無垢な光

 空が青く澄んでいた。亜実は、ぼんやりと雲の動きを眺める。見ていて飽きないけど、ばかみたいに上ばかり見つめているわけにもいかない。足元に視線を戻すと、代わりに砂が敷きつめられた校庭が広がっていた。他の高校と大差ない、ありふれた校庭。
 何も特別なことは起こらない。亜実はいつも思うことを、今も思った。一日はそれとなく始まり、蝉の一生よりもあっけなく終わる。その繰り返しだ。特別なことは起こらない。
 階段を一つ上がって、廊下を歩き、教室を一つ通過する。その隣が、亜実のクラスの教室だ。赤と白が交差したマフラーを外しながら、開け放されたドアを越える。
 教室の後ろにあるロッカーの前には、亜実の友達の裕里が立っていた。それ以外に、人はいない。亜実は近寄っていって、声をかけた。
「おはよう、裕里。早いのね」
 すると裕里は、サッと何かをロッカーの奥に投げ入れた。明らかに、亜実に見せないように慌てて隠した、と分かる。裕里は驚いたように見開いた目で亜実を認め、安心したように笑った。
「おはよう、亜実」
 喜ばしいものではないのだろう、と亜実はロッカーの奥に隠されたものを推測した。ラブレターのような類いではない。裕里の表情は硬く、どこか怯えている。
「今、何を隠したの?」
 首を傾げて、覗き込む真似をしながら、裕里に尋ねた。答えたくなかったらいいけど、と心の中で付け加えて。
 裕里は首を横に振った。「何でもないの。気にしないで」
 あれ? 亜実は話す裕里の語尾が微かに震えていることに気付いた。注意深く裕里の目元を確認すると、潤んでいて、今にも泣きそうだった。まさか――
「裕里、何を隠したの? 何かあったんでしょ?」
 やはり、無理にでも見せてもらった方がよさそうだ。亜実は、そう決めた。
「何もないよ。大丈夫」裕里の泣き顔は、ますます本物になる。
「何もなくない。――これね」
 亜実は半ば強引にロッカーの奥に手を伸ばして、一冊のノートを拾った。汚い言葉が書き連ねられた、そのノートを――。
「どうして隠そうとしたの?」
 裕里は俯いていた。咎められた子どものように。何も悪くないはずなのに。
 よく見ると、ロッカーの中には、同じように汚された教科書もあった。
 重ねて裕里に言葉をかけようとした――そのタイミングで、雪絵が教室に入ってきた。
「ちょっと、どうしたの? それ……」
 すぐに亜実が手に持ったノートに気付いて、驚いた声を上げた。雪絵も二人と仲のいい友達である。「ひどい、誰がこんなことを」
 あ、そうか。亜実は一人、納得した。誰がこれをやったのか、あまり気になっていなかった。そんなことよりも、裕里がその対象になったことがどうしてなのか、まず気にしていた。
 裕里は、大人しくて、控えめな性格である。それだけに、人の恨みを買うなんて想像できない。何の気のない行為で攻撃にさらされてしまう弱さはあっても。
 でも、これは違う。ノートや教科書をここまで汚い言葉で埋め尽くすのが、何の気のない、思いつきや気まぐれで行われるとは思えない。使い物にならなくなったそれらからは、明らかな悪意が窺える。
「許せない……裕里、私が犯人を見つけて、ぶん殴ってあげる」
 活発な性格の雪絵は、被害者の裕里本人以上に憤っている。彼女なら、誰が犯人であろうと、友達のためにその人を殴れるだろう。
「そんな、殴るだなんて……」
「そうよ、雪絵」亜実がたしなめる。「大事にしない方がいいわ。裕里のためにも」
「え――そっか、そうだよね」
 ここで騒いで大々的に犯人探しをするのも手だが、それは同時に裕里がいやがらせを受けた事実を知らしめることに繋がる。みんなは裕里に慰めの言葉をかけるだろうが、そこに付随する彼女を軽んじる思いは拭えない。無意識の悪意はときとして、残酷なものになる。
「いいのよ、雪絵。ありがとう。その気持ちだけで嬉しい。――亜実もありがとう」
 裕里は涙を拭って、透明な笑顔を浮かべる。汚れのない、透明な笑顔を。

