テミスの怒り

戦後日本の繁栄には目を見張るものがあるが、反面反社会勢力の台頭も頂点を極めようとしている。国民は自身に降りかかる事の無い様、出来るだけ目を背け、関わり合いを避けてきた。しかしながら麻薬に侵される人々は後を絶たず、その悲惨さは全国に蔓延しつつある。
ここ数年、警鐘は枚挙に暇がないほど鳴り続けている。
裁判所の前に立つ「テミスの女神」も天秤と共に剣をかざしている。
日本人としての自覚と誇りを喪失しないためにも、信念を以て立ち向かう生き方を選んで欲しいものである。

テ ミ ス の 怒 り



プロローグ 


一週間前までは鬱陶しい梅雨空が続いていたのに、一転して海や山を焦がすような陽光が列島を覆っていた
冬には三千羽を超える渡り鳥が飛来する伊丹の昆陽池は満々と水を湛え、池を囲む公園では水鳥の鳴き声だけが時折聞こえる静謐な時が周囲を満たしていた。
その一角に建つ官舎の一室で、六ヶ月目に入ったお腹を慈しむように眺めながら、涼子はそっと起き上がった。
今日はその父親が一週間ぶりに帰ってくる日でもあった。
嬉しさを隠そうともせず一人微笑を浮かべ、窓を開けて清涼な空気を部屋に入れた。
伊丹の町は兵庫県の東南に位置する人口二十万人の小都市で、四十六万都市である尼崎市の北に隣接し主要な施設は伊丹空港が有り、その東部をJR福知山線と阪急電鉄の伊丹線が南北に走るのみで市内の交通手段はバスが主体の町である。
久しぶりの手料理で夫を迎えたいと伊丹駅までのバスに乗ったが、一つ手前の小西酒造前で降りると直売所で地ビールと日本酒を買った。白いなまこ壁に囲まれた酒蔵の前は石畳の遊歩道が駅まで続いていた。
一九九五年一月十七日に発生した阪神・淡路大震災は十五年を経て阪急伊丹駅を三階に配した五階建てのショッピングモールに生まれ変わっていた。
白い石畳を歩く涼子は、すれ違う男たちがその美しさと容姿に振返る視線をパラソル越しに楽しみながらゆっくりと歩を進めた。
突然前方の駅の辺りで悲鳴と怒号が湧き上がり、なかなか治まらない騒ぎに不安を覚えてその場に立ち竦んだ。視線を向けると一人の薄汚れたジーンズ姿の若い男が何か振り回しながら走って来る。その後ろを二・三人のライトブルーのシャツ姿の男達が大声を張り上げて追ってくる。彼女は身重と云うこともあって一歩も動けぬまま、逃げてくる男を正面から待ち受ける形になった。
男の目に射竦められたように立つ涼子の目の前に刃先が光った。



        官  邸


内閣総理大臣 渡辺誠一郎は官邸内の自室で首席秘書官の内村 正と久しぶりに二人だけの寛いだ時間を過していた。
比較的若くして総理の座に就いた自由改革連合の旗手、渡辺は能力と行動力を兼ね備え国民の期待を一身に集める宰相になっていた。
意志の強そうな顎と凛とした目はそのことを雄弁に物語った。
渡辺と内村は大学の先輩・後輩の間柄であり共に京都大学の経済学部と法学部で学んだが学部の違う二人を結びつけたのはアメリカンフットボールであった。内村は渡辺の十年後輩で、当時国立でありながら唯一全国トップリーグのアメリカンフットボール部が全盛期を迎えたチームは渡辺をQBに日本一を競った。
卒業後渡辺の博識とその統率力に心酔し、彼が三十五歳で衆議院議員選挙に出たとき、内村はそれまで勤めていた大手商社を退職して渡辺の元に馳せ参じた。
彼は昨今の政治家がマス・メディアに対して身構え・尊大に振る舞い、骨を折るのは票をかき集める時だけだということに嫌悪感を覚えていた。
内村には誠一郎も全幅の信頼を寄せ、私的な相談も忌憚無く話の出来る存在であった。
「やっとだな」一段落した議会運営に笑顔を見せて言った。
「やっとですね」内村はサイドテーブルに行き、二杯の水割りを作って渡辺の前に座った。
「政権を取って二年か・・・ここで立ち止まってはおれないな」
「はい」内村が返した短い言葉には万感が込められていた。
少しの間、宙を見つめていた誠一郎は突然話題を切り替え「きのう、ニュースで兵庫県のどこだったか暴漢による通り魔事件があったらしいな・・被害者の方はどうなった」
「アァあの女性は残念ながら助けられなかったと聞いています。それも彼女は妊娠していたそうですよ」
「本当か・・・それは又お気の毒に・・・で、犯人は捕まったのか?」
苦渋に満ちた顔で誠一郎は問いかけた
「テレビでは警察官も負傷したものの捕まえたそうです」
「一体何故・・・?」
「犯人は麻薬常習者で精神に異常をきたしていたようです」
「なんと・・麻薬か・・それにしても麻薬が従来に比べて大量に出回っているように思われるが、何か情報は入っているか」心配そうな顔を内村に向けた。
「報道では中毒患者が三年前に比べ倍になっていると言っていました」
「倍に?本当か・・・常日頃我々は“国民の生命と財産を守る”とお題目のように唱えているが、もう少し麻薬に関する現状を知る必要があるな・・・早速明日にでも関係する皆さんとの打合せをセットしてくれんか」唐突な要請であったが内村は当然のように受け容れた。
「わかりました。早速手配します」
「たのむ」そういったきり渡辺は腕を組み考え込んでしまった。
内村は手に持ったグラスをそっとテーブルに戻して軽く一礼して静かに出て行った。



悲  報


伊丹の広畑地区にある陸上自衛隊は国道一七一号線に面し、近畿二府四県を統括する陸上自衛隊第三師団司令部がおかれ、一般に千僧駐屯地と呼ばれて約七千名の隊員で構成される日本の主力部隊の一つである。

「柊一尉、入ります」きびきびした動作でGIカットの彫が深く精悍な男が幕僚長室へ入ってきた。
師団でも精鋭中の精鋭と言われる特殊作戦群の柊竜二一等陸尉は両足を軽く開いて木暮の前に立った。
一週間に亘る偵察訓練で赤銅色に日焼けした百八十㌢を越す、引き締まった体躯は更に頼もしさを増したようであった。
部屋の中では袖に二本の金モールと三個の金の桜が正三角形に刺繍された白い制服を着た幕僚長の木暮一佐と最先任上級曹長の平田が苦虫を噛み潰したような顔で彼を見つめていた。
外は夏の暑い日ざしを浴びていたが、軽く空調の効いた部室は静かだった。
「柊一尉・・・先程、悲報が入った・・・奥さんが亡くなられたそうだ」木暮が意思の力を振り絞るように伝えた。
傍らで聞いていた平田最先任上級曹長がそっと言った。
「柊 すぐに行け。表に公用車を待たせてある。伊丹市民病院だ知っているな」
「分かります」短く応えた柊はさっと敬礼をして帽子を目深にかぶると出ていった。
「痛いな」答礼をした木暮が呟いた。
「痛いですね」平田が頷いた。

今迄千葉県の習志野にだけあった特殊作戦群(SFGp)を第三師団にも創設することが決定され今年に入って人員・装備などが整えられ、現時点での主要任務は対テロ及びゲリラ作戦であるが、将来的には米陸軍のグリーンベレーやデルタフォースと同様他国における直接行動、情報戦等の多様な任務を遂行可能な部隊を目指していた。
司令官に任命された木暮一佐は習志野特殊作戦群指令であった頃、その隊員であった柊二尉を昇任させた上で平田と共に引き抜いたのである。
彼の強靭な肉体と精神力は射撃能力・索敵能力・格闘能力において替わりは見出せないほどの逸材であった。
愛妻が無残に暴漢の凶刃に倒れたことが彼に及ぼす影響は如何ばかりか今の木暮にとって全く計り知れないものがあった。



        胎  動


立秋も過ぎた市街は未だ暑さが衰えを見せず巷では地球温暖化の影響だというキャンペーンが媒体を通じて喧伝されていた。
渋谷宮益坂上を少し下った一角でビルの竣工式典が終わろうとしていた。黒いスーツ姿の男達が多かったが静かな儀式だった。
建物は百五十坪の敷地の半分程度を使った五階建てで、さして大きくはないが地下の駐車場だけは敷地一杯を使って広く取られていた。
正面は玄関横に小さな銅板でCOLOMと刻んであるだけの地味な印象を世間に与えていたが中へ一歩入ると黒基調の大理石が周囲を覆い、床には赤絨毯が敷かれ、最上階の社長室はゆったりと広く、壁はローズウッド系天然木の板貼り、床は天津の緞通を敷いた豪華な造りであった。
エレベーターのドアが開き、羽織袴の男を先頭に五人が降りると秘書の太田が社長室へ全員を案内した。
「ええ部屋やな。上品に仕上がってるやないか」
「ありがとうございます。五代目にそう言って頂いて嬉しいです」社長の金田が媚びるように言った。
五代目と呼ばれた袴姿の男こそ、影のオーナーであり全国で四万人と云われる組員を束ねる川北組の組長・山本龍一であった。横に懐刀と云われる若頭の大崎秀治が座ると金田が「さあ西島さんこちらにお座りください」と五代目の正面に座らせたのは民生党の代議士・今井正之助の秘書官 西島二郎であり、その左右に金田と太田が席を埋めた。
お茶が出されると西島が金田に尋ねた。
「それにしてもこのCOLOMという名前ですが何処から名付けられたんですか?」
「これは五代目に付けて頂いたんです」金田がそう言うと山本を見た。
「ええ名前やろ。これはアメリカ大陸を発見したコロンブスの正式の名前がクリストバル・コロンと云うてな。そのコロンをそのまま頂いたんですわ」
コロンビアの産物であるコーヒーやとうもろこし・エメラルドなどを取り扱う商社として二年ほど前に設立されたが、真の狙いはコカインにあった。
宝石を輸入する商社として外観もそれ相応の体裁が必要だとして今回の新築になったが五代目と若頭の出席は最初で最後になる筈で、世間には企業舎弟と云うことを隠さなければならなかった。
「それで、この会社の荷はいつ着くんや?」
「はい、十一月七日名古屋港の予定です」
川北組でも“カミソリ秀治”と巷間呼ばれる大崎が静かに答えた。
頷いた山本はゆっくりと正面に目を向けた。
「西島さん。いつも貴重な情報を頂いているようでありがとうございます」
丁寧な物言いに、却って威圧感を覚えた西島は顔を上げることができなかった。
民生党が政権を取った時、立場を利用して当時の都道府県警察の配備計画・警備計画が随時西島を通じて流されていた。
野党に転落した今、情報量の少なさを何時追及されるのか内心びくびくしていた。
「まあ今日は目出度い日ですから赤坂の方に席を設けさせて頂いています。太田とゆっくり遊んでいってください」
取成すように大崎があくまで慇懃な態度で西島の窮地を救った。
渋谷の秋も暮れなずもうとしていた。


官邸の午後九時は未だ眠っていない。言い換えると年中眠らないのである。
最上階には総理大臣や副総理、官房長官の執務室や国防・外交に関する第一級の話や政治的な機密会議などを開くときに使う防音機能を持った応接がいくつかあった。
その奥まった一室で内村は誠一郎と向き合っていた。
テーブルには一口サイズの小鉢が並んでいた。
内村がウイスキーの水割りを作りながら、総理とこの部屋で料理をつまみながら話す時は
重要な用件を切り出すときだということを二十余年の付き合いの中で学んでいた。
「一週間ほど前」寛いだ格好になった渡辺が切り出した。
「大下・五十嵐・市田のお三方から麻薬の現状についてレクチャーを受けただろ」
「はい、あれほどの量が入ってきているとは思いませんでした。又それが摘発されたものだけで、摘発を逃れた量はおそらく何倍にもなるのではないか?という話でしたね」
「そうだ」渡辺は頷きながら「俺はあれ以来、このことを考え続けた」脱いだ背広の所へ行き、内ポケットからメモを取り出すと眺めながら席に戻った。
「麻薬もヘロイン・モルヒネ・LSD・コカイン・アヘン・大麻・MDMA等実に多岐に亘って、密輸入の仕出地としても韓国や北朝鮮・中国・台湾・香港・フィリッピン・カナダ・マレーシアなど、多くの国が関わっている・・・そこで我国だが」
渡辺は少し間を置き続けた。
「俺は就任のとき国民の生命と財産を守ると誓った。いつも言っているようにどのような難題でも、先ず一歩踏み出してみようと思う。踏み出さなければ何も解決しない。法がその役割を果たせず正義が無視され、弄ばれ、抜け道を作られる今、私はそれらに鉄槌を下す力を手に入れたいと思った。例えそれが合法だと言われなくても・・要するに首相直属というか直接指示できる組織を立ち上げたらどうかと思っている」思いを吐露し、言葉が熱を帯び顔も朱に染まっている。
大きな一歩を踏み出した瞬間だった。
内村は迸るような奔流に声も無く聞き入った。
「そこでお前に聞きたい。どのような組織が良いか、この案は誰に相談すればよいか」
返事をする前に自分が抱いた疑問があった。
「お答えする前に先に二、三聞いておきたいことが有ります」
「なんだ」
「先ず、どのような組織をお考えでしょうか」
「決まっているじゃないか麻薬などの日本への流入を防ぐためと、それらの殲滅だ」
「でも、それは既に公安や警察があるじゃないですか」
「でも彼らの活動で麻薬などの流入が大幅に減少しているか?」
「ですが、まったく別の組織を創るとなると公安や警察による相当な抵抗があると考えねばなりません。それに加えて予算はどうするんですか」まさに正論だった。
誠一郎はため息をつきながら途方にくれたような仕種で目を落とした。
内村は尚も続けた。「そうなると極秘の組織になるでしょうが、予算も考えると少人数しか編成できません。それではそういう組織の殲滅などとても無理ではないでしょうか」
「そうだよな」
「ついでに今一つそのような組織を編成して殲滅ということになると、当然のように死者も覚悟しなければなりません。組織も公表され、以後は表面に出てしまいます。そうなると総理のお立場は最悪の結果になります」自分の辿りつく結果と同じことを言われ、残念そうに内村を見た。
「やっぱり厳しいか」
「厳しいですね」
「自衛隊を使うにしても彼らが銃を持って市街地を走ることを想像しただけで気が滅入るよ」
「まさしく」
「でも俺はその一歩を見つけたい」
しかし、内村はその“自衛隊”という言葉を聴いたとき何か琴線に触れるものがあった。
「総理」思わず今湧き上がってきた考えを纏めながら「実は私の高校時代の同期で木暮という男がいまして、私よりはるかに優秀だったんですが、『俺は日本を守る』と云って防衛大学に進んで、確か今年の正月の年賀状に『伊丹の第三師団に幕僚長で行く命令を受けた』と云ってきました」
「伊丹というと、兵庫県の?」
「そうです」
「そうか君は西宮出身だったな。それと先日の麻薬常習者による凶行はそこの隊員の奥さんではなかったか」
「そうです」
俄かに胸の奥で鈴の音が鳴っているのを感じながら内村は続けた
「そこで総理、二三日休暇を頂いて、木暮と、彼の日本を守るという考えを聞くことで何か参考になるかもしれません。極秘の話ということは充分承知していますが、今の話を私個人の考えとして彼に話しても構わないでしょうか。勿論彼の考え方が少しでもずれていると感じたら打ち切って帰ります」
誠一郎は目を瞑り腕組みをしながらじっと考えを集中させていたが、やがて腕組みを解いた誠一郎は静かに言った。
「解った。君の判断に任せる」総理の強い信頼の言葉を内村は呑み込んだ。
何かが芽吹こうとする予感がした。



        邂  逅


新大阪駅から在来線を乗り継ぎ阪急伊丹駅に降り立ったのは午後一時を少し廻っていた。
東京と変わらず八月も終わろうとしているのに未だ湿度の高い夏が居座っていた。
緑ヶ丘の木暮家の前に立った内村は友人との再会に懐かしさと共に本来の用件を思うとき、軽い緊張と興奮を覚えながら呼び鈴を押した。
出迎えた夫人に、小さな坪庭に面した八畳ほどの和室に案内された。
坪庭の片隅には花を落とした南天の葉が夏の陽を浴びて色鮮やかな緑を見せていた。
二人が座るのを待っていたように冷えたビールが運ばれて「どうぞ」と妻の小枝子が笑顔でお酌をする。
木暮は小鉢の料理をつまみながら「遠慮せずどんどんやってくれ、奥さんは息災か?お前のほうは時々テレビで元気に活躍しているところを見ているから特に心配していないが」
「おぅ、お蔭さんで元気なもんだ」遠慮の無い口ぶりで返す。
お盆過ぎだというのに空調が程よく効いた室内は二人だけの静かな空間を創った。
「ところで、この前の亡くなられた女性のご主人はお前の部隊の隊員だったんじゃないか」
その一言に木暮は苦いものを飲み込むような苦悶の表情になり、グッと唇を噛みながら頷いた。
「そうだ」手酌でビールを注ぎ足した。「お前も聞いているかも知れないが、第三師団にも特殊作戦群を創るべくそのエースとして習志野から引っ張ったんだ」
「その特殊作戦群というのはどのような任務を担うんだ」
「主な任務は対テロやゲリラ作戦だが、警察や消防などのレンジャー部隊のようなもので、彼らと違うところはその訓練された体力に加えて敵対する相手を殲滅する能力や情報収集能力を持っている集団だと思ってもらえば良いかな」
「なるほど、彼がそのエースだったのか」
「そうだ。ライフルも拳銃もナイフでの格闘技も我が自衛隊のトップクラスで、しかも英語・ハングル語・中国語の三ヶ国語を話せる三拍子も四拍子も揃ったスーパーエースだったよ」
「だった?」
「そうだ、あの事件で、彼は葬儀の後すぐに除隊届けを送ってきたまま連絡が取れないで困っているんだ」
「余程こたえたんだな」
「そうだろうと思って、師団には休暇ということにしてある」
「心配だな」内村もそれ以上突っ込んだ話しをするのを止めた。
そんな気配を察したのか、ほっとした顔を内村に向け
「ところで今日のお前の訪問は只の里帰りか、それともほかに目的があってか」
単刀直入に聞いてきた。
「実はお前に相談があってきた」素直に答えた。
「ほう日本の最高司令官の首席秘書官が相談か」
「いや俺の個人的な相談だ」
苦笑いを浮かべながら内村は総理と話した事を、さも内村自身が思い込んでいて具体策が出来上がれば総理に進言したいという事に脚色して熱っぽく木暮に訴えた。
「そこで相談というのはそういう組織を立ち上げるとして、どうすれば極秘裏に創れるかアドバイスが欲しくて会いに来た」
途中から笑顔を引っ込めた木暮は熱く話す内村を腕組みしたまま見詰めていた。
話を終えた内村はグラスに残ったビールを一気に煽った。
木暮は目を瞑って暫らく考え込んでいた。
やがてテーブルの瓶を取り上げて内村に注ぎながら「無理だな」ボソリと呟いた。
「そうか・・・やっぱりな」少し気落ちしたように俯いた。
「どう考えても無理だ。釈迦に説法かも知れんが、警察・公安それに水上という組織がある以上この計画は極秘には出来ない」
内村は悔しさを滲ませて小さく頷き、小鉢に手を伸ばした。
「こうなればスーパーマンにでも出てきてもらうしかないか」
「スーパーマン?」
「だってそうだろう、どうしてもそういう組織創りが無理であればスーパーマンにでも出てきてもらって“悪”を退治してもらうのを期待するしかないだろう」半ばやけ気味に溢した。
「スーパーマンなぁ」苦笑いを浮かべてグラスを口に運んだ。
「そうだ。それにいつも総理が口癖のように『先ず一歩踏み出そう、その一歩は小さくても、踏み出さねば絵に描いた餅に終わる』と言われるんだが、その一歩も踏み出せないもどかしさがある」
再び腕を組んだ木暮がじっと考え込み「残念だがな」呟くように言った。
しばし、静かな時が過ぎて行った。
本来の目的もなんら成果を見せぬまま、酔いの回ってきた内村は、明日の国会での会議に総理のお供をしなければと理由をつけ(事実そうだったが)
「じゃあそろそろ俺は失礼するわ」いつの間にか関西弁をしゃべっている内村を見つめて
「内村、今日の話は今一度考えてみようと思う。だから少し時間をくれないか」
「分かった」そう言うと内村は席を立った。


執務机の木暮の背後には第三師団の重厚な織物の団旗と日本国旗が並んで立てられていた。
ノックがして平田が入ってきた。
「お呼びでしょうか」
「オウ・・その後柊とは連絡が取れたか」
「いえ、携帯にも出ませんし、官舎にも帰っていません」
「家具や荷物はそのままか」
「はい、あの日のままです」
「そうか」木暮は、暫らく考えて
「平田君、今日一日業務は他のものに回して何としても柊を見つけ出してほしい。それも君だけで行動してくれないか」
頼み込むような物言いだった。
「了解しました」短く答えて敬礼すると幕僚長室を後にした。
平田は木暮に心酔していた。
この第三師団に着任して以来未だ八ヶ月ほどしか経っていなかったが、前任の習志野から柊と共に請われて転属した平田は今までの幕僚長の統率・指揮能力を畏敬の念で見ていた。
そんな木暮が柊を探せと言う。否やは無かった。
平田には特技があった。兵站に関して、どんな無茶な注文でも難しさを表面に出さず調達したし、自衛隊に入隊以来その内部での特権を生かして大型・小型の運転免許から特殊免許まで殆ど全ての免許と、海上での三級小型船舶操縦士免許まで取得していた。
更には、コンピューターにも天才的な技量を持っていた。
彼は私服に着替え、今日一日の行動を頭に描きながら師団を後にした。



蠢  動


自宅で朝食を食べている静かなひと時、携帯電話が静寂を破った。
内村が箸を置いて一瞥すると、ディスプレィに木暮の名前が表示されていた。
そのまま立ち上がって書斎に向かいながら「この前はありがとう。大変ご馳走にもなって」伊丹での礼を言うと「この前の課題の件だけどな」木暮はいきなり要件に入った。
「俺なりに色々な問題点を考えて、やっとこれしかないと言う道を見つけたんだが、その前にどうしても確認しておきたいことがあって官邸へ行く前に連絡させてもらった。それで、たまたま二十六日に防衛省で全国の師団長会議があるんだが、私も一緒に出ることになっている。会議は九時から始まるんだが、そのためには前日に東京に入ることになる。そこで二十五日の夕刻にどこかで会う時間はあるか?」
内村は携帯を持ち替えながら左手で背広の内ポケットを探り手帳を取り出した。
「二十五日はっと、丁度予算委員会の日だけれど五時過ぎには終わると思われるので七時ごろなら大丈夫だ」言いつつ、もし時間が延びたらという考えも頭をかすめた。
「お前、その日の泊まりはどこだ」聞きながら、少々遅れても良い場所はどこがいいかと思案をめぐらせた。
「女房の実家が神楽坂にあるんで、そこに泊めてもらおうと思っている」
「じゃぁ、ニューオオタニを知ってるよな」
「あぁ、紀尾井町だったかな」
「そうだ。その四十階にザ・バーという店がある。俺から予約を入れておくから、そこで七時というのはどうだ」
「分かった、ニューオオタニで七時だな」
「そうだ、じゃぁ楽しみにしてるよ」それだけ云うと電話は切れた。


公邸で誠一郎は普段着で久しぶりに寛いだ時間を過していた。
水割りを口に含み今朝の事を思い返した。内村が執務室へ来るなり二十五日に木暮君の上京を報告にきたが、彼に関して俺が知っているのは内村が“私より優秀なやつで・・・”と言ったことだけが彼を評価する材料だった。
代議士時代から彼の信条は人の噂をそのまま鵜呑みにするのではなく、その人物に会うなり、事象を体験してから判断することだと思い至ったとき、この木暮という人物をもっと知っておく必要があると思った。幸い統合幕僚長の誉田は何回かの会議で打ち解けた会話の出来る相手であった。
思い立つと直ぐ行動に移すのも彼の特徴で、サイドテーブルの電話で秘書官を呼び出した。


幕僚長室で平田最先任上級曹長がソファーに座って木暮に報告していた。
平田は昨日師団を出てから今日の未明まで寝ていなかった。
その間柊の友人や、涼子の行きつけの美容院まであらゆる場所を足が棒になるほど歩き回り、柊の携帯にもほぼ十五分おき位で電話をいれていた。
万策尽きて隊舎に戻ろうとした夜明け前の四時半頃にやっと平田の携帯が鳴った。
「今どこだ、元気か」咳き込むように聞いた。
「何とか元気で居ります」そのまま柊は黙り込んでしまった。
ここで電話を切られては折角の接触が無駄になる。
「幕僚長も、心配しておられる。今から会えないか」
「ご心配頂いてありがとうございます。先任が昨日から私を探しておられることは分かっておりましたが、電話に出られない事情が有りまして失礼しました。自分勝手で有りますが来月の四日頃まではお会いできません。それが済めば自分から連絡させて頂きます。それまではどうかそっとしておいてくださいお願いします」電話は切られた。
その報告を聞いていた木暮は「どうしても出られない事情というのは何だ?来月の四日頃までは会えないという意味は?『出られない事情、来月の四日頃まで』・・・いったい何だ」腕を組んで考え込んでしまった。
外は夏の終わりの太陽が未だ地面を焼いていたが、幕僚長室は空調の音と二人の息遣いが交差するだけであった。
やがて腕組みを解き「ご苦労だった。お前眠ってないだろう、部屋に戻って少し休め。連絡が有り次第教えてくれ」
「お役に立てなくて申し訳有りません」平田は立ち上がって深々と頭を下げた。
木暮は疲れ切った平田を労って肩に手を置いた。
「いや四日には全てがはっきりすると分かっただけで良しとしよう」自分にも言い聞かせるように呟いた。


夏の黄昏時、紀尾井町の喧騒の中で小さな森に囲まれた一角があり、薄暗くなった緑の中からタワーが伸びている。
ハイブリッドホテルと謳っているホテルニューオータニである。
一九六四年東京オリンピックにあわせて開業した高級ホテルで、十年後の一九七四年にこのタワーと称される四十階建ての新館が造られたのであった。
その最上階では薄暗くなってきた東京ミッドタウン、レインボーブリッジの圧倒的な光の饗宴がまさに始まろうとしていた。

上野理沙はニューオータニのロビー階メインラウンジの横で一人所在無げに立っていた。
毎朝新聞の政治部記者である彼女はいつもならダークスーツに身を包んで国会周辺を飛び回っているのだが今日は親友の結婚式のために久しぶりにロングドレスで決め込んでいた。
彼女はアメリカのハーバード・プリンストンに並ぶ名門のイェール大学を卒業した。
父の転勤で家族と共に十六才で渡米し、大学への進学が近づいた時、将来の進路をジャーナリストと決め、卒業生にクリントン夫妻も名を連ねていたが、それよりもあのウオーターゲート事件の報道などでピューリッツアー賞を二度も受賞したボブ・ウッドワードが居たと云うのがこの大学を選んだ理由であった。
毎朝新聞のニューヨーク支局を選んで以来五年間勤務したが二年前日本の総理大臣が渡辺に変わった時、その所信表明演説と人となりに興味を持ち東京本社への異動希望を出し、かなえられて十余年ぶりに帰国したのだった。
アメリカの支局でキャリアを積んだ彼女は二十八才になっていた。
五時からの披露宴がお開きになり小・中学校時代を通じての親友である智子と未だ七時過ぎだし“ザ・バー”で飲もうと来たのだが、化粧室へ行った彼女を待っていた。
何気なくロビーの玄関口を見た時、男が急ぎ足でこちらに向かってくるのが見えた。
直ぐに総理秘書官の内村だと分かって声をかけようとしたが、記者としての“カン”が押しとどめた。内村が目の前を急ぎ足で通り過ぎて行く。
タイミング良く出発直前のエレベーターの中に飛び込むようにして乗った内村を見送った時、智子が化粧室から出てきた。


木暮は四〇階から見える東京都心の光の競演を見ながら、柊の新妻が麻薬中毒の暴漢に襲われ最期を遂げた時から、内村が尋ねて来て麻薬の害から日本を守りたいと言った時までの経緯を追っていた。
其のとき、ボーイに案内されて内村が入ってきた。「すまん、俺の読みが甘くて待たせてしまった」座り心地の良い椅子に腰を下ろしながら詫びた。
「いやいや夜景を肴に飲み始めた所だ」
内村はメニューを見ながら飲み物とサラダを適当に注文した後、木暮に向き直った。
「早速だが、確認したいことってどんなことだ」木暮も今の国会を抜けて来てくれた彼の立場を理解して、内村を正面から見つめた。
「今日はお前と本音で話したいと思ってな。お前が我が家に来て話してくれた計画は最初、とんでもない計画で端から無理だと思ったが、お前がスーパーマンにでも助けてもらうと言った言葉と総理が口癖のようにまず一歩踏み出さねば何も始まらないといわれたと聞いて一つの考えが浮かんできた。がしかし、この計画をお前に話す前に確認しておきたいことがある」
「俺に答えられることなら何でも言ってくれ」
「二つある・・・一つは、この計画はお前自身の計画した事と言っていたが、俺は総理が話されたことを後々総理に傷がつくことをお前が恐れたのだと思っている。何故このようなことを確認したいのかと言うと、今考えていることは俺自身にとっても覚悟を持って話さねば成らない。やる以上は俺も自分の人生を賭けるくらいの気持ちを持たねばならんからだ」
一息つくように持っていたグラスを傾け一口飲んだ。
「これが事実とすれば二つ目はこの計画にかかる資金が官房機密費だろうと想像がつく」木暮は新しく水割りを作りながら答えを急ぐ様子もなく腕組みをしている内村を見た。
時が止まったようだった。
やがて内村は覚悟を決めて木暮を睨んだ。
「分かったよ、総理には無断だが、俺も首をかけてお前には全てを知ってもらおうと思う」
そう言って予算委員会の後官邸での会話を何も省かず全てを話した。
じっと黙って聞いていた木暮は静かにグラスをテーブルに戻すと
「正直このことを俺に最初に相談してくれたことは心底から嬉しかった。同時にこの計画を実現させる為には俺の今までの全てを賭ける」いかにも彼らしく熱っぽく話し始めた。
それは高校以来変わらぬ真摯な姿だった。
「初めはどう見ても、極端な事を云えば荒唐無稽な話だと思った。しかし先程言ったようにお前の言葉と総理が先ず一歩踏み出さねばと言われた事を聞いて、これしかないと確信した。後はこの話を総理がどの程度納得して下さるかと言うだけだ」
木暮は今一度頭の中で話を整理して
「この計画は絶対の秘密厳守が重要だ。従って出来る限り少人数であることが大前提だ」内村も大きく頷く
「そこで総理とお前、それに俺と兵站の担当者一人の四人が後衛だ。兵站の担当は俺に心当たりが有るので任せて欲しい」そこまで言ってグラスを口に持っていった。
「その兵站の件は総理も私も素人だし俺も異論は無い。それで実行部隊は何人程度を考えているんだ」
「一人だ」そう言うと、内村を覗き込むように見つめた。
「一人?たった一人か?」目を大きく見開いて木暮を凝視した。想像だにしなかった人数に正に唖然・絶句であった。
「お前、本気か」やっとの思いで言葉を継いだ。
「勿論本気だ。俺も新聞などの知識しかないが、機密費はそんなに潤沢では無い筈だ。それで一小隊の兵員の約半分を割くとしても、それだけで何千万も食ってしまうし機密の保持も難しくなる」
内村もその通りだと納得しつつ、それでも尚信じることが出来ない数字だった。
彼の気持ちを察したのか木暮が諭すように言った。
「そこでだ、お前がスーパーマンにでもと言った言葉と総理のまず一歩をとの言葉から、今俺が考えている人物を当てはめたときピッタリと絵になったんだ。そもそもお前は相談に来たとき、俺が日本で二番目の特殊作戦群を創るべく核となるエースを連れて来た、と言った事を覚えているか?」
「あぁ覚えているとも、レンジャーとして鍛え上げられた上に敵を殲滅する能力を持った男だったな」
「そうだ。一般の隊員からは彼らは【S】と呼ばれて畏敬の念で見られている。【S】すなわちスーパーマンのマークのようにな」
「本当か?」
「【S】は一般の隊員の数倍の殺傷能力を身に付けていて、そこらのゴロツキとは比較にならない戦闘能力があることは俺が保証する」
そこまで言うと又水割りを作り始めた。
「そうか」再び興を持ち始めた内村に向かって「そうなれば後衛の四人はお国から俸給をもらっているから彼一人の人件費と兵站のみで済む」そう言うとグラスをグッとあおった。
「なるほど、だけど百歩譲って【S】にそんな活躍が出来るとして、その彼は葬儀の後除隊届けを出したんではなかったか?またそんな過酷な試練を受けた彼が果たして我々の期待している活動が出来るものなんだろうか」半分不安な気持ちを隠しながら問いかける。
「それが直面する問題だ」木暮は顔をしかめて内村を見つめた。
「葬儀以来、先ほどの兵站の候補である平田という最先任上級曹長に連絡を取らせたんだが、『来月の四日頃まではどうしても会えない』と言うのみでその理由も分からない」素直に現状を打ち明けた。
小さく開き始めた希望が又急速に萎んでゆくのを感じながら「それで、連絡が出来次第、説得できるのか」畳み込むように聞いた。
「約束は出来ない。だがはっきり言えることは、彼がもし使えないならこの計画は忘れてもらうしかない」搾り出すように答えた。
「九月の四日か」
「そうだ。四日が五日になるのか分からないが、連絡が付き次第お前に連絡を入れる」
都心は真っ赤に染まったように光が輝きを増していた。


理沙が智子とタクシー待ちの列に並んで待っていると、少し離れた自家用車の待合場所で内村が一人の紳士と車に乗り込もうとするところだった。
『あれから二時間あまり話し込んでいたんだろうか。何を?あの男性は誰?』
頭の中で彼女の“カン”が何かを告げた。
列を見直すとまだ十人ばかり前にいた。
二人の乗った車がゆっくりと走り出す。
智子が話しかけたのにも気付かず、理沙は走り去った車のテールランプをじっと見つめていた。


官邸に帰った内村は早速公邸で寛ぐ誠一郎の前に座った。
テーブルにはすでに水割りの支度が出来ていた。
「君も適当にやれよ」グラスに手を伸ばして一口飲んだ。
「私は木暮と少しやってきましたから、今日は遠慮しておきます」
誠一郎は彼等の会談が構想を大きく進める第一歩と位置づけて内村を見つめていた。
先ず内村は報告する前に総理のお考えだということを話の行きがかりで木暮に話してしまったことを詫びた後、彼との話の詳細を何も省かずに報告した。
内村が話し終えると、少し落胆したように肩を落として「一人?一人でいったい何が出来るんだ?」気負い込んで問いかけた。
「私もそう言ったんですが、彼の答えは先ほども申し上げたとおり『戦闘能力は俺が保証する』と言って妙に自信を持っているんです」
「でもな、相手はヤクザな連中だぞ。彼らだって警察上がりや自衛隊上がりもいるだろう或いは、相撲や柔道家崩れもいるかもしれん。まして武器も持っているときている。そんな連中に囲まれたらどうするんだ」全く話にならないとばかりに攻め立てる。
内村も同様の疑問を持っていただけに何も答えられず黙って耐えるしかなかった。
ようやく誠一郎もそれに気付いたか「君を攻めてもどうしようもないが、木暮君も俺が期待したような人じゃぁなかったのかな」声を落として言った。
実は数日前に公邸で思いついた統合幕僚長の誉田との会談を内村が西宮にいる間にもっていた。
官邸応接室で自衛隊の現状について意見を聞いた後、余談として今の将官の能力について話を振った際、オフレコですがと前置きしながら彼は将来の統合幕僚長の候補として第三師団の木暮の名を挙げたのである。
その上でその識見・能力・戦略の立案・遵法精神・行動規範どれをとっても最高と思っていますと言い切った。
そんな経緯があって、いたずら心で少し失望感を出してみた。
「いや木暮は絶対優秀な人間です。それだけは私が保証します」
内村の声もムキになったように力が入った。
ソファーに座りなおし、苦笑いを浮かべた誠一郎はグラスを口に運びながらじっと考えを纏めていたが、「それで、そのスーパーマン君とは四日まで連絡が取れないんだろ」
「そうなんです、何故だか彼にも判らないと言ってました」
誠一郎は喉に手を持っていきながら
「何かこう、ここら辺にものが閊えたような状況だな。現状は全く理解不能といわざるを得ないな・・これからどうする」
グラスをじっと眺めて思案していたが、突然「俺の九月の予定はどうなっている」と聞いた。
直ぐに彼は手帳を取り出して九月の予定表を見た。
「五日まで予算委員会が入っていて、七日から八日の午前中まで大阪で参議院の補欠選挙の応援が入っています」
「七日からだな、大阪は」念を押した誠一郎は返事を待たずに「よし、こうしよう。八日の帰りを少しずらしてくれ」考えを纏めようとグラスをじっと見つめた。
「昼から木暮君とその兵站の人物を呼んでくれ、その時点ではすでにその“ひ”何とかという」
「柊です」
「そう、その柊君との話も済んでいるだろうからな。そこでこの計画の決着をつけてしまおう。どちらにしろそのときにこの計画を断念するのか、継続して考えるのかある程度の見通しを立てねばならない」
その言葉で内村は何とかしてこの組織を創り上げたいという誠一郎の執念を見たような気がした。
総理は木暮に失望したような口ぶりにも拘わらず、八日の帰りをずらすように指示する、といった一連の指図は木暮に対する信頼とも受け取れた。


木暮は自席に座ると内線で平田を呼んだ。
暫くして平田が入って敬礼をするのに応えて「お前今日は何か予定があるか」
「師団長会議の指示があるかと思いまして午前中は有りません」唐突な質問にも淡々と応える。
「じゃぁコーヒーでも頼むから飲んで行け」
間もなく暖かいコーヒーが運ばれて、平田と共に香りを楽しむように飲みながら言った。
「その後、柊から連絡はあったか」
「いえ残念ながら有りません」
「そうか・・・四日までは仕方ないのか」残念そうに呟く小暮に「幕僚長のご心配は分かりますが。何か特に用事でもお有りなのでしょうか」
いつも感心する気配りも、今回は過ぎると思えるほど柊に対する思い込みが強いように感じられた。
「ウン、実はな・・・今日はお前に協力して欲しい事があって、話を聞いてもらいたい」言いつつ、じっと下を向いていたがやがて顔を上げると「二週間程前にある政府高官が私の自宅を訪問された」と切り出した。
その政府高官が麻薬撲滅のための私的な対策チームを作りたい事、極秘のチームである事、従って予算も潤沢には執れない事等を順を追って話した。私案としてバックアップチームはその政府高官と自分自身と兵站・連絡通信担当として平田を推したことなどこの二週間で起こった事を詳しく話した。その中心が柊である事は明らかであった。
「勿論、お前には断ることも出来る。しかし俺と一緒にやってくれるなら、お前の前途も極端に言えば命も俺に預けてもらう必要がある」
平田は柊の現場復帰が非常に困難になってきている現状の打開策に苦慮していたが、改めて幕僚長の自分への信頼が嬉しかった。
「考えるまでも有りません。幕僚長の真意がようやく理解できました。今の柊にはうってつけの任務です」
「只一つ気がかりなことは四日まで連絡も、会うことも出来ないといっている点だ・・・お前に心当たりは無いか?」
「全く見当もつきません。今までの態度や行動からもこんな事は私も初めてです」
「分かった。この話は四日まで待つことにして、それまでに君にやっておいてもらいたいことがある」
「何でしょう」
「計画をスタートする前提で、用意しなければならない装備と通信手段その他必要な諸々の編成に着手して欲しい。極秘でな」
幕僚長の“思い”が平田に繋がった。立ち上がった平田は力強く敬礼をして無言で自分の意思を伝えた。


平田が去った幕僚長室は静かな時を刻んでいた。
突然机上の携帯が鳴った。
ソファーから立った木暮は机を廻りながら取った携帯には内村の名が表示されていた。
「木暮だ」電話口の内村が前置きの挨拶抜きで話し始めた。
『あれからすぐに総理に全てを話した。お前に全てを話してしまったことのお詫びも含めてな』
「そうか、お前にはとんだ迷惑をかけてしまった」
『とんでもない。それにこういう話はお互い全てを理解する必要があるからな』
「そうだな」総理も彼を本当に信頼しているのを実感した。
内村は総理が補欠選挙の応援で八日に大阪へ行かれる事、平田と柊にも来てもらって計画の見通しを立てようと仰ったと要点を話した。
「ありがとう。総理に余計な心配をかけてしまって、お前にも苦労かけるがよろしく頼む」
『それが俺の仕事だよ』
暫らく木暮は携帯を持ったまま、親友との会話に充足感を覚えた。


新聞社の午前二時は、少し前まで原稿の締め切りに追われた記者や編集者で戦場のような活気を呈していたが、まさに台風一過の感があった。
机を縫って同僚の越智がやってきて、ニッコリと笑って屈みこむと声を小さくした。
「実はな、総理が来月の七日から八日にかけて補欠選挙の応援で大阪に行かれる。それに同行する予定だったんだが、女房のお産が重なりそうなんだ。何しろ初産なもんで無茶苦茶不安がっているんだ」
「大阪?大阪には政治部が無いの?」日頃、越智とは気心の合う同僚として親しく接してきたがいたずら心で問い返した。
越智が真面目な顔で理由を説明していたが、理沙は総理と秘書官を大阪まで追いかけるのも悪くないと思っていた。
まだ話し続ける越智に笑いかけた。
「分かったわ、おめでとう。奥さんを大事にしてあげて」
「ありがとう、本当にありがとう」素直に頭を下げて喜ぶ越智を見て、大阪出張は何かあるような予感がした。


九月四日はいつもと同じ朝だった。
第三師団は六時の起床ラッパと共に全隊員が動き出した。
平田だけはいつもより早く机の前に座って、イラつく気持ちを抑えながら携帯を見つめていた。この様な焦燥感に包まれた朝は初めてだった。
一体何時ごろになるのか全く検討も付かなかった。
幕僚長も敢えて尋ねてこられないのが、返って平田の焦燥感を増した。
席から立ち上がって窓外を見る。八時の国旗掲揚が迫っていた。
コーヒーでも入れようと立ち上がった時に携帯が鳴った。
耳元で聞きなれた声が聞こえた。
『柊です。この前は失礼しました』
何故かいつもとは違って感情の籠らない抑揚の無い声に聞こえた。
「待っていたぞ、元気でいるか」
『おかげさまで・・』
「幕僚長も心配されて、お前に連絡が取れたかと何度か聞かれてナ、何としても話したいことがあるから連絡が付けば直ぐに報告してくれと命令されている」
暫らく何も応答が無かった。
切れたのかと一旦外して再び耳に当てると、それがきっかけのように『最先任上級曹長、私は既に除隊届けを出して隊員ではないんです。誠に勝手なお願いですがこのままそっとしておいて頂けると有難いんですが』訴えるような声であった。
「柊、お前の除隊届けは未だ受理されずに、幕僚長が預かったままになっている。だから未だお前は師団のSFGだよ」諭すように言った。
一瞬絶句したように間があった。
『そうですか・・・・でも一体幕僚長は私にどのような話をされたいのでしょうか』
「俺は何も聞かされてないんだ。だからこの電話が終わり次第、俺は幕僚長に報告する。後はお前に電話を架けられるだろう、その時お前から直接聞いて欲しい。分かったな。幕僚長から電話があれば必ず出るんだぞ。約束だぞ」念を押すように言った。
『分かりました・・・最先任上級曹長、お気使いには本当に感謝しています。ありがとうございました。失礼します』電話は切れた。
他人行儀な挨拶に戸惑いながら幕僚長室に向かった。


二十分後、平田は木暮幕僚長の前で柊からの内容を話し終えた。
「一体、あの事件以来彼は何をしていたんだろう」唐突に疑問を投げかけた。
「全く想像できません。いつもと違う彼は初めてで気にはなりますが」二人とも暫らく彫像のように動かなかった。
平田が部屋に入って直ぐ運ばれていたコーヒーが冷めていたが、木暮は黙って口に運んだ。
「それはそうと」突然平田を見て言った。
「はい」
「この前の報告で予算や装備は当事者が詰めるとして、通信手段はどうなっているんだ」
「実は先程ここにお伺いする前に連絡が有りまして、明日その試作品を試すことになっています。もう少しお時間を下さい」
報告が聞こえているのか木暮は目を瞑って腕を組んだ。平田が敬礼をして部屋を出て行ったのも気が付かなかった。
総理と会談を持つということは最終の結論が出るということに他ならない。つまり七日にはこちらの結論が出ていなければならない。
木暮は今一度柊の新妻が凶刃に倒された時に思考を戻した。
通夜から葬儀まで柊は全く寡黙であった。待てよ・・・一度、柊の立場に立って考えてみよう。自分の嫁が殺された。しかも凶刃に。それも自分達の愛の結晶がおなかの中にいる。断片的にそれらの言葉を追っていた木暮はそれぞれが徐々に繋がっていった。
はっと思い至った。
俺はなんと言う馬鹿なんだ・・・・そうか・・・・それに違いない・・・いや絶対にそうだ。
木暮はさっと卓上の電話を取り上げ「八月から今日までの新聞の綴りはあるか、それを全部至急持ってきてくれ」怒鳴るように云って受話器を戻した。
曹士がそれを両腕に挟み込むように持ってくるまで、彼の思考は回転を続け時折独り言を呟いていた。
「それが四日だったんだ、ということは目的が遂行されたんだ」
目の前に新聞の束が置かれた時暫くは動くことが出来ず、持ってきた曹士の敬礼にもうわの空で答礼した時はドアを出て行くところだった。
思い直して新聞の社会面を開き八月四日の夕刊でその記事を見つけた。思い出しても腹立たしく胸の悪くなるような【白昼伊丹で主婦惨殺される】の見出しが眼に飛び込んだ。
記事は〈その通り魔は阪神尼崎にある歓楽街を縄張りにする《塩田組》の準構成員 木田宗雄(25)で殺人の疑いで取り調べている〉云々とあった。
更に紙面を繰ってゆく・・・
“待てよ・・・柊が四日まではと言った事から見て昨日か一昨日に違いない”と直ぐに八月の綴りを横にやり九月の綴りを掴むとまだ四日分しか無かったが、取り敢えず一日のページから順を追って行くと、それは三日の夕刊の社会面に大きく載っていた。
木暮はじっくりと読み終わって絶対にこれだと確信した。それは信念に近いものがあった。
“矢張りな、なんとまあ、凄いことを仕出かしたもんだな”正に実感であった。
じっと暫く腕を組んで考え込んでいた木暮はやがて小さく頷くと、“これで間違いなく彼を口説くことが出来そうだな”思わず微笑んだ。
木暮はやおら自分の携帯を取り上げて平田から聞いた柊の番号を打ち込み窓外を見やった。

「柊か」唐突に聞いた。
「はい」いつもの声が返ってきた。
「元気でいたか」
「はい、何とか・・・幕僚長、その節は大変お世話になりました。葬儀にご参列いただいたのに、何も出来ず失礼しました」沈んだ口調で侘びを言う。
(辛かっただろう)と言おうと思ったが止めた。
今の柊に慰めの言葉は無用だった。
「お前は何時原隊に復帰するつもりだ」又暫く時間が空いた。
「幕僚長、復帰は出来ません。誠に自分勝手ではありますが私のことは忘れて頂けませんでしょうか」と必死に言葉を紡いでいく。
「私はもう復帰する資格は無いんです」
最後の言葉は他の人が聞けば意味不明の言葉であったが、今の木暮には理解できた。
(矢張りな 間違いない)木暮は満足感を覚えた。
「分かった。しかし、お前は今後何をするか考えているのか」
「自分の気持ちに忠実に動いただけですから、今後のことは何も考えていません」
「柊・・・俺はお前と平田を習志野から引っ張った。そのことで後悔したことは無い」
「私も感謝こそすれ、後悔はしていません」
「そこでだ、俺なりに考えた。お前の第三師団での介錯は俺がすることにした」
一言一言が辛く、苦しさを感じるようになっていた。
「これだけ迷惑をかけた上に、恐縮します」
言外に散らした言葉の意味を理解した上で話す柊に木暮は改めて頭のいい奴だと思った。
「八日に大阪のロイヤルホテル、午後一時に一階のメインラウンジの前で待っていてくれんか」
又暫くの間があった。
「ロイヤルの一階メインラウンジの前で午後一時ですね」復唱しながらの応答があった。
「そうだ、お前とはそれが最後かもな、それじゃぁ待っているぞ」静かに携帯を切った。
どう進むにせよ柊の去就がこの作戦の最大の分岐点であることは間違いなかった。
空は高く秋が始まろうとしていた。



