街角にはパン屋があった

エヴェ


 ゴンゴン。
 ノックが足早に二回。
 その音をきっかけに、ぼんやりとまぶたの隙間から光が差し入れられる。チチチチ、と甲高い鳴き声が微睡みを打ち砕いた。
「んぇ……」
 ゴンゴンゴンゴン。
 立て付けの悪いノブが、ガチャガチャと暴れまわっている。その上、ノックは更に勢いを増している。
「……み!香澄!」
「起きてるよ、もう」
 ノックは止んだ。
「さっさと起きな、今日は折角の掻き入れ時なんだから」
 そう言うだけ言うと、彼女……小園(おその)さんはノックと同じくらいけたたましく階段を降りていった。はぁ、と、ため息をつく。好きでパン屋やってるわけじゃないのだ。朝はもう少し寝ていたい。
 まだうすら寒い中、そろりと足を床につければその冷たさに思わず声をあげそうになった。
「えっと……?あ、見つけた!」
 サイドテーブルから私の破滅的な寝相によって蹴り出されたであろうリボンを拾い上げて、鏡台の前へと向かう。
 うんと伸びをして、それから、カーテンを開け放った。
 目を細めたくなるほどの快晴。抜けるように青い空の中を、鳥が二羽並んで飛んでいった。そのまま、一羽は教会の十字架に。もう一羽は、さらに遠くへ遠くへと去ってゆく。
 そんな風景を横目に、寝巻から質素なワンピースへと着替える。リボンで髪をまとめて、もう一度鏡台の前に立つ。うん、バッチリだ。
 こんな状況であることを一時忘れさせてくれる景色に背を向けて、私は急いで部屋を飛び出した。
 そのためだろうか。階段の途中で、私は、綻びかけていた右足の靴紐を、思いきり踏んづけてしまう。
「わっ!?」
 体は、宙に投げ出される。
 この感覚は、覚えがある。何回も、やった通りだ。
「──っ」
 景色がゆっくりと、燻る薪の火のような速度で後ろへと流れていく。
 体を丸め、空中で重心を整える。推進力に欠けた体が段上に着地しないよう壁を蹴って横方向への跳躍。着地点がはっきり見えてから、腕で頭を守りながら転がりつつ着地する。少しの衝撃。反対の腕で横受け身をとって勢いを殺し、ようやく、事なきを得た。
 ケガは……大丈夫そうだ。あと洋服も。一番の問題は──
 音を聞き付けてか小園さんがひょっこり顔をだした。バクバクと、耳の奥で心音が大きさを増していく。
「あんた、また階段から落ちたのかい……気をつけろって言ったでしょう」
 頭をかきながら、小園さんはほっとしたように息をついた。
「へへ、ごめんなさい」
 一瞬、見ていたのかと思ってヒヤヒヤしたが大丈夫なようだ。本当に良かった。最後の最後でバレてしまってはいけないのだ。この前踏み抜いてしまった階段の一部、少しだけ曲がった釘の打たれた板を隠しながら立ち上がる。
 私は、服を払って、それからもう一度振り返る。うん、大丈夫そうだ。
 一階の廊下を抜けると、そこではもう、美味しそうな匂いが立ち込めていた。
「あれ、この香りは?」
「ショウユ、っていう東方の調味料らしいね。風味が面白かったから仕入れてみたんだよ。なんでも、魚と合うらしくてね。」
 朝食に味見していいと言われたので、鉄板から一つ取ってその場でかぶりついた。デニッシュ生地の上で、しょっぱく味つけられた焼きマグロの油がじゅわっと広がる。
「……ほいひい」
 パン屋でいることは決して好きじゃない。でも食べるのは好きだ。頬一杯に詰めこんで、もぐもぐと咀嚼する。
「口に入れたまま喋るんじゃないよ、まったく」
 それでも言いたいことは伝わったらしく、店頭の方へ鉄板は運ばれていった。
 口に詰め込むようにしてがっついてしまってからようやく、喉に詰まりかかっている事に気がついた。
 牛乳で何とか飲みこみ、ほ、と息をつくと奥からもう一人、コック服を着たおじさんが汗をぬぐいながら出てきた。
「やぁ香澄、起きたか」
「おはよう、おとうさん」
 彼がこのパン屋の店主、小園さんの夫、隆(たか)さん。つまり、私のお養父さんだ。
 私は、二人の実の娘ではない。教会で過ごしていたときに、引き取ってくれたのがこのパン屋夫妻だった。それだけの話なのだ。だからあまりパン屋に思い入れもない。
 もっとも、このご時世でそんな事ができる家庭なんてごく僅かだから、人を選り好む余裕など無いのだけれど。
「香澄!いつまでそこで油売ってるんだい、はやくおいで!」
「い、今行く!」
 私はさっきついたため息をもう一度エプロンにしまいこんで、厨房の奥から錆びた鍵を持ち出した。店の戸を開けて、タイヤに巻き付いた鍵をガチャリ、おんぼろの自転車に跨がる。
 この自転車にも、随分世話になったものだ。
小園さんが、パンを入れたコンテナボックスを自転車の後ろに括る。紐でしっかり縛って、それから自転車を左右に振る。うん、大丈夫だ。
「今日は丹田さんの工場?」
「それと、急遽浜名さん家の採掘場にも頼まれちゃってね。」
「ええ……」
 反対側じゃん、方向。しかも、浜名さんの所は山道を走っていかなければいけないのだ。とっても、とっても面倒くさい。
 大体、絶対に自分で行った方が早いんだから自分でいけばいいのに。こういうときだけ年のせいにするから大人は嫌いだ。
「面倒くさがるんじゃないよ、ほら行っといで」
 ぶうぶうと文句を垂れてみたが、当然聞いてもらえなかった。バンッと小園さんが私の背中を叩く。その音に驚いて、やせっぽちな猫がすたこらさっさと逃げていった。
 案の定、踏み込んだペダルは重石でも付いているかのようだった。