 裕里はぼんやりとしていることが多くて、ひらめきだとか、何かの臭いを嗅ぎ取ることはめったにない。全て、目の前で分かりやすい形で現れるまで、その存在に気付かない。
 でも、このときは嫌な予感を全身で感じ取った。間違いない、私は今引き返せば、真実を知ってしまう、と。
 裕里はそれが決して自分にとっていいものではないと分かった。でも、見過ごせないことだとも思った。
 明日になるまでお別れだと思っていた教室に、再び足を踏み入れる。入ってすぐに、裕里は雪絵の姿を認める。彼女の手に握られた凶器とともに。
「――雪絵がやったの?」
 裕里の声は震えていた。怒りと悲しみがないまぜになって、内側がもやもやしている。
 雪絵は不敵に笑った。普段見せることのない、影を帯びた笑み。
「迂闊だったなぁ。もうちょっと時間を工夫すればよかった」
「どうして……」
「どうして? 教えてあげようか?」雪絵は裕里に歩み寄る。「気に食わなかっただけよ」
「気に食わなかっただけ?」裕里は当惑した表情を浮かべる。
「そう。周りと上手くやっていくための努力もしないくせに、何の問題もなくあんたは過ごしてる。それって不公平じゃない。努力してる私がばかみたいじゃない。――だから、あんたに相応しい報いを与えてやろうとしたの……なのに、亜実が余計なことを……」

「悲劇のヒロインでも気取ったつもり?」
 亜実の声がして、二人は教室の外に目を向ける。死角から、亜実がゆっくりと現れる。感情の見えない表情をたたえていた。
「どういう意味?」雪絵が亜実を睨み返す。
「不幸を背負い込んでる気にならないで、って意味。自分が特別だと思わないで。あなたより不幸な人はたくさんいる。むしろ、あなたは恵まれている方よ。それなのに裕里を僻むなんて、救いようのない話ね」
 雪絵は返す言葉を失くした。
「裕里」亜実は裕里の方を向いた。「雪絵は、もう友達でもなんでもないわ。彼女は、あなたを裏切った。自分の都合のために、簡単に友情の繋がりを絶った」
 自分の都合のために、という言葉が雪絵の心を打つ。
「でも……その、何というか、魔が差しただけかもしれないよ。雪絵の考えてることに気付かなかった私たちが悪いかもしれないし……」
 裕里が雪絵を許したいと思っていることが、亜実には分かった。彼女は、透明な娘だから。純粋な友情を信じている、稀有な、でも最も愛されるべき娘だから。
「言いたいことは分かる。でも、許しちゃダメよ」
「ダメ――なの?」
 すると、雪絵がこらえかねたように笑いを漏らした。
「本当に、頭がおめでたいのね。人を疑うことを知らない世界で生きてきたのね」
「黙って。あなたに裕里を笑う資格はない」
 冷たい声と表情に、雪絵は笑いやめる。亜実は美しかった。その美しい無表情が、今は何よりも怖かった。
「二度と私たちの前に現れないで。――行きましょう、裕里。新しいノートを買わないと」
「う、うん」
 立ち尽くす雪絵を置いて行こうとしたが、裕里はやはり立ち止まって、雪絵に話しかけた。
「私を友達だと思ってなかったの?」
 雪絵はまた笑いそうになった。だが、それはこらえて、抑揚のない声で返した。
「ええ、そうよ」
「いっときも?」
「ええ、いっときも」
 それは、最後の抵抗にも見えた。友情を信じる裕里と、自分が正しいことを貫こうとする雪絵、どちらにとっても。
「――そっか」
 裕里は、今度こそ雪絵を置いて、教室を後にした。

「嬉しかったんだけどなぁ」
 亜実は裕里の呟きに、何も返せなかった。裕里は半ば放心状態だった。虚ろな眼差しで、正面だけを捉えている。
「雪絵、犯人を殴ってやるって言ってたでしょ。あれ、すごく嬉しかった。私には、私のために自分の手を汚してくれる友人がいるんだ、って思えた」
 汚す、って言うと大げさかな、と小さく付け加えた。
 雪絵は、犯人を殴ることはできなかった。亜実は犯人を殴れない場合が二つあると、あの言葉を聞いたときから考えていた。一つは、犯人が見付からなかったとき。もう一つは、その犯人が雪絵自身だったとき。結果は、最悪の方に傾いてしまった。
 裕里、大丈夫? と声をかけようとして、亜実は絶望を感じた。彼女にだけは、透明でいて欲しかった。無垢な光で満たされていて欲しかった。
 気のせいだと思いたかった。――だけど、気のせいではなかった。裕里の透明な瞳は、微かに影を帯びていた。
 光の世界を生きてきた彼女は、人の心の闇を知ってしまった。

 何も特別なことは起こらない。どんなに胸を締め付ける悲劇だろうと、その一瞬に圧倒的な感情の作用をきたすようにしても、後から思えばそんなこともあったと笑い話にできる。亜実はいつも思うことを、今も思った。
 そう思わなければ、生きていけなくなるから――。

無垢な光

無垢な光

何も特別なことは起こらない。どんなに胸を締め付ける悲劇だろうと、その一瞬に圧倒的な感情の作用をきたすようにしても、後から思えばそんなこともあったと笑い話にできる。

  • 小説
  • 掌編
  • ミステリー
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-09-25

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