーをしながら、ぽろりと人形が落ちると、お姉ちゃんはきょろきょろ辺りを見回してから、「あー、足が滑ったー!」と言って機械に体当たりを食らわせ、ぐらぐらと人形が落ちてきて、「ラッキー」と私はそれを拾った。
「また新山の野郎」
そうゲームセンターのお姉さんがぎろりと睨むのを、あっかんべーでもしそうなお姉ちゃんは「さ、逃げるよ」と私の肩を抱いてすたこらさっさと逃げ出した。
思えば、お姉ちゃんはいつも帽子を被り、大きな眼鏡をかけていた。
取ってみるとまるで印象が変わるので、ああ、それって変装なんだ、と言うと、「そ、これで大概騙せる」とお姉ちゃんは大いばりした。
お姉ちゃんは、俗に言う「悪人」だった。
でも、こんな人いたら楽しいし、大概みんなそうじゃない?
そう言ったら、「私なんてね、こんな田舎だから許されてるようなもんだよ」とお姉ちゃんは悲し気に首をフルフル振って言った。
だから、きょんちゃんはこんな大人になっちゃだめだよ。
それがお姉ちゃんと話した最後だった。
お姉ちゃんはある日、強盗にバッグを取られたお婆さんを見て、そいつにタックルをかました。
見事取り返したバッグを持って、お姉ちゃんは笑った。そして、う、とお腹を押さえた。
ナイフがささっていた。
お姉ちゃんは常々言っていた。
「光の帝国があればいいのにね」
私はその言葉の意味を、十年経った今、インターネットで検索して知った。
そしてその映画を見て、ぽたぽたと出る涙を押さえていた。
なんであんなときばっかり、善人になっちゃったんだ。
「わかんないよ、わかんない、ただ、こうしなきゃ駄目だって、思ったんだ」
それがお姉ちゃんの最期の言葉だった。
お姉ちゃんは外国に行った。
そう聞いた時、私は意味が分からず、「嘘だよ、貧乏人のお姉ちゃんがどっかに行けるはずないよ」と何度もお姉ちゃんを探した。
ゲームセンター、路地裏、商店街。
どこにもお姉ちゃんはいなくて、大人になってようやく仏壇の写真の意味が分かって、お葬式の時に「新山の野郎」と言ってたくさん人が怒った顔をしていたのを思い出した。
お姉ちゃんは、最高に馬鹿だった。
馬鹿だから死んでしまった。
「こんな大人に、ならないでね」
散々皆を裏切って、信じられなくて、お姉ちゃんは孤独だった。でもみんな見守ってた。
私は絶対お姉ちゃんみたいにならない。そう誓ってから、私は軽薄になった。
大概の悪事も見て見ぬふり。苛めにももちろん加担したり、されたり。
でも、と思う。
お姉ちゃんは、いつでも楽しそうだった。
心が軽かったんだろうか。適当に同情心を煽って、気を散々使わせて、こちらの手ばかり焼いて勝手に星になって。
私は今日、財布を落とした虐められっ子の子に財布を拾ってあげた。
「ありがとう」
笑ったその子との間に、春風がふわりと吹いた。
私がハブられたその日、空にはお月様が浮かんでいた。
「こんな大人に、ならないでね」「光の帝国があればいいのに」
夜乃お姉ちゃんは、光の帝国に行ったんだ、そう思いながら月を見上げた。
おーい、元気してるかい?
楽しいんだろうね、帰って来ないもの。
そんな恨み節を一つ、思って窓をカラカラと閉めた。
お月様みたいな人
寅さんを見ながら。