           誕  生


五日は久しぶりの雨雲が第三師団の上空を覆っていた。
通信中隊整備工場の開け放たれたドアのところに人影が見え、逆光だったがシルエットから平田最先任上級曹長であることは間違い無かった。
品物が出来上がったのを受け取りに来たのである。
敬礼しながら「早かったじゃぁないですか」親しみが籠っていた。
「早く見たくてな」答礼しながら気さくに応えた。
作業台に置かれた機器を見て「これか?見せてもらってもいいかな」待ちきれずに手に取った。
「どうぞ、どうぞ」
「すごい、全く普通の携帯と変わらないな」笑顔を飯田に向けた。
「外観は携帯と同じようにと言うご注文だったもので・・・」
「素晴らしい、見事だ・・・お前これで飯が食えるぞ」
「ありがとうございます、除隊したら田舎に帰って小さな電気屋をやろうと思っています」
「そうか。で、お前の田舎って何処だ?」
「生野というところです。ご存知ですか?」
「聞いたことがあるな。確か銀山が在った所じゃないか?」
「そうです。朝来市です」
「空気のいい所だろうな」
「それは保証します・・・でもこれで良かったんでしょうか」
「これを見たら誰も文句は言わないさ」
真っ黒なエナメル質の表面は落ち着いた上品な感じで仕上がっていた。
「見た目は良しとして機能はどうだ」
「一応のテストはしてみましたが、バッチリです」そう言いつつ数枚のワープロで打たれた紙を平田に渡した。
それには箇条書きで携帯の七つの特徴が記されていた。
   ①盗聴防止機能
   ②メール機能
   ③スクランブラ―機能(①②共に付いているので傍受・盗聴は不可)
   ④カメラ機能(千五百万画素)
   ⑤GPS機能(黄色のボタンで即対応)
   ⑥緊急ボタン(相手が電源オフ時でも作動=赤ボタン)
   ⑦同時会話(同時に他の四台の携帯を呼び出す=青ボタン)
   ⑧緊急電源(通常電池が切れても約十分の通話可能=グレー)
丁寧に書かれた項目ごとに飯田曹長が説明をしていく。
平田はこの特殊携帯を頼んだとき五人の選抜隊【特S】の通信機器が必要で、極秘作戦の為、一般の携帯と見分けが付かないこと・あらゆる危機対応を考えて欲しいこと・当然お前にも守秘義務が発生すること等を告げてあった。
尚も飯田は「この一号機の青色ボタンはこの五台のみの短縮で、外線に使う場合は普通に白いボタンを押して頂きます」
平田はふと四号機が無いのに気付いた。
「気が付かれましたね。やっぱり四というのは特殊任務の【S】には縁起が悪いと、独断でしたが四号は省きました」
更に機能の説明が続いた。
「良く出来ているな。早速幕僚長に報告しなければならんから、このまま貰っていくぞ。今度一杯驕らせてくれ」
平田はこのような男が第三師団にいることに改めて感謝していた。
「楽しみに待ってます」飯田の声が背に届いた。
背を向けたまま、小箱を脇に抱えて平田は右手を高く上げた。


八日の午後、ロイヤルホテルのロビーは記者・政界・警備関係者で賑やかだった。
理沙は朝から総理を追いかけていたが今の支持率と人気を見る限りこの新人候補が負ける要素は何も無かった。本社には、障りのない記事に纏めて送った後、ホテルのラウンジでコーヒーを頼み、何気なく周囲を見ていて入り口付近で目を止めた。
私服の警備担当者に混じって三十前後のダークスーツに身を包んだ男の凛とした立ち姿は周囲の喧騒をよそに気品すら感じさせ、急に胸騒ぎの様な感覚に襲われて男から目を離せなくなった。
スポーツ刈りというのか短くさっぱりと整え、顔は精悍で聡明なイメージがあった。身長は百八十を超え、帰国以来初めて男性として強く意識させるものを感じた。
視野の端に同じ様なダークスーツを着た二人の男が入った。
彼らも短くカットした髪型で一人は手ぶらだったが、もう一人はPCバッグと紙袋を持っていた。
若い男とその二人の挨拶を見ながら何故か周囲との違和感を持った。
そのうちの一人に以前見たことがある様な気がしたが直ぐには思い出せず、手にした携帯のカメラを作動させシャッターを切った。
音が聞こえたか若い方の男がこちらを見た。厳しい射すような眼であった。
二人の中年と若い男は二言三言話すとエレベーターへ向かった。
理沙はフラッシュバックのようにあの時の光景が甦った。
友人の結婚式の時ニューオータニで内村と一緒だった男だ。
彼らはエレベーターの前で降りてくる表示を見つめていた。
ドアが開き三人が乗り込むと静かにドアが閉じられ、理沙は上がる表示板を目で追うと二十三階に停まった。
その階はプレジデンシャルタワーズのフロントデスクのある階で二十三階以上はVIPのために別の鍵が無ければ停まらないようになっている。総理が泊まられるのはセキュリティの関係で公には知らされていない。
ニューオータニで内村さんと会っていたという事は、ここでも?・・単にお友達かも・・・自分に言い聞かせるように呟いた。でも何かが違う・・・何が起こっているのか判らないもどかしさがあった。



一時少し前、木暮と平田が近づくと腰を軽く折って挨拶をした。
「元気そうだな」
「はい」
「では行こう。付いて来てくれ」三人はそのままエレベーターに向かった。
二十三階に着くとフロントデスクがあり、二人の客室係が立ち上がって深々と頭を下げて迎えた。傍らにはSPであろう二人のガッチリした体躯の男が立ってじっと見つめている。見ると奥に続く廊下にもう一人立っていた。
「木暮です」と名乗った。
「お聞きしております。木暮様・平田様・柊様でいらっしゃいますね」
係りの女性がデスクを廻って三人の数歩前を歩き始めた。
広めの廊下を案内する客室係は一番奥にある部屋をカードキーを使って開けると、そこは欧州風の贅沢な空間が広がっていた。ヨーロピアン・クラシックと呼ばれる部屋で、ゴージャスでシックな感じの落ち着いた雰囲気が醸し出されていた。
待つほどもなくドアを開けて内村が入って来た。
「すまん、待ったか」
「いや、今着いたばかりだ」木暮が内村に平田と柊を紹介した。
「総理は丁度官房長官からの電話で一寸遅れそうだ。すぐ来られると思うのでもう暫く待ってもらえるか」気軽に話しかけた。
ほど無くドアが開けられて見慣れた姿が現れた。
木暮たちは既に立ち上がって最高司令官に不動の姿勢をとった。
微笑みながら近づいた総理がテーブルの前に立つと内村が「ご紹介します。第三師団の木暮幕僚長です」
「国家安全保障会議などではお目に掛かっているんだろうけれど大勢の方なので、なかなかお顔を覚えられなくて失礼しました」木暮を見つめながら手を差し出した。
「木暮です。今日はお時間を頂きありがとうございます」軽く会釈をして握り返す。
「こちらは同じく第三師団の平田最先任・・・」言葉に詰まってしまった内村が助けを求めるように木暮に目をやると「平田最先任上級曹長です」木暮がフォローした。
総理が出す手をぎこちなく握り返して「よろしくおねがいします」と不動の姿勢に戻った。
「同じく柊一尉さんでしたね」
「始めまして、今日は良く来てくれました」と誠一郎が手を差し出す。柊も緊張はしていたが軽く腰を折って同じように握り返した。
「さあどうぞお気軽になさってください」総理が全員に着席を促した。
誠一郎が「どうぞどうぞ」と出されたコーヒーを勧め、カップを手に持って香りを楽しむように一口飲んだ。
やがて誠一郎がカップを戻して木暮に目を向けた。
「それじゃあ、早速本題に入ろうか」
「はい」木暮もカップを皿に戻した。
誠一郎はソファーに浅く腰掛けて身を乗り出すようにした。
「私が内村君を通じてご相談したことで、あなたに計画と言うか案があると伺っているがそれでよろしいか?」単刀直入に切り出した。
「その通りです」
「彼らを殲滅する一歩を踏み出せる案と理解していいですか?」
「はい」確固たる意志の強そうな返事が返った。
「よろしい、ではお話しを拝聴しよう」
腰を深く沈めた総理は、その地位に座る者としての威厳と誇りに包まれた姿勢だった。
緊迫度が一段と増幅するように部屋を充たしていった。
総理と秘書官・幕僚長と最先任上級曹長の間に座っている柊は当初、総理と幕僚長の会話が何を話されているのか全く理解が出来なかったが、総理の“相談していた計画”とか“殲滅する”と言う言葉を聞いているうちに、自分がその中心に置かれて話が進んでいくように感じた。
幕僚長の話の途中であったが、これ以上話を進められる事が柊にとっては苦痛になっていた。
「幕僚長」思わず木暮の話を遮るようにして呼びかけた。
「自分は・・」言いかけた柊を眼で制するように見つめて「柊、まあもう少し私の話を聞いてくれんか」静かな口調で木暮が言った。
柊は返す言葉を失った。
改めて総理に向き直った木暮は話そうとすることを整理して
「総理、お時間はどの程度いただけますでしょうか」
「たっぷりある。少なくとも新幹線にさえ間に合えばと思って頂いて結構です」
誠一郎はこの日の会談で自分の構想というか展望が決まるという意識で臨んでいた。
木暮にはその言葉で十分だった。
「先ず、柊が最愛の嫁とお腹に宿った新しい命を、突然狂人に奪われたのは八月の初めでした」
「そうだった。そのときの事は私も良く覚えている。柊君、大変な出来事で何とお悔やみを言っていいか分からない」
誠一郎は柊に悲しげな眼を向けた。
「お気遣い、ありがとうございます」柊も素直に頭を下げた。
再び顔を木暮に向けた総理は「その事件が契機になったんですよ。つまり麻薬中毒の狂人が女性を襲ったテレビ報道を見て、この内村君と殺人そのものも憎むべき行為だけれど、その元になった麻薬の日本への流入を何としても食い止めねばと彼と試行錯誤をしだしたのは」
「そうですか。何とも凄いきっかけですね」
「そう言えばそうだ。何かの因縁だろうか、ここでそのご本人と会っているのは」
「そうかもしれません、その事件の後葬儀を終えて以降、彼から除隊届けが師団へ送られて我々の前から消えてしまったのです」
柊をじっと見つめて「やっと月末になってコンタクト出来たんですが“今すぐには会えない”“四日までは会えない”と言うのみで私どもも手の打ち様が無い状況が続いていました。・・・四日になって連絡は付いたのですが“私のことは忘れてくれませんか”と言うばかりで、一向に埒があかない状況が続いて、私なりに何故ひと月余り連絡が取れなくて四日にならないと会えないのだろうと考えました。そして自分なりの結論は得たのですが、総理、ここで私の推測を言っても意味が有りません。今日、本人が来てくれたことでその間の出来事を直接聞いてみようと思います」いかにも自信有りげに一気に話した。
「分りました。是非聞かせてください」間をおかず力強い返事が返った。
木暮は静かに問いかけた。
「という事だ。柊、総理のご了解も頂いた。お前の心の葛藤もあるだろうが、この場でこの一ヶ月の行動を皆に聞かせてくれないか」
柊には、全て解っているよと彼を見つめる眼が話しかけていた。
顔を木暮と総理に向けたあと、もう一度眼を瞑ってやがて覚悟を決めたかのように、ゆっくりと話し始めた。
「自分はこの日本が好きです。・・・だからこの好きな日本を守りたい。自衛隊を志した時“国民の生命と財産を守る”と言う標語にも奮い立たされました。習志野に入隊して幕僚長との出会いがあり・・・・」
静かに話しだした柊であったが、下を向いてじっと唇を咬み何かに耐えているような表情があった。
「そんな自分はあの日、妻と身ごもっていた子を守ることが出来ませんでした」
まさに血を吐くような言葉だった。
「通夜の日から葬儀の日まで考え抜きました。ここでけじめをつけなければ自分の存在は何だったのか、悪にはその報いを受けさせねばならない。裁判所の象徴とされる正義の女神像も悪と戦うために剣を持っています。勝手な思い込みかもしれませんが自分も剣を持って戦おうと決心しました」
木暮を睨むように見つめた姿に柊の内に秘めた矜持があった。
木暮が黙って頷く。
「その日に除隊届けを書き準備をしました。報道を見る限り対象は尼崎にある塩田組準構成員の男ですが、この男は既に警察に捕まりました。本当の悪は塩田組そのものだと思いました。つまり麻薬を尼崎に蔓延させているのが塩田組長以下九人の幹部でした。その幹部に子分が付き総勢三十人近くの組織になっていたのです。無辜の市民を狂わせる薬が彼らを通じて撒かれるのを潰すことが妻への贖罪になると・・・・自分の戦いの対象を塩田組の九人の幹部に絞りました」一気に話すと顔を上げ全員に話が浸透するのを待って続けた。
「それから塩田組の力量や武器の準備を始めたのですが、把握できなかったのが組内部の間取りや防犯機器の配置などでした。又一度に九人は一人では厳しい事もあって、二人の幹部を須磨の海岸へおびき出す計画を実行しました。その海岸で二人から内部や防犯の情報を引き出せましたが、余分の収穫として二日か三日の未明に新しく麻薬の入荷があることも聞き出せたので実行日を九月の入荷日に合わせることにしました」
淡々と報告していく柊に、内村が問いかけた。「すごく簡単にそんな重要な情報を引き出せたものですね」
「それはその何というか、簡単ではなかったと思うよ。その間の出来事は総理や内村君に聞かせるような生易しい事でなかったと理解してやって下さい。やくざがそう簡単に口を割るとは考えられませんからね。加えてその組の組員が九人から七人まで減ることも情報以外の目的の一つでもある訳ですから」木暮が推察を促すように応えた。
内村はハッとして軽率な質問を後悔した。
「それで四日まではダメだったんだ」平田が呟きながらラップトップを開いてキーボードを叩き始めた。
緊張がさらに増して行った。
「二日の未明から臨戦態勢に入りました。その日、真夜中の十二時頃荷物が届き、少し待って実行しました。入口の監視カメラを潰すと、原因を調べる為に二人が出て来るのを待って彼らを排除しました。中にいたのは想定どおり五人でした。その後の出来事は皆さんが報道で見聞きされた通りです」生々しい報告に部屋の中は息苦しいほどであった。
平田のコンピューターには当日の社会面が映し出され総理と内村の方へ向けられた。
紙面の約3分の一を割くようにして【今日未明尼崎の暴力団事務所で七人、惨殺される】副題に【縄張り争いの犯行か】更に【日本最大の広域指定暴力団 五代目川北組傘下の塩田組全滅か?】とあった。中身を読み進むと全員が胸を一突きされるか喉を掻き切られていて、ほぼ即死状態でありプロの仕業ではないかとして、さらに事務所内の机の上に一㎏入りの覚醒剤が二袋と二千錠入りのMDMA一袋(末端価格一億二千八百万円相当)を発見押収したとあった。
これでこの地区を支配していた組が壊滅して、今後縄張りを巡った抗争の火種になる事も有るとした予想記事が載っていた。又警察の談話として七人が殺された事実から単独犯の可能性は薄く複数犯であるとの見解を示しているとしていた。
柊の回想を聞きながら総理と内村は、ソファーの前に身を乗り出し画面に踊っている記事を食い入るように見つめていた。
読み終わって画面から目を上げると、柊が静かな目を総理に向けていた。
「何と・・・何と」静寂を破ったのは誠一郎だった。
彼は後ろに反り返るように深々と座り直した。
木暮以外は放心状態だったがキーボードを叩いていた平田が次に呼び出した記事には須磨海岸での事件を報じる記事が載っていた。
社会面の見出しは【須磨海岸に塩田組幹部二名の惨殺死体】とあった。
総理と内村が再びそれを見つめている中「幕僚長、自分は犯罪者に成ってしまいました。残念ではありますが自分には新しく命令やご指示を受ける資格が無くなったのです」胸中の全てを吐露するかのように報告した。
それには何も応えず木暮は総理をじっと見詰め続けた。
誠一郎は腕を組んでじっと考え込んでいたが、暫くして木暮を見ると双方の眼がぶつかり合った。
まさに真剣勝負の間合いだった。そのまま木暮に頷いた。
木暮は柊に向き直ると「柊一等陸尉、君は八月三十一日を以って自衛官の資格を失った」非情の宣告だった。
「しかし柊、我々は君を必要としている。今から私は君を必要とする理由を言うが聞いてくれ」有無を言わさぬ目を柊に向けた。
「はい」表情を変えずに柊が頷いた。
「ありがとう」一言云うと今まで総理と内村とで練り上げた計画を全て何も省かずにゆっくりと説き聞かすように話した。
「そう云う訳で柊、私達が計画していたことは正にお前が実行した作戦そのものだった。その目的が今回はお前の家族の為だったが、日本国民の生命と財産を守ると誓った我々は政治家と自衛官という立場の違いだけで志は同じなのだ。その政治家と自衛隊の頭領である総理がおっしゃったそうだ【法がその役割を果たせず正義が無視され、弄ばれ、抜け道を作られる今、それらに鉄槌を下す力を手に入れたい。例えそれが合法だと言われなくても】とな。総理のこの言葉に私は感銘した。まして今度の事件があった後だから尚更だった。全員麻薬に対する恐怖と憎悪が、法を乗り越えて一歩踏み出そうとしている」
一気に計画の全貌とその意志を吐き出す木暮の頬は赤く染まっていた。
「これが全てだが、最後に言っておかねば成らないことが在る。この計画は今の日本では残念ながら違法だということだ。つまりお前が警察に万一逮捕されても救い出す術は持たず、対象に捕まっても同じだ。あくまでこの場に揃った五人だけの組織というか機関とも言うべき集団だと理解してもらわないといけない。従って戦闘員はお前一人だけだ。我々の役目は後衛と兵站を担う。勿論、お前は既に今は民間人だ。当然、断ることも出来る。私達も強制出来ない」
誠一郎はじっと腕組みをしたまま瞑想し、内村と平田は固唾をのんで見守った。
部屋の中は沈黙が支配していた。
考え込んでいた柊が静かに立ち上がると凛とした姿勢を見せた。
「ありがとうございます・・・このような自分に身に余る言葉を頂き光栄です。日本を守ると誓った身でありながらそれを放棄して罪を犯してしまいました。元々自分は犯罪者に人権は無いと考えていました。人権を自ら棄てなければ罪など犯せるものでは無いと思っているからです。先へ行く道を自ら閉ざしてしまった自分は二度と皆さんの前に出ることは無いと覚悟していました。そんな自分に改めて日本を、国民を守るという機会を頂けるのは自分で良いのかというためらいは有りますが、許されるなら是非にもその任務に志願させて頂きたいと思います」唇を一文字に引き結んで言った。
その瞬間(とき)、総理と木暮は黙って握手をした。
総理が柊のほうに顔を向け「良く決心してくれた」力強く言い切った。
内村と平田も矢張り顔を見合わせ微笑みながら握手をした。
部屋の雰囲気は先ほどまでの重苦しい緊張が解け、がらっと変わっていた。
改まって柊に顔を向けた誠一郎が切り出した。
「柊君、ありがとう」改めて礼を言いつつ軽く頭を下げた。
「とんでもありません。こんな機会を与えて頂いて改めてお礼を申し上げます」
「イヤ、それよりも大変な経験だったな。・・・今度の計画では更に君に大変な苦労をかけるかもしれない事を考えると、私もこれで良かったのかと、改めて考えてしまうよ」
「いえ、このことは自分で考えたうえで志願したのですから、お気遣いなく」
柊自身も沈み込んだ心境からの変化に戸惑っていた。
その後、五人はこの組織の全体像を目的・資金・兵站等どのように準備し運用してゆくか木暮を中心にして具体的な検討に入った。
資金面では予想通り官房機密費を充当することにし、早急に内村が準備をすることになった。
キャッシュカードを作る際に柊の名前を外部には秘匿されねばならないことを受けて、内村から全員の名を一文字ずつ取って《木辺正司》ではと提案され、更に暗証番号も40243と決まっていった。
誠一郎から「その暗証番号は何か意味があるのか」と聞かれた時
「いや特に無いんですが、仕置き(●●●)に(●)予算(●●●)をつけるんですからね」意味ありげに内村が呟くと、少しの間があって全員がにやりと微笑んだ。
続いて平田が持参した紙袋を取り出し、テーブルの上に五台の黒いエナメル調の携帯を並べ、おもむろに整備工場で飯田から聞いた七つの機能を分かる限り丁寧に詳しく説明を始めた。
全員がそれぞれを手に取ったが
「それにしても手回しがいいな」誠一郎も感心したように呟く。
木暮は柊が確実に引き受けるものとして指示していたのだが内心ホッとするものがあった。
渡辺の頭文字を採って名付けられた【W機関】の誕生だった。
更に暗号名は不吉な④を抜いて①から⑥の番号をそのまま暗号名に使う事も決まっていった。つまり総理はW(ダブリュ)①(ワン)、内村がW(ダブリュ)②(ツー)、木暮がW(ダブリュ)③(スリー)、柊がW(ダブリュ)⑤(ファイブ)、最後に平田がW(ダブリュ)⑥(シックス)と決まった。
内村から木暮が②だろうと異論も出たが、木暮が俺は第三師団だと言ったことで異論は封じられた。
その後通常時と緊急時の応答の仕方など詳細が詰められ、全員が同意の頷きを返した。
「今日はそんなところかな」余程嬉しかったのか、弾むように誠一郎が言った。
「いえ、最初の対象を決めておかなければなりません」
「おう、それが一番肝心なことだな、で・・どうしたものかな」一同を見回した。
柊が「あのぅ、少し良いでしょうか」木暮と総理を交互に見ながら言った。
「何か、思いがあるのか」木暮が聞き返した。
「実は、三日の実行の時、新聞の記事で確か【事務所内の机の上に一㎏入りの覚醒剤が二袋と二千錠入りのMDMA一袋】が押収されたと有りましたね」
平田は先ほどの記事を再び呼び出した。
「あったよ。末端価格一億二千八百万円相当とある」画面を見ながら応えた。
「私が事務所で戦闘状態にある時見たのですが、其の時は一㎏入りの覚醒剤が四袋と二千錠入りのMDMA五袋があった筈です」
「見間違いじゃぁ無いのか」
「いえ、一㎏入りかどうか、別の袋も一袋が二千錠入りなのかは定かでは有りませんが、袋は全部で九袋あったことは間違い有りません」
全員が凍りついたように止まった。あの修羅場でこのような観察までしていたのかと云う驚きもあった。
沈黙を破ったのは誠一郎だった。
「一体どういうことだ。新聞報道が間違っているのか、それとも警察発表が違っているのか?」
「多分双方とも間違いではないと思います」木暮が切り返した。
「では・・・・」総理は黙ってしまった。
頭の中で、想定した疑念が増幅されるのを感じていた。
「じゃぁ、・・・・そうなのか?」確かめるように木暮を覗き込んだ。
「おそらく、・・・・思っておられる通りではないかと思われます」
「まさか、いや、矢張りというべきなのか、俺としては信じたくない事実だな」苦悶の表情を浮かべた。
「未だ確定した事ではありませんが、間違いなく調査をしてみる価値は有るようですね」
「確かに・・・・あるとは聞いていたけれど、直接見た者に聞くと信じざるを得ないのか、事実ならとんでもない醜聞になってしまうな」
「残念ながら・・・」木暮は苦悩の表情で総理を見守った。
「分かった、柊君今君が言った麻薬の行き先は何処なのか?ぜひともその件を対象の一番にして実態の把握に努めてもらいたい」強い口調で言った。
「分かりました」
「柊、連中の力は世間が考えている以上にずっと強大で、今回のように警察内部や政治の世界まであらゆる層に入り込んでいると想定しなければならない」念を押す様に言った。
「確かに。しかし、自分には有利な点があります。彼らは他人に恐怖を与えますが、自分らがそれに面と向かう事は経験したことがありません。これは自分が動いて経験してもらうのですから警察が得られない情報が集まります」
「今度の塩田組の様にか?」平田が横から聞いた。柊が黙って頷いた。
「第二に、警察と違ってそれらの証拠を収集して法廷に提出するわけではありません。直接反省をしてもらうことです」総理の前であることもあり控えめに言った。
「第三に、警察や判事さんは仕事であり、家庭もあります。妻がいて出世があります。自分にはありません・・・最後に自分には強い動機があります。彼らには彼らがかつて経験したことのない経験を実感させねばなりません」柊の言葉がじっくりと出席者全員の胸に染み渡っていった。
「・・・よく判った」誠一郎が口を引き結んで言った。
五人の男にある種の絆が出来上がっていた。
「それにしても特殊部隊というのは凄いものだね」
総理の言葉には実感がこもっていた。
柊はこれが総理との初めてで最後の面談になるだろうとの意識があった。
いつの間にか日が落ちて窓外は月明りに照らされていた。

木暮たちはロイヤルホテルの二十七階から降りると真っ直ぐ玄関に向かった。
その後を柊も続いたが、目の端に柱で隠れるようにして一人の女性がこちらを見ているのに気付いた。特殊作戦群の偵察訓練などで鍛えられ研ぎ澄まされてきた索的能力の一端が発揮され、さらに昼にはこの場所で何気ない風に携帯を使って写真を撮っていた女性とも結び付けた。
ベルボーイにタクシーを呼んでもらっている時、後ろを小走りに駆けて、黒塗りの自家用車に乗り込んだのも見逃さず、尼崎駅で運転手に料金の支払いを済ませ二人を送り出すと柱の陰に入った柊は、コンコースの端に入ってきた尾行車を眼の端に捉えた。
降り立った女性が柱の陰にいる柊の横を通り過ぎるのを見送って、駐車している社用車に近づき薄暮で見えにくかった社旗を確認した。
二十分後理沙は尾行に失敗したことを悟った。


港町神戸を見下ろす六甲山中腹にある住宅街の一角、日本全国に四万人を擁する川北組本家には十六人の最高幹部と呼ばれる男たちが続々と各地から大門をくぐった。
今年の夏は例年になく暑く、九月に入っても秋の気配が全く無かった。
今日、臨時の最高幹部会が急遽招集されたのは、本家の足元である尼崎で塩田組が壊滅し犯人も未だ特定されず、面目を潰された形になった川北組としては早急に事の修復と尼崎の縄張りを決めて敵を探し出さねばならなかった。
山本組長は事前に若頭である大崎と内容を詰めた上で幹部会に臨んだ。
冒頭に若頭から事件の顛末報告に始まり塩田組の後継として兄弟分で、尼崎と指呼の距離にある杭瀬の浅井組組長である浅井鉄男が指名され、同時に本家若頭補佐への就任が承認された。
続いて塩田組全滅の際に押収された麻薬の量が塩田からの報告と違っていたことが指摘された時、若頭補佐に就任したばかりの浅井鉄男から事件の際初動で駆け付けた警察官が塩田の飼っていたイヌだったこと、現在回収の為彼らと交渉中であることが報告された。
次に塩田組の事件とどうして結びつけたのか、数週間前に起きた伊丹の女性惨殺事件との関連性が指摘された時には
「確かに伊丹で殺ったのは塩田の跳ね返りですが、それと塩田を潰したのを結びつけるのは有る話しやと思いますが、これはウチの組動かして次の最高幹部会には必ずご報告いたします。この件は任してもらえまへんか?」と云う現在飛ぶ鳥を落とす勢いの若頭・大崎の発言に間髪を入れず
「分かった。この件は若頭に一任や」五代目の一言で座は静けさを取り戻した。
最後にどのような団体であれ犯人が絞り込めた時点で川北組が一丸となって報復するという事が決議された。



準  備


大阪梅田と神戸三宮を結ぶ神戸線は富裕層を抱えた阪急電鉄のドル箱路線で、塚口はその主要駅の一つであり、支線の伊丹線はここが起点になって、駐屯地のある千僧へは三十分ほどの落ち着いた雰囲気を持った街である。
柊が伊丹の官舎を引き払って移ったのは、塚口駅北側三〇〇m位の所にある五階建て賃貸マンションの最上階にある三LDKの部屋であった。
師団と同じ伊丹も考えたが妻への未練を絶ち、新たな職務に専念する意味でも指呼の距離にある塚口を選んだが、そこは必然的にW機関の拠点にもなった。
ここで柊は課業が終わって駆け付ける平田と共に連日のように打合せに没頭し、柊の通称を東京でもらったカード名の“木辺正司”とすることも決めた。
更に反社会的勢力との実戦に備えて武器類も、特殊作戦群での経験から出される柊の要望が平田によって着々と整えられた。
拳銃はコルトガバメントMEUとグロッグ一七、ベレッタM八四(通称チーター)の三丁が、狙撃用のライフルはレミントンM七〇〇が用意され、付随する備品として各々の武器に合ったサプレッサー(消音器)と昼夜用のスコープ、接近戦用コマンドナイフ等が部屋に造られた棚に並んでいった。
更に平田は元来得意としているIT技術を駆使して伊丹惨殺事件の管轄であった尼崎東南署のホストコンピューターへの侵入を図ろうと連日遅くまで一室に籠っていた。
柊は対外活動に集中し、今後想定される実践に必要な資材の購入に奔走していた。
彼らの動きは逐一木暮から官邸の内村にも報告され、その連携は次第に密となってW機関は機能し始めた。
一息入れようと部屋を出てきた平田はそれらの買い物や別室に綺麗に整理収納された武器類を眺めて「それにしても戦争準備だな」ひと言呟いた。


上野理沙は東京へ戻っても大阪での事を思い返してあの虚しさと悔しさが再びこみ上げていた。
今朝出社してからも仕事が手につかずじっと携帯の写真を見詰めていた。
「どんな男前が写ってるんだ」後から編集長の岡橋が覗き込むように見ていた。
「あゝ編集長」
「大阪で何かあったのか?いい男にでも巡り会ったか?」
「とんでもない。そんなのじゃあ有りません。そうだこの方をご存知ありません」
携帯の写真を編集長に向けて聞いた。
「誰だこれは?中年二人に、おぉこの端に写っている若いのは中々男前じゃないか?」
「混ぜ返さないで下さい」睨むように岡橋を見た。
「昨日、ロイヤルホテルに来た三人組なんですが・・・」経緯を編集長に簡潔に話した。
「フ―ン五時間もか?総理と?」
「分からないんです。確認出来ていませんから」
「単なる秘書官の友人かもしれないな」
「でも予定では応援が終わって直ぐに戻ることになっていたのに、それがホテルを出たのは六時過ぎですよ」
再び岡橋は写真を見詰めていたが「この三人に共通するのは髪の毛が短いだけだな。少し興味あるな。理沙、考えて分からない時は会うんだよ。秘書官に会って直接聞いて来い」
背中をドンと叩くようにして自席に戻っていった。
その痛さが悔しさを忘れさせた。
いつもの自分に戻ると動きは素早く、電話を掴むと官邸へのアポを取り始めた。
暫らくして電話を置いた理沙はかすかな笑みと共に小さなガッツポーズをとって、手帳に明後日の六時官邸秘書官室と書き込んだ。


拠点での物資調達が一段落した夜、柊は別室の平田に気を使いながらコーヒーを淹れていた。テレビの音も切ってあるので、平田の呟くような独り言とキーを叩く音が部屋から漏れてきた。
夜中の二時半を過ぎようとしていた時、それまで途切れることのなかったキーを叩く音と平田の呟きとも唸りとも取れる声が急に途切れて完全な静寂が訪れた。
そんな気配に何かを感じた柊も顔を上げた時、部屋のドアが静かに開けられて彼をそっと手招いた。部屋に入りコンピューターの画面に目を向けると、そこには【兵庫県警察 尼崎東南警察署】の文字が浮かんでいた。
「やりましたね。平田さん」
「おう、大分手こずったけれどな・・ただ直ぐにも目指す報告書を見つけないと」言いつつ次々と画面をスクロールしていく。
「鬼退治は三日か」画面がずっと次々と変って三日の報告書の先頭ページが現れた。
手際よく見ていくと犯罪名の欄に《塩田組殺人事件》とあった。ずっと読み進めると押収品の蘭に目指すものがあった。
「よし、間違いない。これを直ぐプリントアウトしてしまおう」プリンターに接続し二枚のA四用紙に印字し始めると東南警察との接続を遮断した。
「やっぱり・・・・・新聞に書いてあった通りだな。押収品として記載されているのは覚醒剤二袋とMDMA一袋だけだ。担当は仙田という巡査長と鈴木という巡査になっている」
「この仙田秀夫という巡査長が一番臭いますね・・先ずこの男を追いかけて、確信を持てた時点で実行に移ります」引き結んだ唇に決意が見えた。
「警察全てが悪いわけでもないしな。一握りのワルが全体を少しずつ蝕むんだな」平田が述懐するように呟いた。
「この男に話してもらう場所も必要だし・・・先任、先ほどの装備にプラスチックカフを十本ほど追加しておいて下さい」先のイラク戦争などで見られたプラスチック製の手錠は持ち運びが便利で嵩張らない利点があった。
「分かった」
麻薬禍の芽を摘む準備は着々と進められていた。


東京ドームと同じ程度で約一万四千坪の敷地面積を持つ総理大臣官邸は平成十四年に近代建築の粋を集めて建て替えられ、その竣工を待って旧官邸は新官邸の南に約一ヶ月かけて曳家が行われ、改装された後公邸として生まれ変わっていた。
警視庁警備部が警護する官邸入口で、運転手と共に入念な検査が終わると入門が許可され、玄関口で内村に笑顔で出迎えられた。
二階の秘書官応接室に案内された理沙はお茶が出されると鞄から名刺を取り出した。
交換された名刺を見て「そういえば国会で幾度かお会いしていますね。こうして改まってお話させて頂くのは初めてですが、こんなに美しい方であればもう少し早くこんな機会を設ければよかった」如才の無い、褒め言葉に理沙もにっこり笑って「いつも国会でお顔をお見かけするんですけれど、やっと念願しておりましたインタビューがかないました」
「ほう、念願されていた?」
「そうです。私、ずっと父親の仕事でアメリカにいたんですが総理が就任されてその所信表明をニューヨーク支局で聞かせて頂いた時、是非にと希望して異動したものですから」
「そうですか。いや総理に代わってお礼申し上げます」
それからの三十分は穏やかで、打ち解けた取材に終始した。
インタビューは終わったが本命の質問はこれからだった。
「あのぅ、あと五分だけいいでしょうか」
「はい、なんでしょう」内村も寛いだ雰囲気でソファーに深く座り直した。
「先日大阪へ参議院の応援で行かれたとき、お昼の一時ごろから六時ごろまで三人の紳士が尋ねていらっしゃいましたね?あの方々はどの様な方々なんでしょう?」単刀直入に切り込んだ。
「確かにお会いしました。凄い観察ですね。・・・あのお三方は伊丹の自衛隊の幕僚長と幹部の方で、拉致の問題で舞鶴を活用した救出を計画できないか意見を聞いておきたいと時間を頂いたんです」それで全員髪の毛が短かったんだと納得がいった。
「拉致者の救出計画を立てておられるんですか?」
「いえ、誤解されては困りますが、仮に自衛隊を使うとすればどの様な方策があるのか意見を伺っただけですよ」
「それで、どうなったのでしょう?」
「それは、やはり今の日本の憲政下では少々無理があるな、というのが結論でした」
「即ち軍事行動では?ということでしょうか」
「えぇそうです。矢張り専守防衛という鉄則の元では、日本側から行動を起こすのは避けなくてはならない事でね」
「宜しければ、その方々のお名前を教えて頂けません?」
「それはご勘弁下さい。実戦部隊の方々ですから名前は極秘扱いになっていますので。つまり仮想ではあっても相手に知られると将来本人達に影響があってはならないことですから、この事はあくまでオフレコでお願いします」
何とも歯切れの悪い言い訳に聞こえたが、時間の都合もあって踏み込めなかった。
理沙は丁重にお礼を言って退室したが、何か釈然としない気持ちだけが残った。


柊の部屋から直接師団に入った平田は八時からの国旗掲揚に立ち会った後、昨日からの経過を報告する為に幕僚長室へ向かった。
ノックしてドアを開けると「今日はお前相当くたびれた格好に見えるな」薄く伸びた髭を見て言われた。「分かりますか?実は徹夜明けでして、少々くたびれました」
「例の潜入でか?相当手こずったようだな」
「はい、結構固いガードでした」
ポケットから取り出した東南警察署の報告書を渡しながら、拠点での顛末を報告した。
「解った。このことは俺から内村に途中経過として報告しておく」
木暮は平田にコーヒーを頼んで、自分は報告書に目を通し始めた。
「それで、この警官が鬼だと確定したら、後はおしゃべりの場所をどうするかだな。人がほとんど来ない場所で外に声が漏れない場所というと山奥の洞穴か鉄道の廃線にあるトンネルのようなものしかないか?」
「私もそれくらいしか思いつかなかったんですが、戦争時代の防空壕でもいいんでしょうか?」
「防空壕か?でもそれだと上に家が建っているか、近隣に住宅があるだろう」
二人が色々と意見を出し合うがこれはと思われる場所は出てこなかった。


通信中隊の整備工場では飯田曹長が相変わらず部隊の通信機器の手入れに余念がなかった。
ふと顔を上げると、じっと飯田の作業を見とれている平田がいた。
「やあ、いらっしゃい先任」軽く敬礼しながら手を拭うと立ち上がった。
「この前はありがとう」
「お役に立てましたか?」
「イヤ役に立つのはこれからだが、幕僚長も短時間でこれだけのものを良く作れたなと感心しておられたぞ」
「それは何よりです」心底からの悦びの声をあげた。
「それでな曹長。幕僚長から一つだけ注文がある」
そう言って平田は例の携帯を取り出してプッシュボタンの信号機のような色が実戦では目立ちすぎるのでもう少しそれらを配慮した造作にして欲しいと注文を付けていたが、受け答えする間も、何か考えているのか今日の先任は何時もと違って見えた。
「何か悩み事ですか先任?」たまりかねて問いかけた。
「分かるか?・・実は今度の特殊作戦群の訓練地を何処にするかまだ決まってなくてな」
「福知山じゃないんですか」福知山駐屯地は北近畿担当の第七普通科連隊が常駐する精鋭部隊である。
「あそこは射撃場はあるが、今度の部隊は人的救出を前提に訓練したいから、森林というかブッシュが有ったりトンネルや洞穴があるような山で人がほとんど出入りしないような場所が望ましいといわれるんだが、それがこの周辺で簡単に見付からなくてな」
話を聞きながら飯田曹長は最近この師団で、“今度創られる特殊作戦群は拉致被害者救出作戦が主任務になっている”という噂話を思い出していた。
だからこの話には非常に興味を持ったし、いつかこの師団で実行されるなら、どのような仕事でも協力したいと切望していた。
「あのう一寸いいですか?先任」
「なんだ」
「その訓練場所はあまり人が出入りしない所ならいいんでしょうか?」言ってから考え込む飯田に「何かいい場所を思いついたのか?」覗き込むようにして聞いた。
「前にこの携帯を取りにこられた時、自分の田舎は朝来市だと言ったでしょう」
「あぁ、覚えている。確か銀山のあった場所だったな」
「そうです。でもあの銀山は江戸時代から掘られていて、私がガキの頃あの銀山の周辺は格好の遊び場だったんですよ。今は観光地になっていますが、昔は露天掘りが主流で、そこかしこに坑口があるんです」
「コウグチって何だ」
「つまり鉱床への入り口ですよ」
「それで」
「その観光施設はそんな坑口の一部を観光用に公開しているだけでもっと奥に入れば幾らでもありましてね、昔私達が遊んでいた穴は山のずっと上にあって一日中人が来ることも無いような穴でした」
びっくりしたような顔がじっと飯田を見詰めていた。
「そこへは何時間で行ける?」
「ここからでしたら二時間前後ですかね。福知山の駐屯地からは一時間程です」
再び腕を組んだ平田は宙を睨みながら考え込んだ。やがて飯田に向き直ると
「お前、今度幕僚長には許可を取るから俺をその場所に案内してくれ。勿論公用ということでな」
「そんなことなら何時でもOKです」
「よし、その時は頼んだぞ曹長」
平田は小走りに幕僚長室へ向かった。


柊はPCから尼崎東南署の仙田と鈴木の顔写真を見つけ出して尾行を始めていた。
この三日ほどは何事も無く、彼らの動きにも特段の変化は無かった。
今日も配置予定表で行動予定を調べて東南署に向かった。
仙田と鈴木はいつものように神田通りに向かってゆっくり歩いて行く。
彼等とすれ違う遊び人風の男達は軽く手を上げるか、頭を下げるか挨拶をして通り過ぎて行く。顔はそこそこ売れているようである。
神田通りに入った所で、突然路地から出て来た背広を着てきちんとした身なりの男が彼等の前に立ち二言三言何かを言うと、鈴木が仙田のほうを向いて笑いながら何か話しかけた。
仙田がそれを遮るようにして男と話し出した。
男は頷くとその場を離れていった。
柊はこんな時、単独である事のもどかしさを感じたが決断は早く、仙田の尾行を中断してその男を追い始めた。
男は駅ロータリーの方へ歩いて行く。男がそこに停めてあったベンツに乗り込むのを見て柊はタクシー乗り場に走った。
「どちらまで?」聞く運転手に「あの車を追ってください」とベンツを指して告げた。
タクシーは二号線との合流で右折信号を出して停まっているベンツとの間に二台を挟んで停まった。運転手がバックミラーで柊を見ながら「大阪方面に行くようでんな」独り言のように呟いた。
十分ほど走ったであろうか杭瀬と書かれた交差点で左折信号を出しスピードが落ちた。
少し走った先の左側にコンクリートの壁が二㍍程の高さで周囲を囲み四階建てのダークブラウンのタイルで化粧されたビルが見えた。
周囲に巡らされた壁は相当な厚さで鉄筋を入れて補強しているのだろうか、かつてこのような壁を見たことが無かった。玄関から二人の男が走り出てきて歩道を塞ぐ様にして立つとベンツはその間を抜けてビルに入って行く。
「なんや、浅井組の事務所やな」独り言のように言う運転手に「そのまま、真っすぐ行って」と命じた。
ビルの前を通り過ぎ一〇〇㍍ほど行ったところで停車させた。
幅八㍍ほどの道路の左右には商店街と民家が並んで建つ繁華街としては中途半端な感じがした。北側は駐車場で南側は倒産でもしたのか売り家と書いた看板が表戸に貼り付けてあり、裏は一反ほどの田畑になっていた。
「今、浅井組と言いました?」
「へぇそうです。神戸の川北組の下で、今売り出し中の組や言う噂でっせ」
「良く知っていますね」感心するように言う柊に、運転席から振り向くと声をひそめて
「仲間でよう知ってる奴がいてましてな、先月、さっきお客さんが乗りはった尼の商店街を縄張りにしてた塩田組が全滅しましたやろ。あの縄張りをこの浅井組が継いだらしいですわ」
「そうですか」言いつつ今一度ビルを振り返って見た。
組事務所と聞いて、壁の厚さも納得がいった。抗争等でダンプカーに体当たりされてもビクともしない堅牢さなのだろうと推測できた。
これ以上深追いしないことにして、見ておいたベンツのナンバーを記憶にしまい込んだ。


長く暑い夏も過ぎ去って秋の国会が始まっていた。
渡辺が総理になる前、六十余年間続いた民自党政権があまりにも醜い政争を繰り広げ、国民の絶望感と共に支持を失ったのに便乗して、寄せ集め集団の民生党の中で大物幹事長といわれた大沢は国民が喜びそうな政策ばかりをマニュフェストに書き込み、タイミングも恵まれたポピュリズム政党が政権を奪ってしまった。
その後、有権者の福祉や生活よりも、自分自身の野心の達成に多くの関心を持った政権は公約も次々と破たんしていった。
そんな中、大沢に幻滅していた優秀な若手と、相変わらず長老支配の続く民自党の若手を説得し糾合したのは渡辺の強烈なリーダーシップが実現させたものであった。
渡辺政権がその施政方針演説で最重要のお願いとして国民に説いたのは、この日本は政治的にも経済的にも戦後最大の危機であること、従ってこの政権の四年間は収入も贅沢も我慢をして頂かねばならないと言う事を、二時間をかけて切々と理を分けて訴えたのである。その演説を聞いた理沙は帰国を志願したのである。
そんな感慨にふけりながら日々の総理を追っている時、ふと気になる光景に出会った。
それは総理よりも秘書官の行動にである。精力的に活躍を続ける総理の傍にあって常に控えめな内村に注意を払う者は他にいなかった。
或る時、携帯で話をしていた彼が突然いつも小脇に抱えている黒のセカンドバッグからもう一つの携帯を取り出して話し始めた。
真っ黒の外観は普通だったがチラリと見えた内部が赤・青・黄色のまるで信号機のようなボタンが見えた。常に耳に当てているので会話中はそのボタンを見ることが出来なかったが、終わって蓋を閉じようとした時にも又その色彩が目に映った。思わず自分の携帯を取り出して確かめたがそのようなボタンは無かったし他の人の携帯にも無かった。
次の日の総理記者会見の時、後ろに控えた内村がその携帯を取り出して邪魔になってはとの配慮からだろう、その場から離れようと背を向けた時、矢張り信号色が見えたのである。
何かが動いているのか?あれは特殊な携帯?私の思い過ごしか?何の確証も無かった。
さらに大阪で会った自分と同年代と思われる男の、あの引き締まった意思の強そうな顔立ちに周りにいる男達とは違ったオーラに魅かれるものを感じて、いつしか自分の内に生じた疑問と合わせて心の昂ぶりを覚えた。


月曜日の九時前、塚口の拠点に飯田が小走りにやってきた。
雲ひとつ無い秋晴れである。
「一尉お久しぶりです。突然に除隊されたものですからお悔やみも言えず申し訳ありません」飯田が久しぶりの出会いに神妙に挨拶をした。
「こちらこそご迷惑をかけました。今回は外から部隊のお手伝いをさせて頂くことになりました。よろしくお願いします」
「先任から話は伺っています。一尉が同行して頂けるというのでワクワクしています」
除隊したにも拘わらず、未だ一尉と呼ぶ飯田に少し面映ゆさを覚えて「もう私は・・」と言いかけたが、平田が笑みを浮かべて柊を制し、柔和な目を向けて首を左右に振った。屈託のない笑顔で接する飯田を見て柊は黙って受容れた。
三人とも綿のズボンにTシャツ・ジャンパーという軽装だった。
柊が運転席に、助手席には飯田が座って宝塚インターから中国自動車道に入る。一時間半程で福崎から播但自動車道に入ると流れは少なくなり目的地である生野インターには十一時前に着いた。
播但線生野駅周辺は静かで落ち着いた町並みが整備され、江戸時代から続く鉱山町として今尚当時の建造物を多く残し兵庫県の景観形成地区に指定されていた。
街中に入ると町家や西洋建築の館・うろこ塀の屋敷がゆったりと建てられて、その中を銀山当時の名残であるトロッコの軌道跡や水路が走っている。
道路には上向きの矢印と生野銀山と書いた看板が散見され、暫く走って右折すると五百㍍程先にさらに大きな看板が見えている。
「あそこが銀山への入口で、右手の山が金香瀬山といって坑道が多くあるんです」
「あまり高くないですね」
「そうです。七百㍍ほどですかね」
直ぐに入口事務所前をそのまま通り過ぎると駐車場の右奥に舗装が切れた林道のような道が見えてきた。横には“旧坑露頭群 終点 観光施設はここまでです。これより先進入禁止”の風雨で汚れた看板が立っていた。
ここまで入ると急に静かになり木々を渡る鳥の声が時折聞こえるだけだった。
五分ほど林道を進むと廃鉱の跡であろうか、山肌のそこかしこに穴が掘られた場所に出た。
黒のランクルは力強く前進し、前方右カーブの道に差し掛かった時、急ブレーキと共に三人が同時に「オォ」と声を上げた。
目の前で白い綿のズボンに厚手のコットンシャツ姿の男が何か叫んでいた。
白髪の六十がらみで少し小太りの男は相当な距離を走ったのであろう荒い息を整えようと帽子を取って膝に両手をついたが、その治まるのも待たず「助けてください」一言言うとまた膝に手を置いて荒い息遣いをした。
降り立った柊はその男の両肩を優しく掴み「落ち着いてください。どうされたんですか」先を促すように聞いた。
少し楽になったのか、男は手を走って来た方に上げて「妻が・・・」喘ぐように言った。
「奥さんがどうかされたんですか」三人がその方向に目をやったが何も見えなかった。
「妻がツツジを取ろうとしてあそこから落ちたんです」声には悲壮感が出ていた。
事情が分かりかけた柊はその男の肩を掴んだまま「取り敢えずそこへ行ってみましょう。車に乗ってください」言いつつ車の助手席を開けたがそれを拒むように「どなたかここから通じる携帯をお持ちじゃぁないでしょうか?私の携帯では圏外になっているんです。早く救急車とレスキューの人を呼ばないと・・・」
柊は一瞬考えたが直ぐに決断していた。
「失礼ですがお名前を教えて頂けませんか?」一瞬柊を見た男が反応した。
「これは失礼。私は和田です和田敏一と言います」
「では和田さん兎に角乗って下さい。我々に何が出来るか、それから判断しましょう」
有無を言わさぬ口調だった。
一刻も早く救いたい気持ちから男は従って「この先です」指をさして言った。
ものの数分で現場に着き、車を飛び出した敏一は崖の縁まで走り寄って下を覗き込んだ。
「洋子、洋子」声をかけると直ぐに応答があった。
「あなた、早く、早く助けて・・」下からか細いがしっかりとした応答があった。
「声だけで判断すると、大きな怪我は無いようですね」
「そう、身体は大丈夫のようです。ただこんな崖だからレスキューを呼ばないとどうにも成らんでしょう」早く呼んでくれと催促するように訴える。
柊は和田を見ながらにっこり笑うと「大丈夫ですよ」と肩を抱いて声をかけた。
不信そうに見返す和田をおいて「飯田さん、車から一一㍉のザイルとカラビナ、それとハーネスは二つとも、お願いします。全て屋根のスライドブロックに入ってます」
「了解」車に向かう飯田を見送って、振り向くと「先任、此処で確保場所を決めておいて下さい」テキパキと命じる柊を不思議なものを見るように和田は眺めていた。
一番年下と思われる男が年長の男二人に指図している光景が信じられなかった。
やがて飯田が云われた品々を抱えるように戻ると、直ぐにハーネスの装着を手伝う傍らから「確保場所よし」との声がした。
見ると大きな木の横で地面を踏みしめてザイルを身体に巻きつけた平田がニッコリとうなずいた。
カラビナをザイルに架けて崖から降り出す柊を見ながら
「大丈夫でしょうか?レスキューを呼んだほうが・・・・」心配そうに平田を見た。
「和田さん、大丈夫ですよ。寧ろ彼が行って助けられないものだったら、レスキューが行ってもダメですよ」その言葉を聞きながら、手馴れた動作で活動する彼らを見て、次第に安心感が身内に広がるのを実感していた。
しばらくして「よーし、確保」柊の声が下から届いてから四~五分もすると「引き上げ、よーし」と声がかかった。
飯田と共に平田がザイルを引っ張り出した。ゆっくりだが確実に上がってくる。しっかりと確保されヘルメットを被りハーネスを装着した妻の頭が見えた。
二人が手前に引き寄せられ崖の縁に立った時、後ろからそっと飯田が妻の元へ押し出してくれた。
妻の両手を握り締めた和田は「よかった、怪我は無いか?」と優しく問いかけた。
「ええ、一寸肩と足腰が痛いのと手のひらが痛いだけよ」その手は擦り傷で赤く腫れ、血が滲んでいた。
平田が車から救急箱を持って来て、手当てをしようとすると「これは私にさせて下さい」柔和な顔に戻った敏一が言った。横で洋子が同じ様に微笑んでいる。
「私は外科医なんですよ。平田さん」
「そうでしたか。分かりました。お願いします」納得の表情で救急箱を渡した。
妻の手をゆっくりと治療しながら手際よく包帯を巻いて行く。
「それにしても大変お世話になりました。先程は気が動転してしまって、あなた方に出会わなければどうなっていたか・・・」しみじみと礼を言った。
「本当にこんな山奥に興味本位で来てしまって、誰も来て頂けなかったらと思うと心細かったし怖かった」洋子も落ちた崖を振り返って呟いた。
治療を終えて改めて三人を見ながら「本当にありがとう。私は西宮の夙川病院の和田と申します。一寸冒険してこの山奥まで来た時、妻がドウダンツツジを見つけましてね、それを採ろうとして踏み外したんです。ご迷惑をおかけしました。感謝します」夫婦で頭を下げた。
「よかったです。大したお怪我もなくて」柊も何の屈託もない笑顔で応えた。
二人を乗せて駐車場に戻ると、和田夫妻の白い三菱パジェロ・スーパーエクシード4WDが陽光を浴びて待っていた。
足を引きずる洋子を敏一と平田が両脇を支えて助手席に座らせた。運転席の横に立った和田は改めて三人に礼を言って乗り込んだ。
駐車場へ送ってもらう途中、夫婦は何度も三人の住所を聞いたが結局教えてもらえずにいた。心残りはあったが深く問いただすのは遠慮した。
何度も車の中から頭を下げる二人を見送ると、再び目的地を目指した。
暫らく走るといよいよ道が無くなってきた。
「これ以上は無理ですね。後は徒歩になります」飯田が指さす方を見ると山の上に向かってうねる様に林道と言うよりも仙道のような道が続いていた。
三人はヘルメットにヘッドランプを付けシャベルやランタン・懐中電灯・九㍉のザイルなどの装備で飯田を先頭に登り始めた。
十分も登ったであろうか先頭の飯田が右手を上げて前進を止めた。細い道がそこから左右に分かれていた。ここで待つように言い残すと飯田は右手の道を辿った。
十五分ほどで、笑顔を見せて飯田が降りてきた。
「有りましたよ。昔の自分達の秘密基地が」そう言うと再び案内し始めた。
三時になろうとしていたが、回りは高い樹木が覆いかぶさり、周りも草木が生い茂って鬱蒼としていた。やがて飯田が満面に笑みを浮かべて両手を大きく広げた。
「ようこそ、我隠れ家へ」そこには縦・横共に二㍍程の開口部を持った穴が暗く奥に続いていた。
柊はその周辺から穴の奥まで入念に調べて、最後に坑口から四~五㍍先にある巾三〇㌢程の細い水の流れに屈み込むと、手のひらに掬い取って味わうように口に含むと、二人を振り返って微笑んだ。


