すいそう
『幸せの在処』の続編です
小さい頃から海が好きだった。
歳の離れた優しい兄は、よく私を連れて海へと遊びに行ってくれた。
物心つく前から水に触れていたから、水を怖く感じたことはなかったし、水が好きだった。
海が、好きだった。
思えば旦那に初めて会ったのも海で、私にとって海は思い出の場所だった。
兄と遊んだ思い出、彼との出会った思い出。
結婚をして、子ども代わりの淡水魚たちと気ままな生活がもう十年以上経過した時だった。
訃報が届いた。兄が、亡くなったと。
翌日、水槽の金魚が腹部を上にして浮かんだ。
「綾ちゃん、行こう」
「待って、まだ窓をきちんと閉めたか確認していないから、」
「早く、早く」
車の鍵を手に持って、部屋から出ていこうとする渉さんの後ろ姿は兄を想起させた。
兄と渉さんは、あまり似ていなかったのに、どうしてそう思ったのだろう、そんな疑問が私の頭の中をぐるぐるとかき回す。
兄は優しくて、争いを好まない性格だったけれど、渉さんは何事にも一所懸命で、負けず嫌いな人だった。
部屋の様子はとても顕著で、渉さんは片付けをせず、部屋の散らかりようは目も当てられないほどだったが、兄は必要のないものは持たない人だったから、散らかるほどの物が元々なく、部屋はいつも綺麗だった。
そんな二人だけれど、気遣ってくれる優しい所や、そのくせぶっきらぼうな口調はそっくりだった気がする。
もう何十年も会っていないから、しぐさや声や顔は少しぼんやりとしているけれど、兄との思い出は未だ尚、色あせることなく鮮明な色を帯びていた。
「綾ちゃんー?」
「あ、ごめん、今行く!」
いけない、感傷に浸っている時間はない。
全ての窓が閉まっているのを確認してから、元栓がしまっているか、コンセントも抜いてあるのを確認してから家を出る。
渉さんは既に道路に車を出していて、私を乗せるとカーナビの指示通りに車を走らせ始めた。
いつもは安全運転なのに、今日は法定速度を守っていなかった。
兄は、どんなに急いでいる時も安全運転だった。
学校に遅刻しそうな時にも車を走らせるスピードはゆっくりで、もっと速くを車を走らせてと、イライラしながら怒ってもなんでもないように飄々と笑う兄は少し嫌いだった。
兄の家はここから車で一時間ほどかかる海が近い閑静な住宅街にある。
実家は私が結婚するのと同時に兄も家から出たので、一人で暮らしていた兄の家に訪れるのは初めてだった。
初めて訪れる街、初めて訪れる家、目の前にいる兄に「はじめまして」と、声をかけたくなった。
今にも起き上がって、「久しぶりだね、ちょっと太った?」なんて、いつものように減らず口を叩きそうなのに、もう…いなくなっちゃたの?
