Fly Me to the Roof
それが何歳の時の出来事だったのか、実を言うと俺はもう覚えていない。少なくとも小学生にはなっていただろうか? 案外、もう中学に上がろうかという年頃だったのかもしれない。一度大人になってしまえば、少年時代の細部などその程度の認識だ。これから先、記憶はさらに朧げになっていくのだろう。だから、誰かに語って聞かせるのならば、なるべく早いうちがいい。
その日、俺は両親に連れられて電車に乗っていた。家族旅行だったような気もするし、田舎に帰省するところだったのかもしれない。ともかく、まだ幼かった俺は両親と向かい合わせでじっと座っているのに耐えかねて、車内を探検しようとその場を離れたのだった。
そして、彼女に出会った。
その人は、見ず知らずの年上のお姉さんだった。全体的に黒っぽい服装だったのが印象に残っている。当時の俺ではボキャブラリーが足りなかっただろうが、あえて言葉にするならば「物憂げ」な表情を浮かべているように見えた。随分と美人だったように思うが、それは思い出ならではの補正が働いた結果かもしれない。
彼女は乗降車口のすぐ傍らに立っていて、飛ぶように過ぎてゆく外の風景をそこからただ眺めていた。俺はそんな彼女の様子が気にかかってしまい、つい立ち尽くして見つめてしまった。もちろん、ずっとそうしていれば、彼女もさすがに俺に気づく。
子供というのは、驚くほど恐れ知らずだ。俺は初対面の彼女に、何を見ているのか尋ねた。大人になった今では、そんな真似は到底出来ない。それに、仮に出来たとしても、そんな馬鹿な質問はしないだろう。なにせ、訊くまでもない。電車の窓から見るものは「景色」だと、常識的に知っている。それだけ理解していれば、それで十分なのだから。「故郷」と「新天地」、「田舎」と「都会」――そんなものは、些細な違いでしかない。しかし、彼女の答えは俺の予想だにしないものだった。その言葉は、今でもはっきりと覚えている。
「人がね、駆けていくの」
その時の俺が、彼女の言葉の意味を完全に理解出来ていたとは思えない。それでも、彼女が電車からじっと視線を注ぐ「人」というだけでも、それが一体どんなものなのか気にかかるには十分だった。俺は、彼女の隣に並んで外を見た。窓の外では、景色が人間離れしたスピードで後方へと過ぎ去ってゆく。山が、川が、建物が。色とりどりの奔流が目まぐるしく移ろっていった。しかし、彼女の言う「人」らしきものは、全く見当たらなかった。
俺は文句を言った。子供は期待外れの展開に対して、なかなかに辛辣だ。それを受け止め、彼女は優しげな笑みで説明してくれた。他の人には見えなくても、自分に見えていればいいんだとか、その「人」は超人的な速さと技で建物の屋根から屋根へと飛び移って電車と併走しているんだとか、そんな事を言っていた。
俺は恐らく馬鹿だったのだろう。あるいはきっと、そう、きっと幼すぎたのだ。彼女の見ている「人」というものを、自分も景色の中に見てみたいと、たとえ見えなくともせめて思い描きたいと躍起になった。ガキの稚拙な想像力では何も生み出せないままに、時間だけが過ぎていく。そうこうする内に、電車は呆気なく次の駅に停車してしまった。そこはまだ、俺達家族の降りる場所ではない。けれど、彼女とはお別れをする時間だった。
俺は彼女に一杯食わされたような気分で、勝手に一人むくれていた。彼女はそんな俺にもう一度笑いかけると、かがみ込んで俺の耳元で何かを囁いた。俺はもう、それが一体どんな言葉だったのか覚えてはいない。子供には理解出来ないような難解な表現だったのか、そもそも大した意味のない呟きでしかなかったのか。どうせ真相は分からないのだから、俺はそれを、魔法をかけるための呪文だったと思う事にしている。馬鹿な事をと思われるかもしれないが、そう思うのが俺にとっては一番自然だったのだから、仕方がない。
そうして、彼女は電車を降りた。俺が彼女の声を聞き、その姿を見たのは、これが最後になった。やがて、電車は再び走り出した。瞬く間に駅が遠く離れてゆく。そして、彼女も。
