海のプレリュード

 どうにもならない忙しさの中であの日々を思い返すとき、どんな感情の芽が萌すのだろう。
 視線を上にし、日差しの眩しさに目を細める。あの頃と同じ空のはずなのに、心持ちが違うだけで映り方が変わる気がするのはどうしてだろうか。そのときそのときの感情を表す鏡。
 緩い上り坂になっている通りを歩きながら目的地を目指す。通りの左右には個人経営らしいお店がいくつも並んでいて、それらの個性が不思議と調和していた。都会の中の都会、まるで異世界に迷い込んでしまったよう、だなんて、それは大げさか。
 こんな落ち着いた心でかつての日常を思い返すとは考えていなかった。私たちはなにかに急かされるようにして生きていた。もしかしたら、それは今も変わらないのかもしれないけれど、だけど、やっぱり大人になってしまったと分かる。
 私たちにはあの日々がすべてで、そこだけで世界が完結していた。過去も未来もなかった。だから数えきれないほど迷い、自分の選択に苦しみ、ひどく疲れていた。
 その中にあって、きらりと光る一縷の輝き。小さく、それでもけっして消えない灯り。心安らぐ瞬間もあった。打ち寄せる波、その際で、風に吹かれながら私たちは歌った。私たちの歌を。
 だんだんと目当てのお店が見えてきた。わざと、少し遅れて到着するように時間調整したから、おそらくほとんどの人がすでにいるだろう。なにを話しているのだろう。私の姿がないことを気にしている人は果てして一人でもいるかしら。
 もう、あの頃とは違う。戻りたくはないけど、あの頃があったから今の自分があるのはほんとう。
 ドアをそっと押し開けると、店内に来客を知らせるベルが鳴った。その音に気づいて、さっと視線がこちらに集中する。緊張したけど、上手く笑えている自信もあった。あの頃とは違う、を、絶えず自分自身に言い聞かせる。
 みな、色とりどりのドレスを身に纏っていた。大人の化粧をした彼女たちの美しさに、過ぎ去った時間の重さを感じた。
「久しぶり」
 元気だった?
 そんな風に問いかける私を、たくさんの瞳が不思議なものでも見るように捉える。同窓生たちの本心を隠さない表情を気にしないでおくのは容易だった。

          *

 この世のあらゆる愛情を等間隔に配置して印をつけていくと、自分の分が用意されていないことに気づいてしまう。
 泣きたい夜もある。瞼からこぼれそうな滴を努めて落とさないようにしているのは、ほんとうに泣いたらきっと救われない気持ちになるから。
 絶望はない。悲劇もない。でも悲しいのはどうやら確か。持て余す心は耳に流れ込んでくるメロディーでも紛らわせなくって戸惑う。どうして、こんなに。
 夜空を見つめていると星が一つ落ちた。願う間もなく真っ黒なキャンバスに白い線を一筋描いただけ。願えたとして、私はいったいなにを望むのだろう。欲しいものが分かっていたら楽だろうな。
 横になっていても眠りはなかなかやってこなかった。寝不足だとまた頭痛に苛まれてしまう。ただでさえ愛想よく振る舞うのが苦手な私がそうあろうとする努力すら放棄することに。そんな心配をしたところで、眠れないのだから仕方がない。
 イヤホンを外し、その辺に放った。床と触れ合うときにカチリと思ったより大きな音がやけに響いた。目を閉じて、意識を落ち着けようと長く息を吐き、また吸う。それを繰り返すうちに、やがて窓の向こうの風の音色が心地よく感じられるようになってくる。誰かが一日を終わらせようとしている最中にも、風は吹き、大地は呼吸している。追われた太陽がまた現れるのを、首を長くして待っている、かもしれない。
 いつの間にか深い眠りへと誘われていた。明けてから、どうあったってため息を漏らすだろうことが分かっている朝を迎えるまで、そのままで。

 この雨はいつまで降り続くだろうかと思った。いつまで降り続いてくれるだろうかと思った。
 頬杖をつきながら窓の外を見つめる。雨は好きだ。規則的に地面に打ちつける雨音を日がな一日聞いていたとしても苦にならない。その音は私の気配を少しでも薄くしてくれるような気がする。
 上方に視線を移すと灰色の重たい雲がゆっくりと流れていた。そういえば昨日の今頃こうして教室から眺めていた空は真っ青だったのに、その面影をまるで残していない。人の感情の移ろいと同様に空もまたその表情を異ならせる。
「樋野晏奈さん」
 名前を呼ばれ、意識が一気に引き戻される感覚。朝のホームルームが行われている室内はしんと静まり返っていて、だからこそ雨音に耳を傾けられるのだが。
「はい」
 ワンテンポ遅れて応答する私を、しかしクラスの誰も気にしていない。いてもいなくてもきっと変わらない存在なのは自覚している。それでもこうして「いる」今を選んでいるのは、いなくなることを選ぶ積極的な理由がないだけ。
 私以降の名前も次々に呼ばれていく。その声はだんだんと遠くなっていく。プールの底で反響する声みたいに、どれも明瞭とした内容として届いてこない。そのはっきりとしない具合がどうにも気持ち悪くて吐き気がした。
 寝不足のせいか低気圧のせいか分からないけれど、やはり今朝は頭痛がした。なにをするのも怠くって物憂い。ただ、学校というものはなにもしないで沈黙を貫いていても問題なく過ごせてしまうところなのだ。まして、クラスの人たちにとっているのかいないのか分からない私ならなおさら。それなら、頬杖をついて教室の一隅で人形のようになっているのを選ぶ。
 ホームルームが終わるととたんに周囲が騒がしくなる。女はお喋りの生き物だと聞いたことがあるけど、女子生徒しかいないこの高校の騒がしさは心を落ち着かせてくれない。せっかく雨がこんなにせっせと降っているのに。なにもかもが厭わしくって遠ざけたくなる。
 遠ざけられないなら、自分からここを離れるしかない。席を立ち、楽しげに笑う人たちの間を縫って教室を出た。廊下に足を踏み出してすぐ、見覚えのあるポニーテールを見つけてしまって慌てて目を逸らす。真夜が誰かとなにやら話しているみたいだったが、その内容は意識しないように努めた。
 廊下を渡った向こうにある女子トイレまで来て、個室に入った。便器に腰を下ろすとふがいなくも少し安心した。誰の顔も見えない。私は私の内側の声を聞いていればいいだけ。
 頭痛は依然として鎮まらないけれど、顔をしかめて俯いた姿勢のままでいると、なんとか自分を保っていられた。手放したくなる意識の狭間でも考えごとはできる。
 真夜は高校になって変わったかもしれない。いや、変わったと思いたいだけかな。中学が同じ唯一の存在で、中学の頃は友達だった。普通に話し、笑みを交わし合い、手を握り合った。それが当たり前だった。だけど、高校生になってから、真夜とはすっかり疎遠になってしまった。クラスも部活も違えばそうなってしまうものなのかもしれないけど、それにしたって余りによそよそし過ぎるのだ。
 見た目からして彼女は相変わらず地味な感じだし、話している様子も変わらない。やっぱり、変わったと思いたいだけか。それとも、私の方が以前とは違ってしまったということだろうか。自分ではそんなつもりは微塵もないのに。
 誰かの気配がした。足音を忍ばせながらも、静まり返っているここではかえってその息遣いを敏感に感じ取れる。いくつもの足がそろりそろりと近寄って来、それに噛み殺したような笑いが混ざっているのが分かった。
 諦めたように短く息を吐いた。悲しいくらいに、これから起こることが手に取るように分かった。観念して目を瞑ると、それとタイミングをほぼ同じくして大量の水を頭からかけられた。冷たさに身震いした。今度ははっきりと笑い声がして、その気配は遠くなっていった。
 こんな古典的なこと、よくもやってくれたものだ。全身がびっしょりと濡れてしまった。下着が透けている。ぽたぽたと水が滴り落ちて、個室の中に水たまりができる。しばらくどんな感情も湧いてこなくて動けなかった。もうすぐ授業が始まることを知らせる予鈴が聞こえて、ようやく立ち上がり、スカートを腰の位置に戻した。水は滴るに任せたまま、とりあえずはと個室を出た。
 こんな状態で教室に帰れるわけがなかった。先生に泣きつくなんて死んでもできない。もう、いったいどこへ行ったらいいのか。
 ふらふらと人気のない廊下を彷徨って、気づいたら体育館の方まで来ていた。明かりが漏れる体育館からはかけ声と、ボールの弾む音がした。私はそれを避けるようにして体育館裏に抜け、薄暗い道をとぼとぼと歩いた。
 今頃、教室では私の不在をどう捉えているのだろうか。それとも、誰も気にすることもなく、授業は滞りなく進行しているのだろうか。どちらでも好いけど。
 体育館裏にはプールがある。夏場だからずっと水が張ってあるが、天候に恵まれなかった今日は使われていない。プールサイドに立ち、額に張りついた前髪の隙間から、その水面をじっと見据えた。
 雨はその勢いを増している。私がこんなにもびしょ濡れなのは、誰かの悪意にさらされたからか、それともこの雨の中屋外をふらふらと彷徨っているからか分からなくなる。さっきから意識はぶつ切りで、すぐにでも手放せそうだった。
 私を悩ます頭痛も、見て見ぬふりをするかつての友の横顔も、せせら笑う悪意の声も、とにかく、なにもかもを洗い流したい。忘れられずに心に刻まれてしまうのなら、せめてその傷を浅いものにしたい。
 どうでも好いけど、気に病んでなどいないのだけど、なんだか厭わしかった。
 そっと片足を一歩踏み出す。冷たい、気持ちの悪い感触が足先でして、やがてそれは全身を包み込んだ。プールに身を投げながら、こんなところで死ぬのだけは絶対に嫌だと頭の片隅で思っていた。
 水面越しに見上げた空は儚げに揺れていて、とても美しかった。哀れな少女のために柔らかく笑んでくれているみたいで。

 雲の隙間から覗いた日差しが眩しい。長いこと止まなかった雨がようやく上がった。その光を見つめ、今朝からのすべてを焼き尽くしてくれないかと望んだ。
 トイレで水をかけられたのではなく、誤ってプールに落ちたことにしてクラスに戻ろうとしたけれど、その方がかえって面倒だと心づき、結局、こっそり学校を抜け出すことにした。置いてきてしまった荷物はきっと誰も家まで届けてくれないだろうが、なくてもなんとかなるものばかり。
 下着までぐっしょり濡れて気持ち悪さは並大抵ではなかったけど、曇り空の下をしばらく歩いて風に吹かれたら、だんだんと乾いてきた。そして、学校からほど近い海辺まで来た。部活に入っていない私はよくここへ来る。
 海は好い。いつまででも眺めていられる。波が寄せては返す様を、遠くに曖昧な境界線を設ける水平線を、たなびく雲を、しゃがみ込んで見ていた。
 波しぶきと風の音に紛らせて歌った。深く考えることなく、心にある言葉になんとなく節をつけて。次第にメロディーが固まってくると、繰り返し同じところを歌った。誰のためでもなく、自分だけが聴いている名もなき歌。
 学校ではいつも上手く人と関われなくて、想いは胸の内側に押し込められたまま、ついには腐敗しそうになっていく。このままじゃ私の内面は真っ黒に、目も当てられないことになってしまう。だからといって、それを発散しようと歌い出したわけではない。
 子どもの頃は歌うことが大好きだった。家族の中心にいた私は、みんなにとっての歌姫だった。でも、大人しさで身を覆うようになってからは、人前で歌うなんてあり得なかった。静かに身を潜め、早く一日が終わってくれないかとばかり考えているうちに、歌は私からすっかり遠ざかっていった。
 そんな折、ふらりと海に寄ったとき、周囲に誰もいない状況も手伝って、私は幼い頃によく歌っていた歌詞を口ずさんでみた。最初は恥ずかしさで顔が熱くなったけれど、それにも慣れてくると、歌うことの楽しさを知った。いや、正確には思い出した。
 そうしていると、自分の頼りない声では物足りなくなってくる。どうせなら、もっと上手に響かせたい。誰かに聴かれることを恐れるのではなく、誰かに聴かれる日が来ても下手くそと笑われないように、ちゃんと歌えたら好い、そう思った。今でも、そこまで割り切れているか自信はない。それでも、その思いはいつも胸に宿っている。
 いつか、教室では誰にも伝えられない言葉を、メロディーに乗せて伝えられる瞬間が来るだろうか。そんな日が来てほしいような気もするし、別に来なくたって困らない気もする。もう孤独にはずいぶんと慣れた。今さら劇的になにかを変えようとは考えない。それに、私はいつまでもこのままだろう。
 大人になんかなりたくない。どうせ変われないのなら、誰の記憶にも残らないうちに死んでしまいたい。明るい未来が待っているなんて信じない。
 明るくなくて好いのだ。ふつうで好い。せめてふつうの存在でありたい。でも、どうやらふつうになれない性分みたいだから、こんな塞ぎ込んだ人生がこの先も続くのであれば、早く終わらせたい。
 またつまらないことばかり考え始めたから、それを吹き消すみたいにもう一度歌った。人気のない寂れた砂浜で、一人。
 日が暮れかかるまで歌った。

