名無しの島

フリーのルポライター、水落圭介はある出版社から、ある島に取材に行ったきり、
行方不明になった記者を見つけてほしいという依頼を受ける。その記者は古い友人でもあった圭介は、その依頼を受けることにした。だが、その島で彼は恐るべき日本の暗部と想像を絶する恐怖に陥れられるのだった。その恐怖の島の名は『名無しの島』
と呼ばれていた―――。

第1章 発端

第1章 発端

東京都千代田区一番町の通りに面する、8階建ての雑居ビルの
3階と4階のフロアにある出版社、草案社。
築40年を越える古びた雑居ビルだが、出版社や編集プロダクションの集まる
千代田区では、ごくありふれた建物だ。
その草案社が出版している、月刊ミスト編集部に水落圭介は呼ばれた。
水落圭介は現在30歳で、フリーのルポライターを5年やっている。
都内の私立大学文学部を卒業した後、
ある大手出版社のライターを5年ほど経験した後は、フリーに転向した。

いろんな雑誌から依頼があるが、月刊ミスト編集部の仕事も
その一つだ。月刊ミストは、国内外の不可思議な事件・事象など、
オカルト的なネタを主に売りにしている雑誌だ。
未確認飛行物体、いわゆるUFOから心霊現象、都市伝説に
未確認生物UMAなど、バラエティ豊かな内容の雑誌だ。
発行部数は12万部。部数は決して多くは無いが、コアなファンに支持されている。
この日も、何かの取材の依頼だろうと、水落圭介は思っていた。
月刊ミスト編集部は3階にあった。
水落圭介はエレベーターを使わず、階段を登った。狭い廊下を少し歩くと、
右手に月刊ミスト編集部がある。
鉄扉には小さな文字で月刊ミスト編集部とステンシルされている。
水落圭介は、その重い鉄扉を開けた。編集部は10平米ぐらいしかない狭さだ。
1フロアは十分な広さではあるが、他に5誌の雑誌編集部が、
パーテーションで仕切られていているためだ。
月刊ミスト編集部の机は4つ。その内、2つには男性編集者が座って、
パソコンを見つめながらキーボードを忙しく叩いている。

 くすんだ灰色の壁にはカレンダーやホワイトボードが置かれ
西の壁際には大きな本棚があって、
ミスト誌のバックナンバーや、資料と思われる書籍が整然と並べられている。
そして、一番奥まった窓際を背にして、
月刊ミストの佐藤編集長のデスクがあった。
デスクの上には使い込まれて、キーボードが所々黄ばんでいる
A4サイズのノートパソコン、
ペン立て、その他、取材ノートのような冊子が20冊以上も
積み上げられている。

最初、佐藤編集長は水落圭介の来訪に気付かず、
椅子に座ったまま、銀縁の眼鏡越しに、窓から見えるビル街を眺めていた。
紺のスーツに、よれよれにくたびれたグレーのネクタイ。
原稿の入稿前で徹夜でもしたのか、まばらに白いものが混じっている無精ひげが少し生えている。

「佐藤さん、水落です」
 水落圭介は佐藤編集長の背後に声をかけた。
佐藤編集長は少し驚いたが、椅子を半回転して圭介の顔を見て複雑な笑顔を
見せた。
見ようによっては無理に笑顔を作っているようにも見える。
 おや?と圭介は思った。普段の彼とどこか様子が違う。
佐藤編集長は身長175センチ、50歳を少し越えた男だが、
少々メタボな体型をはずせば、角刈りの髪は、定期的に染めているのか
黒々としており、
年齢相応の顔のしわはあるが、快活で昨今の根暗な若者より、
はるかにエネルギッシュで、バイタリティのあり、快活な人物なのだ。
その佐藤編集が、浮かない表情をしている。
仕事の依頼で、こんな顔をする編集長は初めてだ。彼らしくない。

「水落君、まあかけたまえ」
 佐藤編集長は、どこか暗い面持ちで水落圭介に対して、
デスク前の事務用チェアをすすめた。
圭介はそのチェアに座り、背もたれに仕事用のショルダーバッグをかける。

「ちょっと面倒な仕事になるかもしれないが、引き受けてくれないか?」
 佐藤編集長は開口一番、水落圭介の目を見据え、強い語気を込めて言った。
その言葉を聞いて、今までタイピングしていた二人の編集者の手が、
一瞬止まる。
圭介は背中に、二人の編集者の視線を一時いっとき感じた気がした。
どこかいつもの雰囲気とは違う。だが、二人はすぐに何事も無かったかの
ように、仕事の作業に戻った。

「はあ、それは仕事の内容次第ですが・・・
 僕にできるような仕事なら、喜んでお引き受けしますよ」
水落圭介は、その暗い雰囲気を払拭するような、努めて明るい声で言った。

「単刀直入に言う。実はある島に取材に行った記者が、
 2週間前から行方不明でね。
 その記者っていうのが、キミも知ってる桜井君だ。」
 佐藤編集長の口調は重い。両手を組み合わせて、
親指で眉間を擦っている。それは佐藤編集長が動揺している時のクセだ。

桜井章一郎のことはよく知っていた。何度か、取材にも同行したこともある。
彼は水落圭介と同じ30歳で、都市伝説などオカルト的なことが、
大好きな男だ。
特に未確認生物には造詣の深い男で、存在の可能性が高いと判断したUMAの
噂を聞きつければ、
日本のツチノコやヒバゴンは元より、世界各国どこでも取材に行く男だった。
過去にもアメリカおよびカナダの山岳地帯に生息するといわれる
ビッグフットやイギリス、スコットランドのネス湖に棲息するという
ネッシーなど誰もが知っている有名なものから、
モンゴル北部のゴビ砂漠の地下に生息しているというモンゴリアンデスワームという珍種?の取材に行ったほどのUMAフリークである。

 その点で言えば、この月刊ミスト編集部に就いたのはまさに天職を
得たというところだ。
その桜井章一郎が行方不明?2週間も?取材中に?いったいどこで?

「行方不明って、その島の場所はどこなんです?警察へは捜索願いを
 出したんですか?」
水落圭介は率直なことを訊いた。

「ああ、出したよ。でもその島って言うのが、
 遠方でね。地元の警察も積極的に動いてくれる気配は無い・・・」
 佐藤編集長はため息混じりに言った。

「でも、その島で行方不明になったんでしょ?だったら、
 レスキュー隊とか動かせるんじゃ・・・」
 水落圭介は少し前のめりになって訊いた。

「それがそうもいかんのだよ。
 そもそも桜井君がその島で行方がわからなくなったっていう証拠が無い。
 最後に連絡があったのは鹿児島県のホテルからでね」
 佐藤編集長は、また深いため息をついた。

「鹿児島・・・?それで、僕に桜井君の行方を調べてくれということですか?」

「そうだ。引き受けてくれるか?」
佐藤編集長は懇願するような視線を、圭介に向けた。
いつもお世話になっている編集長の頼みだ。水落圭介は無下に断ることは
できなかった。
それに行方不明になったのが、友人の桜井章一郎なら、
なおさら放っておけるはずもない。

「わかりました。やってみます」
 水落圭介は、ふたつ返事で応えた。

「そうか!ありがとう」
佐藤編集長は立ち上がって、圭介の両肩に手を伸ばした。彼の表情に、
わずかだが明るさが戻ったようだ。

「それで、その島の資料はありますか?」

「勿論だ」
佐藤編集長は傍らにある、うず高く積まれている資料の中から、
バインダーで閉じられた冊子を取り出した。
その拍子に、数冊の資料が床に落ちたが、佐藤編集長は気にも留めず、
言葉を続けた。

「これが桜井君に提出された資料のコピーだ」

水落圭介は手渡された資料をパラパラとめくった。
何枚かの写真もレイアウトされている。
どこかの漁港の写真と、遠目から撮影したと思われる例の島の写真だ。
その島の写真は、船上から撮影されたのか、左に傾いていた。
紺碧の波の彼方に、暗緑色の島影が写っている。
空はどんよりとした暗雲が垂れ込めている。
圭介は資料を見ているうちに、興味を持ち始めた。
その島の名前が奇妙だったのだ。

 その島の名は『名無しの島』と記されていた―――。

第2章 同行者

 水落圭介はさらに、資料に目を通していった。
それによると、その島は地元の人でも怖れて近づかない、無人島らしかった。
地元民が怖れる理由は、その島では、たびたび兵士の亡霊が姿が目撃され、
その姿を見た者の中には、生きて帰って来なかった者もいるということらしい。
その島には名前もついておらず、古来から『名無しの島』と呼ばれているという。

兵士の亡霊か・・・古臭いネタだな。
圭介は苦笑いした。こんな島に、なぜ桜井章一郎は興味を持ったのか?

「準備したいので、3日ほどお時間くれますか?」
 水落圭介は佐藤編集長に言った。
何があったのかわからないが、桜井章一郎が本当に『名無しの島』で消息を絶ったのなら、
一人で行くのは危険じゃないのか?
それは兵士の亡霊などという得たいの知れないもののせいではなく、
危険な生物だっているかもしれない。ならば、それなりの準備が重要になってくる。
それに一人で行くのは、桜井章一郎と同じ轍を踏むことだってあるかもしれない。
圭介は本能的にそう考えたのだ。

「ああ、十分な準備をしてくれ。キミまで行方不明になられちゃ、困るからな」
 佐藤編集長の言葉に、水落圭介は思わず笑った。

「冗談で言ってるんじゃないぞ」
佐藤編集長は声を押し殺して、諭すように言った。
そして彼の真剣なまなざしに、圭介は口を閉じるしかなかった。

「ああ・・・それと、同行者を二人連れて行ってくれ」
佐藤編集長は思い出したように言った。
机上の電話の受話器を持ち上げ、プッシュホンを押す。どうやら内線電話をかけているようだ。

「ああ、こっちに来てくれ」
 それだけ言うと、受話器を元に戻した。

しばらくすると、鉄扉が開いて、
「失礼します」と、女性の声がした。
圭介が振り向くと、一人の女性と若い男性が立っていた。女性の方は、なかなかの美人だった。
歳は20代半ばくらいだろうか。髪はショートカット。ジーンズに赤い無地のブラウス。
身長も女性にしては高い。170センチ近くありそうだ。圭介は彼女の足元に視線を落とした。
ハイヒールではなく、スニーカーだ。圭介も椅子を立ち、一礼する。

 もう一人は若く、新入社員のように思えた。
水落圭介も草案社によく顔を出しているが、彼には見覚えが無い。
背丈は小柄で、小太りだ。茶色のだぶついたカーゴパンツに、グレーのトレーナー。
トレーナーにはニューヨークヤンキーズのロゴが大きく描かれている。
黒縁メガネを丸い顔に、かけている。表情も固く、緊張しているようだ。

「彼女たちが同行者だ。有田君は帰国子女で、フェンシングをやっている
 スポーツマン・・・いやスポーツガールだ」
佐藤編集長が言うと、間髪を入れずに彼女の口が開いた。

「有田真由美といいます。弊社の写真週刊誌スクープ!で
 カメラマンをやってます。よろしくお願いします」
と頭を下げる。言葉使いは丁寧だが、圭介を見る視線は力強く、どこか勝気な性格が、恒間見えた。