播但自動車道を南下する車の中で和田夫妻が感慨に浸っていた。
大学退官後から始めたトレッキングは少しずつ自分たちの脚力に自信が深まって、今回の生野銀山行ではもう少し奥まで行ってみようと歩くうちに少しずつ道が細くなり、これ以上は無理だと判断して下る途中で思いもかけぬ災難が待ち受けていたが、それも突然現れた三人の男が苦も無くその厄災から救出してくれた。
神崎北インターを過ぎたころ静かに敏一が話しかけた
「お前、体はまだ痛むのか?」
「足の筋と腕の擦り傷が痛いだけで、それ以外は大丈夫よ」
「それにしても、あの三人は気持ちのいい方々だったな」
「本当に、・・・私を助けに来て下さったあの若い方は、降りてきて私の腕を掴むと‘確保’って言われたでしょう?」
「あぁ、あれで僕もほっとしたんだ」
「私も・・・あの声で助かったって思ったの。すごく頼もしく感じたわ」
二人とも今日の出来事を思い出しているのか暫らく沈黙の時間が過ぎたが、突然洋子は遠くを見るように呟いた。
「でもあの若い方は丁度恵子くらいの年頃ですかね」
「お前・・・・・」敏一は絶句して妻の顔を見た。
「心配しないで、貴方。私はもう立ち直っているから」そう言うと夫を見て寂しそうに微笑んだ。
敏一も運転しながら甦る思い出を消そうとしなかった。

あの阪神淡路大震災までは・・・・・・・

当時、和田夫婦には恵子という十六歳の娘がいた。美人で聡明な恵子は多感で活発でもあった。幸せな日々が続いていた。敏一・四七歳、洋子・四三歳で二人とも大阪大学(通称・阪大)の医学部で敏一は外科学部、洋子は薬理学部の教授として教壇に立っていた。
一九九五年一月一七日未明就寝中の二人は突然強烈な揺れに襲われた。暫らく続いた後何も無かったように治まったが、その爪痕は阪神淡路市街に死者六四〇〇名を超える壊滅的な打撃をもたらした。
家も半壊の状態だったが下敷きは免れた。
近くで夙川病院を経営する弟に連絡をつけたが、自宅も病院も十年前に建て替えていたせいで無事であった。不幸中の幸いというのであろうか大学は冬休み中ということも有り、弟の敏男夫婦の家に一時避難して何とか凌いだが、それからの数ヶ月は二人にとって目の回るような忙しさが続いた。家の片付け・罹災の届け・弟の病院の手伝い・我が家の取り壊しと建築の手配、春になり大学での講義等々、妻の洋子も同じように忙しく家計簿の計算が最近合わないとこぼしていたが、この災難で出費ばかりだからと自分を納得させていた。
やっと落ち着きが出てきたのは七月も終わろうとする頃だった。娘も高校の二年生になって、もう独り立ちが出来ると思い込んでいたせいか、かまうことも少なくなっていた。
新しく建て直しにかかった自宅も年末までには完成の予定だった。敏一夫婦は夏休みに入って再び敏男の病院を手伝っていた。
そんな日の午後、朝からの診察も一段落して看護士の鏑木が淹れてくれたお茶を飲んでいるとき敏男が診察室に入ってきた。
「ちょっといいか?」
「お前か、丁度午前の診察が終わったところだ。お茶でもどうだ」鏑木に振り返りながら言った。彼女は黙ってお茶を淹れると診察室をそっと出て行った。
いぶかしげな顔で見送った敏一をじっと見つめて敏男が前の患者席に座った。
「兄さん、最近恵子ちゃんに変わったところは無いか?」
「恵子?別に何も感じないが、恵子に何かあったのか?」
頷くように敏男は診察着のポケットから皺になった銀紙を取り出しゆっくりと開いて敏一に差し出した。
受け取った銀紙を凝視して、顔を近付けて見ると数粒の無色の結晶が付着していた。敏一は顔を上げると、首を傾げるようにして「これは・・・」
「コカインだ。・・・・」診察室は異様な沈黙に包まれた。
「兄さん、落ち着いて聞いて欲しい」両手を兄の手に重ねて敏男が一段と声を落とした。
敏一は動悸が激しくなった。
「実は昨日家に手帳を忘れて、鏑木さんに取りに行ってもらったんだ。家には恵子ちゃんだけで、背中を見せて応接のソファーに屈んでいたので声をかけようとしたら、今まで見たことも無いような朦朧とした顔で仰向けになったそうだ。戸を開けることも出来ずじっと見ていると、恵子ちゃんが持っていた銀紙をティッシュにくるみ屑箱に入れると自分の部屋に戻ったそうだ。彼女は洋子さんに倣って薬物介護療法士の勉強もしているから‘何かおかしい’と思ってそのティッシュと手帳を持って届けてくれたのがこれだ」
敏一の動悸はさらに激しく、顔は青白く、唇は乾き、震えて言葉が出てこなかった。信じられなかった。驚天動地だった。
さらに敏男の言葉が続いた。
「昨日兄さんに言わなかったのは、私も間違いであってほしいと思ったから、すぐに薬理の検査に送って調べてもらったんだ。先ほど結果を知らせて来てね、残念だが・・・・」
「ありがとう」手を握り返しながら弟の気遣いに感謝しつつ、何時から?、どうして?、何故?、あんな良い娘が?疑問が繰り返し彼の胸に渦巻いた。
「兄さん、洋子さんにはどうする?僕から話そうか?それとも・・・・」
遮るようにして敏一が「僕から話す。そのほうが良いだろう?」
「・・・そうだな。じゃぁ僕が呼びに行ってくるよ・・・昼からは休診にしておくから・・・」兄弟だけの思いの籠った言葉だった。
「ありがとう。洋子と話して、何とか二人で対処するよ」俯いて声を絞り出した。
「それがいい。じゃぁ、呼んでくるからな」静かに診察室を出て行った。

屈託の無い笑顔で彼女は診察室へ入ってきた。
「敏男さんに貴方が呼んでいるって言われたんだけど何かご用?それに何故か深刻そうな顔をしていらっしゃったけれど何かあったの?」
妻には背もたれのある椅子のほうが良いだろうと、自分の席を空けて「まあ座りなさい」と勧めて、自分は患者用の椅子に移った。
「驚かないでほしい」いつもと違う緊張した空気を感じたのか洋子が座り直した。
今聞いた話を何も隠さず総てを話し終わるころには、洋子の目から涙がとめどなく流れ、頬を拭おうともしなかった。窓からさす陽光に晒された妻の顔は青白く、長い沈黙が支配した。
ようやく落ち着いたのか青白い顔を俯けたまま呟くように
「あの震災以来恵子にかまってやることが出来ず、家にいてやる時間も少なくなって寂しかったんでしょうね。それに家計簿が時々合わなくなってきていた時、気になっていたのよ。でも震災の物入りで私の記憶漏れだと思っていたの。私がもう少し早く気付いてやっていれば・・・」
「そんなに自分を責めるな。私も同罪だ。あの子には・・・・」敏一の声も続かなかった。
立ち上がると洋子の肩に両手をかけて立ち上がらせ、そっと抱きしめた。
洋子も敏一に身を預けると又涙がこみ上げてきた。
「弟も、人には皆弱いところがあるものだと言っていたが、私たちがその弱さに付き合っていたら駄目になってしまう。幸い私たちは医者だ。恵子を治す為に二人で何が出来るのか帰って三人で話し合おう」
洋子は静かに聞いていたが涙を拭うと敏一の後を追った。

二人が重い足を引き摺るようにして自宅に入ると、物音で気付いたのか恵子が寝室から出てきて「お父さん、お母さんもどうしたの?こんなに早く」笑顔で迎えた。
洋子が「恵子、ごめんね」と言うなり抱き締めた。
彼女は薬理学者として麻薬の怖さを誰よりも理解していた。
初めて打った者は最初宇宙へ打ち上げられたように気分がハイになって暫らくその気持ちが持続するが、暫らくするとそれが溶解してそれぞれが逃避したい地上へ静かに引き戻される。そんな気分を再び味わいたくなって又手を出すといった常習性が麻薬の特徴であり、続けることによって内臓が次々と冒され、いわゆる廃人にしてしまうまで終わらないのだ。
「どうしたの、お母さん」面食らったように恵子が母親に優しく問いかけた。
敏一が黙ってポケットから先ほどの銀紙をテーブルに載せた。
数秒間、恵子はそのものを見つめていた。彼女の頭の中はその銀紙に包まれていたものが何なのか、両親に見せていた良い娘のイメージが音を立てて崩れていくのを感じて、すでに顔は蒼白であった。その目は父と母の間を往復し、麻薬の依存者ではあったが自分の心の中の羞恥心が彼女の中を駆け巡って身体が崩れ落ちそうだった。総てが白日の下に晒されることは両親にとってはもちろん、本人にとってはそれ以上に残酷なことであった。
「ごめんなさい」悔恨と羞恥心が彼女の全身を駆け抜け大粒の涙があふれ出て両手で顔を覆うと「ごめんなさい、ごめんなさい」叫ぶように部屋を飛び出した。
「待ちなさい、恵子」後を追って敏一が飛び出した。洋子も後に続いた。
玄関を裸足で走り出た恵子は「ごめんなさい」を呟きつつ何も目に入らぬかのように駆けた。
「危ない」
声をかけるのと同時にコンクリートにタイヤが悲鳴をあげると鈍い音がして中型トラックが眼の前に停まった。
惨劇を目撃した敏一は恵子に駆け寄って抱き上げたが、すでに呼びかける声にも反応は無く魂が抜け出した様にぐったりして頬についた涙だけが夏の陽を浴びて光った。
恵子を抱きしめながら振り向くと歩道で洋子が倒れていた。
突然の恵子の行動と、続いた惨劇に耐えかねたのか青白くなった顔を恵子に向けていた。
警察と救急車がほとんど同時に到着して、妻と恵子が並んでストレッチャーに寝かされた。
運ばれたのは先ほど妻とともに出てきたばかりの夙川病院だった。勿論、緊急医師は弟の敏男が務めた。
警察の判断は親子喧嘩の際、飛び出した恵子の事故死として司法解剖が行われなかった為、結果として麻薬の使用は始めから無かった様に処理された。
このことには敏一・洋子ともに口を挟まず黙って結果を受け容れた。
娘が何故、どうして麻薬に手を染めるようになったのか闇の中に包まれたままだった。
幸せな生活は一変した。悲嘆・後悔・絶望・・・あらゆる言葉が押し寄せた。
洋子は自分を攻め立てた。敏一の愛情を以ってしても如何ともし難い欝状態が続き、大学を辞して内に篭ってしまった。
敏一はまだ自分を少しばかりコントロールできていた。自分を攻めて後悔と絶望のふちに立ったのは洋子と同様であったが、夫として医師としての自尊心か男としての自負心か、兎に角その淵で留まった。
同時に恵子を残酷に追い詰めた麻薬に対する憤怒と軽蔑が身体の奥底から湧き上がり、自身の生涯をかけた戦いの標的にしようと誓った。
外科とは専門外の精神医学の書物を読みあさって洋子が鬱状態から抜け出す手段を見つけようとした。薬を処方する身近な手法があったが、恵子を苦しめた原因である薬物には頼りたくなかった。
敏一が採った手法は、健全な体力の回復と栄養バランスを保ち、迷い込んだ精神を根底から創り直すことに愛情と情熱を注ぐことであった。
その日から早朝散歩と軽い体操、定時のバランスの摂れた食事の日課を決め、昼だけはお手伝いに頼んで以来十余年に亘って続けられた。更に一昨年六十歳になり停年退官を迎えたとき大学側から名誉教授としての慰留を丁重に断って、弟の経営する夙川病院で副院長として勤務する道を選んだ。
退官後、少し時間に余裕が出来たので土曜日と日曜日には山歩きを目的として車を買い求め、季節に応じた近郊の山や温泉を楽しんでいた。そんな献身的な介助が功を奏してきたのか洋子は此処四~五年、目を見張る急速な回復を見せていた。
そんな矢先の今日の事故であった。しかし妻がその時に『心配しないで、私はもう立ち直っているから・・・』と自分の口で言った事を喜んでいた。
「あなたもう直ぐ西宮の出口ですよ」
突然かかった声に我に返ったように横を見ると健康に日焼けして微笑む妻がこちらを見ていた。
西宮の大井手町にある建て直された自宅は二百坪ほどの敷地の前面に淡いベージュの外装を見せていた。裏手に廻ると小さな庭に夫婦二人が趣味として手掛けたイングリッシュガーデン風の庭が広がっていた。
助手席から痛む足を庇って滑り出た洋子は二人のリュックを取り出そうと後部ドアを開けた時「あなた」叫ぶように身体を後部座席に突っ込んだ。
敏一が駆け寄ると、車の中から洋子が取り出したのはドウダンツツジの小枝であった。
「見て」満面に笑みを浮かべて小枝を大事そうに両腕で抱えて振り向いた。
「きっと、柊さん達よ。私がこれを採ろうとして足を滑らしたのを知って此処に入れて下さったのよ」
明るい午後の西日を浴びて二人は木を見ながら暫し佇んでいた。
「これはね、挿し木が出来るのよ」うれしそうな顔で洋子は子供のようにはしゃいでいた。
「今からじゃぁ一寸遅い気もするけど、上手く育てば春にはきっと白い鈴蘭のような白い花が咲くわ」
早速庭へ行く洋子を追いながら、敏一はもう彼女は大丈夫だと確信するとともに柊の優しい気遣いに想いを馳せた。


阪神尼崎地区は朝早くから夜遅くまで喧騒に包まれた街であり昼と夜、全く別の顔を持っていた。街は国道二号線に面して銀行、病院、大小のオフィスビルが建ち並び、並走する阪神電鉄尼崎駅との間に数列にもなる商店街を抱え、他に小さな路地が間を縫うように走る地区である。昼は通勤する人々が足早にやって来て治安も安定した街になる。
だが、夕闇が迫る頃には二号線から一歩入った北通り、中通りのそこかしこでヘビが鎌首を擡げるように赤や青色の舌が道行く人を舐めて、その治安も約束されたものでは無くなって来る。
今日の仙田は午後九時ごろ鈴木と共に神田通りを巡回し始め、二時間ほどの巡回が終わると彼らは署へ戻り始めた。
街中での尾行は相手の本拠なりを突き止めるまではSFG時と同様だが、彼等を尾行して浅井組に入ったとしても、中の会話が聞こえなければ全く意味が無く、どうしても彼等の話の中身を知るという所謂盗聴行為が必須要件になってきた。
次の日早朝、体調維持の為に日課のジョギングの後、簡単にコーヒーとトーストの朝食を済ませて携帯の⑥を押した。
「W(ダブリュ)⑥(シックス)だ」待つことも無く、打ち合わせ通りの返事が返って来た。
「先任、またご相談したいことが出来ました」
「今度は何だ?」昨日のいきさつと自分の考えを率直に伝えると
「そうか、盗聴なぁ。・・・それは難問だ・・・でもあいつなら解決できるかもな」
「あいつ?」
「曹長だよ」
「飯田曹長ですか?」
「そう、この携帯もあいつの作品だが、あいつなら何とか出来そうな気がする。一応幕僚長にも報告して、飯田曹長に会って来るよ」
「お願いします」そのまま携帯は切られたが、柊は先日の尾行で知った尼崎の夜を仕切る新しい組織の全容を掴んでおこうとPCに向かった。
流石に四万人を超える日本一の広域指定暴力団川北組傘下の有力組織だけに直ぐにも詳細が画面に現れた。浅井組は直参六団体、直系四団体で、その構成員は六百五十名、準構成員も含めると九百五十名とされて、組長の浅井鉄男は川北組若頭補佐でもあった。
柊は新たな敵が塩田組の十数倍という規模に改めて身の引き締まる思いがした。


平田は幕僚長室に入り挨拶もそこそこにソファーに座ると、生野での飯田曹長推奨の坑道から夙川の医者夫婦の救出や今朝の柊の相談も全て報告して返事を待った。
じっと腕を組み目を瞑って聞いていた木暮は目を開けると「国民の生命を守るという本来の行動が出来たことは良かったが、お前たちの身分が相手に判っていないことは確かだな?」
「はい、判っていません」確信を持った返事であった。
「それで、その坑道は全く人目に触れないのか?」
「はい、それはもう余程山好きであっても難しいと思います」
「分った。次の問題は盗聴だが、柊の言うようにその様な会話が重要なことは理解できるが、盗聴となると法的には電波法だが盗聴で知り得た秘密を第三者に漏らせば犯罪が成立するが、聞くだけではそれは成立しないはずだ。問題は無いと思うが、思案はあるのか?」
「いえ、自分も全く分りません。が、飯田曹長なら何かヒントなり解決策を持っているかも知れません」
「そうか、確かこの携帯も彼が作ったのではなかったか?」
「そうです、あいつは電気や通信に詳しくて結構役に立ちます」
「そういう物に精通して且つ調達できる人間が、これから必要になってくるかも知れんな」
今後の活動に目を向けた木暮だったが「だが聞くことは良いが、この機関はあくまで機密だ。いずれそういう人間を入れるにしても指揮官の許可も要るし、守秘義務の保持能力があるか、最悪の場合での資質も問われる。今はあくまでSFGの訓練という名目で接触するように」
「はい」
「今は我々二人だけだが、それで凌がねばならない。我慢して、機密最優先で頼む」
言葉の重さを改めて感じた平田が立ち上がって敬礼をする。
答礼した木暮を後に幕僚長室を出た。

平田は真っ直ぐ通信中隊に向かった。
整備工場に入ると飯田曹長は直ぐに平田を認めて「先任」と言いつつ笑顔で走り寄ってきた。「先日はありがとうございました」いつもと変わらぬ実直な男だった。
「こちらこそ。実は又お前に助けてもらわねばならん事が出来たよ」
「自分で出来ることであれば何でも言って下さい」
「有りがとう。でも此処では一寸話し難いんだ」周囲の整備兵を見ながら言った。
「それなら、こちらへどうぞ」平田を案内して工場の隅にある部屋へ案内する。そこは三畳ほどの大きさで、中に入ると机を挟んでパイプ椅子が二脚と予備の椅子が壁に立てかけてあり、電話機一台と電熱器の上に茶瓶だけの殺風景な小さな部屋だった。二人は机を挟んで座った。
「実は特殊作戦群が市街地で敵に遭遇した時、建物内の会話の盗聴は可能だろうか?」
飯田は興味を持って顔を引き締めた。
「盗聴といってもケースによって違ってきます。鉄筋コンクリートの建物とか、それともレンガとか他の・・」
「一番厳しいのは鉄筋コンクリートだろ、それで考えて欲しい」
「だったら、コンクリートマイクと言う便利なものが有りますよ。録音もできますし・・」
「そんな物があるのか、でも、それはビルから距離が有っても出来るのか?」
「それは無理です。そんなに距離があるんですか?」
「そう、一〇〇㍍前後は想定してもらったほうが良いな」
「それは厳しいですね」曹長は腕を組みじっと俯いて考え込んでしまった。
秋の昼前のグランドでは隊員の行進訓練が大きな声と共に続けられていた。
天は高く、柔らかな日差しが整備工場の入口から入っていた。
「その盗聴器は大きくても良いですか?」唐突に飯田が聞いた。
「どれくらい大きいんだ」
「そうですね三脚が着いたテレビカメラと考えて頂いて良いと思います、附属の器械もあって、それもカメラケースかアタッシュケースの大きめの箱と考えてください」
「それなら車で運べるだろう?」
「それはもう十分です。実は米軍等が使っている確か、・・レーザーマックスー3500という盗聴器ですが、窓にレーザーを当てて盗聴出来るんです」
「窓ガラス?」
「そうです。ガラスは人が喋ると目には見えないですが振動しています。つまりスピーカーなどが振動を音に変えているのと同じ理屈ですよ」
「その器械は直ぐに手に入るのか?」
「確か、二、三ヶ月前に習志野の特殊部隊が手に入れた筈です。先任がこちらに来られた後ですね」
「そうだ、だったら習志野の装備部隊に聞いたほうが早いな」
「誰か、ご存知の方が居られます?」
「ウン、装備の曹長は、元俺の部下だった」懐かしそうに習志野時代を思い返した。
「よし、善は急げだ。この電話借りるぞ」
習志野第一空挺団の交換が出ると師団名と階級姓名を名乗った上で装備の上田曹長を呼んでもらった。
電話口に上田が出たのか、しばらく近況や昔話を懐かしそうに話していたが、本来の目的を話すと、あっけなく『持っているよ』の返事があった。
しかし、この機器は厳重管理資器材に入っているので上級将校の許可がいるとの回答で、平田は礼を言うとそのまま幕僚長室へ向かった。
幕僚長はさらに簡単だった。話を聞くと習志野第一空挺団の幕僚長を呼び出し、一ヶ月の期間限定で借りることを承諾させた。

午後遅くには習志野から技官と共に二人の空挺隊員が到着し、幕僚長室に装置を運び入れた。大至急ということで急遽千葉から運んだのである。
整備工場に運び込まれたレーザーマックスー3500を前に千葉から来た二人から平田がその取扱を繰り返し習得していた。

平田からの連絡を受けた柊は急遽杭瀬駅前の不動産屋に飛び込み浅井組周辺のワンルームを探した。何軒か廻って、浅井組のある杭瀬本通りから東に一筋入った所にあるウイークリーの六階で窓から組の玄関が臨める一室を借りた。
早速、平田が教師役になって浅井組の窓に照準を当てテストを繰り返した。
難しかったのは浅井組のビルの窓は抗争に備えて全て鉄格子が架かっており、その格子を避けて照準を定める事であったが、さすが柊は特殊作戦群の力量を発揮し、扱いに慣れてくると苦も無く照準を決められるように成った。
窓外を見ると一つ、二つと杭瀬の夕暮れにネオンが瞬き始めた。
準備は最終段階に入った。



実  行


尾行を再開してから八日が経過した。
いつものように鈴木を伴って私服で署を出たのは九時半になっていたが、神田通りに入ると直ぐ、あのベンツの男が接触してきた。
仙田に何事か話しかけると、彼は携帯を取り出し暫らく話すと一旦外して男に話しかける。そんな動作を二回ほど繰り返して携帯を切った。その後暫らく立ち話をしていた男が携帯に何かを打ち込んで、頷くと軽く二人に頭を下げて離れていった。
仙田と鈴木の動きは又通常のパターンに戻っていた。
柊は自分の直感に従って尾行の対象をベンツの男に切り替えて杭瀬に向かった。

ワンルームに駆け込むとレーザーマックスー3500を稼動させ窓に照準を合わせた。ヘッドホーンに流れてきたヤクザの会話、特に関西のそれは柊にとって異次元の言葉でもあった。
録音を終えて平田に応援を頼んだが、彼が課業を終えて杭瀬に着いたのは街のネオンが瞬き始めた頃だった。
事情を聞いて彼は何度か再生を繰り返してメモ用紙に要点を書き出していった。
「これは関西弁にやくざ言葉が入り混じっていて確かに難しいな」
―――柊と同じように習志野から転属した平田も関西弁に初めは戸惑ったが、課業や指導などで一般の隊員と触れ合うことが多く、柊よりはるかに早く関西弁に馴染んだ。
平田はメモを見ながら内容を話し始めた。
『ゆうじと言う配下の男が若頭に報告している会話だな。仙田の非番の時に浅井組の若頭が会いたいと云う要望を伝えて、その非番の日が明日だと云われた事。又、尼崎や神戸ではいつ同僚や知人と顔を合わすかも知れないから、出来れば大阪が良いと言っていた事を報告すると、若頭は大阪ヒルトン三階の和食店に予約を入れる様に指示した内容で、当日は相手も二人だからこちらも二人で行こうと云う内容だな』
二人は目の当たりにする警察官と暴力団との接触に気持ちのざらつきを覚えたが、同時に実行が迫っている事を予感した。


柊はホテルロビーの片隅で仙田が会談を終えて出てくるのを静かに待っていた。
降りてきた時は八時を少し過ぎていた。
エレベーターのドアが静かに開いて、何人かをはき出した後に二人の姿が見えた。入る時に持っていたバッグがアタッシュケースに変わっていた。交渉が首尾良くいったのか二人の顔に浮かんだ笑みからも推測できた。
少し酒も入っているのだろう、ゆっくりとタクシー乗場へ向かって行く。乗り場に7~8組の客待ちがあるのを確認して柊は動いた。
W機関が誕生して最初に買った中古の黒いトヨタランドクルーザー一〇〇VXの後部には実行に備えてジーンズやTシャツ、ジャンパー、目だし帽等に加えて武器や装備品を詰め込んだダッフルバッグを積んでいた。
駐車場を出た時に未だ列の三組ほど後ろに仙田達が並んでいるのを確認して車を尼崎に向けた。
仙田の自宅は阪神尼崎から東に二キロほどの大物(だいもつ)に有ったが、東南警察からは一キロ程度の通勤には便利な官舎であった。
彼らはあの鞄を持って今日は立ち寄りなどせずに真っ直ぐ自宅に戻るだろうと判断して、九時を少し過ぎた頃、官舎の前の闇に車を溶け込ませた。
遅番の者達の出勤も一段落したのか周辺はひっそりとしていた。
柊は後部席のダッフルバッグを開き闇の中で着替えを済ませた。
暫らく待つと玄関口がほんのりと明るくなり、次第にその明るさが増して車が近づいてきた。腰に挟んでおいた目出し帽を被りポケットからスタンガンを取り出し臨戦態勢に入った。
タクシーが玄関口に着くと、仙田が降りて車の中を覗き込み「回り道させてすいません。疲れはったでしょ。これ取り敢えず預かります」アタッシュケースを持ち上げて言った。中からの声は聞こえなかったが同行していた相棒だろうと思った。
「それじゃぁ、お休みやす」中の男に挨拶するとドアが閉まってタクシーが走り出した。車が角を曲がるまで見送って、官舎の中へ入ろうとした時、物置の影から飛び出した柊が俊敏な動きで背後に回りこみスタンガンを首筋に当てた。一、二秒放電の音がしただけで、直ぐに静寂を取り戻した。
倒れ掛かる仙田を肩に担ぎ上げ、落ちたアタッシュを拾い上げると後部席に放り込んだ。
流れるような動きでプラスチックカフを取り出し両手両足の親指を結束していった。
夜の高速は昼間とは違って圧倒的にトラックが多かったが、黒のランクルはその流れに乗って生野を目指した。
慎重な運転で先日の場所に車を停めた時には日が変わろうとしていた。
周りの木々は深閑として空の月明かりでやっと形が見分けられ、山に吹き寄せる風は急速に冬を運んで来たようで冷たかった。


十月の中旬を過ぎて秋の臨時国会は佳境を迎えていた。
渡辺が総理に就任して以来の改革は経済も外交も疲弊した日本の奇跡的な復興に道筋をつけつつあった。
渡辺が公邸に戻ったのは午後の十時になろうとしていた。
応接の扉を開けると、卓上には小鉢やおつまみが並べられ一人内村がテレビニュースを見ていたが誠一郎を見ると画面を切り「お疲れ様でした」と立ち上がって彼を出迎えた。
「未だ何もやっていないのか。先に飲んでおいてくれと言っただろう」
「いや、直ぐにも帰られると思っていたら飲みそびれてしまって」
「俺も直ぐ終わると思っていたんだが、幹事長は意外と腰が重くてな・・・」
「上岡さんは話好きですから・・総理もいつもの水割りでいいでしょうか?」笑いながら、手元のグラスに氷を入れて水割りを作り始めた。
グラスを受け取って、内村の対面に座ると、「今日はご苦労さん」と労いの言葉をかけた。
「でも意外とスムーズに各法案が通りそうじゃないですか」
「そう、思っていたよりはな、でも各論で意見が割れているし、これからの作業部会次第だな」グラスを再び口に運ぶと一気に飲み、内村を見た。
「今朝方仁志さんや弥生さんと話した時に官房機密費は何とか増額しておいて欲しいと無理を言っておいた」単刀直入に切り出した。
「それは有難いことです。それでどれ位要求されたんでしょうか?」
「それがな、多い方がいいと思って現状より六千万多くと言った」
「この前仰っていた倍ですか?・・・それで何と言われたんでしょう?片田大臣は」
「妙に澄ました顔で“何にお遣いなんでしょう”だって」
「何と答えられたんですか」ニヤリと笑った内村が膝を乗り出した。
「当然機密費だから内容は言えないと答えたさ」
「それで納得しました?」
「納得なんかするものか。“お聞かせ頂けないならお出しできません”だと、それも今のお前と同じようにニヤリとして言うんだ」
「それで」
「それで、半分やけくそで、“女にだよ”と答えてやった」
内村のにやりが爆笑に変わった。誠一郎も苦笑交じりに
「すると彼女は“分かりました。何とかしてみます”だって」
全てを呑み込むように言った彼女を思い浮かべて「俺が民自党を飛び出したとき、あの人が一番早く付いて来てくれた一人だったからな」感慨深そうに呟き、話を続ける。
「その後 “もし総理が来日した要人の手土産をもう少し格上げしたいとか外遊で持っていく物をもっと高価なものにしたいとか言われていたらお断りしていましたよ・・・でも高い女性ですわね”って言われたよ」内村が納得したかのように大きく頷いた。
「すごい人ですね。こういうのを清濁併せ呑むと言うのでしょうか?」グラスを傾けながら誠一郎に笑顔を向けた。
「あぁ、そうだな。弥生さん独特の心を読む力と言うか、カン働きというのか、ああいう能力のある人を財務に置いて正解だったとつくづく思ったよ」
「そうですか。それにしてもこの時期に思い切りましたね」
「そうだな、このことは俺なりに色々考えてな。麻薬禍が少なくなることは絶対必要なことだし、何としても小暮君たちを支援しないとな。で、今日はW機関の報告か?」箸を取って小鉢の煮物をつまみながら聞いた。
「そうです。いよいよ実行段階に入るそうです」思わず摘んでいたものを取り落としそうになり、内村を見た。
「ほんとか?そうか・・いよいよか・・・それじゃぁ内通者も特定されたんだな」
「木暮の報告によれば、今のところ一人は特定できたそうです。後何人いるかはこれからの追及にかかっているそうで、二人以上は間違いないそうですが、名前までわかっているのは一人だけということです」あくまで確定したのが一人だったので総理へは一人と報告した。
「やっと一歩前進だな。だが一人特定するのに結構かかるものだな」
「そうですね。でもあの時以来一ヶ月と少しで一応の成果はあったということではないでしょうか」
「そうだな。こういう内通者は異常に用心深いのだろうし、露見すると身の破滅という状況だから止むを得んのかもな」
「はい。これは徹底的に洗い出しておかないと今後の動きにも影響が大きいから今しばらくお待ち下さいと言っていました」
「それはその通りだと思う。充分理解できますと伝えておいて下さい。それより資金は足りているのか」
「それも大丈夫です。報告では車とか住宅の敷金、それに資器材に三百万ほどかかったそうですが当面はそれ以上大きな資金は要りませんと言っています」
「分かった。それから来期の予算は確保できたので必要なものは遠慮無くと伝えておいて下さい」
「喜ぶと思います。どのような展開になるか今から楽しみです」
「楽しさもあるが、反面公機関の人間がどれだけあぶりだされるのか怖い場面もあるし辛い決断が待っていなければいいんだが」後のことを想像しているのか、苦いものでも飲むようにグラスを口に運んだ。
公邸を出る内村の背に明日の晴天を予感させる上弦の月が穏やかな光を投げかけて影を作った。


阪急電車の夙川駅は西宮と芦屋の間に位置し、芦屋と並んで比較的富裕層の多く住む町として知られ、高架駅の下を流れる夙川は南北に延び、六甲山中の剣谷を源流として河口の香露園に流れ込む清流であり、川沿いは苦楽園口駅まで桜の名所百選にも入る三キロ程の堤防が続き、春の一時期は連日堤を埋める花見客の宴で賑う閑静な街である。
北側の小さな改札口から西に向かうと南北に走る幅八㍍程度の道路に出る。そこから山手へ辿ると夙川病院のある相生町が広がり、その堤を東へ2百㍍ほど行くと大井手町に出る。この町に和田兄弟夫婦が百㍍程の距離を挟んで住まいを構えていた。
病院は弟の敏男が設立して、兄の敏一が阪大退官を機に副院長として外科を、妻の洋子が生野から帰って以降再び神経内科を担当する医師として復活の道を歩き始めていた。
残っていた外来患者の診察もほぼ終わり、後を他の医師に任せた兄弟と彼らの妻である志保と洋子の四人が院長応接室に集まった。
「こうして義姉さんに入ってもらって話をするのは何年振りだろう」言葉に滲み出る気遣いが感じられた。
「義姉さんに余計な心配をかけたくなくて今まで兄さんと二人で計画してきた新しい診療所の途中経過を報告しておこうと思って集まってもらったんだ」
「新しい診療所?」洋子が突然の話に二人を交互に見ながら戸惑うように聞いた。
「実はね、もう四、五年になるかな、大震災の後我々の病院も一時はけが人の搬入が多くて手一杯の状況だったのは義姉さんも覚えているよね」当時を思い返して洋子も頷く。
「半年後くらいにやっと落ち着いたが、丁度恵子ちゃんの事故があった頃からPTSDの患者さんが徐々に増えて、最近ではDVや児童虐待の患者さんも増えてきたのはご承知のとおりだ。そのような患者が増えるにつけ、今のままではとても満足の行く診療も出来なくなって・・そこである日兄さんから相談があると言われてね」そこから先は兄さんが話してくれと身振りで頼むと、後を引き取って敏一が話し始めた。
「こんなに神経内科の患者が増えると今のままでは彼らも我々もお互いに不幸になると思ってね。この病院の近くでいい場所があれば、そこに神経内科専門の診療所を造ってはどうだろうかと相談したんだ」
「その時僕は、いい考えだが誰がその新しい診療所を見るんだ?それでなくとも僕達二人で外科も内科も診ているのにこれ以上は無理なんじゃないかと反論したら兄さん何と応えたと思う?」微笑みながら洋子に尋ねた。
「何て言ったの、貴方は」
「兄さんは直接答え難いだろうからな・・・“この計画を実行できるのは土地の手当てから認可まで二、三年は掛かるだろう。今の洋子を見ているとそれまでには絶対に治る。いや治してみせる” と言い切るんだ。本当にそうなったがね」兄弟で顔を見合わせて頷いた。
彼等の仲の良さを実感しながら、その言葉に夫の強い愛を感じた。
「ありがとう敏男さん、それに志保さんも毎日のように夫が学校に行った後自宅まで元気付けに来て頂いて・・私が何とか立ち直れたのもあなた方のお力添えがあったお陰だわ」日頃言えなかった感謝の言葉が素直に口をついて出た。
「そこで先程言ったように四、五年前から土地探しを始めたんだが、半年程前に丁度相続で物納された物件が見つかったんだ」
「何処に?」
「そう、この病院に来る途中、夙川を渡って突き当りを左に行くと、この病院への道だが、それを右に・・そうだね、一分ほど行った左手の松生町にある三百坪ほどの土地なんだ」
「そういえば、朝の散歩のときに見かけたことがあるわ」洋子が相槌を打った。
「それで、その土地を払い下げというのか、病院用地として是非にと何度も足を運んでいるんだが埒があかなくて、例によって官公庁のお役所仕事というか、其の内入札の公示があるから待ってくださいとか、財務省の許可が出ないとか言い訳ばかりでね」遣り切れなさからか苛立ちを隠さずお茶を一気に呷った。
「あのぉ、ちょっといいかしら」今までの話を聞きながら洋子が三人を見て話し出した。
「私もこうして現場に復帰させて頂いて一ヶ月ほど経つけど、本当に精神面を病んでいる方が多くて・・特に恵子を奪われた私にとって、何とかして第二の恵子を出してはいけないと最近痛切に感じ始めていたところなの。そんな矢先に、この様な話を聞かせて頂いて、私・・感謝で胸が一杯で・・・」目に光るものを浮かべて三人を見つめた。
「それだけ喜んでくれれば嬉しいよ。ただ如何せん役所の連中は物分りが良くなくてねえ」悔しそうに呟いた。
秋の陽は静かに山の端に沈もうとしていた。


柊は最後の装備を持って飯田の元隠れ家へ向かった。
人一人を担ぎ上げ、装備品もキャンプセットから銃器に至るまで、これで三度目の往復だった。
特殊作戦群では厳冬期の夜間訓練や七十二時間携行食だけの索敵訓練など過酷な生活の連続の中で疲労と寒さは最大の敵であった。リタイアするものが続出するのもこの時期である。普段の厳しい訓練を経てきた人間がリタイアするのだから、想像を絶するといっても過言では無かった。
そんな過酷な環境を作り出すことで自白剤として良く知られたラボナールやベラドンナと云った入手困難な薬物に頼らなくても、人間のプライドや自尊心も吹き飛ばして逃げ出したくなるような恐怖は極度の疲労と重なって神経が麻痺し体温の低下も重なり、心理的な負荷が増幅し如何に強い神経の持ち主でも同じ様な効果を得られると考えた。
キャンプセットの組み立てから始めて、出来上がったテーブルの上に銃器等準備したものを並べ、沢から汲んだ水を横に置いた。
腰に挟んであった目だし帽を被りヘルメットのヘッドランプを点けると真っ暗な坑内に入って行った。
仙田の肩口を掴むと坑口を正面に見る壁に凭れさせ、その両サイドに手近に転がっているこぶし大の石を三つずつ置いた。
次に彼の背広とズボンのポケットから警察手帳・ハンカチ・タバコ・ライター・鍵の束・携帯・腕時計・財布等を取り出しテーブルに戻った。
「こんなとこへ連れ込みやがってお前誰じゃ?」
やっと覚醒した仙田が男のヘッドランプでほのかに照らされた左右の石を見ながら叫ぶように怒鳴った。
結束された手を後ろで動かしながら「俺が誰か分かってやってるんか?こらっ、返事せんかい」やくざ相手の取調べのように大声を出した。
何も答えず柊はテーブルのグロック十七を取りサプレッサーを装着した。一連の手馴れた動きを見ていた仙田が眼を大きく見開き「それで、俺を撃つ気か?何でや、お前一体誰や?」喚くように叫んだ。
元々、グロック十七は、フレームやトリガー周辺の機構など強度上問題の無い部分にプラスチックが使われ、従来の拳銃に比べ軽量で操作性が向上して多目標を撃つ場合に適しているからであり、その銃が柊の体側から素早く滑らかに弧を描いて上がった。
小さく金属を擦るような音を残して発射された弾丸は仙田の両サイドに置かれた六個の石を正確に弾き飛ばしていった。
仙田は左右を交互に見て黙り込んでしまった。
職業柄拳銃を撃つ訓練はしていたがこれほど早く正確に撃てるのは警察官全体でも見られない能力であることが理解できた。
彼は初めて恐怖を感じた。
グロック十七をゆっくりとテーブルに戻した男が仙田の警察手帳を見ながら口を開いた。
「仙田秀夫さん。ここにあなたのアタッシュケースがあります。中に二千万が入っていました。警察官であるあなたにとっては大金です。どうしてこれを手に入れられたのですか」
ゆっくりだが歯切れのいい声だった。
仙田は不思議なものを見るように黙って男の気配を窺った。
「お分かりで無いようなので少し教えましょう」再び男の口調が戻った。
「私は麻薬というものを憎んでいます。警察に麻薬を摘発してもらおうと塩田組を潰して、お渡ししたのにあなたは其の内の半分以上を隠してその挙句今度は浅井組に売った。それがこのお金ですね。違いますか?」
仙田の頭の中は驚きで占められたが同時に警察官としてのプライドや意識が再び気力を奮い立たせた。
「お前が塩田組を?あほか。お前一人で七人もやれるはずは無いやないか」喚くように吠えた。
十月の中旬といえど生野の山の中は都市部より早く冬を運んできて、夜にもなると寒さがより厳しさを増した上にヘッドランプだけの暗闇に相手の顔も見えず、拳銃を向けられている恐怖が再び襲ってきた。
「仮に塩田を潰したんがお前でも、俺がその薬をくすねた云う証拠はあるんか。何も無いやろ。あるんやったら見せてみい。無実の人間を殺すことになるんやぞ」
「その証拠が無いのであなたに聞いているんです」
「ほれみい。証拠なんかある分けないやろ俺は何も知らん」
「あなたには何を言っても無理なようですね」
柊は立ち上がって静かに傍らのバケツを持ち、仙田の傍に寄って頭の真上から水をかけた。
「クソ・・何さらすんじゃ」凍えそうな冷たさの川水を浴びた仙田が早くも震えを帯びた声で叫んだ。
生野の山奥は早くも都会の冬を思わせる寒さを運んでいた。
黙ったまま坑口に戻る男を目で追いながら服を透して沁みこむ強烈な冷たさに更なる震えが全身を包んだ。男は坑口の横に消えて再び坑内を暗闇が支配した。
「コラッ、何処じゃ、俺をどうするつもりや」襲う寒さと恐怖で震え出した仙田が叫んだ。声が坑道にこだまして静寂が周囲を包んだ。
暫らくして坑口がほのかに明るくなってバケツを持った男のシルエットが見えたが、カフで縛られた手足に感覚は無く、思考も出来ない寒さは経験したことも無い恐怖だった。
上弦の月は天空にあるがその光は周りの木々に遮られ、坑口には僅かに届くだけの世界であった。
ヘッドランプが消され、暫く沈黙が続くと仙田は気力も体力も急速に奪われていった。
何十分経ったんだろうとしびれるような頭で考えた時「仙田さん」頭の上からの声に、飛び上がらんばかりに振り仰いだ。暗闇の中、真上から聞こえる声が不気味に坑内に響き、頭から再び水が浴びせられた。
泣き喚くような異様な声で身体を小さく折りたたんだ仙田が叫んだ。冷え切った身体は更なる川水で冷やされ、寒さは限界を超えた。
「止めてくれ」泣くように出た言葉は弱々しく小さかった。周りが又静寂の闇に戻った。身体は震え、歯が音を立てて鳴った。
冷え切った身体に恐怖と寒さが苦痛を伴いはじめた仙田は諦めを感じながらも迷っていた。
先ほどまでとは違って神経は敏感になっていた。
小さな足音とバケツで揺れる水音も聞こえた気がした。
「仙田さん」またも頭の上から声がした。
死力を振り絞って顔を上げた。「もう止めてくれ。もう堪忍や・・・何が聞きたいんや・・・・」泣くようなか細い声だった。バケツが横に置かれる音がした。ホッとした仙田はがっくりと首を落とした。
「本当ですか仙田さん。嘘は無しですよ」念を押すように言い、ヘッドランプが再び点けられ顔に光が当たると微かな頷きが返った。
拳銃による恐怖と水による暗闇の中の責めは尋常では無く、仙田の限界を遠く超えていた。
直ぐに肩口を持たれて引きずるようにテーブルの横に連れていかれ、小さなキャンピングチェアーに座らされカフが手と足から外された。
男は坑口の方へ歩き右手の窪みに入ると、やがて湯気の立つものを片手に持って戻ってきた。それをテーブルに置くと黙って仙田に押しやった。ステンレスのマグカップに入れられたお湯だった。
取っ手まで熱かったが今の凍るような冷たい手には丁度良い熱さだった。直ぐに慣れて、ゆっくりとお湯を飲んでいた鼻先にタオルが出された。
強烈な寒さは骨の髄まで浸み込み、不安そうに震える手で受け取って上着を脱ぎ頭や身体を拭き始めた。
拭き終わるとテーブルに毛布が乗っていた。肩から毛布をかけて暖を摂ると、やっと少しだけ生き返った心地になった。
目だし帽の男がテーブルを挟んでゆっくりと腰掛けた。テーブル上の拳銃やナイフなどの武器は仕舞われLEDランタンが点けられメモリーレコーダーがセットされた。
「仙田さん、お互いに理解しあえたようですね。それではこれから質問をしますから答えて下さい」一転優しく話しかけるのを黙って聞いていたが、こんな男ほど怖いのも経験則で分かっていた。でも、未だ心中は複雑に揺れていた。
「分かった」下を向いてボソッと呟くように言う仙田には先程までの抵抗力は無くなっていた。
柊はテーブルに置かれたメモリーレコーダーに手を伸ばすとスイッチを入れた。
「では、先ず塩田組から貴方が持ち帰った麻薬がどれくらい有ったのか教えて下さい」
最初の質問は柊が掴んでいる確実な数字から始めた。嘘をつくようだと後の話が信頼出来ないとの判断であった。
「覚醒剤が一袋とMDMAの錠剤が二袋や」
仙田が答えた途端、男は黙って立ち上がると、仙田の背後に廻り込み毛布を剥ぎ取ると左右の手を再び後ろに捻り上げてカフをかけ、元の場所に引きずって行った。
「待ってくれ」やっと口を開いて懇願するように仙田は喚いていた。
水溜りが出来ている元の場所に投げ出すとバケツを持ち上げた。
仙田は恥も外聞も無く泣き出した。
「やめてくれ、二度と繰り返しません。本当のことを言いますから許してください」子供のように大きな声で泣き喚いた。僅かに残っていた希望は完全に無くなった。
再びキャンピングチェアーに座らされた仙田は観念した。どう足掻いても無理だと自覚した。改めてメモリーレコーダーがリセットされスイッチが押された。
「塩田組から貴方が持ち帰った麻薬の量を教えて下さい」再び繰り返された口調が厳しくなっていた。
「覚醒剤が二袋とMDMAの錠剤が四袋です」震え声で応えた。
「東南署の中にいる仲間は誰ですか?」
仲間を売ることに抵抗があるのだろう、苦悶に顔をゆがめていたが
「鈴木という部下と、荒巻という警務課の警視の二人です」
「フルネームは?」一旦話し出すと後は滑らかになった。
「鈴木一郎と荒巻・・淳二です」
「それ以外はいないのですか。例えば政治家とかの話を聞いたことはありませんか」
「無いです。塩田組についてた奴が浅井組に乗り換えたとは聞いたことはあるけれど誰かは知りません」
柊はテーブルで名前の字句を確認しながら要点をメモしていた。
「その警視の方が知っているということは?」
「知っていると思います。塩田組と付き合ってたとき荒巻に聞いたけど、それは聞かん方がええと言われて教えてくれませんでした」
身体はタオルで拭いたので幾分苦痛は無くなっていたが、寒さはどうしようもなく震えが全身に来ていた。
柊は更に質問を次々と重ね仙田達が塩田組から受け取っていた報酬額や、今回の取引の際に浅井組から若頭の下仁田辰夫とボディガード兼運転手の太田雄二が来ていたことを聞き出し、盗聴で聞いた“ゆうじ”と話の辻褄が合っている事を確認して信憑性があると判断した。又、取引の際荒巻と相談の上で渡した覚醒剤が隠匿した量の半分だったこと、それがアタッシュケースの金であること、残りは西宮のロッカーにあること等その全容を聞き出した。
仙田の携帯からは太田雄二の番号を見つけ、それもメモに書き出した。
「大体全部話していただいたようですね・・それでは始めからもう一度話してください」再び鋭く仙田を見つめた。
警察でも自白した容疑者などから話の整合性を確認する為だと理解して素直に最初からの質問に答えていった。
聞き取りが終わった時は三時を既に過ぎていた。
柊は黙ったまま坑口まで戻ってマグカップに熱い湯を注ぎテーブルに置いた。
仙田は震える両手でゆっくりと白湯を口に含みながら考えていた。
やがて顔を上げると毛布を一段と身体に巻きつけるようにしながら、「あのぉ・・・」と呼びかけるように声をかけた。荷物を纏めていた柊が振り向くと
「今思い出したけど、さっき政治家の名前は知らんか言うてたでしょ」
「思い出したのか?」装備を纏めている手を休めて静かな声で男が振り向きながら聞いた。
「思い出したと言うか、チラッと聴いただけなんで、うろ覚えやがヒムロとかオムロとか下がムロ言うのだけは間違いないと思います」
「何とかムロと言う政治家ですね」
「何とかムロ先生も塩田組から移ったいうとったから」未だ暖かい白湯を口に運びながら頷いた。
「言わなければ分からないのに、どうして話す気になったんです」
「これだけ喋ってしもたらもう尼崎では生きていかれへん・・もう俺には何も無いから・・・・」たどたどしく言う仙田にはあのふてぶてしさが消えていた。
荷物をまとめ終わった柊が諭すように「仙田さん、普段は役目をキチンとこなしておられたと思いますが、横道に逸れた償いはしてもらわねばなりません。貴方の言葉を信じてこのまま開放しますが一つ約束して下さい」
「何ですか?」
「今日のことは一切忘れて下さい。それを約束して頂かないと貴方を撃たなければなりません」その言葉を噛み締めて、じっと柊を見詰めたまま暫く動かなかった。
今では塩田組をやったのがこの男だと確信できた。
「分かりました」呟くように応えた。