その、はずだった。
諦めて両親のところに戻ろうとした俺は、ふと窓の外に違和感を感じて目を凝らした。その視線の先、飛ぶように過ぎてゆく景色の中、「彼女」は風を切るようにして駆けていた。
屋根や電柱を足場にして器用に走り抜ける「彼女」は、さっきまで一緒にいた彼女によく似ていた。少なくとも、自分はそう思った。俺は結局、目的地の駅が近づいて両親が探しに来るまで、ずっとその場に立ち尽くして、「彼女」が一軒家の屋根からビルの屋上へ、電柱の小さな足場から走行中の車のボンネットへと飛び移るのを飽きる事なく見続けていたのだった。両親には、「彼女」の事は何も言わなかった。
駅に辿り着くと、「彼女」も電車と並んでホームへと滑り込んだ。そのままだんだんと速度を落とし、停車に合わせて歩みを止める。
俺は、両親に伴われて電車を降りた。ここからはもう、電車は使わない。出迎えが来ていたのだったか、そこからしばらくは徒歩だったと思うが、その辺りの詳しい事は、やはり忘れてしまった。
小さな駅の改札を出てしまう前に、ホームを振り返る。そこでは、「彼女」が寄る辺なさそうに立ち尽くしていた。今考えてみても、おかしな話だ。「彼女」は、乗客の視線の先で電車と併走する事こそが存在理由だろうに。そのための産物なのだから、電車の旅が終わってしまうのと同時に跡形もなく消えてしまったとしても、それもまた道理であるはずなのに。しかし、現に「彼女」は消える事なくそこにいた。それが実体か俺の空想かなど、そんなものは些細な違いでしかなかった。
この先、「彼女」はどうなるのだろう。俺が駅を立ち去れば、本当に消えてしまうのか。それとも、ずっとここに留まって、俺がまた電車に乗るのを待つのだろうか。もしかしたら、今度は別の誰かに見守られながら走り続けるのかもしれない。それは、もう電車を降りてしまった俺の気にする事ではないと思う。けれど、その時の俺は思ってしまったのだ。もし許されるのなら、と。
俺は、「彼女」の目をしっかりと見据えて手招きをした。「彼女」は目を丸くし、少しだけ驚いたように見えた。俺は念を押すように、首を縦に振って見せた。両親は、駅の構内を眺めたままなかなか改札を抜けようとしない幼い息子を、どう思った事だろう。しかし、それでも特に何かを咎められはしなかった。やはり、両親には「彼女」を見る事も、思い描く事さえも叶わなかったのだと思う。
一歩、また一歩と、「彼女」は車窓の外を走っていた時の俊敏さからは想像のつかないぎこちなさで俺に近づいてきた。そして、触れられるほどすぐ側に寄り添うと、操り人形の糸が切れたように力なく倒れ込み、俺の中へと消えていった。そういう出来事が起きたとしか、表現のしようがなかった。
さっきまでより随分閑散として見えるようになった駅のホーム。けれど、「彼女」を受け止めたこの小さな体は知っている。ここに、いる。確かに息づいている。
俺は振り返ると、何事もなかったかのように改札を抜けて、両親の後を追った。
* * *
大学に入っても、俺は冴えないままだった。むしろ、子供の頃のほうがまだずっと利発だったようにさえ思う。少年時代のまま変わらないものと言えば、俺の中に確かに感じられる「彼女」の存在くらいだった。
中高生時代には、電車に乗る機会がぐんと減った。通学を含めて、移動はほとんどが自転車だったからだ。それでも時々バスなんかに乗る事があった折には、「彼女」は嬉々として外の景色へと駆け出していった。そんな時の「彼女」はまさに水を得た魚のようで、俺はその走りをぼんやりと眺めながら、普段思い切り走り回らせてあげられない事に申し訳なさを感じたものだった。なにせ自転車のスピードでは「彼女」には到底物足りないだろうし、何より運転中の俺はそんな「彼女」の姿をろくに見てあげられないのだから。