「ぼ、僕は小手川浩といいます。今年入社したばかりです。よろしくお願いします」

圭介も簡単に自己紹介をした。そこで、圭介は疑問を感じた。
行方不明者が出ているかもしれない、危険な島へ彼のような新人を連れていっていいものかどうか。
圭介は無意識に、佐藤編集長のほうを振り返った。
その思惑を察したのか、佐藤編集長は水落圭介に向かって言った。

「新人を連れていくことに不安を感じてるんだろ?これにはふたつ理由があってな。
 ひとつは実践的な取材を経験してもらいたいことと、古手川君は近代歴史に詳しくてね。何か手がかりを
 見つけてくれるんではないかと期待してるんだよ」

 近代歴史?それと桜井章一郎の失踪したと思われる島と、どういう関係があるのか。
水落圭介は率直な疑問を、佐藤編集長にたずねた。

「近代歴史?それが何か関係してるんですか?」

「ああ・・・まだはっきりしたことはわからんが、その可能性も考慮してだな。
 詳しいことはそのファイルに目をとおしてくれればわかる」
 そう言って、佐藤編集長は言葉を濁した。

 それにしても・・・と水落圭介は思った。しかし、編集長の命令とあれば仕方あるまい。
圭介は苦笑いを隠して、うなづく。

「じゃあ、有田さんと古手川君の連絡先を
 教えてくれますか?こちらも準備がありますので。整いましたら、ご連絡します」
 圭介が言うと、二人とも名刺を差し出した。
圭介もあわてて、上着の内ポケットから名刺を2枚取り出して、有田真由美と小手川浩に手渡した。

 有田真由美が言う。
「名刺の裏に、私たちの携帯番号が書いてます」

名刺を裏返して確認した。それぞれの名刺の裏に、たしかに携帯電話の番号があった。
圭介は軽くうなづくと、有田真由美と古手川浩に言った。

「じゃあ、今日はこの辺で。後日改めてご連絡します」
水落圭介は、椅子の背もたれにかけてあった、ショルダーバッグを肩にかけると、立ち上がった。
佐藤編集長をはじめ、有田真由美と小手川浩に会釈する。そして月刊ミスト編集部を後にした。

第3章 冒険者井沢悠斗

草案社を辞去した水落圭介は、東京都目黒区にある、自宅マンションに帰った。
20平米ほどのワンルームで、事務所兼書斎兼居間でもある。
一人暮らし用の小さなキッチン、ユニットバス、東側の壁にはクローゼットがある。
仕事用のデスクには、21インチモニターとデスクトップパソコン。
南側には小さなベランダに続く大きな窓。
その窓際にはシングルの簡素なパイプベッドが置かれている。
フローリングの床には、資料や雑誌、様々な専門書などが、所狭しと積み上げられている。

 水落圭介は椅子に座ると、佐藤編集長から預かった桜井章一郎のファイルを
あらためて読んでみた。マルボロの箱から1本を取り出すと、ジッポライターで火をつける。

例の『名無しの島』は九州の鹿児島県から海を隔てて、南西約200キロの地点にある島だった。
北北東に20キロ、幅10キロほどの小さな無人島だ。
島の周囲は断崖が多く、地元の船でも座礁を怖れて、
安易に近づかないらしいと書いてある。
島自体は鬱蒼と茂った樹木や草木で覆われており、
大型の動物は生息していないらしいこともわかった。
ただ、ひとつ気になる記述もあった。地元の漁師やこの『名無しの島』に踏み入った者の中に、
全身灰色の怪物を目撃したという情報もあったのだ。
その怪物は体毛は無く、人間に近い姿をしているという。
 だが誰も住んではいない、完全な無人島だ。人などいるはずも無かった。
もしかしたら、第二次大戦中の兵士がまだ生きていて、それを誤認した可能性もある。
ただ、もしそうならば、少なくとも90歳を越えていることになる。そんな老人が、
孤島で生きていけるものだろうか?やはりそれは考えにくい。
 そして他には、『名無しの島』という名の由来は、
比較的近代になってから名づけられたことなど・・・。
水落圭介はそこで気づいた。佐藤編集長が今回の探索メンバーに、
小手川浩を加えたことを。たしか彼は近代歴史に詳しいといっていた―――。

行方不明になった桜井章一郎は、何を考えてこの島を取材しようとしたのか。
水落圭介は、パソコンを起動してインターネットでも検索してみた。
 驚いたことに、その『名無しの島』について、3万件以上ものヒットがあった。
そのほとんどが、兵士の亡霊の現れる心霊スポットとして取り上げられていた。
しかし、実際に『名無しの島』に上陸した者は、極めて少なかった。
 その原因は、地元の人でさえ恐れて、この島に近づこうとしないからだ。
島に行きたくても、連れて行ってくれる船主がいないのだ。
では、桜井章一郎はどうやってこの島に行けたのか?勿論、実際に上陸に成功していればの話だが。
 圭介は再び、桜井章一郎のファイルに目を落とした。数ページパラパラとめくる。
あるページで手が止まった。そのページの右端に、
桜井章一郎の自筆と思われるメモが、書かれていた。

 所沢宗一・・・とある。
メモを読むと、どうやら地元の漁師らしい。住所と電話番号も書いてある。
枕崎市の漁業組合に入っている人物らしい。
この人物が、桜井章一郎を『名無しの島』まで連れて行ったのだろうか?
桜井章一郎がもし、『名無しの島』で、本当に失踪したのであれば、その公算が高い。
水落圭介は自分の携帯電話に、メモされている所沢宗一の住所と電話番号、彼の所属している
漁業組合の連絡先も登録した。

 これは思った以上に、大仕事になりそうだと圭介は感じた。
野外での取材は、多く経験している圭介だったが、無人島での探索は初めてだ。
これは専門家の同行者も必要になる。それもできれば実践経験豊かなベテランがいい。
そこで、圭介の脳裏に、ひとりの人物が浮かんだ。
 その人物の名は井沢悠斗。年齢は36歳。
彼はエベレスト登頂やサハラ砂漠をオフロードバイクでの走破を成し遂げ、
アマゾン川流域では2週間に渡る冒険など、世界各国の砂漠、森林でサバイバル経験豊富な冒険家だ。
それらの冒険記の著書も多数出版されている。屋久島を取材した時には、圭介も同行してもらった。
彼も屋久島には何度か訪れたらしく、地元のガイド以上に詳しく、
そしてそのサポートも素晴らしかったことを覚えている。
それがきっかけで、たまに一緒に酒を飲みに行くほどの仲になったのだ。
彼が今回のチームに加わってくれると、心強い。

 壁にかけられた時計を見る。午後10時。まだ起きているだろう。
水落圭介は携帯電話を手にとって、タバコを灰皿でもみ消し、井沢悠斗に連絡をした。
何度かのコール音の後、繋がった。

「もしもし、井沢悠斗さんですか?」

「おう、水落君か、久しぶりだな」
井沢の元気な声が返ってきた。

「今、お話よろしいですか?ちょっと相談があって・・・」

「なんだ?かしこまって」
 おおらかな性格の井沢らしい、快活な声だ。

「実は草案社からある依頼を受けまして・・・」
 水落圭介は、これまでの経緯をかいつまんで話した。

「なるほどな。行方不明になった記者をね。で、その『名無しの島』っていうのは
 オレも噂で聞いたことがある。まぁ行ったことはないけどな」

「井沢さんも、その島をご存知だったんですか」

「ああ・・・なんだか亡霊が出るとか、一端島に入ると生きて帰れないとかの噂だな。
 だが、オレはそういうオカルト的な都市伝説を信じない性格でね。ははは・・・」
井沢はさも、面白そうに豪快に笑った。そして、言葉をつないだ。

「圭介君は、オレに同行してくれないかって思ってるんだろ?」
井沢はさすがに察しがよかった。

「そうです。お願いできますか?」
圭介の口調に真剣さが帯びる。

「ああ、かまわんよ。ちょうどオレも暇してたところだ」

水落圭介は、安堵に胸を撫で下ろした。浮き足立っているのが、自分でもわかる。
井沢悠斗が、今回の探索に同行してくれるなら心強い。

「じゃあ、ミスト編集部の佐藤編集長にもかけあってみます。
 その後、あらためてご連絡します」

「ギャラは出せるだけでいいよ。たかが小さな無人島だ。その行方知れずの
 記者がいたら、すぐ見つかるさ」
 井沢の言葉を聞くと、今回の仕事が簡単に片付きそうな気さえしてくる。

水落圭介は、井沢悠斗と簡単な打ち合わせをすると携帯電話を一端きった。
そしてさっそく佐藤編集長の携帯電話にかけようとした。
その瞬間、手に持った携帯電話が鳴った。
液晶画面を見ると、斐伊川紗枝からだった。
 彼女は水落圭介のカメラマン兼アシスタントを時々やってもらっている、
フリーのカメラマンだった。圭介は受信ボタンを押した。

『水落さん、水臭いじゃないですか』
 いきなり斐伊川紗枝の、若い女性らしい元気のいい声が聞こえてきた。

「何の話だ?」
圭介は面倒くさそうに訊いた。

「今日、スクープ編集部に、仕事の
 打ち合わせで行ったんです。そこで、ばったりと佐藤編集長に会いまして・・・
 聞きましたよ。『名無しの島』のこと』」
電話の向こうで、斐伊川紗枝のほくそ笑んでいる様子が目に浮かんだ。

「それで?」
圭介はあくまで素っ気無く応える。

「それで、私も同行させてくれませんかって
 訊いたら、ダメだって断られちゃった」

「そりゃそうだ。ピクニックに行くんじゃないんだぞ」圭介はため息をついた。

「でも、その島ってお化けが出る島なんでしょ?コアなオカルトマニアには有名だとか」

「だから何だ?オレは今、忙しいんだ」

「私も行きたいんです。その『名無しの島』に・・・」

「あのな、キミの分までギャラは用意できないんだ。
 それに若い女性には、体力的にも無理だと思うぞ」

「あれ?佐藤編集長に聞きましたよ。スクープ誌の有田真由美さんも
 同行するそうじゃないですか。だったら私にだって行けるでしょ?」

佐藤編集長・・・そんなことまで彼女にしゃべったのか。
圭介は思わず舌打ちした。

「来たいんなら勝手にしろ。だがギャラは出ないぞ。勿論、経費もだ」

「いいですよ、それでも。その島に入って
 写真でも撮れば、高値で売れるかもしれないし」斐伊川紗枝は嬉々とした声で答えた。

心にも無いことを―――金なんか目的じゃないだろう。圭介は心の中で毒づいた。
斐伊川紗枝は都内でも有名な資産家の娘で、高校卒業後、写真の専門学校を出て、
いきなりフリーのカメラマンと自称している放蕩娘だ。
カメラマンという仕事も、仕事半分遊び半分ということだろう。
今回の件だって、単なる好奇心がその動機に違いない。
彼女のルックスやスタイルは、アイドル並みに可愛いのだから、
撮る側ではなく、モデルにでもなればいいのに、と圭介は思っていた。今に時代だったら、
読者モデルとかなんとか、いくらでもあるじゃないか・・・。

