四角い青空。
生を受けた日。
私が産まれたのは、昭和も後半に差し掛かった春の日でした。
高齢出産に丸が入りそうな歳に、結婚願望もなかった母が「子供だけは欲しい」と願い、私生児で私を産んだそうです。
さすがに記憶には無いものの、幼い頃は貧しいながらも不自由せず育ててもらえていた事が、残っている写真にはおさめられています。
父親の顔は知りません。
父親の名前も知りません。
生きているのか、死んでいるかも知りません。
知りたいとも思いませんでしたし、きっとこれからも思う事は無いでしょう。
初めから居ない存在は、生きていく上ではあまり気にならないようでした。
私の人生が崩れ始めたのは、四歳頃の夏でした。
それまでは普通の、ごく一般的な幼児期を過ごしていました。
初めての虐待。
私は近くにある保育園から歩いて帰るのが基本でした。四歳やそこらの子供を、踏切もある通園路をひとりで帰すなんて、今では考えられませんが昔は当たり前でした。
五分もあれば家に着きました。今でもこの通園路は憶えているし、フラッシュバックのように目の前に広がります。
家は、母がひとりで切り盛りする飲食店を営んでいて、近くの学生が学校帰りに気軽に寄ってくれる、下町にあるような小さなお店でした。
母は、私の欲しい物は極力買ってくれていたように思います。あの頃高価だったファミコンを、誕生日に買ってくれました。保育園から帰ると、お店に来る学生さん達とファミコンをして遊んだりもしていました。
ある夏休み、学生さん達も休みに入りお店に来ない日が続き、私も保育園が休みで退屈をしていました。
母は「外で遊んできなさい」と言いますが、私は外で遊ぶ事があまり好きではありませんでした。歳の近い友達は家が離れていて、近所は少し歳上の人達ばかりだったせいもあります。
そんな時は決まって、歩いて数メートルの所にある母の友達夫婦が、四階建てのアパートの一階で経営している喫茶店に行って、漫画を読ませてもらっていました。奥さんが居る時は、お店の隅っこで静かにしていればいくらでも漫画を読ませてもらえました。買物を手伝ったり、留守番を任される事もありましたが、追い出される事はなかったように記憶しています。
旦那さんはろくでなしで、奥さんが居ない時はお店にたっていましたが、お客さんが来ない時は早々に閉めて、二階にある自宅へと引っ込んでしまうので長居が出来ませんでした。
なので、喫茶店に行って旦那さんが店にたっている日はがっくりしたものです。いま思えば図々しい話ですが。
そんなある日。
旦那さんがいつものように早々にお店を閉めて、自宅へ引っ込む時に、私にミックスジュースを作ってくれました。そして「上で飲んでいきなよ」と、自宅へと誘われました。
夫婦には娘さんがひとり居て、今で言う不良そのものでした。くるぶしまである長いスカートを履いていたり、友達と集まって煙草を吸っていたり。気弱な私を見ては卑猥な言葉を教え込んだり、いじめられたりもしましたが嫌いではありませんでした。ただ、あまり家には寄り付かないようでした。
その日も娘さんは家におらず、私は旦那さんの書斎でベッドを背に、作ってもらったジュースを飲んでいました。書斎には漫画は無くて、幼い私にはよく解らない書籍が沢山ありました。退屈でしたが、暑い外に居るよりは遥かに良いと考えていました。
ジュースを飲み終わり、お手洗いを借りました。
和式で、臀部をドアの方へ向ける仕様でした。家のトイレはボットン便所で怖さもあり、まだあまり上手に排泄が出来ずに便器を汚してしまう事もありましたが、ここは水洗で落ち着いて排泄が出来るので失敗はしませんでした。
その時でした。
旦那さんがトイレのドアを開けました。私は母に言うのと同じように、旦那さんに「上手にできたよ」と言いました。旦那さんは私の短パンとパンツをおろして、じっくりと陰部を眺め、そして「こっちにおいで」と手を引いて、書斎のベッドへ連れて行きました。
短パンとパンツを脱がされて、ベッドに横にされて、脚を開かれました。まだ知識のない私は、そんなにしなくても上手にできたのに、と考えながら、されるがままでした。
「ちゃんと拭けてないよ」と旦那さんに言われ、「きれいにしないと病気になるよ」と陰部を舐められました。この、「きれいにしないと病気になるよ」は母に言われている言葉だったので、舐めるという行為に疑問は感じていましたが、特に拒否はしませんでした。
これが、生まれて初めて受けた性的虐待でした。
四角い青空。