十月の夜明け前は、朝冷えがきつく寒さがより厳しかった。
山を下りて車に乗ってから何十分走ったのであろうか真っ暗な空が濃い藍色に変化する頃、車が道端にゆっくりと停まった。
ドアが開けられ車から降りた時、ヒーターで暖まりかけた身体が再び冷たい冷気に晒された。未だ目だし帽を被ったままの男が指差す方に眼をやると静かな道が開けたところに黒い建物のシルエットがあり、明かりは駅舎を照らしていた。
「では振り返らないように」静かに念を押された言葉に頷いて歩き出した。
駅前に着いて振り返ったが、見える景色の中には一台の車も無く、街灯は播但線「長谷」駅の看板を照らしていた。


大阪南部地区を統括する信田組々長の部屋では川北組の若頭も務める大崎秀治が宙を見るように上を向き腕組みをして腹心の若頭清水勝次の報告を聞いていた。
川北組の最高幹部会を終えて浪速区にある本拠に戻った大崎は若頭の清水を部屋に呼んで幹部会での話を聞かせた上で、塩田組に殺られた主婦の夫がどのような男か、又男のその後の動向を徹底的に調べろと命じておいたのであった。
“カミソリ秀治”と呼ばれる大崎は、あの主婦殺しが塩田の事件に繋がっているのか半信半疑だった。
「そしたら何か・・その柊という女の亭主は特殊部隊の男やったと云うことか?」
「それもアメリカの特殊部隊でグリーンベレーと云うらしいんですが、それの日本版らしいですわ」
それから清水は柊と云う男が三十一歳である事、女房の葬式の後に自衛隊を辞めたこと、特殊部隊の秘密性等調べ上げたことを報告したが、いつもと違って要領を得ぬ報告になってしまった。
「要するに、わしらで言う出入りの時の切込み部隊か?」
「そうです」強く首を縦に振った。
「要するに殺しのプロやな」自分を納得させて再び腕を組んだ「何としても、そいつを見つけ出せ。ついでにどんな面か写真も探せ。見つけたら勝手に殺らんと連絡だけしろと皆に徹底しとけ」親分の言い分を十分に理解した清水が礼をして出て行きかけると、手を挙げて呼び止めた。
「浅井の兄弟と若頭にも同じように云うとけ」
「はい」素直な返事を残して清水が下がった。
塩田組が殺られた相手に何の報復もしないでこの件に蓋をすることは何としても出来なかった。四万人を従える川北組若頭としての大崎には全国の組長が注目していた。
清水の報告を聞いて、大崎はこの事件の背後には絶対に柊という自衛隊上りがいることに確信に近いものを感じた。極道の世界では“疑わしきは罰せず”ではなく“疑わしきは罰する”の世界であった。
「一体、何人おるんじゃ仲間は」そこに柊がいるかのように呟いた。


西島二郎と二宮圭介は慶応在学当時に知り合い、共に政治に興味を持ち、卒業後の志望も
代議士秘書と目標も重なり親友となるのは必然であった。
西島は元麻布で開業する医者の息子に生まれスマートで背も高く洗練され社交的な青年で、
親の職業柄、医師会を通じて民自党の幹事長であった大沢三郎の紹介で当時彼の懐刀と云われていた今井正之助の秘書として採用された。
二宮は福島の郡山市の出身で柔道をやっていたせいか、ずんぐりとした体形で朴訥な性格だったが、故郷を同じくする福島県選出の民自党代議士であった大下圭一郎に憧れて住み込んだが、彼が二年前に同じ民自党議員であった渡辺と共に党を割った時に第二秘書となり現在に至っていた。
四年前に民生党が政権をとった時二人それぞれの立場は変わった。今井正之助は国家公安副委員長として国政の表舞台に立ち、西島も内政の機密文書に触れる機会が数倍も増えたことで秘書としての重みも増した。
その後二年間、西島の周囲は蜜壺に蟻の如く人が群れ集まり権力と金が作り出す栄華に酔った一人になっていた。
選挙民に対するご機嫌取りのボランティアは遠い記憶に去り、連夜の酒宴に蝕まれ始めた頃、今井と共に呼ばれた宴席で初めてコロンビア大使館の一等書記官を名乗る笹井と、コーヒーやエメラルドの輸入業を始めた金田社長に面識を得たのを境に今井の同席しない時にも接待は続いた。銀座や六本木の高級なバーやクラブでも持ち前の洗練されたマスクは女性が逃さなかった。連夜の宴席で流石の西島は疲れが取れないとこぼすようになったが、見計らったように金田に付き添う秘書の太田から一粒の小さな錠剤を“疲れが取れますよ”と渡された。少し躊躇したが一錠という事と、酔いも手伝って口に入れた。
彼にとってその錠剤は空前絶後の作用をもたらし、疲れは取れ、目くるめく様な空間に誘われた。
それがエクスタシーと呼ばれる薬だと聞かされた西島はその高揚感と多幸感に緊張感も徐々に無くなっていった。
三ヶ月程過ぎた夜の六本木で飲んだ時、太田にエクスタシーを求めたが、あれは結構費用が掛かると柔らかく拒絶されても、金は払うと無理やり頼み込んだ。
金田達がここ数か月、川北組と描いてきた策謀が軌道に乗った瞬間であった。

久し振りに銀座の割烹で接待を受けた西島に「今回の分です」太田がそっと紙袋を渡した。
受け取って財布を出そうとする彼を抑えて西島の目を覗き込んだ。
「西島さん、実は今日は一寸相談がありまして・・・・」
「何でしょう?」
「その薬が毎月無料になる話なんですが・・・」料理を口に運んでいた手が止まった。
「無料?」
「ええ、一寸西島さんのお力を貸して頂きたいことが出来まして・・・」
「何でしょう。私が出来ることなら良いんですが、仰って下さい」月々十万円近い出費がこたえる様になっていた彼は敏感に反応した。
「今度私共が初めてコロンビアからコーヒーとエメラルドを輸入しようとしているんですが、その初取引で手違いがおきまして、こちらの注文より若干数量を多く積んだようなんです。初取引で税関に引っかかると今後に大きな支障が生じかねません・・・そこで誠に勝手なお願いですが、税関なり警察の警備や配備の状況と職員の名簿等を知ることが出来ればありがたいんですが・・・」
西島の頭の中で警鐘が鳴りだした。ボスの国家公安副委員長という立場は公安に関してのマル秘とされる文書や通達書が相当数流れていたが、それらの文書を一存で部外に漏らすのは危険が伴い、犯罪に結びつく恐れは充分に認識できた。しかし依頼はたかがコーヒーとエメラルドの輸入に便宜を諮るだけで国民生活に脅威を与えるような武器とは違うし、彼らの会社に多少の便宜を図るのは許容される範囲だろうと自分流の解釈をした。勿論、あの高価な疲労回復薬が無料になることも計算されていた。
綱紀の箍が外れた。

二宮は二年前に渡辺と共に党を割り新党を立ち上げた時、認められて第二秘書に抜擢された後は愚直な性格の侭役割をこなして次第に信任を得ていた。
党を割ると打ち明けられた時、当時の菅野総理の迷走に大下の怒りが頂点に達しているのを身近に見ていただけに二宮も受け容れた。
分裂した民生党の菅野総理は衆目が解散するとの予想を覆して、総辞職を選択した結果、比較第一党となった渡辺誠一郎率いる自由改革連合が政権を担うことになったのである。
大下が国家公安委員長に就任した引き継ぎの場で西島と再会した時、少し顔色も悪く印象が変わっていたが、これも難局続きで疲れているんだろうと善意に解釈した。

西島は政権を外れて二年近く続く内紛にも薬の供給が途絶えることは無かったが、二宮との行き来は引継ぎ事務の打ち合わせなどで復活はしていた。
休日の今日も昨夜の会食での会話を自宅の寝室で思い返していた。
『最近、今まで便宜を図ってもらっていた税関の職員からの電話で、検閲の強化を徹底するよう通達が廻ってきた事や、急な異動があるらしくて監視部や業務部内はその噂で持ちきりだそうですが何かあったんでしょうか』そう聞かれても答えようが無かった。
二年前の自分の立場になっている二宮から情報を得るしかなかったが、彼の実直さは表面的な情報交換は出来ても詳細に関しては『すまん、これ以上は・・・』と悲しそうな表情で言われると手が出せなかった。
それでも西島は今日も虎ノ門へ向かった。二宮の部屋はいつも綺麗に整頓されているが今日は違った光景を見せていた。
大下が後援者のお嬢さんの結婚式に出席する為に地元に帰った時、国会報告会も併せてやろうと急遽予定に組み入れられて、挨拶文の作成や発送の整理で忙しくなったと、散らばった書類を鞄に詰め込んでいた。
「今日はお前も休みなんだろ。一寸印刷所へ行って帰るだけだから、お前さえ良ければここで一杯やって待っていてくれてもいいんだぞ」と言い残して出て行った。
残った西島はリモコンを持ってテレビの前に座り込んだ。
暫くして、ビールでも飲もうと冷蔵庫に向かった時、ノートパソコンの映像が目に入った。
猪苗代湖と磐梯山の美しく雄大な画面が輝いていた。
消し忘れたのだろうと近付くと画面にはフォルダが数十個並んでいて、いかにも二ノ宮らしくきちんと財務省関係、警察関係と仕分けられて並んでいた。財務省関係のフォルダをクリックすると、二年前まで見慣れていた極秘書類がそこにあった。
暫く見つめていた西島は、読んでいる暇は無いと即座にメールの送信画面を呼び出しアドレス蘭に自分の名を見つけた。急いで件名も本文も無しにフォルダごと添付だけでその書類群を送り始めた。



            粛  清


塚口の部屋で午後三時に起きた柊はシャワーを浴びて真新しい下着に替え、サイフォンコーヒーをセットして杭瀬に行く仕度を始めた。
まだ時間には余裕があったのでコーヒーを飲みながら今朝開放した仙田が気になって携帯に番号を打ち込んだ。
「はい、仙田」ぶっきらぼうな声が聞こえた。
「長谷駅で別れた者です」
「あっ、あああ・・待ってたんや。はよ連絡したかったんやが何も分かれへんから・・この電話待ってたんや」慌てたように言う声は気持ちが滲んでいた。
「何があったのです?」落ち着いた口調で話す柊に「あれから官舎へ帰って直ぐに署へ行って、退官届け書いて荒巻はんに持っていったんや。そしたらえらい怒って『あの金はどうしたんや』言われて、昨日の晩タクシーで別れてからの経緯を話そうとしたら荒巻はんが署長から呼ばれて・・・行きがけに署ではゆっくり話がでけへんから今日勤務が終わって、八時に西宮へ来てくれ言われましてん。どうしましょ・・・」不安の混じった声で訴えた。
「西宮というのは荒巻さんの自宅ですか?」
「そうです」
「仙田さんは自宅には何時ごろ戻られますか?」
「六時ごろには戻れると思います」
「分かりました。私から又電話を入れますから、それまで自宅で待っていてください」
「ほんまに必ず電話くださいよ」懇願するように電話口で訴える。
「約束しますよ」相手を安心させる落ち着いた口調で話すと電話を切った。
合言葉を名乗って平田に連絡を取り、杭瀬で六時の約束を五時半にしてもらった。
柊は銃器棚から昨日使ったグロック十七を取り出すとリビングの椅子に座って分解を始め、洗浄液に歯ブラシを漬け各部の表面を磨き、ウエスを使って丁寧に拭き取り慎重に油を注した。一連の掃除が終わると腰ベルト背面にホルスターを着けた。予備のカートリッジとサプレッサーをジャケットの左右の内ポケットに納めて準備を終えた。
生野での会話を録音したメモリーレコーダーと目だし帽を持って駐車場のランクルに乗り込んだ。

杭瀬の部屋には盗聴器があの時のまま設置されていた。
早速照準を窓越しにセットし直しているところへ平田が部屋に入ってきた。
挨拶もそこそこに柊は尾行の始まりからホテルでの出来事、生野での告白まで詳細を話してメモリーレコーダーを渡した。
平田が感嘆したように「よく短時間でそれだけの告白をさせたもんだ。それも体に傷をつけずに・・・」大きな成果に自分の事のように喜んだ。
「そうですね、思っていた以上にうまくいったと思います。それより、此処に来る前に仙田が心配になって電話を・・・」と先ほどの電話での会話を詳しく話し「今夜のうちに荒巻とも決着をつけたほうが良いと思いましてね」と同意を求めた。
「そうだな、止むを得んだろう」
「それで、この近郊で少々手荒いことをしても目立たない場所をご存じないでしょうか?生野は少し遠いですし・・・」
「うーん、難問だなあ・・公園・・海岸・・山の上・・そうだこの前の塩田組の二人を連れ出したと言う須磨の海岸はどうなんだ」
「あの時は夜中で人気は無かったんですが、今日は八時と言われていて、その時間では厳しい部分がありますね」
時間帯を考えずに言った平田が腕を組んで考え込んでしまった。
暫く沈黙が続いた。時折“八時・・九時・・人が来ない場所・・”呟くような平田の声が聞こえる。突然陽が沈み始めた窓の外を見ながら話し始めた。
「現地の状況を未だはっきりと思い出せないんだが・・・今年の夏休みの初めに娘達を連れて行った六甲山だけれど・・・」思い出しているのか遠くを見るように微笑んで
「ケーブルを上がったところにゴルフ場やホテル、高山植物園、などの施設があって、昼前から一日中遊んでな。最後に植物園で確か五時ごろ閉園の時間ですと言われて追い出されたんだ。あの山の上なら広くて、この時間はもう全部の施設が終わっているんじゃあないか」
「アベックや夜景を見に行っている方も多いんじゃあないでしょうか?」
「確かに人は多いかも知れんが、植物園の裏はゴルフ場だからこの時間は誰もいないだろう。それに人が夜に集中するのは展望台で、目線は外に向かっているから、内側にある植物園の確か西側の道ならブラインドになっていたと思うよ。何しろ山の中で広いから暗くなると結構寂しくて広い場所があるよ」じっと聞いていた柊は平田の意見を反芻しながら頭の中で景色を思い描いていた。
やがて「よし、それで行きましょう先任。悩んでいても仕方が無いです。後は臨機応変にやります」意を決したように頷いた。
携帯に仙田の番号を呼び出した。
「遅いじゃあないですか」悲鳴に似た声だった。
「仙田さん。よく聞いてください。六時過ぎにそちらに伺います。私の車は今朝早くに貴方を乗せた黒のランクルです。貴方はご自身の車で、確か白のホンダシビックでしたよね、それで西宮へ行って下さい。私は後をつけていきます。荒巻さんの家に着いたら何とか理由をつけて一緒に六甲山に向かって下さい」
有無を言わさぬ口調で細かい指示を仙田に伝えて平田に目顔で頷くと部屋を出た。
駐車場に入ると奥のある小さな庭の木の根元から土を両手に掬って洗車の為に取り付けられた水道の横で水と混ぜ合わせた。その泥で車のナンバープレートを隠した。完璧ではなかったが何とか読み取れなくなったのを確認すると、残った泥を車にも振りかけ、乗り込むとナビゲーターを六甲山頂にセットして大物の官舎に向かった。

大物を出た柊の前を行くシビックは国道二号線を西へ向かって走り、武庫川を越えたところで右折し川沿いの道を北に向かった。尚も十数分走ったところで柊がナビを見ると西宮市丸橋町の表示が出ていた。
数分後、門燈の点きはじめた住宅街の一角にある二階家の前で停まったシビックからゆっくりと仙田が降りて玄関のベルを押した。
暫くして女性が玄関に現れ、すぐに引っ込むと変わって男が玄関口に顔をだした。
二人で話し始めて二、三分も話したであろうか男が室内へ消えた。
うまく説得出来たのか仙田が車に乗り込んで煙草を吸い始めた。待つほどの事も無く男が出てきて助手席に乗り込んだ。
百七十一号線に戻ると神戸方面に車首を向けて走り始める。札場筋の交差点で再び国道二号線と合流して西に向かったところで柊が追い越しを駆け、その際にフォーンを一回鳴らした。追い越したのがランクルと判って灘区に入った徳井町で右折するとそれに続いた。
次第に上り坂になって六甲ケーブル下を通り過ぎる頃には車もまばらになってきた。
やがて左手に六甲山ホテルの明かりが見えて、すぐにヘッドライトが六甲高山植物園まで一キロの標識を見つけた。
平田の云っていた植物園の周辺は未だ少しだが車が残っていた。
植物園を通り過ぎてまっすぐに進んだ。特殊部隊の経験とカンだけが頼りだった。いよいよ頂上まで一キロになったところでライトに浮かんだ標識は人工スキー場の案内板だったが直ぐに闇に消えた。即断して思い切りハンドルを左に切りながらバックミラーを覗くとシビックも急ハンドルを切って続いた。流石に未だシーズンが来ていない人工スキー場への道は街灯も消えて真っ暗だった。前照灯が照らす道を限界まで奥に突っ込んだ。
車を停めてライトを消すと柊は目だし帽を被り腰の後ろのグロック十七にサプレッサーを装着した。

ランドクルーザーが急ハンドルを切ったのに続き自分たちの車がそれを追ったのに荒巻は驚くと同時に身体をドアに強く押し付けられながら急速に不安に襲われた。
前の車から男が静かに降りた。
ライトに照らし出された顔が目だし帽を被っていることに驚いて運転席に顔を向けた。
「何だ。どういうことだ仙田」悲鳴に近かった。
仙田はゆっくり車を出るとポケットから煙草を取り出した。
助手席の横に立った男がドアを外からゆっくりと開き荒巻を外に出るように促した。
一連の動きが未だ理解できない新巻は男と手に握られている拳銃を交互に見ながら席を立てずにいたが、再度拳銃の銃口が上がるのを見て、慌てて左足を車外にだした。
「仙田さん。ここからはもう少し奥に入るので、あなたは此処で待って頂けますか。それと私達が奥へ行ったらライトを消してください」仙田をこれ以上巻き込みたくないと言う気持ちと、この道に入ってくる人の目に触れるのを避ける意味でも彼を置いておきたかった。
了解した合図なのか仙田が手に持った煙草に火をつけて深く吸った煙を吐き出した。
四、五〇㍍も入ったであろうか「そこでいいです」と言われ、振り返ると車も視界から消えて二人だけの空間が出来ていた。
天空にある月の柔らかい明かりは仄かに男のシルエットを浮かびあがらせた。
「お前は一体誰なんだ」声に少し震えを帯びていたが目は男の黒い影を正面に捉えていた。
「お知りにならないほうが良いと思います」静かにしかし毅然とした態度と声音だった。
「こんな事をしてお前は警察を敵に廻すことになるんだぞ」威厳を保とうと精一杯の力を込めて尚も影を見据えた。
「そうでしょうか?麻薬に手を染め収賄をしている方から、そのような言葉が出てくるとは驚きです」麻薬、収賄の言葉を聴いた途端、虚勢は崩れて顔は俯いた。
キャリアと呼ばれる警察庁のエリートは、仙田のような叩き上げと違って修羅場を潜った経験が少なく精神面では数段劣るとされているが、荒巻も例外ではなかった。
「私にどうしろというんだ?」それでも口調だけは鋭かった。
黒い腕がゆっくりと弧を描くように持ち上げられ、暗い中から金属を擦るような音と共に火花が見え、擦過音が聞こえた途端それが銃弾だと悟って全ての支えが無くなった。
「公僕と呼ばれて国民生活の安全を誓った方がその信頼を裏切って、どうするかは貴方がお決めになることです」恐れていた現実が顔を出した。今朝出署するなり退官届けを出してきた仙田の行動が少し理解できた。
「終わりですね・・・・私も」後悔と自責の言葉だった。
「残念です・・」
「それで私も仙田と同じ様に退官すれば許されるんでしょうか」
「当然、罪は償ってもらわねばなりません。その前に二、三お聞きしたい事があります。一つは仲間の鈴木さんをどうされます?二つ目は便宜を図って貰われている政治家の方の名前を教えて頂けますか。三つ目は浅井組とは誰と話をされているんですか」
暫しの静寂が戻ったが、やがて覚悟を決めたのか静かに話し出した。
「あの鈴木は、あるとき彼の親友が交通違反をした時、もみ消しを条件に引き入れてしまった・・・悪い上司でした。それから政治家のほうは会ったことはありませんが、確か大室大悟という参議院の男で行政監視委員会に所属していて役に立つと塩田に聞いたことがあります。それに浅井組は下仁田という若頭と話しています」仙田が言っていたのと一致することを確認しながら
「政治家はオオムロダイゴですね。それと浅井はシモニタと云う若頭ですね」
「そうです。塩田が生前“大室はやくざより性質が悪い”と良くぼやいていました」苦いものでも飲んだようにはき捨てた。
「オオムロダイゴはどのような字ですか?」
「大きい室でダイゴは大きいにサトルだったと思います」
「シモニタは上下の下に仁義の仁と田んぼです」覚悟を決めたように淡々と告白する。
「鈴木さんは、どうします」
「私に話をさせてくれませんか?何とか説得して手を引かせようと思います」すがる様な眼差しで訴える姿に、本来は真面目だったに違いない男だろうが同情は覚えなかった。
「・・・・お任せしましょう。上手く説得してください」先程と違って穏やかな声だった。
「感謝します」頭を深く下げて礼を言った。
「では、気をつけてお帰り下さい」全ての告白は録音された。
秋の六甲山上は風とともに肌を刺すような冷気が忍び寄っていた。

杭瀬に帰り着いたのは十一時半を過ぎていた。
部屋に入ると真剣な表情をしてヘッドフォーンを装着した平田が片手を上げて静かにするように合図をした。
十分ほどして平田がヘッドフォーンを外してレコーダーのスイッチを切った。
「お前の名前を知られたようだ」
「そうですか」柊には想定の範囲だったのか一言頷いただけであった。
平田が横に置いていたメモ帳を見て話し始めた。
柊が行って暫くしてから電話が架かって・・・シノダ組の清水と云う男から浅井組の若頭に電話があり、どうやら柊と云う自衛隊上りがこの件に関係しているとして探す様に指示があったことを伝えた。
「多分、その浅井組の若頭と云うのは大仁田と云う名前ですね。先ほど聞いたばかりですから」
「それで、お前の方は意外に早かったがうまくいったのか?」
柊は六甲での顛末を平田に報告して、平田のメモに政治家の名が大室大悟であることを書き込んだ。
「これもとんでもない男だな」憮然とした顔で平田が呟いた。
「塩田組の組長が生前“大室はやくざより性質が悪い”と云っていたらしいですよ。内村秘書官にも気を付けるよう伝言しておいてください」
「分かった。それで東南署内部の粛清は決着がついたと思うが、明日以降お前はどうするんだ」
心配そうな顔を柊に向けて聞いた。
「まだあの覚醒剤とMDMAが浅井組に残っていますからね。出回るのを阻止しなければ又被害者が出ます。浅井組に集中しようと思います」
「分かった。俺はこのレコーダーの内容を纏めて明日幕僚長に報告しておく」と帰り支度を始めた。
窓の外には未だネオンの消えない街が広がっていた。


誠一郎夫妻は久しぶりの休日に公邸の広いリビングルームで寛いでいた。
秋の朝陽を浴びて緑の絨毯を敷き詰めたような庭の芝生も落ち葉が綺麗に掃き清められ、来たるべき冬に備えていた。
食事後のティータイムに誠一郎はコーヒーを妻は紅茶を選んで、新聞各紙を丁寧に読む夫の傍らでは淑子が届いた郵便物を読み始めた時、当番秘書が内村の来訪を告げた。
「まあ、内村さん、さあどうぞお座りになって」淑子が立ち上がりながらソファーを勧めた。
「どうした。急な話か」
「はあ、急というか、早朝に木暮から気になる報告が入ったもので、早いうちにお耳に入れておいたほうが良いと思いまして」
「そうか、それじゃあ応接の方で聞こう」立ち上がって歩きながら妻に「すまないがコーヒーを頼む」仕事に向かう顔に戻っていた。
淑子は誠一郎を見送ると秘書室に向かった。
改めて応接室のテーブルを挟んで向き合うと、「一人特定されたという報告からは久しぶりだが、いい報告か?」期待を込めた聞き方だった。
「はい、まあ、晴れ後曇りといったところでしょうか。厳しいご報告もあります」
「よし、聞こう」
いつも正面から取り組もうとする姿勢が相変わらずそこにあった。
「はい、先ず警察の内通者の処理が全て終わりました」
「処理?と言うと、まさか?」一瞬顔つきが変わった。
「いえ、ご心配になるような殺傷者はありません。木暮の報告では・・・」平田から木暮を通じて報告された生野から六甲にかけての出来事の詳細が知らされた。
「そうか、それは良かった」幾分ホッとしながら聞き入っていた誠一郎が話の内容を吟味しながら内村に語りかけた。
「内村、この前・・・自衛隊の諸君と会って、素晴らしい人材には違いないが彼らの本質は敵と戦うことであって、本番になると相手を潰す為には手段を問わず簡単に殺傷してしまうんではないかと・・・だが、今の報告を聞くと我々の立場も考えた上で安易な手法をとらずに行動してくれているのが良く分かった。彼らを選んで間違いじゃあ無かった」
満足そうに話す誠一郎を見詰めて、自分の事のように喜んだ。
「それにしても内通者がいた現実は否定できないな」
「それも三人とは、私も驚きでした」
「確かにそうだな、これが一つの警察署でのことだから、全国となると恐ろしくなるな」
「地方の警察では余り心配しないで良いと思うのですが、都市部ではその危険性は間違いなくありますね」内村の意見に頷きつつ「それと先ほどの報告の中にどうも政治家が絡んでいるという話があったな?」
「はい、柊君の尋問で政治家の名前が出てきたんですが、未だ何の証拠もありませんので報告では実名は伏せました」
「何、実名が分かっているのか?」驚いたように誠一郎が体を前に乗り出して聞き返した。
「はい、分かってはいるんですが・・・」言いよどむ内村に「証拠は彼らに掴んでもらうとして、誰なんだ?あくまでW機関としてここだけの話にすればいいことだし、俺も知っておきたい」
「分かりました。実は名前だけの報告だったもので該当者が居るのか名簿で調べたところ民生党の兵庫八区の比例で大室大悟先生だと思われます」小選挙区で落ちてもゾンビのように蘇る男であった。
「あの大沢さんの茶坊主のような人か?」痛烈な皮肉だった。
「そうです。丁度兵庫八区ですから尼崎も入ってきますし当時の役職が国家公安委員会副委員長と云うのも疑念を抱かれる材料になります」
「それにしても彼らの浸透振りは聞きしに勝るなあ」
腕組みをした誠一郎も宙を睨んで考え込んでいたが、やがて「この一連の流れから見て、どうも東京まで波及してきそうな気がしてならない。そこでそうなる前に我々も手を打っておこう」
「はい、でもどのようなことを?」
「もし東京に波及してきた場合、ずっとホテルなどでは彼らも窮屈だろう。だからその拠点作りをしておこうと思うんだが」内村を見詰めて問いかけた。
「なるほど、それは彼らも喜びますよ」
「それでだ。あの弥生さんのところに差し押さえとか物納の物件があるんじゃあないかと思うんだ。適当な案件を見つけて欲しい」
「分かりました。明日にでもそんな案件のリストをいただけるように話してみます」
「慎重に、うまくやってくれ」
「エリアは山手線沿線の周辺で絞って良いですよね?」全体を見て進言する内村には、時に助けられることも多かった。誠一郎は黙って頷いた。
「了解です。小暮たちも喜びます」晴ればれとした顔で頭を下げた内村が出て行った。
秋の木々が微かに揺れて、枝から離れた葉を庭に運んでいた。



           凶  弾


今朝の大阪はどんよりとして今にも雨が降り出しそうであった。
JR大阪駅から真っすぐに伸びる御堂筋を南に走り、中ノ島の市役所を過ぎると黄色く染まった銀杏並木が続き、左右に商業ビルが約三キロに亘って林立し、東京と並ぶ大都市の雰囲気が漂う。東西に走る長堀通りと交差する頃から景色が変わり世界のブランド店が軒を連ね、右手にホテル、左手に百貨店を擁する心斎橋を過ぎた頃、正面に高島屋ビルが見えてくる。ミナミの中心地難波である。
手前の千日前通りを右折すると直ぐに大阪シティエアターミナル(OCAT(オーキャット))を臨む再開発都市が出現する。一九九四年まではJRの操車場を含む湊町という名の駅で薄汚れた操車場の印象が強く寂れた町であったが、同じ年に開港された関西国際空港へのアクセス拠点として難波駅裏にあった大阪球場とともに難波再開発地区に指定されて近代的な街に生まれ変わってきた。
その一角にミナミの歓楽街を取り仕切る信田組も拠点を移していた。
今や川北組の若頭を務める信田組は戦後の荒廃期から地元に根付いた暴力団で、九年前大崎が組長に就任して以来急速に勢力を拡大し、準構成員まで含めると二千九百名を擁する川北組の中でも一、二を争う集団に成長していた。
一階の洋室広間に信田組若頭の清水以下幹部十二名が長いテーブルを挟んで揃い、大崎が五階の自室から降りて来て席についた。
清水は簡単な挨拶の後、テーブルに置いていた資料を手にして淡々と組長からの指示を伝えて行った。
一.八月に東京でCOLOMビルが竣工したのを機に一挙に物の輸入を増やそうと名古屋を拠点として計画している事。
二.二日後に向こうで船積みを始め、三週間後に日本に着く事。
三.量は過去最大となる100㎏になる事。
四.そのためには税関検査官で情報提供者になった者を利用して徹底的に安全を期す事。
  (これまで西島からの情報で、各港の検査官達の家庭の事情や本人の素行が洗われ、買収されて情報提供者に仕立て上げられていた)
その後細かな指図と打ち合わせが一時間ほどかけて行われた。
全て口頭での伝達で、書類は全て回収して焼却されるいつものやり方であった。
純粋のヘロイン百キロと云う過去最大の量に、組の総力を挙げて慎重に計画が立てられた。
「よし、みんな気張ってくれよ。今日はこれまでにしとこ。頭、お前は一寸残ってくれ」全員を見渡して組長自ら締め括った。
幹部が退室するのを待って組長が若衆にコーヒーを頼んだ。
「まぁ座れ」と立ったままで居る若頭に声を掛けた。
「あと三週間や、気抜いたらあかんぞ。・・・・それとあの自衛隊崩れの方はどうなっとる」
薬の入荷も重大事であったが、柊という男の存在が喉に刺さった骨のように気になっていた。
「浅井のほうは三十人ほどで尼崎の周辺を聞き込みに廻らしてるそうですが、未だ何も報告は来てまへん。うちも二十人ほど伊丹に入れてますが、これも未だ掴めてません。それと浅井の頭が昨日一寸気になる話を電話してきまして・・・」
「下仁田が?」
「へえ、頭がサツの犯人探しがどの程度進んでいるか聞き出そうとして連絡したんですが三人とも休んでるそうで・・」
「三人ともか?」
「へえ、頭はまあ偶然やろ言うてましたけど・・」
「偶然やったらええけど、ちごたら残りもお釈迦になるぞ」
そう言うと腕を組んでじっと考え込んでしまった親分をただ見詰めるしかなかった。
その時若衆がコーヒーを持って入ってきて、そっとテーブルに置いて出て行った。
「浅井の兄弟の女はまだあの新地の女か?」唐突な質問だった。親分の真意を推し量るように「へえ、確かまだ続いてるようです。この前も頭がこの頃夙川通いが多なって、姉さん宥めるのに苦労するゆうてぼやいてました」
「あいつものめりこむからな・・・それでや、一寸前へ寄れ」コーヒーを口に運びながら勝次と膝を突き合わせるように屈みこんだ。
「あの自衛隊崩れが塩田をやったとしてや、動機は何や?」
「そら、嫁はん殺られた仕返しですやろ」
「それだけか?」
「それしか思いつきまへんけど」
「わしも始めはそう思てたんやが、何か他にもあるような気がしてしゃぁない、気廻しすぎかも知らんけど浅井の兄弟にこっちで勝手にガードつけたろと思てる」
「浅井の親分には二人ほどついとると思いますけど」
「それとは別にや」
「別?」
「そや、どうも・・あの自衛隊崩れが浅井を殺るつもりと違うかという気がするんや。それで殺るとしたら女の部屋へ行く時が一番甘なるやろ」
「へい、そこまでは判りますけど・・」
清水は親分が何をしようとしているのか見当がつかなかった。
「ええか、浅井にも判らんようにマンションの傍で車の中から見張らして、もしガードが殺られてもこっちの人間がやり返せるようにしとくんや」やっと全体が見えてきた勝次が
「それでうちの誰を行かせます」と問いかけた時、大崎が腕を組んで考え込んだ。
やがて腕をほどいて煙草を咥えた。清水が火をつけると「やめとこ。信田の人間を使うて、下手うちよったらこっちの立場が立たんようになる。しかし、その男が何処までの男か見てみたい気もするから、この話そのまま下仁田にしたれ」
「若頭にでっか?」
「そうや。俺が浅井の兄弟を心配してる。頭の一存で誰か口が堅い運転のうまい男にチャカ渡して親分の車にガードつけたらどうでっかと教えて下仁田の手柄にしたれ」
勝次は全てを呑み込み笑みを浮かべて頷いた。
「それと、車は自分の車かレンタカーで行かせて、毎日同じ車は使わすなよ。頭のええ奴やったら気づかれるかも判らへんしな。もしそいつに女がおるんやったら一緒に横に乗せとけ」
「女と一緒に?ですか?・・そうか、夜やから見つかってもデートで済みまんな」
「判ったか。それで騙せるかどうか判らんけど、まあ何もせんよりはましやろ。ええか今日からでも行かせろ」
「判りました。直ぐに頭に伝えます」そう言うと軽く頭を下げて部屋を出ると、その場で下仁田に連絡を入れ、そちらへ出向く旨を伝えて電話を切った。


同じ頃、杭瀬の浅井組も三階にある広間に朝の九時から幹部が招集され、左右に幹部達五人ずつが並ぶ中、組長の浅井鉄男が床の間を背に座った。
ここでも信田組と同じ伝達がなされ各組員の持ち場分担が細部にわたって打ち合わされた。
幹部会も終わりに近づいたころ
「頭」若中の島田が下仁田に問いかけた。
「今度の荷はこの前と同じように麻の袋で来ますんか?」
「そう聞いとる。しかし今度の袋は何百と積んでくるから、見分けやすいようにドンゴロスに表示してる線の色で分けてるらしい。わしらの荷は赤・黒・赤に変えてあるということや。それが十個あるから、それだけは検査から外させる段取りになっとる」
暫くの間はそれぞれが額を寄せて問題点や今後の行動のすり合わせをしたり、疑問点をぶつけ合って時が経っていった。
全員の打ち合わせが一段落した頃合いを見て「今日はご苦労さん。終わりにしょう」締めくくった下仁田は全員部屋を出て行くのを見送って親分に向き直った。
「信田の親分が塩田を殺った奴が次に親分を狙うかもわからへんから気をつけるように言うてはったらしいですわ」
「兄貴が?兄貴も心配性やな」
「いつもの二人つけときますわ。今日も夙川でっしゃろ。でもたまには姉さんとこにも帰って下さいよ、わしがきつう怒られて・・一応今は組が忙しい時やから我慢して下さい言うてますけど・・」
苦笑いを浮かべる浅井には若頭の苦言もあまり効いていなかった。
「それと、忘れんうちに親分にお願いがあります」
「何や?」下仁田の改まった口調に笑いを引っ込めた。
「大室先生に連絡とって、あの柊と言う男の写真が手に入らんか、という事と、察の仙田と荒巻それから・・・鈴木か、そいつらの経歴とか、身元の分かる書類と塩田の捜査本部の報告書を手に入れて欲しいと頼んでもらえまへんか?」
「あいつらか?・・けど自衛隊の方は政権に座っとる時やったらいけたかも判らんけど、今の民生党は相手にされへんのと違うか。察の方は未だあの先生が行政なんとか委員いうのやっとるから何とかなるかも知れんな。判った、とにかく昼からでも電話してみるわ」
「よろしくお願いします」潮時を感じた下仁田が腰を上げて部屋を出て行った。


向かい側に建つワンルームでは柊が緊張した面持ちで頭にヘッドホーンをつけてレーザーマックスー3500から流れる声を拾っていた。
昼近くまでかかった会議も全容が綺麗に録音されていた。
内容も驚嘆すべき収穫をもたらしたが同時に不安な要素も加わった。
仙田たち三人に対する指示が出されたことである。
このままでは必ず追っ手が掛かることは必定だった。
柊は携帯を取り出し生野で仙田から聞き取っていた雄二の番号を押した。
一階で雄二が着信音にディスプレイを見ながら首を捻った。番号非通知の表示が出ていた。
「もしもし」相手の反応を窺うように応答した。
「雄二さんですね。下仁田さんに変わってもらえませんか?」初めて聞く声である。
「誰や?」
「探しておられる麻薬の件で下仁田さんと話がしたいんです」
「麻薬?何の事や。それよりお前誰じゃ、名前も分からん奴を頭に繋ぐわけにはいかんのじゃ。名前言わんかい」大きな声が出た。
親分と話が済んで丁度一階へ降りてきた下仁田にも声が届いた。
「雄二、何や?」階段を降りながら声をかけた。
慌てたように雄二が携帯を上げて「誰かわからん奴が、探してる薬の件で頭に話がしたい言うとるんですわ」
「探してるヤク?わしの名前知っとるんか?」下仁田はこの時期に薬の件で話があると云う相手に興味を持った。
頷く雄二の手から携帯を受け取り「お前誰や?」低い威圧感のある声だった。
「若頭の下仁田さんですね。私、木辺と申します」
「キベ?どこのキベや?」
「この前荒巻さんや仙田さんのお二人にお会いして、あなたから頂いたと云う二千万円と、それに添えて白い薬を一袋と綺麗な色をした錠剤二袋を頂きまして・・あなた方には同じ量のくすりを大阪のホテルで渡したと聞いたものですから、それを私にお譲り頂きたいと思ってお電話しました」下仁田は気持ちの昂ぶりを押さえ込んだ。
「それで、どうしたいんや」静かに尋ねた。
「ですから、私にお譲りいただきたいと申し上げているんです」
「ほう、買いたい言うんかい。なんぼ出す気や?」
「お譲り頂きたいと言うことは、勿論無償でと云うことなんですが」下仁田が切れた。
「おんどれ、何処の組のもんや。この組に喧嘩売っとんのか」
「そんなに怒らないで下さい。貴方とお話がしたくて電話したんですが、又改めてお電話します」あくまで冷静な声であった。「待たんかい・・」電話は切られた。
「くそ・・・」電話を大田につき返すように渡すと、側のソファーに座り込んで煙草に火を点けた。

改めて盗聴器を一階に向け照準を定めてヘッドホーンをつけると突然下仁田の声が飛び込んできた。
手下に向かって怒鳴りあげるように、柊探索の人数を増やして聞き込みの時にキベという男も探させろと指示を出した。
何とか荒巻たちへの追求が少しは緩みそうな内容にほぼ満足した。
しかしながら、同じ様に開かれた信田組での会議の後で“カミソリ秀治”の“何もしないよりはましだろう”と軽い気持ちで浅井組の組長に組員以外のチンピラがボディガードに付けられたことは知る由も無かった。
メモリースティックから再び会議の全容をじっくりと聞き、メモを採った柊は今後の行動を頭の中で整理し始めた時、平田がコンビニの袋を抱えるようにして部屋に入ってきた。
「あまり時間がありませんので、簡単に説明します」そう言って朝の会議以降の出来事をかいつまんで説明してメモリースティックとメモを渡した。
「要点はメモに纏めましたが、内容を聞いて、書き漏らしがあれば補足して頂けませんか。収穫は多いように思います。私は組長が夙川へ行く時間なので、今から尾行してみます」
「判った」
「明日幕僚長に報告しておいて下さい。W1と2にも動いて頂かねばならない事も含まれていますから」言い残して出て行った。
平田は温め直したコーヒーを飲みヘッドホーンを調整しながらメモリースティックを再生させた。
聞くほどに飲む手が止まり、メモ帳を手にとって流れてくる会話に集中していった。


熊井陽介は黒いトヨタbBの車内で油紙に包まれ膝の上に置かれた拳銃を見つめて、これまでの出来事を思い返していた。

遊び仲間の雄二から突然の電話で「うちの頭がお前に会いたい言うてはる」と呼び出されて浅井組に出向くと、何回か見たことがある下仁田と一人の男が奥の席に座っていた。
二人が近づくと、その男が入れ違いに出て行った。
目の前には全国一と云われる組の中で武闘派として知られた若頭がいた。
彼から組の為に一仕事してもらえないかと言われ、一瞬鉄砲玉かと思ったが、内容を聞き終わると陽介は二つ返事で引き受けていた。
若頭が机の引き出しを開け茶色の紙に包まれた拳銃と封筒を取り出して黙って差し出した。
拳銃はトカレフTT―33モデルだった。第二次大戦中のソビエト陸軍が過酷な気象条件の下でも耐久性が高く、弾丸の貫通力が優れている事と極寒の中で手袋をしたまま射撃できる事を優先して制式拳銃とされ、その後中国を始めとする共産圏でコピーが大量に生産され日本にも多く密輸入された。外見はコルト1903にそっくりであるが、何と云ってもこの拳銃の最大の特徴は暴発を防止するための安全装置の省略であった。

黒い窓に人影が写って、思考が中断された。
二週間ほど前に尼崎の繁華街でナンパして彼女にしたばかりの美保であった。ピタっと肌に密着した青色に金のラメが入っている極端に丈の短いワンピース姿で助手席に乗り込んできた。「お待たせ」にっこり笑って陽介を見た。
やくざを見てもカッコ良いと公然と言うだけあって陽介の生き方を認める初めての女であった。
「こんな場所に呼び出してどうしたん。杭瀬か尼の駅前やったらええのに。見つけるのに苦労したわ」突然の呼び出しに抗議するようだった。
周囲の街灯が歩道を照らし始めた時、浅井組から何人か走り出て、門扉が開かれるとベンツCL65AMGlongの黒い車体が滑り出てきた。
組員が両手を膝に当てて見送った。
陽介が車を追おうとサイドミラーを見ると、それまで後ろに止まっていた黒いランドクルーザーが先に発進してトヨタbBの横を走り抜けた。間に一台が入る形になったが憧れのベンツを見失う筈がなかった。
「あの車を追うの?」無邪気に美保が聞いた。
「そや、お前も将来あんな車に乗せたるよ」言われて再び前に目をやった美保が「あんな戦車みたいな車、私あんまり好かん。どうせやったら・・・」
「あほ、前の車と違う。その前に居るベンツじゃ」最後まで言わせず笑いながら答えた。
国道二号線から西宮の市役所通りで右折して、しばらく行くと山手幹線との交差点で左折した。その頃には陽介は前のランドクルーザーがベンツをつけているのではと疑い始めていた。
ベンツは阪急夙川駅の信号を右折して相生町に入った。少し走ると道路灯だけが光る闇に救急指定病院の赤い点滅ライトが鮮やかに浮かぶ夙川病院の前を通り過ぎて右にウインカーを出した。後をランドクルーザーもついて行くのを見て一瞬陽介は躊躇したが、やむを得ず後に続いた。しばらく走るとベンツがスピードを落とした。狭い道路で三台の車が間隔を狭めて縦に並ぶように走ったが突き当りでベンツが左側に寄り大きなマンションの入口に車を寄せた。ランドクルーザーは逆に右に曲がってそのまま通り過ぎてしまった。陽介はライトを消して路肩に車を寄せた。トヨタbBの小さな車体はこういう場合は便利であった。
「何時ごろまで此処に居るん?」突然、美保が腕時計を見ながら訊ねた。
「頭は十時ごろまでは見張っとけ言うてたけど・・・」
「十時?未だ二時間以上あるやん」車内に流れる音楽に合わせて軽く身体を揺らしながら陽介を見る。
「まあ、しゃあないやろ」言いながら美保の前に身体を入れて助手席のシートを倒した。
「こんなとこで何すんのん」思わず声を上げたが満更でもない行為に含み笑いでごまかした。黙って陽介が倒れた美保に被さった。
周囲は公園の木々に月の光も遮られ、街灯の淡い光だけが車のシルエットを芝生に模った。


杭瀬に戻ったのは八時を過ぎていたが平田は未だヘッドホーンをつけて録音の再生に集中していた。傍らに未だ置いてあったお茶を取って一気に飲んだところで「すごいな。これは直ぐにでも幕僚長から東京へ報告してもらって、対策を講じなければ」と目を輝かして言った。
「麻薬の摘発と、内通者の処理。相当忙しくなりそうです」
「三週間か。実質我々には二週間少ししか残されていないな」
「そうです。船の特定や何処の港に入るか、誰をマークするか、こちらの作戦をしっかり立てないと・・・」
「確かに。それで先ほど夜分に申し訳なかったが幕僚長に電話をして明日朝一番に時間を頂いたよ」言いつつメモリースティックをポケットに仕舞い込んだ。
「それは良かった。早ければ早いほど対策が出来ますから」
「よし、そうと決まったら俺は帰るぞ。そうだ、そっちの首尾はどうだった?」
「ええ、まあ今日は夙川の場所の確認だけですから」何事も無かったように淡々と答えた。


幕僚長室のソファーを挟んで平田と向き合った木暮が朝早くからメモリーを再生させてじっと聞き入っていた。
外は昨日までの秋晴れが消え去り霧に煙った秋雨が朝早くから降り続いていたが営庭では日課である中隊の行進が掛け声高く続けられていた。
やがて聞き終わると深くため息をついてソファーに背を預けた。長い沈黙の時が二人の間を支配した。
木暮がテーブルに置かれている報告書を取り上げて、初めから内容を目で追っていたが、それをテーブルに戻すとじっと平田を見つめた。
「良く録れたな」一言呟いた。
「はい」木暮の目を真っ直ぐ見つめ返して頷いた。
木暮はソファーから立ち上がって部屋の中を歩き始め、時折立ち止まって考え込んでいたかと思うと又歩き始めた。
そのまま営庭が見える窓際に立つと歩調を合わせて訓練をする中隊の一糸乱れぬ行進を見ながら携帯のW2のボタンを押した。
「W3」短く打ち合わせ通りの略称を名乗って話し始めた。
営庭を見ながら柊たちの六甲以来昨日までの活動を要領よく話していた木暮が、押し黙って聞き役に廻った。
やがて、「何時ならいいんだ?」と言って腕時計に目をやり「判った」と短く返事をすると電話を切った。
暫くそのままの姿勢で窓外を見ていたが、やがて振り向くと
「それを貰おうか。俺が今日持っていく」
平田が報告書と共に手渡すと「夜八時以降なら総理も手が空くからお前も来てくれだとさ」苦笑いのような微笑を浮かべて言った。
「自分もそれが良いと思います。今後の為にも重要な局面ですから総理と膝を交えて話されるほうが、より具体的に計画が立てられると思います」
「そうだな。それで今日の午後の予定は全てキャンセルしてくれ。明日の午前中までな」張りのある声で平田に指示を出した。
即断即決木暮の行動力はいつもの事で驚かなかった。