「それじゃ、明日また連絡します。私も準備しますので」
彼女はそう言うと、一方的に電話を切った。

水落圭介は頭をかかえた。小さな無人島とはいえ、
若い女性がピクニック気分で行かれては困る。
また余計な厄介ごとをかかえてしまった。
斐伊川紗枝に情報を漏らした佐藤編集長を少しうらんだ。
しばらくして気を取り直して、佐藤編集長への携帯電話の短縮ボタンを押した。
冒険家の井沢悠斗が参加してくれることの連絡と、
斐伊川紗枝に今回の桜井章一郎の
探索の件を、斐伊川紗枝に漏らしたことの愚痴も言いたかった。

第4章 出発

 翌日、水落圭介は『名無しの島』へ行く準備を始めた。
部屋のクローゼットから、愛用の登山用大型リュックを取り出す。
中には食料品、飲料水以外は以前、
屋久島に取材に行ったときのままにしていた。
スェーデンのモーラ社製のナイフ。刃渡り20センチ、厚みは3ミリ以上ある
丈夫で、切れ味のいいものだ。これで薪さえ切れる。
それとスイス製のアーミーナイフ。
缶切りや爪やすりなどがついたキャンプの必需品。
それに深緑色のポンチョ。一人用の簡易テント。
寝袋。5日分の下着や靴下。
腕時計のベルトにつけた小型のコンパス。
消毒液、バンドエイド、包帯2巻きに胃腸薬と痛み止めなどを
コンパクトにパッキングした救急袋。
そして小型のマグライトと予備の単3電池6本。
トランシーバーも用意しようと思ったが、朝に井沢悠斗から連絡があり、
人数分用意してくれるそうだ。
乾パンなどの携帯食料や水などは、
今日中に近くのホームセンターで購入することにする。
『名無しの島』に湧き水があるとは限らない。
それで、ペットボトルの飲み口に取り付けるだけで、
海水さえ浄水できる簡易浄水器も持っていくことにした。
浄水できる量は10リットル。
ウエストバッグには財布やマルボロとジッポライター、
携帯電話を入れていくことにする。そこでふと考えた。
武器の類は必要だろうか?
『名無しの島』は心霊スポットだと聞いているし、
桜井章一郎のファイルの中にもそうあった。
そのファイルには地元の漁師や実際に島に行った人達の証言では、
何か大きな異様な生き物を見たというものもあるが・・・。
そこで思い直し、念のためにと
サバイバルナイフを持っていくことにした。

 少し不謹慎かもしれないが、
こういった冒険前の準備が一番ワクワクする。
『名無しの島』にどんな危険が潜んでいるかわからないが、
この高揚感だけは否定できない。
とはいえ、浮かれた気分を抑制しなければ・・・
と水落圭介は自戒した。

予定では『名無しの島』に5日間滞在することになる。
勿論、桜井章一郎が無事に見つかれば、早々に退散するつもりだ。
 だが、草案社の有田真由美と古手川浩は
それだけが目的ではないかもしれない。
桜井章一郎を見つけるのが最優先ではあるが、
ほとんど人を寄せ付けなかった『名無しの島』の
取材も兼ねていると、圭介は踏んでいた。

 佐藤編集長は、はっきりとは言わないが、
単なる桜井章一郎捜索だけを、
彼女らに命じてるわけではないだろう。
でなければ、冒険家の井沢悠斗のギャラまで
捻出するわけがない。
当の井沢は必要経費+αでいいと
快諾してくれたから良かったものの、
もし交渉が失敗していたら、
井沢悠斗抜きでも取材させるつもりだったのだろうか?

3日後、羽田空港に水落圭介をはじめ、
草案社の有田真由美、小手川浩、
そして冒険家の井沢悠斗の姿があった。
圭介はブラウンのカーゴパンツに上着は空色のトレーナー。
そして登山リュックにグレーのウエストバッグ。
靴は履き慣れたトレッキングシューズ。
有田真由美はベージュのチノパンに、
長袖の赤いギンガムチェックのブラウス。
それに登山用リュックに真新しいトレッキングシューズ。
首には望遠レンズの付いた一眼レフデジタルカメラを下げていた。
小手川浩は履き古したジーンズに、白い長袖のポロシャツ。
彼も大きな登山用リュックにトレッキングシューズだ。
井沢悠斗はオリーブドラブのBDUの上下を着ている。
BDUとは、バトルドレスユニフォームの略で、
主に軍隊などで使用されるものだ。
その生地はリップストップという破れにくい技法で造られている。
 リュックは彼と数々の冒険を共にした、使い込まれたグリーンの
大型のもので、ポケットが多く付いている。
荷物でいっぱいらしく、パンパンにはちきれそうだ。
頭にはウッドランド迷彩のハットを被り、
首には大型の双眼鏡を掛けている。
靴は丈夫そうなトレッキングシューズ。
さすがに皆、十分な装備でこの探索にのそんでいる。

 有田真由美と小手川浩は、井沢悠斗とは初対面だ。
互いに簡単に自己紹介をした。
4人は鹿児島空港行きの搭乗口に、揃って向かおうとした。
そこへ、女性の声が呼びかけてくる。斐伊川紗枝だった。
水落圭介たちの方へ駆け寄ってくる。

「ごめんなさい。遅れちゃって・・・」
紗枝は中腰になって膝に手を着き、肩で息をしていた。

「おい、本当に付いて来るつもりなのか?」
水落圭介が、斐伊川紗枝の顔を見て半ば呆れ顔で言った。

「水落さん、何言ってるんですか。一緒に行くって
 言ったじゃないですか」紗枝は口を尖らせた。

「でも、その格好・・・」
圭介は斐伊川紗枝のいでたちを見て、また呆れ返る。

 斐伊川紗枝は白っぽい短パンにピンクの半袖のブラウス。
肩まである長い髪は束ねてポニーテールにしていたが、
白い麦藁帽を被っており、
ハイカットのスニーカーを履いている。
リュックは遠足にでも行くような、
登山用リュックより一回り小さなものだ。
その上、リュックには『くまモン』の小さなストラップを
付けている。おまけに1リットルもないような、
これまたピンクの水筒を袈裟懸けにしていたのだ。
 水落圭介以外の3人に、苦笑がこぼれる。
ただ、小手川浩だけが、うれしそうに顔をほころばせていた。

「あのな・・・ピクニックに行くんじゃないんだぞ。
なんだそのかっ・・・」」
 圭介が腹立たしく、さらに言おうとした。
それを井沢悠斗が右手を上げてさえぎった。

「まあ、いいじゃないか。水落君。
 食料や飲料水はオレが多めに持って来ている。
 このお嬢さんの世話くらいできるさ」
 井沢は目じりに深い皺を残しながら、快活に笑った。

 斐伊川紗枝も井沢悠斗とは初対面だ。
圭介が彼を斐伊川紗枝に紹介した。
井沢悠斗も斐伊川紗枝に負けない快活な笑顔で彼女を歓迎した。

「え?あの有名な冒険家の井沢悠斗ですか?
 ご一緒できて感激です~」
 紗枝は目を丸くして喜んだ。圭介は、やれやれという感じだ。

 5人は無事、鹿児島空港行きの便に搭乗した。
約2時間の短い空の旅である。機内でも、
どこか緊張している水落圭介たち以外、
ちょっとした旅行気分の斐伊川紗枝だけがはしゃいでいた。
鹿児島空港に到着すると、水落圭介一行は、
一休みする間もなく先を急いだ。
空港から電車、バスを乗り継いで、
行方不明の桜井章一郎のファイルに書かれた、
彼の足跡をたどるように、5人は目的の漁港を目指した。

その漁港は鹿児島県の最南端にある、枕崎市にあった・・・。

第5章 長崎県最南端枕崎市へ

 鹿児島県枕崎市の漁港は、枕崎市自体の人口こそ少ないが、
南部に東シナ海を臨み、カツオの水揚げが
全国有数規模の枕崎漁港を持つ。
雲ひとつ無い晴天ともあって、潮風もすがすがしい。
目前には、かすかな白波を立て凪いでいる、
コバルトブルーの美しい海が広がっている。
その風景に、5人は旅の疲れが癒されたような気分だった。
水落圭介は事前に連絡を入れておいた、
漁業組合のある建物に向かった。他の4人も彼の後に続く。
漁期ではないらしく、魚河岸は閑散としていた。
人の姿もほとんどない。

 水落圭介は『枕崎市漁業組合』という縦看板がある、
2階建てのプレハブの建物の1階、事務所らしき入り口を見つけた。
アルミの横開きの扉を開ける。
室内には10ほどの事務机に、
同じく事務用の書類棚が整然と置かれていた。
その奥まったひとつの机に、
60代くらいの年配の男性が書類を整理している。

「あの~お電話差し上げました、
 東京から来ました草案社の水落ですが、
 所沢宗一さん、いらっしゃいますか?」

 水落圭介の呼びかけに、その年配の男性が顔を上げる。
彼は老眼鏡をはずして、圭介たち5人を見た。
その男は上下とも薄いグレーの古びた作業服姿で、
胸元のポケットの上には『枕崎市漁業組合』と
青く刺繍されていた。

「草案社?ああ・・・所沢さんね。聞いてますよ。
 ちょっと待っててください」
 その男性は受話器を手にして、プッシュボタンを叩いた。

「所沢さん?私だ、鐘ヶ江だ。
 東京から来た草案社の方がみえてるんだが、
 こっちにこれるかい?」
 鐘ヶ江と名乗ったその男性は、何度かうなづいた後、
受話器を置いた。

「所沢さんは、今、漁港で作業いているらしいんで、
 そっちに直接行ってもらえますか?」
 鐘ヶ江は、その方向を指差すが、
室内で方向を示されてもわかりづらい。

「所沢さんの船の特徴とか、わかりますか?」と圭介。

「この時間、作業してるのは所沢さんだけだから
 行けばわかりますよ。この建物を出たら、
 漁港沿いに左に行ってください」
 と素っ気無い返事だ。用が終わったなら、
さっさと出て行ってくれといわんばかりに、雑務の作業に戻った。
 水落圭介たち5人は、鐘ヶ江に礼を言うと
その漁業組合の事務所を辞去した。
建物を出ると、彼の言う通りに、左に向かった。
漁港には大小様々な、何隻もの漁船が浮かんでいた。だが、
どの船も港にもやっており、人気は無い。
波は凪いでおり、静かな波音を立てている。

「水落さん、あれじゃない?」
 そう言いながら指差したのは、有田真由美だった。

 彼女が指差した方向を見ると、確かに一人だけ、
漁師が漁船の上で投網をたたんでいる。
5人はその漁船に向かう。

「所沢宗一さんですね?」
水落圭介はその漁師に声をかけた。

その漁師は40代後半と思われ、いかにも漁師らしく
顔や腕は日に焼けており、ごま塩のような白髪交じりの髪を
丸刈りに刈り込んでいる。
服装はビニール製のサロペット―――
胸まである防水ズボンをはいていた。
上着は長袖の白い薄手のトレーナー
(ただ汚れやシミがまだらに付いて汚れている)。
そのトレーナーは前腕部まで捲り上げていて、
逞しく太い腕がのぞいていた。
投網をたたんでいたその漁師は手をとめて、
水落圭介の声に顔を上げた。