 駅から数多の女子学生たちが吐き出されてくる。横断歩道を埋め尽くさんばかりに溢れかえる彼女らの光景は、この街の一つの名物だ。その時間帯だけ景色が華やぐ。
 都心へ通じる私鉄が走るその駅はかなり大きく、その駅周辺がこの辺りで特に栄えている。駅から十分ほど南進すると、ひっそりとした趣の校舎が現れる。それが私の通う女子高等学校だ。昔からの伝統を色濃く残していて、そこの生徒たちは「お嬢様」だとよくも悪くも評される。
 学校からさらに南へと行くと、傾斜のきつい下り坂になっている。長く、幅の広い坂で、しばらくすれば潮の匂いが鼻をつく。そして、すぐにその匂いの正体が判然とする。空の色を映した世界で一番大きな鏡が視界に広がり、それに沿って路面電車が走っている。私鉄の駅周辺が今風の街であるのに対し、そこからそう遠くないところは過去の情景がちゃんと存在感を放っている。
 学生たちは繁華街で遊ぶことを好むけれど、私は心なしかゆっくり時間が流れる気のする海沿いの通りを好む。おかげで誰にも邪魔されることなく静かな心のままに歌える。
 当たり前の話だけど、学生にとってほとんどの時間を過ごすのが学校という場所だ。いくら海に思いを馳せたところで、終業の時間が来るのを早めたりはできない。周囲の様子を窺っているのに何気ない風を装って暮らしているのは、ひどく疲れる。
 お昼休みの時間、どこか一人でごはんを食べられる場所はないかと彷徨っていると、ふと、遠くからピアノの旋律が聞こえてきた。ぽろんぽろんと、こぼれるみたいに、流れるみたいにして運ばれてくる。
 誰が奏でているのだろう。私はその音に引き寄せられるようにして、ふらふらと歩いていった。少しずつ音が大きく、はっきりと届いてくる。どこか儚げで、切ない響きだと思った。
 廊下の端に音楽室があり、ピアノがあるのはそこだけだ。休み時間、誰でも自由に弾けるのか知らないけれど、奏者はかなりの実力みたいだし、たまにああして弾いているのかもしれない。
 音楽室の前に立ち、ドアからそっと室内を窺う。弾くのに合わせて揺れる誰かの背中が見えた。そのシルエットだけではちっとも見当がつかなかったから、中に入るのはためらわれた。ただ、じっと視線を注ぐだけ。
 ずっとこのまま、いつまででも聴いていられるのではないかと思った。旋律は哀愁を帯びているけど、弾き方はどこか情熱的ですらあった。どんな表情で盤面と向かい合っているのだろう。興味の膨らみようは留まるところを知らない。柔らかそうな肢体に手を伸ばしたかった。
 すると突然、演奏を止め、くるりとこちらを振り返ろうとした。彼女の横顔が見えそうで見えないくらいで、私はさっとドアから離れた。そして、まるで逃げるみたいに足早にそこを後にした。
 誰だったのか最後まで分からなかったけれど、その旋律と奏している姿は深く印象に残った。
 廊下の奥から楽しげな嬌声が忍び寄ってくる気配。それをも避けるために、階下に用事があるわけでもないのに私はさっと階段を下りた。心身ともに緊張でこわばっているのが嫌でも分かる。
 早く潮の匂いに包まれたい。そう望めば望むほど、学校にいる時間はかえって長く感じられた。

 なるべく誰にも悟られないようにしてそっと校舎を発つ。グラウンドに沿って続く細い道を歩いていると、女生徒たちが部活動に励んでいるのが分かる、力強い、それでも女らしさを失わない声が聞こえてくる。女子校だからか塀は高いので、中途半端な時間に下校していても見咎められない。声を聞くともなしに聞いて、ゆっくりとした足取りで進んだ。
 生徒のほとんどが当然の顔をして部に所属している中、私はなんの取り柄もないし、特別な興味もなかったから、どこにも入らなかった。だけど、最も大きな要因は、適当なところへ誘ってくれる友人がいなかったこと。そんな存在がいたら、こうしてとぼとぼと歩みを重ねたりなどしていない。
 空はよく晴れていた。蒸し暑かった。秋はまだ遠い。手を伸ばせば掴めそうな空の青を目にし、今日は頭痛に悩まされていないことに思い当たる。いい傾向だ。ただでさえ明るく振る舞えない性格は、しばしば体調に左右されてしまう。でも、ほんとうは違うのではないかと心づいている。誰しも、好不調の波を抱えている。抱えながらも、なるたけそれを表に出さないように努力しているのだ、きっと。私はそうすることをいつからか放棄するようになってしまった。だから、いつでもちょっとしたことでなにもできなくなる。
 内側から発する苦痛に打ちひしがれていると生きていくのが楽だ。でも、逃げじゃないと思いたい。私は私なりに少しでもよくあろうと試みている。そのすべての試行錯誤の果てに現在の私が存在する。誰からも褒めてもらえないのなら、誰も叱責しないでほしい。人それぞれ、という言葉はこういうときのために使われるはず。
 潮の匂いがきつくなってきた。次第に風も強く吹くように変わる。品のいい紺のスカートが吹くのに合わせてゆらゆら揺れた。前髪を押さえようと額に手を持っていったら、少しだけ汗ばんでいるのが分かった。息を吸って大きく吐き出す。少しだけ言い様のない胸の内を抱えている。
 路面電車の走る音。すれ違う人の話し声。木のざわざわとした気配。あらゆる神経が周囲に敏感になっている。まるでテリトリーに他の侵入がないか恐れる獣みたい。呆れた習性だけれど、笑えるだけ人間。
 そして、砂浜へ降り立つ。波打ち際まで来ると風はよりいっそう頬を、全身を掠めるようにして吹きすさぶ。ほんの数分間、海と見つめ合って、それから木の根っこのある方まで歩を戻した。根っこに腰掛け、また息を吸った。今度はただ息を吐くだけの代わりに、節をつけて歌った。どこかに転がっていそうで、ほんとうはここにしか響かない歌。ここにしか、なんて形容を与えてみても、そんな特別なものではけっしてなくて。
 根っこの座り心地はよくなくて、お尻が痛くなるのには閉口した。それでも、歌っている限りは気にしないでいられた。いつまでも、あの陽が暮れなければ好いのに、と思った。
 ふと、背後で誰かが立つ気配がした。普段ならそこで歌いやめて、ちらりと窺うのだけれど、なんとなく確かめなかった。そのまま歌い続け、気にかける心が頭をもたげそうになると、気のせいだとたしなめた。
 歌い終え、うんと一つ伸びをした。立ち上がりかけたタイミングで、背後から「素敵ね」と誰かが話しかけてきた。どうやら気のせいではなかったらしい。観念して大儀そうに振り返った。
 同じ制服姿の少女がいた。吸い込まれそうになる黒い瞳と、ふっくらとした頬。全体的に小柄な印象だが、胸やお尻の辺りがほどよく隆起していた。
 まじまじと見つめ合ってしまう。相手はたった一人で、私をずっと観察していたようだ。その表情には邪気の欠片もない。
「綺麗な声だね。癖がない、というか」
 甘ったるい感じがぜんぜんしない喋り方だった。警戒しなくても大丈夫そうだけど、だからといってそう簡単に心を許したりはしない。
「でも、ときどき、同じフレーズでも音程が違うね。聴いたことないけど、なんの歌?」
 体の内側が熱くなった。反論するつもりはないけど、音程が違うのはまだ下手だからだ。
 そんなことより思い出す光景があった。今は正面から向かい合っているからすぐにそれと分からなかったけれど、目の前の少女は音楽室でピアノを弾いていたあの後ろ姿ではないだろうか。そう思うと、次第にその考えに相違ない気がしてきた。
「あ、ごめん、いきなり」悪びれた風もなく笑った。「私、こにしうみ、っていうの。小さい西に、そこにあるのと同じ海」
 指差された先をつられて見る。波が穏やかに寄せては返す。小西海。海。
 私はさっきからずっと言葉を発していなかった。でも、名乗られたら応じないわけにはいかないかな。「――小西さん」
「はい、なんでしょうか」
「ピアノ弾いてた? 音楽室で」
 絶えず優しげに細めていた目を、初めて瞬かせた。
「うん。今日も弾いてた」
「私、すごく好いなって思った」
 言葉は歌うときみたいにすらすらと出てこない。危ういバランスを保つようにしながらじゃないと、意味の通るフレーズを伝えられない。そんな私の声を、彼女は注意深く拾ってくれるような。
「私、樋野晏奈」
 どんな字を書くか説明するのは大変なので、生徒手帳を出して見せた。「晏子の晏、なんだね」彼女はそんな感想を漏らした。
 それがもう一つの海との出会いだった。なにかが変わったわけじゃないけど、印象的な出会いだったのは確か。

 黄や赤の葉が地面を埋め尽くす絨毯みたいだった。夏服から冬服へと着替えはじめるのと同じくして、木々たちも衣替えの頃を迎えた。彼らも呼吸している。控えめに、それでも明瞭に。
 学校が終わり、海辺までの歩き慣れた道を今日も進んでいた。目を瞑っていても歩きおおせるくらいにこのルートを踏みしめてきた。だから変化にも敏感なのかもしれない。
 浜辺に着いた。誰もいないらしいことを確認してから、いつものように歌い始める。お腹から声を発する感覚を絶えず意識する。それが上手くいっているときは内側から熱くなった。誰にも届かないこの歌声が、ここでしっかりと響いているのが分かるから。いや、誰にもなんて言わない。私には届いている。
 そしてもう一人――。
 私の歌に重なり合う別の歌声がした。彼女自身のことはまだまだ知らない部分が多いけれど、その歌は信用できるかもしれない、と最近では思いかけている。だから、気にせず歌う。二人の声は海に鳴る。
 小西海さんは出会ってから、しばしばここを訪れるようになった。少しずつ話すようにはなったが、ここで会うときは歌ってばかり。でも、別に彼女と話したいことがあるわけではないから、それで好いのだけど。不思議な感じはする。
 まるで、ここでしか出会えない存在のよう。
 なんとなく同じ学年の生徒の名前を気にしてみたら、どうやら小西海さんは隣のクラスの子だと知った。ピアノ教室に通っているから部活には所属していなくて、だから帰宅部の私と海で時間を過ごせる。ピアノが得意なのは公然の事実らしく、入学式などの式や、合唱コンクールで伴奏を任されるのは当たり前となっているみたいだ。
 放課後、一緒にいるようになったからといって、では、友達になったのかというと、どうもそうとは言い切れない気がする。校舎で遭遇しても特に話しかけてこないし、話しかけてこないなら、と私も知らん振りをしている。学校からここへ来るまで肩を並べたことはないし、いつも彼女が後から現れる。私たちは友達なのだろうか。でも、そんなのはどうでもよかった。
 休み時間、彼女はよくピアノを弾いている。傍にほかの人がいるときは避けるが、一人で演奏しているときはずっと耳をそばだてていた。あの音を響かせられる人となら、私は歌っても好いと思えた。友達じゃなくても。
 普段、自分で考えている歌を歌っていると明かしたら、彼女は大層驚きを露わにした。そして、こんなメロディーはどうかと提案してくるようになった。音楽にかけては差が歴然としているので、漫然と口ずさんでいただけの私は、ほぼ言われたままに受け入れた。そうすると不思議と、気持ちが込めやすくなっていることに気づいた。そんな感情の動きを察知してか、私の横顔を捉えて小さく笑った。
 神秘的な瞬間とは思えなかった。今までにないことをしているといっても、所詮は女子高校生が為している作業。それでも私の胸は高鳴っていた。
 ――晏奈の作る歌は後ろ向き過ぎていけないね。
 ある日、彼女はそんな風に呟いた。私がいつまでも「小西さん」と呼んでいるのに対し――というより、名前を呼ぶこと自体が稀だけど――小西海さんは「晏奈」と親しみを込めて呼んでくれた。果たして、どんな感情を抱えているのか分からないけれど、彼女に名前を唱えられる瞬間、嬉しくなる自分がいた。だって、ずっと呼ばれない存在だったから。いてもいなくても変わらない、空気よりも価値のない存在。今でもきっと私の価値は変わらないだろうが、それでもちょっとだけ心持ちに変化が萌したのは、たぶんほんとう。
 ――どこかに希望を抱かせるフレーズがないと、人の心は動かせないよ。
 ひっそりと歌う私が誰の心を動かせるというのだろう。
 海の心を?
 ――せっかく、晏奈はほかのみんなが持ち合わせていない感覚を有しているのだから。
 上手く言えたつもりだろうか。遠回しに、あなたは学校のはぐれ者だと伝えたいのではないだろうか。私なんかを丸め込んでどうする算段なのかしら。
 そう考えていたから、なにを言われても答える気になれなかった。そういうとき、ほだされそうになる心を掴まえるみたいにして、スカートの端をぎゅっと握った。