言わずもがなだとは思うが、車や電車に乗る度に車窓の外を駆ける人影に思いを馳せているような男子学生には、充実した青春を送るのは難しい。誰かに「彼女」の話をした事はなかったが、それでもリアルを充実させている若者の中にいると、雰囲気が自然と浮いてしまう。そんなわけで俺は高校卒業までにただの一人も恋人なんてものは出来なかったし、そんな人間だから大学デビューも無事失敗に終わる事になった。
そんな俺が大学で少なくともぼっちにはならずに済んだのは、学部の同期会で出会ったオタク連中と知り合ってつるむようになったおかげだった。趣味こそ濃く偏っているが、なんだかんだ気のいい奴らで、先に話しかけてくれたのも向こうからだった。曰く、似たような波長を俺から感じたのだそうだ。
俺の大学での交友関係が狭く限られていたのは今説明した通りだが、そこに全く華がなかったかというと、意外な事にそうでもなかった。オタク達と一緒にいるとまあまあな頻度で女性と挨拶を交わしたり談笑したりする場に居合わせて、俺はオタクと呼ばれる人種への偏見を改めさせられる事になった。
そんな中でも、特によく見かける女性が一人いた。その人は少し不思議なオーラを放っていて、話をするのを聞いていると天然っぽい節があって、容姿も性格も引っくるめて有り体に言えば可憐だった。
ある日俺は、一人で学食にいるところをその人に話しかけられた。
「一人ですか? 珍しいですね」
「まあ、はい……」
もごもごと答える俺の正面に食事の載ったトレイを置き、椅子を引いて腰を下ろす。その流れるような、あまりにも自然な動作の後で、その人は言った。
「あ、ここ、一緒にいいですか?」
「はい、まあ……」
そうして、俺達は色々な話をした。オタク連中の事。期末レポートや教授の愚痴。キャンパス内のちょっとした有名人。先輩から聞かされた大学の七不思議……。
「そう言えば、私、霊感とかあるのかなって思う事あるんですよね」
「あ、視える人ってやつ?」
「どうなんでしょうね? 他の人と話してたら、よく言われるんですけど。『それ、霊とか見ちゃってんじゃない?』みたいな」
自分でも何を見てたのかいまいち分からないんですよね、なんて言いながらふにゃっと笑うこの人を見ていると、どうにも気が抜けてしまう。ただただ、将来この人が自称霊媒師みたいな人種の洗脳にかかりませんようにと祈るばかりだ。
「逆に、見た事とかないですか?」
唐突にそう尋ねられて質問の意図を掴み損ねるが、要は俺にもそういう心霊体験がないかを知りたいらしかった。その答えに、俺は迷う。不可思議で超常的な経験と言うなら、確かにある。むしろ、今も「彼女」が俺の中で次に走る時を待っているのをひしひしと感じている。この状況は、心霊的と呼べない事もない。
けれど、俺は「彼女」の事を口にはせず、ただ笑ってごまかした。幽霊なんていないと思うけどなあなんて、自分だけに見える存在とか怖いじゃんなんて嘯いて。
その日以来、どういうわけか俺はこの女性と話をする事がぐんと増えた。予定を合わせて会うようにもなった。そういう時は、悪いけれどオタク達の事はほったらかしにさせてもらって、いわゆる二人きりになる事が多かった。こうして、俺は人生で初めて同世代の異性と親密に接する日々を送るようになり――それをごく平たく言えば、カノジョが出来たのだった。
カノジョは独特のペースを持っていて、それは時と場所を選ぶ事なく発動した。それは例えば話題を選ぶ食事の席で、あるいは時間に追われているまっただ中で、そしてまたある時は、雰囲気の出来つつあったベッドの上での事だった。
「他の人とは見てるところが違うんだ、って感じするよね」
カノジョが唐突にそんな事を口にするものだから、俺は自分があまりにデリカシーのない視線を向けてしまっていたのかと慌てて目を背けた。カノジョの白く透き通るような肌は、それでもちゃんと日に灼けたものだったようで、普段服に隠れている部分はさらに色味を欠いていてちょっと人間味がないくらいだった。青く浮かぶ血管だけが、、そこに生命がきちんと宿っている事を証明してくれている。目線を彷徨わせる俺に、カノジョは続けて言った。