「ああ、オレが所沢だ。あんたか、
 東京から電話してきたのは」
所沢宗一は少し面倒くさそうに言った。
そしてまた投網をたたむ作業を再開する。

「ええ、水落といいます。
 それで所沢宗一さんの名前が、
 行方不明になった桜井章一郎の
 ファイルにあったもので。何かご存じないかと・・・」
 圭介は所沢宗一に訊いた。

「桜井だかなんだか覚えちゃいねえが、確かに何とかライターって
 言ってた奴を乗せたよ」口調は相変わらず、ぶっきらぼうだ。
 所沢宗一はたたみ終わった投網を、船上に置いた。

「・・・乗せたっていうのは、『名無しの島』へですか?」
 圭介の問いに、所沢宗一は顔を上げて、圭介を見た。
表情が一瞬険しくなったように見えた。

「かもな。で、オレに何の用だ?」
 所沢宗一は両腕を組み、圭介を睨むように言った。

「私たちを、その『名無しの島』まで
 乗せていってくれないかと・・・」
 圭介の言葉に、所沢宗一は目を丸くした。

「あんた、本気で言ってんのか?」
 所沢宗一が眉間に皺を寄せる。
そしてその目つきに鋭さが増した。

「勿論、タダとは言いません。これでどうですか?」
 水落圭介は腰に巻いたウエストバッグから、封筒を取り出した。
所沢宗一は漁船と港をつなぐ、
渡し板を歩いて5人のところまで来た。
圭介からその封筒を受け取ると、所沢宗一は中身を覗いた。
その表情に、わずかにほころぶ色が伺えた。

「行きが15万、そして5日後迎えにきてください。
 その費用が15万。どうです?」
 水落圭介は少し懇願するように言った。

「二往復で30万か・・・悪くねえな」
 所沢宗一は軽くうなづく。ギャンブルで借金している所沢にとって、
現金は喉から手が出るほど欲しいものだった。
 そんな事は露知らず、水落圭介は安堵に胸を撫で下ろした。
とりあえず、交渉成功だ。
とはいっても、その金は圭介のポケットマネーだった。
桜井章一郎救出と『名無しの島』の取材が成功したら、
草案社の佐藤編集長に請求するつもりだ。
ただ、素直に払ってくれるかどうか、心もと無いが・・・。

「えっと、領収書を用意してますので、記入をお願いします」
 圭介はそう言うと、ウエストバッグから領収書とペンを
取り出した。所沢宗一はそれらを受け取ると、書き込んだ。
圭介は所沢宗一に朱肉を渡して、母印を押してもらう。

「じゃあ、さっそく乗せていってくれませんか」
有田真由美が言った。

「無茶言うな。これだから素人は・・・今日は無理だ。
 燃料の補充や船の整備をしなくちゃならねえ。
 それに時間も遅い。今から行くと夜になる」
所沢宗一はあざ笑うかのように、右手を横に振った。

「こっちは夜でも構わないんですが・・・」
 それまで黙って、様子を見ていた井沢悠斗が、快活な声で言った。

「そっちは構わなくても、こっちは構うんだよ」
 所沢宗一の声は怒気をはらんでいた・・・それに怖れも。

「いいか、海図では『名無しの島』までは200キロ弱だが、
 島との間には暖流と寒流が交差していて、流れが速えんだ。
 だから大きく迂回しないと無理なんだよ。
 そうなると250キロの距離にもなる。天候次第だが、
 半日はかかる計算になるんだよ。
 それに夜にあの島に行くのは死んでもごめんだ」
 所沢宗一の険しい表情は変わらない。
だが、その目には怯えの色も浮かんで見える。

「他の漁師をあたっても無駄だ。あんな島に船を出す物好きは
 オレくらいしかいねえからな。
 それに、もうこの金はオレのものだ」
所沢宗一は30万円の入った封筒を、
サロペットの下に履いているズボンのポケットに
ねじ込みながら、自嘲気味に言った。

「海が凪いでいたら、船を出す。明日の朝6時にここに来い」
 所沢宗一はそれだけ言うと、渡し板を歩いて漁船に戻った。
その後は水落圭介たちに、一瞥もしなかった。

 水落圭介はため息をついた。
これから一晩過ごす宿を、探さなくてはならない。
落胆した5人は足取りも重く、枕崎漁港を後にした。

第6章 船上の人

 枕崎漁港の界隈には、ホテル・旅館などの宿泊施設が
わずか3軒しかなかった。
その中で飛び込みに宿泊可能だったのは、『葉山旅館』だけだった。
水落圭介、井沢悠斗、小手川浩の男性グループと、
有田真由美、斐伊川紗枝の女性グループとに分かれて、
それぞれ相部屋をとった。夕食は旅館が出した料理で済ませた。
そして男性グループの部屋に5人は集まり、
明日の行動を再確認することにした。

 8畳ほどの古びた和室。天井も低い。
蛍光灯も昔ながらの、吊り下げ型で、紐を引っ張って明かりを
点けるタイプだ。その部屋の中央に、
これも昔ながらの丸いテーブルがある。
ちゃぶ台というやつだ。その丸テーブルを囲んで、5人は座った。
 彼ら、彼女らは手にそれぞれ、旅館の1階にある
自販機から買ってきた飲み物を用意していた。
有田真由美はブラックの缶コーヒー、
斐伊川紗枝は350ミリリットルのオレンジジューズ。
小手川浩は水落圭介と同じ、微糖の缶コーヒー。
ただ井沢悠斗だけは違っていた。
彼の傍らにあるのは500ミリリットルの缶ビール3本。
それに、旅館の女将から、あたりめをつまみとして
分けてもらっている。
酒豪の彼にしては、控えめにしてあるほうだ。
明日は海を越えねばならない。
二日酔いは、さすがの井沢も楽ではあるまい。

「こうやって、丸いちゃぶ台を囲んでいると、
 まるで、アーサー王と円卓の騎士だな」
 さも、愉快そうにそう言うと、
井沢は1缶目のビールのリングプルを開け、一気にあおった。
他の者は、しばらく呆気にとられる。

小手川浩が缶コーヒーを一口飲んで、言った。
「僕なりに、『名無しの島』について調べてみたんです。
 ネットではマニアに有名な心霊スポットでありながら、
 実際に上陸した人はほとんどいないこと。
これまでに上陸に成功した人は、わずか7人。
 中には桜井章一郎さんのように行方不明になった人が他に3人。
 他の4人は島に入ってから、30分ももたずに逃げ帰ってるんです」

「逃げ帰ってる?」水落圭介は訊き返した。

「ええ、生還した人達は口々に、兵士の亡霊を見たとか、
 化け物を見たとか証言してるんです」
小手川浩の声には、好奇心と恐怖が入り混じって、
少し震えているように聞こえる。

「生還したとは、おおげさな表現だな」
井沢悠斗は笑みを浮かべながら言った。
早くも2缶目を飲み干して、ほろ酔い加減のようだ。
しかし、顔色はまったく変わっていない。
むしろ、小手川浩の話を面白がっているようだ。

「亡霊とか化け物とか・・・にわかには信じられないわね」
と有田真由美。現実の事件を扱っている、写真週刊誌スクープ誌の
記者だけあって、リアリティを感じないのだろう。
小手川浩は有田真由美に意見されて、少し押し黙った。
自分が調べたことを、否定されたような気分なのだろう。

「そもそも『名無しの島』っていう名の由来は何なんだ?」
 水落圭介は小手川浩の答えに期待するように訊いた。
小手川浩の性格は、他人に意見を拒まれると、
落ち込みやすいと思ったのだ。

「それはわかりません。もしかしたら地元の年配の人は
 知っているかもしれませんが。ただ・・・」
 それでも小手川浩は自信無さ気に、声を細めた。

「ただ?」圭介は小手川浩の意見を促すように言った。

「その無人島が『名無しの島』と呼ばれるようになったのは、
 70年ほど前からだそうで、
 それまでは文字通り名前も付いてない無人島だったそうです」

「70年前からっていうのが、何か意味あるのかなぁ」
 斐伊川紗枝がオレンジジュースを飲みながら、
体育座りで体を前後に揺らしながら、のん気な声で言った。

「まあ、とにかく真偽のほどは、その島に行けばわかるさ。
 そうそう、みんなにコレを渡しておくよ」
 井沢悠斗が自分のリュックの中から、
トランシーバーを5個取り出すと、みんなにそれぞれ1個づつ配った。

「操作は簡単だ。島に着いたらPOWERというボタンを
 押してくれ。そうすると電源が入る。
 そのままの状態でも2週間は持つ。
 チャンネルは11あるが、わかりやすく1チャンネルを使ってくれ。
 チャンネルの変更ボタンは、電源ボタンのすぐ下の矢印の
 アイコンがあるところだ。
 後は左横にある通信ボタンを押しながら話せばいい。
 携帯電話と違って、同時にしゃべれないから、
 話し終わった後に必ず『どうぞ』と言うこと。
 ボリュームの操作は丈夫の左側にある、
 ツマミをひねれば調節できる。簡単だろ?」
 井沢悠斗は実際に、トランシーバーを操作しながら説明した。

「わぁ、本当に探検みたい」
 斐伊川紗枝はトランシーバーを手にとって、はしゃぐ。
緊張感ねえな、この娘・・・。
圭介はまた、ため息をついた。

「話し続けても72時間は大丈夫だから、これで十分だろう。
 ただ、山や丘を挟むと通信距離が短くなる。
 平野だったら10キロは通信可能なんだが・・・
 といってもチームを分けて移動することは
 考えてない。小さな無人島とはいえ、
 ろくに地図もない孤島での個人行動は危険だからね。」
 井沢悠斗は言った。

「井沢さん、何から何まですみません」
圭介は井沢に軽く頭を下げて礼を述べた。

「水落君、これはこれでオレは楽しんでるんだ。実は、
 3ヵ月後に、またアマゾン川流域の探検に
 行くことになってる。今回の『名無しの島』に行くことは、
 オレにとってもその前哨戦・・・。
 勘を取り戻すいいシュミレーションなんだ」
 井沢悠斗は快活に笑ったが、すぐ真顔になった。

「とはいえ、これは桜井さんを救出するための探検だ。
 決して遊び半分でやる気はない。
 なにしろ人命にかかわることだ。
 だから、オレも本気で取り掛かるつもりだ」

 井沢の言葉に、水落圭介は心強く思った。早くも、
この冒険が成功したような気さえする。

「それで島に着いたら、まず何をすればいいんですか?」
 と小手川浩が井沢悠斗に訊いた。井沢は彼にだけというよりも、
その場にいるメンバー全員に語りかけるように言った。
手には水落圭介が渡した数枚の島の写真を扇状に開いている。

「この島の写真から見ると、ほどんど切り立った崖になってる。
 島の内部に登って入れる箇所は
 限られてるだろう。それは明日、漁師の所沢さんだっけ?
 彼に直接訊くしかないだろうな。
 何とか島の内部に入れたら、まずはベースキャンプを造る」

「ベースキャンプ?」聞き慣れない言葉なのか、斐伊川紗枝が問いかける。

「ああ、安全な場所を見つけてそこにキャンプを張る。
 そこを拠点にして、桜井さんの手がかりが見つかった時や、
 不測の事態が起きたら、その場所へ戻ることだ。
 5人がはぐれないようには留意するが、
 もしはぐれたらベースキャンプに帰ること。
 だからベースキャンプの場所は皆が、
 きちんと把握しておくことだ」
 井沢悠斗は真剣なまなざしで説明した。