 馬の尾は目印だった。
 それを見かけると心が安らぎ、傍に寄って、なんでもないことを話したくなる。おはよう、から、また明日、まで。ふつうに仲の好い関係を保つのに、特別しなければならないことがあるなんて思いもしなかった。だって、それは当たり前に存在していたから。友達かどうか確かめ合う必要もないくらいに。
 馬の尾は目印だった。
 過去形の言葉。高校に進学してから、クラスが異なったこともあるかもしれないけど、それにしてもこんなに心が遠くなるとは。中学校を卒業する間際は、一緒の高校に上がれることをあんなに喜び合っていたというのに。
 人間は正直だ。なにを考えているか分からない、なんてことはけっしてない。すべてはこんなにも分かりやすい。
 廊下の奥にポニーテールを見かけ、それが瞬時に真夜の後ろ姿だと認識できてしまう自分が嫌だった。まだ友達だと思うほどおめでたい性格はしていないが、それでも簡単に切り捨てられないくらい、私たちには日々の積み重ねがあった。
 好き、は遥か彼方へ。その代わりに嫌いがやってくることもないけれど。
 私はいつから変わったのだろう。自分の中では中学校の頃と高校の頃で変化が萌したつもりはないし、このことは繰り返し頭の中で考えてきた。考えてきても答えは出ないから、もう麻痺しているほどだ。
 ふつうで好かったのに。ふつうを望んだばっかりに、かえってそれが遠ざかったのだろうか。人は高い目標を掲げて、その次点を受け入れるくらいがちょうど好いのか。
 今日もなにもかもが物憂くて仕方がない。早く一日が終わってくれないだろうか。でも、一日が終わったらまた同じような一日がやってきてしまう。この堂々巡りに捕えられて、きっとどこへも行けない。どこにも行けないのは、渇望するほどに行きたいどこかがないから。自らいることを選んだ場所で、こんなところと忌避する駄々をこねる子どもだ。
 馬の尾は目印だった。
 楽しそうに笑う真夜の横顔、笑うたびに揺れる髪が心を切り刻む。彼女は「ふつう」を相変わらず手にしている。それが泣きたくなるくらいに悲しかった。寂しかった。
 あの頃、私たちがどんな話をしていたのか、もうすっかり思い出せなくなっていることに愕然とする。
 天気予報では午後から雨になると言っていたのに、外は少し薄暗くなってきただけで窓を濡らしてはくれなかった。そのせいで私自身、胸の内に溢れてきたものを流せない心地がした。
 遠い目をして、窓の外を見つめる。

 その日の気分によって海へ行かない日も当然ある。今日がそうだった。歌いたい言葉は一つも浮かばない。私が気まぐれを起こす日、小西さんはどうしているのだろう。本人に確かめたことはないが、海で出会って以来、欠かさず姿を現すことを思い合わせれば、きっと私がいないのを見て取り、素通りする瞬間もあるのかもしれない。だからといって、別に待ち合わせをしているわけではないのだから、いつも行かないといけない義理はない。もしかしたら、彼女は路面電車通いなのかもしれない。そうだとしたら、あそこは通り道だ。
 私は海とは反対側の方へ、学校からは北へと向かっている。しばらく進むと立派な駅が出迎えてくれる。ここは私鉄の電車が走っていて、うちの学校の生徒のほとんどがその電車を利用している。遠いところから来る人もいれば、その逆もいて人それぞれという感じだけれど、とにかく、登下校の時間帯は学生たちで混雑する。
 私も駅の方へと向かうのだが、電車には乗らない。駅のすぐ傍、裏路地にちょっと入ったところに自宅があり、そこから通っているという稀有なパターンだ。楽は楽かもしれないけど、外から華やいだ声が聞こえると落ち着かないし、うかうか外出もできないのは億劫だ。他人は私の存在など特に気にも留めていないだろうが。
 気まぐれを起こした原因は真夜だ。彼女は私のことを意識している。意識した上で、意図的に避けている。
 お昼休み、誰もいないプールサイドでお弁当を食べた。冬が忍び寄ってくる今日この頃なので水は張っていなくて、塩素の匂いもしなかった。ただ風が通り抜けて、日当たりが好いだけの場所は、食事を摂るのに最適だった。いつもなら食欲が湧かなくて、中身を捨ててしまうことの方が多いのだけど、今日は完食できた。
 教室に戻ろうと体育館裏を歩いているとき、角から真夜が突然現れ、まともに向かい合ってしまった。真夜の顔には、しまった、という表情がありありと浮かび上がっていた。
 ――…………。
 ――…………。
 互いに無言で一瞬間見つめ合い、そして真夜の方からさっと身を翻して、明後日の方向へ走り去っていった。その遠ざかる背中を、軽やかに揺れる馬の尾を、ただじっと眺めていることしかできなかった。
 なんて呼びかければ好い? 呼び止めて、どんな言葉を伝えたら好い? 今の私たちの間にはどのような感情が泳いでいることだろう。どれを掴まえても、きっとあちら側へ橋を渡せないのは目に見えている。
 真夜は明るくて前向きで、誰に対しても気さくに笑いかけ、誰からも好かれるタイプの人間だった。今も基本的には変わらない。でも、少し周囲の目を気にしすぎるようになったと感じる。小動物みたいに澄んだ瞳に、かすかに怯えの色が混ざっている。
 私は真夜の笑顔が好きだった。いつまでも傍にあるのかと錯覚していた。でももうきっと、私に笑いかけてくれる日は訪れない。
 夜の街は依然として賑わっているけど、次第に一日の終わりへと近づいているのだということが分かる。街灯がぼやけて、曖昧に目に映ってしまうようになる前にと、急いで家に帰った。帰ったところで吐き出せる言葉も、泣いて縋れる温かな胸も私は持ち合わせていないのだけれど。

 肌を刺す冷たさが好き、生きていることを実感させてくれるひんやりとした空気が好き。いつ死んでも好いと思っているからこそ、自分がまだ生きていると感じる瞬間があると、見えない手で胸を突かれたような心地がする。私はまだ手放していない。
 秋の終わりが近づいてきていた。一年のうちで最も過ごしやすいだろう季節は、焦がれるわりには瞬きする隙に離れていって、あっさりと冬にバトンタッチしてしまう。焦がれるからこそそう思うのかもしれないが、でも、私には冬もまた冬で好いのだ。暑さに辟易するくらいなら寒さに身を震わせる方が耐えられる。
 冬の海は寂しい。波が寄せても際ではしゃぐ影はないし、返してもそれをじっと見つめるのは私くらい。――かつてはそうなると踏んでいたのに。寒風に揺れる前髪を押さえながら、隣をちらりと覗くともう一人の少女がいる。小西さんだ。
 私たちは飽きもせず歌い続けていた。ここでは外から介在する悪意は存在せず、毎日は当たり前の日常みたいに繰り返されていった。私たちはこの関係性を確かめるためのやり取りをまったくしていない。だから、いつ終わりが来たって不思議じゃない。不思議じゃないのに相変わらず続いていた。
 学校で小西さんと仲よくする機会はない。そもそも、お互いを認知してから数か月経っても、ろくすっぽ出くわすことがない。もしかしたら、真夜ほどではないにしても、彼女も私を避けているのかもしれない。そうだとしても構わない。友達が欲しくて学校に通っているわけではない。
 では、なんのために。私は首を横に振った。現実に押し潰されないで生活していくためには、深く考えないのが肝要。あらゆることに理由や意味を求めてしまったら、きっと誰も自分を保てなくなる。
 頭を空っぽにして歌っていれば好いのだ。空に溶けるように現れてはすぐ消える旋律、二人で奏でている音楽があれば、とりあえず今は好い。
 小西さんは八重樫さくらと幼馴染らしい。知ったのは最近で、どうして知ったかというと、教室でたまたま小耳に挟んだからだ。八重樫さくらとは、私は同じクラス。彼女はいつだってクラスの中心で笑っていて、片隅で机の木目とにらめっこしている私とは天と地ほどの差がある。
 私は八重樫さくらがちょっとだけ苦手。
 幼馴染、というフレーズで二人を結びつけてみたとき、とても意外に感じた。音楽が好きで、常に落ち着いている小西さんに比べ、八重樫さくらは華やかでお喋りで、どうがんばっても仲よさげに並んでいる絵を思い浮かべられなかった。
 気になって話の続きに耳を傾けていると、八重樫さくらと話していた何人かも、私同様に驚きを露わにした。――だって、今はそんなに仲よくしてないじゃん。
 彼女たちは話さなくなったのだ、きっと。私と真夜の間に生まれた水溜まりが、やがてどんなに手を伸ばしても届かない湖になってしまったように。だけど、と思う。
 だけど、私と小西さんは違う。そんなこと確かめなくたって好いのに、違うのだと決めつけずにはいられない。こうして海に向かって同じ歌詞を口ずさんでいても、歌声が綺麗に重なるために微妙に異なる高さをなぞっているみたいに、私たちは違う。大切だったかもしれない存在を失っても、ふつうを生きられているかどうかで、持っているものがなにかで、こんなにも変わってしまうのだ。
 涙が滲みそうになるのを悟られないように気をつけた。ふつうの女の子になりたい。繰り返し願えば願うほど、それが心を寂しくさせていく。
 ふと、誰かの視線を感じた気がして、ちらっと背後を振り返った。すると、ちょうど私の視界から逃れるように、制服姿の少女が背中を向け、あっという間に遠ざかっていった。遠ざかって、現実味がないくらいの瞬間で見えなくなる。同じ学校の、誰だろう。肩にかかるくらいの黒髪がとっても綺麗だった。見憶えがあるような、ないような……。
 ずっと考えていた。

