終わりのない道
上を降り仰げば、空色のキャンバスを上気した頬の桜が彩っていた。
「これが、桜なんだね」
手をお椀の形にした少女は、そのなんとも言えないグラデーションを物珍しげに眺めている。
「花?」
「そう、花だよ。あぁ、咲いているの、見たことなかったっけ」
彼女はこくり、と頷いた。
アクリルディスプレイで覆われた巨大な半球に、「春」が閉じ込められている。虫や、草木や、動物……普段は教科書や絵本でしか目にすることのない「自然」が、そこにはあった。
気まぐれにやって来た虫を見て、彼女は目を輝かせる。次から次へと現れる彼らから少し目を逸らしたところで、彼女はふと目を止めた。
「あっ、あそこに蝶が落ちてるね。直さないの?」
僕はしばし、意味が分からずに首をかしげた。そして、あぁ、そんなことかと。
「これはね、機械じゃないんだ。蝶々は人間みたいに、機械の身体に移り変わる事はできないんだよ」
彼女は驚きに目を見開いた。もう一歩近寄って、蝶々をまじまじと観察する。
「そんな可哀想な生き物って、いるんだ……」
ぽつりとこぼれたその発言に、僕は取り残された。僕が生身だった頃にはまだ存在していた草木が、彼女にとっては魔法や幽霊のような存在になっている事。それがとてつもなく寂しく、いかに自分が古くなってきたのかを改めて認識した。
あちらへ、こちらへと先ほどの虫たちのように飛び回る彼女。
僕はそんな彼女に気づかれないように、そっと胸部の蓋に手をやった。もうそこに流れる血潮は電子の粒に置き換わってしまった筈なのに胸騒ぎがするような気がする。
もっとも、手はすぐに力なくだらりとしてしまうのだけれど。そんな勇気があったら僕はとっくにそうしている。
それはもう戻らない輪廻への羨望であり、転じて僕の隣で笑う彼女への無責任な嫉妬となっている。そんな事など露ほども考えていない彼女を見つめ難くなって、僕は自然光ライトに照らされた自分の影を努めて凝視した。
「この桜、散ってしまわなければいいのにって私思うの」
彼女は落ちてくる花びらへの興味が失せたのか、あぜ道風に作られた順路を走っていってしまった。
如何に生きるか。その為だけに長い長い歴史を積み上げてきた人類のうち一人である僕は、だがしかし有限に焦がれた。
この桜のように、虫のように、一瞬を精一杯生きる熱が欲しい。堪らなく、乾いている。
きっと、彼女にそんな事を言ったって不思議そうな顔をするのだろう。どうして、と。
半永久的に続く事が当たり前の時代に生まれた彼女に、「死」を説くことは難しい。
それがどれだけ素晴らしく、なんと儚く、美しいことなのか。一瞬に咲く花火のような輝き。すぐ消えてしまうからこその愛おしさは、多分理解して貰えない。
「おーい!」
いつの間にか米粒に見えるほど遠くに行っていた彼女が大きく手を振って僕を呼んだ。
僕は羨ましい。こんな考えなど浮かぶ余地もない、あまりにも無知な、無垢な君がとてつもなく羨ましい。
僕は控えめに手を振り上げた。
僕は歩いていく。いつか君が、僕の時間を枯らしてくれる日を夢見て。
終わりのない道