「みんなね、何かに夢中でしょ? パソコンとか、アニメとか、絵を描くのとか……。それを現実逃避のための趣味だって言う人もいるけど、でも、ちょっと違うような気がするんだよね」
カノジョの言う「みんな」というのは、あのオタク達の事だ。それぞれ趣味はまちまちで、カノジョが言ったように機械いじりが好きな奴からサブカル野郎にクリエイター志望、他にもミリオタやドルオタなんてのもいる。不思議なのは、それだけバラバラなものをそれぞれ追っかけているくせに、みんなが集まればなんだかんだで一緒に盛り上がれてしまう事だった。
「みんなは現実から目を逸らしたりその辛さを癒したりしてくれる趣味に夢中になってるって言うんだけどね。でも、その趣味を追求する事でさ、現実を遠ざけるんじゃなくて、逆に現実に関わろうとしてるみたいに――少なくとも現実と少しでも向き合いやすくなるように頑張ってるんじゃないかって、そういうふうに見えちゃうの。変だよね。病気が治らなくても、死んでもいいから苦いお薬は絶対に飲まないって、そう言いながらちゃんとオブラートとか甘いゼリーを用意してる、そんな感じ」
確かに、それで目的と手段を履き違えて「オブラートが好きなだけだから」なんて嘯き始めるようでは、始末に負えないかもしれない。カノジョには、みんながそう見えているらしい。
「けどさ」そう言ってカノジョは俺の腕をとって撫で、俺の事を改めて呼んだ。君はそうじゃないんだよね、と。
「ずっと思ってたんだ。この人が夢中になるものって何なんだろうって。みんながマンガを読んだり機械を組み立てたりする時のキラキラした目を、この人は何に向けるんだろうって」
カノジョは、真っ直ぐに俺を見上げている。俺が「キラキラした目」で見ているのは……目を逸らせないものは……。
「時々さ、遠いところを見てるよね。だから、建物かなって思ったんだ。でも違うよね。普段、全然興味ないの、見れば分かるもん」
そうだね。建物なんて、全く意識してなかった。それこそ、いつも接しているのに注意の向かない地面みたいに。
「だったら、空とか雲なのかなって。けど、そうでもない気がするんだよね」
普段何も考えていないように見える人に限って直感が鋭いというのはよくある話だ。カノジョは、可愛らしく小首を傾げる仕草をする。
「ねぇ、いつも窓から何を見てるの?」
少し室温が高すぎたのか、頭がくらくらするようだ。俺の体の火照りに反してカノジョの肌は嘘みたいにひんやりとしていた。カノジョには時々そういうところがある。この理屈じみた現実の条理を、平気で裏切ろうとする。だから、無味乾燥な現実を背景にして、それこそ嘘の塊みたいによく映える。
まるで「彼女」みたいだ。
黙って抱きしめるしか能のなくなった俺の強張った頬を、カノジョの両手が包み込んだ。
「でも、いいと思う。見てるものが何でも。そうやって窓の外を見てる時は、本当に自由そうだから」
だから素敵だとカノジョは言った。やっぱり、カノジョには現実に縛られる気なんてさらさらないようだった。だから、カノジョがいざその気になれば、いとも簡単に現実の決まりや束縛を振り切ってしまえそうな気がする。そして、あり得ない速さと技で屋根の上へと駆け上がり、電車にだって並んでしまうのだ。
眩暈がする。体温で理性がどろどろ溶け出していくかのようだった。
カノジョが屋根から屋根へと飛び移っていく姿が見える。電車の中、黒っぽい服装のカノジョが幼い俺に微笑みかける。同時に、ずっと昔に車窓からの景色を眺めていたはずの彼女が学食で俺の正面に腰かけ、俺にしか見えない「彼女」は今まさに俺の腕の中で冷たい肌を晒している。
俺の見ている世界と現実は、きっと違う。俺が赤だと思っているものは、実はみんなにとっては青なのかもしれない。でも、そんなものは、些細な違いでしかない。つまるところ、俺達が見ようとしているものは色でしかないのだから。
けれど、もし、そこで「空気の色」なんてものを見ようとしてしまったら? みんなと同じように色を楽しもうとしながら、自分だけは無色透明を見つめているのだとしたら?