***

「ありがとうございました!今後とも、パン屋『アネモネ』をご贔屓にどうぞ──」
 採掘場に向かって呼び掛けると、中からおう、とか、またたのむよ、だとか無責任な聞こえてきた。少しは急遽来た私を労ってほしい。
 それでも、すすだらけの手にパンの袋を提げる後ろ姿はどこか嬉しそうなのだ。怒る気も失せて、背を向けて再び漕ぎ出す。
 昨日降った雨による水溜まりが、その濁った水面に抜けるような青空を映していた。勢いをつけてバシャーっと突っ込めば、飛沫がきらきらと舞う。
「今日は全部売り切れたし、上出来上出来」
 すっかりパン屋根性が染み付いてしまったことに苦笑いしながら、ペダルを一歩一歩踏みしめていく。
 ブォオンとけたたましい音をばらまきながら、上をタ号の戦闘機が旋回していた。訓練飛行だろうか。
 工場から二機、三機と隊列を成して飛ぶ戦闘機から逃げるように、体をうつ伏せて下り坂を加速した。
 と……その音のなかで、微かに、子供の啜り泣くのが聞こえた気がした。こんな山の中だ、気のせいだとも思ったが、気が揉める。もしも空耳であったとしても不気味だ。
 少し見渡して、それから、近くにあった松の木のうろの辺りに小さな手のひらがちらつくのが見えた。女の子だろうか。なにやらしゃがみこんでいるのが見える。
 このあたりは街灯がないから、暗くなるのが存外に早い。それに、寒露の今日の晩はきっと冷えるだろう。
 何より、積み荷の無い私にその子供を放っておく由も無かった。
「大丈夫?」
「──ぅ」
 声からして女の子であるらしいその子は、声をかけた私の顔をぎょっとした顔で見た。泣き腫らしたのだろうか、真っ赤な眼を擦りながら、それでも私の目をしっかり見つめている。私は努めて優しく、安心させるように声をかけ続けた。それでも、女の子はどこか虚ろな目をしている。
「ここにいると、すぐ寒くなるよ。お父さんは?お母さんは?」
 女の子はおかっぱ髪を横に振った。わからない、らしい。
 さぁっと一陣の風が吹いて、女の子はまた肩をびくりと震わせた。やはり、風が吹くと首をすくめたくなるほどの気温だ。今晩はかなり冷えそう。
「……お家はどこか、分かる?」
 尚もしゃくりあげながらだが、その指はしっかりと街の方角を指していた。焚き付けのようにやせっぽちな指だった。
「今から、私も街に帰るところなんだ。乗っていきなよ」
 事情こそ詳しく分からないが、ここで見棄てるわけにもいかない……と思ったのだが。
 女の子は、先程よりも激しく、首を横に振った。
 今度は私がぎょっとする番だった。
「……どうして?お母さん、きっと心配してるよ?」
 お母さん、と聞いた瞬間、女の子はその顔に絶望を浮かべた。あぁ、この顔は、見たことのある顔だ。それはそれは、何度も眺めた表情だ。
 ひぐ、と女の子はえづきながら答える。
「帰って、来ちゃダメって、言われたの……」
 それだけ言って、また女の子は咽び泣き始めた。先程のような啜り泣きではなく、爆発したように涙が溢れている。頬に付いた泥を洗って、茶色くなった涙が服に落ちた。

