ゆうれいのおはなし


見ていると,まるでユウレイだった。床の上に落ち着かない。次から次へといなくなる。または,床の上から決して離れない。抗えない,ということが指先に至るまで表現されている。見ているこちらが苦しくなるほど,長い時間,止まっているだけでなく,唐突に動くし,動かない。予測不能,こちらの予測の裏をかこうという計算や,とめどない感情の勢いに任せるという衝動もなく,外的要因に引っ張られてそうしていると思わざるをえないほどに,主体的でないその成り立ち。トランス状態という言葉が湧き起こす高揚感の一切がない。なんでこうなった?という疑問しか抱けない。顔は見える。表情らしきものも,窺えなくもない。何せ,彼女は生きている。呼吸音だって聞こえるはずだ。けれど,最前席の彼らにだって,それが可能になっているかどうか。どうしても一目見たいという気持ちを抑えきれず,体調不良を引きずって,今夜を味わいに出て来たのであろう,野太い中年男性のしきりに咳き込んでいた音も,既にとって喰われてしまったかのように,現れやしない。それは多分,この終わりまで許されない。ルールを守り,舞台から降りることもなく,視線の先にある意思も見せず,またはあり方そのものが理由であるかのように,なのに,何の意味もなく,姿を見せつける,それは私を見ているようで,誰も見ていないのだと,ここに座る全員が知っている。そう,決めつけてしまって構わない。それほどに,彼女の演技はすごい。
この舞台を私が見たのは,この記事が掲載される日から,ちょうど二十八年前,舞台熱心だった両親に無理やり連れていかれた,十二歳になったばかりの日だった。当時,人気絶頂期になる間近であった彼女は,夜公演の一回,三日間だけという日程で,後に伝説となるあの舞台の初日を迎えた。私の父が幸運にも取ることができた四枚のチケットのうち,両親を除くと,残りの二枚を私と,私の父の同僚が分け合った。父の同僚は,私の両親のように,舞台に並々ならぬ興味を持っていた訳ではなかったようだが,話題になってはいた彼女の舞台,ということで,父に誘われ,私とともにその日の夜を迎えた。彼は私に,内緒の話のように潜めた声で,
「僕の隣に座るといいよ。眠っちゃっても,君のご両親には秘密に出来る,壁になってあげるから。」
といって,両親の席から,同僚の彼を挟んで,ひとつ離れた席になるよう,私のチケットと交換をしようと言ってくれた。その予想どおりに,観客の一人として,眠ってしまって怒られたことがあった私は,感謝の言葉を述べながら,その申し出を受けた。父には,「こっちの方がよく見えるから」といって(実際,その席はより真ん中近くなる所にあった),彼と私のやり取りを納得させた。それを,この日の私のやる気と見て,二人は喜んでもくれたのだ。少しの悪気,半分は超える反省,そして自然に訪れる眠気との勝機なき闘いを逃れられたという安堵を抱えて,私は劇場内に足を運んだ。開始五分前のブザーの頭上に聞き取って,私はその席に座った。約束された時間だった。そして私は見た。二度と忘れられない記憶になった。
出版社に勤めるようになり,担当する雑誌のコーナーの人気を得て,先輩のそねみにより,人事の魔の手で,当該雑誌においては,片隅といえるほどの頁と文字数しか得られていなかった芸術コーナーを任された私は,これからの身の振り方を考える前に,好き勝手やってしまおうと決意した。それはもちろん,彼女の取材だ。ダンサーとしての引退後は,指導者・演出家として二,三年活躍し,一般の商社マンとの結婚とともに,一線を退いた。一人の男の子,二人の女の子を立派に育て上げ,最愛の人を見送って,今は余生を過ごしている。私は彼女に聞きたいことがあった。それを隠して,編集長に掛け合った。先輩の息がかかった編集長は,これを良い機会と考え,私の提案を全面的に受け入れてくれた。それは私の狙い通りでもあった。最後の取材費とばかり,これまでと違って十分な額を用意してくれたことに謝意も示し,カメラマンの動向は元よりないため,その日のうちに,準備万端で高速電車に乗り,彼女がいる,その地に向かった。思い立ってもいられない。私は彼女に聞きたかったのだ。あの公演を,なぜあの日だけで止めてしまったのか。そして,これは取材をする者としてタブーであり,また取材される側からすれば,最もナンセンスなものに当たるだろうが,この質問。なぜあの日,あれになれたのか。滑稽にして,最も私の知りたいことだった。