ねぇ、私を見てよ。
もう開くことのない目にはこれから先、何も映ることはない。
ああ…本当に、もう、会えないんだ、
兄の眠る姿を見て、やっと実感が持てて涙が溢れた。渉さんはそんな私の頭を撫でてくれた。
葬式はしめやかに行われた。
一度も会ったこともないような親戚を呼んで随分と小規模な葬式だった。
病室の引き出しからは墓石、棺、葬式のお坊さんの数まで、詳細に書かれたメモが見つかった。
どれもこれも安価な物で支払いも全て終わっていた。
ひきだしの中にはもうひとつ、手紙が入っていた。
看護師も見覚えがないらしく、いつ頃書き上げたものかは定かではないと聞いた。
兄はどんな気持ちでこの手紙を書きあげたのだろうか。
宛先の名前からすると十中八九、女性だろう。兄の恋人だろうか、妻、なのだろうか。
この手紙に書いてある人に会ってみたい、と言うと看護師は暗い表情で残酷な事実を教えてくれた。
兄の亡くなった、その日に身投げをした、と。
十七歳の大人びた少女で数ヶ月前からほとんど毎日のように兄の元へと通っていたらしい。
手紙の封は固く閉じたままで、手紙を見る前に亡くなったのは明白だった。
葬式から数日後。私は、兄の入院していた病院を訪れていた。
近くに海がある、アイボリー色の壁の小さな建物で、暑い陽射しと汗で皮膚に張り付く衣服が少し鬱陶しく感じた。
兄と少女の出会いはこの病院で、この病院に入院している祖母のお見舞いに来ている、という名目で兄に会いにこの病院を訪れていたらしい。
看護師の案内で数分歩くと、最初の目的の部屋にたどりついた。
兄の病室はそのままにしてある、と聞いたが、何もないように感じた。
病室とは、こんなものなのだろうか。
私物と呼べるものが全くないからかもしれない。
数日前に兄はここにいたはずなのに、それが嘘だと言われれば納得してしまいそうほど何もなかった。
「ここ、とても景色が良いんですよ」
病室に案内をしてくれた看護師がそう言って、窓を開けた。
棚の上に置いてあった花瓶の小さな胡蝶蘭が風に吹かれていた。
「この花は?」
「元々ひまわりを生けてあったんですけど、亡くなられた日に風に煽られて落ちてしまっていたので、代わりの花にお葬式の胡蝶蘭を少し頂きました」
「…兄が、花を?」
「はい、本当は各病室に花瓶はないんですけど、亡くなられる数週間前にひまわりを置いて欲しい、と患者様がおっしゃって…用意させていただきました」
看護師はにこやかな笑顔を張り付けて、お好きなだけいて頂いてかまいませんから、と言うと
返答も聞かずに病室から出ていった。
私たちはしばらく無言でその花を見ていた。
そう、兄が花を病室に飾るのはおかしいのだ。
「義兄さん花嫌いだったよね…」
「…うん」
兄は虫が大の苦手で、虫が寄ってくる植物や花も嫌いだった。
そんな兄が自分の部屋、ましてや顔の近くに花を好んで置くだろうか?
「理由が、あったんじゃないかな?義兄さんの虫の嫌いは本当にすごかったから…花を枕元の近くに置くなんて、よっぽどだよ」
兄の花嫌いは相当だった。
でも、一度だけ、兄が花をくれた時があった
そうだ、あの時は…
「…花言葉、」
「花言葉?」
「向日葵の花言葉って知ってる?」
「いや…知らないけど、それがどうしたの?」
「向日葵の花言葉は…『あなただけを見つめる』。そっか、兄さんは…思いを伝えちゃいけないと思ったから、嫌いな花に…思いを乗せたんだ…」
「…綾ちゃんも義兄さんも、ロマンチストだよね」
花が嫌いなはずの兄が一度だけ花束を買って家に帰ってきたことがあった。
その日は私の誕生日で、兄が花を持っていたからあの時は本当にびっくりした。
紫色の風鈴のような形をした可愛らしい花で、
「綾は花、好きだろ?この花の花言葉は感謝。いつもありがとう、ってことで受け取ってくれる?」
そう言って、恥ずかしそうに笑ったんだ。
兄の気まぐれなのかもしれない