 何も、言えなかった。

 どうしたらいいのだろう。
 ここに放置しておいていい筈はない。ならば連れて帰るか?しかし、パン屋もその日暮しである。なにより、養父母にこれ以上負担をかけたくない。彼女の親に返すか?論外だ。また同じことになるのは目に見える。
 連れて帰れば、一つや二つのパンを与えることはできるだろう。だがそれは根本的な解決にならない。この子が飢え苦しむのを先に伸ばして、むしろ辛い思いをさせる事になってしまう。
 なおも女の子は泣き続けている。私はただ、背中をさすってやる事しかできない。
 小銭の詰まった袋と、頭の中の養父母の顔を見比べた。それから、もうひとつ。
「しにたくない……おなか、すいたよぉ……」
 上空を、戦闘機がまた通りすぎていった。北へ、北へ。
 私は立ち上がった。女の子は、それを見上げる。
「ちょっと背中、いいかな?そう、下向いてて」
 不思議そうにして、静かに頷く女の子。足で回って、素直に私に背を向けて座るような格好になる。
 それでもやっぱり気になるのか、ちらちらとこちらを見やってくる。
「……こうして、何するの?」
 ギリ、と微かに歯が擦れる。あぁ、この子は、きっと私に似ているからだろう。だからこそ、私みたいになってはいけない。
 自分に言い聞かせるように、呟いた。

「どうせ、元からパン屋じゃない」

 私は、手を払った。場違いに明るい日差しが、私の顔に影を落とす。
 人差し指、中指、親指を物を持つような形で構える。しん、と迷っていた心が暗く、深いところへ沈殿していくのを、感じた。
「せめて、楽に」
 ひゅ、と手が空気を置き去りにして動く。
骨ばかりの白い首筋に向かって、ただその指を、ねじ込むように「突き刺した」。
 カ、と咳をするような、そんな呆気ない音だけがした。振り返る事もない。恐らく、一撃で弔ってあげられた筈だから。
 ずる、と引き抜いた手は風に吹かれて、凍りついたような錯覚を受けた。ぬめり、ともまた違う血特有の感触が私の五感を研ぎ澄ましてゆく。
 私は、女の子の身体を草の影へと動かした。白目を向いていた目の、瞼を、そっと指で閉じて……それから、何の意味もなく、手を合わせた。
「……行こう。直に、直に迎えが来るから」