 簡単な作戦会議の後、それぞれに自分の部屋へ戻った。
すでに夜半過ぎの時刻だ。明日は早い。水落圭介たち5人は、
高揚した気分のまま、寝床に入った。

 翌朝早く、5人は『葉山旅館』を後にした。空を見上げると、
昨日とさして変わらない晴天だ。
そしてタクシー2台に分乗して、枕崎漁港へと向かう。
所沢宗一の漁船は、昨日と同じ場所にもやってあった。
そして彼の姿も船上にある。
5人はタクシーを降り、トランクからそれぞれの荷物を取り出すと、
所沢宗一の漁船に向かった。
水落圭介が所沢に声をかけると、無粋な返事が返ってくる。

「ぼやぼやするな。早く乗れ。今から向かえば、
 午後には島に着く」相変わらず、浮かない顔をしている。

 今思えば・・・この時勇気を出して、
この冒険を中止すれば良かったのだ。
地元警察に粘り強く交渉して、桜井章一郎の救出を頼めば―――。
だが、真剣にそう思ったのは、ずっと後になってからだった・・・。

 所沢宗一は碇を揚げた。
漁船のエンジンが勢いよくうなり始めた・・・。
水落圭介をはじめとする5人は、船上の人になった。

第7章 垂れ込める暗雲

 所沢宗一の漁船『はやぶさ丸は』白波を掻き分けながら、
順調に進んだ。カツオ漁に使われている船とはいえ、
所沢宗一の船は大型ではない。
そのためか、時おり大きく上下に浮き沈みした。
水落圭介と井沢悠斗はリュックを降ろして、
船の後部にあぐらをかいて座っていた。
枕崎漁港は次第に小さくなり、そして視界から消えた。
有田真由美と斐伊川紗枝は、操舵室の側面にいた。
真由美は操舵室にもたれかかるようにして、海を見つめている。
斐伊川紗枝は船のへりにつかまって、
海風に長い髪をなびかせている。

 枕崎漁港を発って、まだ2時間もたたないうちに、
小手川浩は船酔いをしたようだ。
時おり、船のへりに手を掛けて海へ嘔吐していた。
水落圭介は見かねて、小手川浩に呼びに持っていた酔い止めの薬を渡す。
有田真由美は、そんな醜態をさらしている小手川浩を冷めた目で見ていた。
確かに、船での半日がかりの道のりだ。
酔い止めの薬くらい、事前に飲んでおくのは当たり前だろう。

水落圭介は立ち上がると、操舵室に向かった。
操舵室では所沢宗一が、相変わらずの不機嫌な顔で、
くわえタバコをふかしている。
圭介の方を、一瞥もしない。

「何か用か?」
視線は真正面に見据えたまま、所沢宗一は言った。

「例の島ですが、どうして『名無しの島』って
 呼ばれるようになったんです?」
 圭介は訊いた。しかし、所沢宗一は無言のままだ。

「あの・・・」
 圭介が言いかけた時、
それをさえぎるように所沢宗一が口を開いた。

「その話はしたくねえ・・・」
 とりつくしまも無さそうだ。水落圭介は、
あきらめて操舵室から出ようとした。
そんな彼の背中に、所沢宗一の声が聞こえた。

「オレの爺さんの頃から、そう呼ばれ始めたらしい」

圭介は立ち止まり、振り返った。

「お爺さんの頃・・・?」
 所沢の年齢からして、祖父の時代というと、
70年から80年前くらいか。
小手川浩が言ってた頃とほぼ一致する・・・。

「なんで、急に話す気になったんです?」
 圭介は率直な疑問を口にした。

「わかんねえけどよ。嫌な予感がするんだ。
 あんたらに教えておくことは、
 言っておかねえと後悔するような気が・・・」
 所沢宗一がほんの一瞬、水落圭介と目を合わせた。

言っておかなければ、後悔する?何だ縁起でもない。

「何か意味があるんですか?『名無し』って言葉に・・・」
 圭介はこの時しかないと思い、
できるだけ情報を聞き出そうと思った。
桜井章一郎のファイルやインターネットでは手に入らない、
現地の生の情報が欲しいのだ。
地元の人間なら、本物の情報が得られるに違いない。

「さあな。意味なんて知らねえ。ただ、あの島に好き好んで
 上陸した奴は、こぞって半狂乱になるほどの怖ええ目に
 あってる。オレが乗せた連中で、生きて帰った奴らはな」
 その時のことを思い出しているのだろうか。
海原を見つめる所沢宗一の両目が、強張ったように細くなる。
その両のまぶたは小刻みに震えていた。

「生き残ったって・・・やはり行方不明者がいるんですね。
 なぜ、地元の警察は動かないんですか?」

「警察もちゃんとした事件じゃねえと、動かねえよ。
 捜索願いも出ているようだが、一回だけ『名無しの島』の
 周囲を巡視船で回って呼びかけただけだったな・・・
 これはオレの勘だけどよ、
 上からの圧力がかかってんじゃねえかと踏んでる」

「上からの?政府からってことですか?なぜ・・・」

「さあ、そこまでわかんねえよ」
所沢宗一は再び、無粋な顔つきに戻った。
だが、彼は再び言葉をつないだ。

「だいたいあの島の周辺は、政府から立ち入り禁止区域に
 指定されてるんだよ。どうしてか理由はわからねえが・・・。
 そんなわけもあって、
 『名無しの島』に行きたがる船乗りはいないんだ」

 立ち入り禁止区域?ただの無人島が・・・?
水落圭介は『名無しの島』に、
何かしら大きな秘密があるのではないかと感じた。
日本政府が本当に圧力をかけていれば・・・の話だが―――。
所沢宗一は、漁船の操舵を握り締めたまま、それなり黙りこくった。
握り締めた彼の両手には力がこもっているように、
いくつもの血管が浮き彫りになっていた。
もうこれ以上、話すことはないとでも言うかのように。
水落圭介はあきらめて操舵室を出て、船尾に戻った。


数時間後、『はやぶさ丸』の操舵室から、
所沢宗一の大声が聞こえてきた。

「島が見えてきたぞ!」

 水落圭介ら5人は船首の方を見た。
その先には、薄っすらと小さな島影が見える。
その島の姿は松井章一郎の残したファイルにあった
写真と同じだった。豊富な樹木に覆われた島のはずだが、
黒く染められたシルエットのように見える。
いつの間にか、晴天だった空には、暗雲が低く垂れ込めていた。

第8章 上陸

「さっきまで、いい天気だったのに~」
斐伊川紗枝のぼやく声が聞こえた。
 まだ、ピクニック気分なのか。水落圭介は苦笑した。
こっちは天候を理由に、港に引き返すと所沢宗一が言いかねないと思い、
内心ひやひやしているというのに。

次第に島の全体が見えてきた。幅500メートルほどの
こじんまりした海岸が見える。さして奥行きはないが、
きめ細かい粒の砂浜だ。漁師からも怖れられている、
『名無しの島』のイメージとはそぐわないな、と圭介は思った。
ただ、その海岸以外は断崖が続いている。
まるでこの島自体が人の来訪を拒んでいるかのようだ。
 島はその中央を頂点に、なだらかな斜面を左右に広げている。
見たところ、西側が幅も狭く急な感じだ。
それに比べて東側はゆるやかな角度を描いている。
その島全体を、南の島らしい、うっそうとした樹木が、
場所を奪い合うように繁茂している。
先ほどより、『はやぶさ丸』が左方向に傾き始めたように感じる。
確かに潮の流れは速そうだ。船は大回りして、島の裏側へと回り込む。
気になった水落圭介が、操舵室の所沢宗一に声をかけた。

「どうして、大回りするんです?」

 その質問に、所沢宗一は面倒臭そうに答える。
数本目かのたばこの吸殻を、
右手の親指と人差し指で海に弾き飛ばす。

「この島はな、南東に大きな岩棚があるんだ。
 下手に近づくと、座礁しちまうんだよ。
 逆に北西には、そんな浅瀬は無え。
 それにおあつらえ向きな岩場があってな。
 天然の船着場になってんだ。といっても、
 この島にまともに船付けできるのは、
 そこしかねえんだけどよ」
 所沢宗一はそう言うと、
上着の胸ポケットからショートホープの箱を取り出すと、
手首のスナップを効かして1本を抜き出した。
その1本を口にくわえると、100円ライターでチェーンスモークする。

「なるほど・・・」
 圭介は、所沢宗一の説明に納得した。

 それから2時間近くかかって、
『はやぶさ丸』は島の裏側へ回りこんだ。
水落圭介は空を仰ぎ見た。前よりさらに、暗雲が低くなったようだ。
そんな圭介が不安げに見えたのか、操舵室から所沢が声をかけた。

「この島に来るとよ、決まって天気が変わるんだ。
 こんなどんよりとした天気によ。まあ、偶然だと思うがな」

『はやぶさ丸』は『名無しの島』に北西から近づいた。
そこで水落圭介は目を見張った。
南東の方角から見た光景とは、まるで違う。
島を巨大なフォークで切り裂いたように、
斬り立った断崖が続いている。
 おそらくは波による侵食だとは思うが、その姿は
『名無しの島』にふさわしい、不気味な雰囲気だった。
こんな険しい断崖のどこに、船を付けられる場所があるのだろうか。

「見る角度によって、まったく違う顔をしてるんだな。
 この島は・・・」
 そう言ったのは井沢悠斗だった。いつの間にか、
圭介の傍に井沢が立っていた。
彼も水落圭介と同じように、
この島の異様な雰囲気を感じとっているようだ。
井沢は首に掛けていた双眼鏡を島に向け、接眼鏡に両目を付けた。

「それに、かなり深い森林だ。
 小さな島なのに、植物の多様性も多い。
 アマゾンのミニチュア版だな」

 井沢悠斗は双眼鏡から目を離すと、水落圭介に笑いかけた。
その表情には、楽しんでいるような色が浮かんでいた。
さすがは数々の冒険を成し遂げてきた人だと、
圭介は思う。他の3人・・・有田真由美と小手川浩、
そしてあの能天気と見える斐伊川紗枝ですら、
この『名無しの島』の圧倒されるような
不気味さに感化されているのか、
どの顔も怯えに似た表情をしている。
何度もこの島に訪れているはずの、
所沢宗一さえも不快な顔色を隠せずにいる。
そんな中で、井沢悠斗だけが、
この探検に胸を膨らましているように見えた。

 『はやぶさ丸』は、一見、断崖だらけの方向に向かっていく。
水落圭介は操舵室の所沢宗一を見る。彼は何の躊躇も無く、
船首を断崖に近づけていく。
島に接近するにつれ、波は上下左右に荒くのた打つ。
船も大きく揺れて、どこかに掴まっていないと転倒しそうだ。
しばらくそんな航行を続けていたが、
突然、それまでの荒波が嘘のように静まり返った。
船の真下は海底までの深度が大きいのか、
『名無しの島』の岩場の付近は凪が穏やかだった。
所沢宗一は、『はやぶさ丸』の側面を、平らな岩場ぎりぎりの所まで
横付けした。そして、操舵室から出ると、碇を降ろした。