 重たい頭を持ち上げるようにして周囲を見やると、あらゆるものが真っ白な部屋にいることが分かった。そして、私はベッドに横になっていたらしい。
 気分よくなった? そう、保健室の先生に問われ、すっかり記憶の彼方にあったいろいろなことが戻ってきた。
 朝から体調が優れなくて、早く帰りたくてしょうがなかったけれど、早退したいと申し出るのもかえって面倒に感じて、机にしがみつくようにしていた。だんだんとイライラは募り、その辺の机も椅子もすべてなぎ倒して、内側にわだかまるすべてを吐き出したい衝動に駆られた。なにもかもが厭わしい。遠ざけたくなる。
 お昼休み、食欲どころかむしろ吐き気がして、お弁当はすぐに捨てた。トイレの個室にそっと入って、便器にもたれかかった。口を開いて虚ろな眼差しで底に張られた薄汚れた水を見つめていると、そこに映るのは生気のない顔色をした少女の顔だけだった。ちっとも嘔吐できない。お腹の中がほとんど空っぽだから仕方のない話。
 午後の授業も必死で耐えていた。
 授業の合間、私の席の近くで八重樫さくらと、彼女と仲の好い青井ことりが親密そうに言葉を交わしていた。どちらかというと背が低く、まさに女の子らしい体型の八重樫さくらに対して、青井ことりはすらっとしていて、スタイルが好い。とにかく、二人とも目立つ存在だった。
 話し声が嫌でも聞こえてくるのが、この日はいつにも増して望ましくなかった。二人を黙らせたかった。目の前で突然歌い出したら、大人しくしてくれるだろうか。そんな勇気、到底持ち合わせていないけれど。
 鈴の音のような声がした。
 ――二人とも。
 彼女らに近づいていって会話に加わる人。その艶やかな黒髪、白い肌、清楚な雰囲気――ただ一点、双眸だけはこちらに考えを透かさない、どことなくミステリアスな色をたたえている。
 同じだ、そう思った。先日、海で、ふと振り返ったときに翻ったスカート。そうだ、あのときの後ろ姿は目の前の彼女。確か、田口梨紗さん。
 そうと心づいた刹那、立ち上がろうとした私は意識が一気に遠のいていく感覚がして、その曖昧な記憶の片隅で、自分の机とともに倒れ込んでしまう瞬間の派手な音を聞いた気がした。その後のことはまるで憶えていない……。
 気づいたら保健室にいた、だなんて、情けない話だけど、どうやらそうでしかないらしい。誰かがここまで運んできてくれたのだろうか。
 気分がよくなったことを示すために、無言のまま軽く頷いた。
「お昼ごはんはちゃんと食べた?」
 首を横に振る。「食欲なくて」
「朝ごはんは?」
 迷った末に小さく頷く。「少し」
 先生はしばらく真剣な面持ちでこちらを見つめてから、やがてふいと視線を逸らした。薬缶の沸騰する音がしたからだ。そちらへ寄っていって、二つのマグカップに交互に注いだ。若い先生だと思っていたけれど、その優雅な所作を見ていたら、ほんとうはもう少し大人なのかもしれないと感じた。
 マグカップを一つ、差し出される。咄嗟に両手で受け取りながらも、戸惑い気味に先生を見上げた。
 にっこり微笑み、
「ハーブティーよ。飲みなさい、落ち着くから」
 それとも、ハーブティーはお嫌い? 尋ねる先生に、「いえ、そんなことありません。ありがとうございます」と掠れた声で応じた。
 ベッドに座ったままお辞儀をし、マグカップを口元まで持っていく。仄かな香りが心地よくて、胸に染みて、さめざめと泣けそうだった。だけど我慢したのはせめてもの意地。
 飲み終わったら、誰がここまで運んできてくれたのか訊こうとしていたのに、気づいたらまた深い眠りに就いていた。ハーブティーにはかなりの鎮静作用があるようだ。だから、尋ねる機会は得られなかった。
 小一時間眠って、再び目を醒ましたとき、傍らでこちらを心配そうに覗き込む顔があった。
 小西さんだった。学校でふつうに向かい合うのは、残念ながら初めてに等しい。
 大丈夫? そう、目顔で語っている。応えるように、なるたけ柔らかな眼差しになるよう心がけ、見つめ返した。長く、向こうの瞳の奥底まで見通せるくらい見つめ合っていた気がしたが、実際はほんのわずかのことだっただろう。私から目線を外して、上半身を起き上がらせた。
「好いの?」
 小西さんはきょとん、と目を瞬いた。「なにが?」
 私と学校で一緒にいても、好いの? そんな風に尋ねるわけには、なんとなくいかなかった。「なんでもない」
 小西さんは真夜とは違うだろうか。私はいったいなにを推し量ろうとしているのか。二人の心のほんとうの色はどうしたって確かめようがないし、きっと私という共通の知り合いがいるだけでは、同じ天秤に乗せることも不可能。
「まだ保健室で休んでいると思ったから、寄ったの」
「誰かに訊いたの?」
 不自然な間があった。小西さんはいったん下げた目線を戻し、「田口さん」と呟いた。
 田口さん――田口梨紗さん。彼女が?
「田口さんが、わざわざこっちのクラスに来て、私だけにそっと教えてくれた」
「たぶん」ためらいがちに告げる。「私と小西さんが海で歌っていること、知っていたから、教えてくれたんじゃないかな」
「知っていたの?」
「この間、こっちを眺めている田口さんを偶然見かけたから」
「ふうん」
 小西さんの表情は思案深げだったけど、その「ふうん」は歌うような感じだった。
 空はとっぷり暮れかかっていた。寒くなるとともに、太陽が追われるのも早くなってきたとはいえ、だいぶ時間は遅くなってしまっただろう。
 かなり休めた。もう、自分の足で歩いて帰れるはず。
「帰る? 途中まで一緒に行くよ」
 私の心中を読み透かしたみたいに、小西さんはそう言った。頷き返し、帰り支度を始めた。先生に謝意を伝えてから、保健室を後にした。
 校舎は恐ろしいくらいに静まり返っていて、生徒の姿は見当たらなかった。どうやらとっくに最終下刻の時間を過ぎていたようだ。いつもと様子が違くって落ち着かない気持ちのまま、ひたひたと並んで歩いていく。
 歩を重ねながら、一つの確信が萌した。教室で意識を失った私を保健室まで運んでくれたのは、田口さんだろう。直前まで近くにいたのを憶えている。おそらく、一人では大変だから、もう一人くらい手伝った人がいたかもしれないけれど。
 夕暮れの匂いは甘い。

 一週間ばかりで今年が終わる、という頃合。私は乗り慣れない電車に揺られ、隣町を目指した。
 この街も海が近いとは言いながら、駅周辺を中心に発展していて、お店なんかも充実している、と私は思っている。だから友達と遊ぶとしてもここらで用は足りる。無理に遠くへ足を伸ばす必要はないのだ。友達と遊ぶとしたら、だけど。
 友達、という言葉が脳裏に浮かんだ瞬間に、小西さんと歌っている日々もまた自然に浮かんだ。私と彼女は友達なのかな。どこからが友達で、どこまでが友達ではないのか、その境界線が分からない。もっと幼い時分はなにも考えずに誰とでも付き合えていたような気がするけれど、でもそれは意識的に記憶を改ざんしていて、やっぱり私は昔から一人だった。
 孤独にはもう慣れっこだ。そう強く信じているのに、この日だけはその思いが大きく揺らぐ。周りが楽しそうにはしゃいでいる光景を目の当たりにすると、形容の難しいなにものかを突きつけられているような心地がする。毎年、そうだ。
 師走の二十四日目はクリスマス・イブと呼ばれ、人々はいつにも増して明るい表情で一日を過ごす。もちろん、明るい気持ちで迎えている人だけではないけれど、そういった人らはイルミネーションの陰に隠れて、表に露わにならない。
 恋がよくなくて愛が好いのはどうしてか私には分かり得ないけれど、明日がキリストの誕生日であることくらいは知っている。それなのになぜ日本がこんなに浮かれるのか、皆目見当がつかない。前向きになれる理由があればなんでも好いのかもしれない。
 そんな日に電車に乗ってどこへ行こうというのか。家にいたくない気持ちもあるが、普段行かないところへ行って、その喧騒に落ち着かない感情を洗濯してもらいたいのだ。ついでにパリパリになるまで乾燥させてほしい。もう二度と甘い現実を渇望できなくなってしまうほどに。
 車内はとても混雑していた。数駅乗るだけだから直立不動で我慢するけど、やはり落ち着かない。笑うたびに私のうなじあたりで揺れる若い女性の髪先がくすぐったい。仕事帰りらしいサラリーマンの嫌な臭い。スマートフォンにばかり意識を向けていてちゃんと立っていられないOL、不自然なほどこちらに体重を預けてくる。落ち着かない気持ちにさせられた。
 ドアに一番近いところにいた。外の様子と、光が反射して映る内の様子とが併せて見ることができた。ここは世界の縮図と向き合える場所。ありのままの今を映し出す鏡。
 強い揺れ。OLに背中から押されるようにして、私はドアに押しつけられる。唇がドアに軽く触れてしまい、鉄みたいなあまりおいしくない味がした。よく確かめたかったのか、とりあえず拭いたかったのか、上唇と下唇を合わせる。鉄の味なんてすぐに消えていて、誰にも汚されていない私の唇だった。
 電車はやがて目的地へと滑り込む。絶え間なく降り注がれる視線から逃れるように、いそいそとホームに降り立った。馴染みのないその駅の光景は、高揚感を湧かせながら、同時に圧倒的な不安を連れてきた。
 溢れかえる人、人、また人。互いの顔くらいは認識し合っているつもりだったけど、こんな表情もできるのかという驚きに似た感情をこの街に対して寄せる。ここは私の住んでいる街とは比べものにならないほど、慌ただしさに満ちていた。そして、ここにいる大多数が、私なんかと違って約束があって、待ち合わせ人がいて、楽しみな予定を抱えているのだ。それを考えてしまうと回れ右をして帰りたくなるけれど、聖なる夜の私には帰る場所なんてない。ただ、紛れ込める隙間を探して彷徨するだけだ。
 駅前の広場がイルミネーションで彩られていた。クリスマスシーズンに電飾を持ち出してしまったのはいったいどんな人なのかしら。あの光は、それぞれが抱えている心持ちによって見え方がまるで異なる。私にはどんな風に見えているのか、説明するのも野暮な話。
 きらめきをバックに写真を撮る人たちを横目に通り抜け、あてもなく歩き出した。いつも首筋をなめる風と違って、ここに吹く風は痛みを伴う冷たさがした。そんなに距離としては離れていないのに、ビルとビルの間を縫うだけで、こんなにも変わるものだろうか。嫌だな、と思った。どうして逃げ込む場所を海にしなかったのか。
 私は苦しみたかったのだ。自分がどうしようもなく寂しい人間だということを、徹底的に味わいたかった。それにはこれくらい眩しいところへ来るしかなかった。いつ死んでも好いなら、こんな苦しみで絶望を感じなくても済むはずだから。
 いつ死んで好いって思えばなんだってできるような気がした。きっと、どんな歌だって歌える。もしかしたら恋だって可能なのかもしれない。だけど、私にはやっぱりできないことが多すぎる。いつまで経ってもなにも変わらない。いつ死んでも好いって本気で望んだって、その度合いに関わらずその人に与えられた天分は同じまま。私は「樋野晏奈」を抜け出せないし、胸の内のどこかでそれから抜け出したくないと強く願っていた。
 それが分かっただけでもよかった。安心の息を漏らした私は、映画館に入った。映画くらいなら一人でだって見られる。周りがどうであろうが、始まったらみんな大人しくなるのだから。
 せっかくだからと、恋愛ものを選んだ。時代は昭和初期。音楽を愛し、ピアノが好きな男女が、切磋琢磨し合いながら東京の音楽学校を目指す。だが二人のその純真な望みに、戦争が暗い影を落とす――それでもそれぞれを想う心は揺らがなかった、そんなところだろうか。今の私にはちょうど好い。
 映画館の中も賑わっていた。そこここで話し声がする。なんとかチケットを買えて、上映開始を待った。飲み物もポップコーンもチュロスも買わずに、館内の隅で佇んでいた。誰も稚い私など気にしない。
 この世は見る人間と見られる人間に大別される。自分の日々にしか余念がない人と、周囲を病むほどにまで気にする人。私は当然見るだけでしかない存在だから、どんな人が今宵集っているのか、せいぜい観察する。そしていつしか、それに疲れた頃、劇場案内のアナウンスが聞こえてきた。動き出す人々に続いて、私もそれへと吸い込まれていく。
 映画を見ているとき、どこに目線を据えればいいか分からなくなる。スクリーン全体を捉えれば好いのだろうけど、そうすると印象がなんとなくぼやけてしまう。だから最近は喋っている人の顔を特に見るようにしている。台詞を口にするとき、人の目がどんな風に揺れるのか、どんな風に首に筋が現れるのか、どう眉根が寄るのか、だから私はよく知っている。そして演者の表情は多彩で、みな美しい。
 感情はヒロインと重ねるのが素直だろう。しかし、今回の内容はヒロインにとって悲しい出来事の連続で、だんだんつらくなってきた。あまりの報われなさに、体力が削られていく心地すらする。
 だけど、最後には、一縷の希望が垣間見え、エンドロールへと至る。私は泣いていた。涙は頬を伝って口元まで達し、塩辛い味がした。泣くことでつらかった体験から解放された。スクリーンの向こうの彼女のために涙したのではない、私は自分自身のために涙したのだ。だから、なんだか胸にすっと風が入ってくるような温かさがあった。
「あの」
 遠慮がちに話しかけてくる声。内心の動揺を隠し、そっと声のした方を確かめると、映画館のスタッフらしい男の人がいた。若い。私とそう変わらない年齢なのではないかな。
 心配そうな表情をしている。終わってしばらく経つのにまだ座っている少女を怪訝に思っているのかもしれない。
「もうすぐ次の上映が始まりますので、すみませんが」
 謝らなければいけないのはこちらの方だ。私は立ち上がって、急いで出口へと向かう。数時間座りっ放しの後で歩くと、ふわふわと、現実感のない感じだった。
「あの」
 また、さっきみたいに呼びかけられた。くるりと振り向くと、さっきの彼とまともに目が合った。ちょっとだけ、心が動く。まっすぐな眼差しは、私の胸の内を丸裸にしてしまいそうなほどだった。
 黙って小首を傾げると、「好い映画ですよね、さっきの」と彼は続ける。私は顔が熱くなる思いがして、目元を軽く拭った。とっくに乾いてはいたのだけれど。
「特にヒロインの演技が素晴らしい。彼女はこの先、これ以上の当たり役と出会えないかもしれない、そう考えてしまうくらいに」
 私は肯定なのか否定なのかはっきりしない、曖昧な頷きを返しただけ。
 彼の声は透き通っていた。演劇でもやっているのだろうか。こちらへ語りかけてくる表情は――しかし、ちゃんと確かめられなかった。見つめ合えないでいる。スクリーンの向こうから話してくれたら、瞳の揺れも首筋も、まじまじと観察できたというのに。
「すいません、勝手に喋って、引き止めちゃって」
「いえ」
 と口から漏れて、場の空気に堪え切れなくなったみたいに背中を向けた。それ以上は無理だった。どうしてか分からないけど。
 また来ます、という呟きは心の中でだけ発され、一瞬でもそう言いたくなった自分に戸惑った。
 この日の私はひどく疲れていた。数日後に振り返ってから、彼に対して覚えた印象を一目惚れと名づけた。