 街は、蜂の巣をつついたような騒ぎだった。誰かが叫ぶ声に先導されて、人々が右往左往している。あぁ、女の子が最後に聞いた、あれは訓練ではなく出撃の音だったのか。道理で、北へ、北へと行くものだ。
 群衆の声、動き、表情、一つ一つが手に取るようにわかった。刃のような心が、私が次にやるべきことを捉える。
「居たっ!香澄!!」
 そんな波を掻き分けて、血相を変えて走ってくるのはパン屋の奥さんだ。
 急き込んで何やら捲し立てているらしい。彼女はただ怯えているだけだろう。自分が悪いとか、自分等のせいだとか、因果応報だとか考えているようすは全く無い。
 ただ恵まれて、そこにあった庇護が無くなっただけなのに、なぜ他人のせいにするのだろうか?
 そんなのは、わがままだ。
「……ともかく時間がない!早く、早く逃げるよ!」
 人混みに逆らって、わざわざ、私の帰ってくる街の門戸まで駆けてきたとは……偽善もいいところだ。
 腕を掴んできた「それ」を自分の方へ引っ張って、肋骨の隙間に、指を突き立てた。先程よりも腑抜けた手応えで、表皮が突き破られる。
痙攣して指元で跳ねる心臓の感触は心底気持ち悪い。心なしか、先程よりも罪悪感は薄らいだ。
 ずるり。
 手を引き抜いた隙間には、ぽっかりと暗い虚が開いていた。ポットのように、その一点から様々な赤が流れ出してくる。
「……さよなら」
 言ってしまってから、はて、これは誰のために言ったのだろう、と自身に首をかしげた。恐らく、ただそういうふぬけた民草根性が抜けきっていないだけなのだろう。次はきっと言わない。
 死体を飛び越えて、私は、人混みを追った。

 馬鹿な奴らだ。

 この混乱の最中では自転車よりも走った方が速いという私の判断は正しく、人々はすし詰めになって人混みを形成していた。
 どこへ行こうと言うのだろう?ああ、壕か。壕に逃げ込むのか。
 でも無駄だ。「敵は壕の位置を知っている」。地図を持っている。誰がここの統率者なのかも、分かっている。
──全て私が教えたから。
 ようやく、あぁ長かった。もう少しで全部終わる。憎き仇が、少しでも減る。お母さんとお父さんを殺した上に建てたハリボテの平和を、粉微塵にしてやれる。
「……は、ははは!」
 思わず相好を崩す。笑いが込み上げてくる。やっと、やっと私は両親に顔向けできる!
 それからは、ただ、体の赴くままに屠った。いつもパンを買いに来ていた郵便局員。呑気に花を手入れしていたお婆さん。テレビばかり見ていて、生き死体のように穀潰しをしていた工場のおじさん。店の前で騒いでは、いつも安い菓子パンだけを買っていく子供。何人も。何人も。知り合いも。知らない人も。手当たり次第に、穿っていった。
 誰も!誰も自分達のいる国がしたことを知らなかった!直接殺さなければ、罪じゃないと、そう思っていた!そして誰もが被害者のような顔だ!
 髪につけていたリボンの縫い目を血まみれの指で切り開くと、そこからは北の、北の国のエンブレムが出てきた。それを、ぎゅっと握りしめた。
 素手で人を殺めるために、怪しまれないために、血反吐がでそうな訓練をずっと積んできた。それがようやく、両親の復讐という実を結んだのだ!
 空からは、見慣れた格好の兵士が降りてくる。死んだお父さんと同じ服が、空を覆う。開け放たれた南門の向こうには、列をなす戦車も見えた。
 空中の兵士へと手を振ると、そのうちの一人が、敬礼をした。誤って殺される心配は無さそうだ。
 あちこちで火の手が上がりはじめた。ごうごうと燃える街並みのなかで、悲鳴と、銃声と、時折地面を揺るがす砲撃の音がする。
 いつのまにか秋の空は暮れはじめ、オレンジと空色の境界を麻木色が押し上げていく。その元で着々と広がる大火はさながら送り火といったところだろう。
 勿論、皮肉だ。
 その景色を虚ろに捉えて人並みを走っていた筈の私の目の前に、突如炎が燃え盛った。
「うわっ!」
 ごう、と襲いくる熱量。