第三師団を出るときに降っていた霧雨は東京駅に着いたときは道路も濡れていなかった。
八時の公邸は夜の帳の中で静かな佇まいを見せていたが、誰も寄せ付けない厳しさを兼ね備えていた。警視庁警備部が守る門衛に身分を名乗ると既に連絡があったのか身分証の提示だけで敬礼を以て迎えられた。
親友同士打ち解けた挨拶を交わすと、内村が先にたって奥へ案内する。リビングを兼ねた応接のような部屋に通されると総理夫妻が立ち上がって出迎えていた。
テーブルには木暮のためにであろうか簡単なサンドイッチや小鉢が並べられ、ウイスキーの水割りも出来るようにアイスペールが置いてあった。
「それではお仕事でしょうから私はこれで失礼します」淑子がにこやかな微笑で頭を軽く下げて部屋を後にした。いつもながら自然に備わった仕草は凛とした中に気品があった。
木暮も立ったまま静かに頭を下げた。
「さあさあ木暮君掛けて、ゆっくりして」内輪の様な気さくな声がかかった。
「はいありがとうございます」横で内村が水割りを作り始めた。
「内村から、生野での出来事から六甲までの仕事は報告を受けていますが柊君はこちらの意図を良く汲んでくれて満足しています。感じるのはもう一人くらい居ると、もっと遣り易いのにと、それが気に掛かっています」
「確かに仰るとおりです。しかし彼くらいの資質を備えた隊員となると難しい問題ですが、それよりも敢えて言わせて頂くならむしろ専門職で彼を支える人間が欲しいところです」
「ほう専門職?・・それは?」
「はい。今回もそうでしたが例えば電気、通信に強いとか他に法律、武器、張り込みなど数えれば限がありません」
「なるほど、彼の足りないところを補える人間ですね」
「そうです。それも若くて優秀な人材が・・」木暮の言うことに実感が籠っていた。
「予算も増えたことだし、今後の課題ですね」それとなく木暮の心配を拭うように予算の強化を伝えた。
「そう、今内村が言ったように予算もあと二、三人は増やせる目途が立ったんだ。木暮君もその点は心配なく候補を上げてもらっても良いと思いますよ」
「ありがとうございます」この機関にかける二人の思いを重く受け止めた。
「それで、内村の話では緊急の報告があるとのことだが?」
誠一郎はテーブルに置かれたグラスを掴んで聞いた。
「はい。報告もそうですが、今日お持ちした録音を聞いて頂いた上で対策を立てる必要があります」確信した物言いでダレス鞄からレコーダーを取り出しメモリースティックをセットした。
「これはこの前に壊滅した塩田組に変わって縄張りを仕切る浅井組で昨日行われた幹部会の録音です。聞き辛い部分もありますが重要な内容が含まれて居ます。これをお聞き頂いた上でご相談したいと思っています。少し長いと思いますがよろしいでしょうか」
誠一郎は黙って頷いた。
静まった室内に音声が流れ、三人がグラスを持って聞きやすい姿勢をとっていたが途中からは飲む手も止まりソファーに預けていた身体も起こして聞き入った。
音声以外は水割りの氷を溶かす音だけが微かな音をたてるだけだった。
やがて、部屋の正面中央に据付けられた壮麗なドイツAMS社製のホールクロックが十点鐘を打った。(貧しかったウィティントンがロンドン市長として上り詰め英国ボウ教会に贈った故事に倣って支援者が末永く総理の座が続くようにとの願いをこめて誠一郎に贈った時計であった)その音色も聞こえなかったように「これは・・・」絶句して誠一郎は言葉を呑み込んだ。政府にとっても重大な恥部が暴露されたのである。
打ち合わせたように全員がテーブルの水割りを一気に飲み乾した。
「この様な事は現実なのか?」未だ信じられない誠一郎は愕然としたように呟いた。
「お聞きになった通りです」木暮も冷静さを保とうとして声を抑え、鞄から書類を取り出し二人に配った。
「これは、柊たちが録音を纏めた報告書です。我々はこれらを全て検証しなければなりません」書類に目を通しながら誠一郎は苦悶の表情を浮かべていた。
「麻薬百キロというと、幾ら位になるんだ?」素朴な疑問を投げかけた。
「詳しくは無いんですが以前調べたところでは、末端価格でグラム六万円位が相場らしいですから・・・ざっと六十億と云ったところでしょうか」内村が柊の活躍を聞いた後麻薬に関する調査を引用して答えた。
「六十億と言ったか?」驚きの目で聞き返した。
「はい。しかもこの麻薬が純粋なものなら末端に行くほど混ぜ物がされて量が何倍にも膨れ上がるそうです。したがって百億になると言われても不思議ではありません」
「それが、わが国を汚染するのか?」誠一郎は耳を疑った。
「よし、それでは彼等のレポートを吟味しながら対策を相談しよう」強い決意の表情を浮かべて二人を見やった。
木暮と内村がそれに応えて頷いた。
「そこで、先ずこの百キロと云うとてつもない量の麻薬を何としても阻止しなくてはならないが、入港日とかどの船でくるのか特定出来ていないわけだな。どうすれば良い?」
「先ずやれることは輸入申請のチェック、それと船舶無線の傍受や監視の強化、税関での検査強化、でしょうかね」内村がすかさず答えた。
「それに当然のことだが、警察にも警戒させなくてはな」誠一郎が締めた。
「それでどうすれば良いんでしょう?それぞれの担当にこの録音を聞かせる事は出来ないですし、このレポートも同様でしょう」内村が自分なりの懸念をぶつけた。
「そうだな、そこがポイントだ。どうして我々がこの情報を手に入れたか、それを突かれると返す言葉が見つからないし、レポートも信じさせるには自信がないな」正しくW機関のウィークポイントでもあった。
「少し強引ですが・・・内村君のところに内部告発があったようにしてはどうでしょう。それに提供者の秘匿義務があると惚けるのが上策かも知れません」二人が木暮の発言にじっと考え込んだ。
「それしかないか」内村が言いながら総理を窺った。
「ウーン、告発者は何故警察や検察に送らないで総理秘書官に送ってきたんだ?という質問は必ず出るだろうし、内容の信憑性に疑問をぶつける人にはどうする?」
「それは、録音の生々しさを信じて行動するべきだと強引に持っていくしかないでしょう」同意を求めるように言った。
「そうだな・・・それと内村。お前この録音をダビング出来るか」
「ダビング?・・・それは出来ますが・・・」
「それなら、この録音の中の大室さんそれと今井さんの秘書の・・・」名前を思い出さないのかレポートを捲りながら「西島だ。この二人が入った部分は皆さんには聞かれないようにして欲しい。まだ確認できたわけでも無いしな」
「そうですね。西島が関わっているにしても今井さんまで関わっているとは限りませんね」
「そうだ。人は外面だけでは分からない。麻薬で身を持ち崩すこのような男と今井さんの人柄とは私にはどう考えても重ならない」
「確かに。それで、関連の方との打ち合わせは何時やられます?」
「明日の予定はどうなっている?」
「明日は参議院の予算委員会で医師法改正の関連質問が入っています。終わるのは五時の予定ですが、その後は特に入っていません」手帳も見ずに答える内村を見ながら、
「それではこうしよう。七時から夕食会をしたいと言って、先程上げた関係の方々と連絡を取って来てもらってくれ。それと税関の関係は・・・」
「財務省の管轄になります」迷うことも無く内村が応えた。
「すると、弥生さんか。いいだろう」にやりと笑いながら頷く。
「それに官房長官にも入ってもらおう。仁志さんも頼む」全体の調整役として指名した。
「判りました、場所は公邸でよろしいですね」短く念を押して手帳に書き込んだ。
「麻薬に対する対策は、明日食事をしながら細かい点を詰めるとして、議員の方はどういう方法を採れば穏便に済むのだろうか」
「それですが、今井先生は当分放っておいて秘書の西島を洗う必要がありますね」
「そう。でも誰に探らせる?」
「よろしいでしょうか?」木暮が飲んでいたグラスをテーブルに置きながら二人を見た。
「議員の方は今すぐに実情を掴むのは難しいと思いますが、秘書の方はそう難しいとは思えません。そこで公安の方にお願いするのが妥当なのかと思います。公安は司法強制権が無いと聞いていますが、その調査能力は抜群だと聞いています」整然と話す木暮に頷き
「なるほど。・・・内村、時間はあまり無いが君が中心になって彼の経歴や周辺調査を至急やってくれないか。使えるものは誰を使っても良いが・・・その後で法務大臣と相談するか、公安の大下委員長に相談するかを決めよう」
「総理・・・」慎重に考え込んでいた内村が誠一郎を見て
「公安調査庁を使う場合、法務省の管轄ですから大臣の許可が要ります。でもうちの調査室を使う場合は許可が要りませんし、彼らは全員が公安出身ですからその能力は同等以上です」阿吽の呼吸と云うのか、内村の要所を抑えた指摘に非凡さを実感した。
「そうか、内調があったな。分かった君が恩田君と相談して動いてくれるか?任せたぞ」誠一郎の決断は早かった。
長い夜を迎えた公邸の庭に霜月の影が落ちた。


柊は今日も夙川にいた。連日女の元に通う組長がこの日も行くと予測した。杭瀬を出る時、空は今にも降りだしそうに曇っていた。昨日の黒いトヨタbBが気持ちの中で引っかかっていたことと、何とかあのマンションへ侵入できる手段は無いのか今一度探っておきたかった。
泣き出しそうな空が小さな雨粒を落とし始めた。前を通り過ぎ、建物の外観や造りを観察した。重厚な感じで濃いブラウンの色に統一された姿は高級なイメージを与えていた。
駅前の駐車場に車を置き、徒歩でマンションに向かった。大きく周囲を廻り、少し離れた桜の陰で眺めると三階建の全体が庭に植えられている樹木の中に美しいシルエットを見せていた。
闇に包まれた木々を隔てて50㍍ほど先に一台の白いホンダオデッセイが停まって、中に二人連れの影が窺えた。静かな河畔でのデートには人通りもほとんど無く格好の場所であった。所々に設置された外灯がその下をほの白く照らすだけで、少し離れると顔の見分けがつき難く輪郭だけになった。
やがて雨粒が次第に大きくなり、周囲の木や建物を隠すような篠突く雨に変わっていった。
昨日と同様に七時半を過ぎる頃マンションの中に消えてゆくベンツを見送り、雨をジャケットで避けながら夙川駅へ戻ろうと踵を返したとき、左横の白いホンダオデッセイの側から微かな音を捕えた刹那振り向きざま横に飛ぶと同時に乾いた拳銃の発射音が聞こえた。雨音が音の大半を消していた。倒れた位置は発射地点を左斜め後方にしてしまったが特殊作戦群で培われた訓練と動物的な勘は生かされて、柊は地面に伏せたまま動きを止めた。反応して直ぐに動くと第二、第三弾が予測される事と、伏せたままの方が的としては小さくなることを経験則で理解していた。倒れた身体に容赦なく雨が降り注ぎ、気配を探るために目と耳に神経を集中し動く音を探る時間が経過していった時、前方から微かに人の話し声が聞こえてきた。
急にアクセルを吹かす音がして白いホンダオデッセイが走り去るのを目の端に捕らえ、その姿が見えなくなるまで待って、横にある大きな桜の幹の下まで転って話し声がした方向に目を向けた。一組の傘を挿したアベックと思われる影が通り過ぎるのが見えた。
しばらく様子を窺っていた柊が幹の下から立ち上がろうとしたとき左脇腹を焼けるような痛みが走って片膝をつくように蹲った。
その時になって不覚を悟った。振り向きざま横に飛んだ時には何も感じなかったが、トカレフ弾は柊の脇腹を捉えていた。
ポケットからハンカチを取り出してあてたが、滲み出した血で赤く染まるのが判った。
治療が必要なのを自分に理解させたが、雨は容赦なく身体に襲いかかった。
不意に昨日の尾行がよみがえった。山手幹線を右折して相生町を走った時、このマンションへの取り付け道路の手前に救急指定病院の赤いランプが明滅していた事を思い出した。
柊は痛みを我慢して歩きはじめた。
行きかう人もこの雨で殆どなく、仮に出会っても若い酔っ払いにしか見えない歩き方で出血と共に意識も遠のくような感じがしたが鍛えられた体は耐えることを知っていた。雨は益々ひどくなり流れ落ちた血は夙川の土に返っていった。
全身ずぶ濡れになって何とか病院の緊急入口を潜ると側にあったベンチシートに倒れこむようにして座り静かに目を閉じた。

白いホンダオデッセイを急発進させた陽介は震える手でハンドルを握り締めていた。未だ手に反動の感触が残って、ワイパーだけが定期的な動きを止めなかった。“俺は引き金を引いてない”何度も自分に言い聞かせながらアクセルを踏んだ。隣に座る美保を見ると、あらぬ方向を見詰めていた。
山手幹線に出たところの信号に引っかかって、ブレーキを踏むと、やっと周囲を見る余裕が出来てきた。左折のウインカー音とワイパーの窓を拭く音が室内に反響するのが嫌に大きく聞こえていた。
「死んだン?」不意に美保が問いかけた。
「判らん。あいつ倒れたままやったから、当たったんは間違いない」自分にも言い聞かせているように答えた。
「ウチ、怖い・・・何で撃ったん?」小さく震えるような声で更に問いかけてくる
「うるさい。いま考えとんのじゃ」室内は静けさを取り戻した。怒鳴ったことで更に落ち着いて考えに集中できた。


今日の美保とのデートを思い返した。
昨日、若頭に呼ばれて親分とそのボディガードをガードするという普通では考えられない仕事を与えられた時、最近川北組の若頭補佐になったばかりの親分を妬んでいる奴が待ち伏せしている可能性があると言われ、拳銃と金を渡されたのである。
忠告された通りレンタカーの店に行ってホンダオデッセイに乗り換えた後、早めに夙川で待つことにした。
マンションの前に車を停めた陽介は車の大きいことや装備の充実振りも手伝って前のように美保を押し倒そうと身体を助手席側に傾けたとき、窓外にジャケットを羽織った男がマンションに歩いて行くのを見た。これが若頭の言っていた親分を狙っている男ではないかと男を眼で追いかけた。周囲は暗く降り出した雨もあって視界を悪くしていた。ワイパーを作動させようとしたが止め、そっと腰から拳銃を引き抜いた。
男からは十㍍ほどの距離だろうか周囲が雨に煙ってシルエットだけが見えていた。
初めて持った拳銃で人に狙いを定める行為への誘いには勝てず、引き金さえ引かなければ大丈夫との思いが自然と銃口を上げて狙いをつけさせた。
運転席の窓を開けるボタンを押して狙いをつけたままスライドをゆっくりと引いた時、トカレフの持つ銃そのものの性質が忠実に反応した。いわゆる巷で囁かれる安全装置が省略された《トカレフの暴発》であった。
シルエットの男は飛ぶようにして倒れた後ピクリとも動かなかった。
陽介は突然の出来事に呆然としつつ、早く起きろと願って待っていたが左に伸びる道から人の話し声が届くと、あわててアクセルを踏んだ。この時間帯は会社員など一般の帰宅時間も過ぎて割合道は空いていた。
二人は黙り込んだまま昼に出てきた美保のマンションに帰り着いた。


鏑木良子は診療室で後片付けを始めていた。診療時間は終わっていたが自宅で足を複雑骨折した急患が運び込まれて、先ほどまで敏一の執刀で器械出しを務めた。無事に手術を終えて敏一は二階の院長室で敏男と話し込んでいるはずである。
彼女は恩師でもある洋子の劇的な回復を喜んでいた。阪神淡路大震災の前の年、十八歳で夙川病院に勤め始めて十六年が過ぎ去った。その間阪大に勤める敏一の妻、洋子の影響を受け薬物介護療法士の資格も取り、お嬢さんの死を目の前で看取るという辛い現場にも立ち会いながら二十六人の看護師たちを束ねる看護師長になっていた。院内では誰からも慕われ愛される良子を過去の呼び名となってしまった《婦長》と今でも呼んでいた。
あわただしい空気がゆったりとした空気に入れ替わり、良子も早めに帰ろうと更衣室に向かいかけたとき「婦長」大きな声と共に廊下を走る音がして四月に看護師として入ったばかりの甲田俊子がドアにぶつかる様な勢いで手術室に飛び込んできた。
俊子は緊急患者の搬入口を指して「早くきてください」と良子を急き立てた。
入口のベンチシートに横たわった男は腹部全体を赤く染め、しかも全身がずぶ濡れで、顔色が蒼く変わって意識を失っているようだった。
「ストレッチャーを取って来て、それと応援を呼んでちょうだい」良子の青いナースウエアがたちまち黒っぽく滲んでいくのも構わずにゆっくりと抱き起こした。
間もなく俊子と応援の看護師がストレッチャーを押して戻ってきた。
「早苗ちゃん、副院長を大至急呼んできて」応援に来た看護師に指示を出し、俊子と二人で手術室へ運び込み手術ベッドに移し変えた。
俊子が手際よく服の前ボタンを外し患部の特定を終えると清浄水で傷口を洗ってガーゼを押し当てた。「婦長。出血が・・・後ろからも・・・これ、何の傷でしょうか?何かが突き抜けたような・・・」良子も傷口を覗き込んで見たとき、早苗と一緒に敏一が入ってきた。新しい手術着を着ながら、気難しい顔で寝かされた患者を見た。
「どうだ」言いながら俊子からピンセットに挟んだガーゼを受け取って屈みこむようにして患部を検めて行った。
「ウーン。これは何かな・・・銃創のようだな。それも貫通している」
「ジュウソウ?」俊子が声に出して聞いた。平和な住宅街の中にある病院では初めて聞く診断だった。
「鉄砲の弾だよ。間違いないと思う」言いながら尚もじっくりと傷口を観察していく。
「臓器には届いていないようだな。婦長、止血剤を用意して」
良子が頷いててきぱきと看護師たちに指示を出して自らは手術の準備に入った。
「どうせどこかの組員だろうが、ここら辺も物騒になってきたのかな」問いかけるように呟いて施術を始めた。
「警察への連絡は?」
「未だです」良子が事務的に答えた。
「手術が終わったら、抗生物質を一本打っておいて、警察にも届けておいたほうが良いな」
敏一は医者として最善を尽くしながら一方で市民としての義務もおざなりにしたくなかった。慎重に縫合を進めていった。
暫らくして手術用の手袋を脱ぎながら
「それで、身元は判っているのか?」手際よく包帯を巻いている良子に聞いた。
「それが、運び入れたときにポケットを全て見たんですが・・・木辺正司という名義のキャッシュカードと現金、車の鍵それに見たことも無いボタンがたくさん付いた携帯電話しか持っていませんでした」
「車の鍵?免許証は」
「ありませんでした」
「現金があったと言ったね」
「はい、正確には勘定していませんが、一万円札を分厚い束で持っていました」淡々と事実を正確に伝えた。
「そのボタンがたくさん付いた携帯電話を見せてくれるか?」
良子が手術室の隅に置いてあるケースから携帯電話を取り出し敏一に渡した。
「本当にボタンが多いね。こんなのは始めてみるな。・・・一体君はどんな生活をしているんだ?」雨に濡れて泥で汚れていた顔はタオルで拭かれて、端正な締まった顔は上を向いていた。
敏一の目は手術中、じっくりと見なかった男の顔に注がれたところで止った。
副院長が男の顔を見て示した反応を不思議なものを見たように傍らで良子が戸惑った。
「先生のお知り合いですか?」咄嗟に出た質問も聞こえていなかった。
「先生」再び声を掛けられて、我に返った敏一は繕うように
「キベ・・ショウジさんと言ったか?」良子に念を押すように聞いた。
「そうです。お知り合いですか?」その質問には答えず「鏑木さん。今日はもう遅いので警察には私が電話しておくから・・・君も手術が続いて大変だったろう・・・そうだ病室に空き部屋はあったかな?」いつもは理路整然と話す副院長に良子は何かあると感じたが、心から尊敬している副院長の申し出に黙って頷くと、空き部屋を教えて手術室を出ていった。
暫く患者の顔を見ていた敏一が二人きりになったところで「しばらくでした。柊さん」誰云うとなく呟いた。
敏一は柊の顔を見ながら動こうとしなかった。きれいな白いタイルに囲まれた手術室は無影灯に照らされ、患者は静かに眼を閉じていた。
「どんな様子です急患は」突然の声に振り返ると敏男が立っていた。
「あぁ、敏男か」柊を見つめたまま近づく敏男を待った。
「半月ほど前だったか・・・女房と生野に行って崖を滑り落ちた話をしただろ。その時のヒーローの一人だよ」柊を再び見下ろして敏男にも見えるように体をずらした。
「この男性が?」敏男も改めてじっくりと診た。
「きれいな美しい筋肉を持った理想的な身体をしているな」内科医らしい観察で表現した。
「そう、その彼が銃創を負って飛び込んできた」
「ジュウソウ?・・・鉄砲なんかの銃創か?」驚いたように敏一の顔を見て言った。
静かな頷きが返った。
「一体何者なんだろう?」敏一と同じ様な感想を言うと考え込んだ。
「警察へは?」
「未だだ。どうすれば良いか迷っている」素直に呟いた。
「犯罪者じゃないんだろう?巻き込まれただけじゃあないのか?」
「普通はそれでも届けなければならないだろう。でもなあ」
「未だこの人は覚醒して無いんだろう?事情を聞いてからでも良いんじゃあないの」敏一の苦悩する事情を察した言葉だった。
「そうさせてくれるか?」敏男の顔を覗き込むようにして言った。
「そうさせてくれるかも何も、今日、僕はこの患者を見なかった。何しろもう七時には自宅に帰ったんでね」いたずらっぽい笑みを浮かべた敏男が「洋子さんにも知らせて上げたら?」一言呟いて背を向けた。
「ありがとう」弟に感謝の目を向けていたが、片隅の電話機に寄って自宅の番号を押した。
二十分後手術室の扉が開いて洋子が立っていた。自宅から走ってきたのだろう吐く息が荒かった。
手術台に寄ってまじまじと柊を見つめ、ようやく敏一に向き直った。
「間違いなくあの時の柊さんよ。一体どうしたの」
敏一は彼がこの病院へやってきてからの出来事を順を追って話した。
「そう」少し顔を曇らせて洋子が頷いて柊に目を移した。
点滴は確実に変化をもたらした。顔色もようやく血色を取り戻しつつあり、ほんのりと全体に本来の肌色が戻りつつあった。
軽く柊の手首を持って腕時計を見ていたが「もう大丈夫だ。しっかりしてきた」洋子に軽く頷いた。
「よかった。でも彼が何故そんな銃創なんか負ったのかしら。どう考えても分からないわ。あの時の三人ともそんなに危ない人たちには見えなかったもの」夫を見ながら訴えるように囁いた。
「確かに僕も、これには何か事情があると思って、鏑木さんには悪かったが警察への連絡は僕がやると言っておいたんだがね」気持ちの整理がつかずに洋子を覗った。
「私も取り敢えずそれが良かったと思うわ。この青年の話を聞いてからでも遅くはないし」自分にも納得させるように言った。
「そうだな、今日はゆっくりと寝かせてあげよう。明日になれば事情が何か分かるだろうからね」敏一は先程良子に聞いた病室へベッドを押し始めた。

激痛は収まってはいたが、目を瞑った柊は意識を集中してその会話を聞いていた。腕に刺された針の感覚で治療が終わったことも理解が進んでいた。
二人の声には聞き覚えがあったが点滴の副作用なのか、失血のせいなのか思い出せずにいた。柊の名を示す物は身に着けなかった筈が、自分の名を呼んでいる彼らはいったい誰なんだ?・・・過去を辿り始めてようやく思い出した。二週間ほど前、生野の鉱山で崖に転落した女性とその夫が、確か医者を名乗っていた。
中々感じの良い夫婦の印象を抱いて、懇願されるままに名を告げた記憶が甦った。
間違いなくあのときの夫婦だ。
今の自分は身動きの取れない運命の中で、先ほどの彼らの会話から自然とこの夫婦に自分を預けてみようと緊張を解き始めると深い睡魔が襲ってきた。

肌寒い朝もやの中で日差しを浴びて柊は目覚めた。
久しぶりの熟睡は身体中に活力と気力をもたらしていたが、銃創が思っていたより自由を奪うことを体感していた。
後ろに夙川公園を持つ病院は二重サッシのせいでもあるのか静謐な空気に包まれていた。
その中で昨晩の行動を思い返した。あの時、停まっていたホンダオデッセイに注意を怠るべきではなかった。あくまでアベックが公園に遊びに来ているとの思い込みを強くしてしまったばかりに、もう少しで命を落とすところであった。あの距離で救われたのは銃撃犯の腕が悪かったことと、おそらくトカレフであろう拳銃で初速の早いトカレフ弾を使ったせいであろうと推測して、危うくW機関を危険に晒してしまったことを悔いた。
首を巡らせて横にあるベッドサイドの卓上を見ると私物がきれいに並べて置かれていた。
手を伸ばして携帯をとりあげ、しばし迷っていたがW6のボタンを押した。
合言葉の応酬を待ちきれないように平田が早口で話し始めた。
「どうしたんだ、あれから・・心配したぞ」
平田に詫びた上で簡単に経緯と結果を報告した。
「狙撃?病院?何という病院だ?」焦った強い口調であった。
「夙川の駅から北に少し上がったところにある夙川病院です・・」言いながら、生野で出会った夫婦連れの医者がこの病院の執刀医だったことを告げて、その方達の配慮で警察も動いていないと報告した。
「分かった。しかしどうしよう、幕僚長はきのう午後に急遽東京へ行かれたんだ。お前の録音を早急に聞いてもらう必要があると云われてな」貴重な情報だということは認識していたが、自分の軽率な判断が尚更悔やまれた。
その後、夙川駅前の駐車場に停めてあるランクルを取りに来てもらう事と幕僚長への報告を頼んで電話を切った時、ノックと共に洋子がドアを開けて顔をのぞかせた。
上下とも白のスラックスに七分丈の制服を着て胸に和田のネームプレートを付けていた。
「柊さん。それとも木辺さんと呼ぶ方が良いのかしら」茶目っ気のある笑顔でたずねた。
「あの、いえ、木辺で・・」思わぬ質問に戸惑いの表情を浮かべて応えた。
「そう・・・」呟くような声で下を向いて何かを考えているような仕草を見せていたが、やがて意を決したように柊に向き直ると
「いーい、木辺さん。主人はもう直ぐ診察があるから一緒に来れなかったけれど、私達にとって貴方は命の恩人だわ。ドウダンツツジを頂いた時の貴方の優しさの記憶を大事にしたいの。だから単刀直入に聞くわ。怒らないで聞いてくださる?」背筋を伸ばして話す洋子は柔和な目が柊の奥深くを覗くように見た。
「もう一度言うわ。私にとって貴方は命の恩人よ。どんなに感謝しても感謝しすぎることは無いほどよ。その貴方がお腹に穴をあけての再会なんて・・・主人は腕の良い外科医よ。その主人が銃創だと言っていたわ。貴方が怖い世界で生きておられるんじゃ無いかと心配しているの」言葉に滲む優しさが全身を柔らかく包んだ。
柊の葛藤が続いた。長い沈黙の後で覚悟を決めて話し始めた。
「先生。今度はあなた方が自分の命を救ってくださいました。ありがとうございました・・・自分はこの八月まで自衛官でした。日本国民の生命と財産を守ると誓って自分なりに最善を尽くしていました。その様な生活が一変したのは八月三日でした・・・妻が麻薬中毒の暴漢に殺されました」淡々と語る眼は苦しみに沈んでいた。
「まあ・・」洋子は声にならない言葉を呑みこんで目を大きく見開いて柊を見つめた。
「犯人は捕まりましたが、日本国民を守ると誓った自分が妻も守れなかったのです。自分を許せませんでした。そんな自分を拾って下さった方々が居ます。もう一度大勢の日本の方を今度は麻薬から解放するために戦わないかと・・・自分の意思で参加を決めました。自分は高度の訓練を積んだ戦闘員です。慢心と油断がこの結果を招きました。しかし此処を出たら戦いの場に戻ります」どの様な拷問に遭おうとも話せないことを省いて、真実を断片的に訥々と語っていった。
洋子は柊の告白に驚き、同時に彼の妻の死を娘に重ね合わせた。
柊を見つめる眼から一筋の涙が頬を伝った。
「恵子が引き合わせてくれたのね」呟くように言った。
「ケイコ・・・さんが?」訝しげに問い直す柊に、頬にかかった涙を掌でそっと拭き取りながら寂しげな笑みを漏らした。
「そう、当然ご存じないわね。私たち夫婦にはね、恵む子と書いて恵子という娘がいたの。阪神大震災の後の忙しさでかまってやれなかった娘は多感な時期だったのね。でも、恵まれなかった・・・」言いながら再び流れ落ちる涙を拭って、いつの間にか麻薬に染まった娘と解決策を話し合おうとした矢先に家を飛び出して車に轢かれた経緯を苦しそうに打ち明けた。
「そんな私たちは麻薬を憎んだわ。主人も一時期犯人が判れば殺してやりたいと言っていたくらいよ。でも私たちは無力だった。してやれることは、この病院でそんな薬に染まった方を治療することしかなかった」悔しそうに唇を噛んで訴えるように柊を見つめた。
「私も恵子を亡くして以来、うつ状態で夫にも長い間苦労をかけたわ。でもね、あの生野で柊さんに助けてもらって吹っ切れたの。此処で私は死んだんだ。そして貴方に助けられて生き返ったんだって思ったの」一転して嬉しそうに微笑んだ。
「奥様のお名前は何て仰ったの?」頬にそっと指先を当て涙の痕を拭いながら柊を気遣うように尋ねた。
「涼子といいました」
「りょうこさん?良い子と書くの?」
「いえ、涼しい子と書きます」顔を上げて彼女を思い返すように応える柊を見て、再び彼女の頬を一筋流れ落ちるものがあった。
そのとき柊の携帯の着信音が鳴り、ディスプレイにはW3と出ていた。
電話を見る柊の顔が僅かに変わったのを見て、彼女は窓際のほうに行って窓外に目を向けた。
三回ほど鳴ったところで柊が「ダブリューファイブ」と声を抑えて名乗った。
(今話は出来るか?)
「はい、少しなら大丈夫です」洋子を見ながら返事をすると、(声は元気だな。どこを撃たれたんだ?)
「わき腹です。でも貫通ですからダメージは大きくありませんのでご安心ください、二、三日で現場復帰できると思います」
(・・・そうか。報告だと生野の方たちだそうだな。それで警察にも連絡しないでくれたそうじゃあないか)
「はい、ありがたい事でした」
(そうだな。とにかく無事で何よりだ。俺はこれから内村に報告するが、お前も時間が取れれば連絡だけでも直接入れておけ。大丈夫だと聞いても直接のほうが安心するからな)
「分かりました」
(それと、あのテープはすごく貴重な情報だった。多分今日の夜には国会内の特別対応チームが出来るはずだ。あと二週間少ししかないからお前も準備しておいてくれ。詳しいことは帰ってから話す)
「はい、了解です。失礼します」
電話を切って窓際の洋子を見ると呆れ果てたように「二、三日で現場復帰?冗談じゃあないわよ柊さん。主人が全治二週間と言ったでしょう。それに病室での携帯は駄目ですよ」笑顔を見せて睨んだ。
こうして直接彼と話す事で、不器用で寡黙なこの好青年の人間性が彼女の中に形作られ、彼は決して犯罪を犯すような人では無いと確信に近いものが醸成されていった。
静かな沈黙の時が過ぎて、洋子は再び柊と向き合った。
自分を納得させた洋子は敢えて話題を変えた。
「この病院はね麻薬の患者さんも多いけれど、それ以外も震災のトラウマで悩んでおられる患者さんとか、最近社会問題にもなっている家庭内暴力やレイプなどでPTSDになってしまう方も増えてきて今では手一杯になっているわ。それでこの近所に物納された良い空き地があったから精神科専門の治療所を造ろうとしているのよ。でも最近のお役人は駄目ね、二年にもなるのに何だかんだと言って一向に前に進まないんだもの」言っているうちに更に怒りが募ったのか拳を握って訴えたが、柊と眼が会うと「あら、つい興奮してしまって、柊さんには関係無いことなのに・・ごめんなさい・・・そうだ、あの時に摘んで頂いたドウダンツツジは元気に根付いたわよ」慌てて言い繕った。
「そうですか、それは良かった」ホッとしたのか柊も軽く微笑を浮かべた。
「来年の三月か四月には花が咲くかもしれないわ」やっと普段の会話に戻って落ち着いたのか、洋子が改めて柊を見つめ、先ほどからの考えを告げた。
「柊さん、事情で木辺と仰っているのでしょうけれど、私たち夫婦には貴方はあくまで柊さんよ。それに私たちも影ながら貴方のお手伝いをしたいと思います。きっと夫も賛成してくれるはずよ」強い調子で気持ちを伝えた。
「ありがとうございます。お言葉を大事にします」少し戸惑いが混じっていた。
「柊さん、私は本気ですよ、絶対に夫も賛成してくれます。それに医者は患者さんに関して知り得た情報は他人に漏らしてはならないと言う守秘義務があるのはご存知よね」念を押すように語りかけた。
「それに今度のように絶対医者が必要なときがあるわ」この言葉に柊も改めてベッドの上で背筋を伸ばして頭を下げた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」短く応えて手を差し伸べると柊も応えて握り返した。
退け時だと思った洋子はそのまま満足そうな笑顔で部屋を後にした。
洋子が部屋を出て行くのを確認した柊はテーブルの携帯を取ってW2を押した。


洋子は昼の休憩時に敏一・敏男兄弟と院長室で食事を共にしながら、朝の柊との会話を報告していた。
「すると、何かい。彼は矢張り生野の人だったんだな」敏男が洋子に確かめた。
「そう、それに奥さんを今言ったような事件で亡くされて、今では麻薬の撲滅の為に仲間と闘っているそうよ」
「犯人は捕まって、どんな男か判ったのかい?」
「尼崎の組事務所の構成員だったそうよ。詳しくは聞かなかったけれども、今どきの若者にはない強い日本男児だわ。私たちとは違う方法で解決しようとしているんだから」
「でもそれがどの様な方法なんだろう?それと君の先ほどの話だと誰かと組んでいるように聞こえたんだが、いったい誰と組んでいるんだろう」
「それは結構社会的にも地位のある方なんじゃあないかしら。彼の言動や態度から絶対におかしな連中と組んでいることは無いと私は信じるわ」
洋子の人を見る目が確かなことはその立場からも信頼していたが、部分的には不安の残る話だった。
三人に共通していたのは麻薬に対する強烈な拒否反応であった。
「難問ばかりで釣りにも当分行けないな。折角買った中古のボートだが未だ一回しか乗ってないんだよ」未練たっぷりに話す口調は恨めしそうだった。


内村に報告とお詫びの電話をした時、特別対応チームの動きが伝えられ「お大事に」という声を残して切られた。
手にした携帯を見ながら、ふと仙田がその後どのような暮らしをしているのか気になった。
未だ携帯に残したままの仙田の番号を押した。
数回の呼び出し音の後、聞き覚えのある声で応答があった。
「木辺です」短く応えると「木辺さんか?本当に木辺さんやね。よう架けてくれた。電話も一方通行やから早く架かってきて欲しいと、携帯睨みっぱなしやったわ」確認するように言う声は未だ関西弁が抜けないそのままの話し方だった。
「今は、矢張り丸亀へ帰られたんですか?」
「こっちへ帰ってきても、こんなご時世やから簡単には職が見つからんけど昔の友達の紹介で今日地元のスーパーの面接に行って、何とか警備員に雇ってもらえそうですわ」
「それは良かったじゃあないですか、昔の友達は良いものですね。それを聞いて少しは安心しました」
「ちょっと木辺さん、未だ切らんといてや」縋り付くような声で訴えた。
「どうしたんです?」
「おとついの新聞見はりましたか?」
「おとついと言うと二日前ですか?いえ何も」
「ヤッパリな。そら小さな記事やったから分からんのも無理は無いけど・・・あの鈴木が死にましたんや」驚きで咄嗟に声が出なかった。
「鈴木って・・あの、貴方の部下だった?どうして・・・」ようやく、それだけが口を衝いて出た。
「交通事故やそうや。けど間違いなく報復されたと思いますわ」
「報復?どういう事です?」
「あいつの故郷は岡山なんですわ。荒巻はんと私があの時説得して故郷へ帰れと言うたんですけど、それを無視してそのまま尼崎(あま)に残ったんですわ。一週間ほど前に電話したときは、あいつ“元気に頑張ってます”言うとったんですけどね。それが二日前さっき言うた友達が神戸に用事が有って今日の昼前に帰ってきた時、毎朝の新聞持ってたんで何気なく見てたら、あいつが交通事故で死んだ云う記事が出てたんですわ。こっちの新聞には出てなかったんで見落としそうになったけど、尼崎の交通事故なんかこっちには載らんからね。これも虫の知らせ云うんやろか・・・そやけど轢いた車は逃げてしもて探してる云うことやけど、これはあいつらの報復やと思いまんねん」一気に思いを伝えた。
柊自身も少しは彼らの報復を考えはしたが、警察が退職後の署員の住所を漏らすことは考えられなかったし同僚とても簡単に喋るとは思えなかった。
それよりも、まさか鈴木が尼崎に残っているとは想定外のことであった。
「きっと同姓同名の人ですよ。それも本当に交通事故だったかも知れないじゃあないですか」自分に言い聞かせるように言ったが慰めにはなっていなかった。
「いや、あれから何ぼ携帯に架けても出えへんし、これは俺のカンやけど殺られたと思いますわ・・・自業自得かも知らんけど、いずれあいつらが丸亀まで来るんちゃうかと心配ですわ」声にも不安が滲み出ていた。
「大丈夫ですよ。彼らもそこまでは行かないというか貴方の住所も判ってないでしょうし」
「あいつらの力甘あ見たらあきまへんわ。木辺さん何とかなりまへんか。俺はええけど子供が心配や」生まれ変わろうとする父親の本音が垣間見えた。
「もう少し我慢してください。出来る限りの手は打ってみますから」追い詰められた男には何の気休めにもならない言葉であったが、未だ彼の目論見を話す事は出来なかった。
電話を切った後、暫く考え込んでいたがベッドサイドのボタンを押した。
やってきた鏑木良子に新聞を読みたいと頼むと、「そうよね、よくテレビもラジオも無しで退屈しないのかしらと皆で話していたところよ」と快く応じてバインダーに挟まれた新聞の束を持ってきてくれた。
手術をしてもらった次の日にその記事はあった。
“十九日午後九時半頃、尼崎の国道二号線から川西方面に向かう西長洲南の路上で男性が血を流して倒れているのを通行人が発見して警察に通報した。倒れていたのは免許証などから飲食店店員の鈴木一郎さん(28)と見られており、頭を強く打って病院への搬送途中に死亡が確認された。尼崎東南署は周囲の状況からひき逃げ死亡事故として逃げた車を追っている”と書かれていた。
元警察官とは書いていなかったが柊もあの鈴木に間違いないと思った。
更に今朝の新聞に、その続報記事が出ていた。
“一昨日、尼崎で起きた死亡ひき逃げ事故で犯人と思われる男が昨日午後六時ごろ捜査本部の置かれている尼崎東南署に自首してきた。男は自称無職の臼井正一(21)と名乗り現場から逃げたことを認めたため過失致死とひき逃げの容疑で緊急逮捕した。警察の発表では死亡した鈴木一郎さんは先月まで東南署の警察官で臼井容疑者との関連を厳しく追求している”とあった。
怒りを抑えて、じっと考え込んでいた柊は再び携帯を手にして短縮を操作した。
「W5」相手が応えるのを待ってから、
「先任、指向性爆薬は調達出来るでしょうか?」
「指向性?」
「そうです。彼らは我々がどの様な相手か知りません。今までの組同士の抗争や警察相手と同じような相手ではないことを教えなければならない時が来たようです」鈴木の亡くなった経緯を簡単に話す言葉に柊の揺るぎのない決意が滲んでいた。
「そうかあの鈴木が・・・判った。どれくらい要るんだ」新妻を暴漢に襲われ鈴木を死なせてしまった彼の苦悶が容易に理解できた。
「指向性炸薬とC4を十づつお願いできるでしょうか?それに無線式雷管を二十ほど」
「・・すごいな。ビルでも壊すつもりか?それだけ一度に使うと一般にも被害が出るのじゃあ無いか?」
「荒っぽい仕事にはなるでしょうが、詳細は又改めて相談します」
「いっその事グレネードランチャーでも使ったほうが早いんじゃあないか?」
「それも考えましたが、そのほうが一般に及ぼす被害が大きくなると思います」
「分かった、兎に角今は傷を治すのが先決だ。装備のほうは明日から爆薬の取扱訓練を組み入れて何とか調達してみるよ」言いながら平田の頭の中で計算が始まった。第三師団でも銃・弾薬の管理は厳しく数量のチェックは毎日のように行われていたが、実戦訓練で数を調整する方法と手段を描きながら短期間で調達する計画を練り始めた。


十月も半ばを過ぎて各委員会は毎日白熱の議論が重ねられ、今までの政治に決別した自由改革連合は渡辺誠一郎を先頭に各閣僚、議員も自らが目指す改革に奔走していた。
各委員会で議論を尽くす姿勢に理沙も毎日が楽しい取材で忙しく立ち回っていた。
そのような中で昨日あたりから総理秘書官である内村の動きが気になっていた。
例の携帯を耳に当てる回数が増えてきたのである。他の記者たちはその経緯を知らないから当然ではあるが理沙には気になる行動であり、しかも今日の委員会に随行した秘書官は第二秘書の後藤であった。
予算委員会に戻ろうとした時小走りに内村が会議室に入っていくのを見かけた理沙は急いで傍聴席に駆け上がった。委員会は中盤に差し掛かり野党の質問者が熱弁をふるう中、内村が閣僚席に座る官房長官に屈みこんでメモ用紙を見せた。頷きで了解を取ったのだろうか、次に横の片田大臣にも同じメモを見せた。何が書いてあるのだろうと注視していると少し離れた厚労省の市田大臣にもメモを見せて、ここも頷きの返事を得るとそのまま出て行った。
官房長官・財務大臣・厚労省とまるで謎解きのような組み合わせを考えながら、理沙もそっと傍聴席を出て階段を下りかけたとき眼の下を小走りに内村が走りながら今度は普通の携帯で話している。
理沙は携帯の短縮を押してカメラマンの島を呼び出し、二言三言話をすると通話を終えた。
五時になって委員会が散会するとそれぞれの閣僚が玄関口へ顔を出し始め、各社の記者がぶら下がってコメントを採ろうといつもの光景が繰り広げられていたが、先程メモを見せられていた大臣がなかなか出て来ないで理沙が委員会室の扉に顔を向けたとき、ようやく三人が揃って姿を見せた。
だが玄関に向かわず内村が消えた階段への道を揃って降りて行く。
慌てて理沙は先ほどカメラマンの島と共に携帯で呼んであった社用車に向かった。
其のまま官邸入口まで走らせて道路の端で待っていると誰も乗っていない三台の車が官邸の入口に向かってウインカーを出した。
「ビンゴ」と興奮を抑えて言ったが、横に乗った島が訝しげに理沙を見た。
「あの三台の車を取り敢えず撮っておいて」そう言うと車の前後を注意深く見て行った。横で島がシャッターを切り始めた。
離れたところにいる官邸に詰める門衛がこちらを窺っていたが、社旗を立てた車を確認して通常の立哨に戻った。
「これだけでいいんですか?」島が気合いぬけしたような声で聞いた。
「ごめんね、あと少しだけ付き合って。あくまで私の勘だけなんだけど・・・」
「お得意のカンですか」苦笑いを浮かべる。
「来た。あの車がきっとそうよ。ここからでは乗っているのが誰だかわかんないわね。でもナンバーは外さないで」ナンバーが分かれば社の資料で誰の車か判断ができると踏んでいた。その後十分ばかりで三台の車が官邸に吸い込まれていった。

相変わらず喧騒に包まれた職場であったが、この雰囲気が好きでもあった。
理沙の机の上には社内封筒が乗せられていて写真部からのものである事は直ぐに判った。中には六台の黒塗りのナンバーにピントを合わせた写真と後部座席に人が写っている三枚の写真があった。
人の方は少しぼやけた感じで人物を特定するにはもう少し解像度を上げてもらう必要があったが、ナンバーを写した写真は綺麗に読み取ることが出来た。直ぐに資料室に向かった理沙は三十分後に満足そうな笑みを浮かべ写真とメモを持って席に戻ってきた。
座ろうとしてふと編集長を見ると片手をあげて手招きをしている。理沙は自分を指さしながら目顔で“私ですか?”と聞いて、頷く編集長の席に向かった。
「なんでしょう?」
「越智がぼやいていたぞ。お前今日の委員会、途中で消えたんだって?」そのボヤキが聞こえるようだった。
「はい。一寸気になることがあったもので追っかけをして来ました」
「追っかけ?大阪の写真の彼氏でもいたのか?」咄嗟のことで戸惑ったがロイヤルで撮った写真を思い出した。ニヤリと笑った編集長にほほ笑み返して
「残念ですが・・でも関連するのかな?」首を傾げて惚けながらも越智に後を任せてからの一部始終を編集長に話した。
「それで、官邸に入っていった車の所有者がこの六人だったんです」ポケットから取り出したメモをデスクの上に置いた。じっと見ていた編集長が顔を上げて
「何だ?このメンバーは。このメンバーが官邸へ?それも委員会が終わってから?」
「そうです」
「官房長官・財務・厚労省までは委員会の後だから判るが、後の警察・公安と云うのは解せないなあ、それに国交省が加わった?」
「でしょう。それも警察と公安はあまり仲が良くないって言いますよねぇ」
「まあ、最近渡辺総理になって変わってきているとは言ってもなぁ」二人が謎かけをするように言葉を重ねた。
「お前、何か心当たりはあるのか?」
「いえ、全く判りません。でも何か匂いません?」
「うん、少しな・・・」メモを見ながら首を傾げた。
「これは確かだろうな?」念を押すように聞いた。
「島さんに、入った車を全部撮ってもらってその番号から割り出しました。三人の車内の画もあるんですが少しぼやけていて・・・でも公安の大下さんは頭の特徴で判ります」
じっと理沙を見て、メモに眼を落とすと
「よし、判った。明日までにこれが何の会議だったか追ってみろ、その結果で判断しよう。直ぐにかかってくれ」
「直ぐに?」否やは無かった。
「この会議、もしかすれば今もやってるかも知れないんだろ。だったら追っかけて来い。今から官邸に引き返して彼らが帰っていたら大したことじゃあ無い。帰っていなければ本気で追っかける価値があるかもな」経験を積んだ編集長の言葉に返す言葉が無かった。
「ったく人使いが荒いんだから」
都心の夜は眠っていない。オフィスの窓の多くは未だ明かりが点いてそれぞれの窓に人影が映っていた。
官邸と同じく公邸も暗闇の中に煌々と照らされて浮かび上がっていた。理沙が間違っていたのは、総理と内村を含めた八名が会議をしていたのは公邸の方だったが、編集長の助言が正鵠を射ているのを実感していた。運転手に公邸の周囲を回るよう頼んだ。
終了の時刻が告げられていない周回の始まりだった。