そんな事、どうだって。
別に透明だって、いいじゃないか。
俺にとって大事なら、透明だって。非現実的だって。幻想だって、虚無だって。嘘だって。
……「彼女」だって。
火照る体と冷たい肌が重なって、太極図の陰陽みたいに交わって。どんなに目の前にいるカノジョの顔をありのままに見ようとしても、ぐずぐずに融けていくようで。最後の瞬間に瞼の裏に映っていたのは、カノジョではなく、どこまでも青い空を背に駆ける「彼女」の姿なのだった。
* * *
娘が生まれると、妻は――その時にはもう、その人はれっきとした「妻」で、「カノジョ」ではなかった――随分と地に足が着いた生き方をするようになった。動きもきびきびとするようになったし、幽霊の話もしなくなった。その事を少しだけ、寂しく思う。
しかし、その事を差し引いてみても、娘の誕生は奇蹟のような幸福に満ちた出来事だった。実を言うと、俺はその多幸感で随分と盲目になってしまっていたらしい。愛娘の一挙手一投足は目に焼きついていても、周りで起きている事柄にはてんで無頓着という有り様だ。妻が昔のような浮つきをなくしていた事にも、娘が幼稚園に入って一心地つくまで気づかなかったくらいだ。
俺は、妻が出産の時にあの幻想じみた、天使のような性を娘に全て譲り渡してしまったのだと考えた。その証拠に娘は現実のどんな穢れも一掃してしまうほどに無垢で美しく育ち、その代わりに妻は仕事や家庭の責任感で現実にがんじがらめにされ、澱んだ目で地を這う社会人の仲間入りを果たしていた。今のこの人では、軽々と屋根の上へと舞い上がる事はもう叶わないだろうと思った。
屋根と言えば、俺はもう長いこと「彼女」の姿を見ていない。仕事の都合で新幹線に乗っても、窓の外にはこれ以上なく色とりどりで、同時にどうしようもなく無味乾燥な景色が広がっているだけだ。そして、背広の胸に手を当てて感じる。もはや、俺の中に「彼女」はいないのだと。もう二度と、窓の外に「彼女」を思い描く事は出来ないのだと。
きっと俺は、カノジョと交わる度に少しずつ「彼女」を失っていたのだ。浮世離れしたカノジョなら俺の幻想を受け止められるはずだと、体を重ねる度に「彼女」の面影を植えつけていたに違いない。
そのせいで俺の中から「彼女」の全てが喪われたのは確かに悲しい。けれど、そうしてカノジョに託した幻想と、カノジョ自身の夢見がちな美しさが全て娘になって実を結んだのならば、それは決して悪い事ではないように思う。
いくら俺達夫婦が現実にまみれ汚れても、娘に希望を描く事が出来る。それどころか、娘こそが俺達が描いてきた希望そのものだと言ってもいいようにさえ思えた。
幼い娘が寝付いて久々に夫婦水入らずの時間が取れると、俺達は酒のグラスを傾けて語り合った。あの子はこれから絶対、もっとずっと綺麗になる。きっと、出会う男の子みんなに魔法をかける。あの子はおばあちゃんになっても天使のままでいられたらいい。
それは、何の衒いもない心からの言葉だった。
* * *
全て、遠い過去の出来事になってしまった。
母親の訃報を聞くと、長く実家を離れていた娘も取り急ぎ戻ってくる事になった。妻は、毎日顔を合わせていた俺が驚くほど急に逝ってしまったから、死に目に立ち会わなかった娘を親不孝と思う事もなかった。
娘はいくつになっても純粋で、自分自身も気持ちに対して正直で、いつかの誰かみたくどこか天然なところが可憐だった。人懐っこくて、人を疑う事を知らない。そんな現実離れした天使は、年頃になったあたりから、奔放な子だと誹られる事が増えていった。親の願った通り、娘は周りのありとあらゆる男の子達に魔法をかけて、そして俺達が想像もしなかったほどに、ありとあらゆる男の子達から魔法にかけられた。
十七歳になると、娘は家を出てそのまま遠くの町へと越していった。高校はなし崩しで中退になった。出て行った時の娘は一人ではなかったが、一緒にいた男はその後しばらくすると行方を眩ませてしまったと風の噂で聞いた。風の噂は、色々な事を教えてくれる。娘が元気でやっているかどうか、それだけを知れば充分だというのに、その時々で娘と一緒にいる男の名前まで耳に入る。男の名前は、聞き覚える頃になるとまた変わった。そんな事を、幾度となく繰り返した。
閑散としたロータリー脇に車を止め、娘を乗せた電車の到着を待つ。助手席にも、これから帰る家にも出迎えてくれる妻がいないというのは、何かの手違いのように思えた。現実を直視するのは、昔から得意じゃない。妻のいない生活を呑み込むには、時間がかかるだろう。そして、娘と普通に接する事が出来るようになるのにも。