 はつうみ、と呟いて小さく笑った。初海。今年初めての海だ。凪いでいる。穏やかな心のまま、遥か遠くまで見晴るかす。どうしてあの青がこんなにも安心させてくれるのか不思議でならない。
 しばらく突っ立って景色を眺めていると、背中の方から鈴の鳴るような声がした。
「あけましておめでとう」
 はつこにしうみ、と今度は胸中で唱える。新年を迎えてから初めて会った同級生は、やっぱり小西さんだった。
 学校はまだ始まっていない。明日から三学期に入り、また飽くほど繰り返してきた日常が返ってくる。
「あけましておめでとう」
 今日、ここで会う約束はしていなかった。だけど、お互いになんとなく寄ったら、奇遇にも会えたというわけだ。小西さんはにこやかに微笑んでいる。
 私たちは水平線を前に見据え、並んで立ち尽くす。言葉がなかなか出てこなかった。私たちはこれまでたくさん気持ちを伝えあってきたような憶えがあるけれど、実際はメロディーに詞を乗せるだけで、意志疎通を図るためのやり取りはしてこなかったことが分かる。それだけでよかったのだ。これまでの期間、倦むこともなく、私たちはよくも歌ってきたものだ。
 ――あの。
 ぽんと、アルトの声が甦った。記憶の中で美化されてしまったかもしれない、彼の表情、真摯な眼差し。映画館の彼が私にもたらしたものは、少なくなかった。彼はもうきっと、私のことなど忘れてしまっただろうけど。
 ――好い映画ですよね、さっきの。
 あれから、折を見ては映画館に通った。といって、見たいものがそれほどあるわけではないから、ちょっと覗いて、すぐに離れるだけ。彼を見つけられたときもあるし、どこにも見当たらない日もあった。
 この頃、熱に浮かされたような毎日だった。夢にまで彼は出てきた。想像の域内で、彼の存在はどんどんと大きくなっていく。名前も知らない人なのに。こんなの恋とは言えない。
 ちらりと横を見やると、小西さんの美しい横顔が目に映った。前から見ると、女の子らしい柔らかな印象を覚えるが、横からだと整って見え、直線的な印象も抱ける。目の大きさ、鼻の形、唇、それに頬にだけ赤みが差した白い肌、すべてが完成されていると思わせられる。
 ふつうの女の子になりたいと願う私だから、こんな少女に生まれてきたらきっと舞い上がるはずだ。そうしたら、映画館の彼に積極的にアプローチできたかしら。そんな光景、想像すら叶わないけど。
 あらゆる感情があまりにも唐突だった。誰かを好きだと想う心はどこからやってくるのだろう。あの海の向こうからか。
 私は一つ息を吸って、小西さんと出会った日に歌っていた歌を、もう一度口ずさんでみた。風の音と波の音が重なり合うように、私の声はすぐに小西さんの歌声と溶け合った。もし海の向こうに、私に馴染みの薄い感情があるなら、こうして旋律を奏でるのは呼んでいるみたいだ。早く、こちらまで。手の鳴る方へ。
 乾燥した空を少女たちの声が潤わすように。冬の海沿いなんて、めったに人の通らない寂しい場所だった。私たちだけの秘密の場所だった。

 涙をずっと我慢していた。心を洗ってくれる行為だと知りながら、同時に流してはならないと自分を戒めていた。泣くのは甘えだ。悲劇のヒロインを気取るのはとっても楽だから。己の心の弱さを肯定してしまっては、もう二度と「ふつう」を手にする日を失う。痺れるような頭の片隅に、そんな考えがあった。
 感情をいつまでも内側に溜め込んで、日々を黙々とこなしていけたらどんなによかったか。だけど、この世界はものごとを思い通りに運べないものだと、私はつくづく感じた。
 三学期に入り、寒さは厳しさを増す中、学校では卒業式に向けた歌の練習が始まっていた。
 通っている高校では、卒業式を執り行った後、生徒だけが参加する余興の時間が用意されている。そこで毎年、在校生がクラスごとに、それぞれで選んだ歌を卒業生に送るならわしになっていた。感動の涙を流させるもよし、笑顔にさせるもよし、各クラス、選曲からこだわった。
 私のクラスも話し合いから白熱し、決まるとすぐに歌の練習となった。居合わせてはいたけど、私はいつだって蚊帳の外だった。みんなの様子をぼんやりと眺め、無感動な眼差しを注いでいた。
 そんな消極的な参加姿勢がある人の反感を買ってしまったのは、ただそれを不幸だと言い切るには己に甘すぎる。だけれど、私なんか気にしないで好いのにと、他人のことのように感じてしまう。私は「見る」だけの存在だから。誰からも「見られ」ないのだ。
 誰の反感を買ったのかと明かすと、八重樫さくらだ。以前から私はこの人が苦手で、なるべく関わらないように心がけていたのだけれど、いかにも見つかった、という気持ちになった。
 ――樋野さん、ちゃんと歌ってくれる? 口がぜんぜん開いていないし、声がまったく聞こえないのだけど。
 丸顔で、どちらかというと見た目に華やかさがある彼女が、私をせせら笑うみたいにして、わざと丁寧な話し方をしていた。クスクスと、クラスのそこかしこから同調するような笑声がこちらへ届く。みんな、そういう笑い方は上手だよね。
 みんなの前では歌えなかった。歌う気がなかったのかもしれないが、とにかく、振りだけをしてやり過ごそうとしていた。でも、私以外だって、全員が熱心に取り組んでいるかは分からない。彼女の気まぐれに振り回されるのは困る。そんな風に心で思っていても、実際には黙って俯いているしかなかった。
 歌えないのはどうしてだろう。歌う気になれないのは、どうして。小西さんがいないからじゃないだろう。適当に声を出そうとしても、口の中がぶくぶくと泡でいっぱいになって、まともな言葉を発せない。といって、力強くいつものように大きな声を出す気持ちにはなれない。それでは目立ってしまう。目立ちたくなかった。
 ふつうでよかった。誰にも触れられず、甲乙つける必要のない存在でよかった。そう望んでいた。
 八重樫さくらはクラスの代表みたいな顔をして私をなじるが、この合唱のリーダーを任されているのは真夜だ。しかし、真夜が私を助けてくれるわけがない。無言で、このやり取りを傍観しているだけだ。どうせなんとも思っていないのだろう。
 ――一人で歌ってみて。
 八重樫さくらが伴奏の人に合図をする。ピアノのメロディーが流れてきた。私は、こんな味気ないピアノよりも、もっと海のように大らかで、感情豊かな演奏を知っている。彼女はいつも、音楽室で奏でているから。一人で、でも、一人じゃないみたいにして。
 口を半ば開けたが、声はまるで出そうにない。伴奏とか周囲のざわめきにかき消されているのではなく、無音に等しいから、誰にも届かない。やっぱり、ここで歌えそうにはなかった。
 不機嫌さを表すように、八重樫さくらは手近な机を思い切り叩いた。一瞬でクラスがしんと静まり返った。
 ――ばかにしてんの?
 続けてなにかぶつけてこようとするのを、隣でずっと大人しくしていた青井ことりが遮った。腰まで伸びた黒い、艶やかな髪が、柔らかく揺れた。
 ――もう、いいわよ。こんな人。
 冷たい視線をまともに受けた。普段は物腰柔らかな彼女がこんな表情を見せるのは珍しかった。育ちが好いからこそ、協調性のない存在が気に食わないのかもしれない。そんなことを、また他人を評するみたいに思った。
 ――出てって。
 私はどうしたら好いのか分からなかった。泣きだしたら好いのか、怒ったら好いのか、謝ったら好いのか、それとも……。いずれも選べないまま、呆然と佇んでいた。いつもこうだ。
 ――早く、出てって。
 青井ことりの低い声に押されて、私は回れ右をした。誰とも目を合わせず、教室を抜け出す。どこへ行けば好いのか。とても学校にはいられなかった。走って、走って、校舎を後にした。それでも足を止めることなく、ひたすら走った。坂を一気に下っていって、気づいたら海へ向かっている自分がいた。私にはあそこしかない。
 走りながら、別の光景を、別の感情とともに思い出していた。
 つい三日前、また映画館を覗きに行ったら、その裏から出てくる彼の姿を見つけた。彼と手をつないだ、知らない少女の姿と一緒に。二人は仲睦まじそうに、ときどき笑い交わしながら、軽い足取りで歩んでいく。色のない瞳をしてその光景を眺める私になど、少しも気づかないで。
 私が魅力的に感じるくらいだから、というのは変な話だが、彼に恋人がいたって不思議ではない。だけど、それを目の当たりにしてしまうと、想像以上にショックだった。見えないナイフで切り裂かれた胸は、どう繕い様もなかった。そうか、こうして私の恋は終わるのか。
 はたと、気づく。そして、汚い笑いがどうしても漏れてくる。なにを言っているのだ、こんなの恋とは言えない。だって、たった一回きり話しただけで舞い上がって、勝手に好きになっただけだ。彼のことをろくに知らないくせに。一目惚れ、というありふれた言葉にすがった、なんてことはない勘違いだ。私は恋すらまともにできない女なのだ。
 海にたどり着いたときには、足ががくがくと震え、砂浜に膝から崩れ落ちた。乱れた呼吸を整えながら、叫びたい衝動に駆られる。映画館の彼や、八重樫さくら、青井ことりの顔が浮かんで、なにか叫べそうな気になってくる。それなのに、好きだ、とも、嫌いだ、とも、死ね、とも叫べなかった。その代わりにぽろぽろと涙がこぼれてきた。止まらない。感情がおかしくなって、抑えられない。涙は苦しい。この感情、どっか行け。
 あああ、とやっと叫べた。どの言葉も選べない代わりに、いろんな言葉のすべてを乗せて。繰り返し叫んでいるうちに、心が楽になった。砂浜に顔を埋めて、そこで涙を拭いた。気持ち悪い感触しかしなかったけど、これ以上悪くなったってなんだと言うのだ。
 いつも歌っている場所でずっと叫び続けていた。私には、誰かに話したいことなんか一つもない。だって伝えたいことばかりだから。
 打ち寄せる波の音が傍にあった。