アポイントメントは事前に取れていた。彼女はとてもフランクな人で知られていて,面識のない私が直接電話をしても,明るくオッケーしてくれた。郊外の彼女の自宅まで,車内で二時間の待ち時間。聞きたいことをまとめては消し,まとめては消しを繰り返し,すべてのプランを放り投げて,あの日のことを思い出して,父の言葉を真似た。父は,父の同僚と,彼女が一時期とはいえ,男女の仲で付き合ったことを,とても複雑そうに非難していた。
「あんなことになるなら,」
と,そこで言葉をいつも途切れさせるのだった。心中を察するに,今の私なら,それが分からないわけでは無い。あの日から,私だって,舞台に熱心になったのだ。なら,それを利用してみるか。冷徹な理屈と,ガシャガシャと走り回る動力機関をもって,暴れ回るか,それとも。暴れ回る,ああ,そうか。と思い立って,私はペンを走らせた。思い出したことがあったのだ。とても真似できなかった足取りについて。丁度,それに必要な証拠も持っている。
それなり,どころじゃない収入を得たはずの彼女は,でも似たような庭付きの住宅地が並ぶエリアの,交差点手前の一軒家に住んでいた。約束の時間前に着いてしまったが,彼女の人の良さに甘えて,チャイムを鳴らした。奥から快活な返事が聞こえてきて,白髪になったこと,皺が目立つこと以外は変わらない,彼女の姿が出迎えてくれた。
「いらっしゃい。待ってたわ。」
早く着いてしまったこと,それと,彼女の好きなクッキーなどの焼き菓子を差し出して,私はお礼を言った。それを言うのは私の方,と彼女は素敵に笑ってくれ,ソファーにかけて,と言い,彼女はお茶を用意しに,キッチンに入っていった。私は言われた通りに,ソファーの端に腰掛けて,失礼ながらも,部屋の中を見回した。木目調の家具類,思い出の写真,多くの本,その大半はやはり芸術関係の大判ものか,あとはDVD,メジャーの映画のタイトル,あとはシンプルな置物,子犬が多かった。そのどこも整頓されていた。リハーサルの終了時間まで,一秒のズレも許さなかったという逸話のある彼女らしい,と思うのは,いささか,ファンとしての私を通し過ぎ,というべきなのだろう。居心地の良さは,とにかく間違いなかった。
熱々のティーを淹れてくれた彼女から,すぐにカップを受け取って,ある程度の会話,なかなか遠かったでしょ?とか,久しぶりにこの辺りまで来ました,親戚が居たので,ということや,あら,出身はどこ?あら,奇遇ね。私の孫がそこに居るわ,などの日常を確認し合ってから,私は彼女に改めて向き合い,取材を受けてくれたことへの感謝,私の名前,出版社,今回の取材の目的(私的な事情は排除して),そして,個人的に訊きたいこともあると素直に述べた。齧ったクッキーを置き,彼女は不敵に笑い,彼女の名前,今日は特に忙しくもなかったこと,取材の申し出は久しぶりで,むしろ楽しみだったこと,時間があればディナーもご一緒に,あと,先ずは私の淹れたものを味わってくれるかしら?と答えた。それと,このクッキーはどこで?と彼女は私に訊いた。
「最近できた人気店のものです。味の好みまでは存じていなかったので,一番オーソドックスなものを。」
という私の応えに対して,彼女は一回,頷いた。
「チョコチップ入りも好きなの。郵送でもいいから,よろしくね。」
丸が欠けた残りのクッキーを手にした彼女に,私は約束した。
「ええ,分かりました。出来れば,箱入りを抱えて来ますよ。」
そう言って,私はカップをすすった。私も彼女も満足していた。そう思えるぐらい,どちらも美味しいものだった。
通り一遍の取材の終わり,私は例の質問をぶつけた。まず,あの公演を,なぜあの日だけで止めてしまったのか。これについての彼女の答えは明瞭だった。
