浮かばれない話

浮かばれない話

 只今の私は所謂機上の人というやつで、つまりは航空機に搭乗し、中空を漂う真っ最中である。漂うという言い方が正しくないならば、「ちょっと尋常ではない勢いで」と付け加えてもいい。それでもまだ「漂う」のニュアンスに違和感があるならば、「海峡を越え東京という明確な目標地点を定めた上、ちょっと尋常ではない勢いで」とすべきか。これ以上どうにかしろと言われたら、歯科医の治療行為に対し痛みを訴える患者の右手さながらに私の中指が助けを求めて立ち上がるので、そのへんはご了承いただきたい。
 午前十一時一五分、新千歳を出た旅客機は、東京は羽田空港へ向けて鋭意飛行中であった。直前の準備の際に何か起きたのか、出発予定時刻を十五分ほど過ぎてからの離陸となったが、こうして無事に飛んでいる。
 「お飲み物は」
 にこやかに尋ねるCAに、片手を挙げて返す。「結構です」のサインは首尾よく伝わり、記号じみて統一された化粧の彼女は記号じみた笑みのまま、記号的な会釈を残し去ってゆく。残り香までみな似通っている。さすがに薄気味悪く、昔から好きになれない。
 まあ、とひとつ顎を撫でて、再び物思いに耽る。些細なトラブルに過ぎなかったのであろう、この様子では。何か問題があるとすればそれは羽田着時刻がやや遅れるくらいで、向こうに着いてからのタイムスケジュールには元々十分に余裕を持たせてあるから、今後の予定に支障をきたすことは多分ない。
陸を走って進む自動車や電車に比べ、空を飛び雲を割って移動するなどという荒唐無稽な行為に参加する場合には、あらかじめマージンをとっておくのが正しい。したがってこの程度の遅れで客室乗務員を捕まえて責めたてるのは、「個人の勝手」で「間違いではない」が「事前に遅れを想定し余裕を見て予定を組む頭が回らない」か「余程辛抱がない」、もしくは「そういう人間である」のどれかということになり、だからあちらのほうでかれこれ十五分以上CAに八つ当たりしている御婦人などは、正直ちょっと理解できないわけである。ああしている十五分が、着陸準備のための十五分を削りとっているという事実が見えなくなっているらしい。
 周りの乗客はみな眠りの中にある。すでに東京か、東京経由ではるか大洋の彼方へと意識を飛ばしているのかもしれない。いつも思うのだが、空を飛びながら夢を見られるというのは相当にロマンチックではないだろうか。ほんの何世紀かまでは、「空を飛ぶ」という行為自体が夢のようなものだった。それがいまや、眠りこけている間にはるか千キロ先、離島の地方都市から国の首都まで至ることができるのだ。先達が見たら憤死するに違いない。それくらい、空の旅が手軽になった時代ということなのか。
 というか、どうして誰も不思議に思わないのだろう。私自身さも当然のように利用していて何だが、飛行機がなぜ飛んでいるのかわからない。支えのない空中に留まり、あまつさえ高速で移動している現実が、正直信用出来ないのだ。いや、航空力学的な説明をされれば頭で理解は出来るのだが、どうしても空気抵抗とか、羽の構造とか、燃焼による推進力の獲得が、「浮いたものは落ちる」という物理法則を捻じ曲げる結果に果たして結びつくものなのか、疑わしいと思ってしまうのである。
 その時、足を滑らせた仔犬のように機体が揺れた。あちこちで数名の悲鳴。すかさずアナウンスが入る。
 『本日は当便をご利用いただき誠にありがとうございます。当機はただいま気流の悪いところを通過しておりまして――』
 つられて窓の外を見ると快晴である。旅客機の小さい窓からではあるが、外には雲ひとつ見受けられない。しかし周りは、このアナウンスで納得したようである。誰も文句を言うものはおらず、髪を明るく染めた隣の若者などは、再び寝入ってしまった。時々通路を行き交う乗務員もみな平然としている。ひとりで騒ぎ立てるわけにもいかないし、ちょっと引っかかったが、こんなものか、と脚を組み直して、ファブリックシートに深く座り直す。
 