 弾かれたように飛び退き、着た道を戻ろうとして……ふわりと、あまりにも場違いな匂いが鼻孔をくすぐった。
 これは……何だったか。いや、考えるまでもない。毎日のように、嗅いできた香りだ。
「……焼けた、小麦の」
 足が釘付けになった。先程まで軽快に跳ね回っていた私の足は、もう、動かない。
 足元の黒焦げた袋から薫る、その匂いが。煤けてはいるが、毎朝見てきた、その色が。私が初めてこの国の字で書いた、古い注文書が。
たったそれだけのものが、私をここに縛り付けていた。
 無意識のうちに手は握り込まれ、歯は軋み、そして殴るように脈が打ち続ける。目は見開いて──
 と、そこで私は濁流に飲まれた。
 母の顔が浮かぶ。養母の顔が浮かぶ。父の顔が浮かぶ。養父の顔が浮かぶ。
 死に様が、笑い声が、逃げろという叫びが、今朝のパンが。
「──ぁ」
 暖かいシチュー、テントの中で食べたスープ、大きなごつごつした手、暖かくて包み込むような手。
 どこかで確かに響いていたはずの音が、かき消えた。
「──ぁぁあああ」
 防空壕、レジカウンター、鉄条網、パン焼き窯、暗く冷たい部屋と、暖かい家庭、確かめあう愛と、当たり前にそこにある愛と。空腹と、満腹と、苦労と、責任放棄と、命と、豊かさと、それから、それから……
「──ッぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああ‼」
 叫んだ。喉が割れて、自分の鼓膜が張り裂けるような勢いで、ただただ吼えていた。
 知らない。こんな感情は知らない。
 「バカなやつらだ」って、ずっと、思っていた……そう、思ってきた筈だ。本物の母も、父も、一時たりとも頭から離れた事はなかった。だから、これでやっと……悲願が叶った、はずなのだ。
 右手を見る。人殺しの手だ。
 左手を見る。パン屋の手だ。
「なんで……なんでっ!!」
 火の粉がちりりと毛先を焼いた。どうでもよかった。
 ぼこぼこと声にならない気持ちが奥底から沸騰した水泡のように溢れてくる。沈んでいたはずの濁りが息を吹き返す。本当にしたかった悲願を成し遂げてなお、何がそんなに悲しくて自分は泣いているのだろう……?
 ガシャン!と音を立てて店の戸が倒れた。飛び散るガラス片。やけに目の奥で反響した。
「……本当に、やりたかった、こと」
 本当に欲しかった物は、本当に、本当に欲しかったのは──何だったのだろう?

***

「いらっしゃいませ」
 私は入り口に向かって厨房から声をかけた。反射的に、だ。ドアの鈴が鳴ったなら、いつでもお客さんの顔が見られるようにしなさいと何回も、何回も言われたのだ。嫌になっちゃうくらい。耳にタコが絶えなかった。だから、そうする。
 大人になった今だって、時々幻聴がするから困るのだけれど。
「あ、あの……あなたが、香澄さんですか?」
 だがそのお客─少年─はどうもパンが目当てではないらしかった。メモと、大きなカメラを提げている。
 おや、名前を知っているようだ。
「はい、そうですが……」
 少年は二回、口を魚のようにパクパクさせた。それから、意を決して息を吸い込む。
「実は僕、隣街で記者をしているんです。何でも、評判のパン屋がこの街にあると聞いて」
 記者とは驚いた。いつの間に、そんな噂が起っていたのだろう?
 少年記者はじっ、と口を結んだままこちらを見ている。パン屋にたくさんの人が来てくれるなら、それはそれは嬉しいことだ。
「取材を、させてください」
 にっこりと、私は微笑んだ。大歓迎だ。もっと、もっと人々を笑顔にしなければならない。
 ──と、そうだ。一つだけ、注文をつけなければいけない。
「もちろん」
「本当ですか!」
「ただし、ちょっぴりお願いがあるの」
 不安そうな顔になる少年。違う違う、君と記事にとっては大したことじゃない。ただ、私の自己満足の問題なのだ。
「書き出しを、私が言った通りにしてほしいの」
「書き出しを……?」
 これだけは、断っておかなければならない。私はあくまで、許されてはいけない人間だということを。たとえ誰もそれに気づかなくても、言い続けなくてはならないのだ。

『パン屋「アネモネ」をご贔屓にどうぞ』

街角にはパン屋があった

街角にはパン屋があった

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
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