「それで、あんたらを迎えに来るのは何時間後だ?それまで、
 この辺りを流しておくからよ」
 所沢宗一はぶっきらぼうに、水落圭介に訊いてくる。

「あの5日後のこの時間に来てもらえますか?」
 そう言いながら、圭介は腕時計を見る。
午後2時を少し回ったところだ。
その返事を聞いた所沢宗一は、呆気にとられた顔した。
くわえたタバコを落としそうなほど、口を半開きにしている。

「おい、正気か?この島に5日間も・・・」

「ええ、桜井さんを探し当てるのに、
 それぐらいはかかると考えてますので」
 水落圭介は言いながら、背後の断崖を見渡した。

「正気の沙汰じゃねえ・・・。やめとけ、そんな無茶は」
 所沢宗一の口調は一変して、説得しているように聞こえる。
それに気のせいか、その声音は震えているようにも感じた。

「お気遣いはありがたいのですが、私たちも仕事で来てますので」
 そう言ったのは有田真由美だった。

「勝手にしろ」
 所沢宗一は言いながら、岩場まで渡し板をかけて、
船を早く降りろと顎をしゃくった。
5人はリュックを背負うと、
『はやぶさ丸』から渡し板を慎重に歩みながら岩場に渡った。
岩場に渡ると、無数のフナムシが這いずり回っていた。
斐伊川紗枝はそれを見て、小さい悲鳴を上げた。
やれやれと水落圭介は、呆れ顔で思った。この程度で動揺していては
この先、思いやられる。

「では、5日後のこの時間に、迎えをお願いします」
 水落圭介は念を押した。

「それまで、あんたらが生きてたらな・・・」
 所沢宗一が、水落圭介たちに背を向けながら小さな声でつぶやくのを、
圭介は聞いた。

 所沢宗一は碇を揚げた。
後は水落圭介たち5人の姿を振り返ることなく、
『はやぶさ丸』は島から離れだした。
見る見る『はやぶさ丸』の船影は小さくなっていく。
圭介は急に心細さを感じ始めた。
本当にこれで良かったのか。この選択に後悔することはないのか・・・。

「さて、早速出発しよう。時期に夜になる。
 まずはベースキャンプの場所を探さないと」
 井沢悠斗の力強い声が、背後から聞こえた。

第9章 蠢くもの

 まだ、夕刻には早いというのに、辺りは薄暗く感じる。
陽光に照らされ、船上にいた時には濃かった姿を
作っていた自分たちの影はかすんで、
岩棚に映ったそれは、ほとんどその輪郭が判別できない。
それに、いままで気づかなかったが、
5人の誰もがかすかに生臭い風を、嗅覚と肌に感じた。
 井沢悠斗は周囲を見渡した。一見、どこも断崖にしか見えない。
素人目には、とても登れるような所は見当たらなかった。
しかし、彼の視線はあると場所で止まる。

「あの岩棚なら登れそうだ」
 井沢悠斗はその方向を指差す。水落圭介たち4人は、
井沢悠斗が言う所に目を凝らした。
確かに、30メートルほど先、
鋭利な刃物のような岩礁の陰に隠れるように、
その場所だけ緩やかに島の上に伸びる岩棚がある。
といっても、傾斜は40度近くはあるし、
高低差は10メートル以上ありそうだ。
5人は岩礁を慎重に飛び越えながら、その場所を目指した。
重いリュックのストラップが肩に食い込む。
その岩棚に着くころ、井沢悠斗以外の者は、すでに肩で息をしていた。
 その傾斜を見上げると、上から1本のロープが下がっている。
だが、潮風や干潮時の波に浸食されたのか、
そのロープは灰色にくすみ、ボロボロになっている。

「たぶん、今までここに来た連中も、ここから登ったんだな。
 だが、このロープは使えそうにないな。今にも千切れそうだ」
 井沢悠斗はそう言うと、担いでいたリュックを降ろした。
プラバックルをはずし、丈夫そうなクライミングロープを取り出した。

「オレが先に登って、ロープを掛ける。
 キミたちは、それをつたって登るといい」
 井沢悠斗は振り返ると、背後の4人に言った。
遠くから見るとそれほどでもない傾斜に思えたが、
いざ目前にしてみると、上がどうなっているのかさえ見えない。
井沢悠斗は4人それぞれに、ハーネスとソロエイドを渡した。

「岩場にボルトを打ち込んで、カラビナをかけるから、
 そのソロエイドを引っ掛けながら登るんだ」
 井沢悠斗が簡単に、それらの使い方をレクチャーした。
しかし、斐伊川紗枝は、なかなか要領がつかめずにいた。
やはり、初心者を連れてくるべきではなかったと、後悔した。
時間がかかり過ぎている。水落圭介は腕時計を見る。
すでに午後3時になろうとしていた。
もうすぐ陽が傾く時間だ。井沢悠斗が岩場を登り始めた。
手馴れた手付きで岩肌にボルトを打ち込み、
カラビナを取り付けていく。それは素早い動きだった。
わずか十数分で、最上部にたどり着く。
それから岩場を蹴りながら、降りてきた。

「最初は水落君、その後は有田さん、小手川君、斐伊川さんの順で
 登ってくれ。オレは最後尾に追いて斐伊川さんのサポートをする」
 井沢の言葉に、4人がうなづく。

 水落圭介も井沢悠斗ほどではないが、クライミングの経験はある。
それもこの程度の高さなら、さして難しくは無い。
有田真由美もまた、経験を積んでいた。
それはカメラマンとして、必要なスキルでもあった。
問題は、初心者の小手川浩と斐伊川紗枝のふたりだ。
小手川は小太りではあるものの、やはり男だ。
自分を支える筋力を十分に持っていた。やや、手間取りながらも、
有田真由美に続いて、岩場を登りきった。
斐伊川紗枝は、ときおりナイキのスニーカーを滑らせながらも、
井沢悠斗が、その背を支えてくれたおかげで、無事登りきった。
それでも彼女は、登り終わった雑草の繁茂する地面に座り込み、
井沢悠斗以外は皆、息が上がっている。

 水落圭介は、深呼吸した。周囲を見渡す。背後にある森は薄暗い。
息が詰まるくらいの酸素の濃さを感じるほど、樹木がうっそうとしている。
その植物群落の植生は極めて豊かだった。
フクギやガジュマルなどの、沖縄に馴染み深い樹木、デイゴ、
ブーゲンビリアと見られる花木もある。
そして地面には、隙間も無いほどの雑草やコケ類に覆われている。
圭介は空を見上げた。さらに薄暗く感じるのは、
曇っているからだけではない。
たとえ晴天でも、この繁茂する樹木の下では、
陽光もほとんど差さないだろう。

 まるでジャングルだ―――。
水落圭介の印象は、まさにそれだった。

「無人島の名に相応しい、まさに前人未踏の地って感じだな」
 井沢悠斗は、にこやかに言った。気のせいか、
彼の瞳は輝いて、嬉しそうにさえ見える。
井沢はリュックから、マチェット―――山刀を取り出した。
刃渡りは50センチほどの刃が、鈍く光った。
小手川浩や斐伊川紗枝の目が、怯えたように丸くなる。

「ははは・・・これは藪を切り払うためのものだよ」
 井沢悠斗が、マチェットを目線上に掲げて笑う。
その言葉通りに、井沢は行き場を妨げる雑草を切り払いながら、
森の中に入っていく。
4人は慌てて、リュックを背負い直すと、井沢悠斗の後を追った。

「日が暮れるまでには、キャンプできるところを見つけないとな」
 井沢悠斗が誰に言うでもなくつぶやいた。
こんな森の中にテントを張れる場所など、本当にあるのだろうか・・・。
圭介の心に、一抹の不安がよぎる。

 その時だった。音がしたのは・・・。
その音は、樹木が風に仰がれる音とは、あきらかに違っていた。
何かが動く音。いや、這う音か・・・。
圭介が耳にした音は、森を歩む一行の右手側、より森の深い方向からだった。
井沢悠斗も、その音に気づいたようだ。
水落圭介が送る視線と同じ方を見やっている。

「何か動物がいるんだろう」
 井沢は笑顔でそう言ったが、はて・・・と自分でも思った。
彼は経験から、音の種類で大体の動物の大きさがわかるのだが、
今の音は小動物のそれとは違った。少なくとも体重70キロ以上のものだ。
 こんな小島に大型の動物などいるはずもないのだが・・・。
井沢悠斗は少しの間、振るうマチェットを止めて耳を澄ます。
だが、音はもう聞こえない。
気のせいか・・・。井沢は少し首を傾げたが、
猪か鹿の類だろうと判断した。
そして、再び前進を始める。
 しんがりを歩く小手川浩は、木々の間から何か動く影を見た。
それは少し前かがみになり、這うように移動している。
だが、陽光のささない薄暗い、
この森の中ではその姿ははっきりとはわからない。
しかも、太い木々が邪魔になって、
途切れ途切れでしか、その姿は見えない。
そのせいで、その動物らしきものの全体像を
伺い知ることはできなかった。

 あんな大きな動物もいるんだ、と小手川浩は思った・・・。

第10章 異形の影

 水落圭介は腕時計を見る頻度が、増えていた。
まるで、地下鉄のホームにいる時みたいだ・・・
次の電車は何時だ?とでもいうように。
水落圭介は、そんな自分を苦笑いをする。
 井沢悠斗を先頭に森を進む一行は、
いつ終わるともわからない歩みを続けていた。
水落圭介自身も、疲労がつのっていた。
日頃からジョギングやジムで体を鍛えるように心掛けてはいるが、
舗装路と起伏の激しい場所とでは、疲労感がまるで違う。
アウトドアの経験がほとんどない斐伊川紗枝はもとより、
有田真由美や小手川浩も、その表情に疲労の色を濃くしている。
とはいえ有田真由美はカメラマンだ。
時々、足を止めては周囲の森林に
一眼レフのデジタルカメラを向けて撮影していた。

圭介は再び腕時計を見た。午後5時近い。
まだ2時間しか経っていないのか。
所沢宗一の『はやぶさ丸』から降りたことが、
はるか昔にさえ感じた。あと1時間もしないうちに日没になるだろう。
水落圭介の不安は増すばかりだ。
 森の中はさらに暗くなった。目を凝らさないと、行く先も見えない。
雑草や蔦に重い足をとられながら、なんとか体を運ぶ。
5人とも無言だった。時おり聞こえるのは
木々の葉が揺れる音と、野鳥の囀りだけだ。
水落圭介が、今夜はこの森の中で
野営を余儀なくされる事を覚悟した時、
前方を歩く井沢悠斗の弾んだ声が聞こえた。

「ここなら、ベースキャンプにいいんじゃないか?」

井沢の後を力無く歩いていた4人が、
期待の表情に変わり、その場所に急いだ。
皆、これまでの疲労を忘れたかのように、
井沢悠斗の元に小走りで近寄った。
見ると、確かに40平米くらいの比較的平坦な空き地がある。
といっても、今まで来た樹木の密生した道のりより、
木々の姿がまばらだというところだ。
だが、雑草を刈り込めば、テントは張れそうだ。
井沢悠斗はリュックを降ろし、
手早く雑草をマチェットで切り払っていく。
10分ほどで、直径8メートルほどのテントスペースが完成した。
5人はリュックからそれぞれ、簡易テントを取り出した。
5つのテントは、円の中心から3メートルほど離して、
取り囲むようにして組み立てられていった。
皆、簡単な組み立て式で、テントをペグで固定していく。
井沢悠斗は言うに及ばず、水落圭介、有田真由美、
小手川浩も予行練習をしていたおかげで、
難なくテントを張っていった。やはり手間取ったのは斐伊川紗枝で、
ほとんど井沢が張ってやる有様だった。