 ねえ、やる気あるの。
 足下をじっと見つめているだけの私に降りかかる、声。言い返せないから、一方的に受け止めるしかない。
 ちゃんとやらない人がいると迷惑なの。当日も目立つんだから。
 八重樫さくらと青井ことりは、言い方や言葉はそれぞれ違うが、とにかく私のふがいなさを責めた。消極的な態度を非難した。どうして。今まで、私になんか一瞥もくれなかったというのに。
 彼女らの隣でなんとも言えない表情を浮かべている田口さんが気にかかった。発言することがないから、どんなことを考えているのかさっぱり読めない。海で小西さんと歌う私たちを見ていた彼女、倒れた私を介抱してくれた彼女、映画館の前で――そういえば、映画館の彼と一緒に歩いていた少女は、田口さんによく似ていた。他人の空似かもしれないけど。
 ちょっと、話聞いてるの。
 八重樫さくらが詰め寄ってくる。
 なんとか言ったらどうなの。
 青井ことりが苛立ちを露わにしている。
 この前、散々なじられたじゃないか。どうしてまた、こんな不毛なやり取りを繰り返すのか。たった一人の異端児を更生しようと試みるせいで、全体の工程がひどく滞っているのがなぜ分からないのか。だけど、根っこに立ち返ってみれば、まじめさを振りかざしている彼女らにとっても、ほんとうは合唱などどうでもいいのだ。
 そうだ、私に小言を言うのは、たんなる暇つぶしに過ぎないのだろう。
 なんだかさっきから現実感が薄い。周りが少しぼんやりしている気がするし。もしかして、これは現実ではないのかも。
 そこで私ははたと気づく。そうだ、これは夢の中なのだ。さっきからの堪えがたい状況は、あまりに先日のことがショックでこびりついた記憶の断片だ。夢の中でさえ、同じように言われっ放しでは割に合わない。ここでくらい、反抗してみたってよさそうなものだ。
 試みに、机を思いきり叩いてみる。二人が喋るのを止め、突然の物音に戸惑っている。気持ち好い。続けて、私はその机を蹴り飛ばしてみた。また大きな音がして、その後で教室は一気に静まり返る。快感だ。私は今、誰にも疎外されていない。
 どうせなら、今まで投げられた言葉を何倍にもしてやり返してやりたい。それくらいしたって許されるはずだ。お腹に力を入れ、二人へ向けて吐き出そうとした刹那、私はまたも気づく。気づいてしまう。
 さっき、机を叩いたときも、蹴り飛ばしたときも、じんわりと痛みが広がった。今も残っているほどだ。そういうことか――早とちりに過ぎなかったのか。これは夢なんかじゃない。突きつけられた現実だ。
 クラスの冷たい視線がいや増して私をめった刺しにしてくる。いずれの双眸にも、奇異な対象を捉える色が浮かんでいて、肝が冷えた。
「樋野さん、これはどういうつもり?」
 顔を覆って泣き出したかった。穴があったら入りたかった。だけど、私はなにかしようとするたびに、ますます奇異な存在に変わってしまう。なにもすることが許されないなんて苦しくて、悔しくて仕方がないけれど、だけど、これはすべて選んできた果てにある道だ。自分の足で歩くしかないじゃないか。
「もう、来なくて好いよ」
 窓の外の気配に耳を澄ましながら、雨上がらないかな、と私らしくない感情を覚えた。

 どこへ向かえば好いの。この後のことではなく、もっと将来の、これからのこと。私はいったいどこへ。誰に尋ねたら答えてくれるのかしら。
 学校から追い出され、家に帰る気には到底なれず、かといって私が落ち着ける場所なんて一つしかない。でも、そこに行くのは逃げのように思えた。いつだって逃げてばかりのくせに、こういうときだけ矜持を見せるなんて、自分の程度の低さを笑うしかない。だけど、本気で寄りたくなかった。
 そう心で思っているのに、ふらふらと足が坂を下ってしまうのが止まらない。潮の匂いがきつくなってくる。風が吹くたびに、髪に絡みつきそうなその匂い。止まれ、止まれ、私の両足。止まれ、止まれ。
 頭の中になにもなくなったとき、ようやく歩みを止めることができた。私は今、どこにいるのかな。左右を確かめようとして、右手の方から大きなものが近づいてくるのが目に映った。走行音とともにその姿を大きくするのは、海沿いを走る路面電車だった。私はぼうっとしているうちに、踏み切り内に立ち入ってしまっていた。条件反射よりももっと早いなにかが反応して、電車が通過するコースから飛び退く。
 やがて、すぐ目の前を電車が通過していった。全身を駆け巡るような風に煽られ、鳥肌が立った。ぞっとしない。……路面電車なんてかわいいものだと認識していたけれど、それでもスピードは出ている。轢かれたらただでは済まなかったろう。今頃になって、恐怖心から両足が震え出した。
 その一方で、頭では別なことを考えていた。あのまま立ち尽くしていればよかったのでは。どうしてすぐに飛び退いたのか。轢かれたら死ねたかもしれない。命が助かったとしても、大きな怪我を負えばしばらく学校へ行かなくてもよくなるのに。
 死にたい、死にたい、と泣き叫ぶのはほんとうに簡単。なんにもできない私にだってできるのだから。だけど、実際に死ぬのは難しいらしい。突発的にチャンスが訪れても飛び込めないものだ。
 甲高い音と一緒に、遮断機が上がる。冷や汗でびっしょりの体をなんとか動かして、歩道へ戻った。気づいたら来た道をたどり直していた。ようやっと海に逃げるのを諦められたみたいだ。
 学校の手前に小さな児童公園がある。いつもは通り過ぎるだけだが、このとき初めて寄ってみた。幸い、陽が暮れかかってきたこともあって、園内に人の姿はなかった。ブランコにただ座って、それからしばらく動けなかった。視界に映るいろんな遊具が、どれも錆びついて見えた。今日はもう仕事を終えたつもりでいたのに、不意の珍客を迎えたこの公園はどんな気持ちでいるだろう。
 息をしていないみたいだった。公園の静けさは夜にこんなにも深まるのか。私は誰もいないことにすっかり安心し、首を不自然なほど下げて、足元だけをずっと見つめた。長く愛用していて薄汚れてしまった靴。正体の見えない悪意に攻撃されたこともある、私の相棒。
 ずっとこんな毎日を繰り返してきたわけではない。中学校の頃はふつうをちゃんと持っていた。真夜をはじめ、友達といろんな話をしていた。いつからボタンは掛け違えてしまったのだろう。少しずつ、少しずつ、私は間違った選択を積み重ね、ついにはもう取り戻せないところまで来た。どこで間違えたのだろう。どこからやり直せば、私はふつうを手に入れられるの?
 足音がした。最初は気に留めていなかったが、それが次第にこちらへ近づいてくるのに心づいて、さっと顔を上げた。前髪の間から覗けたその表情は、心配している風を滲ませながらも、なにもなかったように微笑んでいた。
 小西さんだった。
 互いに黙ったまま見つめ合った。やがて、小西さんは隣のブランコに腰を下ろし、小さく息を吐いた。それでもまだ、私たちはなにも言わなかった。どんな言葉を紡げば好いのかが分からないのではなく、分かっているから言わなくて済んでいるのだ。だけど、言葉にしないと感情が伴わないものだと、つくづく気づかされた。
 私は彼女のことが好きだった。友達でありたいと願ったことは何度もある。だけど、友達だと言い切る心はいつまでもやって来なかった。それは、私がふつうじゃないから。
「……私は、ふつうじゃないんだよ」
 呟きは届かなかったのだろうか。小西さんは身動ぎしなかった。
「私はふつうじゃないの!」
 立ち上がって、小西さんに思い切りぶちまけた。ようやく彼女は、大儀そうに顔をこちらに向けた。その色のない瞳に、さらに言い募る。
「私はふつうじゃないの。みんなみたいにできないの。当たり前がだめなの。だって、ふつうじゃないから。私なんかと一緒にいたらいけないよ。小西さんもふつうじゃなくなっちゃうよ。せっかく、小西さんはふつうなのだから」
 伝えたいことは上手く言葉にできない。話せない代わりに歌っていたわけじゃなく、自分のもどかしさから逃げるために歌っていただけだ。もしかしたら、私は歌うことが好きだったのではないのかもしれない。逃げられるものなら、なんでもよかったのかもしれない。
「もう、海に来ないで。私に会いに来ないで。私と関わろうとしないで。私みたいなふつうじゃない人といちゃだめだよ」
 心の隙間に入り込んでくるように、不意のタイミングで小西さんは立ち上がり、私をそっと抱きしめた。あまりにも突然のことで、抵抗もできず、動揺も遅れて去来した。かといって受け入れられもせず、全身を硬直させたまま、ただ抱きしめられていた。気持ちよかった。
 小西さんの体は柔らかくて、温かかった。胸に巣食っている寒さもどこかへ押しやってくれそうなほどに。私は両腕をのろのろと動かして、彼女の背中に回した。そうすると、彼女は締め付けをよりいっそう強くした。
「ふつうじゃない、ってなに」
 小西さんが耳元で囁いた。とろけてしまいそうなほど甘い響きに、危うく酔いかけた。「ふつうじゃない、ってどういうこと。ふつうってそもそもなんだろう。誰もがふつうじゃないと思うし、誰もがふつうだと思うよ。絶対的な物差しなんかない」
 よくできた慰めの言葉だ、そう思いながら、私はぼろぼろと涙を流していた。ずっとすがらないようにしていたのに。だけど、止まらなかった。いつまでもいつまでも頬を濡らした。
「樋野さんもふつうだよ。みんなと一緒。私もふつうじゃないよ。みんなと一緒」
 だから大丈夫、最後にそう結んでから、小西さんは自分の唇を、私の唇にそっと押し当てた。言葉にならなかったあらゆる感情が重なっていく。なんとも言えない心地よさがあった。この甘さをずっと味わっていたかった。離さないで、離れないで、友達じゃなくても好いから私の傍にときどきいて。
 あの、と無意識のうちに声が漏れていた。いつ互いの唇を離したのか。「海、って呼んで好い?」
 歌をいつでも聴いてくれるあの青と、世界で一番大きな鏡と同じ名前。
「好いよ」
 小西さん――海は、歌うように答えた。「じゃあ、晏奈って呼んでも好い?」
 私の答えは決まっていた。頷く代わりに海の瞳をまっすぐに捉えて、小さく笑いかけた。
 遠くから波の音が聞こえた。

 最悪の冬だった。将来、もっと全身をめった刺しにされるような冬を過ごす日が来るかもしれないが、私には今しかなかった。いつまで生きているか判然としない。だから、最悪の冬だったと振り返るのだ。
 練習に参加しなくて好いと言われてしまった私は、ほんとうに行かなくなった。ささやかな反抗ではなくて、とても参加できる精神状態ではなかった。そこまで図太くはない。そうすると、八重樫さくらや青井ことりは、なにも言ってこなくなった。すっかりクラスから一人の存在を消したつもりになっていて、幸か不幸か、関わり合いになる機会は消えた。
 そして、卒業式当日、私は体調不良を言い訳に学校へ行かず、だからやっぱり歌わなかった。私が私らしくなくちゃんと歌っていたとしたら、周りの反応ははたしてどうだったのだろうか。意外な一面があると、賞賛してくれたかしら。そんな絵、まるで想像つかない。気味悪がられて、陰でせせら笑われる方が絵として見える。そうなる未来が怖くて歌わなかったわけじゃないけれど。
 その冬は、海でもずっと一人だった。小西さんの方の海は、クラスの合唱練習にきちんと参加しているし、それに彼女はピアノ伴奏を担当していたから、外せないのは当然だ。寂しくなかったと言えば嘘になるけど、でも、海の言葉が胸の奥に住まっていたから、一人でもわりと大丈夫だった。
 誰かの温もりを知らなければ、きっと孤独に苛まれる心はなかったのだろう。ずっと孤独なら、それが当たり前になるのだから。だけど、私は中学時代に真夜の笑顔を知ってしまい、高校に入って、海の支えを知ってしまった。たとえば、いつか海に裏切られる日が訪れたとしたら、もう二度と立ち直れなくなるのではないかな。そんな予感がする。夜、ベッドの上で震えながら、その予感が現実にならないように星に祈るしかない。
 そして、長く感じた冬も明け、強い風とともに春になった。春一番に吹かれても鮮明に咲き誇る桜は、新たな始まりを告げるのに十分な色をしていた。
 高校生活最後の一年が幕を開けた。
 私は言葉を探していた。
 通学路は端から端まで女生徒で埋め尽くされるようになっていて、川みたいだった。その川に桜の花びらが舞い落ちる。知らない誰かがそれをキャッチしようと手を伸ばしていた。あんな風にはしゃぐことはできない。
 どんな一年になるのだろう。なにかが変わるのか、やっぱり最後まで私はこのままなのか。どちらでも好いつもりだった。少なくとも、去年の今頃は、これからのことなんてどうでもよかった。どうせいつか死ぬのに、よりよい未来を掌にしようとあくせくするのは奇妙だ。川に身を委ねるように流されていってしまえば好いのだ。
 だけど、ちょっとだけ好い未来を望むようになったのだとすれば、それはきっと海のせいだろう。海と出会って、私の中の欲が再び息をし始めた。もう少し、先を見据えてみても好いのかな、そう思えた。
 だからといって、基本的にはなにも変化していない。クラスでは隅で小さくなっているし、誰とも話さずに帰る日ばかりだ。でも、最近になって気づいた。この毎日が苦しくて涙を流していたわけじゃない、ふがいなくて消えゆく星のような私に涙していたのだ。
 もうずっと言葉を探していた。
 幼い頃、「銀河鉄道の夜」のアニメーションを見た憶えがある。冒頭で先生から指名され、答えられずに顔を赤らめるジョバンニがありありと思い出せる。活版所で活字を拾っていた彼もまた。特に、後者のシーンが印象的だった。
 どこかへ行きたいと思っていても、どこにも行けない事実をつくづく思い知らされる。隣町の映画館に通っても、海の先に思いを馳せても、電車に揺られ最果てまで運ばれても、私はいつまでも一つところに留まったまま。
 胸の内にわだかまる思いを、自分本位な願いを、誰かへの淡い感情を、そういったすべてを言葉にしたくって、伝えようとして、歌にしてみて……。私はいつでも言葉を探していた。そして、これからもいつまでも探していくのだろうと確信している。いつか見つかるだろうかと、考えながら。
 桜の木を透かして見える陽の光を見上げ、目を細めた。あまりにも正しく目映い気がして眩暈がした。情景にそぐわない気持ちしかやって来ないけれど、美しいものを美しいと感じられる心がまだあってよかった。
 柔らかい風で膨らむスカートをそっと手で抑える。