           反  撃


公邸での食事会名目の会議は急遽設定されたのでそれぞれの予定に配慮して七時からになっていたが、六時半過ぎには全員が揃っていた。
二階の会議室には急遽取り寄せたのか松華堂弁当が卓上を飾って、全員が席に着くと総理が立ち上がって切り出した。
「今日はお呼び立てして申し訳ない。官邸でも良かったんですが、どうしても極秘でお話ししたいことが出来てわざわざお越しいただきました」
このメンバーを集めた極秘の相談とは何なのか興味を抱くには十分だった。
「私は総理になって以来この日本をどうしても立ち直らせたいとの思いで外交も経済も皆さんの力をお借りして精一杯やってきました。お陰様でそれなりに成果が上がってきていると確信しています」
頭を軽く下げて礼を言う総理を見ている出席者はこの会議の真意を掴みかねていた。
「経済に於いても国民には我慢して頂いて、ご出席の片田大臣の強力なご指導で切り詰めた財政をやりくりして頂き、それなりに上向いてきたと自負しています。がしかし内政に目を転じるとこの八月に兵庫県である女性が麻薬に侵された暴漢に殺される事件が起こりました。その時以来ここにご出席頂いている警察庁長官や国家公安委員長にもご意見を伺ったり関係各機関のご意見を伺ってきましたが、私はこの麻薬が日本に流入し、わが国民を侵していく現実を見過ごすことは出来ないのです」話す言葉に力が入ってコップの水を口に運んだ。
片田は面はゆさを抱きながらも話は違う方向に動き始めているのを感じていた。
「今や、日本では約三百万人が禁止薬物をやっているか、やったことがあると云うデーターがあるそうです。専門家によればもっと多いという方もいます。実に人口の三%を超えようとしているのが現実だそうです。そして、それに侵された人間がこの八月に起きたような無辜の人間を殺す事態を引き起こしているんです。更にはそれが反社会勢力の資金源にもなっている現実は何としても正さなければならない。もう口先だけの壊滅作戦とか撲滅作戦と云うのはやめにして本気で取り組みたいと思っています」国家公安委員長と警察庁長官にとってはいきなりの針の筵であった。木下はじっと総理を見つめ、五十嵐は下を向いて聞き入っていた。
「三百万人もいるんですか?」片田が真剣な目つきで総理を窺った。
「私は残念ながら麻薬が一体いくら位するのか知りませんが、仮に一㌘一万円とすると三百万人が一日で消費する額は三百億円にもなるんです」
「一年で十兆円も?予算にそれだけあればもっと国民に分配できるのに」片田はその額の大きさに改めて驚いた。
「暴力団も巨大化するわけだ」仁志も深刻な顔を向けて言った。
「だから北朝鮮なども国家事業としてやっているという噂が立つんです」総理の言葉に全員が頷き、深く考え込んだ。
「それで全てを撲滅するという幻想は捨てて一歩づつ前へ本気になって進もうと提案するために皆さんに集まって頂いたんですが、その材料が偶然手に入ったものでまずそれを橋頭保にして撲滅への道筋を立てたいのです」全員が総理の“一歩づつ”の言葉に少し緊張した。総理がこのフレーズを使う時は本気で実行すると云う強い意志を持った時であることを承知していた。
「前置きはこれくらいにして、食事をしながら、ある告発者が録音したテープの一部を聞いていただきます。その上で皆さんのご意見を伺ってどうするかを判断したい。因みにこのテープは兵庫県の尼崎にある浅井組と云う組織の会議だそうです」そう言うと内村に頷いた。事前に危惧していたニュースソースなどの質問は緊張の中に消え去った。
警察庁長官の五十嵐だけは未だ下を向いたまま料理に手を出せなかった。治安への不信を問われているようで、総理の一言一句がわが身に突き刺さった。
テープから流れる声が聞こえ始めると十分ほどで食事の音がやみ全員が動きを止めた人形のように聞き入って、約三十分の再生が終わると静かな時間が戻った。
「凄いテープね。でも百㌔っていくらぐらいなの?」第一声は片田だった。
「概算だけれど内村の調べでは、ざっと六十億と云ったところらしい」誠一郎が吐き捨てるように答えた。
あまりの数字に気圧されたように静けさを取り戻した空気を再び誠一郎が破った。
「さて、今聞いてもらったように後三週間ほどで積み荷が到着します。逆に言えばこちらは対策を立てる期間が二週間近くはあるということだ。そこで基本対策を立てる為、今私が最も信頼するあなた方に来て頂いた。テープには続きがあって、残念ながら政府も警察も腐っている箇所があることが判ったからです」唇を引き結んで話す総理の言葉は強烈なショックを全員にもたらした。
「本当ですか。政府にも・・・」
「残念だが事実だ。名前も判っている」新たな展開に全員が唖然としていた。
「わが党員ですか?」さすがに党務の責任者として仁志が聞いた。
「それは違いました。でも我が党の人間とは違っても、その方の名誉も考えて確証が得られるまでは実名は控えたい。後で、大下さんと五十嵐さんには調査に協力してもらわねばなりませんから内村がご相談に上がります。その節はよろしくお願いします」
実名を控えた為に不満が出ると思われたが、総理の熱い言葉は告発者が誰だと云う疑問と共に吹き飛ばされた。
それよりも政府内部にまで腐敗が浸透している現実の深刻さが各大臣を襲った。
その後、従来の政権に見られたようなセクショナリズムを排して各省の緊密な連携をお願いしたいと出席者を見渡しながら言った。
全員の頷きが返ってきた。
「内村君一寸声を掛けてビールでも頼んでくれないか」
誠一郎の声にやっと一段落した気配が流れて、それぞれが思い思いに意見を交換しだした。
部屋を出て飲物を頼んで戻ってきた内村はそんな光景を暫く見ていたが、片田大臣の後ろから声を掛けた。
「大臣、少しよろしいでしょうか?」振り向いた弥生は「あら内村さん、何でしょう?」にっこり笑って問いかけた。
「折り入ってお話がございまして・・・」端に置かれた応接セットのほうを示して頼んだ。
「総理とあなたの折り入っては、何かあって怖いんだけど・・」笑いながら気軽に席を立って応接セットへ向かった。先に椅子に座った弥生が内村の座るのを待った。
「さて、内緒の話は何でしょう?」内村を見つめて足を組んだ。
「実は、地元兵庫の西宮に夙川病院という病院があるのですが・・」
と柊から聞いていた薬物汚染者やPTSD治療の為の病院建設用地と考えている物納された土地が何らかの理由で暗礁に乗り上げている話をして力を貸して欲しい旨を頼んだ。
暫く考え込んでいた弥生が
「内村さん、そのお話、あなたは利害関係者になっているの?」直截的な質問をした。
「いえ、それは誓って関係がありません。ただ、そのような患者さんを何とかしたいと思って・・・」暫く考え込んでいた弥生は内村の顔を覗き込むようにして
「内村さん、今日の会議の元になった内通者といい、今の病院の話といい、この前の総理が仰った六千万の女性の方からの情報ですか?」にっこり笑って見透かすような言葉に
「いえ、あの違います・・・」苦虫を噛み潰したような顔をして眼を伏せた。
「面白いわね、内村さんは。だからあなたって素敵よ。判ったわ、明日近畿財務局に調べさせるわ。それで良い?」
その洞察力と慧眼は誠一郎を凌ぐのではないかとさえ思われた。
「はい、ありがとうございます。よろしくお願いします」
立ち上がって深々と頭を下げた。
「ああ、おなかが空いた。ビールを飲ませて頂いて良いかしら」
何も無かったようにテーブルに向かう弥生を茫然と見送った。
やがて各省間の打ち合わせも落ち着いて、次回の会議を一週間後極秘裏にこの公邸で同じ七時から開くことを決めて散会となった。


官邸の周辺を何回廻ったのであろうか社用車が門前を通り過ぎようとした時に門扉が自動的に開きだした。少し行き過ぎたところで路肩に車を停めさせた理沙はじっと息を殺して開いた門扉を見つめた。何分かの時を刻んだとき一台の黒い乗用車が滑るように出て目の前を走り去った。続いて同じような車が相次いで吐き出されて行き、六台を数えたところで門扉が閉ざされた。
理沙は背もたれに身体を預けると運転手に社へ帰るよう指示を出した。


柊が入院して以来二日が経った夙川病院はいつものように一般外来に患者が並び始めた。
院長室のデスクの電話が鳴った「院長に近畿財務局の方から二番にお電話です」
「近畿財務局?」何だ一体・・待てよ、夙川の土地をお願いしているのが確か神戸の財務事務所だったと思い出した。
電話の主は神戸事務所所長の大山崎と名乗って、都合のよい時間に事務所までご足労願えないかと言う。
午前中は生憎診察があるので午後一番にと云う事で了解してもらった。

神戸の財務事務所で来意を告げると所長応接室へ案内された。いつもと違う応対に戸惑いながら席に着いた。待つほども無く二人の男が入って来て、所長の大山崎と名乗り名刺を差し出して横にいる男を国有財産管理官の矢部辰夫だと紹介して席に着いた。
「今日はお忙しいところ早速お越しいただいてありがとうございます」慇懃に挨拶しながら、ご希望があった土地の払い下げ決定の通知が出ましたので、今ご挨拶させて頂いた矢部と手続きなどのご相談を頂きたいと早口に告げた。
「どういうことでしょう、つまりあの松生町の土地を我々にお譲り頂けるということでしょうか」半信半疑の気持ちから念を押した。
「はい、何度も足をお運び頂いて、我々としても精神的な悩みを抱えている県民の一助にでもなればと任意売却に踏み込ませて頂いたという次第でして」これほどまでに変わるのかと思える対応に驚きを感じながらも素直な気持ちで礼を述べた。
その後三十分ほどは矢部から手続き書類の説明があった。
終わって、「何かご質問は?」と聞かれて「あのう、決めて頂いて文句を言うわけではないんですが、急にこうしてお決め頂いたのには何か事情があるんでしょうか?」思い切ってその疑問をぶつけてみた。
「事情?いや・・・特には・・・私どもも今回はあなた方のご希望を優先的に考えていたのですが、一部でクレームのような申し出があって苦慮しておりまして・・・・それよりも和田さんの方で動かれたんではないんですか?」歯切れの悪い返答が返った。
渡された大型の封筒が破れそうになるほどの書類を抱えて神戸財務事務所を出た敏男は、疑問を一旦忘れて念願の土地が手に入る喜びに浸りながら帰路を急いだ。


晩秋の陽が西に傾き物憂い時間が過ぎようとしている頃、敏一は柊の病室を覗いた。
「お邪魔じゃないかな」
「先生、どうされたんですか?回診までは未だ早いようですが・・・」
「そうだな、未だ早い。なあに手術以来ゆっくり話す機会が無くて・・・今日はたまたま時間が取れたんで君と話をしたいと思ってね。それに改めて生野でのお礼を言いたくてね。その節は本当にありがとう」心からのお礼を言った。
「自分こそ助けて頂いてありがとうございました」軽く頭を下げた。
「どうですか気分は?」
「はい、お陰様で体調は良いんですが、軽く運動をしようとすると手術跡が少し釣るようで体が鈍ってしまいます」
「未だあと二、三日は無理だな。いま無理をすると却って悪化させることになる」
「判りました」素直に応える柊に安堵した。
「妻から君のお話を聞きました。その時の君の気持を理解できる気がします。娘の相手が誰だか判れば私も行動を起こしたかも知れません。自分が如何に無力なのかを思い知らされ、こうして患者さんを治療しているのもその行為でしか手段を持たないからかも知れない」静かに柊を見つめて、訥々と語る敏一は苦しみを堪えるように一息ついた。
「君は妻に、そんな麻薬に侵された人たちを守るために戦わないかと云って拾ってくれた方々がいると言ったそうだね。そして此処を出たら戦いの場に戻るとも言ったそうだ。それはその相手に死を以って償わせるということに繋がるのかな?」覗き込むように直截的な聞き方をした。
柊は暫し考えていたが意を決したように敏一を正面に見た。
「先生、その拾ってくれた方はこう仰いました【法がその役割を果たせず正義が無視され、弄ばれ、抜け道を作られる今、それらに鉄槌を下す力を手に入れたい】と、自分は特殊作戦群に所属していた戦闘のプロです。甘く見た結果この銃創を負いましたが二度と同じ過ちは犯しません。結果として法を犯すかもしれませんが、それが自分の覚悟なのです」
決意と矜持に溢れた揺るぎのない言葉だった。
敏一は窓のところへゆっくりと歩き、暫くそのままの姿勢で窓外を見ていたが、振り返った彼の眼は少し潤んでいるように見えた。
「木辺君、いやここは柊君と呼ばせてもらおう。最近こんな静かな街でも麻薬などに侵される患者さんが後を絶たない。警察なども一生懸命動いてくれているんだろうが、娘を召された私から見れば歯がゆい思いをしていたところだ。妻が影ながらお手伝いさせてほしいと言ったそうだ。その時私もきっと賛成してくれる筈だと言って来たと聞いたが、私の口から敢えて申し上げる。是非ともお手伝いさせて欲しい」自身に眠っていた熱い気持ちが言わせた言葉だった。
柊にとっても体中熱を持ったような感動に包まれたが、一般の方を巻き込みたくはなかった。
「ありがとうございます。しかし先生のお気持ちだけ頂きます。これはプロの仕事です。先生たちを巻き込むわけにはいきません」
「柊君、私達もプロだよ。このような銃創や病気を治す。それにこれも妻の受け売りだが医者の存在は必要だし邪魔にはならんよ」
ニヤリと笑って言い張る敏一も後には引かない気迫の籠った言葉だった。押しかけ女房のように迫ってくる彼に、柊は為す術がなかった。
「さて、そうと決まったら主治医の資格をはく奪されないうちに、この傷を一刻も早く直さないといけないな」さっさと部屋を出て行こうとして振り返った。
「拾ってくれた方は並みの人じゃなさそうだ」おどけるように笑って言った。
それは敢えて問い詰めようとはしないで秘密を秘密として受け容れた姿勢であった。
「並みじゃあないです」柊も苦笑いで応えた。
敏一は少し考えていたがそのまま黙って部屋を出ようとドアに手をかけて振り向いた。
「君のお蔭で、弟もやっと明石の沖で釣りが出来そうだ」ひと言残して外へ出た。


本社に帰って政治部に入ると見慣れた喧騒があった。明日の朝刊に載せる原稿が次々に打ち出されて行く光景にいつものような快感を覚えた。編集長の前に立つと正に一面の見出しが出来つつあった。
「おう、これで決まりだな」満足そうに頷くと理沙に顔を向けた。
「そっちはどうだった」一言聞いた。
「今、八名全員が帰ったところです。確認しました」
岡橋は腕時計を見ながら、
「三時間か・・」一言呟くと腕を組んで考え込んだ。そのまま永遠に続くかと思われた時顔を上げて「無い、無いなあ。大臣五人に警察だろう、それに総理・・・・」
「それに総理秘書官です」理沙が付け加えた。
「今日出稿される記事を思い返しても、そんなメンバーが絡むような記事は無い。ということは何かが動いている・・・・」
またもや考え込んでしまった。ようやく顔を上げた岡橋は
「よし、理沙追いかけてみろ。他社は判ってないんだろうな」席に帰ろうとする理沙に聞いた。
「絶対です」理沙は振り向いて応えた。
頷いた編集長は副編集長を席の横にある応接セットに呼んだ。


敏一が外来の診察を終えたのは六時半を過ぎようとしていた。看護師の甲田俊子に労いの言葉をかけて院長室に入っていくと洋子と敏男がテーブルを囲んで話し込んでいた。
「お疲れ様」洋子が敏一にコーヒーを淹れようと席を立った。
「今日はいつもより外来が多いな」独り言を言いながら席に座って大きく伸びをした。
「で、どうだったの。お昼過ぎに柊さんと話をしたんでしょ」その結果を聞きたくて待っていたと言わんばかりに身を乗り出した。
「ああ、話をした」前に置かれたコーヒーに手を伸ばし、美味そうに一口飲んだ。二人が待ち遠しそうに敏一の眼を覗き込んだ。
「洋子の言った通りだったよ」途端に洋子の顔がほころんで、先を続けるように促した。
「そう、彼には変な会話のテクニックを使う必要がないと思って、単刀直入に切り出してみたんだ。私も娘を亡くした時に相手が判れば殺していたかもしれないと正直に話してね」コーヒーを又口に運んだ。
「それで?」敏男が続きを促した。
「彼は、肝心なバックについている人のことは何も教えてくれなかったが、その他のことは全て話してくれたよ」と昼間の柊との話を何も省かずに二人に聞かせた。
「だから改めて僕も協力すると言っておいたよ」と洋子を見ながら頷いた。彼女も頷いてコーヒーに手を伸ばした。
「そうか、法がその役割を果たせず正義が無視され・・・そうだよな。柊君を拾った人はうまいことを言うなあ」妙に感心して敏男がその言葉を繰り返した。
「その方はどのような方でしょうね?」興味ありげに想像を膨らませて洋子が聞いた。
「そのことは我々が知らない方が良いと彼が判断したんだ。だから我々もそれには触れてはいけないと思う」敏一が言い切った。
「それよりも、松生町の土地の話だが、僕はこれも柊君が動いてくれたんじゃあないかと思っているんだ」これには二人とも驚いたような顔を見せて敏一を見つめた。
「どうしてあなたはそう思うの?」
「うん、それは・・・この話を知っているのは私たち三人だけだろう?」二人を見ながら同意を求めた。
「そのはずだ。三人が外で誰かに言わない限りな」
「ところが喋ってしまった人が一人いるんだ」敏一がいたずらを見つけたように洋子を見つめてニヤリと笑った。
「えぇ、わたし?」自分を指さして二人に問い質すように聞いた。
「思いだしてごらん。お前この前柊君に協力するんだと言って僕たちを説得しただろう。その時新しい病院の話を興奮して話してしまって柊さんには関係ないのにと反省していただろう」洋子はその時の光景を思い出した。
「そうだわ、確かに話したわ。でもそれが何で松生町の土地と結びつくの?」
「そこだよ。我々以外に知っていたのは柊君だけだ。話し終わって帰りがけに“拾ってくれた方は並みの人じゃなさそうだ”と問いかけてみたんだ。すると彼は何と答えたと思う?」謎かけのように言って二人を焦らした。
「もう早く教えて」
「並みじゃあないですだとさ」洋子と敏男がお互いの顔を見ながら驚きの表情を見せた。
「それで何となくわかるだろう」
「それで判ったぞ。僕が神戸の財務事務所で管理官の方が“あなたが動かれたんではないんですか”といった意味が・・・きっとそうだ」謎が解けたように頷いた。
「でも、クレームのような申し出っていうのは?」洋子が突っ込んだ。
「そこまでは僕も判らない」
しかし三人が共通して受け止めたのは、小さな勢力だが忍び寄る薬害に治療以外で対抗手段を持てたという意識であった。
そこには彼の背後に誰がいると云う問題では無く、柊を信じる事で受け容れた。


官邸では誠一郎が内村から秘密会合以来の警察や海上保安庁、情報通信局の動き、更には内閣情報調査室が大室議員と西島秘書官に対する二十四時間の監視体制に入った事の報告を聞いていた。
「よし、分かった・・・」次に言葉を続けようとしたところで内村の携帯が鳴った。
「すいません」と言いつつ携帯を見て「片田大臣です」誠一郎の頷きが返った。
「はい、内村です」
(内村さん、今よろしい?)
「はい、大丈夫です」
(この前頼まれていた夙川の件だけど)
「はい」
(電話だから手短に言うわね。あれは民生党の大室っていう代議士が神戸の財務事務所に自宅をあそこに建てたいから便宜を諮れって強硬に言ってきたらしいの。それも公示地価を下回る価格でね)
「大室先生というと大沢先生の・・」
(そう腰ぎんちゃくよ。それでその所長に、そんな事で折れていると今までと同じになってしまうわよ、太鼓持ちの自宅と公共性の高い病院とあなたはどちらを取るの、と怒鳴りつけてやったわよ)
「それで、どうなりました」
(どうって・・・それだけよ。善処しますと言って電話を切ったから・・でも彼も馬鹿じゃないと思うわよ)
「ありがとうございます。感謝します」
(今度総理に六千万の彼女を紹介してくださいと言っておいて)電話は切れた。
携帯を見て苦笑いをしている内村に
「大室さんがどうかしたのか?」誠一郎が声をかけた。
「あっ、はい」不意を突かれて少し考えたが「実は一昨日の会議の前に柊君から頼まれて、今回の密輸とは関係が無いと私の判断で片田大臣にお願いしたことがありまして・」その経緯から今の電話まで全てを話した。
「すると何か、夙川病院というのは、今柊君がお世話になっている病院か?」
「そうです。警察に届けないでいてくれた和田さんご夫妻と弟が経営しています」
「お嬢様を麻薬で亡くされた方だったな」
「はい」誠一郎は暫く瞑目して考えていたが、
「彼は無頼の輩と結びついているだけで無く、そんなゴリ押しをして公共の病院建設まで邪魔をしているということか」
「そうなります」
「正にそれが選良の人がやるべきことか。その様な人が代議士を名乗ることさえ許されない」拳を固く握りしめて、怒りを抑えるように誠一郎が呟いた。
「一応、先程も申し上げた通り大室さんにも監視がついていますが・・」
「いや、そんな所ではボロは出さんだろう、あんな人はしたたかだからな。よし、この前のテープの後編を弥生さんにも聞いてもらおう。それで、今の話と合わせて彼がどれほど癒着しているか彼女にも知っていてもらう必要がある」
「その場合大室以外にも今井さんも名前が知れてしまいますが・・・」内村も大室と呼び捨てになっていた。
「そうだな、でも彼女なら大丈夫だよ。うまくやるさ」
如何に誠一郎の信認が厚いかを如実に示す言葉だった。
「それで頼む。先ほどの対応はそのまま続けて逐一報告してくれ」
「判りました。私は直ぐにでも片田大臣の部屋へ行きます。用事があるようでしたら後藤に仰ってください」第二秘書官を指名して執務室を出た。
内村が出て行ったあと暫く考えていた誠一郎は引き出しを開けて携帯を取り出し、W3を押してしばらく待った。
「ダブリューワン」
木暮も始めての総理からの直接の電話だけに緊張した。
「ダブリュースリー」簡潔に応対した。
「そちらの報告は内村から聞いていますが、柊君の経過はどうですか?」
「ありがとうございます。未だ二日ほどですが経過は順調なようです。総理はお変わりありませんか?」そんなに心配していない様子に安堵を覚えた。
「取り敢えず順調と言っておこう・・・この前のテープでやっと対応策が動き始めたところだ」
「何よりです」
「打てる対策は打ったつもりだが何か、し残していることがあるんじゃないかと不安が付いて回る。君にバックアップしてもらいたいが、名古屋、大阪、神戸の三箇所では管轄地域も違うしなあ」
「私がお聞きしている範囲では警察や海上保安庁の初動は間違っていないと思いますし、彼らの力に自信を持たれて大丈夫ですよ」
「勿論、信頼は揺るがないが自衛隊の立場で見たアドバイスは無いかね」不安を出来る限り払拭したい総理の気持ちが出ていた。
「アドバイスと言うほどではありませんが、コロンビアの麻薬カルテルは政府を相手にしても強力だと聞いています。これが今回の相手とは断定できませんが最悪を想定して動かれる方が対策は立て易いと思います。当然警察も準備はしているでしょうが」
「最悪と言うと?」最後まで聞かずに問い返した。
「つまり仮に相手が武装していた場合は、これだけの密輸ですから重武装を想定しなければなりません。まして政府の正規軍とでもやりあう相手ですから実戦の経験は豊富だろうと思って間違いは無いと思います」
「実戦か・・・死者が出ることもありうるんだな」
「ヤクザと同列には考えられません。銃の扱いは慣れていて、もしアサルトライフルなどで武装していると厄介です」
「それで警察のSATが対抗できるんだろうか?」
「SATが行くんですか、それなら大丈夫でしょう。彼らもAK47ではありませんがアサルトを持っていますから問題ないと思いますよ。それに貨物船の船籍にも依りますがSATなら対抗できます」総理を安心させるように断定した発言だった。
「センセキ?」
「船の国籍です。外国船だと旗国主義がありますから」
「そうか。旗国主義か・・・するとどうなる?」
「カルテルが荷物の引渡しまで責任を持っているなら、踏み込む際には細心の注意が必要になります」
「そうか、銃撃戦になれば犠牲も覚悟をしなければならないな」
「SATなら充分対抗できる訓練を受けていますよ」
「そうであれば良いが自衛隊が出られないのは何とも歯がゆい部分があるな」
実際には木暮に指揮をとって欲しい事を隠そうともしなかった。
「国家有事の際には統合幕僚長のもとで即応できる体制にはありますが、今回はあくまで警察が主体であるべきでしょう。私どもは裏でバックアップする体制を考えては見ますが・・・・」
「是非、影でも良いから支えてやって欲しい。よろしく頼みます」
「判りました。可能な限り・・・」話が途中で途絶えて暫く空白が出来た。
通話が切れたかと思って呼びかけようとしたとき
「あぁ失礼しました。ちょっと思いついたことを言っても良いでしょうか」
「何だね、何でも言ってくれ」
「我々がバックアップするとして、もし事前に入港先が判ればその準備は極端にし易くなるわけで・・・」
「先日から警察の情報通信局で監視を始めているが、突然警戒レベルを上げると内通者に察知される可能性もあってぎりぎりの所で強化するつもりだという報告は受けているが」
「いえ、その、内通者に知られるほうが良いんです」
「それは何とも無茶な話だな」考えていることが判らなかった。
「いいですか総理、直ぐにでも警戒レベルを三港の内二港だけに絞って上げさせるんです」それだけ聞くと誠一郎も直ぐに反応した。
「そうか、判ったよ木暮君。一港だけ普通にしておいて、その場所に誘い込む・・これを何と云ったかな???エー・・・」
「陽動作戦ですか」
「そう、それだ。そうじゃあないのか?」
「いえ、その通りです」
「そうか、よしそれで行こう。で、その一港は?・・・そうか神戸だな」
「そうして頂ければ態勢は取り易くなります。しかし総理、あくまで我々はバックアップであって、使わないようにするのがベストだと云う事をくれぐれもお忘れなく」
「判った、その通りだ。しかし私としてはそれが有るのと無いのでは心理的な圧迫感から逃れることが出来るんだよ。分かってくれ」
「それで総理、より安全を期すためにもう一つお願があります」
思わぬ木暮の提案に愁眉を開いた誠一郎は声の調子も変わっていた。
「何でも行ってくれ」
「そこまでする必要は無いかもしれませんが、航空自衛隊の浜松基地に警戒航空隊がE‐767と言う早期警戒管制機を持っています。これですと日本の領海に入った時点で補足できます」
「早期警戒管制機は領空侵犯の航空機を捕捉するのが主体で、船舶の場合は周辺の波が大きかったりすれば難しいのではないかな」
「いえ、この機のマルチレーダーは改良されてシークラッターを排除できる筈です」
「そのシークラッターと言うのはどういうものですか」
「はい、今までは波が高いと、仰ったとおり海水面にレーダーが反射して深刻な影響があったんですが、マルチモードはそれらを排除出来て追跡と電波の傍受が可能になっています」
「何とまあ海上自衛隊のことまで良く知っているんだな」誉田統合幕僚長の話で木暮がいずれ自衛隊のトップになるだろうと言っていた言葉が実感できた。
「恐縮です」
「それじゃあ、君から言って・・・・そうか分かった。誉田統合幕僚長に私から頼んでみるよ」
木暮の今の立場はW機関であり、直接誉田と話をすることが出来ない事を理解した。
陸、海、空一体となった対応チームが動き出そうとしていた。


財務大臣室では片田弥生が内村の持ってきたテープを聴き終わった。聞くほどに険しくなってゆく眉間の皺を隠そうともせず「何と言うことなの、この大室と言うのは。同僚と言われるのさえ腹立たしいわ。それにこの秘書も・・・でも今井先生は私から見るとご立派な人格者よ、だからご存知じゃあ無いと思うけれど・・・」怒りを内村に向けるように声のトーンが上がった。
「総理も同じようなことを仰いました」
「そうでしょうね。直ぐにでも告発したいくらいだわ」
内村は彼らに二十四時間の監視がついていることを報告し、税関の管理強化を要請した。
「判ったわ。次の会議までに管轄を総動員して情報を集めておくわ。テープのお礼を総理に伝えておいて頂ける」
総理の意図を理解した弥生がいつもの冷静さを取り戻して言った。


出勤すると直ぐに編集長に呼ばれた。
「きのうお前が帰ってから副編と話したんだが、お前のサポートに越智を付けることにした。この件はコンビで追っかけてくれ。副編も今回のお前のカンを信じたいとさ」
「ありがとうございます。それで越智さんは?」
「副編と話した後奴を呼んでお前の掴んでいるネタを話したら、社会部に同期の奴がいるから朝一で警察の記者クラブに寄ってから国会でお前と合流すると言っていたよ」フットワークの軽い越智なら助っ人としては申し分なかった。

朝一番に警察に寄ると云っていた越智と国会内で会った。
収穫はあまり無くてSATに異動があったらしいと聞いた時「らしい?何よそれ。中途半端な情報は要らないわ」
「いや、らしいと言うのは、SATは顔も名前も公表されない組織だから、異動があっても同様だそうだ。だから、らしいと言う表現しか出来ないそうだ」
「なぜ、公表されないの?」
「四十年ほど前に警察官がシージャックをした犯人を射殺したんだが、ある弁護士がその警察官を殺人犯として告発したそうで、それ以降そうした告発をさせないために個人を特定出来ないようにした措置だそうだ」
「何なのその弁護士は、アメリカじゃあ考えられないわ」彼女には想像すら出来なかった。
「だろうな。今では日本でも凶悪犯罪には厳しくなって、そんなことが起こっても告発なんてことはされないだろうが、矢張り個人の精神的ダメージも考えて公表をしないでいるそうだ」
「そうなの、でもその人たちが異動するのは珍しいことなの?」
「そうでもなくて時たまあるそうだが、時が時だけに結び付けて考えてしまったのかな」
「ウーン、説得力には乏しいわね、今回の官邸の動きと結びつけるには」
「そうだよな。でもそれ以外には無いよ」
越智の仕入れた話は記憶の片隅に押し込まれた。


木暮に電話を架けた後、誠一郎は直ぐに動いた。
内村に連絡を取らせて翌朝の十時に、大下と五十嵐を呼んだ。
三十分の時間をずらせて大田防衛大臣と自衛隊の誉田統合幕僚長も呼ぶように指示をした。
官邸の入口は正面から入ると実質は三階のエントランスホールに着くことになるが、公邸からは二階から入るような造りになっている。総理執務室と応接室は五階の最上階に配されていた。
「すまない、待たせたかな」内村を従えて応接室に入ってきた誠一郎は二人に座るように手で促しながら腰をかけた。
「それでは前置きは抜きで今日来てもらった訳を話しましょう」
そう言って内村からメモ用紙を受け取った。
「先日の会議でお二方には当該の船が入港して保税倉庫に荷を降ろした時から摘発までの最前線を担当して頂くわけですが、相手方がアサルトライフルと云う強力な武器を携帯しているとの情報があります。勿論それに対抗してSATの精鋭を当てられることも聞いていますがくれぐれも隊員の生命第一で行動して頂きたい。というお願いが一つで、二つ目は作戦に立ち入る様で差し出がましいのですが、三つの港のうちどの港に向かうかと云う難問を解決する手段に陽動作戦を取り入れたいと思ってご相談したいのです」
「陽動作戦?」二人が同時に顔を見合わせた。
奇しくも同じことを提案しようとしていたからである。
「で、総理はどの港をお考えでしょうか?」
作戦そのものは二人の考えた作戦が総理と一致した事で港の選択に興味が移った。
「出来れば神戸にして頂きたい」誠一郎は敢えて強く示唆した。
再び二人が顔を見合わせて頷き合った。
「さて、そこで陽動作戦を実施するに当たって神戸に入港するその船を監視するために、この前、無線の傍受を検討して頂くようお願いしたが、この際航空自衛隊の早期警戒管制機を利用して我が日本の警察力を思い知らせてやろうと思います」自衛隊機を使ってまでねじ伏せるのだという強い意思が二人に伝わった。
尚も誠一郎は続けた。
「それで、あなた方には相談も無く防衛省の大田大臣と誉田統合幕僚長に来てもらっています」そう言って傍らに控えている秘書の後藤に頷いた。
彼がそのまま部屋を下がって大田大臣と制服姿の誉田を案内して部屋に入ってきた。
「突然呼び出して申し訳ない。危急のときだから許してください」手を差し出して二人を迎えていた。
『とんでもありません、事情は先ほど内村秘書官からブリーフィングを受けました。それでどの様な協力が我々に出来るでしょうか?」
概略は内村から聞いてもらった通りだと言って、早期警戒管制機の出動を要請した。
「さて、誉田幕僚長お引き受けいただけますか?」
幕僚長の顔を覗き込むようにして聞いた。
「最高指揮官の命令は絶対です。直ぐにでも浜松基地指令官の志村空将に命令を伝えます」背筋を伸ばして誉田は応えた。
「それで、どこで彼らの船を捕捉出来ますか?」
「お聞きした限りではコロンビアからだそうですね。それですと浜松にあるE‐七六七を出せば日本の最東端にある南鳥島を通過する頃から捕捉は可能と思われます」
「その南鳥島は日本からどれくらいの距離にありますか?」
「大体一八〇〇キロくらいでしょうか」
「一八〇〇だと日本の港に着く二日か三日前には捕捉できると云うことだな」
「はい、三日前には捕捉できると思われます」
「どうですか?五十嵐さん。それだけの余裕があれば態勢を作って待ち受けることができるでしょう」
「それだけ頂ければ十分です」五十嵐が総理の熱い気持ちに応えた。
「よし、それで行きましょう。誉田幕僚長よろしくお願いします」
「我々の任務はそれだけでよろしいんでしょうか?」誉田は物足りない様子で念を押した。
「ありがとう、今回は国内の事案なので後は警察にお願いしようと思っています。五十嵐さんは今後幕僚長と連携して、その早期警戒管制機を何時から配置についてもらうのか詳細を詰めて頂いて、次の二十七日の全体会議で報告してください」
リーダーの指示は些かの迷いも無かった。


土曜日であったがいつも通り九時過ぎに国会に着いた理沙は入口のところで内村を見かけた。思わず声を掛けようとした時滑り込むように一台の黒塗りの日産プレジデントが道を塞ぐようにして停まった。降り立ったのは国家公安委員長の大下と警察庁の五十嵐長官だった。
第二秘書官である後藤の後を歩く二人は直ぐにエレベーターに吸い込まれた。
内村は未だ玄関口に残ったままである。
理沙は携帯で越智を呼び出した。
「直ぐに官邸か公邸に廻って頂ける?」
「何かあったのか?」
「総理の秘書官が国家公安委員長の大下さんと、この前の警察庁長官と三人で向かったようなの」
「大下さん?何だろう?今日は土曜日だぜ」
「分かんない。一寸待って又車が来たわ。エーっとあれは・・防衛省の大田大臣と自衛隊の制服に星を沢山つけた方を内村さんが出迎えている」
「何だそれは、警察と自衛隊?何が起こるんだ?・・兎に角公邸か官邸を見に行って見るよ」越智との電話を切ると、すぐさまカメラに切り替えて自衛官に焦点を当て何回かシャッターを切った。理沙は一人広いロビーに佇んでいた。
少し興奮が冷めると周囲を見渡した。土曜日の休会中の朝に警察と自衛隊の関係者が内村に迎えられた現実は正に彼女を刺激した。
何かある・・・が、昼過ぎまで周辺を探って正体が見えない焦燥感に包まれただけだった。

「どうした、収穫はあったのか?」副編の松永も席を立って腕を組んだ。
「それが、さっぱり判んないんです」理沙が首を捻りながら今日の出来事を要領よく報告した。
「なんと、戦争を仕掛けるような顔ぶれだなあ」編集長が松永を見ながら呟いた。
「それで、その自衛隊の制服は一体誰なんだ?」松永が理沙を見て問いかけた。
「それが初めてで判らないんです。でも写真だけは撮りました」言いながら携帯のディスプレイに写真を呼び出して見せた。
暫く画面を見ていた松永は
「少しボケているなあ。でも・・・・これは大将かな」画面を編集長に向けながら呟いた。
「タイショウ?」
「そう。ピントは、合っていないけれど良く見ると、この制服の襟に桜の徽章が四つ付いているだろう・・・・・待てよ・・・この姿・・分かった。誉田さんだ。誉田統合幕僚長に違いない。そうです、制服組のトップで、この平成で最高の指揮官と言われている人ですよ」
「桜の徽章?この襟の徽章は桜なんですか?」理沙が問いただすように聞いた。
「そう日本の国花が桜だからな」
編集長の岡橋が再びその写真に目を向けて
「そう言えば似ているなあ。とすると自衛隊のトップ二人と警察のトップ二人か。何があるんだ?」静かな沈黙の時間が過ぎていった。
「何か掘り当てたか?」二人と言うよりも自分に言い聞かせるように呟いた。
「そう、何かありますね」副編集長の松永も腕を組んだまま頷いた。
二人は朝からの様子を報告した。
「よし、上野、思い切って秘書官に切り込んでみろ。でないと埒が開かん。突破口を見つけ出せ」鋭い言い方で理沙の気を引き締めるように指示した。
「はい、何とかやってみます」
「何とかでは無くて、絶対に探り出せ」粘りつくような物言いだった。
「はい」短い返事ではあったが理沙もその気になった。
二十六日の官邸の見張りは越智の番だったが、その日も七時半まで粘って官邸の側に張り付いていたが、見張りを解いた十分後に大下国家公安委員長の公用車が官邸の門を潜って公邸のアプローチに入ったのを見落としてしまった。


夜分遅く来たことを総理夫妻に詫び、淑子がお茶を淹れて退室するのを待って、大下は総理と向き合った。
「私は総理とこの政権でご一緒した時から最後のご奉公だと誠心誠意尽くしてきたつもりでおります」突然の大下の口調に誠一郎は異変を感じたが、常と変らぬ視線を向けて大下を見つめていた。
「実は二十日のあの会議以降、民生党の今井さんの秘書の西島と大室代議士に内調が監視体制に入ったのはご承知の通りです。それで、その中間報告と云う形で今日の午後遅く内村君から私の手元に届けられたのですが・・・」一瞬大下が目を伏せた。
「総理、私は今回の計画から外して頂くべきだと考えて参上しました」初老に差し掛かった男の物言いであった。
「どうされたんですか」彼を見つめて心配そうに尋ねた。
大下は持ってきた鞄を開けて書類を取り出した。
「これは内村君が私に配慮して先ほど届けてくれた内調の報告書です」誠一郎に差し出しながら尚も続けた。
「報告書に依れば大室さんは未だ何も掴めていないようですが、西島秘書官に関して厳しい見方の報告でした。中でも私のところの二宮と強い接点が見受けられるそうです。前から彼とは学生時代からの親友だと云うことは聞いていたのですが、それがとんでもない方向に進むと・・私としては断腸の思いで彼を切らねばならないと考えていますし私も当然責任を負わねばなりません」胸の内を吐露する大下は見るのも気の毒なほど憔悴していた。
誠一郎は大下の持参した報告書に目を通していた。時間はゆっくりと過ぎていった。時折報告書の前のページに戻っては又続きを読むといった具合に熟読の時間が過ぎた。
傍らに座った大下は出されたお茶に手をやることも無く俯いたまま耐えていた。
やがてゆっくりと報告書をテーブルに戻した誠一郎は
「大下さん、ご心配要りませんよ。これを見る限りあなたの秘書は白ですよ。ただ単に学生時代の親友と云う立場で接しただけで、その男が何処かで道を踏み外したのに気付かなかっただけだと思いますよ」
「ありがとうございます。ただ先ほど内調の恩田君には例外を設けず、明日から二宮にも二十四時間監視をお願いしたのですが、既に報告書を書いた時から実施されているそうです」
悔しそうに唇を噛んで報告する大下に深い同情を禁じ得なかった。
「それにしてもこの秘書官は結構遊んでいますね。未だ一週間も経たないのに連日この何と言うのかコロムかコロンかの太田と云う男と派手に飲み歩いているじゃあないですか。それにMDMAに汚染の可能性有りとも報告されていますね」
努めて大下の気持ちを和らげようとする総理の気配りが嬉しかった。
暫くの沈黙が二人を包み誠一郎は腕を組んで考えていたが、やがて何かを思いついたのか組んでいた腕をほどくと前に乗り出すようにして大下を見つめた。
「大下さん、私からお願いと提案があります」言ってから頭の中で話す事を整理して再び口を開いた。
「先日あなた方から提案をいただいた陽動作戦の件ですがね」あくまで警察の提案と言い換えていたのは五十嵐たちが中心になって活躍してもらわねばならない心情があった。
「もし、彼から内部情報が漏れているとすれば、それを今回の陽動作戦に利用させて貰おうじゃあないですか。つまり現象面だけではなく情報面でも西島君を利用して名古屋と大阪は警戒が厳しいとの情報を流して、神戸に向かわせるんです。二宮君の協力を得てこの計画が上手くいけば彼の無実も立証されるし、正に一石二鳥の作戦になるでしょう」
鋭く言い放った誠一郎を見て、総理の自分への信頼を全身で受け止めた。
「ありがとうございます。二宮には私が何としても協力させますが総理はどのようにしてその情報を流そうとお考えでしょうか?」総理の考えている方策が未だ呑み込めていなかった。
「文書だけは作らなければなりませんが、これは片田さんが上手く作ってくれますよ。後はいつも通りあなた方のところに流れていくだけです」
「それを西島が読むか、盗むとお考えでしょうか?」
「そうです」いとも簡単に答える誠一郎だが、大下には未だ納得できないようであった。
「お願いと提案があると言ったのはそこなんですよ。この作戦期間だけ、あなたの執務室とその二宮君の自宅に監視カメラをつけさせて欲しいのです」
「監視カメラ?・・・ですか」
「そうです。二宮君には友人を監視するという辛い立場に立たせるのですが、西島がどういう方法で情報を掴むのかを知るにはこの方法しか無いと思います。只、この計画は二宮君が潔白だという前提に立っていますがね。でなければこの作戦全体は失敗です」
総理の強い信頼は揺るぎが無かった。
「細かいことは明日内村と相談してください。書類は片田大臣に私から頼んでおきます。カメラは恐らく営繕部の技官がお伺いすると思います」誠一郎の淡々とした口ぶりに大下は改めて深々と頭を下げた。
静かに頭を下げた大下は公邸の主に見送られ晩秋の風が冷たい前庭で車に乗り込んだ。



           反  攻


柊が病院に倒れ込んでからちょうど一週間が過ぎようとしていた。未だ腹筋などを鍛える運動は出来なかったが歩いたりするには何の支障もない程度に回復していた。
昨日の夕暮れに敏一が傷口を見ながら『君の体はどんな構造なのだろうな。この回復力は大したもんだ』と呟いたのを奇禍に退院を口にしたとき、暫く考えて『鬼退治は慎重にな。明日の夕方でいいだろう』と言ってくれたのである。
入口に紙袋を持った平田の姿が見えた。
「よう、意外に早かったな」握手を交わして話しかけた平田が「幕僚長にお前の希望を話したら、お前に一任すると仰ったのでここに持ってきたよ」平田が袋を持ち上げて見せた。
「ありがとうございます」袋を受け取って駐車場へ続く救急入口の前で立ち止まり入院中に部屋から見つけておいた、駐車場を囲んで植栽されている柊の葉を一枚摘んで紙袋に入れ、狙撃された日に倒れ込んだソファーに置いた。
停めたランクルの中から二人で紙袋の置かれたソファーを眺めていたが、看護師の早苗が通りすがりにその袋に気付いて中をしげしげと見て、慌てたように院内に持って行くのを確認すると車を出した。

柊を見送って三人が例によって院長室でコーヒーを飲んでいるところに廊下を走る音がしてノックもせずに看護師の井戸早苗が飛び込んできた。
「まあ、早苗ちゃんどうしたの、ノックくらい・・」言いかけて、早苗が震える手で紙袋を差し出すのを受け取った。
「これが救急入口に・・」
「誰か忘れて行ったのかしら」受け取りながら中を覗き込んで眼を大きく開いた。
「なんなのこれは・・・」絶句したように洋子がテーブルに袋を置いて中身を取り出した。
大量の一万円の札束を前にして全員が押し黙ったまま注視していた。
「一体誰が・・・」やっと敏男が口を開いた。
洋子がハッとした様に袋の中を見て、一枚の葉をつまみ出した。
「これは?」木の葉を摘まんで袋から取り出した。
「柊の葉ね」全員が息を呑んだようにその葉を見つめていた。
「その葉がどうかしたのですか?」傍に立つ早苗が無邪気に問いかけた。
声の方に顔を向けた洋子は彼女が柊のことを知らなかったことに気がついた。
「ウウン、何でもないわ。取り敢えずこのお金は預かって、後で忘れ物として警察に届けるわ。あなたは皆に忘れ物をしたと来る人がいたら此処へご案内してと皆に伝えておいて」取り繕うように指示をして仕事に戻るよう促した。早苗がドアを閉めて出て行くと改めて
「柊さんね・・・」指先の葉を見つめながら二人を見た。
「どういう男だ彼は、訳が分からん」
「どういうことにせよ、ありがたく頂戴しておけば」敏男も首を捻りながら二人に言った。
「でもなあ」敏一が洋子の手から柊の葉を受け取って呟いた。
「でも?」
「うん、確かにこの葉を見る限り柊君に間違いないとは思うが・・・・それはあくまで我々の推測で絶対じゃあないと思うんだ」敏一の意見に又暫く沈黙が続いた。
「そうね、あなたの仰るとおりこれだけでは絶対じゃあないわ。せっかくの贈り物だけどやはり警察に届けましょ。でもこれ幾ら位有るのかしら」
「帯封の数から見て二千万だな」
「すごいわね」
惜しそうな口調ではあったが紙袋に札束を戻しだした。
「でも、惜しいなあ。これだけあれば建設資金も少しは助かるのに」いかにも残念そうに敏男が袋に入れるのを手伝っていると、敏一が慰めるように
「なあに、落とし主が出てこなければ六ヶ月で又戻ってくるさ」と肩を叩いた。
「そうか、そうだな。本当に柊君なら届けるとは思えないしな」
落とし所を見つけたように敏男が頷いたが、二〇〇六年の遺失物法改正で六ヶ月が三ヶ月になっていることは知らなかった。
柊達は麻薬の取引から派生した二千万円の行方が更生のための施設建設費の一部に充てられることを期待していた。
彼は善意の国民を薬害から守るための現場に復帰した。


その日の東京は朝から薄く靄がかかった様な空だった。
理沙は相変わらず内村を追っていた。午後に入って彼の動きが急に変わった。携帯を使っての連絡が急激に増えたのである。架かってくるのと架けるのが半々だった。それに官邸なのか公邸なのか定かではなかったが地下通路への出入りが増えていた。直感的に何かあると判断した理沙は越智に連絡してカメラマンを出してもらうように頼んだ。
一日おきに越智と交代で張っていたが、新聞記者会館敷地の南西駐車場隅の植え込みに大きな桜の木を見つけていた。急遽駆け付けた島も赤外線フィルムを装填した望遠カメラを構えていた。
「この前と同じく車のナンバーの撮影で良いんですね」島が囁くように聞いた。
「そうよ、ナンバーと出来ればバックシートの人間もね」じっと公邸の門扉を見ながら理沙が答えた。
「来るとすればそろそろよ」六時半を過ぎた腕時計を見ながら呟いた。
黒いトヨタセンチュリーが官邸前を通ってこちらに向かって来ると左折のウインカーを出した。
四台目の車が公邸に入ったところで理沙が携帯を取り出し短縮を押した。
「越智さん、来たわよ。今四台目が入ったところ。七時過ぎには社に戻れると思うわ」
一方的に電話を切った。
「六台目が来ましたよ」ファインダーを覗きながら島が呟いた。
「ヤッパリ同じ六人か」
「いや、今日は七人ですよ」島が尚カメラを抱えたまま答えた。
「七人?どうして、車は・・」全てを言わせず
「この前は一台に一人ずつだったのが、今日の五台目の車には後ろに二人乗っていました」島が確信ありげに囁いた。
「本当?」
「間違いないです。それも一人は制服を着ていました」
「制服?自衛隊?」
「あれは自衛隊じゃあないですね。でもどこの制服かは分からないですが・・・」
この前のときから制服が一人増えた・・・理沙は興味と興奮を抑えようとはしなかった。

編集長のデスク横にある応接セットで四人が写真を見比べていた。
「一週間前のメンバーと六人は変わらないんだな?」念を押すように岡橋が理沙に聞いた。
「車のナンバーから確認しました。間違いありません」
「それで・・・この内海大臣の横の人物が初めての男か?・・・・一体誰なんだ?」横に座る松永を見ながら聞いた。
「ウーン、赤外線写真は厳しい部分があるねえ・・・でもこの制服は国交省の大臣と同乗という所から見て海上保安庁かな・・・それも幹部」迷いつつ推理を交えて副編は回答を導き出した。
「おい、越智、海上保安庁を調べろ」呼応するように越智はコンピューターに向かった。
「一体総理は何を仕出かそうとしているんだ。上野、内村秘書官にぶつかったのか」
「いえ、未だ機会が無くて・・・」
「切り込めと言ったろう。何年飯を喰ってんだ」岡橋はいらだっていた。理沙の思いと同じように何かが動いている。それも時の人気と実力を兼ね備えた総理の周辺で・・・それが何なのか分からない苛立ちが理沙に向けられた。
越智がコンピューターから目を上げて
「乾源四郎五十六歳、三年前に長官になっています」
「その九人で何を相談しているんだろう。まさしく鳩首会談だな」
「しかも、二週続けて国会じゃあなくて公邸でだ」念を押すような編集長の呟きが漏れた。
暫く四人とも押し黙ったままになっていた。岡橋がスッと立って自分の席に戻った。
「いくら考えても埒が開かん。こうなれば当たるしか無いぞ上野。腹括って内村秘書官に当たって来い」
「分かりました」それしかないと理沙も腹を括った。
「よし、せっかく掴んだ大きなネタだ。この一週間の動きを見れば総理がこの九人で何かをしようとしていることは明らかだ。他社も気付いていない何かだ。上野、、お前が始末をつけろ。判ったな」
編集長の檄に理沙の背筋が伸びた。