井沢悠斗が折りたたみのシャベルを使って、
円形状の空き地の中心を掘り返していく。
20センチほどの浅い穴を作ると、周辺から枯れ木を集めた。
枯れ木の量は、大柄な井沢が両脇に抱えるほどだ。
水落圭介たちも井沢に任せっきりで、
ただ傍観しているわけにはいかない。
各自それぞれに周辺の枯れ木を拾って回った。
十分な枯れ木が集まると、井沢悠斗は円錐状に組め立てていった。
余った枯れ木は椅子代わりに、5箇所に積み上げられる。
井沢は円錐状の枯れ木の中に、持参した新聞紙を細かく千切った。
火種にするのだ。彼はジッポのライターで着火した。
しばらくは頼りない感じの火種だったが、枯れ木に火が移ると、
勢いよく燃え始める。その炎を見て、水落は落ち着きを取り戻した。
これほど炎が、安心感を与えるものだとは思ってもみなかった。
特に水落圭介は、自宅マンションではIHヒーターを愛用している。
火の不始末を怖れてのことだ。
それだけにこれだけの大きな炎を見るのは久しぶりだった。
 圭介はその橙色の炎から視線をはずすと、周囲を見渡した。
うっそうと繁る樹木は、一見、巨大な黒い壁のように見える。
まるで自分たちが、森全体に監視されているような気分になる。

時はすでに夜になっていた。圭介は腕時計に目を落として、
文字盤を見るため、スモールライトを点けた。
文字盤が青白く浮かび上がる。
長針と短針は午後9時過ぎをしめしていた。
心なしか、風もゆるやかになっている。
だが、自分だけなのだろうか?
やはり、植物の匂いの中に、微かな生臭さを感じる。

5人はそれぞれに、椅子代わりの枯れ木に腰掛けた。
井沢悠斗はともかく、他の4人に安堵の色が浮かぶ。
するとげんきんなもので、圭介は急に空腹感を感じた。
他の4人も同様だった。
井沢悠斗は飯盒を取り出して、
それに無洗米を2合ほど入れて水筒から水を注ぐ。
彼は1.5リットル水筒を3個も用意していた。
小枝を利用した支えを造ると、焚き火のすぐ傍に設置する。
さすがに手馴れた動きだ。
他の4人はリュックから缶詰を取り出し、リングプルを開けて、
圧縮されたパンを取り出すと、パクついた。
小手川浩は水筒の水を、喉を鳴らして飲んでいる。
まるで水筒の水全部を、飲み干そうとするかのような勢いだ。

「小手川君、いつ飲料水が補充できるかわからないから、
 喉を潤すくらいにして、節約したほうがいい」
井沢悠斗が苦笑いしながら、軽い口調で注意した。

 空腹が満たされると、いままでの疲れが薄らぎ、元気が出てきた。
5人の表情にも、時おり笑顔が見られる。

「夜に行動するのは危険だ。すぐ傍には断崖があるし、
 たぶんハブなどの毒蛇もいるだろう。
 今夜は休んで、明日の朝早くにここを出発しよう」
井沢悠斗が炊けた飯盒の飯をかき込みながら言った。

「でも、どこから探索します?」と有田真由美。

「グーグルマップで島の全体像は把握している。
 このベースキャンプは島の南端にあたる。
 探すとなると北の方角だな」
 井沢はあらかた飯を平らげて言った。

 それから小一時間ほど打ち合わせをすると、全員寝床に着いた。
テントの下が踏み慣らされた草ともあって、柔らかく寝心地も悪くない。
水落圭介以外のテントから、早くも寝息が聞こえてくる。
だが、圭介はなかなか寝付けなかった。
テント越しに、まだ燃え残っている、
焚き火の作る淡い光の揺らめきを見つめていた。
そのくすぶる炎の揺らめきが、呼び水になったのか、
次第に眠気が襲ってきた。
今日1日の疲れが出たのか、全身から力が抜けていく。
圭介が夢の中へ誘われる直前、彼の目に何かが見えた。

 それはテント越しに、残り火に照らされ、シルエットしか見えない。
まるでスクリーン越しに、影絵をみているようだった。
その影は・・・大きかった。人間サイズ、いやもっと大きいか。
影だけなので、正確な大きさはわからない。
それ・・・その物体はゆっくりと這っていた
。雑草を踏む音まで聞こえた。
圭介はまどろむ意識の中で、少年の頃、
昆虫図鑑で見たマイマイカブリを連想した。
カタツムリを主食とする甲虫の一種だ。ただその物体は、
前足が4本、後ろ足が2本のように見える。
そんな異形の生き物はいない・・・それに大きすぎる。
夢だな・・・水落圭介は、そのまま深い眠りに落ちた・・・。

第11章 襲撃

 明朝6時、全員は起床した。井沢悠斗が、
まだくすぶっている火種に小枝を追加して、炎を再び起こす。
5人は彼が沸かした湯で、粉末のコーンスープをシェラカップで溶かし、
パンと一緒に食べた。
朝食を済ませると、小手川浩が疲れたような口調で言った。

「すみませんが、僕はここで少し休みたいんですが・・・
 両足が張っちゃって、歩けそうも無いんです」

そんな小手川のセリフを聞いた有田真由美は呆れ顔で言う。

「あんた、いったいここに何しに来たの?
 紗枝ちゃんだって準備してるのに・・・」
 彼女の言葉をさえぎって、井沢悠斗が言った。

「いや、無理をしない方がいい。キミはここで待機していてくれ。
 水の確保ができたら、戻ってくる。いいね?」
 井沢の言葉に、小手川浩はバツが悪そうにうなづく。

 小手川浩以外の皆は、リュックを背負った。テントはそのままに、
4人は北の方角目指して歩を進める。
テントが無いせいで、リュックは幾分軽くなった。
水落圭介は空を仰いだ。まだ曇っている。朝だというのに、
日暮れのように森の中は薄暗い。

 井沢悠斗はマチェットを右手に持ち、相変わらず雑草を
切り払っている。地面には雑草のほかに、湿った落ち葉もあって、
トレッキングシューズを履いていても危うく滑り転びそうになる。
それを防ぐため、小手川浩を除く4人は
樹木に手を掛けて、慎重に歩いた。
1時間ほど歩くと、獣道のように樹木や雑草が
掻き分けられている場所が見えた。
やや下に傾斜してはいるが、これまでよりずっと歩きやすい。
しばらくすると、井沢悠斗が足を止め、左手のこぶしを上げた。
これは後続の皆に止まるよう指示するハンドサインだ。
しんと静まり返る森の中、水の流れる音がした。
だがその音は、ごくか細い。

「運がいい。湧き水があるようだ」
 井沢悠斗は嬉しそうに言った。
そこから十数メートル行くと、井沢が行った通り、
苔生した岩肌から、水が滴り落ちていた。

「オレはまだ十分にあるから、
 みんなはここで水を補充しとくといい」
 井沢の言葉に、有田真由美、水落圭介、斐伊川紗枝の順で、
水筒に水を補充した。

「これで飲料水の心配は無くなったな」
 井沢悠斗が無精ひげを生やした顔に、笑みをつくった。
圭介は何気に足元を見た。湧き水が絶えず滴っているせいか、
足元の地面は柔らかくなっている。
雑草も生えていない。そこに妙なものを発見したのだ。

足跡・・・それも人間らしきもの。
裸足だ。水落圭介にはそう見えた。
サイズは27センチほど。
だが、奇妙なことにひとつしかない。
まるで、湧き水を飲んだ後、上の岩場に登ったように見える。
しかも、その足跡は絶えず流れる湧き水に、
原型を崩すことなくその場に刻まれている。
相当の体重のある何者かだ。ということは、この足跡の主は、
つい今しがた、この場所を通ったことになるのではないか?

「井沢さん、これって足跡に見えませんか?」
 圭介は湧き水のある岩場を背にしている、井沢悠斗に言った。

「足跡?」
 井沢悠斗が水落圭介の指差す場所を覗き見る。
有田真由美と斐伊川紗枝も近づいて、
その足跡らしきものを見ようと、近づいてくる。

その時だった―――。
それが井沢悠斗の背後の岩場にある藪の中から現れたのは・・・。

 それは一見、人の形をしていた。
藪から現れたのは上半身だけに見えた。
だが、それ以外は異形の姿だった。皮膚の色は灰色がかった肌色。
藪から突き出している部分を見る限り、衣服はつけていない。
頭部と見られる部分は、わずかに頭髪と思われるものが残っているだけ。
そして顔面は、強力な酸で溶かされたように、目鼻口といった隆起が
ほとんど見られない。しかも、その左目は腐り落ちていて、
その眼窩は、暗い洞窟を思わせた。
残る右の眼球も、燻し銀のように光っていて、死んだ魚の目を連想させた。
そして何より異形だったのは・・・
腕が左右2本、計4本だったことだ。
それにその4本の腕は異様に長かった。
成人男性の1.5倍はある。

井沢悠斗は自分の背後に、何かが現れたことは察したが、
その異形のものに背を向けたままだ。
彼は反射的に、右手に持ったマチェットを振りかざした。

その井沢悠斗のマチェットを持つ腕を、
その異形のものは4本あるうちの1本の手で掴んだ。
異形のものは唇の痕跡の見あたらない・・・裂け目のような
口を開いた。その口には、
まるで銀メッキされたような歯がずらりと並んでいる。
異形のものは、井沢悠斗の右の肩口に噛み付いたのだ。
井沢悠斗の手からマチェットが滑り落ちる。
それでも彼は、地面に落ちたマチェットを拾おうとした。
異形の化け物は井沢の肩口に喰らいついたままだ。

「に、逃げろ・・・」

 井沢悠斗は呻くように、水落たちに向かって言った。
その異形の化け物は、いったん井沢悠斗の肩から口を離すと、
今度は彼の首筋に喰らいつく。
おびただしい鮮血が、水道の蛇口をひねるように噴き出した。
井沢の口からも、逆流した血液が大量に吐き出された。

「きゃああああああッ!」
 そこで初めて、斐伊川紗枝の悲鳴が空気を引き裂いた。
一瞬、その異形の化け物は水落圭介たちに、その醜悪な顔を向けた。
圭介は斐伊川紗枝の手を引き、元来た道を走って引き返す。
有田真由美は気丈にも、カメラのシャッターを連続してきっている。

「有田さんも早く!」
 圭介の声は、本人が思うほど出ていなかった。
恐怖で、喉がからからになっていたのだ。

有田真由美も水落圭介の後を追って、走り始めた。
水落圭介は逃げる一瞬、井沢悠斗の方を振り返った。
異形の化け物は、井沢悠斗にのしかかって、
彼の肉体を引き裂いていた。
血しぶきと共に、内臓が飛び散る。
今や化け物は全身をさらしていた。腕が4本、足が2本・・・
昨夜、圭介がまどろみながら見た物の影にそっくりだった―――。