視線の先、駅の入口から姿を現した女性が、完全に外に出てくる前に一度だけ駅の構内を振り返り、誰かに向かって手を振った。そして、迷う様子もなくこちらへ歩いてくる。あの子が家を出てからというもの、決して短くない時間が経ったが、小さい頃から乗り続けてきた車の事はしっかり覚えているらしい。俺は、娘を迎えるため車のドアを開けた。
トランクを後ろの座席に積んで助手席に腰を下ろした娘は、随分と雰囲気が変わってしまっていて、見ず知らずのお嬢さんのようだった。喪服というわけではなさそうだが、そう言っても通るくらい、全体的に黒っぽい服装をしていた。昔は何もなくても素で微笑んでいたはずなのに、今浮かべている物憂げな表情は、もはや天使に似つかわしいものではなかった。しかし、多くのものを抱え込み、すっかり疲れきったその様子は紛れもなく人間の営みの中で生まれるもので、俺は初めて自分の娘を近くに感じられた。
俺は「おかえり」と言った。娘は頷く。
車内を、沈黙が覆う。
「遠いから、電車、大変だったろ」
当たり障りのない話を振る。訊きたい事も言うべき事も、他にいくらでもあるだろうに。俺にはこれが限界だ。目を遣ると、娘は首を横に振った。
「ううん、大丈夫。電車、好きだし。景色見るのも、好きだから」
「……そうか」
景色を見るのが好き、か。その言葉に、気持ちが遠い過去へと引き戻されそうになる。
「お父さんは興味なさそうだよね、そういうの」
娘が囁くように、そう言った。もしかしたら、俺がこの子を特別扱いせずにはいられなかった以上に、この子は俺に対して距離を感じていたのかもしれない。そんな事、これまでは考えた事もなかった。そのせいだろうか。今ならば、これまでよりずっと本音で話せるような気が、話さなければいけないような気がした。
「……いや、好きだったよ」
「え?」
「父さんも好きだった。窓の外を、ずっと眺めてた」
「そうなんだ……意外」
再び会話が途切れ、二人して空を仰ぐ。項垂れて自分の爪先ばかり見つめて歩くようになったのは、いつからだろう。昔は確かに、空を見上げるのが好きだったはずなのに。空を背に駆ける姿が、本当に好きだったのに。そうだった、あの頃は「彼女」がいたのだった。
そう言えば、「彼女」の事を思い出すのは随分と久しぶりだ。懐かしくて寂しくて、それからほんの少しの可笑しさもあったのだろう、思わず娘に「彼女」の話しそうになり、俺は慌てて口を閉じた。別に、口にするのが問題だとは思わない。ただ、久々の父娘の再会で、それもこんな状況で、話の種としてはいかがなものなのか分からなくなってしまったのだ。
不甲斐なくもまた口籠ってしまった俺の代わりに、娘が口を開いた。
「あのさ、自分でも変な話だって思うんだけど」
気持ちを固めるように一呼吸おいて。
「景色見るの、小さい時から好きだったんだけど。それがね、窓の外を見てたら、変わったものとか見えたりするのが面白かったりして。他の人と同じ風景を見てるはずでも、見えてるものは違う感じがするっていうか。ホントに、言葉にするとすごい変なんだけど……」
娘と、視線が合う。俺は確信めいたものを抱いて、娘が次の言葉を発するのを待った。
「人がね、駆けていくの」
その言葉を、俺は決して忘れないだろう。
娘は、今しがた自分で口にした言葉をどう説明しようかと悩んでいるようだった。けれど、俺は出来るだけ優しく頷いて、発車の準備を始めた。大丈夫。それならお父さんも知ってるよ。口には出さない。ただ、「そういう事も、あるんだな」とだけ漏らす。これ以上「彼女」の話をしようものなら、車の運転に支障が出るくらい感情が昂ぶってしまいそうだった。
サイドブレーキを外し、アクセルにゆっくりと足をかける。景色が流れ始めた視界の隅に、一瞬、いつか見た黒い影が軽やかに舞い上がったような気がした。ついどこまでも高く青い空を仰ぎそうになる気持ちを抑え、ハンドルをしっかりと握って前だけを見据える。
俺達はこれから、小さなおんぼろの車で、我が家へと帰る。二人で並んで、前を見つめている。困ったりや苦しい事に苛まれたりした時には、互いに向き合い、助け合って乗り越えたい。自分の爪先でもなく、茫洋とした空でもなく、互いに目を向けて。
「彼女」にまつわる俺の物語は、ひとまずここが終着点となるようだ。俺が「彼女」を目で追うことは、もはやありはしないだろう。だから、「彼女」のその後を語る術も、もう俺にはない。もしもこの物語に続きがあるというならば――。
それは、きっと、少年の目が知っている。
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