こんなに

 こんなに恵まれていても満たされない心って、どうしたらいいのだろう。
 柔らかいオレンジ色の影が、図書室のあちこちに浮かび上がっている。ほとんど誰もいない、眠気を催しそうな空間。時折り、校庭の方からサッカー部のかけ声が聞こえる。
「どうしたの?」
 雅治がわたしに問いかけてくる。気がつけば窓の外を眺めていたわたしは、声の主をまっすぐに見つめる。
「どうしたの? って、どうしてそんなこと訊くの?」
「だって、なんだかぼんやりしていたから」
 なにもないなら、別にいいんだけど。そう呟いて、彼は手元の本に目を落とす。
 なにもないよ、と心の中で返事をする。そう、ほんとうになにも憂うようなことはない。なにもかも、わたしにとっていいことばかりだ。確かな想いを寄せている人と、落ち着いた時間を共有できること。お互いの好きな本のタイトルを挙げて、それについて語り合うこと。気に入っている台詞を挙げて共感し合うこと。ささやかな幸せ。
 そして、こんな毎日が永遠に続くと、彼が錯覚を抱かせてくれること。
 眼鏡の奥の、透き通るような茶色い眼差し。言葉の一つひとつを追っていくことに集中している表情は、わたしの一番好きな表情だ。今、彼は本の世界にどっぷり浸かっている。目の前のわたしはもう見えていないし、まして、幻想的な夕焼けに思いを馳せることなどない。
 わたしも手の中にある世界に入り込もうと試みる。読んでいくごとに、彩りを持った情景が浮かび上がりそうになる。でも、どうしてか上手くいかない。思考を埋め尽くしているものが、私の今この瞬間の一番が、その世界ではないからだ。
 サッカー部のかけ声は、さっきから途切れずに聞こえてくる。図書室の外を、女の子たちの楽しそうな笑い声が通りすぎる。静かなこの空間の中でも、目を凝らせば分かる変化がそこここでもたらされている。夕焼けも、あと三十分もしないうちに夜の帳に覆われる。
 愛されたかった。唐突に胸が締めつけられる。誰かにとっての一番になりたかった。
「雅治、それ、おもしろい?」

こんなに

こんなに

こんな毎日が永遠に続くのだといつからか錯覚していた。

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-09-27

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