 よたよたと坂を下っていく。頭上には真昼の月が浮かび、寂しい一人の少女を見守っている。この道を今までに何度も通ってきた。もう飽きるくらい見慣れた情景だけれど、少し考え始めている。これから、あと何回ここを歩けるだろう。いつか、この道を懐かしいあの頃の一部として思い返す日が来るのだろうか。まだそんな実感はないが。
 小さな神社の前で足を止める。いつもは行き過ぎるだけで、境内に足を踏み入れたことはなかった。なんとなく気が向いて、立ち寄ってみた。さっと空気感が変わったような覚えがしたけど、折よく風が吹いたからそう感じただけかもしれない。広がった後ろ髪を手で撫でつける。
 今朝見た夢をありありと思い出せる。満員電車の中で、映画館の彼と再会する夢だった。至近距離で私たちは向かい合ってしまい、彼の表情をとてもじゃないが確かめられなかった。
 ――最近、映画館に来てくれませんね。
 声が降ってきて見上げると、すぐ目の前に彼の優しげな瞳があった。射すくめられて、頬が熱くなった。恋の微熱はまだ冷めていなかったのかと思うと、悔しい。
 ――私が来ていたこと、気づいていたんですか?
 すると、おかしそうに笑う。もっと見ていたい、そう思わせる笑顔だった。
 ――そりゃ、映画も見ずに、館内を覗いて帰るだけの人がいたら、気がつきますよ。
 恥ずかしさでどこかへ行ってしまいたかった。しかし、いつまで経っても電車は停車しそうにない。なぜ、こんなに駅が遠いの。
 睫毛の一本一本が見えた。鼻筋が窺えた。息遣いが、胸の上下とともに伝わってきた。あんなに焦がれていた彼が、今、文字通り目と鼻の先で存在している。手を伸ばせばその手を握れるほどに、背伸びをすればキスができるくらいに、揺れのせいにして思い切り抱きつけるほどに――。
 すべては夢で起きた出来事だったのだが。どこで目が醒めたのかは曖昧だった。もっと続きを見ていたかった、即座にそう望んでしまう自分がいて嫌だった。厭わしかった。遠ざけたかった。
 神社で手を打ち合わせ、お祈りをする。なにを願えば好いのか分からなかったけれど、お祈りすることでなにかが一つでも好転しますように。
 歌おう。
 足はさらに海へ向いた。
 狭い歩道を抜け、角を曲がった。大きな通りに出たことで、空と海の青が望めるようになる。それがだんだんと大きく映っていく最中、車道を挟んだ通りの反対側に見知った姿を見つけた。清楚感のある容貌でありながら、どこか読み切れないミステリアスな部分もある……そこにいたのは田口梨紗さんだった。
 彼女の方が先に気づいていたらしい。こちらをじっと見つめてくる。手を振り合う仲でもないが、お辞儀をするのも変な話だ。代わりに立ち止まって、応えるように見つめ返した。
 どのくらいそうした不自然な対峙を続けていたことだろう。視線を逸らしたのは田口さんだった。小さく笑みを浮かべて、左右を確かめてから、横断歩道のない車道を越えてきた。なにか用があるのかしら。私は近づいてくる彼女を待った。
「海に行くの?」
 近くで見ると、より大人っぽいと感じられる。落ち着いた色を浮かべているその瞳には、さぞかし私が子どもっぽく映っているのだろうな。
 頷き返すと、それなら私は遠慮しておこうかな、と呟いてから、「どうしてみんなの前では歌えなかったの?」
 心が冷え切ってしまいそうだった。クラスでの合唱練習の光景、叱責する八重樫さくらと青井ことりの顔、見て見ぬふりに徹するかつての友人の顔――真夜――それらがフラッシュバックのごとく甦る。ずっと昔のことみたいだ。
「分からない」
 声が掠れていた。緊張しているのかもしれない。「歌うつもりがなかったわけじゃない。といって、積極的に参加する気もなかった。結果として、声はまったく出なかった。それだけ」
 ふうん、と田口さんは質問しておきながら興味なさそうに応じた。「私、あなたの歌、好きだよ」
 自分でも意外に思うほどに、その言葉はかなり嬉しかった。心が踊った。どうしてだろう、田口さんにはどこかで惹かれていたからかな。自惚れが自意識の海で波に揉まれて溺れてしまいそうだった。
「歌は、ね」
「…………」
 溺れている場合ではなかった。
 そんなことを告げられても、黙っているしかなかった。喜びも怒りも悲しみも、いずれの感情もやって来ない。
「たまに二人で歌っている様子を覗かせてね。邪魔はしないから」
 それじゃ、と片手を上げて、田口さんは足早に離れていった。あまりに瞬間の出来事で、呆然とただ見送るだけだった。小さくなっていくその背中を見つめていると、なにか言葉を投げかけたい気持ちになったけれど、伝えたいものは浮かばなかった。
 再び、歩き出す。坂をさらに下っていく。馴染み深い匂いが鼻いっぱいに広がった。
 誰かに寄せる愛おしさは、行く末を想うと儚い美しい花に似ている。
 海が私に気づいて、微笑んだ。それだけで満足だった。私の中に彼女がいる確信が抱けた。近づいていって、視線を合わせた。あの日以来、どんな表情で海と向き合えば好いのか分からなくなって、だけど、それを理由にして向き合わないで済ますのは嫌だった。
 結局、こうしていつも通りここへ来て、私たちは寄り添う。それで好い。ほかはなにもいらない。
 ――私、あなたの歌、好きだよ。
 こんななんにもない人間の歌声でも、誰かの心を打つことがあるのだろうか。そうだったらいいな、と願いをかけながら、声を合わせて歌った。
 寂しくてひとりよがりで、だけど、少しの希望の火を灯す歌を。

 プールサイドにじりじりと日差しが照り付けている。あそこで目玉焼きを作れるのではないかな、と思いながら、お弁当の出し巻き卵を咀嚼する。口の中で汁がじゅわっと広がった。おいしい。最近は食欲が増してきている気がする。おいしいものをおいしいと感じられる喜び。
 プール脇のテントの下で一人、黙々とお昼ごはんを摂っている。日々になにかが萌したようでいて、実際は相変わらずこの調子。劇的な展開はそうそう起こらない。でも、今はこれで大丈夫。少なくとも今は。
 季節は夏に片足を突っ込んでいた。なにかに追われるようにして生活しているうちに、高校生活は終わってしまいそうだ。私はここになにを残せるだろう。胸を張れるものは一つもないけど、でも、好きなものは、執着できるものは見つかったかな。
 ――晏奈の将来の夢って、なに?
 そんな質問、誰かにされるとは思わなかった。海に問われた瞬間の私は、きっと奇妙なものを目前にしたような表情を浮かべていたことだろう。
 夢なんてなかった。そう遠くない未来死ぬのだと決めつけているうちに、夢を抱く余地が心からまったくなくなっていた。人間は終わりを過剰に意識してしまうと、将来の展望を描けなくなるものだ。
 答えられずにいる私を見つめて、海は肩を竦める。
 ――じゃあ、好きなものは?
 脳裏に、この一年あまりの出来事が次々に過ぎった。私はなにも残せなかったかもしれないけれど、だからといって、なにもしていなかったわけじゃない。せめて、まだ生きていようかなと思えるような存在は、常に傍らにあったのだ。深く考えていなかっただけで、その存在ってほんとうに貴重だ。
 ――私……私ね。
 ――うん。
 海の眼差しは優しい。
 ――好きなことを好きって人に言えないのは嫌だなって、そう思う。
 ――それじゃあ、晏奈の好きなことって?
 ゆっくり頷いてから、秘密を打ち明けるみたいにして答えた。
 ――私は歌が好き。歌うことが好き。将来のことなんてまださっぱり考えられないのだけど、でも、この感情は本物。
 そう思わせてくれたのは、私がほかの誰よりも愛している少女がいたから。
 将来の夢はまだない。もしかしたらずっと見つからないのかもしれない。それでも好い。今はこれで大丈夫。少なくとも今は。
 ――ねえ、海の夢は?
 ふと尋ね返してみると、海は照れ臭そうな笑みを見せて、俯いてしまった。
 ――私の夢、か。うん、あるよ。私はね……。
 そのとき、誰かの靴音が聞こえてきて、思考が中断された。だんだんこちらに近づいてきている。どうやら足音の主は一人みたいだけど。
 隠れるつもりはなかったから、傍らへ来るまで待った。はっきりとその姿が現れた瞬間、私は立ち上がって出迎える態を取った。
 瞳を見合わせ、相手の表情に緊張が走った。真夜がそこにいた。ずっと前なら、私のことをこんな目で見なかったというのに、もうすっかり慣れてしまった。逃げないで、と思った。背中を向けてしまわないで、と。いつか再び向き合わなければならないのだから。
「私……」言葉を発したのは私からだった。話さなくなってどれくらいの時が流れただろう。その間に、それぞれはどんな道を歩いていたのだろう。いつか交わる可能性を残しながら、無意識のうちに道を違える選択をした。「私、変わった?」
「変わった、って?」
 真夜は訝しげな顔を見せる。
「中学の頃と、なにか変わった? あなたにとって、私は以前の樋野晏奈ではなくなった?」
 以前とは異なる自分になってしまったから、真夜が仲よくしてくれなくなったのか。自分自身、なにかが変わったとは到底思えない。だけど、なにもなくてここまで隔たりが生まれるだろうか。
「変わってないよ」真夜の声は優しくならなかった。「変わってない。あなたはずっとそうだった」でも、といったん言葉を区切る。でも、変わったことが一つだけあるとすれば、大人の女になったかな、って思うよ。
 覚えず、まだ膨らみ切らない胸を押さえた。
「むしろ、変わったのは私の方。変わりたかったの。今までの地味な自分じゃ嫌になったの。でも、どうすれば好いのか分からなかった。見た目を変えようとしたって、性格を改めようとしたって、鏡と向き合えば、自分からいつまでも地味な自分が抜けきらないのが分かってしまう。その焦燥は、晏奈と向き合っていると、より強くなった。晏奈を見ていると遠ざけたい、嫌いな自分を突きつけられている気がした。どんどん一緒にいるのが厭わしくなって、だから、離れることを選んだ」
 ごめんね、とは言わなかった。謝られたら、その頬を思い切り張ってやろうと決めていた。
「よく分かった」
 私の声も優しくなれない。「もう、友達には戻れないんだね」
 だけど、心の中で考えていた。友達だった頃が確かにあったから、戻れないという現在があるのだ。私たちは友達だった。今は違う。それだけ。
 ふと気づまりになって横を見やると、プールの水が陽の光を受けてきらめいていた。それは太陽の合図。私は真夜の肩を掴んで、力いっぱい、プールへ向かって投げた。あまりのことで抵抗できなかった真夜は、派手な音を立てて水の中へと落ちた。水しぶきが上がる。
 水面からびしょ濡れの顔を出して、こちらを見つめてきた。怒りに燃えても、悲しみを宿していてもいなかった。無表情に、突然の衝動に駆られたかつての友人を見上げている。
 ポニーテールが水に濡れて首筋に張りついていた。馬の尾は目印だった。
「真夜!」
 歌うときみたいに、大きな声がしっかりと出た。彼女の名前を呼んでから、さよなら、と続けて叫んだ。もう二度と往生際の悪いものが胸を満たさないように。あの頃とこれからにちゃんと区切りをつけられるように。
 背中を向けて歩き出した。真夜はなにも言ってこなかった。早足でその場を離れた。だんだん堪え切れなくなって、走り出した。速く、速く、もっと速く。全身で風を受け止めているうちに、内側のもやもやとしたものは遠ざかってくれた。
 ようやく立ち止まって、息を整えながら、空を見上げた。薄ぼんやりと真昼の月が窺えた。注意して見なければあるかないか判然としないその円が、きっと私のしたことを捉えていたことだろう。
 海に会いたい、と思った。真昼の月なんかよりも海に会いたい。