「支配人と揉めたことが原因ね。あの日の公演終わりに,支配人からカチンとくる一言を頂いてね,私というより,私のマネージャーが珍しくキレちゃったの。それで中止。他の会場で続けることも出来たのかもしれないけど,彼がとにかくダメだ,の一点張りで。なんか,意地になってたわね。私も粘ったけど,途中から興ざめしてしまって。それで,あの日の一回きり。」
「初めて聞きました。」
「ロクな理由じゃないもの。劇場の支配人と揉めるマネージャーを連れているダンサーなんて,知られたらマズイでしょ?」
「どんな一言を,と訊いてはいけないですか?」
「構わないわ。素晴らしいが,なんであんなものを?という至極真っ当な感想よ。」
イタズラっぽい口調で,彼女は言った。その理由について,あの日に居た者の一人として,私の方では何も訊く気は無かった。ただ,私は切り出すことにした。彼女に訊きたかった,もう一つのことだ。
私はそばに置いていたカバンから,ホームビデオのカメラを取り出した。入っているカセットの映像を再生できる。当時は最先端,今はもう古い,下手をすれば骨とう品と言われるものだ。あら,懐かしい,と彼女も漏らしたほどだ。私が側面の画面を開け,彼女の方に向けて,再生ボタンを押した。巻き戻しと早送りを駆使して,必要な手間は省いて置いた。
「これを見て下さい。」
ええ,いいわよという代わりに,彼女は画面に写る映像に集中した視線をくれた。そのホームビデオの構造上,私の方からはそれを一緒に見ることは出来ないが,流れているはずのものが何かを知っている。とても恥ずかしく,今も顔が赤くなるのを耐え忍んで,停止ボタンを押すタイミングをはかることだけを考えざるをえない。おそらく,そこには自分の部屋でドタバタと暴れ回る,あの日を再現しようと試みている,幼い私が踊っているはず。まるで,何者かに足を噛まれたウサギが,その痛みや原因を探ろうとして,とにかく跳び回ることを選んでしまった,前衛芸術としても見るに耐えない,そういう瞬間がコマとなって続き,ひとつの場面となっている。そして,目の前の彼女を見ていれば,それが正しいことだと,よく分かってしまう。自身のお孫さんが遊んでいる姿を見るときも,同じ顔をしているのかもしれない。そう想像ができる,優しいものだった。
「まるでウサギ。」
「僕もそう思います。」
停止ボタンを押して,こんなものを見てもらった非礼を一言,そうして,私は彼女に訊いた。なぜあの日,ああなれたのですか。
私の言葉を聞き,彼女は何も言わずに立ち上がって,着ていたジーンズの皺を直してから,彼女はキッチンとリビングの間のちょっとしたスペースに歩いていった。玄関の方に顔を向け,したがって,リビングに座る私に背中を向けて,彼女は一度,深く息をした。白いTシャツの背中が動き,そして,彼女は動いた。振り返りもしなかった。まるでユウレイだった。あの日の原型がそこに居た。いなくなっては,現れていた。
「あの人はね,私が付き合ってきた人たちの中で,最も情熱的な人だったわね。」
できる限りで私も手伝い,彼女と一緒に囲むテーブルで,アットホームな肉料理を中心に頂きながら,彼女は私に,父の同僚のことについて語ってくれた。
「優しかったしね。なのに,すぐに別れた理由までは教えないわよ。」
彼女は自身のものを,私のグラスに一方的にぶつけて鳴らし,とっておきのものを一口ずつ,ゆっくりと飲んでいった。私もそれに習い,一口飲んで,味わった。
「彼ね,あなたの話もしてたのよ。まるで虜になっていたってね。」
それを聞いて,もう一口,と試みようとしていた私は,喉を詰まらせるのをどうにか回避しながら,彼女に言った。
「まあ,事実です。しかし,勝手に話すなんて。」
ケタケタ,と笑い,でもしっかりと私を見つめて,彼女は言った。
「ありがたいことよ。悪くないわね。」
ニュアンスだけでいえば,とても嘘には聞こえない。嬉しく思う私と,彼女との間の話だった。

ゆうれいのおはなし

ゆうれいのおはなし

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-09-30

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