緊張した顔で座る九人の前には例によって松花堂とお茶が並んでいた。
「みなさん今日はご苦労様です。連日の国会でお疲れだとは思いますが、今回の件は先に国民に公開して認知してもらうことが出来ない事案で、座視の期間は過ぎ去ったのです。それと内海大臣から今回の海上警備で海上保安庁を同行したいとご相談があって、今日は乾長官も同席頂いています」誠一郎が口火を切って挨拶し、乾海上保安庁長官を紹介した。
痩身で制服姿が似合う長官が席を立って腰を軽く折って一礼した。
「海上保安庁の乾です。先週、内海大臣から概略の説明(ブリーフィング)を受けました。今回の任務に全力を尽くします。よろしくお願いします」国を代表するメンバーに挨拶をする長官はまさに硬骨漢と云った風情を漂わせて着席した。
「では、食事でもしながら話を進めよう。全体像はすでに皆さんご存知だから、この前の会議での問題点の進捗状況を片田大臣から報告してもらいましょうか」誠一郎が促した。
「はい、では私から報告いたします」歯切れの良い口調で弥生が手元の書類を引き寄せた。
「先ず、輸入の申請からですが、コロンビアからの輸入に関しては入港の予定日から想定される船は二隻あります。大型コンテナ船で一隻は“ビューティドリーム号”九万七千噸パナマ船籍の船で、もう一隻は“パトリオット号”七万五千噸でリベリア船籍、船長は両方ともアメリカ人です」全員が真剣に聞き入っている。
「ビューティドリーム号は十一月九日に東京港に入港予定、パトリオット号は七日に名古屋港に入港予定です。それ以外はコロンビアからの輸入は前後三日以上空いているので、この二隻に絞られると考えます。それに余り参考に成らないかも知れませんが担当者が、普通このクラスの船の乗組員は二十名前後だそうですがビューティドリームは二十二名で、パトリオット号の方は三十九名と多すぎるようなことを言っていました」
それを聞いた誠一郎が大きく反応した。木暮との電話で麻薬カルテルが重武装をした乗組員を配置している場合もあると言っていたのを思い返していた。
「片田さん、参考にならないどころか、その方に礼を言って下さい。これはそのパトリオット号に違いない。彼らは麻薬を守るのに監視員を付けているからそれだけ人数が増えているんですよ」誠一郎が断定的な物言いをして全員を見渡した。
五十嵐と乾の二人が同意の頷きで応えながらメモを取り続けていた。
「それで、そのパトリオット号の積み荷を輸入する会社は何処の会社ですか?」仁志が静かに聞いた。
「提出書類に依れば渋谷に本社があるコロムと云う会社になっています」手元の書類を見ながら淡々と答えた。
慌てたように自分の手元にある書類を繰り出したのは大下だった。内村も気付いたが大下に任せた。
「一寸待って・・・・・・アァこれだ。片田大臣今なんと仰った?その会社の名前」
「渋谷のコロムですけれど?・・スペルはCOLOM(シーオーエルオーエム)です」
「総理、この恩田君の報告にその会社の太田と言う男と飲み歩いている例の秘書官が・・・」未だ議員の秘書官が当面の対象に取り込まれていることは伏せられていたので言い難そうに大下が発言した。苦衷を察した誠一郎が後を引き取った。
「そうか、あの秘書官が・・・間違いなさそうだな。私もうっかり聞き逃すところだった。大下さん良く気が付いてくれました。良いでしょうこの名前は皆さんに知ってもらう必要がある。内村から説明させます」そう言って内村を見て頷いた。
内村は立って手元の書類に目を落として、未だ証拠があるわけでも無く議員の名は伏せておいた事を詫びた上で、西島の名を出して経緯を全員に省くことなく話した。更に大下さんの了解を得て監視カメラが今日の午後から稼働していることも報告した。
「まあ、恐らく今井さんはご存じないかもしれんがね。その秘書官は間違いなく漏らしていると思われる」誠一郎が片田に目を向けた。
「よし、それでは陽動作戦の計画を聞こうじゃあないか。五十嵐長官説明してもらえますか」五十嵐に華を持たせるように仕向けた。
「はい、それでは私から説明させて頂きます。先日この壊滅作戦をご指示いただいて大下委員長と相談させて頂き、今総理からお話頂いた陽動作戦を計画いたしました。三箇所を均等に警備するよりも一箇所に集中したほうが良いと判断し、対象の本拠が神戸であることを踏まえ総理のご理解も得て神戸港に集中することで一致しました。第一弾として来月初めより名古屋・大阪の警備を強化して第二弾で神戸に精鋭を極秘配備して入港当日に実戦配備に就かせる予定であります。これには今日お越しの乾長官と会議後に詳細を詰めさせて頂きたいと考えております。又、片田大臣には名古屋と大阪の税関の検査を直ぐにでも強化して頂きたいと思っています」
弥生は今朝、総理から理由と共に計画を知らされた後直ぐに名古屋と大阪の税関長宛の命令指示書で訓令していた。
「判りました。直ぐにでも訓令しておきます」総理に合せて頷いたが、内村は弥生の臨機応変な強かさを実感した。
その後、五十嵐が自衛隊の誉田幕僚長と相談して、早期警戒管制機を配備して日本の領海に入った時点から監視させる方向で検討に入っていることを報告し、乾長官が配備計画を訥々と報告すると実戦を間際に控えた緊張感が全員に浸みわたった。
「長官、ご苦労様。今後五十嵐さんとよく連携してよろしくお願いしたい。それと今お話された隊員の強襲の件だが、これは相手が先に発砲したりした場合に限られるんだな」
乾に確かめるように聞いた。
「仰るとおりです。その場合は正当な防衛行為ですが、それ以外は先ほどの片田大臣の説明ですとパナマかリベリア船籍ですので旗国主義が反映されます」流石に明快な答えが返った。
「そうか、簡単には乗り込めないんだ」仁志が納得したように呟いた。
「そういうことになります」
こうして陸・海・空の戦略が着々と進められ、それぞれの戦術は各担当者が別個に協議することで最終調整が図られることになった。
「総理、この計画の作戦名と言うか呼称はどうしましょう」内村から提案があった。
「作戦名?ウーン、そこまで考える余裕も無かったが・・そうだね、強いてつけるならばErasureかな」
「Erasureと言うと消去とか抹殺と言う意味ですね」
弥生が呟くように言った。
「消去計画か。それは良い。全力を挙げてそ奴らを消してしまいましょう」仁志もこぶしを握って全員に訴えた。
ホールクロックの時報を全員が聞き逃すような熱の入った会議だった。
公邸の外では越智と理沙が寒くなってきた秋を見送るように辛抱強く入口を張っていた。


二回目の公邸での会談の内容も次の日の午前中には内村から木暮に全て連絡された。
午後の半日をかけて今回の全容を解析していた彼は日没時の国旗降下を待って幕僚長室に平田を呼び明日の昼一番に塚口へ行く旨を告げた。

朝早く起きて軽いジョギングのあと掃除と洗濯で半日を潰した柊が一段落つけてコーヒーを煎れ直した時に玄関のチャイムが鳴った。
「よお、お連れしたぞ」平田が木暮を伴って顔を見せた。
「ご迷惑をかけて申し訳ありませんでした」自分の不始末を詫びた。
「もう大丈夫なのか?」
「はい、お陰様で思っていたよりも早く退院できました」
「私も調べてみたが、お二人共相当腕の立つ医師のようだ。特に兄の敏一さんは大学と云うより日本でも指折りの医師らしい。外科学会では今でも惜しまれているそうだ」いつ調べたのか、今回の件で危機管理を第一に考えねばならない木暮の立場を物語っていた。
「よし、お前が夙川で撃たれて入院してからの出来事を今一度聞こうか」既に平田から報告を受けていたが、直接再度聞いておきたかった。
柊はあの日に平田と分かれて浅井組長の尾行から狙撃で入院を余儀なくされて退院まで何も省くことなく報告した。
木暮が飲んでいたコーヒーをテーブルに戻すと静かに話し出した。
「よく、あの激しい雨の中で拳銃のスライド音を聞き分けたな」改めて、鍛え上げられた人並はずれた能力に感嘆して柊を見つめた。
「復帰したからには、次は無いと行動に細心の注意を頼むぞ」指揮官としての忠告であり、柊は頷きでその思いを受け止めた。
「よし、デブリーフィングはそこまでだ。今後のことに移ろう」
持ってきた鞄から書類を取り出し、収集した盗聴情報を総理に報告してからの経緯を話し、今朝早くに内村から詳しく報告された第二回のトップ会談の内容の詳細が伝えられた。
「そこでW機関の任務だが・・・この国は法治国家だ。従って主体は警察に委ねられる。我々は表に出ることなく彼らのバックアップに廻ることになる」二人は黙って頷いた。
それから、神戸で荷下ろしされたコーヒー袋は保税倉庫に入れられ税関の検査を受ける事。其処からSATが対応することになるが、船には二十人程度の保安要員がいて彼等の抵抗も視野に入れて、我々はそれをバックアップする事になると順を追って話した。
木暮は改めて鞄から神戸港の地図を取り出してテーブルに広げた。
六甲アイランドとポートアイランドの二つの巨大な人工島が防波堤に守られるようにして神戸の沖合に造られ、各バースには巨大なオーバーパナマックス型コンテナクレーンが数十機並び世界の貨物運搬の主流になった大型コンテナ船に対応できる体制がとられていた。木暮はポートアイランドにあるPC十八と書かれた場所を指して二人に説明した。
「今回のパトリオット号は恐らくこの場所に係留され荷下ろしされるだろう。従ってこの場所を我々がどうフォローするかを検討したい」
このバースを選んだ理由はポートライナーの路線からも離れていて周辺に大きなビルも無く、埠頭の端だから一般の人の出入りも規制し易い場所にある事を説明した。
周到に考えられた戦術は十分説得力を持っていた。
「それで我々は何処で待機するんでしょう?」平田が聞いた。
「それが問題だ。見ての通り陸は恐らくSATが囲んでしまうだろうから我々は海からサポートするしかないと思うんだが・・・」
「我々が持つ装備は九十二式の浮橋用に使う作業用ボートしか有りませんからね」念を押すように平田が言う。
「あんな迷彩ボートを積んで街中を走って神戸沖に浮かべるのも無理があるな。まして沖には海上保安庁の艦艇が警戒しているからな」
三人とも押し黙ったまま神戸港の地図を見下ろした。
「小型のクルーザーでもあればなあ。幕僚長の知り合いに持っている方はおられないでしょうか」突然平田が木暮を見て言った。
「生憎、俺の生活環境ではそんな人はいないよ」苦笑いしながら木暮が答えた。
「W機関に頂いた予算でクルーザーを買いましょうか」
「仮に買うとしても今からでは間に合わない。更に、使った後はどうするんだ。貴重な予算をそれだけに使うわけにはいかん」浪費を戒めると、再び沈黙が支配した。
会話が途絶えた中で柊は記憶を呼び起こそうと腕を組み宙を睨んでいた。
「どうした・・」声をかけた平田に片手をあげて制した柊がやがて顔を上げた。
「クルーザー・・・ですよね・・・実は自分が入院していた時和田先生の弟さんの趣味が釣りのようで・・確か先生が雑談で“お蔭で、弟もやっと明石の沖で釣りが出来そうだ”と言われたんです。近々包帯交換で診察を受けに行くのですが、当たって見てもいいでしょうか」木暮に相談するように聞いた。
「でも、それは一般のクルーザーだろ。色は白いんじゃあないのか?」平田が素朴な疑問を投げかけた。
「黒く塗りましょう。銃撃戦で万一傷がつけばそれこそ新品で返す当てが出来るじゃあないですか」先ほどの木暮が指摘した使った後の始末まで出来る話だった。
聞いていた木暮が、しばらく考え込んだ後
「民間第一号の協力者か・・・良いだろう当たって見てくれ」
それは、柊の報告を聞き、和田兄弟の家庭や娘の死に至る経緯から木暮なりに調査して、力を借りるのを了とした結論だった。
話しが一段落した時、柊が座り直して木暮を見つめた。
「幕僚長、もう一つ実行したいことがあるんですが、お時間はよろしいでしょうか」
「何だ、聞こう」腕時計を見ながら応えた。
「はい、実は先ほどのデブリーフィングでは話さなかったのですが尼崎東南署の退官した警察官の中に一番最年少の警官を覚えておられるでしょうか」
「ああ、確か・・・鈴木とか言ったな。それがどうかしたか」
「実は・・・」あのまま尼崎を離れず交通事故に偽装されて報復された一件の詳細を報告した。
「報復であった可能性は高いんだな?」念を押す様に問いかけた。
「後日の新聞発表であの鈴木さんであることが確認されました」
「あの連中ならやりかねんな。それでお前はどうするんだ」柊の話の意図を察したのか問い返す言葉に緊張感がこもった。
「はい、この件の後か先になるかは情勢を判断して決めますが、彼らは麻薬をこの世に撒き散らす元凶です。和田先生のお嬢様、今回の鈴木さん、それに退官した荒巻さんや仙田さんもゆっくり眠れないでしょう。自分は矢張りW機関の出番ではないかと思っています」
「其処まで言うからには、お前に計画は既に出来上がっているということだな」
「はい」引き結んだ唇は決意を伝えた。
「よろしい。計画を聞かせてくれ」木暮も座り直して腕を組んだ。
柊は自分が調べ上げた浅井組の建物の概要を約三十分をかけて詳細に話した。話し終わって木暮を真正面から見つめた。
「それで、一般の市民には被害は及ばないんだな」計画に感心しながらも心配は一般に対する配慮だけだった。
「はい、指向性を使おうと思っていますし、多少爆発の振動で街灯などの部分的な損壊は免れないでしょうが、あの外壁の分厚さは我々が使っていたクーガー(九十六式装輪装甲車)にも耐えられるような頑丈なものだと確信します。それに連中は今まで警察や身内同士の内部抗争は経験していますが我々がどのような相手か知っておくべきだと考えます」
その顔には自信と決意が漲っていた。
「W機関の出番か・・・それにお前を撃った相手でもあるわけだ。それがどのような結果を生み出すか・・・確かに彼らも知っておく必要があるな」そう言うと木暮は立ち上がってサイフォンに残っているコーヒーを自分のカップに注ぎ足し、ゆっくり一口飲むと座り直して二人に向き合った。
「確かに我々W機関の任務は法がその役割を果たせず・・・と総理が言われた言葉と日本を守るという大義から出来た機関だ。無法者の集団は彼らがその組織に入った時点で、一般庶民として享受する権利を放棄したと考える。だが我々もまたその運用を間違えば殲滅しようとする相手と同じような批判も浴びる正に両刃の剣だ。そこには大前提が一つだけある。どの様なことがあろうとも民間に犠牲者を出してはならない。器物だけならどうにでもなるが、一般の人命だけは許されない」二人は改めてその言葉を重く受け留めた。
暫らくして木暮は師団長と打ち合わせがあるからと帰って行った。
「余程お前の腕を買っているんだな」感心した口調で平田が呟いた。
「それで先任、炸薬の方はよろしくお願いします」念を押すように確認した。
「ああ、何とか間に合わすさ。それでいつやるんだ」いよいよ実戦の時かと身が引き締まった。
「先ず保税倉庫への突入日と時間が決まってからでしょうね。それからこの計画を同日に決行する場合も考えて、杭瀬からポートアイランドへの足をどうするか検討しましょう」
「装備も積まねばならないしランクルしか無いんじゃあないか」
それには応えず柊は木暮が残して言った兵庫県地図を開いて、杭瀬駅を指さした。
「杭瀬駅か。これがどうかしたか?」
「この杭瀬の駅からずっと南に下ると大日本製鉄の工場に突き当たりますが、そこには左門(さもん)殿(どの)川(がわ)とか云う変わった名前の川がありますよね」柊が指で辿りながら説明をする。
平田が地図を見ながら笑い出した。「サモンドノガワか、俺も来たばかりの頃に釣り好きの下士官連中と、話をしていた時この川の名前は何と読むかと問われて同じように答えたのを思い出すよ。これはな“の”が要らないんだよ。つまり“さもんどがわ”と言うんだよ」
「そうですか・・・その左門殿川からボートを走らせるとポートアイランドまで何キロ位在るでしょう」
「・・・そうか直接行く手があったな」そう言うと縮尺を見ながら計算を始めた。
「この浅井組から川までは約五~六百㍍くらいで、そこからは大体この地図で行くと二十三キロから二十五キロといったところかな」
「すると和田さんの持っておられるクルーザー次第ですが、普通、二十ノットは出ると思いますから、それで計算すると約四十分でポートアイランドへいける計算になります」
「なるほど、車で浅井組からボートの繋留地まで十分・・それと四十分、合計五十分か余分を見ても一時間で目的地に行けるな」
「そうです、車だと事故や渋滞に巻き込まれると予想外に時間を取られてしまいますから」
「そうだな、杭瀬から神戸まではこの方法が確実だな」
「確か、先任はボートの操縦免許をお持ちでしたよね?」
「三級だけれどな、杭瀬から神戸までなら俺の免許で充分だ」
その後、積み込む装備や炸薬の詳細の詰めに夕食を摂るのも忘れて没頭した。
いつの間にか日が落ちて窓の外は闇に消えようとしていた。


月末も近づき、昨日も内村を掴まえる事が出来なかった。何が起きているのか・・・理沙は焦っていた。
今日なのか、明日なのか・・・早くしなければ他社に抜かれるという焦燥感で今日も早くから内村を探し、越智と手分けして国会内を歩き回っていた時携帯が鳴った。
「上野か、今どこにいる?」吠える様な越智の声が届いた。
「ロビーから少し入ったところ」
「良かった、内村さんが今官邸を出てそちらに向かった」理沙の目はエレベーターのほうに向けられた。
エレベーターが着き、濃紺の背広を上手に着こなし、いつものセカンドバッグを手にこちらに向かって来る。ぶつかる様な勢いで理沙が内村の目の前に立った。
「内村秘書官」切羽詰ったように言葉をかけた。
「ああ、上野さん。おはよう。どうかされましたか」いつもの落ち着いた声で歩きながら挨拶をした。
「少しお聞きしたいことがあります。お時間をいただけないでしょうか」内村の歩く速度に合わせて丁寧に切り出した。
「今日は少し忙しくて、今から出かけなくてはならないんですよ。明日では駄目ですか?」同じように丁寧な返事だったが歩く速度は緩まなかった。
「では、一分だけお時間をください」尚も食い下がった。初めて内村が速度を緩めて立ち止まり理沙に向きあった。
「一分ですね」念を押すように言って腕時計を見やった。
「ありがとうございます。一つだけお答えください」
頭の中で質問を整理しながら内村を見た。
「二十日の一回目、そして一昨日の二回目、総理官邸で総理を始め五人の閣僚と警察庁長官が六時半ごろから三時間ほど会議をされました。二回目も同じ時間帯で会議をもたれました。しかもその日は・・海上保安庁長官も増えました。その直前には貴方が防衛省の大田大臣と自衛隊の誉田幕僚長ともお会いになっています。一体何が起こっているのでしょう。教えて頂けないでしょうか」疑問に思う全てを一気に相手にぶつけた。理沙の鼓動は早く高鳴っていたが、その眼は内村に驚きと微かにでは有るが狼狽の色が浮かんだのを見逃さなかった。
「ウーン」腕を組んで宙を睨むようにする内村を凝視していた。しばし二人の探りあうような睨み合いが続いた。
「上野さん、よく見ておられますね。でも大変申し訳ないが、今は何もお話しすることはありません」期待の風船が急速に萎んでいくのを実感した。がしかし、ここで引き下がってしまうと今日までの取材は何だったのか「秘書官、それでは残念ですが、今何かが起ころうとしていると記事にさせて頂きますがよろしいですね」記者としての意地と執念が無意識に言わせた。
「上野さん憶測記事は駄目ですよ。それにブラフも止しにしましょう」あくまで落ち着いた内村に戻ってその場を離れようと向きを変えた。
「ブラフじゃあ有りません。事実です」
叫ぶような訴えに驚いたのか内村が振り返った。
眦を上げ資料を持った手を振るわせて挑みかかるような理沙が秘書官に詰め寄る。
「秘書官、私は新聞記者です。事実しか興味は有りません。私はこの十日間貴方を追いかけていました。朝から夜までです。結果、二回の会議が持たれたのは事実です。証拠の写真もあります。未だ貴方から見れば駆け出しかも知れませんが、秘書官を脅してまで記事を書こうとは思いません。只、二回の会議で何が進んでいるのか、或は進もうとしているのか知りたいだけです」感情を押さえ込むようにして話す理沙の純粋な抗議だった。
じっと立ったまま聞き入っていた内村は、
「いや、言葉遣いが乱暴だったのは謝ります。申し訳なかった」素直に頭を下げた内村は再び考えこんだ。
「少し待って頂けますか」断りを言った内村はロビーの端まで移動して携帯を取り出すと電話を架けた。ややあって、話し終わると再びボタンを押して別の相手を呼び出した。
その様子を見ながら理沙は自分を落ち着かせようと、立ったまま目を瞑って自分の言葉を反芻していた。気の遠くなるような時間が経過した時、内村が笑顔を浮かべて近づいた。
「上野さん、特にご用が無ければこちらへどうぞ」奥のほうへ導くように歩いて行く。
どこへ行くのかと訝しげに付いてゆくと、最近まで内村を追いかけていたときに彼がよく消えていった地下へ通じる階段を降りて行く。暫く歩くと敬礼をして立つ衛視に迎えられた。入口を入って直ぐのエレベーターに乗り込むと内村が五階のボタンを押して
「総理がお会いになる」一言呟くように言い、上って行く階数表示を見た。
五階で降りて案内された部屋は東山魁夷の絵が架かった落ち着いた雰囲気の部屋だった。
「下だと他の議員の方や記者の目もあるので、此処で話をしたいと仰ったのでね」内村が詫びるように説明をしているところへ総理が反対側のドアから入ってきた。
「やあ、いらっしゃい」にこやかに笑みを浮かべた総理が目の前に立った。
緊張感は高まり咽喉が乾いていた。理沙はソファーの横で立ったまま総理の一挙手一投足を見つめていた。
「さあどうぞ、おかけください」横から内村が座るように促した。
総理が座る向かいにゆっくりと腰を下ろしつつ相手を見つめて無言でいた。
「内村へのインタビュー記事は良い記事でしたね。私のことも好意的に書いて頂いて感謝します。永くアメリカに居られてイェールを出られたとか・・・あそこは確かクリントンご夫妻も出られたのでは無かったかな」
一方的に喋る誠一郎に「はいそうです」と答えるのが精いっぱいだった。これではいけないと思いながら矢張りまだ緊張が解けなかった。
女性秘書官が入って来て目の前に暖かな煎茶を置いてくれた。
「さあ、お茶でも飲んで、少しリラックスして下さい」
様子を察した総理がお茶を勧めた。
「ありがとうございます」見慣れた笑みを浮かべて総理が先に湯飲みを口に運んだのを見て、軽く頭を下げて湯飲みを手に取った。
正に干天に慈雨だった。良い香りと共に暖かいお茶が喉を潤すのを感じて、ようやく少し落ち着いた。
「さて、上野さんでしたか、内村から簡単に貴女の疑問と言うか質問を聞きましたが、今一度お聞きしたい。何がお知りになりたいのでしょう」歯切れのいい問いかけだった。
理沙もこんな総理に好感を持っていたのだが、それが自分に向けられると又幾分気持ちが乱れたが思い切って尋ねた。
「実は、九月の初めに総理が参議院の補欠選挙で大阪へ行かれたときに・・・・」話し始めると自然にいつもの自分を取り戻し、ホテルで第三師団の方々と遅くまで会われた事、秘書官の電話器に興味を持った事、今回の二回に及ぶ首脳級の会議のこと、手の内を何も省かず全てを話し終えて、その全てが何を指すのか教えて欲しいのですと総理を見つめて話し終えた。
黙って腕を組み眼を瞑って聞いていた誠一郎だが、彼女が話し終えてもそのまま動かなかった。再び渇きを覚えて湯飲みに手を延ばした時、腕組みを解いた誠一郎がじっと理沙を見つめた。
「上野さん、貴女は実に観察の鋭い方だ・・良いでしょう全てをお話しましょう」
誠一郎はソファーから前に乗り出すようにして理沙の目を見た。
「貴女が見られた通り、今、あるプロジェクトが動き始めています。その動向が漏れることは絶対に許されません。だから話したことは私か内村が許可しない限り、記事にはしないで欲しいのです。それを約束して頂けますか」理沙は少し迷ったが記者としての矜持が勝った。
「総理、お言葉を返すようで申し訳ありませんが、記事にする、しないは内容をお聞きしてから、こちらで判断させて頂きたいのです」
暫らく沈黙があった。
「・・・それは当然の権利だな・・・・よろしい貴女を信頼するしかなさそうだ」澄んだ目でまっすぐに理沙を見て、麻薬の密輸摘発へのプロジェクトを、国会内や警察の密通者の存在以外の全てを話し始めた。
聞き終わった理沙は、ある程度納得は出来たものの少なからず疑問を感じた。
「総理、お話頂いてありがとうございます。今は記事にしないで欲しいという話も理解できました。でも少し質問させて頂いてもよろしいでしょうか」
あくまで自分の疑問を払拭したかった。
「どうぞ」
「一つは、私もアメリカでの学生時代、少なからず同じ世代の友が麻薬に溺れていくのを見てきました。つらく悲しい出来事で、あの薬を憎む気持ちは誰にも負けません。でもこのような案件は総理が直接お出にならなくても日本には優秀な警察力があるのに、何故直接指揮を執られるのでしょうか」単純な質問であったが誠一郎には厳しいものであった。
「仰る通り、日本の警察力は優秀な組織です。しかし前年の一年間の摘発量が四百㌔だったのに、今回はその四分の一という百㌔が一度に入ってくるのを何としても阻止したいのです。そしてこれを機に麻薬市場の殲滅まで戦うことを皆さんに知って頂きたいのです」腐った内通者を炙り出して国会も警察も正常な機能を取り戻したいとは言えなかった。
理沙も何となく違和感が残ったが、麻薬の量の多さに押し切られた形になった。
「それで、その摘発の舞台は何処の港になるのでしょう」
「それは、未だ決まっていません。先ほども言ったように一応名古屋港で申請は出ていますが、直前に変更されるかもしれない。だからどの港に入るのか直前まで予断を許さないのです」
「では、今記事にしない見返りとして、お判りになった時点で私どもにご配慮頂けるでしょうか」丁寧な表現だったが精一杯の抵抗だった。
「それは当然、内村から連絡させましょう」
「最後に、この作戦名は何というのでしょう」
総理が内村を覗き込むように見た。
「貴女が興味を抱かれた会議で総理が敢えて付けるとすればErasureかなと言われましたよ」内村が呟いた。
「Erasure、抹消作戦ですか。良い作戦名ですね」やっと理沙に微笑みが戻った。
丁重に礼を述べて帰る際も、先程の釈然としない違和感はまだ消えなかった。


政治部では編集長以下三人が帰りを待っていた。
理沙は先程までの総理との話の詳細を報告した。
「総理が?直接?Erasure作戦?それだけ?」副編集長の松永が拍子抜けのような顔で呟いた。
「でしょ・・・確かに進行中の作戦を新聞に載せるわけにはいけない事は理解出来るのですが・・・これだけで総理以下の閣僚が集まって会議をするでしょうか」感じていた違和感をぶつけた。
「お前の言うとおりだ。これだけなら警察に任せておけばいい話で、官邸で大袈裟に議論する意味がない話だ」皆が頷いて首を振った。
「確かに・・・何か裏があるのでしょうか」越智も会話に入った。
「有る・・・間違いなくある様な気がする。いや、絶対に有る」編集長が確信を持って言い切った。
「私もそう思います。この件はこの件で事実でしょうが、それに関連した国家的な問題がある様な気配を感じますね」松永が同調した。
「国家的な問題?それは例えばどの様なことでしょう」
「それは,判らん。でも麻薬の密輸の摘発だけで集まるメンバーじゃあない事だけは確かだ」
「よし、これ以上話をしても堂々巡りになるだけだ。この件は引き続き、お前が追いかけろ。直前に連絡を貰うという紳士協定ができたんだろう?」理沙が頷きを返した。
「それは良くやった。スクープが少し伸びただけだ。それと今松永君が言ったように、裏で何が動いているのか、越智、お前も理沙と共に探ってみてくれ。俺と副編も別のルートで探ってみる・・・久しぶりに燃えてきたな」同意を求めるように松永を見ながら、てきぱきと指示を出した。
「どこまでやれるか、やってみるか」松永が吠えるように言った。
獲物を捜し、求め歩き、匂いを嗅ぐジャーナリストの嬉々とした姿がそこにあった。


二十一日から始まった尾行は、既に一週間を過ぎて何の進展も無かった。連日コロムの太田と飲み歩く西島は内調のベテラン捜査員に全く気付くことも無かった。
やっと彼が日常の行動と違う動きをしたのが月末だった。
三十日の土曜日に虎ノ門の二宮のマンションを訪れた。二宮は大下から言い含められていた通り西島を部屋に残して三十分ほど外出をした。西島が部屋にいる時のカメラ映像は同じマンションの二階上の部屋で見ることが出来た。その日は二宮が出て行った後に彼のラップトップを覗き込んでしきりにスクロールしていたが、目的のショートカットを見つけられなかったのか、二宮の帰りが早かったのか途中で画面を閉じてしまった。
次の日も彼はラフな服装で二宮の部屋を訪れて勝手にビールを飲み始めた。
二宮は昨日西島が帰った後、捜査員から外出の際もう少し時間が欲しいと要請されていた。
「西島、俺、先生から頼まれた買い物に出かけるが、留守を頼んでいいか?」
「おう、未だビールも充分あることだし任せておけ」気軽な返答が返った。
窓の脇に隠れて、二宮が道路を横切って駅の方へ向かうのを確認すると、画面の立ち上がりを待ってショートカットを順序良く見ていった。やがて目当てのものを見つけ出すと、メール画面を呼び出し一連の操作をし終えると送信ボタンをクリックし、発信履歴の削除が手際良く行われた。
片田の訓令書が外部に漏洩した瞬間であり、尾行を開始して、ようやく十一日目の成果であった。
情報は雨の中を東京から大阪へ飛んだ。

霜月は雨で始まった。信田組若頭の清水は朝から忙しく立ち回っていた。街はクリスマス商戦が始まり、これから十二月いっぱいまで稼ぎ時が始まった。酒・女の供給は彼らの存在価値を示す表稼業であったが、裏では麻薬の売り上げが急激に伸びるこの二か月が、後々の需要に結びつく大事な月でもあった。本部ビルの一階で組員へ指図を終えた清水が若い者にお茶を頼み、自分のラップトップにメール画面を呼び出し、手際よくスクロールして、ふと手が止まった。
厳しい目を向けて内容を読み進め、直ぐにプリントアウトの操作を行うと自分の携帯を取り出し短縮を押して二言ほど話した後「組長の部屋に行ってくる」と若い者に伝えてエレベーターに向かった。
五階で降りるとそこには立派な歌舞伎門がある、ビルの中の別空間があった。
「失礼します」中に入ると上り框に続く広めに作られた式台には虎の毛皮が敷かれ、既にボディガードを兼ねた若衆が待ち受けて黙って清水を奥へ招き入れた。
いつもの大きな黒檀のテーブルが置かれた居間に通された清水は部屋の手前で頭を下げて挨拶をした。
「急な相談て何や」大崎が声をかけた。
先程プリントアウトした数枚の紙を組長に見せ、組に取り込んだ税関職員からの情報を裏付ける命令書が名古屋・大阪・舞鶴・佐世保にも出ていることを報告した。
命令書を読み終えた大崎が清水を見た。
「税関の紐からの連絡と、この財務大臣やっとる片田云うおばはんの出した命令書はホンマもんですから間違いないと思います」慎重な清水が二箇所からの報告で裏づけが取れたと言うのを大崎も反論できる話ではなかった。
「直ぐにコロムの金田に連絡とって船を神戸に向かわせろ」
大崎の命令は絶対であった。
電話で親分の指示を伝えた清水が、入港予定日を問いかけて答えに頷くと受話器の送話口を片手で押さえて
「名古屋には七日の予定でしたけど、一日早くなって六日神戸着でよろしいかと言うてますがよろしいか」
「しゃーないな。それで行け」そのまま相手に伝えて電話を切った。
「よし、そしたら六日神戸で段取りせえや・・・それから兄弟にも連絡してな」
「はい、判りました。それじゃあ失礼します」深く腰を折って部屋を下がろうとする清水を呼び止めた。
「勝次、お前あの自衛隊崩れを捜すのを辞めたんや無いやろな。それと大室先生に頼んだそいつの写真はどうした」一番辛い質問だった。
「いえ、忘れてまへん。先生は特殊部隊の顔写真は無いと思ったほうがエエ言うことでした。知っとる奴は自衛隊でも二、三人しかおらん完全な機密事項やそうですわ。それに毎日うちの奴ら尼崎や伊丹に送り込んでますけど影も形も見えまへんねん」苦しそうに弁解した。
「前に浅井がつけたチンピラが撃ったとかゆうて戻ってきよったとき、警察や周り調べさして死体も何も出えへんて連絡してきよったが、ほんまに撃ちよったんか?」
「あれは、暴発やったみたいですわ。あの若い奴がその日は興奮してたんで次の日に下仁田の兄弟がゆっくり聞いたら、狙いつけたら弾が勝手に飛び出した言うたそうですわ」
「トカレフみたいな安もん持たすからじゃ・・・雨もじゃじゃぶりやったそうやからな、あたったとしても血も残っとらんやろ、とにかくあの男は気になる」念を押すように勝次を睨んだ。
「はい、判ってます」神妙に応えて部屋を出た。
その日のうちに信田組から浅井組に内容が伝達された。


塚口で幕僚長と平田最先任上級曹長と打ち合わせをした翌二十九日から柊は退院後始めて、杭瀬の部屋での盗聴から現場に復帰した。
朝から夕方一杯までは柊が盗聴と計画準備に費やした。
十一月に入って朝から柊は傷の定期検診で夙川へ向かい、盗聴は平田が担った。
昼食後、下仁田の携帯が鳴った。
話の内容は一方通行だったが、気軽な話しぶりから直ぐに緊張した声に変わったのを聞き逃さなかった。
今度は下仁田が誰かに電話をしたのか再び声がした「下仁田です。ブツが六日、神戸で決まりやそうですわ・・・・」
その後急に声が小さくなってほとんど聞き取れなかった。
どうやら組長の浅井に連絡をしたようであった。
「おい、直ぐに幹部会や。六時に招集かけろ」組員に命じる下仁田の声が響いた。
暫くの間、男達がそれぞれの携帯や事務所の電話を使って下仁田の命令を伝える声で賑やかな時間が過ぎていった。

十一時過ぎには夙川病院の待合室にジーンズに黒のコットンシャツを着た柊の姿があった。
待つほども無く看護師に呼ばれて部屋に入ると白い診察服姿の敏一が笑顔で迎えた。
三坪ほどの小さな診療室だったが、型通り聴診器を当てて検診した後、脇腹の手術跡の包帯を取りながら丹念に見て「どうやら、真面目に養生をしていたようだな、ほぼ完治と言っていいだろう。念のため傷口の消毒をしてガーゼを当てておこう」
看護師に指示を出しつつカルテに書き込むとペンを置いて柊に顔を向けた。
「当分は無理をしてはいけないよ、ひい・・・いや、木辺さん」
看護師が傍にいることに配慮して呼びかけた。
「はい、分かりました。・・それで先生、少しお時間を頂けないでしょうか」控えめな口調で敏一に問いかけた。
「ほう、何だろう」身を乗り出す様に尋ねた。
「はい、ちょっとご相談したいことがありまして・・・」語尾を濁らせた。
敏一が柊の口ぶりを察したのか腕時計に目をやって、「分かった、もうすぐ昼の休憩に入るから、少し待ってもらえるかな」と看護師に次の患者を呼ぶように促した。
暫らくの時が経って二階の院長室で兄弟と洋子に会った時、全てを受け容れて穏やかに接する彼等に自分でも理解できない不思議な解放感に包まれた。
改めて、入院時の礼を述べた後、敏男の所有するボートを暫らく貸して頂けないかと申し入れた時、三人はお互いの顔を見て頷きあった。
「柊さん、良く相談に来てくれました」理由も聞かずに敏男が三人を代表して応えた。
さらに昼休みを使って直ぐにでもボートを見せようと柊の車に同乗して案内してくれた。
目的の西宮浜マリーナには夙川病院から三十分ほどで着いた。
浜の最南端から臨むと汐の香りと共に係留されている大小様々なボートが肩を寄せ合うように並び、アーチ状の門を潜ると中央の半円形部分をガラス張りに、両翼をブルーとベージュのタイルで彩られた三階建のクラブハウスが陽光を浴び、マリーンスポーツの雰囲気を漂わせていた。
二人が肩を並べて入ると三階まで吹き抜けになったロビーの両サイドにカフェテラスやマリーンショップが配置された広々とした空間があり、二人は手前右側の受付カウンターへ向かった。
手続きを終え四番バースの先で敏男が「これが我が愛艇だ」と誇らしげに紹介した。
ヤンマーの小型プレジャーボートHunt二四の白い船体には流麗な濃紺のカリグラフィー文字でMs Shihoと描かれていた。小回りが利きそうで充分な大きさだった。
それから三十分ほど、敏男から船内と備品の説明を受けて船を降りたところで三日の水曜日から一週間の約束で借り受けることで了解を得た。
霜月は朝からの慌ただしさと晩秋に忍び寄る冷たい風の中で始まった。



           殲  滅


南鳥島は東京都小笠原村に属し年間平均二十五・四℃と温暖なサバンナ気候で上空から俯瞰すると周囲一・五㎞の三角おむすびの様な地形で海上自衛隊が管理常駐する小さな島であった。
上空では航空自衛隊浜松基地から二日の早朝、山口三佐操縦のE767早期警戒管制機が副操縦士と機器操作員十九名を乗せて飛び立ち巡航速度七百キロで順調に飛行して十時前には日本の最東端の上空八千㍍で哨戒任務に就いていた。
機体上部に着けられたキノコ型のロートドームも強力な電波を出し、フェイズド・アレイ方式のレーダーが四名の機器操作員によって制御され、その情報が十四のディスプレイに表示されて半径四六〇㌔の空域と海上を監視していた。
ブリーフィングで事情を把握している指揮官の山口三佐は緊張感を持って任務に就いていた時、レーダー員からの呼び出しで急いで管制室に向かった。
「コンタクトしました」横田二尉がディスプレイの走査線の端に白い輝点の明滅を指して言った。
LRで始まる十五桁の船体識別番号が画面に表示されていた。
「識別番号も一〇一三確認しました」
「速度は?」
「巡航速度二十ノット、日本領海より約二千三百キロの地点です」
「領海到着予想時刻は」
「今の速度を維持すると五日夕刻には領海です」間・髪を容れず答えが返る。
「よし、榊二尉、警察庁に連絡せよ」
自衛隊と警察庁の連携が開始された。


柊と平田は三日早朝から動き出した。
西宮マリーナの受付で鍵を受け取ると平田と共にMs Shihoの前に立った。
「Hunt二四か、中古だと聞いていたが、どうして、どうして良い船じゃあないか。それにハントと云う名前の響きがいいな」にやりと柊に微笑み懸けて舷側から飛び乗ると冷却水、潤滑油の点検など一連の作業を終えて手早くエンジンをかけた。
軽く震えるようにエンジンがかかると「よし、万事順調、警報ランプも正常だ」満足そうに微笑んだ。
そこから柊はランクルで陸路を、平田はクルーザーで事前に打ち合わせておいた杭瀬近くの砂州までのそれぞれ経過時間を計測するために出発した。

柊が杭瀬の交差点を右折して以前下見に来ていた大日本製鉄に続く舗装されていない地道の一角に車を停め、塗料缶や備品の入った袋を持って左門殿川の高い堤防を登ると二㍍近い葦に囲まれた砂州に白い船体が見えた。
「矢張り船のほうが早かったですね」近づくと船内から平田が顔を出した。
「いや、俺も少し前に着いたばかりだ。二十ノットの巡航で走ったから四十分かかってしまった」
四時間後、体中を汗とペンキで黒く汚した二人の前には濃紺のカリグラフィー文字も甲板も全てが黒くなってしまったHunt二四があった。
日没が近いのであろうか、空に浮かぶ雲が薄く茜色に染まり始めた。


執務室に入ると読んでいた書類から顔を上げた誠一郎が立ち上がってデスクの前のソファーを目顔で指し、自身もデスクを廻って腰を下ろした。
「いよいよか」判ったように問いかけた。
「はい、いよいよです」といった後、五十嵐長官から六日に神戸に入港予定との無線を傍受したことと、片田大臣からは六日への変更を依頼してきたとの連絡があったことを報告した。
「六日か。よし入港は十一時だな」念を押すように内村に確かめた。
「そうです。余程の突発事故がない限りそれで決まりです」
「君から直ぐに木暮君にも連絡してやってくれ。後は彼らに任せて、こちらは今井さんと話をしよう。彼の秘書は押さえたのか?」
「いえ、この前の打合せで実行日の時間が決まってから押さえようと仰いましたので恩田さんには待ってもらっています」
「実行日は明日の夜十一時だろう?・・・よし明日の朝十時でどうだ。此処に来てもらってくれ。その時に僕と今井さんが差しで話をするから、その秘書を恩田君に押さえてもらうという筋書きでどうだ」
「分かりました。今井先生のご都合を聞いた上で手配します」
「そうしてくれ」深く眉間に皺を寄せて腕を組んだ。
腕時計で時間を確認しながら内村が出て行こうと席を立ったとき
「内村君」にやりと笑って呼びかけた。
「はい?」
「何か忘れているでしょうか?」
「あの美人が怒るぞ」言われた内村は暫し考えていたが
「あっそうでした。失念していました。それでいつ頃伝えましょう」
「彼らもスクープを狙っているんだろうから、迂闊には外に漏らさないだろう。明日の朝ならいいんじゃあないか。準備もあるだろうし」
「分かりました。私のほうの用事がすんでから伝えることにします」
「そうしてくれ」
「はい、では失礼して早速木暮や今井先生と連絡を取って恩田さんと打ち合わせを致します」軽く一礼して執務室から下がって行った。


柊が拠点で一人ライフルのチェックをしていた時、携帯の呼出し音で手を止めた。
ディスプレイにはW3と出ていた。板についてきた確認作業を終えると、木暮から海自が先程、南鳥島で補足したこと、予定通り神戸港に六日午後十一時PC十八バースに接岸することが告げられた。
柊からは現地の状況を把握するため、今日の夕刻から平田と共に実地演習の予定であることが報告された。

四時を過ぎた頃、二人の姿はHunt二四の船上にあった。晴れた日の夕暮れではあったが波は船を上下に揺さぶった。それでも快調に波を掻き分けて目指すポートアイランドの手前にある第七防波堤に近付いたのは日没に近く夕日を浴びてコンテナヤードが大きく左右に広がり、その南には最近開港された神戸空港の灯が既に点灯されて綺麗な光の隊列を造っていた。
少し離れた沖合いに海上保安庁の中型巡視船【のじぎく】が遊弋していた。
舵輪を操作しながらゆっくりとPC一八のコンテナバースに近付けて行くと、今正に接岸しているコンテナ船からガントリークレーンがコンテナを摘まむように吊り上げて埠頭に運び入れる作業中であった。
「先任、この第六南防波堤に沿って船を移動させてもらえますか」海図を平田に向けて指で示した。
「了解」僅かに舳先を面舵に切った。
第六防波堤に沿ってゆっくりと進め、PC十八のバースからはブラインドになる内海に向けて入っていくと第七防波堤との交点あたりで船を停めた。日没になって黒く塗られた船は闇に溶け込むように軽く揺れて、埠頭からの明かりもここまでは届いてこなかった。
「先任、今度の船・・・“パトリオット号”と言いましたか、喫水からの高さはどれくらいだったですかね」
「待てよ・・・・」朝からのブリーフィングで幕僚長が調べてくれたノートを見ながら
「これだな・・・満載時だと大体五㍍程度でそこからコンテナが三段から四段程度だから八㍍程度こちらから見えるらしい」
「と云うと、喫水から十四、五㍍程度ですね・・・明日も、船は此処に停めて、後はこの防波堤で待機して埠頭に向かうか、SATの展開次第で掩護のポイントを決めましょう」柊が考えながら言った。
「距離は百五十から二百と言ったところかな。お前の狙撃なら丁度いいんじゃあないか」
「問題は明日の天気だけでしょうね」
「明日の天気は晴れだよ。ただ、風が少しありそうだがな」
「風ですか・・・どの程度か判りますか」
「予報だと二から三と云ったところだ」柊が前方の城壁のようなコンテナを見ながら静かに頷いた。
暮れはじめた空に半月が昇り柔らかな光を海に投げかけ、空港の着陸灯と共に蒼い水面に彩りを添えていた。


理沙は携帯電話を何気なく開いたり閉じたりして考えこんでいた。
総理との面談以来毎日のように考えてみたが、どうしても納得のいく答えが見つからなかった。どう考えても総理が直接指揮を執るような事案ではなかった。
総理の麻薬を撲滅したいという気持ちは大いに賛成で共感もしていた。
今までの政権も様々な対応を採ってきたが掛け声倒れに終わって、年毎に被害者は増えるばかりの現実は隠しようが無かった。
今日も何時もと変わりなく国会の門をくぐってロビー周辺を歩き回っていたとき、前方に見覚えのある顔を見つけた。確か・・・今井議員の秘書官の西島さんだ。
もう一人の中年男性は?・・・内閣情報調査室長の・・・恩田さんだ。
二人は肩を並べるようにしてエレベーターのほうに歩いてゆく。
その時理沙の携帯が着信を告げた。・・ディスプレイには非通知の文字が浮かんでいた。
「はい上野です」誰か判らないまま返事を返した。
『内村です』声を聴いた瞬間、理沙の鼓動が早くなった。
『今良いでしょうか』
「はい、だいじょうぶです」返事をしながら入口のほうへ移動を開始した。
『お待たせしていたイレイザーが動きますよ』
「いつでしょうか?」
『今日の午後十一時に』
「午後十一時ですね。場所は何処でしょう」復唱して確認を取りながら質問をした。
『神戸のポートアイランド、PC十八バースです』
「神戸?神戸のポートアイランドですね。あのうPC十八と云うのは何でしょうか?」
『埠頭の呼称です、と云うか番地のようなものですね。インターネットでもご覧になれますよ』
「それで、やはりお聞きした様に警察庁のSATが対応されるのでしょうか」
『その様に理解して頂いて結構です』
「深夜にされたのは何か意図があってのことでしょうか」
『特に・・・不測の事態も考えて遅くに実施することになったと思って下さい。従って、実施前にはポートアイランドへの通行は制限されますから注意してくださいね』
内村は淡々と伝えた。
『取り敢えず、記事を待っていただいたお礼の情報です。それじゃあよろしく』
「あ、ありがとうございました」
既に携帯は切られていた。
直ぐに気を取り直した理沙は越智への短縮を押した。
「越智さん直ぐに社に戻るわよ。詳しいことは途中で話すわ」
そう言うと玄関を出て走り出した。

社の自分の席に戻るやインターネットを起ち上げた。越智はそのまま編集長の席に向かい、タクシーの中で聞いた概略を報告していた。しばらくして自席を立った理沙はプリンターのもとに行って何枚かのプリントアウトを取り上げ編集長のデスクへ向かった。
「PC十八はこの場所です」地図上を指でさした。
「それと、このアイランドはこの橋一本で繋がっていて、ここを封鎖すれば完全な孤島になります」北側の神戸大橋を指して説明する。
「編集長、内村秘書官は不測の事態とか通行制限があるとか仰っていたんですけれど、どう思われますか」
それまで、じっと越智と理沙の報告を聞いていた編集長は
「夜の十一時だろ?何か思いつくか?」横に座った副編の松永を覗き込むようにして聞いた。
「ウーン、そうですね、相手の国はコロンビアだろ」確認するように理沙を見た。理沙が頷く。「この国の、カリカルテルやメデジンカルテルと云ったマフィアは国家を相手に戦争を仕掛ける物騒な連中だから、下手をすれば銃撃戦になるのかも・・・そんな示唆じゃあないかな・・まして対応するのがSATだろ」流石にベテランの洞察力であった。
「可能性は高いな・・・よし、そのつもりで準備しろ、それと規制線が張られていることを考えて、PC十八に一番近くて高い場所は・・・この地図でいくとこのパールシティ神戸と云うホテルか」横にいる越智に向かって聞いた。越智がすぐさまデスクのコンピューターのキーを叩いて画面をスクロールしてゆく。しばしの間があった。
「そうです、そのホテルが一番高くて十五階建てです。屋上にはヘリポートもあります」越智が画面から顔を上げて言った。
「菊池君」少し離れたところにいた女性に岡橋が声をかけた。
「はい」立ち上がった女性に、
「神戸のパールシティ神戸というホテルの一番高い部屋を抑えてくれ」
「スイーツですか?」目を丸くして問い返す菊池に
「その高いじゃなくて、一番高い階にある部屋だ」といらだつように岡橋が言い直す。
「高い階にある部屋は恐らくスイーツですよ」越智が小さく呟いた。
「何でもいいから出来るだけ屋上に近い部屋だ」怒ったように岡橋が命じた。
「それから越智、お前は直ぐにヘリを抑えろ」睨むように命じていた。
「了解」機敏にデスクの電話を取り上げて内線で航空部を呼び出して話していたが、
「今全部出払っていて三時ごろアエロが帰るそうです」
「よし、それで良い、帰るまでにフライトプランを申請して、神戸までのフライト時間を聞いておいてくれ」矢継ぎ早に指示をし終えた時、菊池が寄ってきた。
「パールシティ神戸の十五階を押さえました。展望部屋だそうです」
「よし、それとついでに、屋上のヘリポートを今日の夕刻に使わせてもらうよう頼んでおいてくれ」流石に岡橋は気合が入っていた。
「それくらいか・・・・後は明日の朝刊に間に合うかどうかだけだな」
「そうですね、遅版でもギリギリ二時までかなぁ」
「そうだな」
これを逃すと写真で勝てるかも知れないが、記事のほうは相当追いつかれることは覚悟しなければならなかった。
「判りました。準備にかかります」
理沙も島に電話を入れながら好奇心が体の中を駆け巡っていた。