それか、私の知らぬ間に花嫌いが治ったのかもしれない
それでも、でも、やっぱり、
兄は、伝えられない悲しいほど純粋な思いを花言葉に込めたように思えてならなかった。
そんな何とも言いようがない確信があった。
兄のいた病室を出て、次の目的の場所に行く。
その病室のベッドにいたのは優しそうな笑みを浮かべたおばあさんだった。
「こんにちは…」
「はい」
「…つい先日、この病院で亡くなった男性をご存じですか?」
「ああ…2つ隣の」
「兄、だったんです。私が、妹で。それで、こちらが私の旦那です」
「そうか、あの子の…」
そう言って目を伏せたおばあさんは、兄と共に亡くなった少女の祖母だった。
少女はこの人のお見舞いに行くと嘘をついて兄との逢瀬を重ねていった。
「その件は…」
「あぁ、謝らなくて良いですよ。あなた方に、あの子が自ら命を絶ったことは関係ない」
あまりにも正当なおばあさんの言葉に一瞬、息が詰まった。
数年も会っていない兄の後を追った、面識もない子ども。
確かに、何も関係ないのかもしれない。
「っ…そ、れは…」
しどろもどろになる私に言葉をかけてくれたのは渉さんではなかった。
私があまりにも分かりやすかったからか、おばあさんは私を見て、くつくつと笑った。
「言い方が少し悪かったね、すまない。あなたたちは少しも悪くないんだ。勿論、亡くなったお兄さんも。好いた男が亡くなったからって、後を追わずに新しい人を探せば良かったのに…」
その言葉を聞いて急に冷静になった。
ああ、亡くなった子と、魚は、どこか似ている
唐突にそう、思った
互いに狭い世界を見て、それが全てだと思い、身を、滅ぼす
でも、根本的な違いがある
魚はその囲いから逃げられず、それ以外の生きる術を持たない
けれど、彼女の場合は違う
彼女は広い世界があることを知っていた。
けれど、兄の後を追った。
広い世界など知らなくて良い。
兄がいなければ、こんな世界に何の価値もない、と言わんばかりに。
「それで…私に何か用があったんじゃないのかい?」
その言葉に、やっと自分がなぜここにきたのかを思い出す。
「あっ…えっと、兄の病室からお孫さん宛ての手紙が見つかったんです。封は切られていませんでした。せめて墓前に…手紙を添えたいと思って…、住所を、教えて頂けませんか?」
「ああ、かまわないよ」
おばあさんは、人の良い笑顔を浮かべた。
どこにでもあるような、小奇麗な一軒家
インターフォンを押すと、数秒と待たずに開いたドアから母親らしき人物が私の姿を目にとめた。軽く会釈をすると、か細く声を震わせた。
「どちら様でしょうか…?」
「…相沢紘の、妹です。なんと言ったら良いか言葉も見つかりません…本当に、謝って許されることではないですが…申し訳ありませんでした」
「娘の…」
少々やつれた印象を目を持つ肩口ではねた髪が目をひく女性は一回そういって言葉を切ると薄く笑った。
「こちらこそ、本当に…申し訳ありませんでした、あの子がきっと…」
何か言葉を言おうとしたのに、不自然に言葉を切ると口元を手で覆い、しばらく沈黙が続いた。
「今日はどういった御用で?」
「…お線香あげても、宜しいですか?」
「え…あ、どうぞ…」
面を喰らったような表情を浮かべて私たち二人を家にあげてくれた。
遺影の写真に写っている女の子は私が思っていたよりも幼く、それなのにどこか憂いを帯びた表情が似合う少女だった。
「…娘さん、どんな子だったんですか?」
不意に、そんな言葉が口からでた。
「そう、ですね…。勉学も、運動も、特に秀でたところのない…親の私にもよく分からない子、でした。あの子の兄は、とても優秀なのに…」
「そう、なんですか?」
違和感。
「はい…部活にも入っていなくて、家に帰って来たと思ったらすぐ私室に行って…家族とも会話をせず、いつも一人でいるような暗い子でした。まさか、男の後を追って自殺するなんて…!私には全く理解できません。こうやってご家族の方にも迷惑をかけて、お兄ちゃんは、これから大学受験を控えているのに、妹が自殺したなんて…!」