          *

 あの夏のじりじりとした熱気も、海辺で全身を吹きすぎていった風の心地も、そんなすべてを昨日のことみたいに思い出せる。確かな体温を伴って。
 私は変わらなかった。高校生になって、ずっと心を締めつける糸を取り外せなくて、ときには自分からその締めつけを強くして――毎日、なにがそんなに不満だったのだろう。あらゆるものを受け入れられない現実だと嘆いて、遠ざけようと必死だった。
 でも、振り返ってなんでそんなに、と肩を竦めるのは簡単だ。そのときには、校舎の中で、あるいは海沿いのあの街で世界は完結していた。その日抱えた絶望は、すなわち世界の全貌なのだ。その日頬を流れ落ちた涙は、つまりは世界に降り注ぐ冷たい雨なのだ。
 いつ死んでも好いと思っていた。だけど、自ら死を選ぶことはできなかった、というより、積極的にはしなかった。怖かったのかもしれないし、それすらも気怠かったのかもしれない。どうあれ、私は生きた。あの頃は、だなんて言って思い返せるくらいになるまで、生きた。
 海との出会いはあった。光だった。その眩しさに、温かさに、すがりたかった。
 大学受験で忙しくなった秋冬は瞬く間に過ぎ、私の高校生活最後の記憶として、初春の光景が思い浮かぶ。出会いがあれば別れがある。
 別れのときに歌はつきもの。音楽はつきもの。

          *

 夢から覚めた瞬間のやるせなさは、どれだけ経験しても慣れるものではない。
 カーテンの向こうが明るくなっている。小鳥のさえずりが聞こえた。誰かは笑顔で、あるいは涙して、今日一日を始めている。
 起き上がって、目をこすった。また、眠りから覚めてしまった。また、新しい一日を迎えてしまった。どうしたって苦しむだけなのに、希望なんてとっくに潰えているのに、私はどうしようもなく日々を繰り返している。
 それにしても、いつにも増して気持ちが重たくってしょうがないのは、今日で一つの区切りがついてしまうからだ。あの通い慣れた校舎に、そこで出会ったさまざまな人たちに別れを告げる。別れが惜しいのではない。自分自身が変わらなかった事実を突きつけられるのが、ただただ厭わしいのだ。
 朝食を済ませ、出かける準備をする。入学式の日の私は、なにも考えていなかった。特別な感情は訪れず、無感動なままにスタートさせた。その果てが今日の卒業式だ。細く、長いため息を漏らしながら、家を出た。こうしてあの高校へ向かうのも、これが最後になるというのに、私は辛気臭い顔しかできなかった。
 伝統がどうこうとうるさい学校が嫌いだった。逃げ場の少ない学校が嫌いだった。立ち入り禁止の屋上が嫌いだった。登下校の時間、うちの生徒たちが通りを埋め尽くすのが嫌いだった。お嬢様を気取っている人が嫌いだった。楽しそうな笑顔が、はしゃいだ笑い声が嫌いだった。私を見下している八重樫さくらが嫌いだった。ほかの人には好い顔をするのに、私には冷たい態度しか取らない青井ことりが嫌いだった。かつての友情を捨てて、自分だけのうのうと過ごしている真夜が大嫌いだった。
 大きな校舎が見えてきた。垂れ幕には、ご卒業おめでとうございます、の文字が、でかでかと。
 ここから海は見えない。だけど、心で眺めてみる。頭痛のせいでなにも手に着かないときも、吐き気がこみあげてきてどうしようもないときも、泣き叫びたいときも、私はそこへ行っていたから。見えなくても、見える。
 私は、海が好き。嫌いなものは数えきれないほどあったけれど、海だけは、好きだって思える。
 学校が嫌い。街が嫌い。クラスメイトが嫌い。いつまでも願いを叶えてくれない夜空に浮かぶ星が、嫌い。
 海のことが――あなたのことが大好き。愛している。あなたと出会えて、あなたと歌を歌えて、ほんとうによかった。この想いを上手く伝えられる気はしないけど、だけど、私には歌がある。私たちには音楽がある。それにきっと気持ちは込められる。
 講堂の方からピアノの奏でる音が聴こえた。海が練習しているのかな。心地よくて、夢からずっと抜け出したくないと望むように、ここでずっと耳を傾けていたかった。
 胸に手を当てて、両目をそっと瞑った。

 卒業式が始まった。厳粛な雰囲気の中で、誰もがそれぞれの叫びたいほどの思いを押し殺して、静かに座っている。前方だけを見つめて、少しずつ展開する光景をじっと観察している。
 これまでのこと。高校生活はまったく無為のうちに終わろうとしている。それは仕方のないことだ。意識的にしろ、そうでないにしろ、私はこの三年間を自分で選んでしまった。招いてしまった。だから、後悔はない。後悔はないけれど、ただ、胸の満たされない部分は大きい。
 これからのこと。高校生活が終わりを迎えても、人生はまだ続くことになっている。いつ幕が下ろされるのか定かではないけど、少なくともぼんやりとでも先を見据えなければならないらしい。私は受験して、大学進学を決めた。行きたい、と強く望む大学は一つもなかったから、身の丈に合ったところを選択した、つもり。自分らしく生きられたら好い。
 私はもう少し生きようとしていた。海のおかげかもしれない。歌があったからかもしれない。臆病な心が生き止められなかっただけかもしれない。でも、そんなのなにも分からない。過去も未来も選べない。横たわっているのはいつだって「今」だけだ。私たちには今しかない。
 壇上に海が上がった。忙しく思考を巡らせていたのが、一点に集中する。彼女の一挙手一投足を見ていたかった。真剣な横顔も、よくアイロン掛けされた制服に包まれているその肢体も。あなたを見ていることが私の高校生活だったから。それしか残らない。
 ピアノに向かって座り、あるかなしかの間を置いて両手をすっと掲げる。瞬きした次のシーンでは、彼女が別れの歌を丁寧に弾いていた。心地好いメロディーが講堂を優しく包んでくれる。
 ときどき、海は、ほんとうはいないのではないかと思ってしまう。出会った気になっているのも、近しい関係になれたような気でいるのも、すべては妄想だったのでは、と。彼女はいつも眩しすぎた。彼女は私にとって、大きすぎてかえって幻みたいな希望だ。
 伴奏に耳を傾けながら、私は深く確信を抱く。そうだ、海は幻だ。海は希望だ。
 別れの歌が終わった。周囲からすすり泣く声がたくさん聞こえる。後輩たちの拍手の音がそれにかぶさる。立ち上がって一礼した海は、晴れやかな表情を浮かべて、この場で誰よりも寂しい少女を一心に捉えていた。私は恍惚とした思いを抱えてそれを見つめ返す。吸い込まれそうなくらい澄んだ、温かな色をしていた。
 一礼をした海はしかし、壇上に残ったまま、拍手が鳴り止むのを待っているようだった。そして潮が引いた瞬間に歌い出すみたいにして、また座り、ピアノに向かった。
 予定外の行動に、ずっと前の方では慌てた気配がする。生徒たちは歓迎する風さえあったが、講堂内は急に落ち着かなくなった。なにも分からなかった。海がいったいなにをしようとしているのか。少し離れた場所から眺めているしかなかった。
 心の間隙を縫うような旋律が、辺りをあっという間に静寂に返らせる。誰も知るはずのない美しい音の流れ。だけど、それを止めようとする人は一人もいなかった。海の演奏にはもっと聴いていたいと思わせる力がある。初めて会った頃から私はそれに魅せられてきた。
 前奏がもうすぐ終わって、最初の歌い出しに入る。この歌を知っているのは壇上のピアニストと、寂しさに打ちのめされた少女――私しかいない。どうしよう、どうすれば好いのだろう。過呼吸になりそうだった。高鳴る心臓の音がまるで耳のすぐ近くでしているみたいだった。頭が真っ白になって、とても冷静でなんかいられなかった。
 ふと、誰かの手が背中に触れた。最小限の動きでそれが誰か確かめると、なんとも言えない表情を浮かべて、田口梨紗さんがこちらを見つめていた。そうだ、彼女もきっとこの歌を知っている。そして背中を支えて、なにかを促している。言葉はなくともそれは分かった。
 お腹に手を当てて、深く息を吸い込んだ。見ていたものがすべて揺らいで目に映り、次の瞬間には霧散してもおかしくなかった。その揺らぎの中であの希望も、ほんとうにただの幻に変わってしまう――……。

          *

 大人になって、働くようになって、なにが一番変わったかといえば、目の前のことだけをこなそうとする癖がついたことだ。将来とか言って、遠い未来に思いを馳せてしまうともうだめだ。まるで今いるここが抗いようもない行き詰まりなのかと錯覚してしまう。
 談笑するかつての同級生たちの様子を観察していると、自然な笑顔を身に着けたけれど、今日ばかりは気兼ねなく過ごしたい、そんな願望が透けて見える。誰だってあの頃に戻りたくないけど、あの頃に戻りたいのだ。もう一度最初からやり直し、なんて絶対にお断りだけれど、ちらっと覗いてみたい欲求が存在するのはほんとう。
 ワイングラスを傾け、液体を喉に流し込む。ふわりと好い香りが広がった。さっきから誰とも話していないが、不思議と気分は落ち着いていた。それはきっと私が大人になったとかじゃなくて、ここに来て、あの頃に戻れたからだ。クラスの片隅で小さくなっていた自分。校舎を彷徨し、居場所を探していた自分に。こうして談笑している人たちを外から眺めていることで心安らぐ日が訪れるなんて、海に向かって歌っていた私は想像すらしなかったろう。
 ふと、ピアノの音色が聴こえてきた。明るい曲調の中にどこか哀切の響きが隠れていて、それでもこれは希望のメロディーだ。海だ。海が弾いている。
 高校の卒業式で、海が誰も知らない曲を突然弾き始めたあの日、私は大勢の前で――結局、歌えなかった。怖かったのかもしれない、面倒だっただけかもしれない。歌い手が現れない中、それでも海は弾き続けた。体を揺らして、ときにうっとりとした表情を浮かべて、優雅に弾き続けた。私だけではなく、そこにいた誰もが彼女に釘づけになっていた。
 あれが、私が好きになった海。あれが私の愛した音楽。
 弾き終わった海は十分な間を置いてから立ち上がり、再び観衆に向かって深々とお辞儀をした。そんな彼女に向けて、まばらな拍手が送られた。みんな、どこか圧倒されていた感があった。
 ほんとは、海は私に歌ってほしかったのだろうか。確かめられていない。三年を経て、なにも変われていないと諦めかけていた私に、そんなことはないと、教えてくれようとしたのだろうか。もし歌えたら、私は明るい気持ちで高校生活に終止符を打てたかな。周りの人間に賞賛され、関係性は少しでも改善したかな。
 でも、私はしばらくしてから考えた。あのとき、歌えなかったと後悔しかけたけれど、歌えないのが「ふつう」だ。そして、気づいた。私は「ふつう」でやれていた。あんなに欲しがっていた「ふつう」をいともたやすく手にしていたのだ。
 背筋を伸ばして、人の波を潜っていく。私を気にかける人なんて一人もいない。静かに、ゆっくりと音のする方へ導かれていく。
 その歩みが――私がここに至るまでの思い返しきれない歩みが、なにより、ふつうに生きてきた証拠。泣きたい夜もあった。だけれど、泣きたい夜ばかりではなかった。こうやって、懐かしいメロディーに頬を緩める瞬間だってある。
 たくさんの人に阻まれて、海の弾く姿はまだ見えない。でもきっと楽しそうに、情感たっぷりに弾いているだろうことは、容易に想像がつく。あの頃もそうだったから。海は私にとって知音だ。かけがえのない友だ。
 斜め上を見上げると、会場を彩る電飾が天井にさりげなく施されていた。祈りかけていたあの夜空の星みたいだ、そう思った。

海のプレリュード

海のプレリュード

クラスに馴染めず居場所のない晏奈は、放課後、一人でよく海に行った。言葉にできない胸の内でくすぶった思いを歌うために。そんなある日、一緒に歌ってくれる少女が現れる。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-09-26

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