 肘掛けに体を預けた状態で目が覚めた。どうやら自分もまた眠りこけてしまったようだ。ずいぶん長いこと寝ていたような感覚があるが、いまだ空の上である。はて、こんなに長くかかるような距離であったか。
 辺りを見渡すと、昇降口の脇に掛けたCAが目に入る。彼女の顔を見て寒気に襲われた。耳の裏から背中まで蛞蝓が這いまわるような。
 その顔はいやにのっぺりしていた。目鼻の輪郭、その存在感が希薄すぎる。磨き上げた旅客機の胴かそうでなければ孵化したての芋虫だ。それがゆっくりとこちらを向く。凍りついたような眼球に力を込め無理やり視線を引き剥がす。はっとして左腕を反した。時計の文字盤は十四時を回ろうとしている。十四時?
 おかしい。この便は何かが異常だ。納得のいかない揺れとアナウンス、不自然な遅延、そしてあのCA。いくら私が寝ぼけていたってこうはならない。
 「いかがなさいましたか」
 悲鳴を上げかけた。さっと見やるとCAがいる。先ほどのような異様な姿ではないものの目は笑っていない。半ば覆いかぶさるようにして、上から顔を覗き込んでくる。強烈なGに襲われたような感覚は内発の恐怖か外的なプレッシャーか。こんな状況でも隣の青年は、この超常じみた圧力を無視して軽いいびきすらかき、いやむしろ眠らされているのだろうかと冷や汗が出る。水分の一切を失い内側から漆喰で塗り固めたような喉を、呑み込む唾で潤し力を込めると、なんとか軋んだ音が出た。
 「大丈夫なんですか、この飛行機」
 ファンデーションを厚塗りした顔にさっと陰が差し込む。だがそれも一瞬のことで、
 「と申しますと」
 と返してきた。些細な変化ではあったが、不信感はいや増す。覚悟を決め思い切って問い詰める。
 「私がアナウンスを聞き逃しただけでしたら申し訳ないのですが、もうとっくに着陸してる時間ですよね。何事かあったんですか。この飛行機、無事に羽田まで着くんでしょうね」
 今度は返事がない。睨みつけてやるが、何故かCAは硬直している。その顔から血の気が引いているのがわかる。突然魔法にかけられて、時間ごと凍りついてしまったとでも言うように。間をおかず彼女は細かく震えだした。口は真一文字に引き結ばれ押し黙ったままだ。しかし目だけは、卵の黄身の肌に薄紙を滑らせ開いたような曖昧な隙間から、どろりとこちらを見据えている。
 ビリビリという音が四方から聞こえる。窓ガラスが細かく振動するときのそれだ。だが通常時より強くたくさんの。見回すと起きているのは私のみで、他の乗客はことごとく意識を失っているようである。覚醒時ではありえない脱力が、やや離れたここからでもわかる。
 揺れはいよいよ大きくなり、シートベルト着用のサインが点灯する。座っていても、肘掛けの頭を握る手に力がこもるほどだ。そんな中でも平然と直立し体勢を崩しもしない脇のCAを見上げる。
 「す」
 上下の唇の間に生じた亀裂からややあって漏れでた声は、しかし掠れて聞き取れない。精一杯眉間に皺を寄せ虚勢を張り、耳に手をやって示す。聞こえないぞ。
 「墜ちます」
 え、と間抜けな音のみを発した私の襟首を掴んで激しく揺さぶる。歪んだ怒声が鼓膜を破らんとし、それはこう聞き取れた。
 「お前のせいで墜ちる、お前が疑うから墜ちる」
 シャツのカラーを掴む手を振り払いたい。だが脳が頭蓋内で震動するせいか動かない。腕がまともに上がらず。悲鳴は上がるが言葉が浮かばない。そして軽い眠りにおちるかのような浮遊感。吐き気。視界いっぱいに星が舞う。
 墜ちないと言え、と聞こえた気がした。かろうじて残った聴覚に引っかかった音声をこの状態ではそう解釈するのがやっとだった。呂律の回らない舌に拡散する意識を無理やり集中させる。揺さぶりが弱まった隙に、墜ちない、と言った。この飛行機は、墜ちない、と言った、言えた、と知覚した次の瞬間にはシートの背に上体を乱暴に投げ出され、もはや「投げ出された」ことしか感じられず、やがて視覚情報の一切が徐々に白く薄められていく。