歩み寄らなかったのは、どちらなのだろう
母親の言葉が、ひどく心に重く留まった
「…帰ろう」
渉さんの服の裾をひっぱり、小声でそう伝える
「綾ちゃん?…手紙は?」
「いい」
「いい、って…」
墓前に置いておくと中身を見られてしまうかもしれない。
いや、そうじゃなくて なんか、嫌だ。
「ありがとうございました」
「いえ、こちらこそわざわざありがとうございました」
ありがとうという言葉をこんなに苦しい言葉だと思うことは、これから先ないと思う。
「渉さん、少しつきあってもらっても良い?」
「勿論」
俺たちは海へ来ていた。
暑い日が続くとはいえ夏にはまだ早く、夜の海は驚くほど冷たくて鋭利な刃物の峰に触れているような恐怖がそこにはあった。
足先だけで、こんなに体が冷たく感じるのに、頭まで浸かるとどんな感覚なのだろうか。
俺にはできそうにもない。
その日は、月明かりが綺麗な夜で、視界が暗かったが海の様子が見え、偶然通りがかった人が警察に通報してくれたらしい。
月に手を伸ばして、足を滑らせるように沈んでいったと聞いた。
恐怖はなかったのだろうか
その人しか見えない愛情とは
正常なのか、将又、異常なのか、
「渉さん?」
「…ばかばかしいな」
「ん?」
「いや、なんでもないよ」
正常か異常か、考えるだけばかばかしいな。
どちらでも良いか。俺は何も変わらない。
俺は、彼女を今も変わらず守っていくだけだ。
綾ちゃんは俺の返答が気に入らなかったらしい
腕を掴むと重力に従うように真下へと引っ張った。
急すぎて何も抵抗できず、海辺で正座をするように膝をついた。
隣で彼女も同じような体勢で下半身を海の水が濡らした。
兄は海がとても好きな人だった
私、兄と十歳の差があったから…よく、あまやかしてもらったの
家から海が近いのもあって、兄が学校から帰ってきてから夕飯までの時間、よく一緒に海に行ってもらった
何をした、とかじゃないの。何でもないようなこと
二人で座って波の音を聞いたり、ボール持ち出して二人でバレーしたり…
中学生の時に両親が亡くなってからは、兄は本当に私につきっきりで
私が結婚するまでは、結婚しないとか言っちゃって
私が結婚したのは兄のためでもあったの あ、もちろん、渉さんのことが一番だよ
でも、本当に兄さんに女の影なんて全くなかった
兄が二十歳になっても…三十歳になっても…仕事して、家に帰ってきて、私のつくったご飯食べて、私が風呂に入っている間に洗い物をしてくれて、わたしがあがったら今度は兄が入って…
仕事がどんなに遅くなってもかえってきてくれた
仕事のない休日はいつも家にいてくれて
私が結婚して、家をでて、私のことは気にしないで幸せになったんだと勝手に思ってた
兄さんとは私の結婚式であったきり…一度も会ってない
親がいないから帰省しても、墓参りだけで兄さんとは会わなかった
サイテーだ、私
兄さんの幸せのことなんて全然考えていなかった
兄さんは私のことずっと考えてくれていたのに…結婚式の時、あんなに嬉しそうに笑ってくれたのに
渉さんと結婚して、家を出て兄さんのことこれっぽっちも考えていなかった…
ごめんなさい、ごめん、なさい…
私のせいで幸せになれなかった
私がいたから、兄さんは…
兄さんはどんな気持ちで最期を迎えたのかな
その時にあの子はいたのかな
もう分からないね 二人共此処には…いないもんね
せめて私の知らない…兄さんが愛したあの子とあの世幸せになって
掌に収まる、箱を、海へと流した。
「義兄さん、綾ちゃんは俺が幸せにするので、瑠奈ちゃんと安心して眠っていて下さい」
「いつか、そっちに行く時には紹介してね。紘兄さん」
「綾ちゃんと、」
「渉さんと、」
『一緒に幸せになります』
すいそう
読んで頂きありがとうございました。
日頃から感謝の気持ちを伝えたいものです。