総理執務室では誠一郎が民生党の今井正之助とテーブルを挟んで向き合った。
テーブルにお茶が出されて、横に内村が控えた。
「会期中に総理から会談のお申し出とは、何かあるんでしょうか」目の前の湯飲みをゆっくりと手に取って正之助が身構えるように聞いた。
「今日は、お忙しい中お時間を頂いて恐縮です」誠一郎が軽く頭を下げた。
今井は黙ったまま総理の出方を見守った。
「今日は今井先生に辛いご報告をしなければなりません」今井の性格を知った上で単刀直入に切り出した。
「ほう、何でしょう」
総理の言葉を推し量りながら湯飲みをテーブルに戻した。
「この際ですから、率直に申し上げます・・・実は先生の秘書である西島二郎君のことですが・・・私どもの内調から報告が有りまして・・・」言いよどむ様に言葉を切った。
「うちの西島?西島がどうかしたのですか」眉根を寄せて今井が身を前に乗り出した。
「実は、その西島君が麻薬の取引に絡んでいるとの疑いが持ち上がって、今室長の恩田君が事情を聞かせて頂いています」
見る間に今井の顔が赤く染まっていった。
「総理、冗談で仰っているのか」強い口調になった。
「冗談であればいいのですが、残念ながら充分な調査がなされた上で証拠も挙がっているのです」きっぱりと言い切る誠一郎の顔も引き締まった。
「馬鹿な、あれがそんな麻薬などに手を出す筈が無い。その証拠とやらを見せて頂きましょうか」
今井の眼光は鋭く、この不名誉な発言を咎めるように言い放った。
誠一郎は押し黙って立ち上がり執務デスクに置かれた書類を手に取った。
「これは先月の二十二日から一昨日迄約二週間の行動報告書です」今井の前にそっと報告書を置いた。表紙には内閣情報調査室長である恩田英二の名前と朱印が押されていた。
書類を手に取った今井は、何故二週間も前から西島に尾行が付けられたのか問質すのも忘れたように、ゆっくりと目を通し始めた。
部屋の中は重い緊張の時間が流れて、時折今井がページを繰る音だけが聞こえていた。
どれほど経ったであろうか、今井が顔を上げた。赤く染まった顔は変わっていなかったが目は力なく直ぐに伏せられた。
暫しの沈黙の時間が過ぎて、沈黙を破ったのは誠一郎だった。
「もう少し明るいお話がしたかったのですが・・・」
力なく今井が顔を上げた。
「あの恩田君が此処まで確信を持って報告を・・・まして現場のビデオまであると・・・」
野党とはいえ片田弥生も認める領袖の一人が肩を落として再び黙り込んだ。
「三週間ほど前に・・・麻薬の大きな取引が近々行われるという情報が入りましてね。それも百キロもの量だと判ったんです。今国会は、あなた方のご助力を頂きながら健全な社会生活を国民全てが享受できるように一丸となって推進してきましたが、我慢を強いている我が国民がこの様な違法な薬で犯されていくのは絶対に座視できるものではなく、極秘に捜査機関を総動員して、やっと今日の夜に摘発の時を迎えました。それで、捜査状況を西島君が犯罪者側に連絡できないよう、先程拘束させて頂きました。摘発が完了した時点で処分保留として解放させて頂きますので、ご了解を得たいと思ってご足労頂きました」言葉を尽くして話す総理を見つめていた今井は、やがて背筋を伸ばしテーブルに手をついた。
「総理、彼を拘束されたのは当然として、どうして私を疑われないのでしょう。私も拘束され・・・」
「今井さん、どうか手を上げてください。あなたとは十数年来のお付き合いです。主義や主張が少し違って、与党と野党に分かれてはいますが、私たちは露ほどもあなたを疑ってはいません。どうか彼の行く末のみを心配してあげてください」
今井の言葉を遮って話す誠一郎の思いを込めた言葉を聞いていた彼は言葉の裏に籠められた配慮を肌で感じ取っていた。やがてポケットを探って一枚の白いハンカチを取り出すと目頭を拭った。
「それでは、お忙しいようだから私はこれで失礼します」立ち上がって深々と頭を下げ、ゆっくりと総理大臣室を出て行く姿は従来の落ち着いた威厳のある風貌に戻っていた。
「やっぱりと云うか、当然と云うべきか、今井先生はさすがに噂どおりの方ですね」内村が感嘆するように呟いた。
「そうだな、彼は矢張り憂国の士と云うか大した侍だよ」いつしか片田弥生が言った言葉を反芻しながら誠一郎も頷きながら応えた。
「それはそうと、準備は出来たのか」
懸案事項の鉾が治められようとしているのを受け、改めて進捗状況を内村に聞いた。
「はい」と応えてパトリオットが既に進路を神戸にとっている事、SATも即応準備に入った事、尚現地にある企業には県警の私服が個別に夜勤などの中止を求めて動き始めた事、当日神戸大橋は午後九時以降封鎖することで、民間への被害が及ばぬよう細部に亘って詰められている事などの作戦を報告していった。
続いて反社会的集団と東京のCOLOMに対しては船の入港と同時に家宅捜索に入る事、最後に神戸・尼崎の両地区で十時半から一時間程度は携帯が使えなくなるような妨害電波も発信される事を要領よく説明していった。
暫らく内村の報告を吟味するように目を閉じて考えていたが
「よく分かった」誠一郎は腕組みをして瞑想にふけるように上を向いて黙ってしまった。
彼は木暮と最後の電話でのやり取りで『W機関としての仕事』が脳裏から離れなかった。バックアップをしてくれることで、安心感は増したが、それ以上に今度は何をするんだろうと彼らへの期待感が増幅され、俺が知らないほうが良いというのは身体に悪いと思った。


報道専用ヘリコプターアエロスパシアルAS三六五N2のターボシャフトエンジンが最大出力を出して巡航速度二百五十キロで神戸の上空に着いたのは日没時間が既に過ぎ、窓外は巷間百万ドルの夜景と知られる神戸の街並みが街灯やネオンの華を咲かせ、海上には遊弋する海上保安庁の船も眼下に捕えられた。
手元の地図を見ていた越智がヘッドホーンを通して「右側に見えるのが六甲アイランドで左手の更に大きい人工島が目指すポートアイランドだな」と理沙たちに告げた。
丁度女性が髪の毛を漉くための柘植櫛のような形をした日本でも東京、名古屋、横浜、四日市、大阪に並ぶスーパー中枢港湾と呼ばれる人工島が大きく見えてきた。
機は高度を下げて丁度島の中央に聳えるパールシティ神戸の屋上に造られたヘリポートに向かって行く。
部屋に入って島たちがカメラ機材を取り出して並べるのを見ながら「私たちは事前にPC十八の周辺を下見に行ってきます。越智さん、行きましょう」
街灯が輝きを増すいつもの光景の中、ホテル前からタクシーで暫らく走ると、前方を走るアルミボディの大型トラックが左折ウインカーを出して車線を左に変え始めた。
トラックがブラインドになって見えなかった三両の観光バスが縦列になっていた。
それがトラック共々左に寄って行く。理沙は不思議なものでも見るようにその光景を見ていた。
「こんな時間帯にあの観光バスはどこへ行くんやろ?あの信号を曲がっても何も無いのに」運転手が相槌を求めるように呟いた。
「付いていって」理沙は咄嗟に指示した。
運転手は巧みなハンドル捌きでトラックの後ろから少し距離を置いて左折した。点々と闇に浮かぶ街灯が延びて保税倉庫を取り巻くフェンス沿いに数百メートル走ると、一段と明るく照らされた入口で先頭の観光バスがウインカーを点滅させて曲がると後続の二台も続き、アルミボディ車も平屋の倉庫に吸い込まれるように入った。
入口では指示棒を振って制服を着た数人の男が誘導していた。
タクシーはその前を通り過ぎ、暫く走って静かな広い通りをUターンしてバスとトラックの入っていった保税倉庫の手前でヘッドライトを消した。
保税倉庫のシャッターが静かに降り始めて車が隠されようとしていた。
「あのバスとトラックは何なのかしら」自分にも問いかけるように越智のほうを向いて聞いた。
中で何が起こっているのかフェンスを乗り越えるわけにもいかず手の打ちようがなかった。
「仕方ないわね。運転手さん先程お話した、PC十八と云うバースに行って頂戴」
「此処ですよ」運転手は何を言っているんだというように首を後ろに向けて「此処がPC十八バースですよ」と再び答えた。
「此処が?此処が十八なの」確認するように理沙が声を大きくした。
「そうです」運転手は後ろを向いて頷いた。彼女は座席の背もたれに身体を預けて考え込んだ。この場所が内村さんの言っていた現場、三台のバス、アルミボディのトラック・・・謎掛けのような現象であった。
不意に閃くように考えがまとまった。
「そうよ、きっとそうよ。越智さんあのね・・・」言いかけて前に運転手を認めると口をつぐんだ。

「あのバスにはきっとSATの人たちが乗っていたのよ」ホテルの十五階の自室に飛び込むや理沙がもどかしそうに口を開いた。
「俺もそう思う。君がさっき言いかけて辞めたのを見て、帰る途中ずっと考えていたんだが、きっと制服姿を十一時までカムフラージュするために、あそこで着かえるつもりなんだ。それにあのトラックは彼らの制服や銃器類が積み込まれていたと考えると辻褄が合う」
「同じよ、絶対確かね」理沙も確信した。


理沙たちの想像通り、SAT隊員たちはシャッターの閉まった税関倉庫内で着替えを終え五列×八名の四十名を一群とする三分隊百二十名が整列していた。
紺色のアサルトスーツの右上腕部には兵庫県の県鳥であるコウノトリをデザイン化した図柄の中に赤くSATと刺繍のしてあるワッペンが縫い付けてあり、その上から防弾ベストを装着すると、更にタクティカルベストを纏った。頭部の防御はケプラー社製のヘルメットに防弾バイザーをつけたフル装備に暗視装置をつけた。


五時二分の日没を見ながら二人は杭瀬のワンルームにいた。
柊は黒いバトルドレスユニフォームの上からいつものジャケットで纏めていた。第三師団で特殊作戦群の【S】のリーダーであった柊はその爆薬取扱の技術課程において一から十までのレベルの中で最高レベルの認定を受けていた。
指向性炸薬十個を慎重にシューティングバッグに詰め込み無線雷管をベストのポケットに納めた。
「変な形なんだな」平田が盗聴器の調整をしながら柊の炸薬を見て問いかけた。
「それが・・そのモンロー効果を引き出す奴か」おぼろげな記憶を辿って問いかける。
「それに中の鉄片が装甲貫通力を増すといわれるノイマン効果を生むんです」
「それが指向性炸薬と言うのか?」黙って頷いた柊の顔は自信に満ちていた。
「それで、爆破予定は十時半だったな」確認するように聞いた。
「そうです十一時過ぎには神戸港に行っていたいですから、前の道路の通行量にもよりますが、十時半がリミットと考えています」
柊も確認するように腕時計を見ながら言った。
九時前に柊は炸薬を詰めたバッグを首から斜めに架けて立ち上がった。
「車の数も減ってきたようですし、少しでも取り付け時間が欲しいので少し早いですが、出ます。時間だけ合せておきましょう」英国特殊部隊の制式時計と云われるnite‐2を見ながら「五十三分で合せます」カウントダウンされ、黒のフェイスマスクを握って出て行った。平田が六階の窓から見下ろすと闇を照らす街灯と時折通り過ぎる車のヘッドランプが見えるだけで、道路を横切る筈の柊を確認することが出来なかった。
改めて【S】の技量を垣間見る思いがした。

怖いくらい順調に作業を終えて最後の指向性炸薬を柱に取り付けて、平田の待つ部屋に帰り着いた時は、九時四十分を少し過ぎていた。

盗聴を続ける平田の横で柊が窓から周辺の監視をしていた。
「幕僚長とのブリーフィングでは浅井組の家宅捜索は確か十一時と言われましたよね」独り言のように呟いた。
「アァ、十一時と聞いている」
「早々とお出ましのようですよ」窓外の二号線の方角を指しながら呟いた。
「もう来たのか。東南署も相当入れ込んでいるな。でも、大丈夫か?十一時前に踏み込むつもりか?」
二号線の方を見ると、赤色灯の点滅だけが夜空に映えて見えていた。
十時十五分を過ぎた時、その機動隊に動きが出た。二号線を左に折れ、浅井組を目指して四両の車両が移動を開始した。
浅井組の一〇〇㍍程手前でそれらを止めると後続のバス三両から機動隊が飛び出して道路を封鎖し始めた。周辺の各居住者に告げて回る隊員もいた。五分ほど後には浅井組周辺から人影や車の往来が消えた。
その様子を見ていた柊は、じっと考え込んだ。
「先任、我々は決行時間を少し早めましょう」平田の眼を覗き込むように告げた。
「早める?」いぶかしげに平田が見返す。
「先ず機動隊のお陰で、周辺住民の安全は確保されました。正直に言うと爆破のタイミングを何時にするか、車と往来の住民に気を配って、家宅捜索の時間前に爆破するのは極めて難しいタイミングが必要だったんですが、道路封鎖や周辺住民への事情説明のお蔭で我々の計画は直ぐにでも実行可能になっています」
平田も素早く計算した。
「なるほど、それに少しでも早く神戸に向かわなくてはな、良いだろう」平田も決然として応えた。腕時計を見ると二十分を過ぎようとしていた。
柊がベストのポケットから発信機を取り出した。
ヘッドホーンを外して片付けに入る平田を背に、柊は窓から浅井組と機動隊の配置を慎重に見極めて、冷徹な表情を標的に向けると静かに発信ボタンを押した。
信号は確実に送られ、仕掛けられた指向性炸薬はその威力をまざまざと見せつけた。
閃光と轟音が周辺にこだまして砂や器物を凄い勢いで弾き飛ばした。平田が片付けの手を止めて思わず振り返った。
予測されたように、自衛隊の誇る装甲車でも防げるとした高い堅牢な外壁が外への暴発を防ぎ、爆薬の破壊力は上と内側に集約された。土煙と硝煙は暫らく建物を覆い隠したが、やがて浅井組ビルが何事も無かったように元の形で姿を現した。
機動隊も一瞬何が起こったのか理解できずに、地面に伏せたまま再び姿を見せたビルを唯見守っていた。
周辺にある民家の暗く消えていた部屋があちこちで明滅して点灯された。
「どうした。倒れないぞ」平田が不安そうに柊を見た。
片手に発信機を持ったまま柊も動かなかった。
時間はゆっくりと時を刻んで行く。十秒・・・・二十秒・・・・永遠の時を刻むかに見えた。初めに動き出したのは機動隊であった。全員ジュラルミンの盾を構え、いち早く整列すると指揮官の命令に応えて包囲の輪を少しづつ縮め始めた。
柊は静かにケースからレミントンM700を取り出して装弾するとサプレッサーを取着けた。緊張した顔は何時にも増して引き締まった表情に影を造った。
窓際に立つとナイトスコープを調整して浅井組の玄関扉に照準を当てた。かすかにドアが開けられて組員がそっと窺うように顔を出すと、その組員の耳を掠めて弾丸が横の壁に跳ねた。擦過音と兆弾の音で機動隊に狙撃されたと思ったのかドアが勢いよく閉められた。
それが合図であったように建物全体が悲鳴のような音と共に大きくきしみだすと、四階部分から内側へ崩れ始め、轟音と共に雪崩を打つように崩れ落ちた。再び土煙が外壁の内側に沿って上空高く舞い上がった。
包囲の網を狭めていた機動隊も再び飛びのくように後退して伏せた。
暫らくして土煙が収まった時には高い外壁から上は何も無く、そこには唯空間が隣家の灯を瞬かせて見えるのみであった。正に海外のTVシーンに見るビル解体そのものだった。
一瞬にして浅井組周辺は修羅場と化した。怒号が飛び交い救急車を呼べという指示がこだまするように界隈を巻き込んだ。
柊は倒れるのを最後まで見ようともせずにレミントンをケースに収めると部屋を飛び出した。後を追うように平田もシューティングバッグを抱えて続いた。非常階段を使って走り降りるとランドクルーザーに飛び乗って左門殿川の仮泊地に向かった。途中は夜の十時半前だというのに騒然としていた。二号線を渡ると現場から離れる毎に、落ち着いた深夜の町並みに変わり工場群の周辺に入ると暗く闇に隠れてしまった。


ポートアイランドの特定国際コンテナ埠頭指定地にはパトリオット号が接岸して、傍らで眠っていたオーバーパナマックス型コンテナクレーン二基が息を吹き返して準備運動をするように静かに動き始めた。
いつもの光景であったが、違ったのは操縦席にはヘルメットに防弾シールドと防弾ベストを装着した操縦士に、武装したSAT隊員が二人ずつ乗り込んで警護に付き、手にはアサルトライフルが握られていたことである。
やがてイヤホーンからの指示で整然と積まれたコンテナ群に移動して錆色に塗られた四十フィートコンテナをスプレッダを使って巧みに掴み揚げ、クレーンを横行させて岸壁の指定ヤードに積み上げてゆく。上部運転室から船を見下ろすと船上を行き交う人の影が時折船とヤードからの照明に照らされて浮かびあがる。
「この船は船員がやたら多いなあ」呟くように言いつつ、次のコンテナ目指して荷役作業主任者と連絡を取りながらスプレッダを移動させる。
十一時半には指定ヤードに十個のコンテナが積みあがった。
此の時を待っていたかのように手前の税関倉庫の扉が大きく開け放たれ、SAT分隊が弧を描くように隊列を組んでコンテナを包囲してジュラルミン製の盾を前面に押し立て指揮官が前面に進み出た。
事前の指示があったのか作業班長は配下の者を促して、その場を離れて後方の倉庫へと退去し始めた。
パトリオット号の夜間照明の中、甲板上から夜目にもそれと判る屈強な男たちが手に棒状のようなものを持って見下ろし、スペイン語であろうかしきりに何か喚いている。やがて静かになったかと思うと前触れもなく、途切れ途切れにスタッカートを打つようなリズミカルな連射音が聞こえた。予め彼らがアサルトライフルを所持している可能性があると聞かされていたSAT隊員たちは射撃音を聞くと、盾に身を預けて銃弾から身を守る体制を敷いた。
すぐさま指揮官から応戦用意の声が響き渡り、彼らは応戦の体制を作る。
「撃て」
命令が下されると、彼らも防弾バイザーの上に暗視スコープを下ろした態勢から八九式五・五六㎜小銃で応戦に入った。突如隊員の一人が蹲るようにして銃を下に降ろした。
盾に当たった兆弾が防弾ベストを掻い潜って、腕に食い込み鮮血がタクティカルベストを染めていく。直ぐに救急班が彼を後ろに避難させて応急手当に入る。流れ作業のように逞しく動きが敏捷だった。SAT隊員それぞれの腕にあるワッペンのコウノトリが踊るように揺れていた。


ポートアイランドの沖に柊たちが乗るHunt二四が着いたのは、銃撃戦が始まった直後だった。平田は左門殿川から巧みな操船で内海に乗り出して、神戸港の海域を封鎖する海上保安庁の中型巡視船(のじぎく)を避けるようにゆっくりと通り過ぎた。黒く塗られた船体は見張りとレーダーをすり抜けて第六防波堤と第七防波堤の内側に沿って走った。
柊は黒いバトルドレスユニフォームに七・六二㍉NATO弾をタクティカルベストに詰め込むとレミントンM700にサプレッサーを装着、赤外線暗視スコープを取り付けると素早い動きで防波堤の上を這うように進んだ。
数十メートルも行くと闇に同化して見えなくなった。
丁度第六防波堤の中央寄りでパトリオット号の甲板を見渡せる位置に着いた。匍匐姿勢のまま暗視スコープで全体を舐めるように移動させていくと、甲板の上にある操舵室のデッキから一人の男がアサルトライフルで連射しているのを照星が捉えた。更に少し下からも操舵室の壁に隠れるように顔を出す男も目の端に映っている。
ゆっくりとスコープを覗いてデッキの男に照準を当て、港に吹き込む風を計算に入れて絞るようにトリガーを引いた。チーターのサプレッサー排出音よりは少し大きく鈍い音であったが、生野で何回か調整した銃は柊の能力を忠実に実証してみせた。
デッキの男は射撃姿勢のまま手摺に凭れて動かなくなった。ボルトアクションを素早く操作し、隠れるようにして時折顔を覗かせる男に再び照準を当て、顔を出すタイミングを計って、素早く第二弾を発射すると、その男もガクンと腰を落として倒れこんだ。次のターゲットを探して暗視スコープを右下方に移動させた。一段下のデッキで各々の間隔をあけて連射している三人の男を捕らえた柊は、中央で速射を繰り出す男に照準を当てると迷わずに撃った。
男はその場に腰を落として動きを止めた。両サイドで撃っていた男達がそれを見てデッキの張り出しを遮蔽物にして屈みこむと上を見上げて大声で叫び始めた。
暫くして突然銃撃が止んだ。呼応するようにSATの銃撃も止んだ。周辺は神経の張り詰めるような緊張に包まれ、重い空気が周辺を支配し五分近くの沈黙が過ぎようとした。
突然、デッキの上から声が上がった。まくし立てるような英語で下のSATに向かって喋っている。SATも指揮官の尾上警部が一歩前に出てデッキ上の人物と話し始めた。控える数人の隊員が彼の周囲から銃口を上に向けて掩護の位置に着いた。
数分の会話が交され、警部は隊員に向き直って全員によく聞こえるように命令を伝達した。
「第一分隊は只今より臨検に入る。第二分隊は臨検の掩護に回れ。第三分隊はその場で不意の攻撃に備え待機監視せよ・・・井上通信員はいるか?」呼ばれた隊員が一歩前に出た。
「直ぐに、市の消防に連絡して救急車を手配せよ。重傷者が三名出たそうだ」
盾を持った隊員がそれぞれの位置から移動を開始した。
第一分隊は一旦タラップの前で整列したが、直ぐに臨検のために登り始めた。デッキに上がるとアサルトを持った船員らしき男達が待ち構えていたが、散開するSAT隊員の完全武装を見て抵抗する気配を消していた。尾上警部が先程話していた船長らしき男に話しかけた。
船長は公用語のスペイン語であろうか、周囲の船員たちに怒鳴るように話すと、ゆっくりと船員たちが移動し始めて、警部と船長が立っている前に持っていたアサルトライフルを投げ出すように置き始めた。
掩護の隊員たちが武装解除を進めていった。遠くで救急音が聞こえ、デッキから赤いランプの点滅が見えてきた。デッキの片隅に倒れている男を隊員が見つけ、傍によって瞳孔と脈を確認していたが、一目で右側頭部を撃たれているのを視認し、指揮官に首を横に振って死亡を伝えた。上部艦橋からも隊員が二人一組で二体の船員を運んできたが、この二人も同じように右側頭部に弾痕を残して即死状態であることが確認された。
尾上警部は同じ頭部を撃ちぬかれたそれぞれの遺体を見て、首を捻るような仕草で隣の副官を見た。副官の井沢も同じ思いを持っていたのであろうか不思議そうに頷きで応えた。気を取り直すように警部が改めて副官を見て指示を出した。
「君が第一、第二分隊を指揮して関係書類や証拠品の押収と被疑者の拘束を頼む。俺はこのまま、第三分隊とコンテナの捜索に当たる」
「了解しました。被疑者の拘束と証拠品の押収を実施します」復唱しながら分隊に向かう井沢に答礼して尾上はデッキを離れた。
静かになったポートアイランドは夜の闇が更に深くなり日付が変わろうとしていた。

ホテルの屋上から理沙と越智が息を飲んでPC十八バースを見下ろしていた。横には島が大型の三脚を据えて望遠カメラのシャッターを押し捲っていた。距離が離れているために聞こえる音は小さかったが夜のしじまの中で連続する音と共に、激しく点滅する火花が銃撃戦の現実を映し出していた。
空は晴れて時折渡る海風が冷気を運んできたが、現場の緊張感は寒さを感じさせなかった。
突然銃撃音が止むと、それを待っていたかのように理沙の携帯が鳴った。夜のしじまの中で思わず音を抑え込むように、腕時計を見ながらそれを手に取った。夜中の十二時になろうとしていた。
「どうした、ずっと不通だったぞ」怒鳴るような岡橋の声が届いた。
「すいません、私も何度か連絡を取ろうとしたんですが、十時半頃から全く携帯が架からなくなってしまったんです。それも,越智さんや島さんのまで」突然の不通に言い訳するように詫びた。
「それでどうなんだ、そっちは」
「はい、今は静かになりましたが、先程までこの場所からも聞こえるような銃撃戦でした。どうやらSATが制圧に成功したみたいで、先程隊員が乗り込んでいきました」
「それで、死傷者は?」
「未だ何も判りません。今から現場へ行けるかどうか下へ行って見ようと思っています」
「写真は?」
「はい、島さんが望遠でバッチリ撮っています」
「それじゃあ、島に大至急こっちに送らせろ。記事は越智が送れ、間に合わなければ今までの取材を元に書けるからな。急げよ、今印刷を停めて待たせているんだ。死傷者や麻薬が出たのか直ぐに走れ。何とか間に合わせたい。判ったな」一気にしゃべると理沙に念を押した。
「それとお前、聞いているか。尼崎の浅井組の取材に行った記者から先程連絡があって、浅井組のビルが何者かに爆破されたそうだ」
「エッ、浅井組が?」思わず屋上から尼崎の方角を睨んだが、高速道路の光の筋と点々と明かりが瞬く静かな闇が広がっているだけだった。
「とにかく、その現場の取材が先だ。十二時四、五十分までに一報を入れろ。その後で浅井組に行ってくれ」生気に満ちた指示だった。
「判りました」電話を切って越智と島に向き直ると、「尼崎の浅井組が何者かに爆破されたと言っていたわ。島さんは大至急写真を本社に送って、越智さんは此処でレポートして記事をお願い。私は死傷者や麻薬の摘発がどうなっているのか現場へ出来る限り近づいて見るわ」理沙は携帯をポケットに突っ込むと屋上を走った。


十時半過ぎまで官邸でアメリカ大使の訪問を受け、前政権が壊してしまった日米関係の悪化を再びより以上の強固なものにすべく激論を交わした後であった。
大使達が帰ると直ぐに内村と共に地下一階にある危機管理センター内に設けられた臨時司令室に戻ってきた。
「お疲れ様でした」十一時になろうと云うのに大下圭一郎や片田弥生以下作戦のメンバーが勢揃いしていた。
指揮を執る五十嵐と乾の二人は緊張した面持ちで特別に敷かれた直通回線の前で誠一郎たちを出迎えた。
円卓の周りに全員が着席したのを見て誠一郎が口火を切った。
「今の状況を説明してください」
「十時半には全ての部署が配置に着きました。状況は全て計画通りに進んでいます。又先ほどの連絡でパトリオット号も予定より少し早く十時四十二分に接岸したそうで、既に手続きに入ったそうです。連絡はリアルタイムで入ります」そう言って五十嵐が前に置かれた通信機器を見た。
「その連絡は此処にいる全員が同時に聞けるのですか」誠一郎が聞き返した。
「はい、可能です」
「分かりました。それと海上の方も大丈夫ですね」顔を乾に向けた。
「はい」短い答が返った。
作戦の第一段階が何事もなく遂行されたことで少し余裕が出たのか誠一郎が自分の上着を脱いで全員を見渡した。
各部署からの報告も順調に進む作戦を告げていた。
壁に架けられた時計が十一時を指した時から誠一郎は少し落ち着かなくなっていた。
「今、丁度着手したころでしょうね」内村が誠一郎の動きを察知して、時計を見ながら言った。
テーブルの上の白い電話機が鳴った。
すぐさまスピーカーホンに切り替えられた。
「はい、五十嵐です」
『兵庫県警の上坂です』
「上坂警視監、どうだ、様子は」
『はい、たった今東南署の笹尾署長から一報が有り、浅井組の家宅捜索に向かった機動隊長の報告で、十時二十二分浅井組のビルが爆破されたそうです』
「浅井組が・・それで、機動隊の諸君はどうなった」心配そうに五十嵐が先を促す。
『機動隊は踏み込む直前で全員無事だったそうですが、浅井組はほとんど全滅に近いそうです。重症の一名は病院に収容しました。それにしてもビルの解体のように四階建てのビルが周りの壁を残して完全に潰れたそうです。誰がどうしてやったのかこれから現場検証で明らかにしていきます』
「それにしても、このタイミングで・・・いったい誰の犯行なのか見当はついているのか」
『全く判っていません』
「近隣の民間人に被害は?」誠一郎が気になっていることを聞いた。
『機動隊長の報告ではビル周囲に設けられていた壁が頑丈に造られていて現時点で被害は報告されていないとの事です』
「判った。浅井組の組員に生存者はいないか確認して、現場検証をしっかり頼む。それと神戸港の進捗も判り次第頼む」五十嵐が指示を伝えて電話が切れた。
「これで、又一つ反社会的な組織が一つ消えたと云う事ね」片田弥生が突っ放す様に私見を述べた。
「それにしても凄いな・・でも、悲しむ人より喜ぶ人の多い犯行と云うのも珍しいね。僕自身もこの事案には同情を覚えないな」国家公安委員長の大下も弥生に同意するように言い放った。何人かが頷くようにしてテーブルの湯呑を取った。
誠一郎は電話が切れてから腕組みをして考え込んでいた。
――――そうか、これが木暮君の言っていたW機関としての仕事か・・間違いない。柊君たちの仕事だ。民間人を傷つけず・・・でもビルごと葬るか?でも一人だしな・・・これしかないか。でも彼等が神戸の掩護をする事は出来るのか?――――一人納得した誠一郎が目を開けると、内村をはじめ全員が誠一郎を見ていた。
「ああ失礼した。ちょっと考え事をしていたので・・・」気を取り直す様にお茶を一口飲んだ。「問題はこの後だ。同じ場所に第二、第三の浅井組が出来ては何の意味もなくなってしまう。だからここからは国民の皆さんにもお手伝い頂いて、その地から拠点を永遠に葬らなければ我々の作戦も水泡に帰すことになります。そこで、市田さん」厚生労働大臣に眼を据えた。
「はい」
「五十嵐長官にご協力いただいて、この地区から薬物を締め出す事に専従を置いて頂きたい。それを一歩として全国への橋頭堡になるようにして欲しい」誠一郎の口癖になってしまった言葉が語られた。
「承知しました」
「よろしくお願いします」
「今から、本番の摘発が行われて、百キロもの麻薬が押収されると弾みがついて、そうしたキャンペーンにも賛同いただける人が増えるんだが、これからだな」誠一郎が話を戻す様に注意を神戸港の摘発に向けた。
二回目の電話が鳴った。
「はい、五十嵐だ」
『上坂です。今、パトリオット号と銃撃戦に入ったと一報が入りました。現在応戦中です』
「それで」五十嵐も心配そうに先を促した。
『はい、事前に長官から情報を頂いていましたので、きちんと対応できています。相手も馴れているようで、デッキの上や甲板から十数名の人間が発砲しています。時間がかかるかもしれません』
そのまま連絡が途絶えた。
長く重苦しい時間が続いて、壁に掛かった時計の針が十二時で重なった。
それを待っていたかのように給仕の者たちが、それぞれの茶碗に熱いお茶を淹れ始めた。
テーブルの電話が再び鳴り出した。五十嵐が二回目の鳴る前にスピーカホンのボタンを押した。
『上坂です。先程銃撃が止み、先方から抵抗は止めるとの呼びかけがありました。現在隊長以下一分隊四十名が臨検の為パトリオットに乗り込み死傷者の救助、銃器の押収、船内の捜索にかかっています。済み次第、第三分隊にて積荷の検索に入ります』淡々とした臨場報告が部屋中に聞こえた。
「死傷者の詳細は?」五十嵐が落ち着いた口調で一番心配なことを聞いた。
『はい、未だ最終ではありませんが、現在届いている情報ではSAT隊員の一人が跳弾で負傷しましたが、軽傷だとの報告が入っています。パトリオットのほうは死者が三名で・・・・・・』
「三名が射殺されたのか?」黙り込んでしまった上坂警視監に先を促すように聞いた。
『はい・・・・三名が射殺体で発見されたと・・・・これは事実か?・・正確にか?・・・こんなことがあるのか。分かった直ぐに検視に廻して徹底的に調べるように』途中から横にいる副官か誰かに聞き質しているのだろうか、声が小さくなっていた。
「上坂警視監どうした」五十嵐が聞きなおす。
『はい、失礼しました、確かに三名なんですが、それが三名とも右側頭部の同じ位置に銃弾を受けて死亡しているそうです。こんな銃撃戦で三人とも同じ位置に銃弾を受けるということは普通考えられません。それにSAT隊員がこの傷口と銃弾の射入角から見て応戦の正面からの銃撃ではなく海側からの射撃ではないかと言っていたそうです』
「違う方向からの銃弾?それも同じ右即頭部?一体、誰が射撃したんだ。」
『はい、確実な情報ではありませんが全く同じ位置だそうです。でも今はこれ以上の評価は出来ません。詳しく検証した後で又ご報告いたします』県警トップの上坂警視監の声も高揚していた。
「判った。では、積荷の検索はこれからだな」
『はいそうです』
「了解した。よろしく頼む」五十嵐がスピーカホンを切った。
通話が切れると誠一郎が五十嵐に問いかけた。
「射撃の角度から見て海側からの射撃ではないかと疑っているようですね」
「そのようです」
「第三者の誰かが撃ったと云う事?」片田が単純な疑問を口にした。
「それは考えられません。何しろ海は海上保安庁が一般の出入りを封鎖していますし、陸上も機動隊が神戸大橋を検問していて、第三者の入り込むことは不可能です」
警察の面子にかけてそれはあり得ない事だった。
「まあまあ、その話は先ほど県警本部長が現場検証を詳しく実施した後で報告すると言っていたんだからそれを待ちましょう。それよりも肝心の積み荷の検索が此れからだそうだから、その報告を待ちましょう」
黙って考え込んでいた誠一郎がすっきりした顔で皆を見回して言葉を挟んだ。
「一番の主目的がそれですからね。これで麻薬が積み込まれていないなんてことがあれば、何のための作戦か意味がなくなってしまう」それぞれの感慨に耽り、静寂を取り戻していった。
誠一郎ひとりが、今日の動きを冷静に分析していた。
――――木暮君にお願いしたバックアップは完璧な仕上がりになった。それにしても何という能力の持ち主なんだ――――確信を以って彼らとの邂逅を歓んでいた。
指令室に再び電話の呼び出し音が鳴り響いた。
五十嵐長官が応えるのも待たず上坂が話し始めた。
『上坂です。十二時三十二分に発見しました。何百と積まれている麻袋の中から赤・黒・赤に色分けされた麻袋だけを抜き出して調べたところ情報通りヘロイン合計百㌔が発見されました。あと念のため他の袋も抜き取りで確認させていますが、現状は予定通り百㌔は押収できました。以上取り敢えず・・・何だ君は・・』突然何か邪魔が入ったのだろうか、上坂本部長の通信する周辺が騒がしくなって声が途切れがちになり、暫くスピーカホンから発する雑音が大きくなった。間もなく雑音が途切れ本部長の声が再び流れ出した。
『失礼しました。いま突然毎朝新聞の上野と名乗る記者が現場に飛び込んできまして、何か大声を出して訴えているんですが、それにしてもなぜ毎朝の記者だけが潜り込んでいたのか身元を確認したうえで善処したいと思います』その報告に敏感に反応したのが内村だった。
「上坂本部長、私は総理秘書官の内村です。聞こえますか」
『あっ、はい、聞こえます。どうぞ』
「その記者は何と言っているんです」
『はい、麻薬は摘発されたのか。何キロあったのか。死傷者は何名か。SATに被害は無いのかと、かなり詳しく今回のことを知っているようです。何処から情報を取ったのか、現在、隊員が身柄を抑えていますが本部で詳しく調べたいと思っています』
上坂の報告を聞きながら内村は誠一郎を窺った。彼はしばらく内村の眼を見返していたが、頷くように首を縦に振った。内村が頷き返して送話口に向き直った。
「上坂本部長、その記者はこの作戦を知っていたのです。今日まで我々との約束で記事にしないで伏せていてくれたのです。詳細は後程五十嵐長官からお聞き頂きますが、取り敢えず先ほど仰った質問事項には許容できる範囲で話して頂いて結構です。ご配慮をよろしくお願いします」総理秘書官が“我々との約束で”と言ったのである。つまり総理も絡んでいると云う事か・・・上坂はある程度の事情を推察した。
『判りました。善処いたします』簡単に応えて連絡が切れた。
全員の眼が総理に向けられた。誠一郎は暫く考えていたが、やおら立ち上がって入口付近で白いナプキンを肘にかけて控えている給仕長に近寄り何事か囁いた。彼は軽く礼をすると出て行った。それを見て誠一郎が全員に向き直った。
「いまお聞きのように兵庫県警から朗報が入りました。我々が計画して実行してきた作戦が成功裏に終わったというべきでしょう。皆さんご苦労をかけました」そういうと全員に深々と頭を下げた。聞いていた全員がそれに軽く頭を下げて応えた。
「今、ビールと軽いつまみのようなものを頼みました。それで皆さんに少しお待ちいただく間に、内村が本部長に指示した出来事を理解して頂くために、かいつまんで報告させます」内村を見て小さく頷いた。彼も心得て立ち上がると説明を始めた。
一回目の公邸での会議から第二回目の会議まで全て出席者の名前まで知られていた事、決行直前になって、どのような会議なのか真相を話して頂かなければ公表せざるを得ないと言われたことを打ち明けた。
話し終わるのを待っていたかのように厨房に続くドアが開かれ、ビールやつまみの小鉢が運び込まれた。それらが全員の前に並べられるのを見ながら「そんな事情じゃぁ仕方がないわね。でもその毎朝の記者って、上野って言ったかしら、どんな男性?」片田が興味を示して内村に聞いた。
「それが、男性じゃあ無いんです」
「じゃあ女性なの。やるわね。国会で会うのが楽しみね」同じ女性と知って、片田も微笑みながら記憶に仕舞いこんだ。
改めて全員のグラスにビールが注がれた。
「では、改めて今回のご尽力に感謝します。ご苦労様でした・・乾杯・」
誠一郎の音頭に合わせて全員がグラスを上げた。


一時三十分を過ぎて岡橋の苛立ちは頂点に達しようとしていた。
「未だか、上野から連絡は」電話はそこかしこで鳴るのだが、上野からと云う声は聞こえなかった。
「よし、五十分を過ぎて連絡がなければ、送られてきた写真を入れて、越智の記事で早版に間に合わせよう。松ちゃん、それで頼む」呼びかけられた松永が頷いて原稿のチェックを始めた。
編集長のデスクの電話が鳴ったのは松永が出来上がった原稿を印刷に廻そうとしていた矢先であった。
「遅い!」受話器に吠えるように怒鳴ってから、受話器に手を当てて
「松ちゃん、待って」一声かけると、再び受話器に向かった。眼は腕時計を睨んでいた。
「すいません遅くなって、今から読み上げます」上野の声も上ずっていた。
受話器を耳に挟んで編集長も真剣な顔で報告を書き取っていく。書き込む紙が一枚終わる度に菊池がPCに打ち込んでいく。正に編集部全体が一つになって動いていた。
「ぎりぎりセーフかな。本当に困ったもんだ」
編集長が電話で聞いた内容をまだ知らない編集部員達の視線は岡橋を見つめたままだった。
「そうか、いや、薬は見つかって押収されたそうだ。銃撃戦での死者は敵方が三名、こちらは負傷一名だけだそうだ」簡単に報告すると、あちこちから歓声と拍手が起こった。
松永が岡橋と顔を合わせ、ニッコリと笑った。
「これで、尼崎の浅井組の爆破と神戸の捕り物を関連付けた記事は毎朝(うち)だけだろう」満足そうな笑顔で岡橋が呟いた。
「そうですね」松永も笑顔で大きく頷いた。
毎朝新聞七日の早版には理沙たちの大スクープの活字と写真が躍っていた。

理沙はタクシーに飛び乗った。
車の中から越智に電話を架け、浅井組に向かうことを告げると、座席に深く腰掛けて腕を組んだ。
今日までの出来事が走馬灯のように甦ってきた。
あの夏の黄昏時、紀尾井町のホテルニューオータニで友人の結婚式に出席した際、智子と四十階の“ザ・バー”で飲んで帰ろうとして、総理秘書官の内村と第三師団の幕僚長である木暮一佐との会合を目撃したのが始まりであった。そしてロイヤルホテルで再び木暮幕僚長と出会い、それも平田再先任上級?曹長だったかしら・・・と若い特殊部隊の人物・・その三人が総理と会談。それも東京へ帰る時間を延ばして・・・続いて国会での内村秘書官の奇妙?な信号機のような携帯・・・それに未だ何かを思い出せないでいる・・・何だったのかしら・・・越智さんが私のサポートに付いてくれた初日、確かSATの異動があったと云っていたんではなかったか・・・まだあるわ・・国会で内調の恩田室長が今井代議士の秘書を連れて行ったのは、今回のことに関係しているのだろうか・・・それに今から行こうとしている尼崎の浅井組爆破?・・・更にもっと大きな事は、何故内閣総理大臣以下各省の大臣が揃って今回の密輸摘発に直接関わっているのか・・・全て疑問の連鎖だった。
「警察がバリケード張ってて、此処から先へは行けまへんわ」タクシーの運転手の突然の声に、我に返った理沙が前を見ると浅井組に通じる道は警察の黄色いテープで封鎖されていた。
理沙の携帯が鳴った。ディスプレイに編集部の文字が夜の闇に浮かぶように写っていた。



           エピローグ


二週間後・・・肌寒い日であったが、初冬の空はくっきりと晴れ渡っていた。
尼崎の神田商店街も立ち上がった。八月以来、何者かに尼崎地区を支配する反社会勢力の組織が次々と殲滅された事実は、今迄その支配と恐怖から何もできなかったが、先ず婦人会が起ち上がり、警察や厚労省の専従班にも後押しされ商店主達も旗を振り始めた。
一度弾みがつくともう止まらなかった。暴力団と麻薬の撲滅キャンペーンの旗が連日街角に溢れ、次第に反社会勢力の姿が街の中から消え、それを契機に警察の対応も素早く、多くの組員が摘発され街に平穏な空気が戻りつつあった。
遠巻きに様子を見ていた歓楽街も、みかじめ料の請求が無くなりつつある事を実感し始めると、これもキャンペーンの列に加わり始めた。東南警察署も署長が変わり、署員たちの動きも心なしか活き活きした動きになり地域全体に新たな活気が蘇り始めた。


上野理沙は越智と共に社長賞をもらった後、政治部の記者として日常生活に戻ってはいたが気持ちは釈然としていなかった。
神戸での銃撃戦の後、杭瀬へ向かうタクシーの中で心の中にもたげてきた様々な疑問が今も尚彼女に重くのしかかっていた。
“こうなれば意地でも調べてやる。私の大きな目的だわ、いや、生きがいと云うべきかな”心の中で闘争心に火がつくのを実感していた。
傍らのバッグを手にすると黙って肌寒い外に飛び出していった。


柊は西宮マリーナのバースに一人佇み沖合いを眺めていた。昼下がりの静かな大阪湾が眼前に広がっていた。
名前を呼ばれて振り向くと夙川病院の和田兄弟夫婦が肩を寄せあって歩いてくる。
静かな佇まいで沖合を見つめる柊の横に四人が並ぶように立った。
それぞれの感慨を持って静かな海を見つめていた。
「あれか?」不意に敏一が沖合を指差した。
全員が言われた方向に眼を移すと、小さな白い点が南東の沖合から見る間に大きく視野に入ってきた。陽光を浴びて白く輝くHunt二四が平田の手慣れた操船で急速にスピードを落とし、ゆっくりとバースに横付けされた。
船体には流麗な濃紺のカリグラフィー文字でMs Shihoの名前が鮮やかに蘇っていた。平田が操縦席からにこやかに笑いかけた。
和田兄弟はあっけにとられたように見ていたが、柊がロープを平田から受け取りバースに括りつけるや敏男が呟いた。
「これは・・・何と・・新品じゃぁないか」目を丸くして平田と柊に目を移した。
「まぁ、凄い。綺麗」志保が目の前にある自分の名前を愛おしむように呟いた。その光景を見ながら敏一は柊たちの行為を推し測っていた。やがて、納得した様に傍らの洋子を見ると、彼女も判っていると笑顔で頷いた。
平田の手を借りて敏男が志保と共に船上に上がると船内をゆっくりと見て回る。バースに残った敏一達は眩しそうに陽光を避けて柊と向き合った。
「柊さん、ありがとう。あなたには感謝するばかりよ」
「いえ、こちらこそ、命を助けて頂いた上に院長のボートを潰してしまって申し訳ありませんでした」心からのお礼と謝罪の言葉だった。敏一はそれを黙って受け容れた。
「あれは、先々週だったか、尼崎で大きな組織がビルごと潰れ、更には神戸で大量の麻薬の密輸が阻止されて、我が愛する兵庫県民の多くが汚染から救われたようだ」
「・・・」柊は無言だった。
「柊君・・今回はまさしく法を乗り越えた裁きが実行されたのかもしれないね。今迄だと麻薬は摘発されても、組事務所ごと殲滅するなど考えられなかったことだ。私も医者としての倫理から見れば不適格者かも知れないが、この現実にはもろ手を挙げて賛同したいと思っている。まして一般の市民には何の被害も無かったそうじゃぁないか」嬉しそうに話す敏一の顔には、いつもの柔和な顔からは想像もつかない決意を秘めた男の顔があった。
柊の身構えるような身体が急速に落ち着いた自然体に変わっていくのを感じた洋子が
「柊さん、私達も一つだけ報告があるの」
彼の視線が自分に向けられると
「誰かさんにお手伝いいただいた治療院を建てる計画の土地があったでしょう?」
「あっ、はい」突然の話に虚を突かれたように柊が応じた
「あそこに麻薬やPTSDで悩む方々の施設を造るべく、先週十九日の大安に地鎮祭をしたの。それで、その治療院の名前を皆で検討した結果、貴方の無くなった奥様と私たちの娘の一字づつをとって【恵涼苑】って名付けたの。勝手に奥様の名を頂いて・・許して下さる」優しい目で見つめられて柊は戸惑っていた。
「ありがとうございます。その様なことは夢にも思っていませんでした・・・」和田兄弟夫妻の配慮に、涼子への鎮魂を想い冬の晴れ渡った空に視線を向けた。
柔らかな日差しが六つの影を造っていた。


同じ頃、東京の目黒区に芝・増上寺の三十六世住持であった祐天が廟所に選んだとされる浄土宗の祐天寺がある。西には陸上自衛隊の三宿駐屯地、東側には目黒駐屯地が首都防衛の一翼を担っている。近隣にモダンな住宅が建ち並ぶその一角に風情のある日本家屋が残っていた。
表札は無く、今まで人の気配も感じられなかった家の前に黒いトヨタクラウンに先導された防弾装備のレクサスハイブリッドLS600hLが静かに停まった。先導の車から停車する直前に濃紺の背広を着た四人の屈強な男たちが飛び降りてレクサスが停止するころには、その前後を固めた。
誠一郎が車から降り立ち、入口を入ると陸上自衛隊の濃緑色の制服姿で肩の階級章が一回り大きな金の桜二つになった木暮の敬礼姿が待ち受けていた。
「やあ、久し振りだねえ」誠一郎が近付いて握手を求めた。
「それにしても昔で言えば少将殿か」もう一度後ろに下がって呟いた。
「いえ、陸相補になります。昔で言えば准将と云うところですか」木暮が応えた。
「まあ、何はともあれ、おめでとう」再び手を硬く握り合った。
「小暮さん」内村が声を掛けた。
「この家は、W機関が誕生して直ぐに、総理が今後も続くこの作戦を実行していくに当たって、東京での拠点を作るように指示をされ、内々で探していたのですが公邸からもあまり離れていなくて、しかも陸上自衛隊の駐屯地が傍にあるという利点もあって選んだんですが、気に入って頂けましたか?」総理の並々ならぬ決意を改めて感じた木暮は
「恐縮です。その意に副えますよう全力を挙げて総理をお支えします」短い言葉に万感がこもっていた。
「よろしく頼む、東京での拠点が出来たところで、乾杯といこうじゃあないか」
誠一郎が簡単な酒肴が用意されたテーブルの前に座った。
「今回は公安や警察庁、財務省までが一体となって取り組んだ結果、それなりの成果を見たわけだが、これで反社会団体が一掃出来たわけでもなく、むしろ彼らの反撃も考慮に入れると、これからが本番と考えるほうが自然かも知れないな」
誠一郎の言葉に彼等も大きく頷いた。
「そこで、木暮君、戦略、戦術については君に全権を委任したい。がしかし結果の全ては知っておきたい。そこで神戸での我がW機関の話を聞かせてもらえないか」
木暮は暫く考え込んでいたが、一人頷き姿勢を改めて静かに話し始めた。
尼崎の浅井組の壊滅から神戸での掩護まで何も省くことなくその詳細が語られると誠一郎は満足げな視線を木暮に向けた。
「今回は代議士、秘書官、警察官、税関員と国民に奉仕すべき公務員がこのように腐敗にまみれて居ようとは慙愧に堪えないが、私はむしろ大室さん以外に何か、もっと奥深いものがあるような気がしてならない。単なる杞憂であればいいんだが」
誠一郎はこのW機関が何処まで機能するのか、誕生時の不安が一掃されたことを素直に喜んでいた。
外では警視庁から密かに命を受けた制服の巡査が増員され周囲に警戒線を敷き、家屋周辺ではSPが日本国宰相の警備に当たっていた。

司法の象徴とされるギリシャ神話テミスの女神像は、天秤を手に
「剣無き秤は無力、秤なき剣は暴力」と訴えるが、柊の剣は秤を傾かせてしまった。
天秤は平衡を取り戻すのか、この国から麻薬による汚染を取り除ける日は来るのだろうか・・・
師走の足音は間近に迫っていた。

                           了

テミスの怒り

テミスの怒り

陸上自衛隊一等陸尉である柊竜二の妻 涼子は夏の陽の下で麻薬に汚染された暴力団準構成員の凶刃の犠牲になった。特殊作戦群を自らの意思で辞めた柊の怒りは組員の所属する組織に向けられ、尼崎に巣食う組織を壊滅へと導いた。おりしも戦後金権腐敗体質に嫌気のさした、時の総理渡辺誠一郎は首席秘書官内村と密かに対策を練っていた。 《法が機能せず、正義が実現されない時私なりに創ろうとしている組織が法を執行する権利を・・・・》それはこの一言から始まった。 第三師団の木暮幕僚長と渡辺総理との出会いは、内村を通じて密かに実現され、国民の安全と財産を守るという大義の元にW機関が創設された。 “裁判所で見かける正義の女神テミスも悪と戦うために剣を持っています” 彼女の持つ天秤は傾き男が吠えた。 反社会勢力が今までに出会ったことのない敵として、立ちふさがるW機関との間に死力を尽くした戦いが始まった。

  • 小説
  • 長編
  • アクション
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
更新日
登録日
2016-09-28

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著作権法内での利用のみを許可します。

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