 「次に気づいた時には」叔父が鉛のような声で呟く。「旅客機は羽田空港の滑走路に着陸していて、誘導灯を振る係員がスクリーンに映し出されてた。CAも元の通りだった。俺は逃げるように降りた」
 「ありえないよ」と僕は首を振った。「おじさん、夢でも見てたんだ。そうさ」
 叔父は事あるごとにこの体験を語って聞かせるが、語りながら顔を青ざめさせるのが常である。かれこれ十年近く経つというが、相当恐ろしかったのだろう。実際彼は東京と札幌を行き来することの多かった当時の仕事を辞め、現在は貯金を切り崩して暮らしている。
 しかし、よくある話じゃないか。思い出すたび苛まれるほどの悪夢を、混乱と恐怖に引きずられて現実と混同するなんて。そういう夢を見て区別がつかなくなる、目覚めてからも恐慌をきたす大人がたまたま少なく特異なだけで、飛行機や個性が希薄なCAへの無意識の恐怖とか、気圧の変化によるものとか、仕事のストレスとか、説明ならいくらでもつく。僕ももう、この話を信じ込むほど子どもじゃないのだ。
 ただ今回は、ちょっといつもと違った。普段ならここで「世の中不思議な事があるもんだ」とか、「お前も飛行機に乗るときは気をつけろ」なんて教訓じみた締め括りで終わらせる叔父だが、黙りこくったままだ。まだ話に続きがあるようなのだった。僕と向かい合う形でソファに沈み込んでいた彼がゆっくり顔を上げると、そこにはいつになく深く空っぽな両眼がある。その目つきに、思わず生唾を飲んだ。
 叔父は僕をどんより見つめていたが、息をひとつ吐いてこう言った。
 「世の中不思議なことがある、いつも俺はそう言ってこの話をしまいにしてたけどね、これは怪談のオチに使う、あんな意味合いとはちょっと違うんだ。不思議なのは、お前たちは普通だと思うかもしれんが、やっぱり飛行機が空を飛ぶってことなんだよ。俺はずっと納得できないでいる。……きっと何も考えちゃいけないんだ。疑問を持っちゃいけない、飛行機は飛ぶから飛行機なんだ。あれはたぶん『飛んで当たり前』を受け入れろ、って」
 そこまで畳み掛けて、叔父は急に声を詰まらせた。
 僕はその場に硬直して、彼から目を離せなくなった。正確には眼球の動かし方がわからなくなった。当たり前にできていたことが。
 長い沈黙のあとで、叔父は最後にひとこと付け加えた。
 「でも、どうしても、おかしいんだよなあ」
 それきり彼が口を開く気配はなかった。はだけた病衣の前を直したりするだけだ。僕は、もう行くね、と告げて、談話室を後にした。どこかでコールが鳴り、看護師さんたちが駆けていく。窓の外ではヘリコプターが近づき、あさっての方へ遠ざかる。
 「あれなんて、飛行機よりよっぽど不思議だよな」
僕のひとりごとに、廊下の反対側を歩いていた小川さんが振り向く。叔父の隣の部屋の患者さんだ。でも今日は、世間話という気分では、すでになくなっていた。ぞんざいに頭を下げて、さっさと玄関へ向かう。
 叔父は現在、市立病院の精神科で療養中である。

浮かばれない話

浮かばれない話

めずらしく四千文字くらいあります。飛行機が落ちないのはへんだよねという話です。 *16/10/05 一応の最終版に更新しました。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-09-27

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