第12章 逃走

 水落圭介はもつれそうになる両足に、必死に力を込めて走った。
右手には斐伊川紗枝の腕をつかんでいる。
彼女がパニックを起こしているのは、明らかだった。
断続的に悲鳴・・・いや奇声を上げている。
圭介はその口を塞ぎたくてたまらなかったが、
恐怖の方が、その衝動に勝っていた。

 今は逃げるのが先だ―――。
井沢も言っていたではないか、不測の事態が起これば、
ベースキャンプに戻れと・・・だが、不測の事態が、
いきなりこんな形で訪れるとは
水落圭介だけでなく、他の3人も想像さえしていなかった。

 あの光景・・・井沢悠斗の腕が喰い千切られ、そして彼の絶叫。
首筋を噛まれ、引き裂かれる彼の肉体から飛び出す内臓。
そしてシャンパンを思い切り振った後、
栓を抜くと中身が噴出すような、血、血、血。

とても現実感が無い・・・。
あれは何かの夢だ。まだオレはテントの中で
寝てるんだ・・・。あんな物がいるわけがない―――。
あれは悪夢の産物だ。間違いない・・・。
 水落圭介は自分の心臓が、
破裂しそうなほど脈動しているのがわかった。
それでいて、彼は笑っていた。それは声を出さない笑いだった。
頬や口角の筋肉が引きつり、痙攣したように笑っていた。
笑いながら、緩い傾斜を走り登っていた。
 圭介は、ふいに有田真由美のことが頭によぎった。後ろを振り向く。
彼女はすぐ後ろを走っていた。
右手で、斐伊川紗枝の背中を押している。
有田真由美は笑ってはいなかった。恐怖に顔を引きつらせながらも、
水落圭介よりも冷静な表情に見える。

 しばらくして、ベースキャンプが見えてきた。。
あの化け物から逃れようと走った時間が、数時間にも思えた。
ベースキャンプにたどり着くと、水落圭介も有田真由美も、
そして斐伊川紗枝も倒れこむようにして、その場に座り込んだ。
皆、声も出ないほど呼吸が荒い。
この森林が吐き出している濃厚な酸素を、
むさぼるように吸い込んだ。
斐伊川紗枝は、もう悲鳴など上げてはいなかった。
呼吸するので精一杯なのだ。
そして彼女は泣きじゃくっていた。
泣きながら大きく口を開けて呼吸していた。

 水落圭介は今来た道を振り返った。
あの化け物が、自分たちを追って来てるのではないかと思ったのだ。
だが、あの化け物の姿は無い・・・。安堵感で、全身の筋肉が緩んでいく。
水落圭介は腰に下げた水筒をつかみ出すと、栓を抜いて貪るように飲んだ。
水が口から溢れ、顎を滴り落ちる。圭介は思わずむせたように、咳き込んだ。

「あ・・・あれは、何だったんだ?」
 ようやく彼の口から言葉が出た。
自分でも意外なほど平坦な口調だった。

水落圭介の隣で、しりもちを着いている有田真由美が、
細く力ない声で返事した。

「わからない・・・わからない」
 彼女はそう言いながら、
手にした一眼レフのデジタルカメラを握りしめる。

 斐伊川紗枝は体育座りをしたまま、ここ常夏の島にいながら、
極寒の地にいるかのように、上の歯と下の歯をガチガチと打ち鳴らせている。

 どれくらいの時間が経っただろうか。
そこでようやく、水落圭介はベースキャンプを見渡した。
そしてまた驚愕する。5つのテントがすべて壊され、
ズタズタに引き裂かれていたのだ。
テントの布地は何か鋭いもので切り刻まれ、ポールはひん曲がり、
ペグも引き抜かれて、もはや原型をとどめていない。
まるで廃墟だ。
 そのことに気づいたのは圭介だけではない。
他の女性二人も両目を丸くする。
水落圭介は力無く、緩慢な動作で立ち上がった。
周囲をゆっくりと見渡す。
ここには小手川浩が居残りしていたはずだが・・・
彼の姿はどこにもない。

「わっ・・・わ・・・わぁーッ」
 斐伊川紗枝が再びパニックを起こしかける。
彼女は水落圭介が背にしている木陰の方に視線を向けて、
座ったままあとじさった。
やはり、化け物は追ってきていたのか!
圭介は反射的に、足元に転がっていた―――
昨夜、集めた薪の―――棒を
拾い上げて身構えながら振り向いた。
その直後、その木陰から押し殺したような声がした。

「しッ!静かにして」
 その声は、小手川浩のものだった。
水落圭介の右手側にある、直径60センチほどの樹木の陰から、
小手川浩の顔がのぞいた。

「小手川君、無事だったのか・・・」
圭介は、ほっと胸を撫で下ろしながら、
振り上げていた薪を握っていた右腕を降ろした。

小手川浩は這いずるようにして、木陰から近づいてきた。
どうやら腰が抜けいているようだ。
それに彼の顔色が蒼ざめているのも、
この暗い森の中でも、はっきりとわかる。

「水落さんたちが出発してから、ここで休んでたんです。
 するとあったからガサガサと音がして・・・」
 小手川浩はその方向を指差した。まだ恐怖に捉われているのだろう。
彼の声は震えていた。それに小手川浩が指し示した方向は、
あの化け物が現れた場所とは間逆だった。
小手川浩は震えながら、言葉を続けた。

「何か大きな動物かと思って・・・怖くなって
 とっさに木の陰に隠れたんです。
 そしたら見たこともない化け物が・・・」
そこで彼は言い澱む。

「信じてくださいよ。ウソじゃありませんから・・・」
 そう前置きしてから、小手川浩は話し始めた。

「首が・・・頭が二つある人間のようなものが現れたんです。
頭のひとつは腐ったように、垂れ下がっていて・・・
 上半身裸でズボンを履いてました。肌の色は灰色のような、
 肌色のような・・・そいつがテントを壊し始めたんです。
 僕、恐ろしくて・・・」
 小手川浩は恥ずかしそうに目を伏せた。
彼のジーンズの前が少し濡れている。
わずかだが、失禁したようだ。

「信じてください。本当なんです」
 彼の目には恐怖とともに懇願するような光があった。

「信じるよ。オレたちもついさっき、化け物を見たんだ」
 圭介は言った。もう声は震えていない。

「頭がふたつって・・・それ、私たちが見たものと別物じゃ・・・」
 有田真由美が声を潜めて言う。そして周囲を警戒するように見渡した。
まるで近くにいるかもしれない化け物に聞かれまいとするかのように。

そこで小手川浩は気づいた。井沢悠斗がいないことに・・・。

「井沢さんは?井沢さんはどうしたんですか?」
 彼の問いに、水落圭介は目を伏せた。

「彼は・・・たぶん、殺された。オレたちが見た・・・
 キミが見たものとは別の化け物に」
 圭介の脳裏にまたその光景が蘇る。
腕を喰い千切られ、首を噛み千切られ、内臓を引き裂かれている
井沢悠斗の無残な姿が―――。
圭介の胃袋が逆流を始めた。急いで皆から離れて、
藪の中に吐瀉物を嘔吐した。
今朝、食べたばかりのコーンスープと
パンの消化物が吐き出される。
吐き出してもなお、圭介の口内には胃液の発する、
焼けるように酸っぱいものが残った。
食道がひりひりと痛んだ。

小手川浩は口をあんぐりと開けた。
「そんな井沢さんが・・・そんな・・・」
 彼の蒼ざめた顔色が、土気色に変わる。

「本当のことなのよ。私は確認はしてないけど・・・」
 有田真由美の声が冷静に言う。
一方、斐伊川紗枝は、まだ放心状態のままだ。

「ちょっと待って。撮った画像を確認してみる」
 まだ荒い息をしている有田真由美はそう言いながら、
一眼レフのデジタルカメラを操作し始めた。
他の3人も彼女の傍らに近寄って、その画像を覗き込んだ。
画像はどれもブレていて、ピントも合っていなかったが、
状況はわかるものだった。
井沢悠斗らしきオリーブドラブ色のシルエット。
その彼に覆いかぶさっているような
灰色の何者か。その何者かには、
4本の腕らしきものが確認できる。

「ごめんなさい。私もとっさだったから・・・連写したんだけど、
 上手く取れてないわ・・・」
 有田真由美は残念そうに言った。

「仕方ないよ。あんな化け物が襲って来るなんて、
 誰も予想してなかったんだから」
 水落圭介の息もまだ荒かった。

「どうするんです?これから?もういやだ・・・
 こんな島から逃げましょうよ」
小手川浩の声が不安と恐怖で震える。

「逃げ出したいのはやまやまだ。しかし、所沢さんの船が
 この島に迎えに来るのは、4日後なんだぞ・・・」
 水落圭介は、へたり込むようにその場に座り込んだ。

「4日もなんて・・・こんな島に4日もなんて・・・」
小手川浩は絶望したように、両手で顔を覆い、咽び泣き出した。

「ここにいたら、またあの化け物が襲って来るかもしれない。
 早く移動したほうがいいわ」と有田真由美。
4人の中で、彼女が一番冷静のように見えた。

「じゃあ、岸壁を降りて所沢さんの船を停留させた、
 あの岩場にいきましょうよ」
 涙声で小手川浩が言った。

「いや、あそこにいては返って危険だ。回りは海しかない。
 もし襲われたら、逃げ道が無い」
 水落圭介は、その岸壁がある方を見て言う。

「だったら、泳いでいきましょうよ・・・」
 小手川浩はとんでもないことを言い出した。
まだパニックがおさまっていないのか。

「あんた、馬鹿じゃない?200キロも泳ぐの?
 それも漁船でさえ流されるほどの潮流を?」
 有田真由美は怒りと呆れの入り混じった顔を、小手川浩に向けた。

 彼女にそう言われて、小手川浩はジーンズの尻ポケットから
スマートフォンを取り出した。液晶画面を擦る指が震えている。
それから落胆するように言った。

「だめだ・・・やっぱり圏外だ・・・」小手川浩は肩を落とした。

「とにかく、ここを離れよう。そして所沢さんが来る日まで
 持ちこたえるんだ。まず、安全に身を隠せるところを探そう」
 水落圭介は、座り込んだまま
震えている斐伊川紗枝の腕を掴んで、立たせようとした。
腕を突然掴まれた彼女は「ひっ」と言って、身を引いた。
そんな彼女をなだめるように、
有田真由美がゆっくりと斐伊川紗枝を立たせる。
小手川浩も立ち上がった。だが、その両足は震えが止まっていない。

 水落圭介は、井沢悠斗と共に行った道も、
小手川浩が目撃した、
首がふたつあるという化け物が現れた方向も避けた。
そうなると、この島の東側しか道は残っていなかった。
その方向は、所沢宗一が迎えに来るはずの岩場から反対の方角だった―――。

名無しの島

名無しの島

  • 小説
  • 短編
  • 冒険
  • アクション
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-09-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第1章 発端
  2. 第2章 同行者
  3. 第3章 冒険者井沢悠斗
  4. 第4章 出発
  5. 第5章 長崎県最南端枕崎市へ
  6. 第6章 船上の人
  7. 第7章 垂れ込める暗雲
  8. 第8章 上陸
  9. 第9章 蠢くもの
  10. 第10章 異形の影
  11. 第11章 襲撃
  12. 第12章 逃走