何億光年の記憶のおくそこ
思い出じゃあないんだよ。
「歩いていて目に留まったもの、といったようにね、何だって良いのだ。とにかく君が、一瞬でも心惹かれたもの、あるだろう」
「見たのでなくても、聞こえてきた音やふと気付いた木の香りでも」
「そう。ま、君のような奴に、そっくりそのまま丸ごとの記憶を要求するのは酷だろうが。捨象によって、真っ先に頭の中からなくなるはずだ」
「君に言われると否定はできないな」
「しかしね、何に対してどう感じたか、とどめておくことは困難だとしてもだよ、君の中に確かに残るものが、あるね」
既視感と呼ぶにはちっぽけでも、
と、君は添えた。
「他でもない君が覚えた衝動を」
「他でもない僕が知っていること」
「初めて触れたものに懐かしさや好ましさを感じるとき、それ以前にも似た思考が、感情がわきおこったのだと、君は知る。外部から、まるで条件反射のパブロフの犬のごとく情報を摂取したのではない。君が考えたのだ。君が想ったのだ。それがどれほど尊いことか、君は気付いていない」
「呼吸と同じ自然なものだったから、と言ったら?」
「おこがましいさ」
「悪かったよ。
今、君に気付かせてもらえただけ幸せだ」
ならばもっと幸福にしてやろう、と君は笑った。
力みのない、しあわせそうな声音だった。
「忘れたくないと強く願っても、時が経てば薄れてゆくものだ、記憶というものは。都合良く改変を繰り返して愛でることも可能だが、きっと君はそれを厭うね。
さっきの話、分かったかい。
ものごとは君の手から次々と零れ落ちてゆくが、君の衝動は残るのだ。過去からこれからへ、本質を変えずに継承され、継続されてゆく。
忘却の海にとりのこされたものたちは、君の触れる風景の中で息を吹き返す。だから、君も泳いでゆくと良い。君自身のことばに、責めたてる声に溺れる必要はないのだ。私は君を許すよ。許すという行為は積極性を伴わないものだ、と君が不満なら、私は君を許している気になっている、と訂正するのを、許して貰えるかな」
すべてを透かす色が、君と僕とを隔てる。
それは、君が望んだからだ。
「なら僕も君を許そう。勝手に僕の中から消えてゆく君を。自分本位と、言わば言え」
詰るものか、と、君が遠のいた。
「君は私を忘れたって良いのだ。
陳腐な言い回しだが、私は君のそばに居続ける。
それに、上手なさようならの告白を、君はもう、知っているじゃあないか」
どうして君が自信ありげにするのだ。そんなわけがあるか。
君の優しさを隠す揶揄に、僕も笑った。
君の声すらもう思い出せないのに、笑っていた。
何億光年の記憶のおくそこ