ねぇ、ちょっと
「ねぇ、ちょっと」
──出た。この呼び方。
「ちょっとってば」
オレは『ちょっと』って名前じゃない。
「ちょっと、聞いている?」
意地でも返事するもんか。
オレには『大輔』って、親がくれた大事な名前があるんだ。そんなテキトーな『ちょっと』で振り向く訳にはいかないね。
「なーに怒ってるのよ。私何かした?」
過去形じゃない。現在進行形でしてる。
大体、自分がぞんざいに呼ばれたら怒るくせに、人には平気で使うんだ。それが気に入らない。
女って、何でこんなに我が儘なんだろうな。
彼女とは高校の同級生で、部活も一緒だった。
しょっちゅう顔を合わせるからか、どちらからというでもなく、三年の夏休みに付き合い始めて今に至る。同棲もいつの間にかしてた。
ま、お互い居心地が良かったんだろうな。こっちもカッコつけずにいられるし、向こうも無理に女らしくしなくて良い。
だけど一つ不満なのは、一度も名前で呼んでもらえないこと。それで一回ケンカになったことがある。しかし彼女は頑として『大輔』と言わない。理由も教えてくれない。理不尽だ。
でも嫌いになったわけじゃないから、そのまま付き合ってはいる。もう六年。ここまで来たら、今更他の人と……なんて、面倒だからな。ズルズルだらだら、もう六年。
同級生の中にはもう家庭を持っている奴らもいて、結婚式なんかに呼ばれると『もうそんな歳なのか』と思わされる。
でもオレたちはそんな雰囲気になったことがない。二人とも仕事を楽しんでいるし、今の関係が楽だから。ちらっとは考えることも、まあ、無くはない。
「ちょっと、ご飯冷めるよ。ったく、これから夜勤の人に作らせておいて感謝の言葉も無いわけ?」
む……それを言われると痛い。
返事をしないわけにいかなくなったな。
「……しょうがないじゃん。今時期忙しいんだから」
「忙しいのは私だって同じなんですけど。大体、当番制にしようって言ったのはあんたじゃないの。ここ三年、まともに守ったこと無いよね。ご飯だけじゃない、掃除も洗濯も気がついたら私しかしてない」
──ああ、しまった。地雷を踏んだみたいだ。
「ごめんごめん。今度からやるって」
「あんたの言う『今度』っていつよ? この話する度に『今度』って言うけど、結局やらず仕舞い。私、お母さんになったつもりないんだけど」
「どうせいつかなるんだから、練習だと思って……」
女なんだし、やっておいて損はないだろ?
「いつか、とか今度、とかはぐらかしてばっかり」
「だから、ちゃんとやるって言ってるだろ?」
「……家事のことだけじゃないから」
「え?」
何だよ……。何が言いたいのかさっぱりだ。
「この先のこと、考えたことあるの?」
「この先……」
つまり結婚、とか?
でもそんなそぶり、今まで無かったじゃないか。
「……まさか、今のままでずっといようなんて思ってないよね?」
もちろん、いつかはと思ってたけど。
……あ、オレまた『いつか』って。
『いつか』って──『いつ』だ?
「……ごめん」
口から転げ落ちたのは、言い古された陳腐なセリフ。
「ごめん……? それは『お前とは結婚できない』って意味? だったらはっきりそう言って!」
彼女の目から涙が溢れた。そうしてようやく、オレの独りよがりの『楽なカンケイ』だったことを思い知る。
「オレ、お前に甘え過ぎてたんだな……ごめん」
「だから、その『ごめん』はどういう意味よ。自分の言葉で説明できないの? あんたの気持ちまで私に言わせようとしないでよ!」
今の、刺さるなぁ……。
その通り過ぎて、頭殴られたみたいにガンガンする。
オレ、全然言葉足りてなかったのかな……。
「……お前に、家事全部押し付けてごめん。勝手に『お互い今が楽で良い』って決めつけててごめん。お前なら、言わなくても分かってるって、思い込んでごめん。……オレと一緒にいてくれて、ごめん」
こんな奴、愛想尽かされても文句は言えないよな。
「最後のは『ごめん』じゃなくて、『ありがとう』じゃないの?」
彼女の濡れた頬が、しょぼくれたオレの額に乗っかった。
こんなオレで良いのか? こんな馬鹿な男で。
「オレなんかと、ずっと付き合ってくれて……ありがとう」
「ばーか」
おい、ほっぺたつねって上向かせるなよ。
──こんなドキドキするキス、久しぶりだな……。
「なあ、結婚しよう」
「……無理しなくて良い」
「してないよ。オレ、お前が良い。お前と一緒なら、ずっとやっていける」
「何それ。プロポーズくらい、もうちょい格好つけてよね」
彼女の顔が、またぐちゃぐちゃになった。
「オッケー、ってことで良いのか?」
「そんなの、オッケーに決まってるでしょ! ホント、バカね」
「これから仕事なのに、そんな腫れた目で大丈夫なのか?」
「誰のせいよ。あーあ、何て説明しよう」
「いいじゃん、プロポーズされましたって素直に言えば」
「恥ずかしいよ……。ねぇ、ちょっと。ティッシュ取って」
そういえば、この『ちょっと』の理由、いい加減教えてもらわないと。
「なあ、何でオレのこと『ちょっと』って呼ぶんだよ。それだけが不満なんだよなぁ。結婚するんだから、もう名前で呼んでよ」
「だって……」
おいおい、何真っ赤になってるんだ。もう六年もいて、何を今更恥ずかしがることがあるんだ。
「……『だいすけ』って、似てるじゃない。あの言葉に」
「あの言葉?」
「だ、『だい……き』って、聞こえるでしょ……」
ボソボソ言うからよく聞こえない。何なんだ。
「え? 何だって? もっとはっきり……」
「……もう! 『だいすき』って言ってるみたいでしょ! だから恥ずかしかったの! はい、おしまい! もう時間だから行くね! ……あ、ちょっと」
こっちを見ないでまくし立てていた彼女の腕を、ぐっと引き寄せる。
細い、柔らかい身体を潰さないように、背中から力いっぱい抱きしめた。可愛くて、離したくなくて。
「ちょっと、苦しいよ……」
「名前で呼ぶまで離さない」
腕の中で、彼女が照れて身じろぎしたのが分かった。
「呼ぶから……少し力抜いて」
腕を弛めると、彼女はオレの方に向いてきちんと正座する。両手を繋いだら、いつもより熱かった。
「だ、だ……いす……け?」
初めて彼女に呼ばれた名前は、甘く、微かでくすぐったい。
「もっと呼んで?」
「……ばか。『だいすけ』……『だいすき』」
返事は、キスで返した。
ねぇ、ちょっと